寶永七年(1710年)三月五日初めて参会のこと
浮世から何里あらうか山桜 古丸
(*浮世から何里も離れたところの山桜です。 俳号 古丸 山本常朝)
白雲や只今花に尋ね合ひ 期酔
(*雲の中を通り抜けて、今、目の前に、桜が咲いているのです。 俳号 期粋 田代陣基)
夜陰の閑談
ご家来としては、国学の心掛けがなければなりません。この頃は、国学ということが忘れられています。それは、御家の根本を落ち着かせ、ご先祖様方のご苦労やご慈愛ある事績を知り、長く御家を保つ指針とするためです。剛忠様の御仁心と御武勇があり、利叟様の御善根と御信心があればこそ、隆信様、日峯様も出て来られ、その御威力で、御家も長く続き、今日までの、並ぶものもない御家となったのです。今どきの人々は、こうした、本来の謂われを忘れてしまい、他所のご本尊を尊ぶばかりで、自分としては、まったく、腑に落ちないことです。釈迦も、孔子も、楠正成や、武田信玄と言っても、結局は、竜造寺や鍋島で役を勤められたことはない訳ですから、当家の家風には、とても、合い適わないものなのです。平時においても、戦時においても、ご先祖様を敬い、大切にして、その教えを学ぶことで、上下の人、共に、それぞれの身の上が成り立つことになるのです。
それぞれの取る道の上で言えば、その家々のご本尊を尊ぶということなのです。役職にあっては、余計な学問はいらない事なのです。国学をよく学んで、心に入れた上でならば、他の道の事も、愉しみとして、聞いておいてもいいかも知れません。よくよく、考えてみれば、国学があれば、不足は何もないのです。
他所の人から、竜造寺や鍋島のそもそもの謂われ、竜造寺の領地が鍋島の領地になった謂われ、また、「竜造寺、鍋島は九州での武功第一と聞いていますが、その武功とはどんなものだったでしょうか」などと尋ねられたとき、国学を知らない人では、一言も答えられないはずです。
ですから、何方であっても、その家の職務に励むこと、それだけの事なのです。よくあるのは、自分の家の職分を好まず、よその職を面白がり、そっちを取り掛かり、間違いをして、散々なことになってしまうことです。家の職分を勤める上でのよい手本は、日峯様、泰盛院様です。その時代の役職に居た人たちは、皆、その家の職を勤め上げていたのです。上の方からは、役に立つ者を探され、下からは、役に立とうとして、上下の志が通じ合い、御家が、黒々と強く、逞しく、成り立っていたのです。日峯様のご苦労は、どのように言っていいのか分からない位のものです。血みどろになり、ご切腹の覚悟を決められたことも、何回もあったのですが、御運強く、御家は、持ち留められたのです。
泰盛院様も、ご切腹を覚悟されたこともあり、初めて国主となられ、弓箭、武道の働き、ご家中の支配、領国のご政道、方々の要害を固め、その他、雑務の仕組みまで、ご自身で苦労され、、仏神にも祈り、さらに、『日峯様がお育てなされた御家を疎かに思うことがあってはならない。世の中が平和になって、次第に華美に走る世の中となり、弓箭、武道のことも疎かになり、奢りの心が出来、よからぬことをし遂せ、上下共に困窮し、内外では恥を掻き、家を掘り崩すようなことになってしまう。家中では、老人は死に、若い者たちは今の時代の風を習うばかりだ。せめては、末の世までも残るように、書きものにして、家の跡継ぎに渡して置けば、それを見て、気が付き、知ることにもなる。』と仰せられ、一生を、反故、文書の中に暮らされて、作り上げ、書き上げられました。
秘事ということは存じ上げませんが、古老が語り伝えて来ていることでは、カチクチという軍法があり、そっれは、代々の代替わりの時に、直接顔を見て、口伝して伝える、ということです。また、御譲りされる懸硯箪笥には、視聴覚知抄、先考三代記、という書物が納められ、ご家督お譲りのときに、直に手渡しされるということです。さらには、御家中の全ての事の決められた内容、領国内のあらゆる所までもの決め事、公儀、中央との雑務も含めた一切について、鳥の子帳書付に書き付けて、諸役の服務、業務の明細は、御手頭に至るまでの分も明細に書き付けられているのです。そのご苦労というのは、考えられないほどのものだったと思います。その御かげ、御働きにより、御家が長く続いて来られたことは、ほんとうに祝賀すべきことです。
ですから、畏れ多いことですが、お上(我らが殿)に於かれましても、日峯様、泰盛院のご苦労をよくよく思い起こされて、せめては、お譲りの御書物だけでも、御熟覧頂いて、落ち着いたなされ方をして頂くようにお願い致したいものです。お生まれになってからは、若殿、若殿と持ち上げられるばかりで、ご苦労とてもなく、国学もご存じなく、我儘放題のことで、御家の職分について、きちんとしなくなったために、近年は、旧例によらない新しい仕方も多くなり、手薄いやりようになってしまっています。そんな中で、小利口な者たちが、意味も分からず、知恵自慢ばかりで、新式の方法を作り出し、殿の気に入られようとするばかりで、仕事の上では、すっかり全て、間違った事ばかりを仕出かしているのです。
例えば、御三人の不熟、着座身分を作ったこと、他所者を召し抱えること、手明槍物頭組替、屋敷替、御親類並家老を作ったこと、御ひがし解き除け、御控帳仕替、独礼身分を作ったこと、西屋敷取立、足軽組まぜちらかし、御道具仕舞物のこと、西御屋敷解き崩しなど、以上すべて、当代の初めに、何か新しい事として工みだした、し損ないのものなのです。
しかしながら、御先祖様の決め置かれたことがしっかりしていたために、大本は動かずに来れたのです。覚束ない結果になったときでも、日峯様、泰盛院様の教えられたことを、上下とも守るときは、人々も落ち着き、しっかりと、もの静かに収まることが出来て来たのです。
また、代々の殿様に悪人はなく、知恵の鈍い者もなく、日本の大名の中で、2番、3番以下に下がることはなくて、不思議な御家であり、それも、ご先祖様のご信心によるご加護があったためなのでしょう。また、当国の者を他所に出すことはなく、他所の者を召し抱えもされず、浪人を申し付けても、お国の中に留まらせ、切腹を命じた者の子孫も、お国の中に留まらせなど、主従の繋がりの深い御家なのです。そこに生まれ来たことは、殿にお仕えする者だけでなく、百姓や町人、ご譜代の方々も、代々長きに渡る恩を頂き、申し上げる言葉もない程です。
そうしたことをよく思い起こして、ご恩返しの気持ちで何とかお役に立とうとの覚悟を持ち、親しくお使い頂くときには、ますます私心なく奉公して、浪人切腹を言い渡されても、それも御奉公と思い、山の奥、土の下にいても、いつでもどこでも、御家を案じ申し上げる心を絶やさないこと、それこそ、鍋島の侍の覚悟の初めであり、自分たちの本分、骨髄、というものです。
今の、この自分には似合わない言い方かも知れないけれど、成仏などということは、一度も、望んでもいません。七生までも鍋島の侍に生まれて、国を治めて行く覚悟で、心の底まで、その思いでいるだけの事です。気力とか、器量とかも、要らないことです。一言で言えば、御家を一人背負い切る志で居られるようにと思うだけなのです。同じ人間であれば、誰にひけを取るなどありません。そもそもが、修業は大高慢でするのなければ、役に立たないのです。自分一人で御家を動かすものとして取り掛かるのでなければ、修業は物にはならないのです。一方では、薬缶道心と言って、熱しても冷め易いということも有ります。それには、冷めない方法があるのです。自分のやり方としては、次の誓願をもってやっています。
一つ、武士道において、遅れをとらないこと
一つ、主君の御用に立つこと
一つ、親に孝行すること
一つ、大慈悲をもって、人のために働くこと
この4つの誓願を、毎朝、仏神に願い掛けていれば、二人力となり、後退する事などないはずです。尺取虫のように、少しづつでも、にじり寄り、進むものです。仏神も、まず、誓願を、初めに起こし立てているものなのです。
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