1.ジャズ歌の位置
2.ジャズ歌を歌う
3.スタンダードジャズ
4.ひらがなジャズ
5.ジャズ歌の和訳
■ジャズ演奏の中での日本語の位置
☆BTE
2013-09-20
ジャズ歌:日本語で歌うジャズ歌のあり様を考えてみるとき、英語で歌っているジャズ歌の鑑賞のされ方をまず考えてみる必要があります。
そうすると、もともと、ジャズ演奏の中での歌パートの位置づけにも問題があることが感じられます。それは、英語の本場においても、ジャズ演奏の中での歌パートの地位は結構低くて、歌の言葉そのものが大したものに思われていない、軽視される傾向が見て取れるからです。
ジャズの歴史:
あちらのジャズの本、ジャズの歴史とかですが、その中で、歌手に割かれるページ数は、というよりは、何行単位しか記述されないので、行数は、微々たるもので、お赤飯に振り掛けるごま塩ぐらいしかありません。
ジャズバンドが戦前の米国をツアーしていたとき、また、大恐慌前後のキャバレで演奏していたとき、歌手がいつもいたことが忘れられています。歌手が歌った言葉も忘れられました。演奏の方は楽譜で残りました。どうせ大したことは歌っていない、惚れたはれたや、貧乏暮らしの嘆きを、喋り散らしたものと思われたのでしょう。
また、男ばかりの楽団員の仲で、女の歌手は重宝されたものでしょう。
日本語訳ジャズ詩:
そのようなジャズ歌を日本語に訳して歌うことは無意味なことに思われる下地が、そもそもジャズ歌の成立過程の中にあるのではないでしょうか?ですから、どうしてもジャズ歌を英語で歌うことから、それ以上に無意味な方向に一歩を進めることに気が進まないのも実は理解できる面はあります。
その結果、日本人の歌手は英語で歌い、それを聞く日本人は言葉の意味は聞かなくてもよいような、鑑賞システムが成立しました。
オノマトペ、または、スキャット:
だれもが、英語の歌の意味を理解しているような気持ちで聞いていますが、そうではなくて、気分的な情緒で多く歌を聞き、器楽演奏部分についてだけはそれよりはずっとよく理解が行き届いているのです。
そのような、ある気分、納得できる気分をうまく表現する言語行為は、オノマトペに近いと言えるかもしれません。それは、スキャットということかも知れません。
何かあるジャズ歌の歌の言葉は、ベートーベンの「運命」における「ジャジャジャジャーン」という音のよう聞こえているのではないでしょうか。もしそれを、「ポンポコポーン」と歌ったら、つまり、後者は、仮に日本語でのジャズ歌ということですが、理解できないし、笑ってしまいそうです。
ジャズ歌論:
今、ジャズ歌自体が、英語国においてもどうなっているかよく分かりませんが、YouTubeを含め、音楽メディアの発達が、今までとは違った風に歌のあり様を変えて行くことになります。ジャズ歌の和訳や、なぜ、ジャズ曲を日本語で歌うかということについて、議論として整理するのは無駄ではないでしょう。10年か、も少し前ぐらいにもインターネット上で、いくつか議論が散見されましたが、それはそれで参考になります。
■日本語でジャズ歌を歌うことについて
☆BTE
2013-09-16
英語のジャズ歌を訳して日本語で歌うことは難しい面があります。
日本語の歌: つまり、ジャズ歌を訳して日本語で歌うとき、歌うときは日本語なので、日本の歌になっていますが、歌ってるのはジャズなので、日本語のジャズになります。これは一種の形容矛盾として認識せざるを得ません。ただし、そこにある事情を考えてみるのも悪くはないと思います。
アフリカ:
ジャズがアフリカ生まれのブラックアフリカン音楽であるので、なぜ日本語でジャズができるのかが興味深い点です。
ただ、同じことはホワイトアメリカンについてもあったはずですが、なぜか、同じ国にいて、同じく英語ベースの生活を共有しているためか、彼らには特にその点の問題意識はないようです。
英語:
英語は我々にとって必修科目なので、訳すことはできることが分かりましたが、歌うかどうかは少し別問題のようです。
アメリカ人がイタリアオペラを歌ってびっくりさせたように、我々がジャズ歌を歌いびっくりさせることができれば面白いことです。
ブルーグラス:
ホワイトアメリカンの歌はブルーグラスやカントリーですが、ジャズとのジャンルの垣根を「テネシーワルツ」で取り払ったパティペイジがジャズ歌手とは決してみなされないところに、似たようなこだわりが感じられます。
1920年代の歌手:
ちなみに、ソフィータッカーなんていう人もジャズ歌手とは思われていなくて、ベッシースミスはジャズ歌手以外ではあり得ないのも、この種のことが関係あるものと思われます。
ロック:
余計なことですが、たぶん、米国人は、そういうことは考えたくなくて、ロックを作り出しました。
■
スタンダードジャズを日本語で歌う理由
☆BTE
2013-09-11
理由:
スタンダードジャズを日本語で歌う理由を1つ、2つ考えてみました。
昔からある質問で、「ジャズは英語でしょ!?」と言われます。
それに対して答えを用意しておくのは何かと都合がよいことです。
それで、次のようなことが言えると思います。
高齢化社会: (1)これから日本は超高齢化社会となりますが、その方たちが気持ちよく歌えるのはジャズ歌です。演歌よりちょっと洋物が好きだし、ビートルズほどお金持ちじゃなく、フォークじゃ物足りない、と思う方が少なくとも15%はいらっしゃいます。その15%の市場が今は空っぽで、投入される商品を待っています。
こども: (2)こどもが歌えます。英米ではこどもがジャズ歌を歌って大人を驚かせます。「世界の終わり(End
Of The Word)」とか「スマイル(Smile)」とか歌って、こどもの大人びた気持ちを満足させ、大人を喜ばせ、音楽性が小さいころから涵養されます。
国際理解: (3)英米国民と同じ心情が共有され、コミュニケーションの質が高くなります。
いかがでしょうか?音楽が人の中の国境という隔たりを取り除く大きな1歩になります。
以上、何らかの理論化は避けられないようです。
器楽演奏:
また、ジャズ歌を日本語で歌うと、それに伴い、器楽演奏の方に少しずつずれが出るので、ジャズ演奏において一歩踏み出す勇気が必要になるようです。確かに、億劫なことです。
■ひらがなで
歌うジャズ歌
☆BTE
2013-09-11
ジャズ詩:
ジャズスタンダード曲の詩はやがて100年近く前の言葉になります。
ジャズの詩は米国においてもそれほど研究書もないらしく、とりあえず多くは気楽なものとされているらしく思います。
訳詩: それを訳して歌おうというわけです。訳すのは、思想、意味、感情が同じであるということです。
100年: 米国人も忘れているらしいものをなぜ分かるのかは謎ですが...。
ひらがな: そして、歌は結局ひらがなです。当たり前すぎることですが。
それに、ひらがなであれば、小学生も読めますから、歌えます。リナ・ザバロニみたいな小学生がきっといます。
■
ジャズ歌を和訳する
☆BTE
2014-06-21
詩を訳す:
詩を訳すことは、その意味、感情、思想を訳すことです。
意味は、自分の英語経験や、辞書で調べたりします。辞書でもいくつか意味があったりして、その中から、とりあえず、適切なものを選びます。
感情は、意味を頼りに、自分の感情の中から、合致するものを選びます。そこは、すでに外国のことなので、思いがけない感情や、想像を絶する感情に出会うこもあります。それが、そうと分かればいいのですが、それは、時間が経ってから、幸いにも分かることで、途方にくれ、何のことやら分からないことになります。それでも、訳そうとすれば、とりあえず、ことば記号をそこに埋め込みます。
思想は、自分の育ち方、環境が影響するところが大きいので、訳すことができたら、幸いというべきでしょう。外国ということ、それと、個々の違いを越えた、共通なものがあるはずとは思いますが。
曲:
歌うということは、曲に合わせて、ことばを発音することですが、「合わせて」というのは、最終的に、1音1音符ということではありません。それは、曲という音楽的作品の成立の経緯を見てみると、それは、ことばとは独立に作成されることがほとんどだからです。ことばと同時に成立する場合、それは、思いがけない幸運ということでしょう。多くの場合、演奏に多くの時間を消費する音楽的生産物の広大な領域の中で、歌となる曲は、そこからこぼれ落ちた、果実のジュースのようなものです。ジュースだけを生産物とする手法を考え出し、確立しているわけですが。
歌う:
歌は、それ自身の表現の論理があると言ってよいでしょう。歌ということは、日本では、古来、「読む」ものです。それは、「詠む」であり、小林秀雄氏は、その「本居宣長」の中で、「詠む」を「声を長めること」と解説しています。表現方法としての声の使い方なのです。その声の使用する素材が歌であり、詩です。歌う詩において、そのことばは、「声を長めること」の十分な根拠のあるものであるはずです。
ジャズ歌を和訳する:
ジャズ歌が和訳されたことばは、歌です。学術論文を和訳したものは学術論文でなければなりません。小説は小説でなければなりません。今、NHKの朝ドラのでやっている翻訳者の「赤毛のアン」も、「赤毛のアン」でなければなりません。「赤毛のアン」の言語記号的変換ということだけでは納まらない諸条件があるということですね。
コンピュータ上での自動翻訳が、翻訳しない領域ということも考えておいてよいかもしれません。