更新日:

2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (5) 月を見ていた          ☆⇒ 和夫くん、来たのか (6) 剥がれ落ちる宇宙

 

手相見などを冷やかしていた1960年代の末、1970年代が始まるより以前の東京は、戦後の日本が終わり、また、まだ少し残っていた、昔日の日本の残骸が取り片付けられて行ったときでした。急速に、あっという間に。銀座裏のダンスホールに大勢いた、ダンスの相手をする女の子がいなくなり、他の業態の水商売になりました。ジャズ喫茶、名曲喫茶も、あったとしても、その存在意義は変わり、形骸化しました。都電が姿を消して行きました。日劇のウェスタンカーニバルは、もう昔の話でした。渋谷の道玄坂のボン引きもいなくなりました。あと1年早かったら、戦前以来の、そこにあったものの、戦争で崩れ落ちた日本と日本人を、見て、その、見分けられる香り、匂いが分かったはずです。

1960年の安保闘争の人たちは会社員になり、公務員になりして、その主張が、ちょっとした議論の楽しみだったことが分かりました。日本人に、そういう思想がそもそもなかったことなので、その話を誰もが忘れたることができました。石川啄木が明治の末に、テロリストの悲しき心を我は知る、と歌ったとき、ロシア語のテロリストやヴナロードの思想が、議論している人たちの中に、全くないことを見つけていたことと思います。果てしなき議論の後の、ほろ苦き冷めたココアの一匙に、誰一人、「ヴナロード」と叫び出る者なし、ということを見ていたのです。啄木はせいぜいが、25歳か、それより前、まだそういう運動の首謀者となるには早かったのかも知れません。そのとき議論していた人たちも、公平に言って、テロリストたるには、まだ、早すぎたのだと思われます。

東京にあった色んな残骸は、1960年代末から1970年代に入り、取り片付けられました。ビートルズとベトナム戦争とコミュニズム、人がパンドラの箱を開けたら、こんなものが飛び出しました。箱の底には「希望」が残りました。なるほど。それから40年、「希望」以外は、風に吹き飛んだようです。2011年3月11日の北東北・三陸大地震津波と福島原発事故の後の日本は、被害地域と非被害地域とでずいぶん違った様子になっていると思います。業平の時代の貞観大地震も、北東北・三陸でした。当時の記録や文学作品に、現在の日本人と共通の経験を見つけられたら面白いことです。紫式部は、業平くんの世代の孫娘位に当たります。文章は、ずいぶんこなれて、かな文字での表現力が、先鋭化しました。教養のある人たちは、それを読みこなし、その、自分の姿を顕に見せる伝達力に驚きました。源氏物語が読むのに難しいのは、古文という、現代の日本語の文法や単語と違っているということもありますが、それが、かな文字の表現力を突き詰めたところにあるからです。紫式部は、祖父の世代の歌を、かなの文章で表し、解説を加えようとしたものに思われます。紫式部にとって、歌は既にあり、それは、自分達の散文で、解き明かすべき謎の暗号、攻略すべき対象でした。紫さんはやり遂げました。その代わり、彼女の作歌は、エキスを搾り取られた、お茶の出がらしみたいになりました。それはそれで味わい深いのですが。

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でも、その無尽蔵の歌の宝庫が、取り放題で目の前にあり、片っ端から、それを自分達の新しい表現に置き換えて行くことは、自由で、気持ちのいい知的楽しみだったろうと思われます。どうして、彼女に、それができたのかは、将来の研究者の仕事にしておきましょう。今、自分として想像できるのは、彼女は、歌を漢文で意味を説明しようとしただろう、ということです。歌を、同じ、「かな」で説明することは、不必要に思われたでしょう。でも、漢文で説明するのなら、国際交流という効用もあり、翻訳の試みは、有用なこととして、理解され易かったでしょう。紫式部が漢文をよくしたことは、単なるエピソードではなく、彼女の事業の必須の側面だったことが明白になるときが来て欲しいものです。歌を説明したくなるのは、別の言語系に、それを移し換えるときです。彼女の漢籍の教養がずいぶん役に立ったはずです。五十四帖の記録は、源氏の子供の世代の話になってからは、ストーリー性を重視した内容となり、書き手の側に変化が起きているようです。新しい文章表現スタイル、書き手も読み手もお互いを知っている狭い宮廷社会、書き写しにより流通するジャーナリズム、その中で、「私にも書かせて」という、自薦、他薦の物書きが出て来たことと思います。髯黒の大将が出て来るあたりから怪しいですね。こういうキャラは、紫さんの目を引く対象としては不足な感じがします。近くにいる若い子が、「こんなのどうですか」と持ち込んで来た話ではないでしょうか。紫さんは、もう、出版プロデューサーになっているのです。源氏物語の文体を分析して、紫さん本人の水茎の趾と、その他の人のとを、区別して見せてもらえるといいですね。「源氏」が自分の手を離れて、でも何か書きたい紫さんが、紫式部日記など、こっそり書いて、秘かに楽しんでいるのが想像されます。ジャーナリズムの雑事は娘の小式部内侍が取り仕切ってくれているのです。紫式部日記では、自分の歌を歌おうとも思いましたが、歌の心を分析し切った自分には、歌の神様は振り向いてくれなかったようです。多分、業平さんなどを読み返しながら、ちょっとしたアンニュイと、思いがけない、彼女のたった1つの後悔の気分を、老い行く自分に重ねていたかも知れません。当時、清少納言さんが別の出版社で、気を吐いていましたが、出版社本体が危うくなり、終わりました。彼女も、また、新しい「ひらがな」の文体で、自分と自分の環境を説明しようとした、仲間でした。もう、何かを説明しなければならない時代になっていたのです。国際化、それを避けて通れない時代になったのです。それから1000年後の今も、同じですね。

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清少納言さんは紫さんより若くて、歌については、全く、気に掛けていないようです。どうしようもない、文字の数合わせをする人の仕事にしか見えなかったかも知れません。清少納言さんも漢籍をよくした人でした。歌の意味が再発見されるのは、300年後、世阿弥が能の言葉を書き、曲を作ったときでした。世阿弥にとっては、言葉は目の前にふんだんにあり、業平くんの頃の写本から、取り放題でした。

春と月は、そこにありました。それを見ているのは自分です。世阿弥が加えたのは、花、でした。また、その能芸論、「花鏡」で、批判に曰く、として、「できはを忘れて能を見よ、能を忘れて人を見よ、人を忘れて心を見よ、心を忘れて能を知れ」という言葉を書き出しています。

「批判に曰く」とは、おそらく、世阿弥の父、観阿弥の、判の詞でしょう。その結論を、説明し、その理由を解き明かすために、世阿弥は、書きました。月と春と花、世阿弥が思い出そうとしたのは、そういう普遍的な思い出、昔から生きている、自分でした。能は、ある観念を具象化した芸術ではなく、そこに今いることを思い出させてくれることで、人を再生させる芸術です。そのパフォーマンスシナリオが、既に亡くなった人を弔うという名目で、思い出すことを主眼としているのも、必要なことなのです。現代の作能が、得てして対象の美化にしか思いが及ばないのは、世阿弥ならぬ身の致し方ないところです。思い出しているのは、そこにいる自分です。能という芸能がなにやら理解し難く、説明しづらいのも、そういう、能という芸能の構造に依るものと思われます。演能者の側からすれば、ある意味で、言うまでもないことなのかも知れません。その創始者に依拠する宗教の信徒の宗教的感情に通ずるところがありますね。思い出すことを、他人に説明することはできますが、他人に思い出すことをさせることまではできません。思い出すことを実践する信徒には、それはただ信じるだけのことなのです。そのための色んな切っ掛けを、与えてくれているのです。人の未来については、自分が、今、思い出しているように思い出す人がいる限り、自分もいつも、そこにいる、と言うことしかできません。きっと、宇宙旅行をしたりとか、人と同じような生き物を作ったりしているのでしょう。

業平くんから、マイフレンド、世阿、まで500年、そうすると、それから500年の1800年代後半、明治維新の頃に、もう1人、友達になれる人がいるかもしれません。幕臣の勝くんか、詩人の啄木くん、賢治くん、あたりまで、考えられます。そして、この自分は、その後100年の誤差の範囲内で生まれました。さらに500年後は24世紀、2350年〜2450年、というところでしょうか。そのときまで、人が無事に、何事もなく暮らせるとは思えません。きっと、大きな戦争をして、生き残った人たちが、暮らし続けていて欲しいものです。できれば、その大きい戦争の現場に居合わせることなく、その時には、どこか、宇宙旅行の最中で、噂に聞いてびっくりする、そんな風でいたいですね。業平くんの前の500年というと、300年代末、4世紀、でも誰か。アジアの東辺縁、太平洋に向かう島国で、月と春、そして、花を見ていた人が居たでしょう。まだ、日本に国はなく、畑も田んぼもなうて、広い野原に一面のそばの花が咲き、実が付くということはあったとしても。それよりも、秋には、どこまでもドングリがいっぱいの実を付け、甘いあけびや葡萄がどこにも見つかり、栗や柿が高い木の上から人を呼んでいる。年に一度は、そんな楽しみが待っている、少しは平和な暮らしがあった。動物も、ときには獲った。男が獲って来て、女が捌いた。子供たちは、遠くから、その様子を見るだけで、近づいてはいけないのだ。そして、料理が出来てくる。特別なときか、滅多にない、んなときは、いつもの仕事は、皆な、休んで、夜のディナーに、歌と踊りだ。鳥は捕ってはいけないし、鼠や栗鼠も獲らない。彼らは遊び友達で、いつも一緒に走り回ってるのに、獲って食べたりは出来ないよ。昆虫は、冒険心で取ったりする。でも、せいぜいが蟻ぐらいで、あいつらも友達さ。それに、いつの間にか姿を変えてやって来て、笑いながら飛んでいく、変わったやつも、結構多い。それに、生きてる時間も短くて、去年の子はほとんどいなくて、皆な、その子どもたちなんだ。それを取って食べたりは、あんまりね、出来ないね。

魚は、食べるよ。数が多いしね。火で焼けば全部食べられて、それに、あんまり、それで怒ったりもしてないようだから。血もそんなに出ない。貝もそう。だから、魚とか貝だったら、御馳走だし、嬉しいね。海で獲れたっていう大きな魚だっていうのを一度見たね。頭とか尾はなくて、胴体の一部らしかった。それは、あっても、なくても、ここで過ごす日々は楽しいよ。月は明るいし、春になると、周りが全部、燃えるみたいに輝くんだ。赤や黄色の花を見ると、自分の中に、自分でない何かがいきなりやって来て、ずいぶん僕を驚かせるよ。あんまり驚き過ぎて、くらくらしそうになったら、目を瞑るか、遠くの景色を眺めればいいから、それで困ることはないからね。

そんな暮らしがあったかも知れない、大昔の自分が、笑ってた。当時、今の関東は、富士山の噴火で、地面は石がごろごろだらけで、地震も多くて、よく、野原にも火が点いて、燃えていた。それよりもっと西へ行くと、大きな川が何本も南へ流れて、湿原と沼地がどこまでも広がっていて、団栗や木の実か全然なくて、甘いお菓子のような草の実が、鈴なりになるけど、お腹がいっぱいになることはないからね。草の実を食べ過ぎたら、お腹が冷えて、ごろごろするだけだもの。それよりもっと向こうは、まだまだ未開の地で、動物みたいな暮らしらしいね。そんな風に思っていたかも知れない、昔の自分は、その、さらにずっとずっと先の海の向こうに、大きな陸地があって、囑とか呉とか漢とか趙とかあって、色んな戦争をしていたことは知らなかったことだろう。だから、それよりもさらに500年、昔に行くと、紀元前2世紀末。B.C.110-120年、大陸の方では、人が、町を作っていた。

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当時の最先端の人たちだ。日本という島国では、北の方から、寒さに耐えた人たちがやって来ていた。凍った海を歩いて来たのだ。小さい船、水の上に浮かぶ手段はあったけど、それは、漁をするためで、それで海をわざわざ越えていく、それは考えていなかった。来てみたら、もう海に遮られることもなく、山の間をどんどん進んで行けたんだ。そしたら、もう春で、暖かいし、魚は取り放題で、どっさり川に上がって来るし、おいしい木の芽や、蕨なんかの新しい芽が、取っても、取っても、取りきれないほど出てくるんだ。もう、こっちに住むことにして、北に帰るつもりはないよ。帰るとしても、年を取ったら、歩けるうちに、誰か用事で北に行くやつを見つけて、一緒に行く、というところかな。夏と秋はすごいらしいね。少し前に、こっちに来てるやつの話だと、もう、考えられないくらい、色んなものが、そこら中に溢れるらしいね。冬は、やっぱり、ほっとするね。もう、全部、分かっているし、何も考えなくても、必要なものは、何でも揃ってる。俺たちは、ずいぶん遠くから、歩いて来たと、年寄りが言っていたけど、きっと、ここに来るためだったんだと思うよ。いつまでも、こうしていられたらいいね。分からないけどね。俺たちの親の親たちが、結局、二手に別れたのは、ほとんどいつも氷だけの場所だった。あっちの方と、こっちの方と、分かれたのは、何か感じたからだよね。あいつらも、いい所を見つけていたらいいね。ベーリング海峡と、今、言っている辺りを進んだ人たちは、アメリカを見つけた。何でもできる、自由な時代だった。その親の親たちは、ずっと西からやって来たんだ。

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業平くんの前の500年というと、300年代末、4世紀。でも誰か、アジアの東辺縁、太平洋に向かう島国で、月と春、そして、花を見ていた人が居たでしょう。まだ、日本に国はなく、畑も田んぼもなかった。広い野原に一面のそばの花が咲き、実が付くということはあったとしても。それよりも、秋には、どこまでもドングリがいっぱいの実を付け、甘いあけびや葡萄がどこにも見つかり、栗や柿が高い木の上から人を呼んでいる。年に一度は、そんな楽しみが待っている、少しは平和な暮らしがあった。動物も、ときには獲った。男が獲って来て、女が捌いた。子供たちは、遠くから、その様子を見るだけで、近づいてはいけないのだ。そして、料理が出来てくる。特別なときか、滅多にない、そんなときは、いつもの仕事は、皆な、休んで、夜のディナーに、歌と躍りだ。鳥は捕ってはいけないし、鼠や栗鼠も獲らない。彼らは遊び友達で、いつも一緒に走り回ってるのに、獲って食べたりは出来ないよ。昆虫は、冒険心で取ったりする。でも、せいぜいが蟻ぐらいで、あいつらも友達さ。それに、いつの間にか姿を変えてやって来て、笑いながら飛んでいく、変わった

やつも、結構多い。それに、生きてる時間も短くて、去年の子はほとんどいなくて、皆な、その子どもたちなんだ。それを取って食べたりは、あんまりね、出来ないね。

魚は、食べるよ。数が多いしね。火で焼けば全部食べられて、それに、あんまり、それで怒ったりもしてないようだから。血もそんなに出ない。貝もそう。だから、魚とか貝だったら、御馳走だし、嬉しいね。海で獲れたっていう大きな魚だっていうのを一度見たね。頭とか尾はなくて、胴体の一部らしかった。それは、あっても、なくても、ここで過ごす日々は楽しいよ。月は明るいし、春になると、周りが全部、燃えるみたいに輝くんだ。赤や黄色の花を見ると、自分の中に、自分でない何かがいきなりやって来て、ずいぶん僕を驚かせるよ。あんまり驚き過ぎて、くらくらしそうになったら、目を瞑るか、遠くの景色を眺めればいいから、それで困ることはないからね。

そんな暮らしがあったかも知れない、大昔の自分が、笑ってた。当時、今の関東は、富士山の噴火で、地面は石がごろごろだらけで、地震も多くて、よく、野原にも火が点いて、燃えていた。それよりもっと西へ行くと、大きな川が何本も南へ流れて、湿原と沼地がどこまでも広がっていて、団栗や木の実か全然なくて、甘いお菓子のような草の実が、鈴なりになるけど、お腹がいっぱいになることはないからね。草の実を食べ過ぎたら、お腹が冷えて、ごろごろするだけだもの。それよりもっと向こうは、まだまだ未開の地で、動物みたいな暮らしらしい、そんな風に思っていたかも知れない、昔の自分は、その、さらにずっとずっと先の海の向こうに、大きな陸地があって、囑とか呉とか漢とか趙とかあって、色んな戦争をしていたことは知らなかったことだろう。だから、それよりもさらに500年、昔に行くと、紀元前2世紀末。B.C.110-120年、大陸の方では、人が、町を作っていた。当時の最先端の人たちだ。日本という島国では、北の方から、寒さに耐えた人たちがやって来ていた。凍った海を歩いて来たのだ。小さい船、水の上に浮かぶ手段はあったけど、

それは、漁をするためで、それで海をわざわざ越えていく、それは考えていなかった。来てみたら、もう海に遮られることもなく、山の間をどんどん進んで行けたんだ。そしたら、もう春で、暖かいし、魚は取り放題で、どっさり川に上がって来るし、おいしい木の芽や、蕨なんかの新しい芽が、取っても、取っても、取りきれないほど出てくるんだ。もう、こっちに住むことにして、北に帰るつもりはないよ。帰るとしても、年を取ったら、歩けるうちに、誰か用事で北に行くやつを見つけて、一緒に行く、というところかな。夏と秋はすごいらしいね。少し前に、こっちに来てるやつの話だと、もう、考えられないくらい、色んなものが、そこら中に溢れるらしいね。冬は、やっぱり、ほっとするね。もう、全部、分かっているし、何も考えなくても、必要なものは、何でも揃ってる。

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