更新日:

2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (4) お魚になる                    ☆⇒ 和夫くん、来たのか (5) 月を見ていた

 

1歳や2歳のときは、思い出す何か、そのきっかけも、なかなか思い当たりません。それは、1歳や2歳の頃は、自分の仕組み、構成要件が、次々に確定されて行く途中で、3歳で自分が出来上がった、そういうことかも知れません。3歳のとき、門へ向かって走って行った子どもは、今の自分であると言えます。そのときの気恥ずかしさは、思い出すと、軽く心が揺れます。足の爪先の何かを感じる神経が伝える遠い感覚は、弱くて、微かでも、自分の足の爪先を教えてくれます。時間軸に沿った自分の始めは、その辺にあるようです。もう少し、何か、普通に思い出してみましょう。

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小学五年生のとき、臨海学校という学校の行事があり、修学旅行みたいなものですが、学年全体で、たぶん宮古の三陸海岸の渡波小学校に行きました。2泊3日位の短期間の旅行でした。二泊目は海に近い旅館だったと思います。朝、暗いうちに、寝ているのを起こされ、何も持たずに、すぐ外にでるように言われました。外にでると、クラス全員が揃っているかの確認もそこそこに、山の方へ歩かされました。ある程度高い、山の中腹位で、海の見える所まで登りました。三陸チリ地震津波でした。特に、何事もなく、山から下りて、モーリィ市に帰りました。電車から降りて、解散のとき、生徒代表で、心配する出迎えの親たちに、挨拶をするように言われて、何のことか分からないまま、挨拶をしました。自分では、あまり、出来がよくなくて、つまらない気持ちになりましたが、そのときの親たちは、どう思ったのか、今思うと、何か、子どもがきょとんとしているので、却って、安心したかも知れません。

小学校時代は長い時間でした。いつ小学校を終わるのか、ずいぶん遠い先のことに思えました。はやく大きくなりたいと思っていました。取り立てて事件のない年月が、今の自分を作り上げているのが分かります。後年、得たいろいろな知識、読んだ本、日本の書物や西洋の知識、翻訳されたもの、英語、英語の原書、日本の歴史、世界の歴史、戦争の話、政治における人の離合集散、経済の仕組み、お金の分配と流れ、都会のビル、高層ビル、スカイツリーは今年できました。人の住む一戸建て、マンション、古い木造鉄骨アパート、そういったものは、自分のシステムの上に突き刺さった多くの飾り物の串であり、その中に風車もあり、くるくる廻っていたりします。変わって行くのは自分の体であり、自分の思い出は変わることはなく、串のように自分に突き刺さった世界は、古くなって落ちても、新しい串が、また、どこか、その辺りか、別の場所に、突き刺されているわけです。それは目新しい意匠や色で、自分を驚かせるのですが、自分というシステム、そこにある風景には、何も変化はなく、業平の昔の歌、「.....我が身一つはもとの身にして」とは、そんなところでしょうか。

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宇宙ロケットで遠い星に行く自分の未来に、心を沈ませる一抹の影が射すのは、そこにあるのが、自分のシステムに突き刺さる串に過ぎないと思ったりするからです。宇宙ロケットを開発するために発見する多くのことは、自分というシステムの目の前で繰り広げられる楽しみでもあり、自分というシステムに何らかの変改が加えられる可能性もありますが、未来に向かう気持ちの中で、振り返る思い出があり、自分がいて、そのとき、目の前に見るものは、自分が嘗て見たもののメタモルフォーゼ、姿を変えた自分の経験のようにも思われます。自分が今、目の前に見るビル、その四角い、大きなもの。光る窓があり、その外壁は灰色に光っている。それは、小さい頃に見た砂の山、光る窓は、砂粒のなかに見つけた石英です。スカイツリーは、夕暮れに、急に大きく背の伸びた電信柱で、居並ぶ高層ビル群は、小さな頃に重ねて並べた積木が驚かせてくれるのです。自分が、今、過ごしている、それがあると思っている殆どは、自分に刺さった串で、やがて、古くなり、破れたり、壊れたりして、落ちて行く、自分がいつか見たものかも知れません。明日はまた違った姿を見せる、小さい頃に見たものたち、その姿を変えた怪獣たちも、やがて、弱々しく、この自分の体とともに消えて行くのです。そのとき、月や、春や、そういったものは、変わらずにそこに居て、それを見つけた自分も、そういったものの一部として、あり続けられたらいいのですが。月とか、春というものの認識は、それが1000年前の人に認識され、そのようなものとして表明されたなら、それを、同じように認識している自分は、そのとき認識していた人、業平くんです。業平くんは、そのまま、今、自分として生きているのです。つまり、例えば、思い切って、自分はクラゲであるとかと言ってしまっても、そうではないことは、クラゲが、月とか春について表明したことを示すものがないのですから、仕方のないことです。それでもクラゲかもしれないという、何かがあるかも知れませんが。クラゲは、「海月」と書くのは、遊びであり、しゃれであって、それはまた、別のことですね。それで、では、自分は、業平くんの前は誰だったのかを考えることになります。「お魚」?。「ねずみ」?。「せみ」か「とんぼ」?。やはり、陸上生物であれば、月や春を認識した自分である可能性があります。ちなみに、人が泳ぐとき、「お魚」になるのは、本当に、お魚が自分を思い出しているのかも知れません。では、自分は、2000年前まで戻ると誰だったのか。日本では、まだ、名前のある人はいないのですが、皇紀という暦算はありますね。ものの本によると、いつの時代か、イザナギノミコト、イザナミノミコト、がいます。この二人が、次々と、ものの名前を紡ぎ出して行きます。でも、まだ、月や春やを認識していることを、明示的に伝えるところまでは行きません。とはいえ、この二人はツクヨミノミコトを作っていますから、そういう認識に相当近づいてはいるようです。「ツクヨミ」という名前は、「月読」と書いていますし、「月夜見」でもありますから、昔の人が、夜に月に見入っていたことを思うのには十分ではあります。そして、そこから、その月を見ていたのは自分だということまでには、そう離れていないでしょう。

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春はまだ、そこでは、まだ、見つけられていませんが、日本神話、古事記で、その後、スサノオノミコトが、「八雲立つ八雲八重垣妻籠みに 八雲八重立つその八重垣を」と歌ったときには、春は認識されていたことだろうと思います。とはいえ、その後を、もう少し、探してみましょう。そうすると、やはり、古事記に、コノハナサクヤヒメという女性が登場します。まだ、日本の歴史時代に入っていなくて、特定の人を指し示す呼称ではないとも言えます。文字通り、花の木の咲くのを見ているのは、春を認識した自分です。これで、古い時代の日本に、月と春を認識している自分に会うことができました。業平くんの時代までまだ1000年か、それ以上ありますが、自分のできるだけ古い思い出を見つけようとすると、こんなところになるようです。この後、自分の、1、2歳の頃の記憶が、花火のように浮かび上がるときを待つ、それは楽しみに取っておくことになりました。

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それまでの間、どうでもいいことを、思い出してみました。今から35年前、田無、東京23区外の近郊の街に、学生で、アパートに住んでいたとき、西武新宿線の駅からの帰り、まだ明るい日中でした、大きな通りから外れ、何かの大きな施設で、自分の進む左手はコンクリートの白いかべで、右側は、低層木造住宅の地区で、電信柱が間隔を置いて並んでいる道に入って少し歩くうちに、胸が苦しくなり、はあはあして、歩く足が進めなくなりました。暑い晴れた夏の日でした。陽射しの中を歩く体力がなく、電信柱の影から影を伝い歩きするようにして、何とか自分のアパートに着きました。布団を敷いて、横になりました。心臓がドキドキして、壊れるのではないかと思いながら、横になっていました。長い夜でした。救急車で運ばれて、急性若年性心筋梗塞とでも言えるものでした。自分というものが細り、絶え入りそうになっていました。そのとき自分のしたのは、歌うことでした。一晩中、歌い続けました。もし、歌っていなかったら、自分の意識は、自分が死ぬのを、じっと見つめていたはずです。山とか海で遭難して、眠気が襲い、歌わなければ死ぬ、という状況に近いかも知れません。しかも、襲ってきたのは、意識が明白な中での、玉の緒の切れそうな状況でした。そして、CDで、ちあきなおみと五輪真弓を聴いていました。歌う声が近所迷惑で恥ずかしいとか言っていられる状況ではありませんでした。そして、その夜は明け、危機は終わりました。長い夜でした。病院に行けばやっていた点滴と薬、場合によっては、手術を、自分で自分に全部やって、自分で直したのでした。ただし、その後、後遺症はあり、暫くの期間、自分の意識のレベルが弱まり、自分は「お魚」になることで、その時期を過ぎることができました。意識の引き潮が発生し、自分は、引き潮に取り残され、陸地となった大陸棚では生きられないので、潮が戻るまで、自分は魚になって、生きている、ということです。魚の意識は明瞭で、五感もあり、活発に動きますが、意識は魚のそれであり、思い出などはあまりないようです。いつの間にか、魚のときは終わっていました。このとき、高校のクラス会に出ました。その前も、その後も、あまり出たことはないはずです。また、中学校で一緒だった細川くんが当時いた鳴子温泉に行って一泊しました。100バーセント、細川くんに世話になった旅行でした。それは、そうしようと自分で決めたことでした。鳴子から東京に帰る日、開いていた定食屋で、早い昼飯か何かを一緒に食べたとき、それも払わせました。そうでないと100バーセントにならないからですが、細川くんは、若干の疑問と不満があったかもしれません。「これ位、自分で払え」ということですが、100バーセントの完成を目指すと、意外な難しさがあるものです。

話は戻りますが、若い頃、単なる興味から、銀座の手相見のテーブルを出している人に、500円で、手相を見てもらいました。手相見も、何もいうべきことが、これといって見当たらなかったと思います。ただ、手の、右手だったと思いますが、掌の左側に、手首側から見て左側に斜め上に延びる線から、「心臓に病気したことありますか」みたいなことを言われて、意外に思ったことがあります。当時、心臓がどうこうなど全くなく、ただ「いいえ」と答えました。手相見は、「気を付けた方がいいですよ」と言ったかどうか定かではありませんが、それ以来、覚えていたことです。後年、それから、20年後位に、実際に心臓が詰まったときも、このことは、特に、思い出したりしませんでしたが。

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