更新日:

2022.3.13(日)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (11) 地球へ      ☆⇒ エピローグ 

 

そして、ぼくのことを思い出す500年後のぼくは、A.D.1890年、街の人混みの中で、やっぱり何かを思い出そうとしているんだ。

 

ぼくは今、米国留学のために英語を勉強してるんだ。岩手県の南部潘の侍だった家は、明治になって、子供には教育が大事だという考えで、北海道の帝大に進むのを応援してくれて、外国語も覚えられたんだ。クラーク先生の「少年よ、大志を抱け」は、ぼくの訳したものなんだったかな、英語の形容詞を動詞の日本語にしたのは、意味が分かって、「大志」っていう言葉を知ってる素養が必要なんだよね。ぼくの場合は、それはすらすら出てきたんだ。四書五経はやってたからね。内村鑑三くんとは話が合って、面白かったね。お互いに、神社とか寺にはあきあきしていたんだ。西洋に負けて、学ばなければならないことかいっぱいあるんだ。キリスト教って、一人の人が色んなことをして、言ってることが面白いよね。難しい理屈じゃなくて、今、自分のしてることと比べて考えさせてくれるんだ。それに、西洋の科学は、西洋の考え方から身に付けないと、意味が分からないんだよね。今までの自分たちになかったものでやって行かないといけないんだ。西洋の国は、東洋の国では勝てないよ。強い国、強い経済、強い気持ちを持たなくちゃ、このままじゃ、植民地になっちゃうよ。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」って、孫子が言ってるけど、西洋を知るために、キリスト教徒にならなければ、分からないことなんだ。それに、実際、外国を知るのは必要なことなんだ。インド、中国、朝鮮も、今はひどいことになってるし、東洋には何もないんだ。東洋の夢、エジプト、ペルシャ、そこは異教徒の世界で、人は王様と奴隷がいる。商売もなくお金もない。人は捧げ物をし、与えられたもので、それでも、暮らしは楽しい。インドと中国の夢は、絢爛の伽藍の廃墟の静けさの中を、昔の人が、影薄く、日が昇ると現れ、日が沈むと消える。アメリカでは、森の中にすべて消えて、新しい、1万2千年前の移住者が、地球を反対回りしてやって来て、木を切り倒して、家を作り、白い砂の塔を建てた。東洋のはずれ、海で囲まれたお伽の国、何千年も顔見知りだけで暮らして来た。その時代は終わった。ぼくがするべきことは、自分のことを思い出して、自分について書くこと。500年後のぼくが、それを読んで、自分のことを、すぐに、はっきり、思い出すことができるようにするためだ。思い出すことは、今の自分を考えることで、もともと、そういう自分が、ずうっと遠い昔からいて、だから、これから、ずうっと先もいるっていうことなんだ。太陽が冷たくなって、地球が凍って、そのときは、ぼくの思いでも終わることになる。と、今、考えることが、言葉の外にある物事について言えることなんだ。ぼくが、まず、思い出すのは、今の、明治、その前の、江戸時代、戦国時代、だ。その向こうに、平安時代もうっすらと見えている。ぼくは、「武士道」のことを書くよ。

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それは、説明のいることで、でも、もう、ぼく自身は納得している思想、ということなんだね。それは、ぼく自身の知識や経験を総動員して書くことになるから、楽しみにしてるんだ。内村くんは、キリスト教のことを書くね。熱心で、徹底的に理解しないと気がすまない人なんた。ぼくの問題はぼく自身だけど、内村くんは、自分の外の世界だ、ということだね。日本の文化そのもについては、岡倉天心くんが「お茶」を書いてくれるよ。ぼくが思い出してるのは、侍の時代のもっと前、世阿弥くんが能芸術を作り上げ、仕上げたときのことだ。その後に生まれたぼくは、世阿弥の知らなかった侍を書くけど、ぼくの持ち時間では、それぐらいで、もっと思い出したいことはあるけど、まとめあげることはするつもりはないんだ。世阿弥くんは、よくやったね。よく、あれだけ、書くべきことを書き尽くしてくれたので、今でも、ずいぶん、はっきり、思い出せるようになってるんだ。ぼくの書くのも、やっばり、全部書かなくちゃいけないんだ。世阿弥くんみたいにね。ぼくが思うのは、世阿弥が思い出していたこと、それを、同じように思い出せたらいいなっていうことなんだ。そして、もしかしたら、その、もっと、もっと、長い時間のことをね。

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書くのは、世阿弥の後の時代のことだけど、その前の時間があることが前提になってるんだ。

そして、500年後のぼくが、自分のことをはっきり思い出せるように、材料を残しておくっていうことなんだ。石に書いておくのも悪くないけど、そんな石が手元にないし、石を刻む道具もないしで、ぼくが持ってるような石の欠片で、自分を思い出すことは、500年後の自分には、そこまで苦労しなくていいことだからね。ぼくの持ってる石っていうのは、上野の化石屋で見つけたんだ。化石の他に、瑪瑙とか翡翠とかを売ってる、骨董品屋みたいな、上野から浅草に行く、何かの作り物の職人の店先みたいな、店のような、そうでないような、雑然とした小店だった。ぼくは、そこで、米国のワイオミング産の魚の化石と、黒い石で、薄い、引っ掻いた線、条痕のある、掌いっぱいの、平べったい石を買ったんだ。誰かが引っ掻いたこの石は、石であること自体で古い物だし、引っ掻いた人の手の痕跡も、思い出そうとする気持ちを掻き立てるね。それを書いたのが自分だったら、というか、自分なので、ちょっと分かることもあるんだ。これだけでも残してくれたことに感謝したい気持ちになるけど、それは、ぼくが今、「武士道」を書こうてしている理由でもあるんだ。石の骨董屋で見つけた黒い石には、「“”(∨)“”⊆⊇」って書いてあるね。これはぼくなんだ。これを書いたのははぼくなんだ。ずっと昔、たぶんアフリカで、そのとき、草原を見渡しながら、やっぱり、自分の昔を思い出していたんだ。それは、人にまだ文字がなかった頃のことを、考えていたんだね。500年後の2390年、ぼくは、自分を見つけて、驚くかな。そのときは、本を見るっていうのは、自分の手の平を開いて見るんだ。本を持ち歩いたりしないでね。例えば、何かの装置の使い方なんかは、手を装置に近づけると、手が自然にその装置を使ってしまうんだ。指が勝手に、その装置の操作ボタンのところに伸びて、自然に、そのボタンが押したくなって、目的の操作が出来てしまう、そんな感じだね。たぶん、もう、地球の外、太陽系も越えて、別の星に住むことも出来てるんだ。取り敢えず、水と空気は地球から運んでいくんだ。そのとき、ぼくは、自分を思い出して、ぼくの本を見て、そのもっと前を思い出しているんだ。それで何が変わる訳じゃない。

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自分であることが、人が脊椎動物であり、脊椎がない自分が、今の自分とまったく違っているように、自分を思い出すことのない自分は、今の自分と相当違っているだろうと思う。そして、自分でない誰かが、自分を思い出すことのない誰かのことを考えて、思い出してくれるのだ。そのとき、思い出された誰かは自分ではなく、その思い出された誰かには記憶はない。そして、それは、記憶のない自分自身なのだ。つまり、思い出しているのではなく、ただ消費される、つまらないTV番組になっている。

 

だから、今、自分を思い出しているということが自分なのだということに気が付くのだ。ぽくは今、星の上、地球を出て、太陽系の外に植民して、80地球年が過ぎた、三代目だ。空中に浮きながら、500年前の人が書いた本を掌で読んでいる。この星では、人の筋肉は退化して、スーツを脱ぐと、体は、もう、ずいぶん細い。体を支える必要から解放されつつある背骨は、その軸索を取り巻く骨は薄くなっているので、背骨コーティングが普通になってはいる。昔、イナゾーくんは、自分が何をしてきたのか、思い出して、メモを残してくれた。そういう思い出がなければ、今の自分は何をしていたのか。自分で宇宙船を借りるか、買うかして、自分の一軒家、星を見つけて、そこで暮らしていたかも知れない。「星の王子様」だ。今は、でも、会社に入って、「宇宙開拓プロジェクト」の仕事をしてるんだ。まだ先は長い。自分の子供たちも、それを受け継いで、同じ仕事をしてるかも知れない。自分を思い出すことが、もう必要ないと思ったとき、ぼくは、色んなおもちゃを発明して、眠るんだ。自分って、思い出されているもの、1つの固体ではなくて、思いだし続けていたいという活動なのだろう。

 

500年後、2890年、ぼくが生まれて、自分を思い出そうとするとき、自分を思い出していたぼくを見つけて、自分のことが、ずいぶんよく分かったら、もう少し先まて行ってみようと思うんじゃないかな。地球っていうところからぼく達は来たけど、今ここで過ごすようになって、地球のことを思い出すこともなくなった。この星、UK2、で生まれて、思い出のない今を生きている。神様のように。2390年のぼくは、何かを知っているらしい。その掌で読んでいたものは、今は、地球の小さな島のビラミッドの迷路の中に蔵われているだけだ。自分であること、それは、秘密で、もう誰も知らず、必要でもないのだ。

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  和夫くん、来たのか (11) エピローグ

 

今、ぼくの知っているのは、ぼくの目の記憶、視野の右端に、目を寄せれば見えてくる「“”(∨)“”⊆⊇」の残像だ。文字というものの欠片なのだ。もう一度、これを探すには、今、眠らなければならないのだ。ぽく達のフロンティアは、自分の思い出、この世界の向こう側にあり、そこに行くには、宇宙船を地球に向けてとばすのだ。ぼく達の宇宙は、涯てしない空間ではなく、物質の中に生まれた泡なのだから、静かに、自分の中に眠りに帰れば、それでよい。眠りの中で、また、長い夢を見るのかも知れないけれど。

 

地球に来たら、日本の北の方にあるイーハトーブ県のモーリオというビラミッドから、この星に入るんだ。切符は、ぼくの場合、目を右の奥に寄せれば見える「“”(∨)“”⊆⊇」を入り口で記帳すればいいんだ。昔の仕組みがそういうことになっていて、ぼく以外にも、誰かそんなことができる人っているのかどうか、誰も気にしたりはしないんだ。ぼくは一枚の写真を手に取り、手にそれを入れた封筒を持って、病院の廊下を歩いている。

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