更新日:

2015.06.16(火)

AM11:00

 

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    ジャズ歌 BTE翻訳ノート                         

 

    目次                日本語で歌うジャズ詩グランドミュージアム

 

1.はじめに   2.翻訳の対象   3.テネシーワルツ  4.アメイジンググレイス  5.バラ         

■ はじめに:BTE ジャズ歌翻訳ノート 始まりました

☆BTE 2015-02-11

ジャズ歌の気持ち:

ジャズ歌を訳してみると、もとの英語が、日本語だと、なぜそうなるのか、説明が必要になるときがあります。英語の歌の気持ちが、日本語ではどういう言葉になるのか、ということです。

そもそも、英語の気持ちと、日本語の気持ちが、同じであることは、説明すべき点であるようです。つまり、訳された日本語が、英語と同じ気持ちであるかどうか、説明があれば、それを、納得したり、反論することができます。英語という外国語ですから、そういう手続きが必要ですね。

あるジャズ歌も、日本語にすれば、人それぞれの日本語になります。訳詩という結果は、日本語として、日本語を母国語とする人には、それ自身として、俳句や、短歌や、一般に歌として、鑑賞できます。しかし、それが、もとの英語の詩の気持ちと同じかどうかは、訳した人以外には、なかなか伝わらないことです。

翻訳する: 

詩の翻訳は、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、など明治以来、多くの成果が上がりました。歌では、賛美歌の訳詩があります。その成果は素晴らしいものです。ただし、それを読んで、フランス人になったり、ドイツ人になったりはしません。...この辺りから、面倒なことにもなります。

話を先に進めると、ジャズ歌を訳してどうなるのか、どいうことですね。ジャズ歌を歌っていた、英語の人たちと同じように楽しむことができるのか、ということですね。

説明する:  

そこで、BTEが考えたのは、ジャズ歌の気持ちはどんなことなのか、ということです。それが、日本語を母国語とする自分の中にあるのかどうか、ということですね。...結論としては、ありましたね。それで、訳しました。そして、それを説明する必要もあることが分かりました。

というわけで、

翻訳ノートを作る: 

「翻訳ノート」を書いて置くことにしました。ところが、翻訳ということには、その職業もあり、正誤もありで、人間関係的に難しいことも出て来ます。しかし、そういう難しさもあることを前提として、あえて、訳詩ノートを書くことにします。それは、つまり、どのジャズ歌を訳すか、訳詩ノートを、どのジャズ歌から書いて行くか、という選択の問題でもあります。そして、今、考えているのは、 最初は、「Tennessee Waltz」、それから、「Amazing Grace」、その後、「The Rose」、「Smile」です。どうしても、ほかの方の訳詩も気になりますが、それも、並べ見て行くことは避けられないことですね。どうか、誰も見ませんように、という矛盾したことも思ったりしますが。

■翻訳の対象:ジャズ歌の数は多い

 ☆BTE 2015-02-14

 

ジャズ詩の原文:

翻訳の対象は英語のジャズ詩です。それを、ここにそのまま引用することはできません。それは、自分の手元にないものです。でも、インターネット上で見ることができますので、ここでは、そのリンクを置きます。いつか、そのリンク先が消えたりしますが、その場合には、新しいリンク先を探してみます。ジャズ詩の全体はそのように見る他はありません。その中の、単語、文節、せいぜい、4行程度の、詩の一連を引用しつつ書き進めていきます。

インターネットとYouTube:

翻訳に際して、その歌われ方も見て行きますが、それはYouTubeです。今までのジャズ詩の翻訳と大きく違う点は、インターネットとYouTube、があることです。それは、これまでの環境に比べて、ずるい、と言ってもいいぐらいの翻訳に有利な環境となっています。それがなければ、改めて、ジャズ詩を訳してみようと思うこともなかったと思われます。

翻訳対象の選択:

翻訳されるジャズ詩は、ジャズ歌の中の有名曲、大ヒット曲、です。それは、外国の曲を知るチャンスがあることが必要なことだからです。いくつか、日本ではあまり知られていない曲もありますが、ある曲を訳詩するなかで、ふと目に付いた歌、歌手の演奏に気が付くということがあるからです。

でも、ジャズ歌だから、ということで訳詩することはありません。その歌が、よい、と思われるものを訳します。歌の数は、星の数ほどあるわけですから、訳詩の対象は、自ずから、何らかの選択基準があります。訳詩をされる方で、その対象範囲の選択は人それぞれということになります。また、翻訳に際して、どれだけよく訳せているかが重要なポイントですが、もともと大したことのない詩を、立派に訳し過ぎてしまうこともあるはずです。いわゆる、盛りすぎてしまう、ということですね。できれば、よい詩はよく訳し、つまらない詩はつまらなく訳したいものです。

ジャズ歌の時代: 

ジャズ歌は1900年代初頭から始まるようですが、古いものは、その淵源が19世紀(末)であってもよいかも知れません。一方、その後は、新しいところでは、制限を緩めにすれば、1980年代が下限と思われます。その辺りから、現在に至るものは、興味の持てる詩も、ジャズ歌ではなく、コンテンポラリミュージックとして、世相を現す素材として、そのよって来るものを、過去のジャズ詩の中に探しながら、薀蓄を語る対象になることでしょう。

改めて考えると、ジャズ歌のピークは1920年代で、1930年代にはそれが洗練され、戦争を挟んだ、1940年代には、新ジャズ歌とでも言えるものになり、1950年代には、角が取れ、フラットになり、幸せな気分になって、ポップスミュージックに変化したようです。1960年代、70年代、80年代、はロックになり、フォークなりで、ジャズ歌とは言えなくなります。その後、マドンナや、マライア・キャリー、レディー・ガガの歌をよく知ることになりますが、その中で、ときどき、思いがけなく、昔のジャズ歌が聞こえた来たりすると、ちょっと安心しますね。

2001年からのジャズ歌: 

そして、古いジャズ歌は、米国人自身が、あまりよく判らなくなってきているところもあって、かえってそれは面白いことです。ところで、ジャズ演奏は、歌から離れて独自の進化を遂げました。どこに行こうとしているのか、迷走する中で、ときどき歌の伴奏をして、ほっとすることでしょう。

 

 テネシーワルツ

☆BTE 2015-02-28

Tennessee Waltz:

「テネシーワルツ」を翻訳 ノートの最初にしたのは、日本で、もっとも知られたジャズ曲と思われるからです。日本のジャズ歌手が、意識せざるを得ない曲です。それが、ジャズなのかどうかという疑問はあります。米国で歌ったパティ・ペイジは、彼の地で、専門的なジャズ歌手として取り上げられることはありません。カントリー歌手、ポップス歌手扱いのようです。パティ・ペイジは1927年生まれで、そのレコードでは、十分に多くのジャズ曲を世に出しているのですが、その他のポピュラーなヒット曲も多く、ジャズ歌手として評価の対象にはなりません。面白いことです。彼女の世代が、ジャズを生で聞き、ジャズ歌手を実際に見て、知っていた最後の世代でしたが、ジャズからは外れたことになりました。その曲を最初にするのは、その存在感の大きさと、英語の歌をどう歌として訳したかということについて教えてくれる、よい例になっているからです。

やはり、ジャズ歌の訳詩をする上で、この歌は避けて通れないところです。

 テネシーワルツ英語詩

(訳詩 BTE)

おどったわたしの

あのテネシーワルツ

ともだちをみつけて

 

かれにもおしえて

ふたりはおどり

もどらないあのひと

 

おもいだすあのよる

テネシーワルツ

なくしたたいせつなもの

 

あのひとはもういない

ダンスのあのよる

テネシーワルツで

 

−−−−−−−−−−

テネシー風なワルツ: 

歌の出だしは、

I was dancin' with my darlin' to the Tennessee Waltz

 

気になるといえば、すべての単語が気になりますが、踊っていたんですね、テネシーワルツに合わせて。いわゆる、自分のダーリンと、ですね。ダーリンという言葉も、少し分かったのは、やはり、戦後のことではないでしょうか。しかも、「darlin'」という形にして、正式な単語「darling」をちょっと端折りましたね。その辺りの気易い感じ、交際し始めて、少し慣れた感じのするところまで進んで、楽しさが来てますね。「the Tennessee Waltz」です。どんな曲だったんでしょうか。テネシー風の、しかもワルツです。クラシックなオーケストラのワルツでなくて、テネシーのジャズのワルツです。ジャズ風にアレンジした、ということでしょうか。「だから、それはジャズじゃない」なんていうへそまがりが出てくる隙もある、大らかさがいいですね。

 

おどったわたしの

あのテネシーワルツ

 

ですね。「わたしはおどった、マイダーリンと、テネシーワルツで」、こんな風なことですが、それを、どう歌えるのか、ということです、

漢字かな混じり文:

ところで、「私は踊った。マイダーリンと、テネシーワルツで」という風に、普通に、漢字かな混じりにしないのは、歌は音であり、読み文字ではないからです。また、「私」とか「踊」を経験しているのではなく、日本語では、「わたし」とか「おどる」を知っているだけなのです。

 

本題に戻ると、まず問題なのが、「マイダーリン」です。分かってますけど、歌にどう入れるのか、ですね。困ります。音が長すぎて、この部分に当たる音曲に収まりません。江利チエミは、でも、何とか歌いましたが、日本人に分かりやすくしました。

https://www.youtube.com/watch?v=K6ejvhIrA94(YouTubeのありがたいところですね) 

この後に、歌にするのに難しいところがあるのと、実際的な、言葉の詰め込み具合が難しかったんですね。ということで、遠慮なく、訳せます。「マイダーリン」の存在は、後続の詩のどこかで表すことにして、ここでは捨てます。

普通には、「わたしはおどった」、または、「おどっていた」ですが、「わたしの」ということばで、所有の意味合を持たせ、その場への、自分のこだわりがあることを表しました。「えっ、何のこと?」と思われるかも知れませんが、母国語って、そんなことです。意味は同じなんですけど、少しの差異があって、それが積み重なると、大きな違いになるようなものです。 

When an old friend I happened to see

 

そして、物語は始まります。友達と出会ったんです。中学生か高校生の頃のときの友人と出会いました。まったく、偶然に。同じ場所にいても、もしも、飲み物を取りにいくタイミングが少しずれていたら、気が付かなかったかも知れません。

 

ともだちをみつけて

 

ですね。まだ、何事もなく、普通に、驚いているだけです。

 

ところで、太平レコードの「テネシーワルツ」がありました。訳詩もありです。これもYouTube様々です。

 https://www.youtube.com/watch?v=zywiqtBTJ94(エト邦江)

訳詩の別バージョンです。ここは、翻訳ノートの最初の曲でもあり、拾っておきます。https://www.youtube.com/watch?v=Vu47ubngPDE(伊東ゆかり)

もう1つ、訳詩です。これも拾っておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=QNSSMj993X4

 

I introduced her to my loved one

かれにもおしえて

 

歌っているのは女性ということで、「かれにも」にしました。向こうでは、男性歌手も歌ってるようですね。

女の子の友達同士が、一方は一人で、自分は彼氏と一緒、そんな状況で、ついつい、紹介してしまいます。結果論ですが、もっと確実になるまで、隠しておいた方がよかったかも知れません。

短文としてみると、「私は、自分の恋人に、その子のことを紹介したの」、ですね。

 

この部分の音節の長さで、この言葉を詰め込むのは難しい。それから、訳詩の基本的な問題が、ここに顔を出します。「紹介」という単語を歌に入れられるか、ということです。

ひらがな: 

「しょうかい」という音は、漢字で見た場合にはすぐ意味が分かりますが、音で、ひらがなで、聞くと、直接的な理解の前に、理解のための判断らしき回路が働いて、興を冷ます何かが生じます。

これは、もう、学問的課題ですね。なので、その点は突き詰めずに、ここは、「かれにもおしえて」しかない、という感じです。

 

そして、話は進みます。

 

And while they were dancin'

ふたりはおどり

 My friend stole my sweetheart from me.

もどらないあのひと

 

ですね。

友情から、「私の彼を、ちょっと、触らせてあげてもいいわよ」、と気風のよさを見せ、男としては、自分の彼女の頼みを断れないし、きちんと挨拶する礼儀正しさも示しています。友達の子は、その場の乗りで、ダンスすることになったのか、それ以上は分かりませんが、そんなところです。そして、その場は急展開します。それは、「二人が踊っているうちに、友達は、私の恋人を盗んだ」と訳せます。歌っているのは、「盗んだこと」、「盗まれたこと」と、歌の言葉が表しています。ここに説明を要する事柄があります。

歌の説明:  

この言葉が、散文ならば、そうです。でも、これは、歌の一部なのです。歌の中で、歌っている事柄について、説明をしているのです。説明ですから、それを聞く人が分かるように言います。英語の文化の中で、あるいは、南部アメリカ、テネシーの文化の中で、起きていることを、分かるように説明すると、それは、「盗った」です。でも、それで、非難し、糾弾しているのではありません。そんな風なシチュエーションです、と言っているのです。歌は、テネシーワルツで、それはそれで、進んで行きます。

 

歌が、歌の中で、歌の説明をしている部分です。それを、日本語で、日本の生活の中で言うと、「そのまま、彼は、私の前から消えたの」です。日本語で、「盗った」と言うとき、そこに、誰しもが、歌としての異和感を覚えるように、歌の説明の域を越えて、それ以外の俗事的判断事項の侵入を許すことになります。「stole」は、そのような、俗事的判断事項を持ち込むために使われているのではありません。手っ取り早い説明の手段です。英和辞典では、「stole」は「盗った」となりますが、辞書は、歌の翻訳用に作られてはいない、と言うべきでしょう。

 

それは、日本語で言うと、「もどらない、あの人」です。友達が、盗んだのかどうか、どうでもよくて、そうかも知れないし、そうでないかも知れません。彼の方が動いたのかも知れません。

 

ここまで来て、歌の説明のために、ちょっと、分けの分からないことになってきました。300人の参加するマラソンレースの10キロ地点で、もう、先頭集団は、7、8名になり、付いて来るのも厳しいレースになって来たというところでしょうか。要するに、「盗んだ」と訳したくないのです。歌を、歌として、伝えようとすると、そういうことになります。それを、さらに詳しく説明するのは、そのための時間がたっぷりある、学者にお願いして、いつか、また、振り返ることにしましょう。

 

I remember the night and the Tennessee Waltz

とにかく、先に進みましょう。

 

おもいだすあのよる

 テネシーワルツ

 

それは、起きたことであり、テネシースタイルのワルツに合わせて踊った夜です。

もう、「stole」、「盗った」、はどうでもよくて、思い出の中の自分が、懐かしいだけです。曲調も、怒りや、悲しみとは無縁の、高揚感さえありそうに、爽やかに、音が伸びます。

 

Now I know just how much I have lost

なくしたたいせつなもの

 

思い出したとき、今、失くしたものの大きさを思うばかりです。失くした状態に、今、います。

失くしたもの:  

ここで、この歌を聴いている人は、分かります。このフレーズが、歌だっていうことです。ここに来るまでの説明は、その道案内をしたガイドです。ここで見る景色は、富士山の雲海であり、白い砂の輝く、青い海辺です。ガイドに案内されて来た、明媚な風光です。あるいは、青い空、何もない星空です。

 

Yes, I lost my little darlin' the night they were playing

あのひとはもういない

ダンスのあのよる

 

演奏されていたのは、「テネシーワルツ」で、その夜、私は、「恋人を失くした」っていうことです。ここで使われる「playing」には、あの、戻って来ない二人のことも示唆されていますね。そして、「失くした」という動詞過去形「lost」です。「失くした」のは過去、「失くしている」のは、今です。それを、結果的には同じことなので、「もういない」にしました。訳しているのは単語じゃないっていうことですね。失くしたのが、「my little darlin'」というのが、ちょっと面白いですね。「little」って言うのは、もともと、この歌は、男の歌う歌だった、その名残りでしょうか。それとも、女性歌手が歌うとき、それは、「my little baby」という感じでしょうか。もしそうなら、それは、この歌の持つ、幼さ、というか、はかなさを暗示しているのかも知れません。

 

The beautiful Tennessee Waltz.

テネシーワルツで

 

「beautiful」を訳したくなりますが、誰でも知ってる英単語で、英語としても、普通によく使われる言葉で、音符の隙間を埋めるのに都合がよく、無難です。この曲の最後の、ここまで来れば、もう分かってるんです。テネシーワルツが聞こえてきます。「うるわし」とか、「なつかし」とかの言葉がすんなりはまり、始めに、ちょっと訳しづらかったこの歌も、最後は、落ち着きます。落ち着きすぎて、物足りない、なんていうのは贅沢ですね。

 

というわけで、形容詞なしで、最後のフレーズを終わります。このとき、日本語の助詞、1音の、「で」、が余韻を残すのが、我々には分かります。この歌が、我々にくれる、おまけ、ですね。

 

この歌は、失恋の歌と解釈されますが、それよりは、その、人生最大の危機を帳消しにしてくれる、「テネシーワルツ」、の歌なのです。「テネシーワルツ」って、始めの方で書いたように、テネシー風に演奏されるワルツ曲です。この歌自身も、その「テネシーワルツ」の仲間になっているのですから、いい仕事をしてますね。

 

訳詩全体を、改めて、前出の、英語原詩のリンクの後に置きます。

 

−完−

 

(余白残興)

アルマ・コーガンが、この歌を、「テンテン テネシーワルツ...」と歌います。乗りの良い歌唱で、そんな風にも歌いたくなる、この曲です。でも、さすがに、テネシー州の州歌、言わば、国歌ですから、「テンテン..」では、熱烈なテネシー住民に怒られるかも知れません。何人もが、この歌を歌い、パティ・ペイジが、この歌の人気を独占したのは、この歌の解釈で、優れたものがある、その成果であろうと思います。少なくとも、恋人を取られた女の子の悲しみと、その心の傷が癒えた後の、感傷的気分だけでない、何かを見つけて、歌いたいものです。江利チエミには、戦後の希望があった、とでも言えるでしょうか。

 

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■アメイジンググレイス

☆BTE 2015-04-03

 Amazing Grace

以前、こんなことを書きました。

「この歌を、米国では特別な記念の日などに歌いますが、そこで歌われる言葉に対する間合いが分からず、日本語的には普通歯が立たない歌です。賛美歌にしましたが、その言葉を米国人が歌うとは思われません。彼らは彼らなりに聞いて理解しているはず。どうしてこう訳せたのか..、ですね。」

 

この歌は、ずいぶん研究されています。作詞、作曲者のことも含めて、歴史的な事柄として、多くのことが知られていますし、語られます。日本では、賛美歌として、明治期に訳詩されました。などなど、

この詩について、解説すべきことは多いのですが、むしろ、それらは、世の中に広く出回っているものを見て頂けるものと思います。

それよりも、上に述べたように、この訳詩が、どうしてそう訳せたのか、それは、説明しておいた方がよさそうですね。

 アメイジンググレイス英語詩

(訳詩 BTE)

アメイジンググレイス

やさしいひびき

たおれたわたしをすくう

 

まよい、そして、

いまわかる

みえずにいて、

でも、いまはみる

 

それはやさしさ

おそれることを

すくわれることを

おしえてくれた

すばらしいやさしさ

いま、しんじられるとき

 

おおくのきけんと

ゆうわくとわな

わたしはとおりすぎた

それはやさしさ

ここまでみちびき

そしていえまでも

 

このこころとからだがたおれ

いのちおわるとき

こうべをたれ

たのしくおだやかな

いのちをいきる

 

−−−−− 

 

歌の出だしは、

Amazing grace

 

いきなり、この重要な言葉を訳さなければならないとしたら、明治の人は、相当の気概で、頭を絞ったはずです。

 

「Amazing」は「驚くべきほどの」、「grace」は「恩寵」でしょうか。これも、いろんな解説資料にありますね。ちょっと、字余りですが、試しに、「おどろくべき おんちょう」と、この曲の出だしの音符で歌ってみます。何のことやら分かりませんね。でも、このキーワードをおろそかにはできないので、何とかしようとします。一方、テレビなどで見たり聞いたりすると、この歌は、米国においては、どの歌手も、素晴らしくよく歌っています。歌の言葉が分かってるんですね。「おどろくべき おんちょう」という言葉の理解と同じ理解の仕方ではないと言えます。やはり、「Amazing grace」と理解しているのです。こういう文化的違いを、乗り越えるには、新しいルートで登る道筋を見つける必要がありますね。

 

詩の翻訳で困ったとき、そのもともとの言葉をそのまま使用してしまう、ということは、もしかしたら、外来文化の影響を常に受けてきた日本の持つ知恵かも知れません。それに、この出だしの言葉は、この曲の主題であり、現に、もともと、それを歌っている人たちの理解を、そのまま受け止めることは大事なことです。

 

アメイジンググレイス

 

これでよいと思います。我々は、ある程度英語は分かります。カタカナという外来語の表記方法も持っているのです。また、本来の英語で歌う人たちと同じ言葉で始めることになることは、この歌に対して、敬意を表すよいスタートであると思います。

 

How sweet the sound

やさしいひびき

 

「sweet」は「甘い」ですね。「sound」は「音」、そうすると、このフレーズは、「何て甘い音」になります。それで、考えてみると、人の発する言葉は、そもそも、「音」ではなく、「言霊」として理解されるということがあります。そうすると、それは、「響き」でよいかなと思います。ことだま→こだま→ひびき、何ていう繋がりもありますね。それから、耳に聞こえるものを、「甘い」と聞くのは、代表的なものは、恋人同士の会話ですね。神様を讃える言葉の在りようとは、ちょっと違いますね。というわけで、「やさしい」にしました。どうして、そうなのかっていうのは、それは、前の「Tennessee waltz」のときにあったように、学問的課題として置きます。

 

とにかく、最初の2行を歌い進みました。

 

That saved a wretch like me

 

ここから、しばらくは、言葉の通りに訳せそうです。

 

たおれたわたしをすくう

 

「a wretch」、「遭難者」、でしょうか。「たおれたわたし」、同じ意味ですね。漢字を使うと、「斃れる」なんていうのもあります。

 

I once was lost

わたしはまよい、そして、

 

But now i'm found

いまわかる

 

Was blind but now i see

みえずにいて、でも、

いまはみる

 

「lost」、道に迷った、昔、

「found」、「見つける」の受動態表現で、「見つけられた」、ですね。

「blind」、目の見えないこと、でも、今は、見えます。

 

「見つけられた」、それは、道に迷っていたから、よかったことです。誰か、知ってる人に出会ったのかも知れません。それもありますが、道に迷って、あるところに来て、不意に、自分の回りの地図が一遍に分かったとき、それって、考えてみると、自分が見つけたというよりは、「見つけられた」って思うことがありませんか?この後者の感じが、「いまわかる」です。どうしてそうなのかは不思議ですが。

 

「blind」は、目の見えないこと、または、その状態にいる人、です。この後、「I see」と続くので、見るという機能の、対極にある2つの言葉の連続による、対句となります。詩的表現のテクニックでもあります。

 

最初の1連が終わりました。次の始めが、ちょっと、大変なんです。文法的に、クリアになってなくて、いわば、ある意味、言葉が昔風なんですね。これを、ぐいぐい、訳しきらないといけないし、そしれに、「grace」、の訳も必要になります。カタカナで、「グレイス」で行くことは、もうできません。「グレイスって何?」ということに、答える必要があります。

 

'twas grace that taught

それはやさしさ

 

「やさしさ」にしました。普通に、理解できる、ある特性で、それは、この後、「..を教えた」、というようなことですから、それを考えると、「学恩」とかの言葉もありますし、「やさしく、厳しい、先生」、という言い方は普通にありますから、ということです。また、ここで、よく使われそうな、「めぐみ」、「恵」、という言葉が、意味の把らえづらいところがあるからです。自然の恵みの多い日本の国土では、ついつい、それを、当たり前のことのように受け取ってしまうからでしょうか。とにかく、この重要なキーワードを決めてしまえば、1つの山を越えたことになります。

 

My heart to fear

おそれることを

 

自分の心に、「恐れる」ことを教えた、ですね。それが、「やさしさ」なの!?、となりますが、この後を聞いてみましょう。

 

And grace that fear relieved

すくわれることを

おしえてくれた

 

それと、その「恐れが」取り除かれて、「すくわれること」、も教えてくれた「やさしさ」、なのです。ここまでくると、神学論争が起こりそうですが、それは、学者の課題としましょう。文法的には、

 

1つの「grace」があって、それは、taught My heart to fear、そして、もう1つ「grace」があって、勢いを付けて読むと、「fear」が「relieved」される、と読むしかありません。そして、ここまで取って置いた「おしえてくれた」で、この3行分の訳が終わりました。

 

How precious did

That grace appear

すばらしいやさしさ

 

「precious」と「appear」、そうです、その通りで、「すばらしい」ことが、目の前に、はっきり分かるのです。

 

The hour i first believed

いま、しんじられるとき

 

そのときこそ、自分が、初めて、信じる、ということのできた時だった、ですね。

 

この宗教的動機付けは、異なる文化の我が国の言葉で把え切ることはできなさそうですが、キーワード「やさしさ」を持って来たことで、たぶん、我々も理解できますね。

 

次の連は、もう少し、訳しやすいものです。

 

ところで、YouTubeには沢山アップされています。そういうのを見ながら、聞きながらで、ついでに、ちょっと、歌ってみてはどうでしょう。

 

Through many dangers

Toils and snares

おおくのきけんと

ゆうわくとわな

 

これは、その通りですね。いろんな事があって、です。

 

I have already come

わたしはとおりすぎた

 

「もう、今は、ここにいる」です、そういうことです。

 

'twas grace that brought me

Safely thus far

それはやさしさ

ここまでみちびき

 

ここまで、安全に、連れて来てくれた、です。それが「grace」なんです。

 

And grace will lead me home

そしていえまでも

 

「grace」は、「home」に連れて行ってもくれます。この「ホーム」は、「天国」とも理解されるようですね。色々なことがあっても、やっと家に帰って、ほっとできる、そういうことが伝わります。また、そればかりでなく、この曲の歴史としては、多くのエピソードを持っているかも知れませんね。

 

And when this heart

And flesh shall fail

このこころとからだがたおれ

 

「shall fail」の「shall」ですね。自然のこととして、そうなるはずのことです。心と体が終わるんですね。

 

And mortal life shall cease

いのちおわるとき

 

死すべき命が終わる、です。

 

I shall possess

Within the vail

こうべをたれ

 

「possess」、「持っている」は、も少し後に取って置kます。「vail」は、今、見ている辞書では、「頭を下げる」とか「脱帽する」などとあります。でも、英語の古語です。古い言葉なんですね。辞書によって違いもあります。それに、「vail」でなくて、「veil」というのも見た事があります。原詩のテキストのことは、ここでは、何も言えません。学問的な事になりますね。

 

A life of joy and peace

たのしくおだやかな

いのちをいきる

 

最後のとき、喜びと平和を心に持つ、のです。それが、「grace」の結論です。

まさに、「amazing grace」として、そのまま理解できるのではないでしょうか。

 

ここまで来て、それは「天国」に行けたからと、理屈を付けたくなるのも人情ですね。でも、自分の心が、楽しく、平和なときの思い出でいっぱいになるとき、そこが「天国」であることの客観的な証拠を探し、見つけることに、それほど熱心にならなくてもよいのでは、と思います。

 

蛇足ながら、昔、日本で、平家物語の頃、修羅の道を彷徨する武将が得られなかったものが、ここにあります。碇(いかり)知盛が、戦敗れて、大船から海に、碇綱を体に巻き付け、身を投げるとき、その心の落ち着く所は見付けられていません。でも、知盛は、何とか、その窮地を逃れて、「Amazing Grace」を歌おうともしていたのです。義経や頼朝、信長、秀吉、家康が、それを歌えたかどうか難しいところです。彼らの心の恐れと、その克服を見つけ出す、世阿弥のような、解釈し、理解する人がいなかったということでもあります。ところで、ごく我々に近い時代で言うと、宮沢賢治の「春と修羅」を思い起こしてもいいですね、

以上、まさに、蛇足。この歌の訳詩者が、日本で生まれ、育ったことを表す、自己証明署名というところです。

 

英語の歌と、日本語の歌を、同じ気持ちで、一緒に歌えたらいいですね。

YouTubeから拾っておきましょう。この歌も、歌い方が、とても大きな要素になっています。言葉の抑揚や、1つの言葉の区切りでの音の上げ下げで、歌手の解釈の違いが明示されます。

https://www.youtube.com/watch?v=HsCp5LG_zNE (Celtic Woman)  

https://www.youtube.com/watch?v=ZJg5Op5W7yw  (Mahalia Jackson)  言葉の意味が分かり、自分の言葉なら、こんな風に歌っていいことが分かります。敢て、演歌であり、民謡である、と言いたくなります。  

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■バラ

☆BTE 2015-04-12

The Rose:

この歌は、1979年です。この詩の作詞作曲者のアマンダ マクブルームは1947年生まれの米国のシンガーソングライターです。(Wikipedia)

ジャズのスタンダード曲に比べて、ずいぶん最近のものです。でも、曲がよくて、詩がよくて、ベットミドラーが歌ってますから、ここでは、ジャズ歌に入れておきます。ジャニスジャプリンをモデルとしたアメリカ映画「The Rose」のテーマ曲であることなど、インターネットで、この曲の紹介がすぐ読めると思います。

日本では、スタジオジブリのアニメ映画『おもひでぽろぽろ』(1991年7月公開)の主題歌として、日本語のカヴァー「愛は花、君はその種子」が歌われています。(Wikipedia)

 

以上、この歌の基本的な事情、背景です。ジャズ歌を訳すということでは限界に位置する、時代的には今に近い作品です。曲にも、詩にも、十分に共感できるジャズ歌は、この後は、もうありません。曲はロックになり、詩は大衆的な、アジテートするもの、最大公約数的情緒が優先されるものに変わったようです。なぜ、どうして、ほんとうに!?、などは学問的課題ですね。

 

前置きが長く、何かの言い訳っぽくなりました。訳を見て行きましょう。

「バラ」という、この歌のタイトルが歌っているものが、説明され、その意味に導かれます。

        

The Rose英語詩

        

(訳詩 BTE)

あいはかわのよう

おぼれるあしのは

あいはきれるはで

こころにちをながす

 

それともあいはかわいて

いつまでもとどかぬねがい

わたしならあいははな

ひとはそのたね

 

とまるのをおそれて

ダンスはおどれない

さめるゆめをおそれて

チャンスはこない

 

あたえることなしに

えらばれることもない

しをおそれるこころには

いきることもわからない

 

よるがさびしくて、

みちがとおいとき

あいは、うんがよくて

つよいひとにだけ、

とおもうなら

 

かんがえてふゆに

ふかいゆきのした

たねがひのひかりで

はるにはバラになる

 

−−−−−−−−−−

Some say love, it is a river

あいはかわのよう

 

誰かが、愛について、それは「川」だよ、と言うのです。

どうしてかって言うと、

 

that drowns the tender reed.

おぼれるあしのは

 

「川」は、水辺に群生する「あし」の、その中のあるものの、葉を、流れの中にさらって行きます。川が、あしの葉を溺れさせます。1枚のあしの葉は、大きな流れに、抗する術もなく、流されます。葦自体は背の高い草で、何枚も葉を付けていますから、その茎や、多くの葉は、何とか踏みとどまるかも知れません。

 

あしの葉は、柔らかく、風にそよぐ、弱さがあります。人ですね。人は、愛に溺れて、流されて、その行方は分かりません。「tender」(やさしい)という形容詞が、あしの葉と、人を繋ぎます。そして、昔、学校で習った、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉が思い起こされます。パスカルも、愛に溺れる葦を考えたでしょうか。歌が始まりました。

 

そして、愛について、こんなことも言います。

Some say love, it is a razor

that leaves your soul to bleed

あいはきれるはで

こころにちをながす

 

誰かが言ってるよね。愛って、カミソリの刃みたいに、人の心を切り裂き、心に血を流させるって。心、soul、です。魂、ですね。自分では、そこまでのことは分からないけれど、そんな状況になったら、それもあるかも知れません。

 

ここで、razorを「は」と訳すのは、あしの「葉」と同じ音なのが、調子がよいからでもあります。この箇所の言葉は、razorとbleed(血を流す)で、痛い程です。それを突き詰めると、日本語で、痛くて、切れるものは、「やいば」ですね。でも、ここは、まだ、歌の前哨戦、少し、真正面に向き合わず、そんな景色を横に見て、先に進みましょう。愛について、他にも、こんな経験もあります。

 

Some say love, it is a hunger,  

an endless aching need.

それともあいはかわいて

いつまでもとどかぬねがい

 

愛って、hunger、空腹状態で、そうなると、必要なものを得るまで、終わることなく、求め続けます、痛いほど、aching、ですね。

日本語で、よく使われるのは「愛の渇き」です。渇きは、空腹ではなく、水分の不足状態です。お腹が空いて食べるのと、喉が渇いて水を飲むのと、両方の表現の可能性があります。

そこで、単語的には少し違いますが、「かわいて」を選びました。若干の日米の文化的違いを、それとなく差し替えたのかも知れません。

 

endless、終わりなく、いつまでも、

aching need 痛みとしてさえ感じられるほどの、切迫した必要

 

この歌の始まりの部分で、作詞者、アマンダは、愛に向き合って、自分が考えたことを伝えようとします。

 

 

I say love, it is a flower,

and you its only seed.  

わたしならあいははな

ひとはそのたね

 

私に言わせれば、愛は花、それを生み出すあなたは、種、ですよね。

あなた、you、ですが、この訴えかけは、もっと一般的な広がりを持つものとして、「ひと」と訳しておきます。

 

この後、歌は、人の外に現れる行動に、そうありたい自分の姿を見つけようとします。

それは、愛の種としての、在りようを模索しようとするようです。

 

It's the heart afraid of breaking       

that never learns to dance.     

とまるのをおそれて

ダンスはおどれない

 

break を恐れる心、その心では、踊ることを覚えることができないはず。

 

break 躓く、途切れる

 

ダンスを踊るとき、そのステップを覚えます。間違うと、ダンスが進まず、止まってしまいます。それが、break、ですね。間違わないようにとばっかり思っていると、却ってできません。恐れず、踊る、それでいいんです。

 

It's the dream afraid of waking         

that never takes the chance.    

さめるゆめをおそれて

チャンスはこない

 

同じ構文(It’s … afraid of …)で、語りかけます。

夢が、夢であって、いつか覚めるはず、そんな風に考えて、夢がいつかは失われることを怖れているのなら、それでは、チャンスをものにすることもできないはず。夢は、あるときは、信じて、進むだけでいいんです。

breaking、と、waking、それに、dance、と、chance、畳み掛ける音韻が、訴えかけます。

 

そして、

It's the one who won't be taken,

受け入れて貰えない人

 

won’t = will not、ですね。だから、takenされないだろう人、それは...、次の句が、言います。

 

who cannot seem to give,

それは、人に与えるということもないんだろうな

 

seem to、のように思われる、です。だから、人に与えることをするとは思えない、ですね。

 

この2行は、“give and take” という表現がベースになっているんですね。“give and take” は、「何かを与えて、何かを受け取る」です。 “give” がなければ、”take” はない、ということですね。どうして、”take” されない、という歌のフレーズになったのか、ちょっと疑問になります。

もしかしたら、”give”  がなければ、相手の ”take” もなく、つまり、こちら側が、”take” されることもない、ということでしょうか。たぶん、米国人にも、考えると分かりづらい、表現なのだろうと思います。 でも、彼らは、この言い方で分かってもいるのです。これは、学問的課題ですね。

 

YouTubeのベットミドラーがこの箇所をどんな風な振りで歌うかを見ると、参考になります。

 

(ベット ミドラー)

http://www.youtube.com/watch?v=GwQWBOYNq60&NR=1

 

1’49”、のところでの、この語句に合わせた手と腕の動きは、「受け取る」ですね。受け取られる側から言えば、それは「選ばれる」でもあります。

そして、この2行は、訳した歌のことばの流れとして、行を入れ替えました。

 

あたえることなしに

えらばれることもない

 

ダンスをすること、夢を持つこと、についてと同じように、これも基本的なことだというわけです。そして、この歌の中盤の終わりに来て、最初の2句と同じ構文を使って、さらに、きっちり、訴えかけます。

 

and the soul afraid of dyin'

that never learns to live.

しをおそれるこころには

いきることもわからない

 

死ぬことを、それに気を取られて、怖れる気持ちで一杯の人、きっと、生きることに目を向ける暇もなく、時を過ごして行くのではないですか。

 

死は、誰にとっても、怖いことですし、生きることを学ぶっていうのも、どういうことか、必ずしも、よく分かりませんが、生きることに目を向ける、心の持ち方を言っているようですね。      

愛の種としての人って、こんな風な土壌の中で、目を出し、育って行けたらいいですね。

 

舞台は整い、歌の前哨戦、中盤は過ぎて、クライマックスに向けて、歌い切り、駆け上がって行きます。「バラ」というタイトルを持つ歌に向かって進んで行きます。

 

When the night has been too lonely

よるがさびしくて、

 

現在形、過去形でなく、has been、です。今も、ずっと、寂しくいて、ですね。

 

and the road has been to long,

みちがとおいとき

 

今も、行く道が、ずっと、長くて、遠くて、いつ目的地に着けるか分からないときに、

 

and you think that love is only

for the lucky and the strong,

あいは、うんがよくて、

つよいひとにだけと、おもうなら

 

そして、愛って、自分以外の、運がよいか、強いかする人だけのもの、と考えてしまうとき、つまり、おそらく、もう何もしたくなくなっているようなとき、

 

just remember in the winter     

far beneath the bitter snows    

かんがえてふゆに

ふかいゆきのした

 

考えて欲しいのは、寒い冬、雪が積もっていて、でも、今は見えなくても、その下には、

 

lies the seed that with the sun's love

たねがひのひかりで

 

種は、まだ、そこにあって、陽の光が、愛を届けてくれるときが来ると、

 

in the spring becomes the rose. 

はるにはバラになる

 

その、必ず来る春には、「バラ」の花になっているんだよね。この最後のフレーズで、鮮やかに、結論を切り取ってくれます。

 

ついでに言うと、バラの種が、同じ年の春に、すぐに花が咲くということはないと思いますし、たぶん、4、5年掛かると思います。でも、花が開くまで、何年か掛かって、赤いバラが咲くとき、種でいた昔のことを思い出してもよいのではないかと思います。

 

YouTubeで、もう一人、ビアンカ ライアンを拾っておきます。1994年生まれで、母方の祖母は日本人だそうです。(Wikipedia)

https://www.youtube.com/watch?v=TaPTDslm0mE

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