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2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (2)  こどもデビュー                ☆⇒ 和夫くん、来たのか (3) 世阿弥くん

 

そして、そのとき、目で見ていたのは、赤外線、やっばり冬だ。炬燵と火鉢、薪ストーブ。布団の中では、ただ、眠り、夢も見ない。見なくてもよい。夢の中にいるのだから。そして、聞いていたのは、風の音。振るえる言葉だ。もし、その意味が分かったり、景色や、物の形が分かったら、それはもう、0歳を短く過ぎて、5歳まで進んでしまったということだ。幸いにして、そうではなかった。時間はゆっくり進み、0歳から5歳までを過ごしたのだ。1歳から4歳のとき、思い出してみたいものだ。その前に、覚えている古いことを引っ張り出して並べてみよう。ラジオを聞いて、相撲の、鏡里、その後栃錦、若乃花、大内山、大起。横綱の鏡里と吉葉山だ。二人とも若乃花にいつも負けていた。双葉山は知らない。太刀山とか照国っていたらしい。野球だと、川上や南村がいて、青田のことは不確かだ。赤バット青バットの狂騒も知らない。監督は水原で、三原が巨人の監督だったことは知らない。新人で、広岡が入り、翌年、長島が来た。水泳で、山中が、世界で勝ったのを、聞いた。力道山は、見ていない。空手チョップは遊んでいたが。柔道の木村は知らない。だから、その後なのだ。5歳になるのは。古橋も知らない。すぐ近くにいたはずだけど。三河島の鉄道事故、十河総裁が、どうにかしたとか、。知っているのではなく、そういう切れっ端があり、言葉が書いてある。調べたら、分かる。図書館で新聞、あるいは、自分のパソコンでインターネット。そこにあるのは、年月日、それから役所の記録、そして、事実とか言って定価の値札が貼られた長文のテキスト。昨今、定価など怪しいものだ。それよりは古文書でその頃のことを見てみたい。戦後の時期に古文書らしきものはない。徒然草や枕草子、一人の人が見た時代が書かれているやつ。戦後と言われる時代に、そこにあるのは小説。太宰とかいう人もまだ知らなかった。思い出のない1歳から5歳のときにもういなくなってた。石原慎太郎も、「太陽の季節」も、ずっと大きくなるまで知らないでいた。映画は見た。初めて見たのは火星人が地球を攻めるか、侵入してくる話。大きな、人間サイズのヒトデ型の生物が、天井に何匹も貼り付いて、不気味だった。それから、見たのは、東映の時代劇。東千代之介の、何かで、中村錦之介の少し前だった。もう、小学生になってから、「土俵の鬼若乃花」を見た。日活だった。ほんとうは、東映か、他の映画を見るつもりでいたけれど、タイトルの「若乃花」につられて見てしまった。それは悪くはなかったけれど、二本立てのメインは、当時の日活のスター男優、裕次郎か、赤木圭一郎かの映画で、パートカラー、天然色でさえなかったと思う、「青い果実」みたいな題名の、当時にすれば、成人指定にもなる勢いの映画だった。意味の分からない暴力的シーンがモノクロでなく、カラーだった。失敗だった。たぶん、見ようと思っていた他の方は、総天然色か、ディズニーだったかも知れない。それでがっかりして、その後映画に行かなくなった。親の事情もあったのだろう。父親と行っていた。その頃の、映画も変質したのだ。大衆娯楽となり、下世話な世界に変わったのだ。

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もう、小学生になった頃、本の話なので、たぶんそうだ。「少年」や「ぼくら」があって、「オテナの搭」、確か、山川勿治(そうじ)、があって、「ターザン」があった。アフリカの現地人か、動物と仲間の一人の少年の物語。豹柄の、というよりも、豹の毛皮を着た、手足を大きく出した、ケート、そう、確かに、ケート、そういう名前の女の子と一緒に暮らしてた。攻めてくる部族がいて、頭に大きなトカゲか、爬虫類の被り物をして、川の中を隠れて攻めて来るのだ。ケートはその部族に捕まったりして、少年ケニヤだ、助けに行くのだ。子供心にも、興奮させるのだ。その物語は、最終回まできちんとあった。おわったのは残念だった。そうして、物語の時代は終わり、少年サンデーと少年マガジンの漫画週刊誌ができた。それまでは、貸本屋の漫画単行本で、杉浦茂を読んでいた。「少年児雷也」か、「地雷也」だ。後の赤塚不二夫の親みたいなギャグ漫画で、赤塚の「レレレのおじさん」は、杉浦で見ていて、赤塚の漫画で見たときは、前に見た気がした。「ドロンちび丸」というのもあった。手塚治虫の鉄腕アトムもすぐそこにいたはず。赤胴鈴之助の「真空切り」で遊んででいた。それは、手を横に振ると、その振りの速さで手の先に真空ができ、相手を切ってしまうものだ。自分の住んでいたイーハトーブ県のモーリィ市のある地域では、「かまいたち」と呼んでいた、小さなつむじ風が足の脛辺りを切ってしまう現象と引き較べて、少しは真面目にその技を練習もしたかも知れない。そして、自分が大事にしていた究極の一冊の漫画本は、会津の白虎隊の話だった。一人の幼い少年がいて、白虎隊には入らなくてよい年齢だったんだと思う。でも、何かあれこれあった後に、年長の隊士たちは二列になって出発する。明るい晴れた日、隊列の最後尾が遠ざかっていくとき、その子は「ぼくも行くよ」と呼びながら、その隊列を追いかけるのだ。そのままでは失ってしまう何かを失うまいとする究極の決断に、その当時の自分の何かがひどく反応したのだ。その当時、忠臣蔵や義経、秀吉、楠木正成が、人の心を激しく揺さぶったものだった。忠臣蔵の雪の日の討ち入りは、幼い心を高揚させた。やがて死んでしまうということよりも、自分を捧げ尽くして、成し遂げることに、酔うのだ。今、言うならば、ドパミンが出る、噴出するのだ。戦後の小才な文士、学者が、その緻密な計画や人間性を讃える個人主義的な観点から、彼らの行動を理解しようとして、そこにある陶酔を見失ってしまったのだ。それはドパミンの湧出、誰にもいつでも可能なことではなくて、しかもそれは、計量目盛の尺度上に分散するアナログ量なのです。説明されて、分かる、分からない、のニ値しかないデジタル的なものではありません。戦後の社会が失ったものであり、明治が江戸から代わったとき、失ったものにも、そういうものがあったのでしょう。その陶酔を思い出すことは、もう、ないのでしょう。思い出すには、何か見つけないといけないものがあって、その道はほとんどジャングル、あるいは砂漠の中、今のどの方向へ進めばよいかが分からない、そんなことです。

小さい頃の記憶、外で遊んだ、なわとび、かんけり、「...(誰か)さんがほしい」や「かごめかごめ」の「後ろの正面だあれ」、そして、夕暮れになり、「もんこきた」の叫び声で打ち切られる遊び。何のことか誰も知らなかったし、ただ、それですべてが終わり、それぞれが、蜘蛛の子を散らすように走ってそれぞれの家に帰った。うっかりすると一人だけ、あっという間に暮れる夕方の闇に取り残され、「もんこきた」の恐ろしい影に怯えながら、あたふたと、家を目指して逃げ帰ることになる。家のすぐ近くで遊んでいるときはいいけれど、少し離れた野原などで遊んでいた場合、特に小さな子は、大きな子に付いて、すぐ走り出さないと、ほんとに怖いところで迷子になってしまう恐怖にも繋がるのだ。子供の時代はすぐに終わり、次の世代の子供たちには、そういうことはなくなっといた。

最初、あそんでいたとき、はだしだった。それは僅かに覚えている感覚のようだ。裸足で遊ぶのが禁止になり、靴をはくように言われたとき、少しびっくりした、どうしてそうしないといけないのか、疑問に思ったように覚えている。もしかしたらこれは、5歳より前のことかもしれない。裸足で遊ぶのはそれ以来、きっちり無くなった。

そして、裸足で遊んでいた頃、着物、子供の普段着でいたように思う。「ねまき」と言っていた、夜、寝るときの、厚手の浴衣みたいな、時代劇の子供が着ているような、和風民族衣装だ。

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ある日、パンツを穿かされて、半ズボンになった。上は、ランニングシャツみたいな肌着、か何か、その他は、はっきりしない。セーターやチョッキ、そういうものはあった気はする。ランニングシャツだって、実ははっきりしないが。

着物でなく、パンツを穿かされて外に出るとき、それは、近所の子供の遊びに加わる、子供デビューの日だったかも知れない。「さあ、行く」というのと、ドキドキする気持ちがあったかも知れない。その遊ぶ通りの角、駅へ向かう通りの角に、店があって、その店に行くとき、「もっす」と言って入った。それは、「申す」という言葉なのだろうと思う。前に書いた「もんこきたは「蒙古来た」なのだと思う。ずいぶん怖かった言葉で、700年前の蒙古襲来の日本人の経験が共有されていたのだ。それらは急速に消えて行き、今、見るのは、遺跡で発掘される、文字の刻まれた石片なのである。

おおしださん、や、ふじむらさん、しのざきさん、さいとうさん、こしかわさん、がいて、おおしださんは八百屋さんで、しのざきさんは、お店ではなくても、卵を売ってくれた。ふじむらさんは、その名前が思い浮かぶだけで、お店とか、具体的な接点は思い出せない。その、子供デビューの後、カバヤのおまけ付きキャラメルを、10円だったかで、よく買ったので、調べれば、昭和のいつ頃なのか、分かるのだ。それは、あくつさんのお店で、今、相当に様子の変わった辺りでも、コンビニになってやっているようだ。

昔の言葉は消えて、ときどきはそれを化石のように、見て、何か考えるために、取っておく。我が家の中では、「がっか」は音のする放屁だった。これは、何かの思い出、語りたくない思い出なのかも知れない。あるいは、武家言葉や、禪家の言葉、隠語、かも知れない。つまり、今も、使っていた当時も、意味が分からないものなのである。

小学校に上がる前、夏のある日、父親と家の近くの道を歩いていた。雨は降っていなかったが、傘を持っていた。道で同じような年頃の男の子とその父親、きっとね、が歩いて来きて、行き過ぎるとき、自分の持ってる傘で、その子の服を触ったようだ。まるで突っついたように見えたのだ。マイファーザーは、その子の父親に、謝っていた。それは、そういう暴力的な行動を、自分から仕掛けたのではなく、また、虐めるようなことを意図した訳でもなく、その子の着ているのが、男の子なのに、女の子の服だったので、変だと思って、驚いて、手が伸びたのだ。手に傘を持っていたから、傘の先が延びて行ったのだ。それで、ひどく叱られたという記憶ではなく、もしかしたら、その子の父親が怒って来たのかも知れない。その子は、そんなにきちんとした服でもなく、こちらだって、それほど変わりはしなかっただろうが、とにかく、着るものは着ているという格好だった。あの当時、それは有り得る格好だったのだ。戦後の疲弊した社会が、そこにあった。自分たちも、そのときの普段の格好で、東京に行ったなら、どんなに驚かれたか分からない。そういう、地域格差と、そもそもの地域社会の戦後の貧しさがあったのだと思う。今では考えられないような、社会の現実があり、そういう所に根を置いたことを、すっかり忘れた今なのだ。いつか、社会が混乱するとき、それはまた起きる。年寄りというのも、なかなか馬鹿にできないものなのだ。何か起こったとき、それは驚くには当たらない、っていうことだ。

5歳より前の自分は、色んなものに手が届かなかったり、高い段差のあるところを越えるのに苦労したかも知れないが、自分を小さいと思ったことはないようだ。確かに、小学生の頃、いつ大きくなって、そのときの、他の大きな子のすることをできるのか考えたかも知れないが。

つまり、自分の世界に不足はなかった。自分の記憶にないことだが、当時、食糧不足の時代であり、「山羊を飼っていて、(自分は)山羊の乳を飲んだ」と父親が言っていた。母乳は、少し先の兄たちの分でさえ足りなかったらしい。その山羊の記憶はあるかも知れない。それはきっと3歳頃。それは山羊と自分が立って向かい合っているので、もう歩ける自分だからだ。2歳では、まだそこまでは行っていないと思うから。そして、その山羊は、ぼくが5歳になるまでには、あるいは、自分が山羊と出会って間もなく、いなくなった。説明はなかった。合理的な理由は、老衰で死んだのか、あの時代、食べられた、直接ではなくても、肉の業者に売られたかも知れない。もう、その乳は必要ではなかったから。

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本当に記憶にないのは、父親が言っていた、「犬を飼っていた」こともあるっていうこと。ぼくの記憶には、犬の姿はない。自分の家は、川近くの武家屋敷で、モーリィ市が江戸時代だったとき、明治になる前は藩の要職も勤めた人の屋敷だった。それは、歴史で、その家の嫡男は、明治の直前、隣のアッキラ県の官軍との戦いで死んだのだ。3月3日、だということだ。

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余計な不確かなことを記すべきではないだろう。小さい頃の自分がいた所は、そんな風な所だった。山羊の記憶、それが正しいなら、自分の一番古い記憶になる。その前は神話時代だ。でも、そのときの、温度と揺れを覚えている。たぶん、記憶は、母親のお腹の中にいたときからあって、生まれたときも、自分の中では、もう、過ぎて行く景色だったのだろう。そのとき、もし、いわゆる安産だったなら、無我夢中とか、苦しいとか、意識が朦朧として、とかではなくて、新幹線で、どこか、旅行するような、走り去る車窓の外の景色を眺めながら行く、そんなふうなことかも知れない。そして、人によっては、トンネルを通り抜けて、広がる景色が、生まれることだったかも知れない。そのとき、全てが始まる、と言うよりは、もう始まっていた、自分の歴史の、誰にもある、見慣れた景色なのだ。川端康成が、「雪国」のトンネルを書いたとき、生まれた時を思いだし、そこで出会う女は、自分を生んだ母親なのだ。自分はいつ始まったのか。目を開けたとき、光を熱で感じていた、洞窟の中、あるいは、満天の星空の下、自分は始まった。0歳のとき、自分の旅は始まっていた。生まれたとき、自分は、それまでの自分を死に、また、生まれたのだ。それまでの記憶は、遺跡となり、新しい都市ができる。

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昨日、来た子は、「また来る」と言っていた。今度は、もう、一度顔を合わせた顔見知りだから、何か、もう少し聞いてみよう。

今、何が好きか、なにに興味があるのか。どこに住んでいて、お父さんは何をしていて、お母さんはどんな人か。もし、兄弟がいたら、その子たちはどんな風にしてるのか。それから、学校にはもう行っている年齢だから、学校ではどうしてるか、など。そこまで付き合ってくれるか分からないけれど。

自分が小さい頃、もう6歳は過ぎて、10歳の頃、まだ、自分は何でもなくて、自分であることに忙しかった。日曜日は教会へ行った。土曜日は、その教会にあったボーイスカウトという、子供会みたいな、今なら、スポーツ少年団みたいなクラブ活動に参加した。土曜日の午後は、それで半日が、午後の半日は、ほとんど、その日1日ということだけど、失くなり、日曜日は、教会には朝行くので、午後が自分の時間だった。普通の日は学校なので、休みはなかった。

学校では、毎日が、少しずつ過ぎて行った。1年が過ぎるのが、ずいぶんゆっくりだった。時々、まれに、年に一度か、モーリィ市に行く機会があって、町を歩くとき、自分の小学校には、あまり足が向くことはない。建物は変わっていて、木造が鉄筋コンクリートになり、外観は似せていても、もう、自分はそこにはいないのだ。忘れているのだ。中学の同級生とは、ひどく懐かしむみたいに、クラス会にも、この頃は積極的に出たりしている。

小学校は、ただ普通に、昔のことなので忘れているだこでなく、忘れる病気のように忘れている。痴呆症か、記憶喪失、学名のある病気、アムネジア、みたいに。写真は、少しある。覚えていることは、1つ2つではないのに、自分だと思えない。映画の中に見た子供みたいに思い出してる。

小さな子供の頃、自分が小さい頃見た、マルセリーノ、「汚れなき戯ら」、「....マルセリーノ、.......、.................、..」、これは思い出す映画のメロディー、何の映画か分からなかった。最後の場面は、白い木の十字架の墓標が並ぶ墓地で、小さな男の子が、遊んで走り回る。

母親が「戦争に反対する映画だ」と教えてくれた。男の子が遊んで楽しそうに見えた、ということだったように思う。これは、6歳より前に、自分の母親と見た映画なのか、もっと後、10歳頃、テレビで見たのかも知れない。

フェリーニが、「8 1/2」で見せてくれた子供。寄宿舎の小学校の教室で、意味もなく「アサニシマサ」と叫ぶ子供たち。修道院の中にあるらしいところ。そんな風に思い出していたのかも知れない。

何かが起きた、起きていたらしい。それが子供の成長、物理的に大きくなることに伴う、普通のことなのだろうか。中学項に上がってからゎ、文学全集を読み漁った。あっという間に、中学二年生の頃、サルトルまで読んだ。「存在と無」だ。「嘔吐」はまだ訳されてなかったかも知れない。世界文学全集があって、トルストイ、「戦争と平和」、「アンナカレーニナ」、ドストエフスキー、「罪と罰」、モーパッサン、「脂肪の塊」、ツルゲーネフ、スタンダール、「赤と黒」、「パルムの僧院」、「狭き門」、メルウ゛ィル、「白鯨」、ウィリアムフォークナー、アスキンコールドウェル、「嵐が丘」、「ジェーンエア」、「ボバリー夫人の恋人」、「肉体の悪魔」、レイモンラディゲ、キルケゴール、リルケ、ランボー、「レミゼラブル」、「イリヤド」、「オデッセイア」サンテグジュペリ、「月と6ペンス」、もう流行らない名前の数々が、今、もっと理解できそうな気がする。その作品がどれほど面白いか、ということよりも、それを書いて過ごした日々、書いた後に得たもの、その時代に生きていた人々のかざす影、それが懐かしいのだ。その町に行って、彼らの住んだ町、その子孫、係累、その思い出を語る人に会いたくなる。

それから、自分が文学全集を読み漁ったその時に、いなかった作家たち、カフカの芋虫、トーマスマン、「魔の山」、ヘルマンヘッセ、ヘミングウェイ、魯迅の「阿Q正伝」、ゲーテ、「トムソーヤの冒険」、パールバック、「大地」、後から、読もうとしたこともあったりしたが、読み通すことはなかった。読み方が変わったのだ。ヘミングウェイは、英語のペーパーバックで読んでみた。誰も知らない「Fiesta」(祭り)、何ていうのかあった。自分と関係のない世界があった。

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14歳。それは自分にとって、他の年齢と違う、特別な年齢になっている。13歳までは、自分以前だ。幼虫であり、青虫だ、キャタピラーだ。14歳は、そこに自分がいる。

その後の自分は、きんたろう飴みたいに、どこを切っても14歳だと言える。今、世の中の、いわゆる、還暦を過ぎても、自分の中には14歳の自分がいる。それがどういうことなのか、分かりはしない。何か説明すれば、他人が14歳になったり、14歳の自分に気がつくということではない。幼虫が、とんぼや蝉、蝶や蛾みたいに、変わったのだ。どうしてか、まだ人類には分からない。科学はまだそれを説明できなくて、だから、文学があるのだ。14歳のときの自分の写真は20歳の顔をしていた。

例えば、もし学年の飛び級があったなら、大学生になっていた。体は年齢相応で、中学生の生活は楽しかったようだが。

中学生になってから13歳よりも後、14歳ではない、どうしてかというと、14歳の頃は変な詩みたいなのを書いていて、過敏な感受性を抑える装置を自分の中に作ろうとしていた。虚無主義、ニヒリズム、アンニュイ、ということばで。だから、つまり、13歳だと思う、「罪と罰」読んでいた。12歳のとき、何をしていたのか、覚えていることはあまりない。あっても、映画の中の場面のようで、それは、自分を見ている自分だ。例えば、12歳の夏休み、覚えていることは何もない。

「罪と罰」の前にトルストイの「復活」を読んだと思う。世界文学全集にあったから。「アンナカレーニナ」も読んで、読むのに勢いづいていた。「罪と罰」は面白かった。読ませる作品で、たぶん、ラスコーリニコフが老婆を殺す場面に来て、ちょうど見開きの左ページの最後まで行き、もう、次のページを開くしかなく、次のページを開けば、誰かが殺される場面になることは分かっていて、ドキドキ、手に汗を握るような感じで、ページを開くのが恐くて、次のページを開くのを止めました。もし、ベージを開いたら、自分が殺される気がして、開けなかったし、開かなかったのです。それ以来、今に至るまで、「罪と罰」は読んでなくて、どういう話になるのかも知らないでいます。それは、殺す側の気持ちや状況を書いているはずなのに、それを読んで、自分が殺されるように思ったのはどうしてでしょう。ドストエフスキーも、それ以来、近づいていません。公平な言い方をすると、読んでいないので分からないことてますが、なぶん、自分とドストエフスキーずいぶん似ているからではないかと思います。なにしろ、あんな風に、追い詰められて、読むのを止めてしまったのてすから、それぐらいのことはあるのではないかと思います。

似たようなことは、もう一回だけあって、推理小説というジャンルの、確か、「黄色の紐」か、そんな題名で、作者は、ポーか、江戸川乱歩、たぶん、ポーのほうかな。「黄色の紐」ってタイトルを付けるのは、ちょっと日本人離れしている。このときも、読んでいて恐くて、たぶん人が殺されそうなとき、でもこのときは、思い切って読み進めて、それは大したことはなく、何もなかった。このときは、その何かはページの区切りではなかったと思う。でも、確かに、その頃の後、推理小説は読まなくなった。それは、もしかしたら、12-13歳の、思い出の欠落する頃のことかも知れない。

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そして、キルケゴールで、「絶望」の味に親しみ、14歳で、詩を書いていて、15歳でサルトルの「存在と無」を読んでいた。詩を書いていたのは、たぶん、ランボーを読んでいた。からだ。栗田勇の、大きな、厚い、箱入り本だった。サルトルに手が伸びたのも、ベルレーヌとかで、フランスに親しんでいたからだ。だから、ランボーの訳は小林秀雄でなかったし、ボードレールのことも、この頃ではなかったと思う。

「存在と無」が分かったか、というのは、分かるはずもなく、それを頭に叩き込んでいたのだ。昔の子供が、四書五経を素読したように。

13歳からから15歳まで、1962年から1965まで、自分のシュトルムウントドランクだった。その後は、並みの青春が待ち受けていた。ということにしよう。

自分のシュトルムウントドランクのとき、ビートルズがやって来て、その後の並みの青春を押し付けて帰っていった。なにしろ、13歳かそこいらで、レコードプレーヤーの簡単なのが自分の手元にあって、お小遣いも定額が、すこしながら支払われることになったとき、初めて買ったレコード、EPですね、は、「朝日のあたる家」で、裏面は、「狂熱のルンバ」だったか、そんなタイトルだった。表面の曲名を目当てに買いに行って、裏面の曲は知るはずもなかったが、それが気になったたことは確かだ。実際に聞いてみると、何でもない退屈なものだったが。13歳のとき、テレビで、女の子の歌手がいて、同い年で、好きだった。「バイナップルプリンセス」という曲で、アメリカの50年代が、まだ輝いていた。モータウンサウンズが、ジャズの子供たちを、育てていた。アメリカの大統領はアイゼンハワーで、その後、ケネディ、ジョンソン、フォード、だったかな。「ビーマイベイビー」という曲があって、完璧だと思った。そんな中にやって来たビートルズは、4人のグループで歌うところからして、個性のない、薄い味噌汁だった。こういう言い方をすれば、何を言っているのか外国人には分からないし、そのとき、ビートルズを聞いていたのでなければ、味噌汁が分かっても、それ以上は分からないの。集団で歌うこと、それで客を集めること、そういうビジネスモデルの意味に気が付いたひとがいたのだ。その特徴は病気で、伝染するということだ。米国では、ロックバンドとして、日本でも、グループサウンズが流行り、今、より大人数の集団が客を集めている。人数が多ければ伝染性が強いはずだと考えているらしい。ビートルズが来たとき、米国は戦争をしていた。ベトナムで。その前の戦争に勝ったと思ったら、ソ連ができて、緊張は続いた。手慣れたはずの実戦で、うまくいかなかった。社会がノイローゼになっていた。戦争恐怖症、フォビア、ができて、生きるのが恐くなったのだ。時間を掛けて彼らは消えた。でも、まだ、米国は戦争をしている。中東と西アジアで。

だから、まだ、フォビアの症状は潜んでいるのだ。彼らが月へ行かなかったら、アポロを飛ばさなかったら、という仮定は考えることがあってもいいかも知れないが、とりあえず、彼らは考えて、外を見つけた。忘れること、それはノイローゼの治癒の過程ではあるだろう。そのフォビアが伝染した日本では、症状の本来の原因はなく、それを治癒する試みもなく、対処の方法もない。グループの歌手だけが売れている社会の症状は、病気のままなのだが、誰もそうと言葉にできない。

フォビアの定義と症状、その症例は、きっと、今を、よく表しているのだろう。

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15歳を過ぎてから、つまり、高校生になってから、その後に自分に起きたこと、それは少しも自分を変えなかった。自分は何になろうとしていたのか。昔、30歳位の頃、50歳に早くなりたいと思った。50歳になったら、引退して、銀座とかで、酒を飲み、芝居や映画を見て、過ごしたい、と思った。魯山人と永井荷風を尊敬していた。それは、30歳の頃のことか、50歳になってからか、ほんとうは何とも言えない。記憶は、それがいつであっても、自分には同じことだと教えている。もう1人、尊敬する人がいて、5千円札の新渡戸稲造だ。魯山人の料理、荷風の「断腸亭日乗」、新渡戸の「武士道」、これは楽しい。ついでに言えば、内村鑑三もいた。「我、如何にして基督教徒となりしか」だ。新渡戸と内村は、英語で書いていて、それを日本語に訳したものを読まされているのだから、江戸も末に生まれた武士の子弟の気概がよく分かるような気がする。その子供世代が魯山人と荷風だ。第一次世界大戦後のアプレゲールの時代を楽しく生きたこの二人は、その次の戦争でひどいことになり、戦後の経済成長の時代を、もう一度、楽しく生きた。

こういう人たちが、戦後の日本を戦災からの復興へ導いて行ったのだ。ある時代がどういう時代だったのか、終わってから分かるのだ。比べることができるから。今、自分たちがどこにいるのか、未来を占ってみたくなる。もう、あと5年で、すべてが終わる。でも、今は、終わることは考えていない。昨日はあいつが死に、今日は、こいつが死んだ。「ついに行く道とはかねて..」、業平はうまいね。「きのう、今日とは思わざりしを」、「..傍らにはべりしかたい翁、何を思いけむ、歩める足もおぼつかなくに、急ぎ、いざり出でて読める...」、とか、こんな感じで詠んだ歌だ。「月やあらぬ、春や昔の春ならぬ、我が身一つは..」と詠んだのもこの時だったと思う。この2つ目の歌は、月も春も昔のままで、自分だけは昔の自分ではない、ということを言うのに、ずいぶん手の込んだ言い方をしたもののようだ。日本語が、その表すものを、そのまま掴み取って、それに自分で驚いている。業平は、そのとき思い付いたこの2つの歌を発表したくなって、もうその時代にはなくなっていた風習、最高の公の場で歌を詠む、という形で詠んだのだ。それは年寄りの特権ではある。その場に居合わせた人たちからは拍手はなく、自分で、自分の集に書き留めたのだ。この人に、「..身を知る雨は降りぞまされる」というのがあります。上の句は、「ながむれば、降りみ降らずみ知るをかたみ..」だったかな、言い交わした男が、約束した日、雨降りで、「雨が降ったり止んだりで、、なかなか出られないでいます」と書いていてよこしたのに対する、女の答でした。「雨の様子が分からず、出られないでいる」というのは、「行くつもりはない」ということですね。「私って、どうしても会いたいとか思われる程じゃないのは分かりました。」ついでに言えば、「雨って、教えてくれることもあるんですね。」という、軽いジャブをまともに喰らって、雨の中を周章ててやって来る男がいます。この女の子の父親が、娘に代わって詠んで、聟の様子を伝え聞いて笑っているのかも知れません。業平の時代には北東北の太平洋側を襲う大地震がありました。業平の東下りには、そんな背景があとたのかも知れません。田舎の女の「松」の歌。都に帰るのに、連れて帰ろうかとも思ったらしいのですが、

それは距離の遠さに思い止まったようです。「末の松山波越さなじとは」の句が伝えるものの意味が今度の地震でよく分かりました。田舎の女の「まつ」の意味は、文化の遠さをよく表しています。田舎の女が待つとき、都に住む女が待つのとは違って、絶望的な遠さがあります。業平は帰って行きました。このような歌物語を書いた人はその後、ありません。敢えて言うならば、芭蕉の「奥の細道」でしょうか。俳句になりましたが。

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「伊勢物語」ですね。まだ、業平という人物の生没年不詳でしょうか。在原業平ですね。伊勢物語の作者として特定できているとも言えないようです。業平の歌が多くあるということなのですが、もう少し業平という人物を探し出して欲しいものです。「男のすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」の「土佐日記」の紀貫之とともに、その人物像、世界観を知りたいものです。「昔、男ありけり。」で始まる短い文章と歌。歌にその由来を付記したのは、そうしなければ失われてしまうことを、残しておきたいということ、すべてが変わってしまうことに、自己存在の不安のようなものが芽生えたからではないでしょうか。紙と筆、墨、という、そのための手段が個人レベルで消費可能になり、その裾野が広がったときだったのでしょう。時代が、人の生活が大きく動いたときでした。

「昔、男ありけり」。何を思って、こう書いたのでしょう。その後に続く物語。それは自分だと言っているようです。書き写されて流布する物語の合間に、それを読んだ人の物語が織り込まれても、仕方がないところもあります。科学的に確かなことを少しずつ見つけてくれるのを期待します。伊勢物語、葉隠、山本常朝ですね。マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と、美艇氏の薦める三大書物です。薦めるといっても、ただ、自分の好きな本だと言っているだけです。それに続く、清少納言風に言えば、まめまめしき、その点が、少し三大書物に遅れをとることになる理由ですが、新井白石の西洋紀聞、「折り焚くしばの記」、があります。本居宜長も、まめまめしき人たちに入ります。小林秀雄が、その辺に捕まっているのも、面白い光景と言えるでしょう。二人が、ひとしきり、言葉について論じあった後に感じる疲労感は、「果てしなき議論の後」のテロリストの感じる疲労感と似たものではないかと思います。石川啄木が、もう少しゆっくり、小学校の教員などの生活を送れたなら、幸せだったかも知れません。そこには、何か、考えてみてもよいことがありそうです。そう思うと、今日、訪ねて来てくれた男の子のことも気になりました。

えっと、まだ言っておかなければいけない人がいました。世阿弥くんです。

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                                                                                   ☆⇒ 和夫くん、来たのか (3) 世阿弥くん
 

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