葉隠 解説(美艇:現代語訳者)

この、『葉隠』(はがくれ)の現代語訳の訳者、美艇、が考える、『葉隠』についての見方など、以下に付記しておきます。また、『葉隠』の時代を振り返り、年表で、そのころの出来事を、改めて、拾い上げました。

『葉隠』は、多くの記事で構成されています。その中で、人の心構えが言われ、その主張に耳を傾けると共に、そこで記述される、今から見ては、明らかに、ショッキングな出来事、思い図りの、見知らぬ土地を行く様な思いがけない紆余曲折に、見入ってしまいます。『葉隠』を書き表した動機に、当の本人たちも、特に、山本常朝自身にも、その様な驚きがあったのではないかと思います。

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−「葉隠」の著者

 

『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。

肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。

ちなみに、豊臣秀吉が死んだのは1598年(慶長3年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したのは、16001021日(慶長5915日)、また、豊臣氏滅亡したのは、1615年(元和元年)です。

『葉隠』の口述者の山本 常朝(やまもと つねとも、万治2611日(1659730日)- 享保41010日(17191121日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士、です。

『葉隠』の筆録、筆記者の田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代の武士、佐賀藩士。通称又左衛門、です。

 

−「葉隠」の時代

 

江戸時代の年表的には、1716年の徳川吉宗の八代将軍就任までには、次ぎの様な事がありました。(『葉隠』関連を補足)

1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」で徳川家康が西軍を破る

1603年(慶長8年)家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開く

1605年(慶長10年)徳川秀忠が征夷大将軍に就任する。

1609年(慶長14年)薩摩藩島津家久が琉球王国に侵攻する。

1612年(慶長17年)禁教令が出される。これにより、キリシタン信仰が禁止される。

1614年(慶長19年)大坂冬の陣が勃発

1615年(元和元年)4月、大坂夏の陣が勃発/5月、豊臣氏が滅亡する。

1616年(元和2年)ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限定する。徳川家康が死去する

1623年(元和9年)徳川家光が江戸幕府三代 征夷大将軍に就任する

1633年(寛永10年)奉書船(ほうしょせん)以外の海外渡航を禁止する

1635年(寛永12年)日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する

1637年(寛永14年)島原の乱、天草四郎によるキリシタン一揆が起こる

1639年(寛永16年)ポルトガル船の来航を禁止する

1641年(寛永18年)オランダ商館を出島に移す、これにより鎖国が完成する

1657年(明暦3年)明暦の大火、江戸の市中を五割以上消失する

    徳川光圀が「大日本史」の編纂を始める

    新井白石、生まれる

1659(万治2年)山本 常朝 生誕

1678(延宝6年)田代 陣基 生誕

1680年(延宝8年)徳川綱吉が五代将軍になる

1685年(貞享2年)綱吉が「生類憐みの令」を出す

1689年(元禄2年)松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出る

1702年(元禄15年)赤穂事件、大石内蔵助らが吉良上野介を討つ

1707年(宝永4年)富士山が噴火する(現在、最後の噴火)

1709年(宝永6年)徳川家宣(いえのぶ)が六代将軍に就任する

1716年(享保元年)徳川吉宗が八代将軍となり、享保の改革が始まる

1716年(享保元年)『葉隠』を、田代陳基が筆録。 脱稿。

1719年(享保4年)山本 常朝 死亡

1725年(享保10年)新井白石 死亡

1730年(享保15年)本居宣長、生まれる

1748年(寛延元年)田代 陣基 死亡

1748(寛延元年)「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」が初演される。 

1801年(享和元年)本居宣長 死亡

 

 

−「葉隠」解説

 

「葉隠」は、武士道の本、しかも、江戸時代、今から見れば、武士道の時代に書かれた、武士道の解説書の様に思われています。

しかし、本編、現代語訳者は、現代語訳に当たり、本書のあり様は、当時の武士の生活を表わす、生活雑録として、これを見ています。

從って、以下の現代語訳でも、それで、武士道を説明、解説しているものとして読む事はありません。武士道とは何かを考える事も必要ありません。

当時の、今から、300年程前の、武士という人達の生活を覗いてみる、その驚きと、発見、そして、現代日本の源流を尋ねる、山歩きの冒険として、読み、見て、考えてみる事が出来ると思います。

「葉隠」が書かれたとされる1716年頃は、戦国時代は終わり、徳川家康も、もう亡くなっていて、世の中から戦争はなくなり、言わば、戦後100年という頃でした。そう言えば、戦後100年と言う意味では、太平洋戦争後の、戦後100年にもなろうという、今、現代と、通じる所がないわけではないとも言えます。

ただし、話を戻すと、「葉隠」が書かれた当時は、その戦った武士たちの子や、孫、曾孫が、何かと、親たちの言う話を聞かされ、そして、武士の戦いの中で作られた社会の仕組みの中で生きていた時代でした。

現代では想像さえもできない、主従関係、親子関係、切腹や浪人暮らしが切実な、武士の世界があった時の、その中で生きていた一人の人の、思いや、経験した事実が、極めて詳しく、細部にわたり描かれています。

もし、現代においても、我々のよくは知らない、外国人の生活が、この様な細部にまで詳しく語られる物があれば、それに興味を持たないではいられないと思います。しかも、その内容は、1つのエピソードに止まらず、また、単なる、勝利と敗北の物語ではなく、親子、孫、世代に渡る、社会と、その中で生きる人たちに付いて、その息遣いを教えてくれます。

武士道が何であり、それに従えば、人はどうすべきだと言っているかは、300年前の、昔に帰って、当時の武士として生きるには、参考になる事ですが、今、現代に居る人たちには、それを以て、いろいろ自分を考える事以外には、なすべき事はないものと思われます。

それが、自分たちの今の社会に投げかけている影響、その影、その香り、匂い、について、何を言えるかは、自分たちが、現代の「葉隠」を書くのでなければ分からない事です。

 

2021年(令和3年)416日 美艇