更新日:

2022.3.12(土)

AM11:00

 

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      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (7) 書くことが始まった    ☆⇒ 和夫くん、来たのか (8) 神様の話

 

たとえば、「⊃⊂」は「う」、「ー」は「い」、「о」は「お」、「⊆⊇」は「え」、「(∨)」は「あ」、かな。まずは並べて置こう。「⊃⊂」、「ー」、「о」、「⊆⊇」、「(∨)」。これだけだと、まだ、全然、何も分からないから、次の音を考えよう。たとえば、「ま」。「ま」には「あ」があるから、「(∨)」はつかうね。問題は、「ま」の「あ」じゃない部分を表す字だ。「ま」になる前は、口を閉じてる。しかも、柔らかく、びったり。だから、「“”」かな。「ま」は、「“”(∨)」だね。「まめ」っていうのは、「“”(∨)“”⊆⊇」だ。普通の言葉が書けるんだ。これを読みさえすれば、意味が通じるんだけど、読めるかどうか、絶対読めるとは言えないことだからね。読めるようには、その字を、作ったんだけどね。他の字もまだ作らないといけないし。でも、こうやって、何か書いておけば、後で、誰かが読むっていうこともある。そして、読んで、思い出すっていうことがあるよね。たとえば、豆が生えてるところに、「“”(∨)“”⊆⊇」の字を書いておいたら、もしかしたら、後で、それを読んで、そこに「まめ」が生えてたことがつたえられるかも知れない。

それに、ぼくが死んでその後に、ぼくがまた生まれてきて、昔の自分のことが、何にも分からないよりは、もしかしたら、自分の書いたものを見て、自分のことを思い出すかも知れない。そうしたら、自分のことが、もっとはっきり分かるんじゃないかな。自分が昔、この辺りで、豆の花を見て、それから、豆を食べて、美味しかったことを思い出すんだよね。そのためには、「まめ」だけじゃなくて、もっと、どうしたとか、こうしたとかいうことを表す字が要るね。もう一回自分が生まれて来るとき、それは、そんなにすぐじゃなくてもいい。色んな、今と、違うものも見たいから、冬になって、春が来るのを、何回も何回も繰り返して、ずっと生きてたら、500歳ぐらいになる頃でもいい。あの大きな流れ星を7回も見た後ぐらいでもいい。普通なら忘れてしまっていることを、自分の書いたもので思い出すんだ。もう他にも字を書く人がいて、その人に字を教えてもらうまで、自分の字を沢山作って置きたいな。もし、何にも分からなかった場合でも、未来の自分に伝えられることがあるかも知れないらね。「“”(∨)“”⊆⊇」まめ、「“”⊃⊂“”ー」むみ、「“”о」も。じゃ、「た」は、「あ」があるね。「あ」の前にあるのは、もう口は息をするために開いていて、舌先は上の歯の歯茎を上に少し擦ること。舌は「τ」で、「上の歯の歯茎を擦る」は、とても、何かで表せそうにないから、とりあえず、「ヾ」かな。そうすると、「た」は「τヾ(∨)」だ。「τヾо」は「と」。「τヾ⊆⊇」は「て」です。ところが、「τヾー」は「ティ」で、「τヾ⊃⊂」は「トゥ」になります。「ち」と「つ」の音は別の音ですね。「ち」は、「い」があって、「い」の前に、もう、口は息をするために開いていて、舌先は下の歯の歯茎を上に少し擦ること。舌は「τ」で、「下の歯の歯茎を擦る」は、とても、何かで表せそうにないから、とりあえず、「ゝ」かな。だから、「ち」は「τゝー」。「つ」は、口は息をするために開いていて、舌先は上の歯の歯茎の根元を押さえ続ける。そして、「つ」の音を出した後、音は消えて、息は流れる。「…」だね。舌は「τ」。「押さえる」は「〓」かな。「τ〓…」が「つ」だね。

「τヾー」は「ティ」で「τゝー」は「ち」、「τヾ⊃⊂」は「トゥ」で「τ〓…」が「つ」。これは、そのままでは分からない。何かが足りない。

でも、最初は、これで始めるしかないのかな。とにかく、500年後のぼくに思い出してもらうには、何か書くんだ。「これから書くことは、500年前の自分を思い出してもらうために書きます。今日は、まめの沢山生えているところで、まめの花を見ました。そして、言葉の字を作りました。」書けるかどうかやってみよう。「これから書くことは、500年前の自分を思い出してもらうために書きます。今日は、「“”(∨)“”⊆⊇」まめの沢山生えているところで、「“”(∨)“”⊆⊇」まめの花を見ました。そして、言葉の字を作りました。」

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そして、この後、B.C.610年、紀元前7世紀、ぼくは、変わった石の板を見つけたんだ。それは、家を作ったり、修理するためのがらくたや、大きくて、重いものを置いてある所に、何でもないもののように置いてあったんだ。何かを探していて、聞いてたら、「あの辺りに、いろんな物が転がったまんまになってるから」って言われて、見たら、それは、物置き場の隅っこで、木の棒や枝や、粘土板が、割れて、崩れて、何枚も重なってあった中に、黒くて、薄い、木の板見たいに顔を出していたんだ。顔っていうのは、ほんとうに、その黒い石に、何か書いてあるのが、人の顔で目のようにも見えたんだ。それに、今年から行っている学校で、字を習ってるんだけど、それに似たような感じで、線とか、複雑に引かれていて、気になったんだ。誰かが書いて、読めば、分かることなんだ。読んでみたいな。その言葉が今と同じなら、そうでなくても、似たようなところがあればうれしいな。もし、違った言葉だったら、他の色んな言葉で試してみて、似ている言葉を探すんだ。それには、長い時間が掛かると思うけど、楽しいかも知れないね。まずは、ずっと、その字の模様を眺めていれば、何か分かるかも知れないね。特に、「“”(∨)“”⊆⊇」は面白いな。何か言ってることまでは分かるけど。これを読むとすると、「あ」と「え」があるね。「“”」が何かっていうことだけど、何かちょっとしたものを二つ、合わせて、それから「あ」、それから「え」って言うんだ。合わせて、「あ」、合わせて「え」、...、合わせて、「あ」、合わせて「え」、...、...、「ま」「め」、「まめ」、きっとね。「“”(∨)“”⊆⊇」まめ、そう書いたのかな。その他にもいろいろ書いているけど、「まめ」を見てるんだ。今、豆の花が咲いている。沢山あるんだ、この辺にも。この変な字を書いた人は、やっぱり、この辺で、豆の花を見てたのかな。他の字はどうか分からないけど、この字は、ずいぶん楽に読めた。この字を書いたのは、もしかして、ぼく?!。学校で、先生が言ってた。人は死んだら、長い時間を掛けて、また生まれるって。ぼくが、これを書いたとしたら、今、普通に読めて、意味が分かる、ように思う、のは、当たり前だよね。もしも、だけどね。でも、そうだったら、面白いよね。今の自分が、だから、どうって、変わる訳じゃないんだけど。豆の花を見て、この人は、その豆を食べてるっていうことも書いてるな。それから、豆の花が、沢山、辺りに咲いているっていうこと、それと、今、「まめ」っていう字を書いてるよっていうことも。そして、後で生まれて来る自分自身が、それを読むだろうなっていうことも分かってるんだ。そして、そうなったら、そのときは、また、何か、自分のことを、その時の未来の自分に伝えようと思うだろうなっていうこともね。そうか、ぼくはそんなことをしてたんだ。すくなくとも、今のぼくみたいに、いっぱい咲いている豆の花を見ていたんだ。この人が、他に、どんなことをしていたか、この人の書いたものをみると分かるね。あの変な文字が読めたら、少し、その辺りが分かるんだ。そしたら、ぼくも、それと同なじということはないけど、似たようなことでやって行けるんじゃないかはと思うよ。そして、たぶん、500年後位の人に、それはきっと、そのとき生まれた自分だけど、こうだったって、いろいろ話ができることになるんだ。この変な字を書いた人は何を書いてるのかな。読みたいな。ぼくも、自分のことを書いて置こう。字はもう知ってるよ。学校で習ったからね。まず、今日のことから書いて置こう。それから、自分の知っている昔のこと。小さい頃のことだね。そして、これから大きくなって、死ぬまでのこと。何のために書くかっていうと、自分を思い出すため。それを読む500年後の人が、それは自分なんだけど、自分のことを思い出すためなんだ。ぼくは、ずっと昔、「まめ」を見ていた。豆の花がきれいで、その豆を食べたりして、それで、字を思い付いたんだ。

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その頃のことを書いていたから、「“”(∨)“”⊆⊇」ってね。今日は、お昼には、豆を魚のスープで煮たのがおかずで出るんじゃないかな。それから、午後は、王様がこの辺りを通るんだ。新しいお墓を造る場所を決めるんだって。お墓といっても、大きな山を造るんだって。そこで、空の上の神様に、お願い事をしたりするんだ。それができるのは王様だけだからね。王様とか神様っていうのは、昔はなくて、新しい考え方だから、よく勉強しないと、分からないらしいね。それは、これから、学校で習うことになってるんだ。そうして、世の中の役に立つ人になると、何でも自分の思う通りにできるんだ。王様や神様みたいにね。あの、変な字で書いた中に、そんなことも書いてあるのかな。うちのお父さんは、少しは昔のことも知ってる訳だから、どう思ってるかは聞いてみたいね。うちの家族はずっとここに住んでるけど、でも、昔の昔はもっと南の乾いた草原で暮らしてたんだって。そういう、言い伝えがあるんだって。だから、今じゃなくても、いつかまた、どこか他の所に行くことがあるかも知れないっていうことなんだ。どこか、違う所に行っても、何か、今のことを思い出すために、今、こうやっていることを書いて置くっていいかも知れないね。たとえ読めなくても。いつか、色々調べて、読めるようになるから。それは、もしかしたら、遠い昔の自分が書いたもので、思い出すのが出来ないでいるだけなんだ。500年経ったとき、今日のことを思い出す人が、それは、つまり、ぼくなんだけど、いるんだからね。もし、何もなかったら、思い出すのは、非常に難しくなるけど、それはつまり、自分で自分のことを、どこまでも考えて、もしかしたら、さまようっていうことだから、何かあればね、特に、書いたものだったら、自分がそこにいたことがよく分かるから、そこから、次に進むことができるんだ。山登りのベースキャンプだね。その山の頂きは全然みえなくてもね。昔に戻るのは、高い山に登るというより、深い海に潜るっていうことかも知れないけどね。思い出して行って、最後の思い出は何なんだろう。小さな卵でいたときの自分の中でバチパチ弾ける細かい粒と泡、自分の中をぐるぐる廻る水の流れ、それが自分だったのだ。その前は、もう、ない。それが海の底。それから、もう、今になり、海の中を、ぶくぶく、しゅわしゅわしながら、海の上に浮かびがろうとしているのだ。もしかしたら、今が海の上。それも、いつか、波の下になり、僕たちの後から生まれる人たちは、海に潜って、僕たちの気泡を見つけ、思い出す何かがそこにあるのに気がつくのだ。ずっと後の人たちが、何かを思い出そうとして、ぼくの気泡を見つけたとき、バチパチ弾ける細かい粒と泡、それに、よく見ると、ぐるぐる廻る水の流れがあちこちに見えたりするようだったらいいなって思ったんだ。何だか今日は色々考えたような気がする。あの変な字を書いた「まめ」くんのことを考えたのかな。「“”(∨)“”⊆⊇」っていう字は面白いね。この人の字をよく調べたら、自分でも、この字で色んなことを書けるようになるかも知れない。それで、500年後の自分に話し掛けることができるんだ。「まめ」くんのように。ぼくが今住んでいる所は、普通に背の高い木が何本も生えていて、花の咲く背の低い木や、毎年、芽を出してビンクや青い花を付ける草も沢山生えてるし、好きな花は、わざわざ植えたりもしてるんだ。近くには大きな川が北に流れていて、特に、夏なんかは、色んな草が、人よりも背が高くなって、辺り一面ジャングルみたいになって、秘密のトンネルや秘密基地を作ったりして、いい遊び場になっている。ただし、あんまり川に近づき過ぎると溺れたり、流されたりするので、一人では川に行かないように、ずいぶん注意されてもいるんだ。川原の小石を川の方に思いっきり投げても、川の向こう岸への半分までも行かないとか、出来るだけ平たい小石で、川の遠い水面を狙って投げると、小石が何べんも跳ねて遠くまで飛んで行く、そんなことができる川なんだ。川岸近くの弛いながれや、水の動かない所の大きめの石、手で持ち運べる位の、をひっくり返すと、隠れていた小さな魚が逃げる。

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それから、小指位の大きさのぴょんぴょん跳ぶ、こおろぎみたいな、茶色っぽい虫がいる。それはあんまり、きれいじゃなくて、触りたくない虫だけどね。川の水が溢れるときは、いつもの川じゃなくなって、家のすぐ近くまで、水でびちゃびちゃしてしまうんだ。夜になっても水の引かないとき、すぐ傍に川がいるっていうのは、大変なことです。次の日には、もう、水は引いてしまうんですけど。それから、戦争のことも書いて置くといいかな。空に大きな星が急にできたり、みたいなことで、めったにないことを書いておくと、後で、読んだ人が、もしもそんなことがあったときに、役に立つかも知れないよね。その戦争は、去年、南の方の国であったんだ。こっちからは、200人もの人があるいたり、駱駝に乗って、出掛けて行ったよ。半年位して帰ってきたんだ。勝ったので、半分位の人はそのまま、そこで暮らすことになったんだ。だから、戻って来たのは、やっぱり半分位で、みんな、この辺りで、王様から、畑を貰ったりして暮らしてるよ。戦争では、人を殺してるっていうけど、どういうことなのか、はっきりは分からないんだ。その内、分かるんだろうけどね。今は、朝は、明るくなったら、目が覚めて、起きて、川に水汲みに行くんだ。皮の袋に水を汲んで、家の中に運んで置くんだ。夜は、暗くなったら、火を焚いて、それが消えたら、眠るんだ。毎日、そうだよ。昔は、住む場所を、毎年、2〜3回、多い時は、4〜5回も変えたので、大変だったらしい。今は、そんなことはないから、ずいぶん楽なんだ。こんなことでも、書いて置いたら、後で読んだ時に、色んなことを思い出すよね。500年後のぼくはどんな風になってるのか、楽しみだね。こうやって、自分のことを書いてあると、何だか落ち着くね。思い出すことがあるっていうことが、自分っていうことで、自分というのは、思い出されているある物なんだ。そうすると、思い出のない人、思い出せない人、の自分は、無いことになる。人ではなくて、犬、猫、馬などの動物、魚や、虫、くらげ、珊瑚、ミドリ虫やゾウリ虫、それに、松の木やなんかの植物、苔類、などでも、その思い出す程度によって、それぞれの自分を考えることができる。石にだって自分がある。思い出すということがどんなことなのか、それによって、言えることがあるのだ。そんなことも、500年後のぼくと話がしたいんだ。

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500年は、とっても長くて、いつになるのか想像もできないけど、いつかっていうことで、期待していいんじゃないかな。ぼくのことを思い出している500年後のぼく。たぶん、色んなことから、昔のことを思い出すんだろうけど、もし、ぼくの書いたものを読む機会があったら、はっきり分かることが沢山あるよ。でも、ぼくのことは知らない。きみのずっと古い思い出の中の自分のように。今、B.C.620年、紀元前7世紀。ぼくたちが作っているのは大きな砂山。でも、近くに来ると分かる。石をいくつも並べて、積み上げているんだ。昔から、いくつか、同じような作り方で作った砂山があるけど、今度のは特別なんだ。一番下の段は正確な正方形で、4辺の長さはまったく同じで、辺と辺の作る角度は90度。それに、四隅は東西南北を正しく向いている。砂山の頂上までの、地面からの高さは、一番下の段の一辺の長さと同じなんだ。頂上は、積み上げられてきた最後の四枚の石で囲まれた場所になっていて、そこから、星や太陽の位置を測る分度器が置いてあるんだ。昔から分かっていたことだけど、こんなに大きく作るのは、今までになかったんだ。ルクソール村の方で去年出来たのより大きいし、形がきれいなんだよね。この町には、昔の書いたものを集めてある場所があって、色んなものが見られるんだ。書いてある通りに作るだけなんだ。昔と違う点は、土の湿り気とか、雨の日で、何にもできない日が少し少なくなったことぐらいなんだって。興味があれば、いつでも行って、何でも見られるんだ。読み方は学校で聞けば教えてくれるんだ。本当にそこはがらくたの山で、運よく読めるものが見つかったら、面白いことが分かるかも知れないんだ。今作ってる大きな砂山も、このがらくたの中から見つけた設計図で作ってるんだ。まだ読み方の分からない、書いたものがずいぶんあるから、そういうのを何か読んでみたいな。今、研究されている石文字に、「“”(∨)“”⊆⊇」っていうのがあって、それは、日記じゃないかって言われてるんだ。「豆の花がいっぱい咲いている」とかいうように読めるらしい。「“”(∨)“”⊆⊇」は「まめ」だって。昔の人の生活が書いてあるんだね。でも、相当古くて、今作ってる砂の山の最初一段目の地面をあちこち掘り回していてみつかったものなんだ。レンガ造りの人が参考にするということで、ときどき、それを読む研究をしてるんだって。この前、見せてもらったよ。まだ、部分的にしか読めてないんだけど、「今日は、まめの沢山生えているところで、まめの花を見ました。そして、言葉の字を作りました。」ってあるらしい。すごいね。字が出来るところなんだ。しかも、その人は、何でもない豆の花を見てるんだ。この人は分かりやすいね。まるで自分自身みたいにね。それから、その字の書いてある石の近くから見つかったのには、「最後の思い出は何なんだろう。小さな卵でいたときの自分の中でバチパチ弾ける細かい粒と泡、自分の中をぐるぐる廻る水の流れ、それが自分だったのだ。その前は、もう、ない。」って読めるものが書いてあるんだって。これは難しいけど、何となく分かるよね。しかも、その言いたいことって、他の言い方はなくて、そうとしか言えないし、だからどうだっていうことも、取り敢えずないから、本当に、そう考えたっていうことたけなんだ。でも、それは、それを読んで、分かった、自分のことなんだ。ずっと昔に、それを書いたのは自分なんだ。だから今どうだっていうことはないけれど。今あることを、思い出してもらうために、ぼくも何か書くことを始めるよ。それを読む人、それはきっとぼく自身で、自分のことを思い出そうとしてるんだ。

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