更新日:

2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか プロローグ  

 

2012/11/11(日)小説を構想する。初めにその題名。難しかったりするのが、まず始めにできた。内容もすでに決まっている、はず。書くだけでよいのだ。どういうものになるか、まだ分からないが。矛盾しているように聞こえても、そうじゃなくて、そういうものなのだ。いままでのある人たちには、分かることだと思う。このことをまず始めに書くことはしなかったが。

だから、これはプロローグ。つまり、始めに、っていうこと。物語の始めは、何かある出来事、近所の道を歩いていて、それとも、ネオンの光る街角、人が通り過ぎる、何もない風景の中で、ふと見た、聞こえた、知らせ。その他、何でも。 

 和夫くん、来たのか (1) 幼稚園の運動会       ☆⇒ 和夫くん、来たのか (2) こどもデビュー

 

今、午後、お昼も終わり、日が傾き始めるまでの、自由時間。向こうから、男の子の声が聞こえる。やがて病室の入り口から入ってきたのは、見たことのある顔の男の子で、小学校二年生か、三年生ぐらいの、目の大きな子だった。誰かをさがすように、左右とか少し窺いながら、何か聞きたそうにして入って来た。そして、目の前に来て、「あの」と聞きかけて、「美艇さんですか」と言った。

えっ、俺って「びてい」なの。そういえば、昔、そんな名前のペンネームで、いろいろと書いたものがあった。あれは、どこにしまったのか、たぶん、家の階段下の倉庫だったかも知れない。他に置くところはないし。ただ、いつか、段ボールの箱ごと捨ててしまっているかも知れない。それはそれとして、後で考えてみることにして、まずは、「そうだけど」と答えておこう。

「あ、そうですか。」と、その子は言った。「じゃ、これ。頼まれてきました」。ポケットから、小さなベタッとした紙袋を取り出して差し出してきた。おそらく、写真かな。礼儀として、まずは受け取っておこう。

で、やっぱり、いきなり開けるわけにはいかないから、「どこから来たの。どうして、おじさんのことしってるの」。「おじさん」、とりあえずは、それで行くことにした。「私のこと」って言うにはまだ早くて、びっくりして、話が続かなくなってもこまるから。「親戚だから」と、その子は言った。「おじさんは、ぼくのお父さんの弟なんだよね」。えっ、そうのか。たから、この子は、初対面、だとおもうが、なのに、まるで普通に話していられるんだ。そう自分で納得して、手渡された大きくないうすッペラの封筒を開けてみようと思った。「じゃ、また来ます」、とか言って、もうその子は戻りかけていた。なるほど、ここには、その子を引き留めるだけの、座る場所とか、飲み物、齧れるお煎餅みたいなものもない。

それに、まだどんな話をして、この子の興味を繋げるかも分かっていない。一旦、さよならして、また来ると言うこの子の来訪を待つのが正解なのかも知れない。それを、瞬時に、当たり前のように判断しているこの子は、頭のいい子らしく思われた。「お家はどこなの」、そう聞いてみるのが精一杯だった。男の子は、まだ駅の名前とかで答えるのには慣れていないのだろう。「大沢川原です」、と町の名前か、住所の一部らしきものを言って、それで当たり前に答えたことに安心しきっている様子て、軽く子供らしくお辞儀をして、病室の入り口からあっという間にいなくなっていた。

年を取ったのか、子供の動きの早さが、ずいぶん驚くことかあるが、それはなんでもない普通のことで、自分も以前はそんな風に過ごしていたのだ。まだ、それは昔とは言いたくないが。

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今、手にしているのは、あの子がくれたうすッベラい封筒。そういえば、あの子の名前も聞いていなかった。やっぱり、自分の知っているような名前が出てくるとは思われず、名前よりも住んでる所を知る方が情報が多いと思っていたわけだ。

そして、海外郵便に使うサイズのその白い封筒を開けた。

白い便箋が折り畳まれて、それを開くと、子供が二人並んで写っている写真だ。これは見たことがある。当然、モノクロで、つまり、白黒で、カラーでなく、...、モノクロと白黒と、意味は同じで、音が半分同じ、音韻数も同じく4つ、これは偶然かな。どうして同じになるのか、後で考えることにして、その写真は、昔、自分のアルバムの中にあったやつだ。それは、今も、自分の机の引き出しにあって、あるはず。それも、考えなければならないことだけど、目の前の写真は、幼稚園の運動会で、徒競走の一等賞と二等賞の賞品のノートらしきものが「一等賞」とか「二等賞」と書かれた、赤い横線のある上紙を掛けられていて、それを手に持って真正面にカメラに向けて掲げて写っている二人の子供だ。その一人は自分で、二等賞を持っている。隣に並んで写っているのが、俊昭くんだ。そっちは一等賞の方を持っている。

二人は徒競走の同じ組で走った訳ではなくて、ぼくの組では、ヨーイドンのスタートの白線に並んだとき、隣にいたやつが、ドンの前に飛び出したのだ。先生は止めずに、みんな走り出して、そのまま行ってしまったのだ。ぼくはそのとき勝つ自信はあって、あれーッて思ったわけだけど、そのために、二等賞を持って写るのは、不本意だったかな。不本意という言葉はまだ知らなかったけど。

晴れた日だった。あのときその写真を撮った父親は、今の自分より若かった。ぼくが五歳で、1955年かな。父親は1896年生まれ。59歳。結婚は、戦前、1930年かな。34歳だ。それは、いい。家族の歴史は分からないし、いいことばかりではない。紙に書かれた歴史で残された記憶は、蟻の巣のようなもので、その種族の遺跡だ。その人たちの老廃物、課された労役、隠すために集められたどうでもよいもの、土砂や泥、腐った植物、枯れ木、動物の死骸でできている。意味のない岩や火山灰なら、まだましな方だ。その化学的土壌分析や放射能による年代測定は、それは別の話だ。父親を思い出したのは、自分が今、その年齢になっていることに改めて驚くためだ。自分の父親が小さい頃の自分を見て、その子の将来を予想できるはずもなく、ただ、自分と同じ人生を漠然と思い描いていたかも知れない。今、自分は、その思い描くことしかできなかった人生の結末を知っている。それは、自分の父親が思い描いたものと少しでも違っているだろうか。それほど違いはない。つまり、同じ時代を生きたっていうことだ。父親が生まれた同じ年、宮澤賢治が近くで生まれた。賢治は、昭和8年、1933年に死んだ。37歳。同じ風景の中で、育った父親の中の宮澤賢治の記憶、風景が記憶しているものとも言える遠い記憶が、芽を出している。それは、アフリカのサバンナの記憶、ブッシュの香り、と言っておこう。自分の中のずっと昔、そうやって生きていたのだ。父親が、運動会で撮った子供の写真、それを見る父親の眼は、遠い昔のブッシュマンの姿だと思うと、懐かしさが親しいものになっていた。

自分が小さい頃、......

自分が小さい頃、家の玄関に蓄音機が置いてあった。縦横50cm四方、高さが80cmはあったような、立派に箱であり、うす黄色の、茶色っぽい塗りのそれなりに装飾的な彫りのあるものだった。それは、ラジオになっていて、というか、そもそもラジオで、上がレコードブレーヤーになっていた。レコードもあって、クラシック的なものがあって、オペラのマリアカラスがあったと思う。大体はよく分からない、退屈なもので、というのも小学校入学前後のことなので当然なのだが。ただ、当時の流行歌、あるいは戦前のものが小型のレコードあったように思う。意外と、自分の今のジャズ的なものへの興味は、そんなところにあるのかも知れない。その音色が自分に刷り込まれているのだ。

幼稚園には、行きたくなくて、それは家にいて、十分楽しかったからだが、わざわざ幼稚園に行くのは、言わば、働きに出るようなものだったかも知れない。そのために、幼稚園に行って、覚えているのは、どこか、幼稚園の行事のお出かけのとき、こどもたちが二列に並んでどこかに歩いて行くとき、誰でも手を繋いで、というときに、手を繋ぐ相手かなくて、最後に残った一人と手を繋ぐと、戦後まだ10年にもならない頃、その男の子は、全体として臭くて、行事も終わったか、手を離した後、自分の手のいつまでも臭い臭いが嫌だったことだ。その子は吉田健二くんと言った。漢字は、そうだろうということで、普通に考えると、そんな普通の漢字の名前にしか思えないのだ。それから、幼稚園で少し楽しかったとき、朝、子どもが座る椅子をぐるっと半円形に並べたとき、その椅子の上を、座る部分を跳び跳ねて、走って渡って、いきなり落ちて転んで、顎の下、首ではなくて、を何針か縫った。猪股さんというお医者さんでだ。確か、きっとそう。そして運動会。運動会だから、ということで、椅子から落ちたりとか、そんなこともあってしばらく休んでいたその後、初めて、幼稚園に行った。正確に言うと、幼稚園の運動会に出た、だけど。運動会はすぐ近くの、家から、家の前の道を真っ直ぐ、その学校の校門まで50メートルの、橘高校のグランドで行われた。

そして、大玉転がしに出ました。団体競技なので、一人普段いない子がいても、何も気にすることはなかったからでしょう。赤組だったでしょうか。大玉を転がし始めてすぐ、大玉を押しながら、玉に乗り上げるような形で、落ちて、泣きながら、家に帰ったようなことでした。誰か、世話をして、家まで連れ帰ってくれたと思います。その後、幼稚園に行くということはなくなりました。「幼稚園に行きたい?」と聞かれて、「行きたくない」と答えたようにも思います。だから、その後、小学校に入り、学校に行くことは、不安な気持ちも結構あったと思います。楽しい小学校、というばかりでなく、言われるままでいて、その日まで過ぎて行きました。

その間、それは、幼稚園に行く必要はなく、家で、自由な生活を楽しんだと思われます。小学校に上がるまで、そんなに記憶はありません。ストレスもなく、何かあれば覚えているようなことがなかったのではと思います。家のお手伝いで来ていた佐藤さんとお掃除をする母と三人で、ただ普通に、子どもだから、動き回って、騒いだりしていたわけです。得意技は、畳の上にお尻をつけて座って、そのまま、クルクルクルッと回ること。太っていたお手伝いの佐藤さんは、それを見て、とても笑いました。「私にはできない」って言って。どうしてそんなに可笑しいのか分かりませんでした。確かに、大人と違う身の軽さがありました。

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その当時を思い出しついでに、その前のことを考えてみようと思います。幼稚園の椅子から落ちたことより前のことです。落ちて顎の下を猪股医院で4針だったか縫ったときは、ベッドに寝かされて、何か覚えているような気がします。その前、家に来ていた母の妹、おばさん逹に、「グッドモーニング」とか言って、得意げだったこともあった気がします。そのときは、あまり受けなかったような気もします。ちょっと、がっかりしたような気もするので。それは今では夢のようで、定かではないことでもあります。それは、たぶん、5歳になった頃のこと、1954年、昭和29年、です。そのもう少し前まで行こうと思いますが、簡単ではありません。生まれて、0歳、おくるみに毛糸の帽子を被せられた写真があります。そから、5歳までの間、とりあえず空白です。そして、0歳の写真の前の時間、その後の5歳までの時間のように空白です。それは当たり前ですが、その常識を離れて、0歳の前に戻ってみようとすると、何かがあるのが分かります。生まれたという事実を信じて、あるはずの記憶を探すのは、考古学です。あると信じて探して見つけることはあります。トロイの遺跡とか、それほどの大発見でなくても、経験されていることでしょう。

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信じて探すこと。0歳の写真の前の自分。その写真の前にあったこと。思い出してみると、自分の体を満遍なく流れる血とそれに応える心臓やその他の無言の臓器とそれに従う活動的な手足、首や頭の動きだ。光とか音は記憶されていないようだ。あるいは、その思い出し方が分からなくているのかも知れない。光を視覚で思い出すのは、もう少し大きくなってからの習慣なのだ。音を耳で聞くように思い出すのも、その後のことなのだ。

もしも、音と光が、聞こえたり、見えたりでなく思い出すとしたら、どんな風に思い出すのだろう。音と光は0歳児は聞いたり見たりしている。ただそれが記憶にならないだけだとして、それでも、別の形で覚えていないだろうか。それとも、その別の形から、光や音の見えたり聞こえたりする道筋ができていないとも言えないのだ。昔の詩人や文学者が考えた共感覚というやつだ。赤い色がドで、緑がラ、青がシで、黄色がソだ。ミの音は茶色。ドミソはだから夕焼けだ。ファの音は白くて、黒いのはレだ。ドファラは、だから、朝だ。ランボーという名の詩人がそんなことを言っていた。その本は今すぐ手元になくて、今はまだ、どう言っていたのか探すのは止めよう。でも、これは、ちょっと楽しい。この話しは、音と光の記憶が、別の形で覚えていないか、ということだった。光なら熱だ。音なら振動、体の揺れだ。もう一度思い出してみよう。0歳のときのあの写真の前のとき。体は暖かく、揺れていた。本当にそれは記憶か。大人になった今、言葉の役目は知っている。それは、みんなの持ち物で、誰にも平気で嘘を言う。あばずれ女で、男なら、その日暮らしのイカサマ野郎だ。そんなやつでも、自分しか知らないことがある。体は暖かく、揺れていた。もし、そうでなかったら、別の言葉になっていた。そして、そのとき、目で見ていたのは、赤外線、やっばり冬だ。炬燵と火鉢、薪ストーブ。布団の中では、ただ、眠り、夢も見ない。見なくてもよい。夢の中にいるのだから。

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