更新日:

2015.1.9(金)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (6) 剥がれ落ちる宇宙

 

俺たちのもっと前、500年昔、B.C.610-620年、紀元前7世紀、きっと、エジプトのナイル川のデルタ地帯で、どこかに行こうと決めたんだ。もう、そこは、安心して住める場所ではなくなったんだ。農業を始めたんだ。決まっただけのものの他に、食べきれない程、麦が実を付けて、それでも、すぐに、それも、足りなくなって、忙しく、喧嘩もひどくなったんだ。人が増えたからね。それで、少し離れた場所へ移ることにしたんだ。それ以来、いつも、少しずつ、少しずつ、どっかに行くことが始まったんだ。残る人たちは、国を作って、どこにも行かなくても済むように、考えて、色々な決まりを作って暮らして行くことになったんだ。それから、どうやって歩いたのか分からなくなる程、いつもいつも歩いていたね。その間、いつも食べ物があったのは、ほんとに奇跡的なことだったね。神様がいるんじゃないかって思うのは、自然だね。その頃は、何にもすることはないから、ただ、毎日を楽しくしてれば、それで満足な気持ちになれたんだ。月は明るく大きくて、春も花も、自分と少しの違いもなかった。この後、今の自分みたいに、月や春、花を見ている人がいたら、それは俺だよ。どうやら俺は死んでしまうらしいけど、麦が死んで、実を付けて、それが芽を出して、伸びた若い麦がしていることは、俺なんだよ。そのときに、俺のことを思い出している、俺という別の個体について考える、ということ、はなくて、自分が、月や春や花を見ていると思うだろうけど、それって、俺なんだよ。俺が、自分の実になって、小さな、時間飛行カプセルに乗り移ったとき、今日のことはみんな忘れてしまうけど、それは、自分に突き刺さった串が取れたり、落ちたりするだけで、自分は、ただ、カプセルの中で、眠ったり、じっとしているだけなんだ。目が覚めて、カプセルを出て、周りを見たとき、何が何だか分からなくても、自分には変わりはないっていうことだね。カプセルに入ったのは自分だから、そこから出て来るのも自分で、それだけのことだけど。これから後の、1000年後か2000年後の誰かが、こんなぼくのことを考えてくれることがあるとしたら、それは、自分を思い出していることなんだ。太陽の寿命が来るまで、そんなことが続くのかな。太陽が死んだ後、どういう世界になるのか、分からないけど、そのときは、自分も死ぬのかな。殉死ですね。自分だけ生き残ろうとしたら、別の太陽を見つけるんだろうけど。今日はピラミッドはどの位になってるか見て来よう。それから、後、500年前、B.C.1110-1120年、紀元前12世紀、ぼくはどうしていたのか、思い出してみよう。

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たった3000年前、いつもの毎日が過ぎて行った。ライオンや豹のような危険な生き物も、出会わないですむようにこちらも気を付ければ、草原で穏やかに暮らして行くことができる。石で作った武器もあるから、あいつらも、この頃は用心して、無暗に襲って来たりはしないんだ。怪我をしたら大変なのは、むしろ、向こうの方だからね。骨でも折ったら、もう、待っているのは死だ。人の場合、治療とか、薬も、分かっていることかあるんだ。食べ物は、何でも食べれば、何でもあるんだ。気を付けるのは毒。でも、皆んな知ってるし、それは大丈夫だよ。まぁ、10年に一度位は、誰にでも危ないことはあるものなんだ。このまま平和に暮らして行けたらいいね。人は他の動物と違って、計画性があるから、結局、うまく行くようになってるんだ。この頃は、星を見て、計画を立てる人もいるらしいね。ぼくも、そういうことをして、誰も考え付かなかったような計画を立てるのがしてみたいんだ。数を数えるっていうことも、他の動物はしないよね。年を数えること、1年前とか、2年前とか、数えて行って、30も数えたら、誰も知らない頃の話になるんだ。500まで数えたら、どうなるんだろう。それは、B.C.1610-1620年、紀元前17世紀。月も春も花もあって、言葉だけは、まだ、なかった。音を響かせて、お互いに、伝えるのは、お互いにに分かっていることだけ。新しいことは、実際に、見てみないと、何を言っているのか分からないのは普通だよね。何か言うのは、歌うっていうことだよ。そうすると、よく分かるよ。普段は、あんまり話すことはないし、大したことは言ってないね。ただし、この頃流行っているのは、物事をきちんと言うこと、歌じゃなくて、きちんとね。何がどうしたっていうことを、文法よくね、言うんだ。年寄りは嫌がってるね、そんなことは、どうでもいいって。もっと、気持ちを伝えるようにしないと、本当には伝わっていないって言うんだ。そうだけど、今の時代は違うんだ。言葉を書いてる人までいるって言うよ。言うんじゃなく、書くんだよ。信じられる?どういう風にするのか、知りたいな。一人で旅に出られる頃になったら、川を下って、そういう人に会いに行こうと思ってるよ。書くことってどうするのか、教えてもらうつもりだよ。今日の月は青い。春になって花も咲いている。こういうことを書いておくのかな。必要はないけど、面白いかも知れないね。書いておけば、後で誰かが見るっていうこともあるね。言ったことを見るってどういうことなのかな。今、何か書いておけば、木の幹とか、石に書いておけば、いつか、それを見て、ぼくの声が、そこから聞こえるかも知れないね。500っていう数があるけど、500年後の、自分に向けて、書いておいてもいいな。とりあえず、「かず」って書いておこう。線とか引いて、自分で「かず」だと分かるように、「か」の音と「ず」の音だから、こうっと。おーい。500年後の人。「かず」って書いたよ。読んでね。意味は、「1とか2とか3のこと」。今、一番新しい、考え方だよ。「書く」っていうのはよく分かってはいないから、「読む」っていうことも、はっきりは分からないけど、「書いた」ことを、書いた人と同じように理解することだよね。「書いた」ものを見て、それが音になり、その音は言葉だから、だから理解出来るんだよね。ということは、500年後の人が、これを見て、まず、音を出さないといけないっていうことだね。いきなりでは、無理だ。この字の音を伝えないといけないんだ。子どもに教えて、子どもがその子どもに教えて、それをずっと繰り返す必要があるんだね。それで、誰かが「読んで」、分かったら、その子は、つまり、ぼくだ。今、沢山書いて、誰かが、それを、沢山読んだら、その子は、それだけ多く、ぼく自身になるんだ。ぼくは、他の人と同じで、いつか死ぬ。ぼくの「書いた」ものを「読む」人がいて、それはぼくだから、それは「復活」かな。自分はそこに生きている。そう思っているのはを、そのときのぼくで、500年前の自分を復活させた自分だ。

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そして、そう思っているのは今の自分だ。若い頃には、そうは思わなかった。500年後に、自分が、また、そこにいることは、実感がないし、いても、意味はなかった。この自分でなければ。自分がもし死んだら、この世からいなくなるのは、今日の自分でなくて、なりたかった自分、明日の自分だ。500年後の自分はいてもいい。でもそれを、今見たいのだ。目の前で。それが見られないとしたら、自分は死んだのだ。死が仮のイベントだとしても、目の前のお菓子を食べ損ねて残る後悔、自分に対する気の重さ、そんな悲しみの極限値が恐れだね。自分の未来が消えること、死んだ子の歳を数える、聞こえるのは、生まれて来なかった赤ちゃんの叫びと呼ぶ声、若い頃、死はそんな風なものだったようだ。死は、そんなに大したイベントではない。自分はいつか復活し、若い頃考えた死は未来の自分が消えること、その自分は、いつか思い出される自分ではなく、今という時間の中で思い出されている自分のことだ。自分は、思い出される現象だということで、その先はない。そして、思い出されることは、ずっと続いていくのだ。人類が滅亡して、クールな無機物やくらげが、世界を専有してしまうまで。世界がどんな風にできているのか、誰も知らなくても、ひっそりと世界は続いて、星の中で、思い出もなく、時間の中を飛び続ける。宇宙の拡がりは、おそらく有限なのだろう。無限な拡がりだとすると、宇宙ができた理由が分からなくなる。宇宙というのは、人の有限な世界観が捉えた、自分自身の想像図なのだろうと思う。無限なものを設計することはできないのだ。無限な大きさの宇宙、というのは、人に無限ということを理解する遺伝子はないので、記号でしかないのだ。無限という言葉は発明されたが、「有限でないもの」という風にしか認識できないものである。そういう訳で構想された宇宙は、有限な拡がりの外側は、有限なもので埋めるしかないのである。宇宙の外側には何もない。それは、何かが存在する余地がなく、物質が詰まっているからである。その物質を「くろかまど」とよぼう。「kurokamado」、あるいは、単に「かまど」、「kamado」、と呼ぶ。名前はもともとないのであるが、その記号は必要なのである。「かまど」は、ときどき剥がれ、それが宇宙空間に物質を供給する。剥がれた物質は、宇宙空間の中に落ちて行き、その移動する運動エネルギーに変換されて、質量を失うのである。そのために、宇宙空間は広がっているのである。では、その物質、「かまど」は、いつまで剥がれ落ち続けるかというと、終わりはないのである。また、空間は、どこまで拡がり続けるかというと、それも終わりはないのである。

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また、なぜ、そのような宇宙ができたかというと、初めから、そこにあったのでる。「かまど」が、最初に剥がれ落ちたとき、そのときの宇宙空間は、十分に小さく、剥がれ落ちた物質もわずかなものだったが、それでも、その物質は移動のための運動エネルギーに変換されて、質量が消えたので、空間は拡がった。その同じ法則が今も繰り返されていて、宇宙空間は拡がり続けている。そのような宇宙なので、宇宙空間は、最初から、無数にあると考えられるのである。また、そうすると、宇宙空間が繋がって、それまでの別々の宇宙空間が1つになったり、一応一つだった宇宙空間が別々になったりもするのである。それは泡に似ていても、1つの泡が最後まで1つであるのであれば、それは泡ではないし、それに、泡は、最後は、ばちんと弾けて消えるとか、泡で居られる周りの液体を通り抜けて、自分と似た気体の中に解消されてしまうのとくらべると、通り抜けてしまう先を持たないので、その点は、泡とは違うのである。そうした宇宙空間の中に、星があり、自分たちの、今いる、山川草木、海や大陸や島かあるのだ。紀元前17世紀、B.C.1610年の人が、こんな風に考えて、その人は、その500年後にも、同じことを考えていることだろう。

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それは、B.C.1110年、紀元前12世紀、その人はアフリカにいて、文字を書こうとしていた。サバンナの暮らしは悪くなかった。動物たちともうまく暮らしていけた。自分たちの必要以上に獲ることはないので、草食動物は、いつも沢山いたし、肉食の猛獣とも、お互いに距離を置いて付き合う分には、不都合は何もなかった。ただ、北の方、大きな川の流れて行く先の方では、食べ物がどっさり取れて、余る程あって、それで、人の数もずいぶん多くなっているらしい。それで、文字ができて、それを書いて、色んなことに使うらしい。だから、文字を書くことが知りたくて、そのためには、サバンナを出て、北に行くことを考えていた。結婚する前に、どこか新しい場所を探して、生まれた所を離れるのは、認められていることなので、自分は北の方に行ってみるよ。そう言って歩き出した男の子には自信があった。食べるものは木の実、50日分、これさえあれば、後は歩くだけ。雨が降っても、歩いて行けば、雨は上がるし、夜は、木の上に、草や小枝を強いて、気持ちよく寝れる場所を作るんだ。人にあったら、まずは、簡単な言葉で話をして、道を聞いたら、持ってるものを交換して、それで、目的の所にたどり着くまで歩き出すのさ。もしも、目的の場所が、どこまで行ってもなかったら、そこが自分の住む所になって、何でもそこで始めればいいし、それに、多分、北の町はあるし、何だか回りも、変わって来てるんだ。人がいて、獲物もいないのに、住んでいる。それと、大きな人、という種族の話をよく耳にする。ぼくの生まれたところにはなかったことが、いろいろあるんだ。目的地に近づいて、もう、自分で何か始めていいのかも知れない。もう少し歩いていって、よさそな場所で、自分の決まった寝場所を作って、落ち着こう。食べるものは、魚も獲れるし、うさぎとか、オカピなんかは、うまく殺せたら、いい御馳走で、干しておけば、1ヶ月は、たべものの心配は要らないな。塩はあちこちにあるし、変わった木の実、草の実もあるからね。牛や山羊の群れも見たから、そこで頼めば、温かい山羊の乳が飲めるかも知れない。いい人たちだったら、しばらくそこで厄介になるのもいいかも知れない。力仕事を手伝ったりはできるからね。それと、お茶なんかもあったらいいな。蜂蜜と山羊の乳を合わせて、最高の飲み物が出来るんだよね。蜂蜜の取り方はよく知ってるから、教えて上げれば、ただの居候じゃなくなるし、そして、落ち着いたら、字を書くとか、分かるかも知れない。自分でも、字を書くことを始めてるんだ。言葉は音、それが、その字を見た人に、同じ音を出せるようになっていないといけないんだよね。たとえば「お」だったら、丸い線を書いたらいいね。「お」を言うときの口の形だからね。「い」だったら、やっぱり、線を一本、真っ直ぐに引いたら、いいかな。問題は、その方向で、縦書きか横書きか、ということ。口の形を考えると、やっぱり、横に線を引くことにする。次は、「あ」だ。「あ」の文字は、口を大きく開く。だから、丸だ。でも、「お」と違う。「あ」の音は口の奥から出る。「お」は、口の表面の側が出しているけど、「あ」は、口の奥、喉や、その、もっと奥、肩の辺りから出ているようだ。だから、「あ」の音は、口の形は丸で、その上の方、真ん中より少し右にずれた位置で、丸の内側から外側へ斜めに跳ね上がる線を書く、それを、丸の、真ん中より少し左にずれた位置でも、同じように、丸の内側から外側へ斜めに跳ね上がる線を書く。

「お」と「い」と「あ」が出来た。次は「う」かな。「う」は、口は「お」のように開いているけど、少し歪んでいる。出る音を少し止めている。口の形のせいで、音の出ていく速さが抑えられるのかも知れない。だから、「う」の文字は、ひどく曲がったものが左右にあって、その曲がった部分が、ちょうど、字の形の真ん中でぶつかるような、でも少し間が開いている、そんな字だ。それから、「え」の音だ。やっぱり、口は開いていて、横に引っ張っている。横に長い丸を書いて、「お」じゃないし、横に引っ張っているのを表すために、横に伸びる線を書いておく。その線は、横に長い丸の上か下に書くけど、上かな。横に長い丸の上の方を僅かに横切る線にすると、完璧だね。でも、その加減は難しいから、横に長い丸の上の方に横に線を引く、でいいと思う。「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」、は出来た。この音は、いつまでも続けられるから、特別なんだ。例えば、「て」の音だと、「て」の音はなくなって、「え」になってしまうよね。そういうこと。

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