更新日:

2021.8.5(木)

AM11:00

 

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       日本の文学 葉隠                

   葉隠 聞書第一      ●100     ●200      聞書第ニ                 

■聞書第一

 

1  武士は武道を心掛けること。当たり前のようですが、人は、皆、その所に油断があるようです。というのは、「武道の意味は何だと思ってますか?」と問い掛けたとき、即座に答えることのできる人は稀です。

 

常日頃から、心に弁えたものがないからなのです。そこに、武道についての不心得ということが見て取れます。まったく、油断ばっかりなのです。

 

2  武士道とは、死ぬことだと思います。二つのうち一つを選ばなければいけないとき、早く死ぬ方をこそ選ぶという事です。それ以外の、理屈などないのです。心を決めて、進むだけなのです。

 

思ったことと違っていたら犬死だなどというのは、上方風の上っ面だけの武道なのです。二つのうち一つを選ばなければいけないとき、思った通りになるように分かることなど出来はしないのです。

自分も人も、生きる方が好きです。おそらく、好きな方を取る理屈ができるでしょう。もしも、生きて、思った通りになっていなかったなら、腰抜けです。この所が、難しい所です。

 

もしも、死んで、思った通りでなかったら、犬死であり、狂ってます。でも、恥ではありません。それが武道での本物の人です。毎朝、毎夕、繰り返し、死に、死んで、常に死に身でいれば、武道に於いて自由になり、一生、失敗することなく、家の職分を全うすることが出来るのです。

 

3  奉公人は、ただひたすら、主人のことを大切に思い、心配するだけです。それが最上の使用人なのです。御当家、佐賀藩は、代々に渡り、名誉あるご家中であり、そこに生まれて来たのですから、ご先祖様、代々の厚いご恩を浅からず思い、心身を擲って、ひたすらにご心配申し上げる事、それだけです。

 

その上で、知恵や芸能があって、それ相応の役に立つ事があれば、それは、一層の幸せというものです。

 

何事も、うまく出来ない事ばかりの者であっても、ひたすらご心配申しあげる気持ち、志があれば、十分に信頼される使用人たり得るのです。知恵や芸能だけを取柄にお役に立つというのは、使用人として下なのです。

 

4  生まれつき、即座に知恵の出る人もあり、一旦、その場を離れてから、眠りにつく枕の上で、よい考えを考え出す人もいます。

 

その本になっている事をよく考えて見ると、生まれつきでの、出来の高下はあったとしても、4つの誓願事項を本として、私心なく物事を考えたならば、不思議に知恵が出て来るものです。

 

人は、誰もが、物事を深く考えれば、初めはよく分からない事でも、何かよい考えが出て来るように思っていますが、自分中心の考えで、すべて、邪な考えばかりになり、結果はよくない事ばかりになるのです。人は愚かなもので、自分中心でなく、私心なくする事などできる事ではないのです。

 

けれども、何か、事があるときに、まず、その事ではなく、心に4つの誓願事項を思い合わせ、その上で、私心なく考えを重ねるならば、大きく間違う事はない、と言えます。

 

5  自分の思い込みのみの知恵で、すべて済ませるので、自分中心となり、本来のあるべき道、天道に背いて、悪事となってしまうのです。傍で見ていると、穢なく、ふにゃふにゃの、狭い考えで、役に立たないのです。

 

本当の知恵が出て来ないときは、知恵のある人に相談するのが大事なのです。その人は、自分の事ではないので、私心なく、自然な知恵で考えを進めることができて、道にかなうものとなるのです。

 

傍から見ていて、根もしっかりして、頼もしく見えるものです。例えれば、大木の根が多く出ているようなものです。一人の知恵は、突っ立てるだけの木の様なものです。

 

6  昔の人の金言やその仕事のことを聞き習うのも、昔の人の知恵に從い、自分中心にならないようにするためです。自分の感情と思い込みを捨て、昔の人の金言を聞き、人と相談すれば、間違いはなく、悪い結果にはならないのです。

 

勝茂様は、直茂様の知恵をお借りになりました。それは、「御咄聞書」にあることです。そんな御気持の持ち様は、有難い事と言えます。

 

また、ある者は、弟数人を家来として召し抱え、江戸や上方に赴くときも同道させて、常に、日々の公私の事を弟たちと相談するようにしていたので、間違いがなかったということです。

 

7  相良求馬は、自分の主人と気持ちを一つにして、決死の覚悟で職を務めあげた人です。一騎当千の者と言えます。

 

ある年のこと、左京様の水ケ江屋敷で、何かの問題究明の大会議があり求馬は切腹と申し渡されました。

 

その頃、大崎の、多久縫殿の下屋敷の三階に茶屋があったのですが、そこを借りて、佐賀中の悪い奴らを集めて、操り人形芝居を計画して、求馬が人形を使い、毎日、毎晩、酒宴の遊興を繰り広げ、左京様の屋敷を見下ろして大騒ぎをしたということがありました。それが問題となってしまったという訳ですが、それも主人のために、自ら進んで腹を切ることを覚悟の上でのことで、本当に潔い事でした。

 

8  一鼎の話では、相良求馬は、泰盛院様の御願の結果として、現われた者ということです。器量が抜群だというのです。毎年の御願書(これについては別に記す)を書かせられていた者です。泰盛院様のご死去の前年の御願書は、宝殿に残っているかも知れません。その求馬の晩年で、感心しない点が一つあって、それは、自分らには似合わない程の俸禄を頂きながら、そのご恩に応えられないままでいるのに、倅の助次郎はまだ幼くて、その器量もまだ分からないものですので、頂いているご知行分は返上させて頂きたく存じ上げますが、その跡を継いでご名跡をお立て頂けるような場合には、助次郎の器量の程度次第で、そのようにして頂けるようにお願い致します、と言ったことです。

 

求馬ほどの者が手抜かりのあるはずもないのに、病苦のために、すべて忘れてしまったのかと思わせられます。そんなことでは、3年もしない内に、その家も潰れてしまいます。

 

ご恩を頂きながらそのご恩に応える力がないとか、あるいは、誰それは、利発で、仕事で困るということのない奉公人で、それも、4、5年の内には、身を持ち崩してしまうだろうと言っておられたのが、まったくその通りになり、不思議に、眼力、見識のある人と思っていました。それからは、気を付けて見ていると、何事も無難にこなしている奉公人が、あと何年位持つかということは、大体、見当が付くものです。

 

助次郎(後名、求馬となる)浪人のこと。御目付の山本五郎左衛門の門の外に張り紙があって、求馬は百姓への態度が悪いとうことが書いてありました。それで、調べてみると、宜しくないことばかりが出て来て、その家来数人がお咎めになり、その所領の主たる求馬は浪人を命じられました。

 

9  主君のお味方となり、善も悪もなく、身を任せ、擲っている家来というものは、それ以外のことなど出来ないのです。それが、2、3人もいれば、中の職務の各部署のあり様もしっかり、黒く、強くなるものです。世間を長い事見て来ましたが、うまく行っているときは、知恵、知識、芸能事でお役に立ち、多くの人が、勢いよく、元気に振る舞います。その主人が、隠居したり、お亡くなりになられたときには、もうすぐに、背を向けて、日の上る方の人に取り入る者をずいぶん見ました。思い出すと、いやな、汚い感じがします。

 

地位の高い人、低い人、知恵のある人、芸能のある人、そういう人たちが、我こそはで、お役に立とうとして来て、それが、主人のために命を捨てるというときになると、へろへろしたものになってしまいます。よい香りが感じられる振る舞いどころではありません。

 

何の役にも立っていなかった人が、いざというときには、一騎当千の者となるのは、常日ごろから、命を捨てる覚悟で、主人と気持ちを通じ合わせているからです。先般のご逝去のときに、それがありました。日ごろ、お話を交わされ、お側で御用を勤めてい上役の方々が、お目の閉じられるとすぐに、そのまま、背を向けてしまいました。主従の契り、義を重んじるなどは、遠くの話のように思うかも知れませんが、目の前のことなのです。今こそ、その心をを決め、一はまりすれば、本当のご家来というものが現われるのです。

 

10  御道具(家具、調度品)や仕舞物(趣味や遊びの市販の道具)で、主人の心が込められているものは、自分たちの家での道具に使うことなど、もったいなく、有難く思うべきことです。

 

11  山崎蔵人は、一生、仕舞もの、市販のものとされた道具類は、手にしませんでした。また、町人の家へも、一生、行くことはありませんでした。奉公人の嗜みというのは、こういう風でありたいものです。

 

石井九郎右衛門も、仕舞もの、市販の道具もの、は使いませんでした。この頃の人たちは、仕舞もの、売ってるもの、と聞くと、先を争って欲しがり、町人のところに無理やり押しかけて行って、ご馳走などもさせ、店に買物に行くことを楽しみの一つにしたりしていることは、形悪く、侍のあるべき姿ではないと思います。

 

12  先般のご逝去の前、上方に出ていたときに、計らずも、どういうわけか、戻りかえりたく思う気持ちになってしまったので、河村に頼み、御使いに出してくれるように頼み、夜も昼もなく、ひたすら帰り戻り急ぎ行き、やっとのことで、帰り着いたのでした。

 

不思議な事でした。お体が勝れず、今はの際にいらっしゃるという事は、まったく、上方では分かりもしない事だったのです。若い頃から、たった一人だけの奉公人が自分なのだと思い込みの一念でいたので、仏神のお知らせなのかとも思います。特に目立つ働きをしたこともなく、何の特別優れたところもない者でしたが、そのときは、以前から、心に分かっていた通り、自分一人で、他所から見て、さすがと思わせることができたと思っています。

 

大名のご死去の際に、お供する者が一人もいなかったら、淋しいものに思います。今回の事でよく分かりました。自分の身を捨てて仕える者というのは、自分を無にした者です。それは、ただ、そこに、身を捨てるという事だけなのです。腐りきった者、腰抜け、欲深などの、自分のためばかりを思う、汚い人間が多くなりました。この何年かは、胸が気持ち悪いまま暮らされているのだそうです。

 

13  ご進物、お返しの物、燃やしてしまうべきものの事を、お尋ねになられ、選び置かれたとの事で、それに付き、ご指南の一通りを頂きました。(直に、口に申されました事は次の通りです)

 

・世の変わってしまったことで、役人の仕事でなくなったこと

・どちらでも、構わないこと

・鍵をして(鑰封)もので、年寄衆の判を頂いた上で引き渡しのもののこと

・不審に思われること

・どちらも禁止されていること

・一人の人に、次第をお尋ねになり、承知されたこと

・目録と突き合わせて、選り分けること

 

14  人に意見をして、その人の疵を直すということは大事なことであり、思いやりであり、ご奉公の意味でも大事なことです。意見の仕方については、大いに、よく考えてしなければならない事です。

 

人のする事での善悪を言うのはたやすい事です。それを意見する事もたやすい事です。多くの人は、人が嫌がる言いにくい事を言うのが親切のようにもように思い、言っても聞いてくれなければ、力が足たりなかったという事にしてしまいます。それでは、何の役にも立ちません。人に恥をかかせ、悪口を言うのと同じことです。自分の気を晴らすために言っているだけです。

 

意見を言うということは、まず、その人が、意見を聞くか聞かないかをよく見極めた上で、親しくなり、自分の言うことを、兼がね、信じて聞いてもらえるようにしておいてから、その人の好きなことに事寄せたりして、言い方をいろいろ工夫して、言うべき時をよく考え、手紙を書いたときとか、別れのときなどに、自分の良くない点を言い出しながら、言わずとも思い当たるようにさせるとか、よい点を褒め立てて、気分をよくしておく工夫を考え編み出して、そして、喉が渇いたときに水を飲むような具合に言い聞かせなどして、それで疵が直るのが意見なのです。とても、出来にくいものなのです。

 

ずっと続けている癖なわけですから、大抵のことでは直りはしないのです。自分にも覚えがあります。いろんな同僚たちと、常日頃仲よくして、その癖を直し、心を合わせて主君の役に立つ事ができるのですから、それが、奉公の上での思いやりでもあるのです。それなのに、恥を与える事だけでは、どうして直ったりするでしょうか。

 

15  ある人間への意見の事(口頭でお話しあり)。浪人でありながら、上を恨む事、ある人(-何某)は浪人となり、自分の非を知りながら、5、6年で復職した事、一度お話があったときにはそれをお断わりし、二度目に言われたときにお受けして、誓詞を差し出した事、最初の断わりで終わらせるか、剃髪、出家して、お話を終わらせるかするならば見事だという事、それが、同じようなことで、また浪人する事、この様に、自分の良くない点を何も考えないでいては、帰参はとても無理なのに、今も、御情けがないとか、誰が憎いなどと、焦げ付いた気持ちでいては、ますます、天道の道を外れ、よくない事になり、その者の評判は、罰なのだと言われたそうで、人は見逃さないので、罪は自分一人にあると思い返される様にと、そうすれば、帰参も、遠くはないと言われたそうです。

 

16  澤邊平左衛門を介錯した時に、中野數馬が江戸から褒美の手紙を寄越して、「一門の名を上げた。」と大層な文面でした 。介錯だけのことで、そんな風に手紙をお寄越しになるのは、そんなに大した事ではないのにとその時は思ったのですが、その後、よく考えてみると、さすがの、深い考えのあることだなと思っています。若者に対しては、少しのことでも、武士の仕事をしたときは、褒めて、それを指摘し、勇んでさらに進むように仕向けるためだったのだと思います。

 

中野将監からも、早速に褒美の手紙が届けられました。その手紙は二つとも、表装して置いてあります。五郎左衛門からは鞍と鐙を送って来ました。

 

17  人中で欠伸をするのは、嗜みのないことです。思わず欠伸が出るときは、額を撫で上げれば止められます。そうでなければ、舌で唇をなめ、口を開かずにいるとか、または、襟の内袖を口に掛けるか、手を当てるなどして、人に気づかれないようにすることです。

 

くしゃみもそうです。阿保、馬鹿、に見えます。

 

いろいろ、この他にも何かあれば、気を付けて、嗜みを忘れてはいけません。

 

18  明日の事は、前の晩から考えて置いて、何かに書いておくようにしたらよいです。それは、他の人より先に考えて置くための心得です。どこかへ、兼ねての約束により、出かけて行くときは、前の晩から、行く先での相手のことを、万事万端、何ごとも、挨拶のこと、事の順序などまでも考えておくのがよいのです。和の道というものです。礼儀なのです。

 

また、上の人のところに呼ばれるとき、苦労に思って行くのでは、座にいられなくなってしまうものです。これはありがたい、ずいぶんと、面白いことになるなと思って行くのがよいのです。

 

多くの場合、用事でなければ、呼ばれていない所には行かな方がよいです。人に招かれた場合には、これはずいぶんとよいお客様振りだと思われるようにしないなら、客ではないのです。

 

何にせよ、その場の振る舞い方を予め考えてから行くのが大事なことです。酒のある場合の事が第一に、考えて置くべきことです。座を立つ時分が肝心です。飽きられてからでなく、早過ぎもしないように、ありたいものです。

 

また、普段の場合でも、ご馳走になるという時、いろいろ考え過ぎてもよくありません。一度、二度、何か言って、その後は、言われることに合わせるのがよいのです。思いがけず、行掛りで、その場に留められる場合の心得も、同じことです。

 

19  四誓願を磨くには、武士道に於いて後れを取らないこと、その武勇を天下に顕すことと覚悟して臨むということです。(この点は愚見集に詳しくあります。)主君の役に立つということです。

 

それは、家老となり、諫言し、国を治めるこという考えでもあります(愚見集に詳しい)。孝ということは、忠ということに従ってあるものです。同じものなのです。人のためになること、それは、あらゆる人を役に立つ者にするという事なのだという心得です。

 

20  御祝言の御道具を調べていたとき、ある人が、「琴三弦は、その書類にありませんが、これは書類にないといけないのでは。」となりました。それに対して、ある人が、「琴三弦のことは必要ありません。」と荒々しく言って、それ以上の事を止めてしまいました。これは、外向きのことで言ったことなので、翌日には、「御道具になくても、それは不足のことにもなりますから、極上品が二通りづつと書いておいたらよい」と言われたと、そう話す人がいました。

 

「それは小気味よい人ですね。」と言ったのですが、「いやいや、それはよい考えではありません。人は、自分の立場で強く言っているだけのことです。よく、他所者にはあることです。上のお方に対して失礼だし、その人のためにもならないことです。

 

道を知る者であれば、たとえ、要らないものであっても、分かりました。しかし、後でも改めて調べることにします、などと言って、人の恥とならないようにして、うまく収めるのが侍の仕事なのです。しかも、必要なはずのものなので、翌日には書き加えています。その場の行き当たりで、上の人に恥を掻かせるなど、しなくてもよい事で、心の持ち様が汚く、見苦しく思われます。」ということでした。

 

21  覚悟のあるもの、覚悟のないもの、ということが、軍学で述べられています。覚悟のあるもの、というのは、何かの時に、それについて経験があるということだけではありません。予め、その様々なことを調べてあり、その時になったら、するべき事をする、ということです。つまり、何事も、予め調べ、決めておくのが、覚悟のある者、なのです。

 

覚悟のない者、というのは、何かの時に、たとえ、うまくできたとしても、それは、運が良かったということなのです。予め調べて、決めて置くということがないなら、それは、覚悟のない者、なのです。

 

22  日峯様の百年忌のときには、浪人の者を残らず、再び召し出し、役に戻されるようにしたいものです。それが、亡くなられた御方のもっともお喜びになるご法事となります。そのときは、この自分が、請証人となります。しかしながら、倹約、倹約ということで、できないことでしょう。

 

この頃では、浪人が切腹したその跡目相続の事は、何もされず、打ち捨てられたままですし、手明槍の浪人などを、召し出されて、特別待遇をするような事になりました。国学を知らないので、手明槍の者などに物頭を命じられたりするのです。

 

23  酒盛りのときの事は、よく考えて置かなければならないことです。気を付けてみていると、多くは、ただ、飲むだけです。酒というのは、気持ちよく、綺麗にしてこそ、酒なのです。それに気が付かなければ、卑しく見えるものです。およそ、人の気持ちや、人物も見えるものです。公の事と考えなければなりません。

 

24  ある人が、あるときに、細かく倹約していると言っていましたが、よい事ではありません。水清ければ魚住まず、ということがあります。藻や屑などがあるので、その陰に隠れて魚は大きくなるのです。少々は見逃し、聞き逃しもあるので、下の者は安心していられるのです。人の身上の持ち様についても、これと同じことがあってよいのです。

 

25  請役所(訴えなど・諸文書受付役所)で、町方役のある者が、ある者への訴状を渡したいと言って来たときに、受付窓口のところで、受け取るべきではないということで、いろいろ話合っているところに、その、町方役のある者が居合わせて、「まずは、受け取って、その後、無用のこととなれば、返してしてください。」と言うので、「それならば、受け取ります。」という話になったとき、「受け取らせるというのに、受け取らないでいることはできないよ。」と、蔑んだ言い方で言った、という事を話す人がありました。

 

その者は、もう、心掛けが直っていると思っていたのですが、いまだに、角のあるままでいて、そもそも、親しい人にでも、役所というところでは、丁寧に対応するのが侍の作法で、そんな風に、人を恥ずかしめるのは、きたなく、侍の作法ではない、と話されました。

 

26  ある者の屋敷を、ある方が望まれ、差し出すように申し渡され、行先を相談している最中に、その必要はなくなったということでした。そのことで、次第に、何かと言い募ることがあって、ある方の方から説明があって納得し、そのうえで、何がしかのお金を受け取った、という話をする人がありました。

 

本当に、笑うべきことです。そもそも、人に騙されたままでいるというのは、気分がよくないと思うものですが、それはまた、違うことです。身分の高い人であっても、言い返して、負けないなどというのは、特別な場合のことです。

 

これは、損得の話です。もともと、きたない話です。それなのに、歴々の上の方に対して、分を弁えない言い方をするのは、無礼であり、もってのほかの事です。解決金などを取っては、却って、負けです。この後の差し支えになるものです。大方は、公的な事項で、言い分などというのは、すべて損得の事です。損さえすれば、相手といっても、何もないことになります。これは、我慢しても、ひけを取ったことにはならないのです。知恵が足りないので、分からないんですね。

 

27  石井又右衛門は、大器量人です。病気になり、馬鹿になりました。ある年のこと、殿様のお側の御用の事の話し合いのとき、ある者が、又右衛門に、歌の書き方について尋ねました。又右衛門が言うには、「病気になってから、今の事さえも分からなくなりました。たとえ、覚えていても、殿様が人には言うなと言われたことを、皆様に言うべきではないですし、ますます覚えていないことです。」と言われたそうです。

 

28  ある方の屋敷が火事になっとき、山本五郎左衛門が当番で御目付で、参られましたが、門を閉めて入れず、「火事はこちらではない。」とのことでした。五郎左衛門は、それには強い口調で、「殿様の命で来ている者を入れないというのであれば、皆殺しにするまでです。」と、刀を抜いて言うので、門を開けたということです。

 

屋敷の中では、その方の手の者が何人かが来て消しました。

 

29  彌三郎に色紙書かせながら、「紙いっぱいに一字を書くつもりで、紙を書き破ると思う位に書きなさい。良い悪いは、それを仕事にする者のすることです。武士は、思いあぐまずに書くだけでいいのです。」と、自ら書かれました。

 

30  海音和尚の前で草紙本をお読みになられましたが、「小者も小僧も皆こっちに来て、聞きなさい。聞き手が少ないと読みづらい。」と言われました。和尚は感心して、小僧たちに、「何事も、ああいう気持ちでするのだ。」と言われました。

 

31  毎朝、拝礼をするのは、まず主君、親、それから、氏神、守り仏の順にしています。主君をさえ大切にするならば、親も悦び、神仏にも、その心に適うものとなるはずです。武士は主君を思うより他の事は要らないのです。その気持ちが強ければ、いつも、その身の回りに気持ちが向き、少しも離れないのです。

 

また、女は、夫を主君のように思うことが第一です。

 

32  礼儀・作法のお役の方々の間では、その口伝として、「時宜」という二文字を、「ダテ」と読ませているのです。伊達にする心がなければ、時宜に適うことにならないとう事なのです。

 

33  正徳3年(1713年)の春、雨乞いについて話し合われたとき、寄合い会所においては、金立山での雨乞いということで、毎年、何度も、踊りが上下の人々により行われているので、今回は、十分に踊りを念入りに準備して、もし、その験がなかったら、重ねて行うことは止める、ということで、本当によくできた三十三囃子、踊り、狂言などを行いました。

 

金立山の雨乞いは、不思議に験のあるものですが、今回は、まったく、その験がありませんでした。

その日に、大太鼓を打った者が、教えにない打ち方をしたということで、教えた者が、撥を奪い取り、その挙句、喧嘩となり、下宮で、切り合い、打ち合いし、死者も出て、さらには、見物人にも喧嘩がありで、負傷者が出ました。

 

その頃の、一般大衆の間での話では、今回の踊りは、寄合い会所での話し合いが気を入れてなされなかったので、権現様が祟り、よくない事が、その場に出来したのだと言われるようになりました。

 

「神事の場の不吉な事は、その前兆がある。」と、實教卿がお話になられたこともあり、考えてみれば、同じ年に、会所の役の者の邪まな謀略で、何人か斬罪となり、寺井辺津浪で死亡する者が多くありました。海辺に金立山の下宮があるということです。また、殿中で、原十郎左衛門が討ち果たされもしました。こうしたことは、どうだったんだろうかと考えさせられます。

 

34  ある和尚は、この頃、近来の出来者です。その寛大さは量り知れません。それだから、大きな寺もよく治まるのです。

 

この前も、話にならない病弱の身で、大きな寺を預かり、しっかり勤め上げようと思ったら、失敗してしまうことでしょうから、成るようになると考えているので、気分が勝れないときは、代理の者で諸事を済ませて、どうか大きな失敗が無いようにと願うばかりです、と言われました。

 

先々代の住職は厳し過ぎて、大衆があきてしまい、先代は、任せ過ぎて、締まりのきかない所がありました。今の和尚になってから、何かと言われることも無く、大衆がよく從うようになりました。

 

この違いを考えてみると、微に入り、細に入り、よく物事を調べて、その上で、任せる者に任せて、役々を勤めさせ、もしも、何か尋ねられたら、不明なこともなく、指図できるので、よく治まっているのだと思われます。

 

先般、この和尚が、何々長老とかで、詰まらない理屈を捏ねる者を呼び出し、法の邪魔になる、打ち殺すと言って、その者を叩き捨てて、片輪にしてしまったということがありましたが、あれこれと、よい所の多い人でした。それも、病気で亡くなられてしまいました。

 

35  最近のお役勤めの人を見ると、眼の付け所がとても低いのです。スリの目のようです。多くが、自分の損得を考えているか、頭の良い振りをしているか、あるいは、少し胆の座ったように見える者でも、用心で、身構えているばかりです。

 

自分を主君に捧げて、進んで死んで、幽霊となって、四六時中主君の事を心配し、申し上げることは、よく整理して申し上げ、御国を堅固にするという所に眼を付けるのでなければ、お役勤めとは言えないのです。

 

このことについては、身分の上下とかはありません。そういう積りで、ぎしっと居座り、神仏の勧めということがあっても、それに迷わないように覚悟しておかなければならない事です。

 

36  ある人から聞いた話ですが、松隈前の享庵が以前に言っていたことですが、「医術においては、男女を陰陽に擬えて考え、治療方法の上でも違いがあるものです。脈も違うのです。ところが、この50年の間に、男の脈が女の脈と同じになってしまいました。それに気が付いてから、眼病の治療において、男の眼も、女の治療方法で治療してちょうどよいということが分かりました。男に男の治療方法を行っても、効果がなくなったのです。おそらくは、世も末になり、男の気が衰えて、女のようになったものと思います。このことは、実際にやってみて分かったことなので、秘事としています。」ということです。

 

そういうことから、改めて、今の男を見てみると、確かに、女の脈っぽくなっていると思われる者が沢山います。男だなと思わせる者は稀になりました。そういうことですから、今は、少し頑張れば、簡単に人に勝てるはずです。

 

そして、男の勇気がなくなって来た証拠としては、しばり首でも切ったことがある者は少なくなり、ましてや、介錯などというと、断りをうまく言うのが、利口者、気持ちの座った者だと言うような時代になりました。

 

股抜きなどということは、40、50年前は、男の仕事で、傷のない股は人に見せられないものでしたから、独りで、股を切ったりしたものです。男は、誰も、その仕事は血生臭いことなのです。それを、今では、馬鹿みたいに言って、口先だけでうまく物事を済ませ、少しでも、骨の折れることは避けて通ります。若い者は、よく考えるべきことです。

 

37  60歳、70歳までお役勤めをする人もいるのに、自分は42歳で出家し、考えてみると、世にあった時間は短いものでした。それも、有難い事だと思う者です。その時は、死に身となる決心で、出家したのです。今、考えると、現在まで勤めていたならば、まったく、とても苦労していた事と思います。14年も安楽に暮らして来たことは、不思議な巡り合あわせです。

 

その他にも、自分のことを、多くの人が、人らしく相手してくれます。自分の気持ちをよくよく考えてみると、よくも澄ました顔でいられるものだと思います。多くの人が、相手になってくれて、勿体ないようで、罪を犯しているように思うこともあります。

 

38  ある者が、その主人が、殿様の領国入りのお供をすることになった、ということで、「今度の事で、心に決めているのは、田舎に入ると、酒ばっかりになると思われるので、酒を片付けてしまおう思っています。禁酒と言うと、酒癖があるように聞こえるので、体に中ると言って、2、3回、酒を受けても捨てるのを見せようと思います。そうすれば、それ以上は、人も強いて来ることはないと思います。

 

それと、腰を痛める程も、礼儀を尽くして、人が話しかけないときは、一言も物を言わないようにしようと思います。」と話していました。

 

胆の据わった者と思います。これからの事を、予め決めて置くのが、人より上を行く始めなのです。ですから、「よい覚悟ですね。あなたは、体が弱そうだったのに、以前とは変わって、大人になったと言われる位にするとよいですよ。始めが肝心です。」と言われたそうです。

 

39  湛然和尚の語られたことですが、「無念、無心、とばかり教えるので、落ち着かなくなるのです。無念、というのは、正念のことです。」と言われました。面白い事です。實教卿も、「一呼吸の間さえも、邪な考えを含まないこと、それが、道というものです。」と仰せられました。つまりは、道は一つなのです。この光を、始めから見つけている者などありません。

 

純粋に一つの事というのは、功業を積むまでは、出来ることではないのです。

 

40  「心の問はばいかが答えん」、心が尋ねたとしたら、それに、どう答えることになるのか、という、和歌の下の句程、有難いものはありません。ほとんど、念仏を唱えるのと負けない位のものと思います。とにかく、人の口にし易いものです。

 

今どきの利口者は、頭のよいことを言って、上辺だけ飾って、うまく、ものに紛らわせてしまう事ばかりします。だから、頭の鈍い者に劣ることになるのです。頭の鈍い者は、真っ直ぐです。

 

先の、下の句で、心を振り返って見れば、隠れる所はないのです。よい、お尋ね役なのです。そのお尋ね役に対して恥ずかしくないように心掛けたいものです。

 

なき名ぞと人には云いてすぎなまし 心のとはばいかがこたえん

(*名前を残すほどの者ではありませんと、人には言って、それで終わりますが、自分の心に尋ねられたら、何と答えることになるのか、我こそは誰々という、自分を誇る気持ちがあるのではないですか)

 

41  ある者、老耄と思われます。あちこちに招かれて、行き、人の感心するような話などをするそうです。数年前からも、人のためになることだけを思い、本当に、お役勤めの好きな方です。それだからこそ、それなりの、お役に立つことにもなったのです。

 

自分の得意なことで老耄しているので、奉公老耄であって、人のためになるという老耄が危うい所なのです。老人は他所に出歩かない方が、重さもあり、締まりがあってよいのです。

 

42  幻は、マボロシと読みます。天竺では、いろいろな技を行う術師のことを幻出師といいます。世界はすべてからくり人形です。幻の字を使います。

 

43  御縁組のとき、ある者が、意見を申し上げたことがあります。この事は、若い者は、よく、心得なければならないことです。その意見は、成程と思わせるものです。さすがだと言う者もあります。

 

自分では小気味よく思い、言うべきことを言って、腹を切るのも本望だと思うのでしょう。よくよく考えてみてください。何の役にも立たないことです。そういう者を曲者などと思うのは、全くもって、間違いです。

 

まず、申し出たことは、その甲斐もなく、自分はお役を下がり、御養育をすることもなく、その後亡くなられる頃に、御看病もせずで、本当に残念なことです。考えすぎる人の、ある場合に、間違うところです。

 

多くの場合、その位置に上がっていないのに諫言するのは、却って、不忠です。本当の志があれば、自分の思っていることを、相応の人に、内々に相談して、その人の考えとして言うならば、事がうまく片付くのです。それが忠節です。

 

もしも、内々の相談で、その人が承知してくれなければ、また、他の人にも内談するなど、何かと、いろいろ、心遣いして、肝心の事さえうまく行くようにしていれば、自分の大忠節があっても、それを人の知られない様にしているものです。

 

何人かに相談しても、どうにもならないときは、できない事なので、そのままにして置き、あるいは、繰り返し、繰り返しすれば、おそらく叶うのです。自分が曲者だと言われることだけを思い、自分の手柄にしようとするので、うまく行かないのです。

 

口を出しても何にもならず、人からは非難され、身を崩した人は多いのです。つまりは、本当の志がないからなのです。自分の身をひたすら捨て、主君がどうともよいようにとさえ思えば、難しい事はないのです。

 

44  不義を嫌い、義を立てることは難しいものです。しかし、義を立てることを第一にして、ひたすら、義を立てることをするので、却って誤りのもとなのです。義の上に、さらに、道があるのです。

 

それを見つけることが難しいのです。高い位の知恵なのです。そこから見たら、義などは、細く、大したことではないのです。自分で実際に知るのでなければ、分からないことです。

 

けれども、自分が見つけることができなくても、その道に至るための方法はあります。人に相談することです。

 

たとえ、道が分からない人でも、他所から見て、人のしていることは分かるものです。碁で、傍目八目ということです。

 

念々知非、よく考え、自分の非のある所を知る、ということは、相談するに限ります。話を聞き、覚え、書物を見るのも、自分の考えを捨てて、先人の考えに從うためです。

 

45  ある剣術家が老後に言われたことですが、「一生の中で、修業には順序というものがあります。下にいるときは、修業してもうまくならず、自分も下手だと思い、人も、下手だと思います。そのときは、役には立たないのです。中位になると、役にはまだ立ちませんが、自分の足りない点が目に付き、人からも、それが見えるのです。上になってくると、自分のものになって来て、自慢する気持ちも出来、人から褒められるのが嬉しくなり、人の足りないところにがっかりしたりします。こうなると、役に立ちます。

 

上の上になると、知らないふりをしていて、人からも上手だなと思われます。ほとんどは、ここまでです。

 

その上に、一段と越えて、そこまでの行く道のない所、というのがあります。その道に深く入ると、どこまでやっても終わりがない事が分かるので、これでいいということがありません。

 

自分に足りない点があるのをほんとうに知り、一生、これで出来たということもなく、自慢する心もなく、卑下する心もなく、やり通すのです。

 

柳生殿は『人に勝つ道は分かりません。自分に勝つ道は分かりました。』と、言われたそうです。昨日よりは上達し、今日よりは上達しで、一生の間、日々、仕上げていくのです。それが、どこまでということはないということです。」と、言われました。

 

46  直茂公の出された御壁書では、「大事のときの考え方は軽くすべし。」とあります。一鼎は、それに註して、「小事に於いては考え方は重くするべきこと。」としました。

 

大事というのは、それについての考え方は、2、3箇条以上も、書き表すべきことがあるでしょう。それは、普段からよく考えていれば、分かることです。それを予め考えて置いて、大事のときに、取り出すだけで、軽く済ますことと思います。

 

普段、覚悟もなく、その時になって、軽く考え切ることは難しく、考えた通りになるかどうかは、全く分かりません。ですから、予め、考え方の基礎を固めて置くこと、それが、「大事のときの考え方は軽くすべし。」と仰られたことの基になっていると思います。

 

47  宗龍寺の江南和尚に、美作守殿、一鼎などの学文仲間が面談で学文の話で議論を仕掛けましたが、「皆さんは素晴らしく物知りです。でも、道についてよくご存じないのは、普通人以下です。」と言われました。

 

そこで、「聖賢の道の他に道はないはず。」と一鼎が言ったところ、江南和尚が言うには、

 

「物知りが道を知らないのは、東に行こうとする者が西へ行くようなものです。物を知るほど道から遠ざかるのです。

 

どうしてかというと、古の聖賢の言行を書物で見て、話しで聞き、理解と認識が高まり、自分も、もう聖賢であるかのように思って、普通の人を虫けらみたいに思うようになります。それが道を知らないという所なのです。

 

道というのは、自分の非がある所を知ることです。よく考えて、その度に自分の非を知り、一生、終わりのないのが道なのです。聖の字をヒジリと読むのは、非を知るということなのです。

 

仏は、知非便捨、非を知り、捨てるのを厭わないこと、の四文字があればこそ、その道を成就することができる、と教えられました。自分の心をよく考えてみれば、一日の内に、悪い考えは数限りなく起こります。自分は良いものだと思うことはできないはずです。」と言われたので、そこにいた一同は、それ以来、尊敬するようにになりました。

 

けれども、武ということは別です。大高慢で、自分こそは日本第一の勇士だと思わなければ、武勇を表すことはできません。武勇を表すための気の持ち方というのがあるのです。(別に、口伝あり。)

 

48  武士道巧者書という本で、「巧者の武士は、してもいない武道で、その名を上げる行き方あり。」と書かれています。これを、後の者は読み間違うこともあるかも知れません。「も」の一文字を加えてみてください。

 

また、志田吉之助は、「生きても、死んでも、何にもならないのならば、生きた方がましだ。」と言いました。志田は曲者で、ふざけて言ったことなのに、まだ大人にならない者たちが聞き誤り、武士の疵になることを言い出すことになるとのではと思います。

 

その後に続けて、「食べるか、食べないかで考えるときは、食べないのがよいし、死ぬか生きるかで考えるときは死んだ方がよい。」とあるのです。

 

49  ある者が大坂で数年勤めてから、国に帰り、その届で役所に出頭したとき、上方言葉で物を言ったので、まったく心無い物笑いとなりました。

 

それ付けても思うのは、江戸や上方で長く勤めるときは、普段から、お国言葉を使うようにするべきだと思います。

 

自然と、気持ちがよそ風になり、お国振りは田舎風と見下げて、他所でのことで理の通ったことがあれば、それを羨むようになるなど、何の面白みもなく、馬鹿げたことです。

 

このお国は、田舎風で、初心な気持ちのあるところがよい所なのです。他所の流儀を真似するのでは、偽物になります。

 

ある人が、春岳に、「法花宗というのは強情になって、よくない。」と言ったところ、春岳は、「強情でなければ、他の宗になってしまう。」と答えました。もっともなことです。

 

50  ある者の昇進についての論議のとき、先般、酒の上でのよくない振る舞いがあり、昇進はさせられないということで、衆議一決したとき、一人が口を開き、「一度過ちのあった者を捨ててしまっては、人はできて来ません。一度誤りをした者は、その誤りを後悔するので、よく、それを心して、御用に立つようになります。昇進させるべきです。」ということを言い出しました。

 

別のある者が、「あなたが保証するんですか。」と言いました。すると、「いいですよ。自分が保証します。」と言ったのです。

 

それで、誰もが、「どうして、保証できるんですか。」と言いました。「一度誤りをした者だから、保証するのです。誤りが一度もない者は、危ないです。」と言うので、それで、昇進が決まりになりました。

 

51  中野數馬は被疑者の量刑の論議のとき、相当の刑の一段軽くしたものを言い出すのでした。一代一振りの秘蔵の知恵です。

 

その当時は、数人が出ている論議の場で、數馬でなくては、最初に口を開く人はありませんでした。

口明け殿、二十五日殿、と言ったものです。

 

52  主君の考え方を、よく直して、誤りのないようにするのが、大忠節です。まずは、その御若年の頃に、御家についてや、御先祖様についての考え方などを、十分に御納得されているようにしたいものです。御伝として伝えられていることが大事なことです。

 

53  昔の人の刀は落とし差しにしていました。今は、刀の差し方をあれこれ言う人が無くなりました。柳生流のように、抜き出して差すようにと言うわけです。

 

それは、何の言い伝えもなく、考えもなく、抜き出して差すのを見覚えて差しているだけと思われます。

 

直茂公、勝茂公も、落とし差しにされていました。その時代に、手に覚えのある方が、皆、落とし差しでいるのですから、それが使い勝手がよいのだと思われます。まずは、抜き出しては、不意に取られてしまいそうに思います。

 

光茂公は、勝茂公の御指図で、落とし差しにされたということです。

 

54  光茂公と綱茂公が江戸にいらっしゃったとき、正月元日に、光茂公へ年始の御目見え、御挨拶、があるとき、綱茂公は、御式台の裏の間に御座なされていらっしゃいました。光茂公が、「信濃はどこにいるのか。」と仰られたとき、御小姓の誰かが、「若殿様は御隠れになられています。」と答えました。こうした誤りは、ありそうなことです。

 

55  ある者は、喧嘩の打ち返しをしなくて、恥になりました。打ち返しのやり方は、ただ、踏み入り、押しかけて、切り殺されるまでの事です。そうすれば、恥にはならないのです。

 

目的を遂げようと思うから、間に合わず、相手は大勢だとかいうことで時が過ぎ、終わらせ方の相談になってしまうのです。

 

相手が何千人でも、片っ端からなで切りと思い定めて立ち向かって行くことでいいのです。おそらく、目的も達せられるのです。

 

ところで、浅野家の浪人の夜討ちの事も、泉岳寺で腹を切らなかったのが間違いです。また、主君を討たれていながら、敵を討つことが延び延びになりました。もしも、その間に、吉良殿が病死でもしたら、残念極まりないことになります。

 

上方の人は知恵があるので、褒められることは上手いのに、長崎喧嘩のように、無分別にすることはできないのです。

 

そして、曽我殿夜討ちでも、事が延び延びになり、幕の紋を見物のとき、祐成は機会を逃しました。不運な事でした。五郎は見事な物の言い振りです。

 

およそ、こうした批判はするべきではないけれど、武道について、よく考え直すという意味で言っておきます。

 

予め考えて置くのでなければ、その場になっての判断はうまくいかないので、多くは恥になってしまうのです。話を聞き、物の本を見るのも、前もって覚悟を決めて置くためです。

 

特に、武道では、今日どうなるか分からないと思って、毎日、毎晩、1つ1つ、1箇条ごとに、よく考えて置くことです。

 

その時の行掛りで、勝負は別れるものです。恥をかかないということは、また別のことです。死ぬだけなのです。その場でできなければ、打ち返しです。これは、知恵を傾けるなど、要りません。

 

曲者は、勝負を考えず、無二無三に死に狂いするだけです。それで、夢のような、頭の中だけの事でなくなるのです。

 

56  奉公人として疵になることが1つあります。それは、富貴になることです。生活に困っていれば、疵はつきません。

 

また、ある者のことですが、利口者で、へたな仕事が目に付く性質です。そういう所にいては、うまくいかないものです。世の中は間違いだらけと思って掛からなければ、たぶん、顔つきが悪くなり、人に受け入れられる事はないのです。

 

人が受け入れなければ、どんなよい人でも、本当のあり方ではありません。それは、1つの疵ということです。

 

57  「誰それは気が強い。何某の前で、こんなことを言った。」という話をする人がいます。それも、顔付に似合わない物の言いようです。曲者と言われたいからだけなのです。浅い人間です。青い所のある人ですね。

 

侍は、まず、礼儀正しくするのが美しいのです。そんな風に、人の前で物を言うのは、槍持ち同志の行掛りの言い方で、賤しいものです。

 

居宅や、道具類で、顔に合わない事をする人が結構います。扇、鼻紙、書道の紙、寝具などでは、少し、自分の分よりよいものでも構わないのです。

 

58  何がしという者が、その養子が、鈍いので、気に入らず、また、その親自身が長病いで気が短く、いつも折檻し、悪口で罵るので、養子は我慢していることができず、近いうちに、出て行く様子が見えました。

 

そのことで、養母が来て、「全く困ったことで、病気の身でも、いろいろ我慢するように、親の方に意見してくれるようお願いします。」と言って来ました。

 

断ったのですが、「是非、お願いします。」と、泣きながら言うので、仕方なく、引き受けることにしました。「親に意見するのは、逆ですし、それに、病気でもあるので、倅の方をここへ寄越してください。」と言いました。その養母は、納得いかないような風で、帰りました。

 

その養子の方が来たので、言ったのですが、

「およそ、人間に生まれたことは、生き物としての大きな幸いと考えるべきことです。その上、我が藩に仕えているということは、生まれる前からの望みが叶っているのです。百姓や町人を見て考えてみなさい。

 

実父の遺す領地を継ぐことさえも難しいことなのに、末子に生まれて、他の家を継ぎ、士官奉公の身となることは、うどんげの花の幸せです。それを取り逃がして、無足人になることは、不忠であり、親の気に入らないのは不孝です。忠孝に背く者は、世界に居るところはありません。

 

よく、根本から考えてみてください。今のあなたの忠孝というのは、ただ、親の気に入るようにするということだけなのです。気に入られたくても、親の気の持ち方が悪くてとばかり思っているのでしょう。

 

親の気の持ち様を直す方法を教えます。自分の顔つき、その他何でも、親の気に入るようになるようにと、血の涙を流し、氏神にお祈りしなさい。それは、自分のためではなく、忠孝のためです。

 

そいういう気持ちが、親の心に響くのです。帰って見てみなさい。もう、親の気持ちが直っているはずです。天地人の感じて、響き合うことは、不思議な道があるのです。さらには、長病いなので、長くはないのです。僅かの間の孝行ですから、逆立ちしてもできることです。」と言うと、涙を流して、ありがとうございますと言って、帰って行きました。

 

後から聞いてみると、帰ったときに、親が言うには、「意見されて来たようで、まずは、見かけがよくなった。」と言って、そのまま、機嫌もよくなったということです。

 

本当に不思議なことで、人智の及ばない所です。そのときの意見で、忠孝、共に立ち、有難く思いますということで、お礼に来られました。

 

本当の道を求めて、叶わないことはありません。天地さえも、思いで、動かすものです。紅涙を絞る程、徹底してすることで、それが、神に通じるものと思います、ということです。

 

59  一世帯を、背負い、構えるのが、よくないのです。頑張って、何か考えが出来れば、それで済ませてしまうので、間違うのです。兎に角、頑張って、その芯になる所は、種として、しっかり持って、それが、熟して行くようにと修業を進めることは、一生終わらせてはならないのです。

 

何か見つけたものだけで、それで間に合うことはないのです。ただただ、それも違う、違う、と思い、どうしたら道に叶うか、終わりなく考え求め続け、それを忘れることなく心に置いて、修業しなければならないのです。そうする中に、道はあるのです、と申されました。

 

60  山本前神右衛門が、いつも言っていたことを、箇条書きにして書き留めた中から、

 

一、一方から見えれば、八方から見えています。

一、薄ら笑いをするのは、男なら、臆病者、女なら、すき者です。

一、口上を言う、あるいは、物語を読むなど、物を言うときは、相手の眼を見て言うのです。

     礼は、初めにすればそれでよく、俯いて話すのは不用心と言うべきです。

一、袴の下に手を入れるのは不用心です。

一、草紙や書物を手に取って見たら、すぐに焼き捨てるように。書物を見るのは公家の役です。中野一門は、

     樫の木を握り、武に励む役です、と言われました。

一、組に入らず、馬を持たない者は侍ではありません。

一、曲者とは頼もしい者です。

 

61  「人として大事なこととして、心掛け、修業するべきなのは、どういう事は何ですか。」と尋ねられたとき、どう答えるか、まず、言ってみることです。現在と本気で向き合うためにするのです。多くの人は心が抜けているようにしか見えません。生きている顔ができるのは、本気のときです。

 

何でも物事を行う中で、胸の内に出来て来るものがあります。それが、主君に対しての忠、親に対しての孝、武については勇、その他、何にせよ、何事にでも対処するよすがとなるものです。

 

それを見つけることさえも難しいことです。見つけても、それをいつでも持っていることは、また、難しいのです。

 

ただ今、現在の思いの他は、何もないのです。

 

62  昔は、寄親、その組の者の間には、他と違う特別の思いがありました。

 

光茂公のとき、御馬廻り、御使い番母袋が一人不足したとき、御家老の話し合いで、若く、器量もある者ということで、馬渡源太夫を任命することが決まりました。

 

この事を、源太夫の親で、隠居していた市之允が聞き、寄親の數馬のところに朝早く行き、次のように告げたのです。

 

「ほんとうに、是非もない事になりました。御組のことでは、皆、御一門(中野氏)の方々ばかりなので、自分としては、御一門の皆様を追い越して、寄親のお役に立つようにと思い定め、源太夫にも、御一門の組なので、油断せずに、一門の皆様を押しのけてでも、寄親のお役に立つようにと、いつも言っていました。

 

ところが、御組から、源太夫を選び除けられることになり、面目次第もなく、御情けもないやり方と思います。

 

そうなったからには、知行主、家の主になる、源太夫はもちろんの事、隠居した自分も、世間に面目ないことなので、父子、共に、覚悟を決めたところです。」、そう、はっきりと申し上げたのでした。

 

數馬は、聞いて、「それは、とんでもない考え違いです。今度の組替りのことは、源太夫にとっては、この上ない良い事です。御家老の話し合いでも、器量があるので任命する、ということです。父子、共に、素直に喜ばれてよい事です。」と言ったのですが、

 

市之允が言うには、「話し合いのときに、その者は自分の一門の者同様に、組の中で、その位置に居るものなので、差し出すことはできませんとお答されるはずであるべきなのに、承知されたのは、普段から、特別に思われていらっしゃらないからです。それは、御見限りなされたということと思い、骨髄まで御恨み致します。」と、ずいぶんと、思い込んだ様子で言ったのでした。

 

それで、數馬が言うには、「成程、もっともな事です。今日、御家老の方々に御断りを申し入れてみます。」、と言ったので、「せめて、そのように言って頂かないと帰れませんでした。」と言って、帰って行きました。

 

數馬は、登城して、御家老の方々に言ったのは、「人の命は分からないものです。自分は、今朝、この油断した腹を突かれてしまいました。こんなこんなの事で、源太夫のことは、お赦しください。」と言うので、他の人がその役に命じらました。

 

63  50年、60年前迄の侍は、毎朝、行水し、月代を剃り、髪に香を燻き、手足の爪を切って、軽石で摺り、こがね草で磨き、身の嗜みを怠らずに居て、さらに、武具一通りは錆びさせずに、埃を払い、磨き立てて置いたものです。

 

身を念入りに手入れすることは、伊達好きと思われるかも知れませんが、そういう、風流ではないのです。

 

今日を、討ち死に、討ち死に、と必死に覚悟しているわけで、もしも、そういう嗜みなしに討ち死にになれば、普段の覚悟の無さが現われ、敵に見下げられ、汚く思われたりすることになるので、老いても、若くても、身を嗜むということなのです。

 

面倒な事で、暇つぶしかとも思われるかも知れませんが、武士の仕事というのは、こういう事なのです。それで、忙しいということもなく、時間のかかることでもありません。

 

常に、討ち死にの事を思い、すっかり、死に身になり切って、奉公し、武の方の仕事もするならば、恥を掻く事も無いのですが、そうしたことを夢にも思わずに、自分の好き勝手なことばかりで日を過ごし、その場になって恥を掻き、それを恥とも思わず、自分が良ければ、それでよいなどという事で、目に余る無作法な生き方になって行く事は、本当に、口惜しい事に思います。

 

常日頃から、必死という思いでいるならば、どうして、普段、卑しい振る舞いなどできるでしょうか。こういうところを、よく考えて置くべきです。

 

また、この30年来は、世の中の風が替わって、若侍達は、女の話、金の話、損得の話、内緒話、着る物の話、色慾の話題、などだけで、そういう話をしなければ、仲間で居れないようになっているようです。どうしようもない風俗になって来ました。

 

昔は、20才、30才の者達さえも、もともと、心に卑しいものを持っていなかったので、口に出ることもありませんでした。年かさの者が、つい、口にするようなことがあれば、怪我したように思ったものです。

 

これは、世の中が華美になり、自分の経済ばかりを大事に思うことで、こうなったのだと思います。自分の身に相応しくない贅沢をしなければ、どうにでも、やって行けるものなのです。

 

また、今どきの若者で、無駄遣いしないのを、よい家が持てる、などと褒めるのは、浅ましいことです。無駄遣いをしないことに気が働くのは、義理を欠くことになるものです。義理がない者は臆病者ということです。

 

64  一鼎の言ったことですが、よい手本に似るようにと一生懸命にすれば、悪筆も、それなりの上手になるものです。

 

奉公人も、よい奉公人を手本にすれば、それなりの者になります。

 

今は、その、よい奉公人の手本がないのです。ですから、手本を作って、習うようにすればよいのです。作り方は、礼儀作法の一通りは誰、勇気は誰、ものの言い方は誰、身持ちのよさは誰、律義さは誰、判断早く決断するのは誰、そういう風に、周りの人の中で、一番優れたところを、一つでも持っている人の、その優れたところだけを選びだして来れば、手本ができます。

 

およそ、芸能に於いても、師匠のよいところには及ばずに、よくない曲を受け取り、似せるばかりなので、何の役にも立たないのです。

 

その時に、うまく行っている者で、不律義な者がいます。その真似をするのに、おそらく、うまく行っているところは似せず、不律義なところを真似してばかりいるのです。

 

よい点に気が付くならば、何事も、よい手本、師匠になるのだ、という事です。

 

65  大事な手紙、書類などを持って届けるとき、道々、手に握って、ひと時も離さず、相手には、面と向い、真っ直ぐに渡すものだ、ということです。

 

66  奉公人は、四六時中気を抜かずに、いつも、主君の前、公的な場所に居る時のようにするものです。休憩の間に、うっかりしているようでは、その分だけ、公的なところでも、うっかりしているように見えるものです。

 

こういう心の持ち方でありたいものです。

 

67  気短かにしてはならないことがあります。住むところを替わることについて(*口達)。

 

よい時期というものが来るのです。そういう事は我慢が大事です。そして、今だと思うときは、手早く、緩まずにするのがよいのです。

 

いろいろ考えて、ぐずぐずして、失敗することがあります。

 

また、最初から、ひたすら踏み破って行ってよいこともあります。愛想も尽き、興ざめな進め方で、却ってよい場合があります。そいうときは、特に、一言が大事です。とにかく、気を抜かずに、心を決めているのが大事です。

 

68  酒を飲み過ぎて、人に後れを取る人が沢山います。本当に残念な事です。まずは、自分の飲める分をよく弁えて、そのうえで、飲まないですますようにしたいものです。そうしていても、時により、飲み過ごすことがあります。

 

酒の席では、その間、気を抜かず、不意に何か起きても間に合わせることが出来るように、予め考えて置くべきです。

 

また、酒宴は、公の事です。それを心得て置かなければなりません。

 

69  身の上下によらず、その分に過ぎることをする者は、結局は、卑怯、卑劣な事をして、下の身分の者なら、逃走もするものです。下人などには気を付けなければなりません。

 

70  武芸に一途に浸り、弟子などを取って、それで武士だと思う人が多いです。骨を折り、それでようやく芸者になるというのは、惜しい事です。芸能は、事欠かない程度に習えば済む事です。

 

多くの場合、多能な者は下劣に見え、肝心の事が行き届かないことになるものです。

 

71  よいに付け、悪いに付け、何か申し渡されるときに、無言でいるのも、当惑しているように見えます。ある程度の、返事があってしかるべきです。予め考えて、覚悟して置くことが大事です。

 

また、役を命じられたりするとき、内心で嬉しく思って、自慢の心などがあれば、そのまま顔に現われるものです。何人かいました。見苦しい事です。

 

自分は不調法者なのに、こんな役を命じられて、どうすればいいのか、全く、迷惑至極で、気の疲れる事だなどということで、自分の足りない分を知っている人は、言葉にしなくても、そう顔に現われ、大人に見えるのです。

 

浮ついた気分で、すぐ調子に乗る者は、道も間違え、物を知らないように見え、たぶん、失敗してしまうものです。

 

72  学問はよいことですが、たぶん、間違うところが出来てしまうものです。江南和尚の戒める通りです。

 

一行を見るのでも、自分の心の誤りを知るためにするならば、そのまま役に立ちます。

 

けれども、そういう風にはできないものです。多くは、見解が高くなり、理屈好きになります。

 

73  人が困っているとき、見舞いに行っての一言が大事です。その人の心が分かるものです。

 

兎に角、武士は、みすぼらしく、草臥れているのは、疵です。勇み立って、ものに勝ち、上を行く気持ちでなければ、役に立ちません。人の気を奮い立たせるということもあります。

 

74  後醍醐天皇が隠岐の国から戻られるとき、赤松と楠木がお迎えに出ました。感謝のお言葉がありました。

 

円心は、ただ平伏して、退がりました。正成は、お返事を申し上げました。よい返事です。この本に書いてあります。

 

75  ある者が逃走する者の追手に出ていたところ、駕籠に乗り戸を閉ざして通る者がありました。走り寄って、戸を引き開け、「誰それではないか」と声をかけてみると、他の者でした。「仲間を待っていて、失礼なことをしました。」と言って、そのまま通り過ぎた、ということです。

 

76  この前の大重要会議のとき、その会議の責任者を討ち果たす覚悟で、ある者が進み出て、自分の考えを詳しく申し上げました。

 

また、それが、その様に決定となった上で、その者は、御了承頂くのが早くて、御側の人の手薄で、厚みがなく、頼りなく思われる、と申し上げたものです。

 

77  役所などで、取り分け忙しい時に、何も考えずに、自分の用事を言う人が居ると、間が悪くて、それに、怒ったりする人がいるものです。そういうことは、特に、よくないことです。

 

そういう時程、落ち着いて、うまく相手をするのが侍の作法です。

 

角を立て、争うのは、中間の喧嘩みたいなものです。

 

78  場合によって、人に用を頼み、物を貰うことなどあります。それも、回数が重なると、無心したり、せびるようなことで、賤しいことです。

 

どうにかなる事であれば、用を人に言うことなどしないでいたいものです。

 

79  「大雨の感」ということがあります。道の途中でにわか雨に会い、濡れまいとして、道を急ぎ、走り、軒下を通るなどしても、濡れることに変わりはないのです。

 

最初から、そういうものだと心に言い聞かせて濡れるならば、心に苦しみはなく、濡れることは同じです。

これは、万事に通用する心懸けです。

 

80  どんな芸事も、武道のため、奉公のためという心掛けでするならば、役に立つ、よいものです。

 

多くは、芸事が好きになるものです。学問などは、とくに、危ないものです。

 

81  唐の国で、龍の絵を好む人がありました。衣服や、器ものにも、龍の模様のものばかりを使っていました。

 

その愛する気持ちの深さに龍神が感じて、ある時、窓のところに、本物の龍が現われました。その人は、驚いて、気絶してしまいました。

 

近くの者には大きなことを言っていて、その場になって、普段言ってることと違う、という人があります。

 

82  槍使いの誰それという者が、その末期に、一番弟子を呼び、遺言をしました。「流儀の奥義を残らず伝えたので、今更言い残すことはありません。もしも弟子を取ろうと思ったならば、毎日、竹刀を触ることです。勝負というのは、また別の事です。」と言ったそうです。

 

また、連歌師の教えでも、会席の前日から心を鎮めて、歌書を見るようにしなさい、ということです。

 

一つのことに打ち込む、ということです。それぞれの家の職も、それに打ち込むようにあるべきです。

 

83  中道は、物事の最良のことですが、武ということは、普段から、人を乗り越える心持ちでいなくては、出来ないことです。弓の教えで、左右ろくのかねを使いますが、右高になりがちなので、右低に射ると、ろくのかねに合うのです。

 

戦のときには、武功のある人をも乗り越えて行くように心懸け、強い敵を打ち取ると、昼夜、望みを抱いていれば、心は勇ましく、疲れることもなく、武勇を発揮できるというのが、古強者の物語です。

 

普段から、この心懸けでいるべきです。

 

84  鐡山が、老後、言っていたことですが、「捕り物の取り手は、相撲とは違って、一旦、下になっても、後に、勝てば、それで済む事と心得ていました。この頃思うのですが、一旦、下になったとき、誰かに止められてしまえば、負けになってしまいます。始めから勝つのが、結局は勝ちです。」と言っていたそうです。

 

85  武士の子供の育て方があります。まず、幼児の頃から、勇気を励まし、仮初にも、脅したり、欺したりすることはあってはなりません。

 

幼い頃であっても、臆病があるのは一生の疵になることです。親が、ついつい、雷が鳴るのを怖がらせ、暗がりに行かせないようにし、泣き止ませようとして、恐ろしがらせる事を言うのは、何も分かっていないのです。

 

また、小さい頃に強く叱るのは、気が引きこもり気味にしてしまいます。

 

また、悪い癖が付かないようにしなければなりません。癖が付いてしまうと、意見をしても直らないものです。物の言い方、礼儀など、少しづつ気が付くようにさせて、慾心を持つことなどないようにして、その他の事も、育て方次第で、普通の生れつきならば、よくなるものです。

 

また、夫婦の仲が悪い者の子は不幸だということは、その通りです。鳥や獣でも、生まれてから、見慣れ、聞き慣れ、することに、染まるものです。

 

また、母親が愚かで、父と子の仲が悪くなることがあります。母親が理由もなく子を可愛がり、父親が意見をすると、子の味方をして、子供と一緒になりするので、その子は父親と不和になるのです。女の浅ましい心で、将来の事を当てにして、子供と一味をするものと思われます。

 

86  決めた覚悟が薄いと、人に転ばせられることがあります。また、集会での話で、気が抜けているために、自分の覚悟のないことを、人の話につられて、うっかり、それに同意できるように思い、答えの挨拶も、そうです、などと言うことがあり、他所から見ると同意の人と思われてしまいます。

 

そういう事があるので、人に会いなどするときは、片時も気を抜かないようにするべきです。

 

その上で、話や物を渡されなどするときは、転ばせられないようにと思い、自分の納得できていないことは、それを言うことに決め、その事の間違いを言うと決めて、相手をしなければなりません。

 

大した事でなくても、少しの事で、違いが出て来るものなので、気を付けなければなりません。

 

また、普段から、どうかなと思う人とは近づかない方がよいのです。どうしても、転ばせられ、引き入れられてしまうものです。こういう事をはっきり分かるまでには、事の経験を積まなければならないことです。

 

87  ある者が、数年、勤めに励み、自分も他人も、よいご褒美を頂けるものと思っていたところで、公の御用手紙が来て、人は、何か分かる前から、お祝いを言いました。ところが、役米加増とのことで、人達は皆、案外で、思ったほどでなかったと思いました。

 

けれども、決まったことなので、お祝いを言ったのですが、その者は、殊更に顔付きを悪くして、「面目ないことになりました。つまりは、役立たずで、こんなことになり、これはどうしても、お断りして、職を辞めます。」、と言うのでした。それを、親しい人たちが、色々と宥め聞かせて、本人は勤めを続けました。

 

これは、ただ、奉公の覚悟がなく、自分を自慢する気持ちから来たことです。

 

ご褒美どころではなく、侍を足軽にしたり、何の罪もないのに切腹を命じられるとき、ますます、進んで、勇み立つことこそ、譜代の家来というものです。面目ない、などと言うのは、自分のことだけの、私ごとに過ぎません。ここの所を、よく、心に落とし込んでいなければなりません。

 

ただし、曲者のあり方としては、それは別にあります。

 

88  芸は身を助ける、というのは、他所の侍のことです。自分たちの、ご当家では、芸は身を亡ぼす、です。

 

何であれ、一芸ある者は、芸者です。侍ではありません。あれは侍だと言われるように、心掛けるべきです。

 

少しでも、芸に優れた所があれば、侍の害になると納得したとき、諸芸も役に立つのです。この辺りが、心得と言うものです。

 

89  姿形の修業は、普段から、鏡を見て直すことです。これが秘事です。人は鏡をあまり見ないので、姿形が悪いのです。

 

口上の言い方の稽古というのは、仕事を離れた、家での物の言い方で、直して行くということです。文章の修業は、一行の手紙でも、その文を工夫する、ということです。そのどれも、閑かで、強いのがよいのです。

 

また、手紙は出した先で掛物になると思え、ということが、了山が上方で聞いた事だそうです。

 

90  「誤りを改めることを、ためらってはならない」と言います。少しの遅れもなく改めれば、誤りは無くなります。誤りを誤魔化そうとすると、いよいよ見苦しくなり、苦しむのです。

 

禁句を言ってしまった時、手っ取り早く、そう言ってしまった理由を言えば、禁句は残らず、心もひけめはありません。もしも、さらに、咎める人がいたら、

 

「間違って言ってしまったので、そうなった理由を言ったのに、理解して頂けないのなら仕方がありません。そういう意味でなく言ったことなので、聞かなかったのと同じことです。誰のことでも、ああだこうだの話はするものとは思います。」そう言って、覚悟は決めなさい。

 

そういう事もあるのですから、人事や隠し事を、うっかり言うものではありません。また、一言であっても、その場の人を見て、ものは言うべきです。

 

91  字の書き方でも、、行儀よく、丁寧さがあることの、それ以上はないのですが、それだけでは、堅くて、低いものに見えてしまいます。

 

その上に、形よさを離れた姿があるのです。何によらず、そういう事があります。

 

92  ある人(-何某)の話ですが、「浪人などというのは、苦しくて、この上なく困ったことだと、皆、人は、思って、そうなりそうな時には、特に、ぐずぐずして、草臥れてしまうものです。浪人してみると、それ程の事はないのです。考えていたものとは違います。もう一度、浪人してみたいものです。」とのことです。

 

そうだろうと思います。死ということも、普段から、死に習いをしていれば、心やすく、死ぬことができます。

 

災難というのは、思っている程ではないものなのに、先の事を心配して苦しむのは、詰まらない事です。奉公人の最後は、浪人、切腹に決まっていると思って、予め、覚悟しておくべきです。

 

93  役職に就くことを危ないことに思うのは、腰抜け者です。そのことのために生まれてきているのですから、そのことで失敗するというのは、決まっていることなのです。

 

他の事や自分だけのことで、失敗することこそ恥というべきです。

みっともないことをしていては、勤めが果たせるはずはないという心掛けはなくてはなりません。

 

94  「人の心を見ようと思うなら、病気になれ。」ということが言われます。日頃は親しい付き合いをして、病気や困っているときに、付き合いを薄くするのは腰抜けです。

 

何でも、人の不運なときに、特によく付き合いを深め、お見舞いや、付け届などの贈り物をするべきです。恩を受けた人に対しては、一生、疎遠にすることがあってはなりません。そうしたことで、人の心のあり様が見えるものです。

 

思うに、自分が困ったときには人に頼り、後では、思い出しもしない人が多いのです。

 

95  人の勢いの盛衰から、その人の善し悪しを判断はできません。人の盛衰は、自然の成り行きなのです。その善悪は、人の行いの事です。人に教訓するいために、盛衰を使って言うだけのことです。

 

96  山本の前の神右衛門(山本前神右衛門)は、召使う者で、よくない事をする者は、1年の間は、何ともなく召し使い、年の暮れになってから、無事に、暇を出したものです。

 

97  鍋島次郎右衛門が切腹のとき、ある人(-何某)に、考えを四段まで巡らす、自分の意見を伝えられました。

 

最終的なご公儀のご決定で、世の中の評判を気にせずにすることで、却って、悪名を立ててしまうこともあります。ですから、最初、そのことが議論されたとしても、それを取り上げることはないはずです。

 

次に、それが取り上げられて、査問になっても、嘘を言えば、それで済んでしまうはずです。

 

その次に、罪状が論議されるときに、先祖の功績として、ついこの間、ご公儀に、四郎の旗をご覧に入れたことを言って、その議論を止めさせることができもしたはずです。

 

その次に、そうしたことが成り立たなかった場合には、ご用意をされなければなりません。

 

そういうことです。

 

98  諸岡彦右衛門を、用事があるということで、自分のところに来させ、話されたという事の一通りです。

 

神文ということであっても、「侍の一言は金鉄より硬いものです。自分が決めたことは、仏神であっても手出しされることではありません」。そう言って、止めさせたことがあります。26歳のときのことです。(弁財公事の極意の話あり)。

 

99  同じく、諸岡彦右衛門が、御前に罷り出てたときに、将監の事で尋ねられて、請け合いの御答えを申し上げたことについて。

 

100  将監の介錯の一通りについてと、御目付は鍋島十太夫、石井三郎太夫だったこと。三郎太夫が、見届けました、と言葉を掛けて、屏風を引き廻したという事。

 

101  造酒の切腹の一通りの事、二人(八助殿のお付きでいた)についての細かい事、預り物の点検に際して、數馬に申し付けた事、番付のときに、一言言って、中に入り、下がった事、女房が病気で、医者を呼んだときの一通りの事、物の言い方を人に尋ねる事。

 

102  新しく召し抱えた者については、心得て置くべきことがあります。能力を見せて、役に立ち、名を上げ、その子孫のためになる事をするものです。子孫にも、そのやり方が移るのです。

 

御譜代の家臣は、咎を自分の身に引き受け、主君のためになるようにと思うものです。

ある人(-何某)の、三家出入りのときの諫言というのが、そういうことです。

 

103  一鼎の言っていたことですが、何事も願えば、その通りになるものです。

 

我が藩に、昔は松茸というものはありませんでした。上方で、それを見た者が、我が藩でもできるようにと願い、今では、北山に、それを願い出して、いくらでもできるようになりました。

 

今後のことですが、我が藩の山に檜ができればよいと思っています。それは、自分の思う、未来です。皆がそれを願っているからです。

 

ですから、人は、願うということはあるべきなのです。

 

104  人相を見るということは、大将のする大事なことです。楠正成が、湊川で正行に渡した一巻の書物には、眼ばかり書いてあったと言い伝えられています。人相には、大変な秘伝があるのです。(※口伝のことあり)

 

105  普段にない事があると、怪事だと言って、何かの前兆だとするのは愚かな事です。

 

日と月が並び出ること、彗星、籏雲、光り物、六月の雪、師走の雷などは、50年、100年の間には、あることなのです。陰陽の運び加減で出現するものです。日が東から出て、西に入るのも、普段にない事ならば、怪事ということになります。それと同じことです。

 

また、天変のあるとき、世の中に必ず悪い事が起きるのは、籏雲を見て、何か事があるはずだと、人が、自分で心に怪事を生じさせ、悪い事が起きるのを待つので、その心が悪い事を生じさせるのです。怪事の取り扱いについては、口伝があります。

 

106  張良が石公の書を伝えると言い、義経は天狗の法を継いでいる、などというのは、兵法の一つの流派を打ち立てるためのものです。

 

107  殿のお側役に居て、長崎の御仕組みのとき、ある年、2番目組に割り付けられ、正式な書類もできてから、その役人に言ったことですが、

 

「陣立てに際して、殿のお供をしないということは、自分は承知しません。弓矢八幡に掛けて、触状や書類に、自分は判をしませんので、そうご承知ください。そうなるというのは、書物役をしているからのことなのだと思います。

 

この様に言うのが不届きだとして、役を解かれるのは本望ですし、切腹でも幸いと思います。」そう言って、立ち、その場を離れました。

 

その後、詮議があって、それは、やり直しになりました。

 

若いときは、力み返るということも、なくてはならないことです。心得て置くべきことだと、言われました。

 

108  姿形についての修業は、普段から、鏡を見て直すことです。

 

13歳のとき、髪を立てさせて頂くことになり、1年程、外出せず、家に引き籠っていました。

 

一門の人たちが、その前から言っていたことですが、「頭のよさそうな顔をしているので、そのうちに、失敗することだろう。殿様が特にお嫌いなのは、頭のよさそうにしている者だ。」と言うので、

 

この機会に、顔付を直そうと思い立ち、いつも鏡を見て直し、1年経ってから外に出たところ、人、皆から、元が弱いなどと言われました。こういうことが、奉公の基本だと思います。

 

頭の良さを表に出す者は、他の人たちに受け入れられません。どんなに揺れても座りがよく、強い所がなければ、姿形がよいと言えません。

 

丁寧で、苦みがあり、静かな調子のあるのがよいのです。

 

109  急な場面で、人に相談することもできないとき、そのときの分別のあり方は、四誓願に返って考えてみれば、そのままに分かるのです。思いあぐねるなどの余計なことは、いらないことです。

 

110  目付役というのは、大きな理解での心得がなければ害になるものです。

 

目付を置かれるというのは、御国を治められるためです。殿様お一人で、国の隅々まで見聞きすることはできないので、殿様のお振る舞い、御家老の正邪、お仕置きの善し悪し、世の中の申し様、下々の苦楽などを、はっきりと見聞きし、理解して、ご政道を糾明し、正すためのものなのです。

 

上に眼を付けるというのが、本来のあり方です。

 

それなのに、下々の悪事を見つけ、聞き出して、上に申し上げていては、悪事は絶えることはありません。却って、害になるのです。

 

下々の事情に通じている者は稀です。下々の悪事は、国家の害にはなりません。

 

また、調べに当たる者は、科人の言い分が通り、助かるようにと思い、調べに当たるべきなのです。

 

それも、結局は上の御為ということなのです。

 

111  主人に諫言するというのも、いろいろあります。

 

志のある諫言は、脇の者に知られないようにするものです。気に障ることのないようにして、曲ごとを直すものなのです。細川頼之の忠義がそれです。

 

昔のことですが、道中の間のことで、少し他所に寄って行きたいと仰せ出されたとき、お年寄りの、ある人(-何某)が聞き出し、

 

「私の一命を捨てて申し上げます。これまででも遅くなっているのに、他所に寄るなどされるのは、以ての外で、すべきではありません。」、そう言って、人々に向かい、

 

「お暇致します。」と言葉を掛け、行水し、白帷子の下着で、御前にお出でになられましたが、やがて、退出して来て、再び、人々に向かい、

 

「自分の申し上げ様がお聞き入れになられ本望この上ない事になりました。皆様と二度目の御目見えをできますことは、不思議な巡り合わせです。」などと、あちこちで、言い触れ回りました。

 

これは、主人の非を外に顕し、自分の忠義を言い立て、威勢を示すやり方です。おそらく、他国者と思われます。

 

112  勘定役の人は、すくたれて、腐れてしまうものです。その訳は、勘定というのは損得を考えることなので、いつも、損得の考えを持ってしまいます。死は損、生は得ですから、死ぬことが好きではないので、すくたれて、腐れてしまうのです。

 

また、学問をする人は、才知、弁舌によって、臆病な本体を、欲心などをうまく隠してしまうものです。

 

人が見誤るところです。

 

113  追腹が禁止になってから、殿の御味方をする、御家中の人はなくなりました。

幼少でも家督を立てるようになり、奉公に励むことがなくなりました。

小小姓をしなくなったので、侍の風俗が悪くなりました。

 

あまりにも御慈悲過ぎては、奉公人のためにならないのです。今からでも、小小姓を命じてもらいたいものです。

 

15、6歳で前髪を取り、大人ということにしてしまうので、引き嗜むということを知らず、飲み食いや、くだらない雑談ばかりして、言ってはいけない言葉、身だしなみということもなく、時間があれば、どうでもよいことに熱心になるばかりで、よい奉公人はできないのです。

 

小小姓を勤めると、幼少時から、いろいろな役目を見慣れ、御用に立つのです。副島八右衛門は42歳、鍋島勘兵衛は40歳で元服でした。

 

114  「武士道は死ぬことに狂うほどになることです。その一人を殺そうとしても、数十人でかかってもでき兼ねるものです。」と、直茂公は仰いました。

 

本気では、大業はできません。気違いのようになって、死に狂いになるだけのことです。

 

また、武道では、分別が出てきたら、それは、もう、後れを取っているのです。忠とか孝など要りません。武士道は、死に狂いなのです。その中に、忠も孝も、自ずから、あるのです。

 

115  これは、この前も聞いた事です。今度のお話は次のようなものでした。

 

志田吉之助が、「生きても死んでも残るものがないのなら、生きるの方がまし。」というのは、物事を逆さに見て、その裏を言ったものです。「行こうか、行くのを止めようかと思うとところへは、行かない方がよい。」とも言っています。

 

加えて言われたのは、「食おうか、食うまいかと思う物は、食わない方がよい。死のうか、死ぬまいかと思う時は死んだ方がよい。」、です。

 

116  大困難、大変事に逢っても狼狽えないというのは、まだまだです。大変な事態に逢っては、喜び、踊って、勇み進むべきものです。それが、一つ越えたところです。「水増されば、船高し」ということです。

 

村岡氏の御改めについての、前もっての注意のこと(口達あり)。

 

117  名人のすることを見聞きして、とても敵わないと思うのは、不甲斐無いというべきです。

 

名人も人です。自分も人です。どうして負けていなければならないのかと思い、一度向かっていけば、それで、もう、その道に入ったのです。

 

「15歳で学に志すところが聖人なのです。その後修業して聖人になったのではありません」、そのように、一鼎は言っていました。「初発心時弁成正覚」とも、言うことですよね。

 

118  武士は、万事心配りをして、少しでも後れを取ることを嫌うべきです。

 

また、物の言い方を注意していなければ、「自分は臆病だ。その時は逃げます。恐ろしい。痛い。」などと言ってしまいます。ふざけても、遊びでも、寝言でも、馬鹿話でも、言ってはいけない言葉です。心ある人が聞いて、心の奥を推し量ります。

 

普段から、よく考えて置くべきことです。

 

119  一分でも、しっかりと、武を自分の心に決め置いて、疑うことなく覚悟していれば、何かのとき、自然に、最初に選ばれることになるのです。これは、折々の振る舞い、物の言い方で、明らかにそうなるものです。

 

特に、一言が大事です。自分の心を見せるというのではなく、前々から人が知る、ということです。(口伝あり)

 

120  奉公を心掛けていた頃は、内でも外でも、膝を崩したことはありません。物を言わず、言わなければいけないときは、十言も一言で済ますようにと心掛けたものです。

 

山﨑蔵人なども、そうでした。

 

121  首を打ち落とさせてからも、一働きは、しっかり、できるものと考えています。義貞、大野道賢などで分かります。

 

どうして、人に劣っていられるでしょうか。

 

三谷如休は、「病死しても、2、3日は持ちこたえて見せます。」と言いました。(口伝あり)

 

122  古人の言葉に「七息思案」ということがあります。隆信公は、「分別も、時間をかけていると、はっきりしたところがなくなる。」と言われました。

 

直茂公は、「万事、時間がかかることは、十に七つはよくない。武士は、物事は、手っ取り早くするものだ。」とおっしゃたそうです。

 

心があれこれとふら付くときは、分別も決まりません。ぐずぐずせず、爽やかに、凛とした気持ちがあれば、七息をする内に、分別は決まるものです。度胸があり、吹っ切れた気持ちのあり様です。(口伝あり)

 

123  少し理屈を分かった人が、そのうちに、偉くなったような気持になり、一廉の人物と言われて喜び、自分は今の世の中と合わない生れつきだなどと言って、自分より上の人はいないように思うようでは、天罰が下るのです。

 

何様と思って、人よりよく出来ることがあるといっても、人に好かれない人は役に立ちません。

 

御用に立つこと、奉公することが好きで、随分と、謙遜に、遜り、仲間の下に居るのを喜ぶ気持ちのある人は、誰も嫌ったりしないものです。

 

124  諫言をするには、自分がその位にあるのでなければ、その位に居る人に言わせて、御誤りの直るようにするのが大忠というものです。

 

その位階を得るためにこそ、人と仲よくして行くのです。自分の為にするのなら、追従です。

そうでなくて、自分が荷を負う気持ちからのものです。確かに、成程の事です。

 

125  御家中に、よい、役職者が出てくるように人を作ることは忠節になります。

志ある人には、教えて行くのです。自分の仕事を、自分以外の人で御用に立つのは本望というものです。

 

126  隠居と当主、父子、兄弟の仲が悪いのは、慾から来るのです。

主従が仲が悪いということがないのが、その証拠です。

 

127  若くして出世し、御用に立つのは、それで成し遂げることは、ありません。生れつき頭がよくても、器量が未熟で、人が承服しないのです。

 

50歳位から、ゆっくりと仕上げるのがよいのです。それまでは、人の目には、出世が遅いと見えるようなのが、成し遂げることのある人なのです。

 

また、身が立ち行かなくなっても、志ある人は、自分の誤りでそうなるのではないので、早く立ち直るものです。

 

128  浪人して、慌てるのはお話になりません。勝茂公の頃の方々は、「7度浪人しなければ、本当の奉公人ではない。七転び八起きですよ。」と、口を開けば言っていました。成富兵庫などは、7回、浪人したということです。起き上がりこぼしと理解していなければなりません。

 

主人も、試しに、浪人を命じることもあるのです。

 

129  病気などは、気持ちで重くなることがあるものです。

 

自分は、老年になってからも御用に立つのだということを、大きな願いとしたので、親が70歳のときの子で、影法師のようだったのですが、自分を変えようと決意して、とうとう、病気もせずに来て、色ごとも慎み、灸をよくしていました。

 

このように過ごして来たことで、自分でもはっきり分かっていることがあります。

 

蝮は、7回焼いても、もとの姿に返ると言います。自分は大願があります。七生までも、この御家に生まれ出でて、本望を遂げるのだと、深く思い決めています。

 

130  直茂公の御考えの通り、志ある侍は、仲間と付き合いを親しくするものです。ですから、侍から足軽に至るまで、随分と親しくして来ました。

 

その人が、何かのときに一働きしてくれるだろうと思い、「主人のために、同意してくれませんか。」と言ったときに、言葉を違えることのないことを見届けていました。

 

そうすれば、それは、よい家来を持ったのと同じことになり、主人のためになるのです。

 

131  義経の軍歌に、「大将は人に言葉をよくかけよ。」とあります。

 

組の勤め役でも、そうしなければならない時には勿論のこと、普段からも、「これまでもよい働きで、さらにここで一働きお願いする、隅に置けない人間だ。」などと言ってあげれば、身命をも惜しまないものです。

 

とにかく、一言が大事です。

 

132  山本神右衛門(善忠)がいつも言っていたのですが、侍は人を持つことが最高の大事です。どれほど御用に立とうとしても、一人で武を張ることはできません。

 

金銀は人に借りる事もできます。人は、急にはでき兼ねるのです。普段から、人を、大事に、世話しなければなりません。

 

人を持つということは、自分の口でものを食べるのでは駄目で、一椀の飯を分けて、下の者に食わせて、それで、人が持てることになるのです。

 

だからこそ、「その身分で、神右衛門ほど人を持っている者はいないし、神右衛門は、自分にも勝る家来を多く持っている。」と、当時、そう言われたものです。

 

育て上げた者で、主君に使われることになった者で、手明槍になってしまった者が沢山いました。

あるとき、組頭を仰せ付けられたとき、「組の者については、神右衛門の気に入る者を新しく召し抱えたらよい。」と命じられ、御切米を下されました。どれも、皆、神右衛門の家来の者達でした。

 

勝茂公が月待ちの遊びをされるときは、寺井の井戸の神水を取りに人を遣わされます。「神右衛門組の者に申し付けるように。その者たちは、深い所まで入って水を汲む者達だから。」と、お考えでした。

 

こんな風に、心に掛けていて頂けるのでは、気持ちを込めて勤めないではいられない、ということになります。

 

133  神右衛門が言っていたのは、「曲者というのは頼もしい者であり、頼もしいのは曲者です。自分のこれまでの事で思い当たります。

 

頼もしいというのは、物事がうまく行っているときは要りません。人が落ち目となり、苦労しているときに、そこに分け入り、頼もしい事をするのが、頼もしいなのです。

 

そういう人は、きっと、曲者とされる人です」。

 

134  ある人(-何某) が帰参して、その子息が初めて殿様に仕えることになったときに言ったことですが、「お礼を申し上げるとき、『本当に有難く思います。埋もれていたものが、御目見えに与り、思いがけない、幸せで、これ以上のことはありません。この上は、命を投げ出して、御用に立ちます。』と心に言い聞かせなさい。その一心が、殿様の心にも届き、それで、御用に立つことができるのです。」と言ったのです。

 

また、お礼を申し上げる前は、「殿中で、目で見ることを止め、口で物を言うまいと決めて、座っているところから動かずに、人が話しかけて来ても、十の言葉は一で済まして答えるようにしなさい。他所から見て、しっかりと見えるのです。

 

あちこちを見て、物を言うことで、内にある心が外に散って、うかつな人間に見えてしまいます。

 

心の座り、というものです。慣れて行くときにこそ、忘れてはならない事です。」と言ったそうです。

 

135  少し頭のよい者は、今の事を、軽く、あしらった物言いになるものです。災いの元です。

 

口に気を付ける人は、善世には、役に付き、用いられ、悪世には、刑罰を受けることを避けられるのです。

 

136  神文については、深い秘事があるということです。

 

137  「ご意見を申し上げれば、一層、依怙地になられて、却って害になったりするので、ご意見を申し上げず、ご無理のことを仰せられても、畏まって承りおります。」というのは、すべて言い訳に過ぎません。

 

一命を捨て、申し上げれば、お聞き分けになられるものです。生半可な物の言いようで申し上げるので、お気に逆らい、申し上げる途中で言い崩され、引き下がる者たちばかりです。

 

先年、相良求馬が、お気に逆らうご意見を強く申し上げたところ、ご立腹されて、切腹と仰せい出されました。

 

生野織部と山﨑蔵人が来て、殿様のご意向を申し聞かせたところ、求馬は、「本望です。ただし、あと一つ言い残したことがあり、死んでは、その後の残念になってしまいます。皆さまとは日頃のよしみもあり、そのことを申し上げて頂きたいのです。」と言うことで、この両人から求馬の申し上げるところが、殿様のお耳に達することになりました。

 

さらにご立腹遊ばされるような内容でしたのに、求馬の切腹は待てと仰せい出され、お聞き分けになられ、赦されました。

 

また、中野數馬が年寄のとき、葉室清左衛門、大隈五太夫、江副甚兵衛、石井源左衛門、石井八郎左衛門が、御意に背いたということで切腹だと仰せい出されました。その時に、綱茂公の前に數馬が罷り出て、「その者共をお助け下さいます様に。」と申し上げました。公は、それを聞き、立腹されて、「僉議を極めて切腹と申し付けたもので、助けるべき道理があってそう言うのか。」とご下問になられました。數馬はこれを聞き、「道理というものはありません。」と申し上げました。

 

道理がないのに助ける様にと言うのは不届きだとお叱り受け、引き下がり、そして、またも罷り出て、「その者共は、何卒お助け下さいます様に。」と申し上げ、前回同様お叱りを受けて引き下がり、そして、また罷り出てして、繰り返し、七度まで同じ事を申し上げました。公は、それを聞いて、「道理はないのに、七度までも言うのだから、助ける時なのだろう。」と思い直されて、お助けになられました。こういう事が、何回もありました。

 

138  人を越えるためには、自分の考えていることについて、人に話をさせ、人の意見をよく聞くということだけなのです。

 

普通の人は、自分の理屈だけで済ますので、人を一段越えるということはできません。人に相談する分だけ、一段超えることになるのです。ある人(-何某)から役所の書類について相談されました。我々よりも、書きものを、よく調べて書く人です。添削を頼むところが人よりも上のなのです。

 

139  修行ということでは、これまで成就したという事はありません。成就と思うのは、それが、そのまま、道に背いていることになります。一生の間、まだまだ足りないと、死ぬまで思い続けてこそ、後から見ると、成就の人なのです。

 

純一無雑、打成一片して、一つのことに打ち込むというのは、なかなか、一生続けることはできないものです。まじり物があっては、道になりません。奉公は、武篇一片、武に打ち込むことを心掛けるべきです。

 

140  物が二つになるというのがよくないのです。武士道一つで、他に何か求めることをしてはいけないのです。

 

道というのは同じことです。それなのに、儒道、佛道を聞き、さらに武士道をなどというのでは道に叶っていません。そいうことを理解して、いろいろの道について聞くならば、それならば道に叶う事ができるのです。

 

141  歌の読み方で、続き具合や「てには」が大事だと言います。この事を考えてみるならば、普段の物の言い方に気を付ける必要があるということです。

 

142  武士は当座の一言が大事です。ただ一言で武勇が顕れるのです。治まっている世で勇を顕すのは言葉です。乱世でも、一言に剛臆が見えると言います。この一言が心の花です。それは、説明しようとしても、なかなかできないところのものです。

 

143  武士は、仮にも、弱気の事を言ったり、したりしないように、普段から心掛けて置くべき事です。かりそめの、一寸した事に、心の奥が見えるものです。

 

144  何事でも、できないという事はないものです。一念の決心があれば、天地でさえも思い直してくれるものです。できないという事などありません。人の甲斐性がなくて、思い立てないだけなのです。

 

力を入れずして天地を動かす、それもただ、心一つの事です。

 

145  「礼に腰折れず、恐惶に筆ついえず」という事を、我が親、神右衛門がいつも言っていました。親の当時の人は礼ということもあまりなく、うっかりしているようでもあり、目にする風体はよくはなかったのです。分け隔てなく、礼儀の恭しいのがよいです。

 

また、長く座に居る時は、始めと終わりは深く礼をして、座に居る間は、その場の次第に随っていてよいのです。それ相応の礼をしてと思っていると、礼が不足になるものです。この頃の人たちは、礼なく、早調子になってます。

 

146  「奉公人は喰はねども空楊枝、内は犬の皮、外は虎の皮」という事を、これも、我が親、神右衛門がいつも言っていた事です。士は外目をきれいに、たしなみを持たせ、内々は、そのかかりの費用を押さえてあるべきです。多分、その逆になっているものです。

 

147  芸能で上手の人は、馬鹿な人みたいなものです。というのは、ただ一つの小さな事に拘る愚かさで、他の事を考えずにいられて上手になるのだからです。何の役にも立たない人です。

 

148  聖君、賢君というのは、諫言を聞き入れるということだけです。いざという時に、御家中が力を出し、何事につけても申し上げ、何事かの御用に立とうと思うので、御家が治まるのです。

 

士は、仲間たちを頼みと思い、付き合い、その中でも知恵のある人に、自分のことでの意見を言ってもらい、自分のよくない点に気が付いて、そうして、一生、道を探し続ける人は、御国の宝となります。

 

149  40歳までは強くしているのがよい。50歳に成る頃には、おとなしくしているのが相応というものです。

 

150  人に紹介ごとをするのは、それぞれの相応のものにしておくのがよいのです。よい事だからといって、自分の身に合わない事を言うのは面白くもないものです。

 

151  上の人近くで働く人とは親しくしておくべきです。それを自分の為にするのでは追従になります。何か上の人に申し上げたいことのある場合のはしごなのです。ただし、その人が忠義の心がないならば、それは無用です。何事も、すべて、自分の主人の御為のことです。

 

152  人が意見を言ってくれた時には、それが役に立たない事であっても、忝い、ありがとうと、その言わんとするところを聞きとり、受け取っておくものです。そうしなかったら、重ねて見つけ、聞きつけした事を言わないようになるものです。

 

どうにでも、心安く意見を言えるようにして、人に言わせるようにするのがよいのです。

 

153  諫言はその仕方が第一です。すべての事を欠けるところなく整えられるようにと思い申し上げれば、用いられずに、却って害になるものです。遊びごとについては、どのようにされても問題はないことです。

 

下々が安穏にしていられる様に、御家中の者が御奉公が進むようにと思い申し上げるのならば、下の方から御用に立ちたくて思っての事なので、御国も家も治まるのです。これは、ご苦労をお掛けするようなことではありませんと申し上げれば、ご理解頂けるものです。

 

諫言や意見は和の道、よく話し合っての事でなければ用に立たたないのです。これが正しいというような、決め付けた言い方では、当たり合いになり、簡単な事も直らないのです。

 

154  世の中、教訓を言う人は多く、教訓を喜ぶ人は少ないのです。ましてや、教訓に從う人は稀です。年が30にもなれば、教訓する人もいなくなります。教訓の道が塞がり、我儘にして、一生間違ったことを繰り返し、愚かさも増して、すたれて行くのです。道を知っている人には、どうにでもして、慣れ親しみ近付いて、教訓を受け取るべきです。

 

155  名利の薄い士は、おそらく、にせものになり、人を罵り、高慢に、役に立たず、名利の深い者に劣るものです。今日の役に立たないということです。

 

156  大器は遅く出来上がる、大器晩成、ということがあります。二十年、三十年を掛けて仕上げる事でなくては、大功ということにはならないのです。奉公の上でも、急ぐ心がある時は、自分の役以外の事に口を出し、若巧者と言われ、その気になって、がさつな事を仕出かし、出来た出来たと言って上手のふりをし、追従や軽薄の気持ちが出来て来て、後ろ指指される事になります。

 

修行に骨を折り、立身も人に引き立てられてするのでなければ、用に立ちません。

 

157  一つの役を勤める者は、その役の肝要なところをよく考え調べて、今日で最後だとの思いで、念を入れて、主君の御前だというつもりで大切に勤めるならば、誤りはないのです。

 

役を勤めて本意を果たすという事があります。そのための役を得なければなりません。

 

158  不気味で、気掛かりなことがあると言って、役を断り、その場から離れてしまうのは、御譜代、相伝の身ならば、主君のことを後回しにし、逆心を持つのと同じことです。他国の侍は、そういう、不気味で、気掛かりな時、その場を離れる言い訳をします。

 

仰せ付けられた事ならば、理非を言わず受け取り、從い、その上で、気に叶わないことは、何度でも訴えて行くべきなのです。

 

159  楠木正成兵庫記の中に、「降参ということは、謀ごとであっても、主君のためであっても、武士のすることではない。」とあります。忠臣とは、このようにあるべきです。

 

160  奉公人は、ただただ奉公が好きであるのがよいのです。また、大役を危ない事に思い、それを逃れようとするのは、腰抜け、卑怯者です。その役を任されて、心ならずも失敗するのは、虎口の討ち死にと同じ、立派なことです。

 

161  役儀を選り好みし、主君や上司の気風を推し量りして、自分のために勤めるだけの者は、たとえ十度までもそれが当たったとしても、一度はずれると、滅亡し、汚く崩れるものです。自分の中にしっかりした忠臣の気構えがなく、私曲、邪智を深くしているからです。

 

162  一門や同じ組の中で介錯や捕り物など武士道に係わる事がある時は自分が第一の者であると普段から心掛けているならば、そういう時には、自然に、人の目にも付くものです。いつでも、武勇の人をさらに越えようと心掛けて、誰それにも劣らずにいようと、勇気を修行しておくべきです。

 

163  戦場においても、人に先を越されないようにと思い、敵陣を打ち破りたいものとのみ心掛けるならば、人に遅れず、心も勇み、武勇を顕すものだと古老は申し伝えています。

 

また、討ち死にする時も、敵方に向いて死骸が残るようにと覚悟しているべきことです。

 

164  人が皆一つになり和して天道に任せていれば心は安らかに居られrます。一つに和しているのでなければ、大儀に合う事でも、忠義にはならないのです。仲間と仲が悪く、ちょっとした集まりにも顔を出さずに、すねた事のみ言うのは、度量のない愚痴から出てくる事です。自然にしているという事で、心に叶わない事があっても、顔を合わせる時には、よく挨拶して、何事もないようにして、何度でも飽きることなく、気を付けて応対しなければなりませんん。

 

また、無上の世の事ですから、今の事も知ってもらえず、人に悪く思われたままになってしまうのは、どうしようもありません。ただし、売僧や軽薄者というのでは見苦しいことです。それは、自分の為にならないことです。

 

また、人を立て、争うこころを持たず、礼儀を乱さず、へり下り、自分の為にはよくなくても、人のために良いようにすれば、いつでも、初めて会う時のようにいて、仲が悪くなることもありません。

 

婚礼してのあり方も、別して、同じことです。終わりを慎む事が始まりのようであれば、不和と言うことはないはずです。

 

165  何事も、人よりは一段高い所から見なければだめです。同じようなところでぐずぐずしていれば、がたがたして、当たり合いになるので、はっきりした事ができません。

 

ある人(-何某)は、その身上を崩した事を人が嘲り言うのに対して、「何ともない事です」が、不運で残念ではあります。」と言ったものです。また、「御主人が懇ろに親しくされるのも、騙しての事なので、有難いとも思いません。」などと言う人がいるので、「どうも分かっていませんね。志の深い人は、騙されて、それがひとしお嬉しいものなのです。」と言い聞かせたそうです。

 

166  ある和尚は頭がよく、何事も人に押し付け、やらせて済ましています。今の日本ではそれに手向かうほどの出家はいません。でも、人と違う所は全然ありません。物事の根本のところを見届ける力のある人がいないだけのことです。

 

167  よい人はいないものです。功をなすのに為になる話を聞く人さえありません。まして、修行する人はいません。この前から、あちこちで、何人か人に会いましたが、皆、加減した話をしています、目いっぱいの話をしたら嫌われることでしょう。

 

168  老耄は、得意な事でするものです。気力が強いうちは、いろいろと隠し終えていることでも、衰えると、本来の得意な方が出て、恥ずかしい事になるのです。その現われ方や方面は違っても、60歳にもなろうという人で老耄しない人はいません。老耄はしないと思う所がすでに老耄なのです。一鼎は理屈老耄だと思います。自分一人で御家は抱き留めてみせると、歴々の方々を、老いぼれた姿形で駆け回り、昵懇にしています。誰もが本当にそうだなと思います。

 

今思うと、それが老耄なのです。我々の良いお手本となるような人の老耄を実際に見て分かったので、御寺に行くのも十三年忌で終わりにし、お参りせず、一層の禁足を決めています。この先の事を見通していなければならないのです。

 

169  新しい事というのは、よい事であっても、悪い事も出て来るものです。先の御参勤の前、御側年寄りなどが僉議して、今度の将軍の宣下御能に人が多く要るので、御馬廻役の手明槍に侍役をさせて、予め御見知り置きされるのにもよいということで、数人を召し連れてて行くことにしましたが、実事に長けた者たちは、よくない事の元になると言っていて、やがて争論が起こり、御部屋付きの、羽室、大隈など五人が浪人となりました。

 

また、侍を御見知り置かれるためということで、究役として二十人を選ばれましたが、それ以来、究役の暇がないほど、よくない事が多くなりました。

 

170  本筋さえ外さない様にすれば、枝葉の事では、かけ離れた、思いがけない事をしても構わないのです。

枝葉の事に、結局は大事なことがあるものです。少しの事に、そのあり様の善し悪しもあるのです。

 

171  龍泰寺から聞いた話しですが、上方で易者が言うには、御出家の方であっても、40歳までは立身は無用です。誤りがあるものです。四十にしてまどはずという事は孔子に限った事ではありません。賢くても愚かでも、40歳に成れば、その身の丈相応に経験もできて惑うということはなくなるものです。  

 

172  武に生きる者は、敵を打ち取るよりは、主のために死ぬのが手柄です。継信の忠義によく現われています。  

 

173  若い時に、残念記と名付けて、その日その日の自分の誤りを書き付けて見たのですが、20、30とない日はないものでした。切りがないので止めました。今でも、一日の事を、床に就いてから考えてみると、言い損ない、し損ない、それがない日はありません。どうしても、うまくできないものです。自分の利発任せでする人には分からない事です。

 

174  物を読むときは腹で読むようにします。口で読んでは声が続きません、そう式部には教えました。

 

175  物事がうまく行っている時は、自慢と奢りが危ないのです。そういう時は、毎日の事を一層慎むようにしなければ、追い付かないことになります。物事のよい時分にそれに乗って進む者は、よくない時分に草臥れてしまうものです。

 

176  忠臣は孝子の門に尋ねよ、と言います。本当に心を尽くして孝行をすべきです。亡くなってから多くの心残りの事が出来てしまうものです。奉公を一生懸命する人というのは、自然と出て来ますが、孝行を一生懸命する人は稀です。

 

忠孝と言う事は、無理な主人、無理な親が居るのでなければ分からない事です。よい人ならば、他人でも親しくしてくれます。松柏は霜後に顕ると言います。元政法師は夜明けに魚の店に行き、苞に包んだ魚を服の下に隠して、母に上げたと言います。想像するさえ、普通ではありません。

 

177  「物を書くのは、紙と筆と墨とが、お互いを思い合う様にすることが、上手ということです。」というのが一鼎の言っていた事です。離れ離れになりたがるものなのです。

 

178  文庫から書物を出されました。開けた時、丁子の香りがしました。

 

179  大気というのは大慈悲の意味です。神詠に「慈悲の目ににくしと思う人あらじ科のあるをばなほもあはれめ」とあります。広く、大にして、限りがありません。普くということです。上古三国の聖人を今日まで崇め奉るのも、慈悲の広く至る所なのです。何事も、君父の御ため、または、諸人のため、子孫のため、するべきです。それが大慈悲です。慈悲から出る知勇が本物です。慈悲のために罰し、慈悲のために働くので、限りなく強く正しくできます。自分のためにするのでは、狭くて、小さく、小気です。悪事になります。

 

勇知の事は、以前に分かりました。慈悲の事は、この頃、はっきり分かりました。家康公の仰せに、「諸人を子の如く思ふ時、諸人また我を親の如く思ふ故、天下泰平の基は慈悲なり。」とあります。

 

また、寄親、組子という事は、親子に擬えて、一つに和する心という事で付けた名前と思います。

 

直茂公が、「理非を糺す者は、人罰に落つるなり。」と仰せられたのは、慈悲からの御言葉と思います。「道理の外に理あり。」との仰せも慈悲なのだと思います。その意味の深さをよく味わうべきです。そのよう事を詳しくお話になりました。

 

180  湛然和尚が言うには、「奉公人で利発なものは大成しないものです。ただし、ぼけた者になることはない。」

 

181  式部に意見したことがあります。若い時分には衆道のことで一生の恥になることがあります。心得がなければ、危ういことなのです。言い聞かせる人がいないものなのです。おおよそ次の様なことです。貞女は両夫に見えずと心得るべきことです。情は一生に一人のものです。そうでなければ、その場だけの、野郎かげま、へらはり女と同じです。これは武士の恥です。「念友のなき前髪縁夫をもたぬ女にひとし。」と西鶴が書いたのは正に名文、その通りです。人に嬲られるものです。

 

念友は、5年程はいろいろと志を見届け、その上で、自分からも頼みにするようにするべきなのです。浮気者は根気がなく、後で見離すものです。互いに命を捨てての後見をするのですから、よくよく性根を見届けなければなりません。

 

煩く言うような者であれば、都合が悪いと言って、強く振り切るものです。どんな都合かなどと言うなら、生きてる内には言えないことだと言って、さらに無理を言うようならば、腹を立て、それでもだめなら切り捨てるのです。

 

男の側からすれば、若衆の心底を見届けることは、前と同じです。5、6年変わらず命を掛けていれば叶わないという事はありません。もっとも、二道になるのはだめです。武道を励まなければなりません。それで武士道にはなるのです。

 

182  星野了哲はこの国の衆道の元祖です。弟子が多いのですが、皆に、一人一人に伝えました。枝吉氏は理解しました。江戸に御伴で行くことになった時、了哲に暇乞いしたところ、了哲が「若衆好きということは分かりましたか。」と言うので、枝吉は答えて、「すいてすかぬ者」と言ったそうです。了哲は喜んで、「そなたをそれだけの者にしようとして骨折りました。」と言ったそうです。後に、枝吉にその意味を聞いた人がいました。枝吉が言うには、「命を捨てるのが衆道の最高のものです。そうでなければ恥になります。そして、そうであれば、主に奉る命はなくなります。だから、好きですかぬものと思っているのです。」だそうです。

 

183  中島山三殿は政家公の御小姓です。船中で死去し、高尾竈王院に墓があります。中島甚五左衛門の先祖です。ある人が、その恋の叶わないのを恨んで、七ツ通れば二合半恋し、という小歌を教えました。御前にて、その歌を面白がり披露したのでした。古今無双の少人だとお褒めに預かったそうです。勝茂公もご執心だったそうです。御出仕されていた頃、山三殿が通りがけに、御膝に足が触り、すぐにその場に控え、御膝を押さえて、お詫び申し上げたそうです。

 

ある夜、百武次郎兵衛の辻の堂屋敷に山三殿が来て、申し入れをし、次郎兵衛は驚いて走り出て、屋敷の外で会って、御前に対しても憚られるし、その様子を見ても、すぐにお帰り頂きたいと言ったのでした。山三殿が言うには、「たった今、逃れられない行掛りで、三人を切り捨てたのですが、その場での切腹は残念の事に思い、詳しい事を申し上げてからとの思いで、それまでの命ですが、そちらを見込んでの事で、御近付きにして頂いていますが、よろしくお頼みしたいのです。」と言うのです。次郎兵衛は気持ちも落ち着いて、「私を人と見込んでお頼み頂き、過分極まりないことです。安心して下さい。中で身支度も遅れになりますから、すぐに。」と言って、そのまま山三殿を伴い、まずは筑前の方へと向かい、都度城まで手を引き、背負いして、夜明けに山の中に隠しました。その時、「この事は偽りです。御心底は見届けました。」と言って、契りを結んだのです。それ以前の2年の間、次郎兵衛は、怠ることなく、山三殿登城の道筋の橋で通り合わせ、下城にも通り合わせて、毎日見送っていたと言う事です。

 

184  一鼎が言うには、「よい事をするとはどういうことかと言うと、一言で言えば、苦痛を堪えることです。苦を堪えることがなければ、すべて、よくない事です。」だそうです。

 

185  大人は言葉の少ないものです。日門様へ、一雲が御使者で参られた時、御面談の後の御返事で、「丹後守へよろしく。」とだけ仰せになりました。

 

186  40歳以前は、知恵分別でなく、強めに過ぎるぐらいがよい。人により、身の程によっては、40歳を過ぎても、強さが見えなければ、響きのないものです。

 

187  物頭などで、上に立つ者は、組衆には親切にするべきです。中野數馬(利明)が大役に就いていた時、暇がなくて、最後まで組衆のところに行くことがありませんでした。ただし、組衆が病気とか、何かある時には、御城の帰りにお見舞いに行ったりしました。そういうわけで、組中が、この人のためにと思ったのでした。

 

188  ある人が、今回の江戸出で、その1宿目から詳しい事を記した書状を寄こしていました。忙しく、取り紛れの時は、多くは無沙汰をするものなのに、こんな風に心遣いをしてくれるところが人よりも上のなのです。

 

189  古老のする評判話ですが、武士の意地を立てるという事は、やり過ぎな程にするものだということです。よい加減の所でそのままにするのは、後日、不足に言う評判が出てくるものです。やり過ぎと思う程にするならば、し残しはないと聞きました。こうした事を忘れてはいけません。

 

190  討ち果たすと、思い決めた時、たとえば、真っ直ぐに行っては、し果たせない、遠いけれどもこの道を廻って行こうなどとは思わないものです。手順が延びて、心に緩みが出来るので、大方は、し果たせないのです。武道は早くするべきものならば、無二無三にするべきです。

 

ある人ですが、川上御経のときに、渡し船で行っていて、酒狂の小姓が船頭をからかい、船を上がって船頭に向って刀を抜いたところを、船頭が竿で小姓の頭を打ちすえました。その時、近くにいた船頭どもが、櫂を持って走って集まって来て、叩きのめそうという事になっていました。

 

それなのに、主人は知らん振りをして、通り過ぎて行きました。小姓の一人が走り帰って、船頭どもに断りを入れて、言い宥め連れ帰り、その晩、その酒狂の者は大小を取り上げられたということです。

 

まずは、船中で酒狂の者を叱り、船中を宥め、静めなかったのは不足の事です。また、理が通らなくても、頭を打たれた以上は、断りを入れるなどは無用です。断りを入れ、言う振りをして近寄り、相手の船頭を打ち捨て、酒狂者も打ち捨てるべきところです。主人もふがいなしです。

 

191  昔の人の覚悟には深いものがあります。13以上、60以下は出陣ということがあります。だから、古老は年を隠すと言います。

 

192  覚悟のあり様を言う、ある人の覚書にある事です。

 

主君の身辺に勤める者は、特に、その身持ちを、覚悟して慎むべきです。御側に仕える者の様子で、その主人の程度を人が推し量るものです。

 

また、諫言は、時を移さず申し上げるのでなければなりません。今は御機嫌が悪いので、何かの序での時になどと思っている内に、思いがけない誤りが出て来たりします。

 

また、罪に問われた人を悪く言うのは、不義理というべきです。また、物事がうまく行っている人には無音にしていて構いません。落ちぶれた人には、何かと不憫にして、何とか立って行けるようにすることは侍の義理です。

 

そう書いてあります。、

 

193  ある者が、今のその役儀にあり、お届け物を受けず、さらに、返しさえしたとき、家来たちが、どうしようもなくて、誰にも言わずに手元に置いておくこともあるかもしれないということで、その時々に返しの手形を取っていたそうです。その他になおさら、取り入るとか、申し入れるとかの頼み事は受けず、当今、眼を見張る程の出来る人と、佐賀中で取り沙汰されているそうです。初心者のする事です。欲深よりはましですが、本当の志あるやり方とは言えず、自分の身を守るだけの仕方です。そういう事をする人はいないので、人の口に上るだけのことです。少し頑張るならば、その名を取る事はた易い事です。欲を内心に持たず、目に立たない様にすることが、なかなかできないのです。

 

194  自分の身に振り掛かった重要な事柄は、分別が至らなくても、まず考え、そこで地盤を据えて、無二無三に踏み破り、やり切ってしまわなければ、埒が明かないものです。大事の事を人に相談していては、人に見限られも多くあり、人が、思ったそのままを言わないものです。

 

こうした時こそ、自分の考えが大事なのです。とにかく、自分は気が違ったと決めて、自分の身を捨ててするならば、片付き、済んでしまうものです。その時に、上手にしようと思うと、もう迷いが出て、おそらく、失敗します。

 

多くの場合、味方の人で、自分の為を思う人に、転ばされたり、引きずられ、どうしようもなくみっともなくされてしまう事があります。

 

195  この春、権之丞の所に初入りした時、「去年の暮れから出米休息で、8月までは暇になるので、一字一石でも書こうかと思っています。」と言うので、意見しました。

「もっとも暇のない時期だからということであっても、この9月に人並みに勤めに出るようでは本望ではありません。出米休息の内に選びだされてこそ嬉しい事です。そうであればこそ、今こそが暇のない時です。有無を言わず、出米の内に選び出されるように粉骨砕身して勤め励めば、そのまま、望みが叶うものです。これは自分にも覚えがあります。

 

12歳の時から、髪を立てる様にとの仰せで、お側を下がり、14歳まで無奉公のままで居ました。そうした時、両御殿様がご下国になり、その御行列を見て、どうにも奉公したくなったので、巨勢宮に参詣して、この5月から勤めになりますようにと願を懸けました。本当に不思議なことですが、4月の晦日に、明日、5月1日から勤めに出る様にとの仰せがありました。その後、若殿様の御前に罷り出でたくて、いっそのこと、若殿様の御出での折にお願いしてみようと、夜昼、心掛けていたところ、ある夜に、若殿様が出御になられた時、小小姓に罷り出る様にということで、早速罷り出でたところ、さても早く罷り出でた、外に出会いの者は一人もなくて、よくぞ罷り出でたと、深く御意なされて、その時のありがたさは今も忘れずにいるのです。一念の志があれば、叶わない事はないものです。」そう言っておきましたが、それから、権之丞が今度の出米休息の内に、御使者の役を命じられて、その家の人たちは不思議なことと言っていました。

 

若い時から、見た目がこの通りの自分なので、御用に立つこともなく、出頭する人を見て羨ましく思った時もありましたが、殿様を大切に思う事では自分に続く程の人はいないはずだと決めて、その事だけで心を慰め、自分の小身、不束さも忘れて勤めて来ました。その思い通り、御卒去の時は、自分一人でお家の御外聞を取り留めたのです。

 

196  山﨑蔵人が「見え過ぎる奉公人はわろき。」と言われたのは名言です。忠だ不忠だ、義だ不義だ、適切だ不適切だ、などと、理非邪正に心を向けるのが、いやなのです。無理でも無体でも、奉公を好み、無二無三に主人を大切に思うならば、それで済む事なのです。それがよい勤め人なのです。奉公を好き過ぎ、主人の事を心配し過ぎて過ちになることもあるでしょうが、それこそ本望でしょう。万事過ぎたるは悪と言うもののですが、奉公に限っては、奉公人は、奉公に好き過ごし、過ちをして本望なのです。理の分かる人は、おそらく、少しの事に拘り、一生を無駄に暮らすことになりして、残念なことです。本当に、一生は短いのです。ただただ、無二無三がよいです。あれこれするのが、いやなのです。万事を捨てて、奉公三昧に限ります。忠だとか義だとか言う、これ見よがしの理屈が、返す返すも、いやです。

 

197  「先祖の善悪は子孫の請取人次第。」と仰せになられています。先祖の悪事を言い立てず、善事になる様に、子孫としてのやり様があってしかるべきです。それが孝行になります。

 

198  養子縁組が金銭の事ばかりになって、氏素性の事はなくなり、あさましいというべきです。こうした事も、不義と分かってはいるけれども今日が立ち行かないと理屈を付け、不義を行うのは、重ね重ねの悪行です。理屈を言っては道が立ちません。

 

 

199  ある人が、「誰それが惜しい事だった。早死にした。」と言いました。「惜しい者には入りますね。」と答えました。また、「世が末になり、義理が絶えてしまった。」と言うので、「窮すれば変ずと言いますから、そろそろ、よくなる頃です。」と答えました。こうした違いが大事です。中野将監の切腹の時、大木前兵部の所に組中の者が集まり、将監の事を、いろいろ悪口を言いました。

 

兵部は、「人の死んだ後に悪口は言わないものです。特に、罪とされたのは不憫な事でもあり、少しでもよく言う様にするのが侍の義理です。20年も経ったら、将監は忠臣と言われるようになる。」と言ったそうです。

 

これは、本当に老巧の言葉だと言う事です。

 

200  古川六郎左衛門の語ったことですが、「主人でありながら役に立つ者を欲しがらない主人はいません。我々のような者でも欲しく思うのですから、大身の方ほど、強く望むものです。そういうところに、何事か役に立とうと思うならば、そのまま、考えが同じなのですから、役に立つ者です。自分が日頃欲しがっている物を、人が呉れると言うのなら、飛び掛かっても取るべきです。そういう事を、人は気が付かず、一生無駄に過ごすことになると、老境に入り、ようやく分かりました。若い人たちは、油断しないように。」というのです。耳に残り、覚えています。

 

どれをこれをと考えるのでなく、ただただ、御用に立ちたく思うまでの事です。そう思わないという事はないものですが、いろいろと妨げになるものがあり、打ち破らなければ、あたら一生を無駄に暮らし、本当に残念の事です。

 

我々のような者がどうしてお役に立てようかと、卑下して暮らす事もあります。御用に立ちたく、真実強く思うならば、出来の悪い位がよいのです。知恵や利口は、却って、害になる事があります。小身で、田舎にいたりすると、家老や年寄などというのは、理解できない不思議な存在のように思えて、有難過ぎて、近寄りもできず、それでも、親しくなり、心安く話をするようになれば、常日頃、御用のことを忘れず、心配するということだけで、外に違いは少しもありません。

 

役に立つという上で、それほど、奇妙な知恵は要らないのです。何としても、殿の御為、御家中、民百姓のためになる事と思うのは、愚かな我々でもできる事なのです。そうは言っても、御用に立とうと思い立つ事が、なかなかできない事なのです。

 

201  物事が上手く行っている時に第一に用心すべき事は、自慢と奢りです。いつもの倍も用心しなければ危ないです。

 

202  武具を立派にしておくのはよい嗜みですが、何でも、必要な数があればよいのです。深堀猪之助の物の具のようなことです。用意すべきお金も、大身で人を多く持つならば必要になります。岡部宮内は、組中の人数分の袋を作り、それに名前を書き、それぞれに相応の軍用銀を入れ置いていたそうです。このような嗜みを持つことは、意味の奥深いものがあります。

 

小身の者は、その時に用意がなければ、寄親に頼んで、世話になれば済む事です。ですから、日頃から寄親とは親しくして置くべきです。お側の者は、殿様に付いてさえいれば、用意がなくても済みます。ある人(-何某)は、大阪夏の陣の時、灰吹銀を12匁持って、多久図書殿に付いて出陣されました。ただ、いち早く駆け出して済む事です。こうした気配りもなくてよいと思われます。

 

203  昔の事を改めて見てみると、いろいろの話があり、決められない事もあり、それは分からないままにしておけばよいのです。實教卿のお話になったことですが、分からない事については分かるようにしたものもあり、また、自分で分かる事もあり、また、どうしても分からない事もあり、それが面白いところなのだと仰せられます。奥深い事です。深い秘事で遥か昔のことは分かるはずがありません。簡単に分かることは浅い事です。

 

*7   左京様 勝茂公の十男、神代左京

*8   一鼎 石田一鼎(山本常朝の師)

*9   先般のご逝去 鍋島光茂公の死去

*15 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」)

*16  介錯 切腹の介錯役

*19  愚見集 山本常朝の別記本

*22  日峯様の百年忌 日峯様(鍋島直茂 天文7年/1538-元和4年/1618)なので、百年忌は、生誕百年紀のことと思われます。

*33  實教卿 三条西大納言實教

*60  山本前神右衛門 山本常朝の父

*121義貞 新田義貞

*138 何某 →ある人 実名のところを伏せる表記(*165、*166「何和尚 →ある和尚」)

*171 龍泰寺 佐賀県佐賀市赤松町にある曹洞宗の仏教寺院

*172 継信 佐藤継信(義経の郎党として平家追討軍に加わり、討ち死にした。)

*174 式部 石井駿河守忠吉(忠義)を指すか。

*183 政家公 龍造寺政家

*185 日門様 ※参考文献でも不詳とされる

*185 一雲 鍋島一雲

*195  権之丞 山本常朝の養子、常俊

*195 両御殿様 鍋島光茂、鍋島綱茂

*196 山﨑蔵人

*202 深堀猪之助

*202 岡部宮内

注記 15:話をそのまま記すのではなく、とある事情で、要点だけの記録に留めたものかと思われます。

      原文は「...の事。」という記述の繰り返しが、初めの方で5回もあります。

注記 27:馬鹿になるのも、大器量、ということ。

注記 48:「も」の一文字を加えて... →「巧者の武士は、してもいない武道で、その名を上げる行き方もあり。」

注記 51:夏の土用 の頃(旧暦 6 月25日、26日)、海女は漁を休み、などする風習もあり。

注記 62:御使い番母袋(...ほろ、と読む) 

注記 67:(*話されました) →「口達」です。

注記 83:左右ろくのかね →「左右肋の尺」、水平を測る、という事。

注記 102: 御三家( 蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支藩)

注記 104: (※口伝のことあり) →本文には「口伝」の文字のみです。これは、陣基が常朝の談話を記録したとき、文字にする

       なということで、常朝から聞いたことがあることを表しています。

注記 105: 「口伝があります」 →陣基が常朝から、そのように聞き、常朝は、その口伝を陣基に話したのです。「口伝」という、

       文字にできない伝え方を言っているのです。能楽などの芸能などにおいても、「口伝」という伝え方があります。

注記 115:「志田吉之助が、...その裏を言ったもの」というのは、「残るならば死ぬ」ということを、その「裏を」言ったということ。

       志田吉之助は、「生きる」とか「危ない事はしない」ようなふりをするのは、「死ぬ」ことに決めているからなのです。

注記 136:神文 →起請の内容に偽りがあったり違背した場合、神仏の罰を受けるべき旨を記した文

注記 145:「礼に腰折れず、恐惶に筆ついえず」 →礼儀正しくお辞儀をして、それで腰が折れることはありませんよね。

       それに、「恐惶」と書いても、筆が毀損してしまう事もないですよね(※ついえず →潰えない、毀損しない)。

       つまり、礼をすること、「恐惶」と身を低くした言を書く事に、自分への実害はないですよね、という事。

注記 145:風体 →することなすことの、目に見える姿形

注記 146: 「奉公人は喰はねども空楊枝、内は犬の皮、外は虎の皮」 →人に仕えている者は空腹でも空楊枝を使い、

       内々は犬のように臆病にしていても、外目の見かけは虎のように強く見せる、という事。

注記 155:名利 →名誉と利益に心を巡らす事

注記 160:迯尻 →腰抜け/すくたれ →卑怯者 

注記 164:売僧 →えせ坊主

注記 169:手明槍 →平時は手明き(無役)の下士

注記 169:究役 →事件を調査する役

注記 176:忠臣は孝子の門に尋ねよ →忠臣は孝行な人の家を探せば見つかる

注記 179:三国 →唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本/倭国)

注記 183:少人 →若者、若衆

注記 190:川上御経 →川上峡のお寺での法要会

注記 190:初入り →茶席での初座の客

注記 190:出米休息 →勤務を免除される代りに献米すること

注記 195:一字一石 経典を小石に1字ずつ書写する行い

訳注 183:七ツ通れば二合半恋し ⇒「七ツ(午前/午後4時頃)を過ぎて、少し酒が飲みたくなる」という節のある小歌。

       (その小歌の全体の意味が、面白く、思い合わされる所があったのです。)

 
 岩波文庫「葉隠」上巻

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