更新日:

2022.3.12(土)

AM11:00

 

●●●●●

      和夫くん、来たのか  ーーー  著者 BTE

   著者略歴                                                                                   

 和夫くん、来たのか (8) 神様の話    ☆⇒ 和夫くん、来たのか (9) アジアの東

 

今、ぼく達が、一番興味を持っているのは、星の数と死後の世界なんだ。星の数を数えている人が村に一人はいて、町だと、何人もいて、その集まりがあるぐらいで、議論が熱くなるんだって。一年の間に、幾つまで星が見えたかっていうので競いあってるんだ。一年経つと、見えるのは同じ星だから、それ以上多くは見られないんだ。1日とか、今、目の前に、とかの競い会う種目もあるんだ。1年での記録は、3万五千二百と31、です。ただし、星の数え方は、100個の星の集まりを「1」と数える決まりだから、数えた人はすごいよ。数え疲れて、体を壊すのは当たり前で、目がクルクルしたり、耳鳴りがしたりとか、首の骨折もあるんだって。若い人には薦められないっていうことになったんだけど、本当に強いのは、若い人なので、その兼ね合いが難しいんだ。この頃は、星の数ではなくて、その意味について、研究するのが大事になって来てます。というのも、明るい時間にも、星が見えるという人たちが出てきたり、突然現れる星があって、それも、いつのまにか、なくなったりとか、新しい問題が出てきて困ったことになってるんだ。それから、死後の世界のこと。そこから、もう一度、この世に戻って来るための、もっともよい方法について、分かってきたんだ。それは、王様っていう人は実際に使っていて、それで王様でいられるんだ。どういうことなのか、全然分からないけどね。今日は、何時ものように晴れていて、麦の畑は、青い葉っぱが伸びてきて、気持ちのいい風が吹いているんだ。こんなことを、500年後のぼくは、うまく思い出してくれるかな。昔、大きな砂の山を作った人が見ていた緑の畑と風を、思い出して、それがぼくなんだということを、分かってくれたらいいね。そしたら、そのとき、ぼくは、少なくとも500歳、ほんとは、世の中のことは何でも分かっているはずなんだ。今のぼくも、500年前の自分のことを思い出しているはずなんだ。あの、まめ「“”(∨)“”⊆⊇」の人が自分だっていうことは、読んですぐ分かったよ。他の人に説明はできないけどね。これから、毎日、ちょっとしたことを書いておいて、500年後の自分に教えてあげるんだ。きっと、びっくりするね。前よりも、もっと詳しくね。B.C.110年、ぼくは、シナイ半島を越えたパレスチナにいた。砂漠の中の少しの草地に、親がエジプトから来て、移り住んだのは、ぼくが生まれる前のことだった。作物の不作、飢饉と戦争で、暮らしが成り立たなくなった部族は、ただし、歩いて出ていくしかなかった。ただ、昔から、旅をしたりとか、移り住むために、この辺を通って、何人もの人や家族が、見知らぬ土地を進んで行った。悪い話ばかりでないことは、ときどき、羊の群れを引き連れた、見知らぬ顔をした一団がやって来て、逆に、エジプトの方へ渡って行くので、想像できた。確かに、北の方に行くと、広い草原がどこまでも続き、遠くには、山も見えている。羊を連れて、あっちの方で暮らして行くのは不可能ではないようだ。見たこともない怪物とか、恐ろしい国とかがあって、何が起こるか分からないから、普通はこの近くで、住めるだけ住めば、それでいいのだけれど。今、毎日は、羊を世話することで過ぎて行く。戦争もあるんだ。いきなり、若い男が集められ、遠くに行かされるんだ。馬や戦車に乗れたらいいけど、歩兵だと、逃げ遅れたら、下手すると殺されるか、敵の国の奴隷になって、すべてが無意味な、死ぬまで働かされる一生になるんだ。それよりは、自分で自由に暮らせる場所に、出て行きたいな。水があって、草や木が生えてるところなら、何とかやって行けるはずだよ。海のある西の方へ行くか、まっすぐ北へ行くかだね。学校にも、今は行ってるから、字の書き方をもっと覚えて、王様の宮殿に入るっていう可能性もあるから、考えるんだよね。自分はどっちの方がうまく行くのか。未来のことは分からないけど、運命ってあるんだろうか。自分のずっと昔の親たちがして来たことで、何か未来のこともきまってることがあるんだろうか。思い出してみると、小さい頃、周りには昔のものがいっぱいあった。石ころみたいなものが、どっさり積まれているのは、昔の先祖が使っていた武器だって言われてる。それには魔法が掛けられていて、狙った獲物は必ず倒したとか、そんなことらしい。もちろん今は、どう見ても、ただの石ころで、狙って投げても、いつも当てられる訳じゃない。だから、今は、ただそこにあるだけなんだ。

/**/

でも、探してみると、何か、石の表を引っ掻いたような模様のある石があって、それが魔法の趾かなと思うと、それを書いたのは、どんな人だったのか、それを考えるのは、自分の思い出を探すのと同じことかも知れない。学校で習っているのは、ぼく達の親は、エジプトからやって来て、その親は、もっと南の草原と森の中からやって来た、ということだ。それから、色々な文字のかけらを見せてくれた。そして、人の歴史の記録が少しずつ、始まり、残されているんだ。今、ぼく達が学んでいるのはローマについて。何十年か前、エジプトはローマと戦って負けた。勝ったつもりでいたかも知れない。クレオパトラという女王がローマに行き、ローマがエジプトのものであることをそこの人たちに宣言した。カエサルという者を代理の主権者として、戦車に並んで立ち、ローマの町を通った。それだけで、クレオパトラもカエサルも、殺されて、王と呼ばれる人はいなくなり、普通の人の争う時代になった。誰でもいいのだ。だから、この頃は、神様が、世界を支配するのだ。ぼくは、大きくなったら、貿易の仕事で、やって行こうと思ってるんだ。山とか海があって、ほんとに遠くに行くのは、一生に、二回か三回にして、この町で、暮らして行ければ、それでいいんだ。問題は戦争だね。あっちから攻めて来たり、こっちから行ったり、多いんだよね。それに、いきなり兵隊にされてしまうんだ。自分の好きなことは、年寄りになるまで出来ないし、それまで生きていられるかが大変なんだ。病気もあるしね。大体、40年は生きられないね。確かに、することが、もう、無くなって、戦争が最後の楽しみっていう側面もあるんだよね。男にはね。女は、違うけどね。死んだら、魂は鳥になる。今はそれを信じてるね。悪い人間の場合、蛇とかもぐらとか、そんなものになるんだ。とても幸せには思えないけど、そうなったら、しょうがないよね。でも、見てると、動物は、鳥でも、何でも、何も考えているようには思えないね。死んだらどうなるとか、そういうことはないみたいだね。神様がこの世界を作って、永久に続くんだ。神様は、ぼく達のことを知っていて、いい事をすると、ご褒美に、食べ物とかお家とか、羊や山羊をくれるんだ。悪い事をすると、食べ物はなくなり、お家も、家族も、壊れたり、不幸になるんだ。

/**/

んーっ、これは結果論だね。幸福も不幸も、そういう自分に対する世界判断の1つの切れっ端だから、その事をあまり大袈裟に考える必要はないね。重要なのは、神様という世界観そのものの方なんだね。大体は、動物を神様にする場合が多いけど、大風とか、大波とか、地震もそうだけど、そういう、人の逆らえない力の原因を神様として想定するんだよね。普通のこと、木や草が伸びたり、山や川があったり、昼と夜、沢山のものが集まったり、非常に古いものだったり、それも、神様の資格はあるね。人のできないことを、できると想像して、その原因を神様とする場合もあるね。例えば、星を作るとかね。それと、人は何をして暮らしたらいいのか、というのは、別のことだね。神様は、それぞれ、自分に合った、考え方、行動を持っているんだね。だから、神様だって言うとき、その考え方や、行動から、それがどんな神様なのか分かるんだよね。例えば、毎日、決まった時間に何かする神様は、風や波の神様ではなく、星を作ったりもせず、昼と夜の神様だっていうこと。昼と夜の神様だからどうだということはないのだけれど。人はどう生きるべきかというと、決まった言い方、言葉、で表現することは、人自身が見つけなければいけないことで、神様が口を挟むことではないんだね。例えば、牛の神様は、「いつでも角を磨いて大事にしなさい、他の動物を殺してはならない」って教えるね。大風の神様だったら、「いつでも全力を尽くしなさい、身の回りの整理整頓を心掛けなさい」だね。人は、自分のことを、もっとよく分からないといけないんだ。

/**/

そして、自分に合った神様の教えを見つけること。そうすれば、その神様を信じていいんだ。だけど、それで、美味しい食べ物をいっばい食べたり、自分の望みが全部叶ったり、そうなることはないんだ。たぶん、ときどきは、美味しいものを食べたり、望みが叶ったり、があるとは思うけどね。それと、人が死んだ後、その人はどこに行くのか。人は、その初めは、どんな風だったのか、誰かが作ったのか、どこから来たのか。ちょっと興味があるね。たぶん、分かることはないんだろうけど。でも、学校で習ったのは、人は、男は泥から出来て、女は男の一部分を取って作られた、っていうことや、自分をよく振り返ってみると、心と体があって、体は砂埃で出来ていて、心は感覚、見えるとか、聞こえるとか、の思い出だ、とかだ。それが書かれた石の板があって、それを読むと分かるんだって。今は、紙もあって、その説明の続きを、神殿の人が書いているんだ。本当の神様は一人だけらしいけど、あまり害のない神様はいてもいいことになってるんだ。ぼくは死んだら鳥になる。今は、そう思ってはいないけど、完全に否定するわけでもないんだ。鳥だって、自由でもなく、寿命も長くはない。毎日の食べ物探しに忙しくて、それでも、おしゃべりや、天気のいい日を楽しむところが偉いよね。死んだ後、また生まれる、という説もあるね。どういうことかは分からないけど、家にある、大昔の石の板に文字が書いてあるやつは、確かに、何か、ドキッとするものがあるね。極端に言うと、もしかして、これを書いたのは、オレ!?っていう感じかな。どうしてかって言うと、その文字は、読むと、「マメの夢を見た」っていう内容なんだけど、その「マメ」っていう文字は、「“”(∨)“”⊆⊇」なんだけど、自分の記憶のどこかにあるように思うんだ。500年前か、その500年前か、そのもっと前の、ぼくは、今のぼくとおなじように、マメの花が辺り一面に咲くのを見て、日向ぼっこをしてるんだ。不安もなく、それでいいんだってぼくに話し掛けてるんだ。そうやって、もしかしたら、3000年を、ぼくは生きてきて、今の世の中の、どんな年寄りより、ぼくは年寄りで、そんなことを考えもしない年寄りより、色んなことを知ってるんだ、ほんとはね。それで、自分のことを思い出してみると、小さい頃ぼくは、白い山羊の頭を撫でた。それっきりで、山羊はいなくなったけど。初めて、他の子供たちの屯する通りに出るとき、ぼくは、少し、通りを覗いて、すぐに、自分の家の垣根の中に引っ込んだ。そういうこともあるのだ。ずっと長い年月が過ぎて、そんな自分を、もう一度、自分で見つけるとき、きっと、とっても安心するよね。ぼくが「“”(∨)“”⊆⊇」の言葉を見つけたときみたいに。500年後のほくは、今と全然違った場所に居るとしても、昔の自分と出会ったら、それが自分だと分かるように、今の自分のことを書いて置くんだ。

/**/

  
 

お問い合わせは、下記「メール」ボタンからお願い致します。                              

            

 Webサポートのご案内

 ⇒こちらをご覧ください

            

                  engined by アートコンピュータシステムズ株式会社(東京都中央区銀座 hpmaster@urtcse.com)