更新日:

2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (3) 世阿弥くん                     ☆⇒和夫くん、来たのか (4) お魚になる

 

えっと、まだ言っておかなければいけない人がいました。世阿弥くんです。

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業平くんとか、紀貫之くん、清少納言さんなどに触れた後で、世阿弥は、その相当後代の人なので、その分、親しみが湧きます。先程は、紫式部さんのことについて何も言いませんでしたが、源氏物語は、同じような、もてる男の物語として、業平の伊勢物語には、ちょっと無視したいような、気の使い方があるかも知れません。伊勢物語は在五中将物語の呼び名があるそうですが、読みで言うと「ざいご」は音韻訛化的には、「じゃご」になり、それは、自分の育った地方ては。「田舎の」という意味を持ち、差別的劣位のものを表す言葉だったので、心穏やかでいられないところがあります。その言葉が残っていたのは、古代日本の辺境の地、東下りした業平の記憶の痕跡があるかも知れません。後から来た源氏が絡んでいる可能性があります。さらに後年の江戸時代には、「偽紫田舎源氏」という黄表紙本が出ましたが、改めて、気になります。

言い掛けていたのは、世阿弥です。この人は、観阿弥という偉大な親を持った、二代目でした。世阿弥が書いた大部な芸能論考は、教えられたことを、感激を持って祖述しようとしたもののように思われます。世阿弥を書こうとして、また、その、劇を描こうとして、多くの人が、その人物像を理解しようとし、その心理的側面や、生活条件、親子や妻、家族や近くいる人たちとの有り様を想像しようとします。年老いて流浪の生活を送った芸術家に、その見つけた花が、今、どこにあるのか尋ねようとします。そして、いつでも、一人の老人と、その昔の思い出を見つけてしまのです。世阿弥の花は、見つけることが難しいところに咲いているのかも知れません。

世阿と呼ばれた人、世阿弥というのは、正式な名前でしょうか。世阿、と呼んでみましょう。能の曲を作るとき、言葉に困ることはなかったようです。作詞ですね。世阿の前の時代の人が、沢山、よい言葉、しかも、もう、歌になっている、を残してくれました。和歌集です。古今、新古今、などです。しかも、業平さんは、物語まで書いておいてくれました。世阿の演能には、とっても強い味方です。歌の集といえば、万葉集があります。しかし、その歌は、よく分からない、意味不明の歌てした。万葉仮名で書かれたものを読みこなすことは、まず誰にもできないことでした。江戸時代になって、まだなんとかできたのは、本当に驚くべきことのように思います。万葉集の時代、物語も不足でした。人は、当たり前のことを、当たり前にして、過ごしていたのでしょうか。西暦では、A.D.700年頃のことです。一方には源氏物語があります。A.D.1000年頃ですね。そこには歌が不足、と言えるかも知れません。前の時代と比べられるのは不本意でしょうが。世阿弥の目指したパフォーマンス芸術は、言葉を必要としていました。世阿弥が歌を見つけたとき、物語も隣りにありました。それは、お父さんの観阿弥さんにはないものでした。少しずつ、文化という何かが動いていました。観阿弥さんのことも、親しみを込めて観阿と呼んでみます。観阿はもう立派な演能者。猿楽の坐を経営することもやり遂げて、1つの波を乗り越え、次に来る波が見えていました。世阿は父の期待に応えるだけの才能に十分恵まれていたようです。ただし、演能者、パフォーマーとしての偉大な父をいつも追いかけて行くばかりでした。

世阿弥の論集に、ときに、「批判に曰く」と語られる言葉の中に、あらがいようのない、芸の指導の声が響きます。自分は父を越えられるのか。そんなコンプレックスが、世阿くんを、ときに、追い詰めます。どこまで行かなければならないのか。道の遠さと、あてどのなさに、死んでしまいたくなるばかりです。才能ある者のみが知る贅沢な悩みでしょうか。それは、最愛の息子、元雅の死や、義満との確執、晩年の放浪に影を落としているようです。

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元雅に厳し過ぎることはあったかも知れない。「父」を越えて行け、と、いつも思っていなかったか。自分がどんなに大きくなったか、それが分からなかったのか。それとも、自分がそうして来たことで、それを、自分の子供と競おうとしたのか。義満公は、自分の父親みたいに、自分を大事にしてくれた。自分は、義満公を乗り越えようとしていたのか。でも、ある日、自分は遠ざけられ、そして、今はもう、いない。その後を継いだ者は、いつも、義満公と、笑って、話していた人たちで、今は、不安げに、見つめてくる。この人たちは何なのだろう。そんな風に思っていたかも知れません。その後に、200年の戦国時代が来て、誰かがいつか勝ち残るかして、それは、幸いなことで、ある日、天変地異で空が避け、地面が割れ、海がすべてを飲み込む前に、少しの平和な時間があれば、そのとき、人は、義満公といた自分のように、幸せかも知れない、などと考えたでしょうか。世阿には思いも及ばないことだとしても、そうでなくても、いつか、この、海に浮かぶ小島に、怖ろしい目の、見知らない別の人たちが、すべてを奪いに来るかも知れなくて、そして、その後、誰かが、平和を見つけなければならないのです。

1930年代の日本、戦争の前に、この世を去った人たち。戦争を防げなかったのではなく、それまで、道を見つけていた人たちだったのでしょう。新渡戸くん、国際連盟を指導していた、その理念を、日本人は理解しなかった。この人の南部潘は、幕末に、幕府のために戦った。そして敗れた。一人の19歳の若者が、ただ1人戦い死んだ。秋田戦争の3月3日、1日だけの戦いだった。敵も味方も知っていた。本当の戦いてはないことを。でも、若者は死んだ。南部潘の重役の家に生まれ、立ち上がったのは、自分のためだった。戦場となった山の斜面、小高い木々と低層の灌木に、雪が、まだ、厚く、残っていて、人の姿は一層、分かりずらかった。人はただ、寒さに耐えて、ひっそりとしゃがんでいたとき、十分な装備に勢いづいた若者が、何事か叱咤しようと立ち上がったとき、思いもよらない、景気づけの、外すつもりの銃弾が、薄い作りの甲冑を貫いた。本物の鎧は大きく、重く、250年間、使われずにいて、修理はままならず、そのよすがもなかった。倒れた若者に、両軍は静まり返り、秋田の佐竹との争いだった、南部の軍は、敢えて、進み出ることはせず、指揮官は一旦、戦術的退却を指示し、敵が追撃の様子をみせないのを確認し、若者の遺体を引き取り、盛岡に帰った。若者の遺体は大八車に載せられたまま、大沢川原の屋敷に還った。屋敷では、当主が項垂れて迎え、若者の母はただ泣くばかりだった。そばに、3歳位の女の子が、まだ、意味も分からないまま、じっと周りを見つめていた。遺体は家の玄関の式台にあげられ、その夜をひっそりと過ごした。

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玄関は南面し、東側は中の間、西側に廊下があり、その左手、南側は日常資材の物置場になり、その先が台所なっていた。玄関の式台の裏は、畳を縦に二枚並べて、狭い空間になっており、東側は押し入れ、その二畳の空間の突き当たりと、その左手、西側と、それぞれ、襖一枚で突き当たりの先の居間と、左手の広縁側の部屋になっていた。広縁側の部屋は、西側の庭を望んで、部屋の庭側が半間幅の廊下で、庭を望むもう一部屋があった。そこはその家の当主の居室であった。突き当たりの先の部屋は、寝間で、その家の家族構成と時代の変化に連れて、使われることのない部屋となって行った。さらにその北側は、板敷きの4、5畳分のスペースがあり、雑多な物が置かれていた。金槌や鋸なども、ここに置かれていた。もと寝間の、東側に、一枚の襖を挟んで、もう1つのへやがあり、仏間になっていた。ここで、戦後、昔、意味も分からず、帰ってきた若者の遺体を見ていた女の子が、息を引き取ったのだった。

風呂場は、この家の東側、仏間と中の間の先にあり、便所はこの家の北東と北西の隅にあり、家の周りは、戦後になっては、南と西側の庭を除いては、家のすぐ周りは家庭菜園の畑として使われ、その他は、小さな家作が並んだ。また、家の北側に、離れて、やぎ小屋があり、戦後少しの間人も、そこを住みかとする人がいた。その、人の住みかとしては酷いバラック様の家に、小さい女の子も一緒に住んでいた。トコちゃんと言っていたその子は、多分、その酷い住みかを出る日に、いつも入ることのない庭に姿を見せて、「遊ぼうっ。」と言ったのだった。晴れた夏の日だった。ほとんど、遠ざけるようにして、二、三口を利いた位で、もともと遊ぶことは考えられず、相手をしない内に、諦めて、その子は、家の裏に戻って行った。

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家から、大沢川原の小路に面する門までは50m位あり、門から家の玄関までの道を挟んで両側に三本ずつの細く背の高い、ひばの木が聳えていた。門から家の玄関までの道の片側には、紅葉、栗の木、ぼけ、豆柿、があり、玄関前は、あおきの生垣が道に沿って低灌木の繁みになっていた。玄関に向かう道を挟んでその向かい側には、紫式部や梅もどきがあり、低木のつつじがあった。玄関の東側、中の間の前に当たる所には、やや大振りの、一抱えもある石が置かれていた。かこう岩だった。

家の西側、本来の、その家の主が楽しむ庭には、船形につくった伽羅の木が、広縁からの眺めで、遠目に中央にあり、その右に築山がしつらえられ、蕗や、うるいがその辺り一面に生え、山吹、馬酔木があり、夏の初めには、立ち葵が花を点けた。庭の北側には、すぐりの低灌木が毎年、赤い実をどっさり付けた。広縁から庭におりるのに、幅1.5m位で、高さ40cm程度の、横に倒した柱状の、直方体にきっちり切られた沓脱ぎがあり、広縁に腰を掛けて、その沓脱ぎ石に足を置くのが日向ぼっこの最上席だった。冬には、庭先に、「かまくら」と言って、雪を積み上げて、中に人が、子供なら三、四人も入れるようにくり抜き、その中に入って遊ぶ、雪だるまとは別の大雪の楽しみかたもあった。

中に七厘を持ち込んで、餅を焼くような大きなかまくらを作ったことは、あっても、一、二回だとは思うけど。この、雪の構造物を、「かまくら」という理由は、今、思うには、人が少人数中に入れるような、岩屋、洞窟、が、鎌倉という地名に関わりがあり、その由来にもなっているかも知れない、ということと同じだと思われます。このような雪の構造物は、人の作る自然由来の構造物として、本来の名前があるはずですが、それ以外に、鎌倉に本拠を構えた源頼朝が、その後の戦いの緒戦で敗れ、梶原影時に見つけられたときに、僅かに身を隠していた、山中の洞穴の思い出、見つけたときの驚きが、あの、雪の構造物をして、「鎌倉殿」を連想させ、それで、「かまくら」になったかも知れません。もしそうなら、この雪の構造物は、もともと、「かまくらどの」という名前だったのではないかと思います。秋田では、この雪の構造物の風習が大々的に残っていて、雪の多く降る地方では普遍的に思われる雪の構造物が、必ずしも普遍的でなく、特定の地方に偏っていることは、文化的な意味合いがそこにあるかも知れないことを示唆しています。

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思い出してみると、意外と、50年以上前のことでも、記憶はあるものです。それも、一番古い記憶を探してのことです。初めて、家の外に、子供として、出る日、子供デビューですね、緊張して、服を着せられていたりしたように思います。服は、今で言えば、浴衣みたいな、子どもの着物で、帯でなくても、紐を結び留めて着るものだったかも知れません。あるいは、初めて、パンツなど穿かせられたかも知れません。その時の、不安で、頼りない気持ちと、少しは晴れがましく、気恥ずかしいような気持ち、そして、周りに見るものが、新しくて、途方にくれさせるのが、当時の自分を思い出していることを、かすかに実感させます。そういう感じを自分の感じ方として思い出すことが、自分の記憶であることを、不確なままに、確信させます。それは、玄関を出て、門までの道をトコトコと小走りに行く自分です。門の外に出て、周りを珍しく眺めたかも知れません。それは、3歳の自分と思われます。4歳のときは、家で飼われていた山羊を見ていると思います。5歳のときには、幼稚園という、社会との交わりが発生したのでした。幼稚園には、普通に、4月からは行かず、春も過ぎて初夏か、秋になってからでした。それは、幼稚園に行きたいか尋ねられて、行きたくない、と答えたからでした。家にいて、十分楽しかったからです。家の中の物や、庭の遊びで、それ以上何かを必要としなかったのでした。

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