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2021.4.21(水)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第三      ●50         聞書第四                                   

■聞書第三

 

1  ある時、直茂公の仰せに、「義理程、感深く思うものはない。従兄弟などの死んだ時は、涙を流さない事もあるのに、古いゆかりもなく、見も知りもしない、50年、100年前の人の事を聞いて、義理の事には、涙が落ちます。」と仰せられたそうです。

 

2  小早川隆景から、何々方に、難しい口上を言いに使者を出すので、直茂公に「口上の御指南をお願いします。」と、その使者になる人を佐賀に送って来ました。その使者に面談して、その口上を聞かれて、仰せられたのは「その御口上に、こちらから何か言う事は何もありません。ただし、これは言葉の色のある口上です。凡そ、舞や平家の曲も、上手な人のを聞いては涙も落ちるものです。下手は、同じ文字、節でも、涙は出ません。こう言うのも、あなたの心得としてです。」と御話されたところ、その使者は、有難い事と、思い、感じて、帰られたそうです。

 

3  直茂公が、寒い夜に、炬燵をして、陽泰院様にお話された事ですが、「ほんとに寒いです。炬燵に居ても耐え難い位に寒いのに、下々は、どうして夜をあかしているのでしょう。その中でも、特に困っているのは誰になるでしょう。」と仰せられました。陽泰院様も、「本当に、炬燵でも、寒さを防ぎかねる位ですが、百姓などは炬燵もないでしょう。」と仰せられました。「とはいえ、藁の火にでもあたり、火箱などで暖まっているのだろう。その中で、さらに凌ぎかねているのはどういう者だろう。」などと、色々、評判されて、その末に、直茂公が仰せられたのは、「一番難儀しているのは、牢屋に居る者どもだろう。火を使う事も出来ず、壁もなく、着物も薄く、食べ物もないはず。さてさて、不憫な事だ。」と、御夫婦様が繰り返し、それを考えられて、「牢屋に何人居るのか。今すぐ、調べて教えてくれ。」と仰せ出されました。それぞれの役人に言い継ぎして、夜中に、急に、その確認をし、書き付けて差し上げ、どういう事なのだろうと、役所役所では、待機する事になったのです。その書付をご覧になられて、御台所に粥を作るよう仰せ付けられ、すぐに牢屋に持って行かせ、罪人たちに配られたのでした。涙を流して有難がり、頂いたそうです。

 

これは、小少将の尼(正誉)が若い時、御前に居て、直に聞かれたもので、その老後に話しておられたのを、常朝師が聞かれたのだそうです。そしてまた、直茂公の陽泰院様への御言葉遣いは、「そうせよ。こうせよ。」と仰せられたそうです。

 

4  陽泰院様が勝茂公にお話になった事ですが、「石井一門の者に、これから以後、雑務役を申し付けない様にして下さい。それを深く深くお頼みするのは、前に雑務方をしていた者は、多分盗みで、死罪になりました。手に触れるので欲しくなり、盗みをすると思われます。役にならなければ、欲しいという気持ちも起こらず、盗むという事もない事でした。石井一門の者は、ここで、自分たちへの仕事が出来る者たちなので、そうなっては可哀想なので、お断りするのです。」と仰せられたそうです。

 

5  直茂公が御小姓を呼ばせられて、「泉水の水はどの位あるのか、見て来い。」と命じられました。「八合程です。」と答えました。また、もう一人お呼びになり、同様にお命じになられました。「八分ほどです。」と答えたのに対して、「八分がよい、八合は聞きにくい。」と言われたそうです。

 

6  太閤秀吉公が薩摩入りの時、軍奉行衆から、先陣の龍造寺の道の進め方は軍法と違い、不埒なものなので、行列をし直すべきだと、申し上げがありました。太閤はお聞きになって、「軍に法なし、敵に勝のを軍法とする。龍造寺は九州の槍突きの一番の者で、あの道のし方で、覚えがあるのだ。余計なことを言っていたら恥をかくものだ。」とお叱りがあってそうです。

 

7  太閤の御前で、大名衆が生け花をしました。直茂公の前にも、花入れ、花具が出ました。一度も生け花などされた事はなく、不案内で、花を両手で一つに握り持ち、元を突き揃えて、花入れに、そくっと立てて、差し出されました。太閤がご覧になり、「花は悪いが、立て方は見事。」と仰せられたそうです。

 

8  佐賀の御城の普請が完成し、「直茂公にご覧頂きます様に。」ということで、御駕籠に乗り、お出でになりました。勝茂公は、たっつけ袴でお出でになり、出来具合の一通りを一々ご講釈され、あちこちと動かれていました。直茂公が、そのお側の御伽の者たちに言われたのは、「信濃殿は、城取の敵とのかね合いを一生懸命説明されますが、腹切り所を忘れていないか。」と仰せられたそうです。

 

直茂公は、多くの場合、縄張りや備立てなどという事は大体にして、ただ、御家中が、一和して、御主人を心配申し上げる様にして、自然のその時には、上下一致して突き懸かり、切り崩す事を大切に考えられていたとの事です。

 

また、御軍法の一通りは、国主以外には、御家中の者は何も知らないでいる様にされるのが、直茂公の御流儀です。何かの時の目の前で、ただ一言で埒が明く御仕組み、御秘事があるそうなのです。御軍法の凡そでも、御家中の者が知れば、自然に敵方にも漏れ聞こえたり、また、その場の御指図に從わない事も出て来る、との事です。カチクチと言う御伝授が、御代替わりの時にあるそうです。また、小城へも、御代々、お伝えになっているそうです。13箇条あるとも言われるそうです。

 

9  直茂公のお側の者で、新参で、親しく使われていた者がいました。ある時、古老の人たちが話合って、御前に参り、「今、ある者(−何某)を特に親しく使われて居られるようです。我々が戦いの場で居た頃には、まったく見たことがなく、大事の時の御用に立った事があったとは覚えがありません。どういうお考えで、親しく使われているのでしょうか。」と申し上げたのでした。直茂公はそれを聞かれ、「その通り、もっともだと思う。あの者は、大事の時の御用に立った者ではないけれども、自分が気に入り、心安いもので、尻を拭かせている。その方達には、こうした事は頼み難い。戦いの場では、その方達を頼みにしている。」と言われたそうです。

 

10  直茂公が高麗の御陣の時、御武運の為、京都愛宕山の威徳院へ護摩堂を建立なされました。それが、愛宕護摩堂の初めです。その後、細川殿からの護摩堂建立、さらにその後、公儀の護摩堂建立がありました。先年の焼失の戸、勝茂公が御再興なされました。その後、破壊されたのを、吉茂公の御代に、威徳院の訴訟があり、京都聞番の高木與惣兵衛が取次して、御再興となりました。

 

11  玉林寺住持の金峰和尚は、直茂公の御祈祷の師です。。金峰和尚は隠居して、嘉瀬に住んでいます。直茂公が仰せられるには、「長い間の厚恩は報い難い程です。今は、嘉瀬の隠居所に知行として百石を付け差し上げる事にする。」そう決められました。金峰和尚はそれを聞き、「その方の数年の武事は、私が数珠の房を揉み切ってさせた事なのですが、それをもう忘れたのでしょうか。今は、知行百石で離してしまおうとお考えの様です。恩を思うならば、一生、親しく、懇意にいるはずです。そういう事では、この先、危ない様に思います。」と、殊の外、立腹されました。直茂公はそれをお聞きになり、では、知行は差し上げない事にします。お赦しください。」と仰せられたそうです。

 

12  直茂公は梅林庵で御手習いをされました。その時、梅林庵の近所の寶持院が、御鬚、御衣装、その他の御給仕と決めて、勤められていました。公が成長された後、寶持院へ、「何でも、望みの事を叶えて、差し上げる。」という事を仰せられたところ、「私は何も望みはありません。蒟蒻を一生食べたいと思います。ご丁寧に言って頂いたので、この望みを叶えて頂けたらと思います。」と申し上げられました。それから、一生の間、二日に一度づつ、御使者が蒟蒻を届けられたそうです。

 

13  直茂公を、金峰和尚がお見舞いに来た時には、しばらくお話をされていました。お泊りになる時は、御夫婦様の間に臥せり寝ました。ある時、夜明けに目を覚まし、見てみたら、直茂公が居らず、御前様だけが御休みになって居られました。金峰和尚が驚いて起き上がり、見たら、公は次の間で静座して居られました。何時も、夜明けには、長脇差を差し、静座されます。金峰和尚は怒って、以ての外の事だと、自分も起こせと言われたそうです。

 

14  (栗山書付から)慶長2年4月5日、大坂の御城で、高麗奉行の蜂須賀阿波守、安国寺、鍋島加賀守、この3人で話をするようにと仰せ出しがありました。

 

同じく6日、太閤様の御手前で、御茶を進められた方々は、直茂公、池田伊予守、京極侍従、その上で、直茂公へ御引出物として、御脇差、御胴服、銀子50枚、がありました。秀頼様から、御筒服の御服一重を拝領されました。

 

5月9日の辰の刻、数寄屋へお出ましになり、御同座の方々は、太閤様、羽柴大納言殿、富田左近将監殿、直茂公、です。御手前での御茶の湯が終わり、書院へ移り、藤八郎殿に御目を掛けられました。それから、広間へ御出になられました。直茂公、藤八郎殿からの進物をご覧になりました。その広間での御目見得の方々は、竜造寺作十(諫早石見殿)、後藤喜清次(鍋島若狭殿)、鍋島平五郎(主水殿)、小川平七(鍋島和泉守)、この4人が、置太刀で御目見得され、それから、楽屋舞台へ移り、それから、御くつろげの間に移られ、それから、風呂屋をご覧になり、それから、また、書院へ移り、書院で、終日お話で、書院で召し上がられた御膳を、すぐ、そのまま、鍋島公へ渡されました。銀子300枚を、その場で、直茂公へ御拝領なされ、晩方になって、お帰りになり、その後すぐ、直茂公がお礼の為に御登城された時、また、御膳を差し上げられました。

 

同じく11日の朝、山里で、太閤様御手前で、御茶を差し上げられた方々は、鍋島加賀守、寺沢志摩守、生駒雅楽頭、遊楽様、です。これは、栗山書付からです。

 

15  (栗山書付から)慶長2年酉3月、太閤様からのお呼び出しで、加州様は高麗から御帰朝され、佐賀へはお立ち寄りなく、松瀬山(今の通天庵、池上六太夫宅)で御一泊され、すぐに大阪へお上りになり、同5月9日、大坂の当方御屋敷へ太閤様がお出でになられました。6月初旬、加州様は佐賀へ御下着なされ、万事の事を仰せ付けられました。まもなく、早くも、高麗への御渡海で、出発の日は、御湯治の為に塚崎で御一泊し、翌日、伊万里へお越しになりました。

 

16  (馬渡氏の話では、用之助の浪人中の事、また、透運聞書の大よそは終わりの方に。)斎藤用之助は、家計が苦しくなり、晩の食事の費用もなくなり、女房は嘆いていました。用之助はそれを聞いて、「女でも、武士の家に居る者が、米などが無いからといって、疲れ切るのは不甲斐無い事です。米はいくらでもあります。待っていて。」そう言って、刀を取り、外に立つと、馬が10頭ばかり、米を荷にして通りました。用之助が見て、「これは何処へ行くものですか。」と尋ねました。運んでいた百姓たちが聞いて、「下台所へ参ります。」と答えました。「それならば、こっちから来て、自分の所に下してください。自分は斎藤用之助と言います。役者衆へ渡す米なのでしょう。あちこち行くのは、そちらも大変です。受取の手形は出さないといけないので、これを庄屋に見せて下さい。」と言ったのです。

 

百姓たちは承知せず、そのまま通り過ぎるので、用之助は腹を立て、刀をさっと抜き、「一人も通さない。」と言うので、百姓たちは皆、手を振り、断りを言い、用之助の所に持って行き、手形を取って帰りました。用之助が女房に言って、「米はこの通り沢山あります。好きなだけ使って。」そう言いいました。

 

そうしていた所、その事が聞こえて、用之助を問い質すことになり、ありのままに申し出たのでした。僉議の上、死罪に決まり、例の通り、「加州様のお耳に入れる様に。」との仰せで、当役の衆が、三の丸に上がり、事の次第を申し上げました。直茂公はそれを聞いて、何もご返事はなく、「かか、聞かれましたか。用之助は殺されるそうです。はてさて、不憫千万な事です。日本に大唐を足しても替えられない命を、自分たちの為に、数度も命を捨てて役に立ち、血みどろになって、肥前の国を突き守り、今、自分たち夫婦が、殿と言われて安穏に日を暮らすのは、あの用之助などの働きがあればこそです。その中でも、用之助は、第一の屈強の兵で、何度も高名を上げた者です。そういう者が、米がない様にして置く自分こそ大罪人です。用之助に咎は少しもないのに、あれを殺しては、自分はどうして生きて居られるものだろうか。はてさて、可愛そうな事です。」と御夫婦様が御落涙で、嘆かれることは一通りではありませんでした。

 

その御意向を聞かれた人たちは迷惑し、帰り下がりして、勝茂公に、ありのままに申し上げたところ、「それはそれは、恐れ多い事です。何にしても、孝行をして差し上げたく思っているのに、そのように思われている用之助は、どうして殺す事ができますか。早く、三の丸に行き、もう差し赦されたと申し上げる様に。」と仰せ付けられ、用之助が赦された事を御耳に入れたところ、「我が子ながら、自分への過分な対応で、これ以上の事はありません。」と、御本丸の方を拝み遊ばされたそうです。

 

17  勝茂公が鉄砲の的撃ちをご覧になられた時に、斎藤用之助の番になり、火ぶたを点け、空に向けて放しました。的の矢廻りの者が、「玉なし。」と答えました。用之助が大声で言ったのですが、「どうして玉があるはずなものか。この年まで、今まで、土を射たことはありません。しかしながら、妙な癖で、敵の胴は外した事はありません。その証人は、飛騨殿が生きていらっしゃいます。」と言ったのです。勝茂公は、非常に怒って、御手打ちなされるかという様に見えましたが、そのまま御城に帰られ、人々は興ざめした様な具合になりました。

 

すぐに、三の丸へお出でになり、「たった今、こんな次第での事がありました。私を主人とも思わず、人中で恥を与えた者のので、手打ちにしようと思ったのですが、そちらの御秘蔵の者なので、我慢して、こちらまで来ました。どういう風にでも仰せ付け下さい。」と、取り分け、せき上げて、仰せ上げられました。直茂公は、それを聞かれて、「そちらが怒ったのはもっとも至極です。では、寄親の何がしに腹を切らせて下さい。」そう、声を荒げて、仰せられました。勝茂公は、それを聞かれて、「組親の何がしは不調法はありません。ただ、用之助を、その様にも仰せ付けられて下さい。」と仰せられました。

 

直茂公は、それを聞かれて、「常日頃、組頭どもへ申し聞かせているのは、今の様に、打ち続いて、天下が泰平の時なので、若い士どもは油断して、武具の取り扱いも知らず、何もせずに居るだけでは、自然、何かの時に、役に立たない事なので、まず、近々、鉄砲の的撃ちを射させ、信濃守に見せて置くべきだと、申し付けたのです。それは、不鍛錬の若輩者どもの事です。そこに、老人の用之助を引き出し、若輩者ども並みに的を射させた事は、不調法千万で、寄親の落ち度の最たるものです。用之助の申し分はもっともです。あの者の証人は、確かに、自分です。早速、組頭に切腹を申し付けるべきです。」ということで、厳しく仰せられたので、勝茂公は何度もお詫び申し上げられ、それで済んだそうです。

 

18  直茂公の口宣の事。

一、 従五位下の口宣

一、 加州様に御受領の時の口宣

豊臣信生とあり。

天正十七年正月七日

 

19  豊前守殿の御屋形は最初は塩田の場所です。直茂公の仰せでは、「御家中の者で、豊前守殿の御家来衆と訴訟沙汰、喧嘩や口論などをするならば、理非に寄らず、御家中の者の負けにする。」と、前もって、仰せ置かれていたそうです。脱空老人の話です。

 

20  伏見の御城で、高麗陣の僉議の時、太閤の御前で、隆景が色絵図を広げ、「赤い国へはこの道から打入り、白い国を通って。」などと、話をされました。直茂公がその場に居て、「この場で、考えだけでの御僉議は役に立たない。」と思われ、もうその話をやめる方がよいと思われたのですが、もしも、御意に背いてもと、そのままに控えて居ました。さて、高麗で、次第次第に押し進めて行くと、伏見での御僉議と少しも違わず、直茂公は、あの時の一言を控えてよかったと思ったと、御話されたそうです。助右衛門殿の話です。

 

これは、隆景など、前もって、秘かに渡海しての事だったのかと言われました。

 

21  三の丸で密通をした者を、御僉議の上、男女とも御殺しなされました。その後、幽霊が、夜毎、邸内に現われました。御女中衆は怖ろしがり、夜になると、外に出なくなりました。しばらく、その様な状態だったので、御前様にお知らせ申し上げると、御祈祷、施餓鬼など仰せ付けられましたが、止まずにいたので、直茂公へ申し上げました。公は、それを聞かれて、「それはそれは嬉しい事だ。あの者共は、首を切っても事足りない程の、憎むべき者共だ。それが、死んでも、行くべき所には行かず、迷い廻って、幽霊になり、苦を受け、浮かばれずに居るのは、嬉しい事だ。それならば、しばらく幽霊になって居てくれ。」と、仰せられました。その夜から、幽霊は出なくなりました。

 

慶長11年丙午、直茂公が上方に行き、御留守の時に、密通が露見して、御帰国の日、その者を捕える事になりました。その内の、慶加という坊主を捕え損ない、御蔵に入り、戸を立て、締め切って、中に籠りました。そこで、牟田茂馬が、刀を差さず、中に入り、面談して、和議をして、搦め取りました。女中は、乳母のおとら、お千代、お龜、松風、かるも、おふく、あいちゃ、合わせて8人です。男は、中林清兵衛、同じく勘右衛門、三浦源之丞、田崎正之助、慶加、七右衛門、合わせて6人です。本庄若村の廟で、成敗を仰せ付けられました。

 

22  直茂公が千栗をお通りの時、「ここに、90何歳の者が居ます。目出度い老人なので、ご覧になって下さい。」と申し上げました。公は、それを聞いて、「それ程、見るのが嫌な者はいない。何人、孫、子の倒れるのを見て来た事だろう。何が目出度いだ。」そう仰せられ、ご覧にはなりませんでした。

 

23  直茂公の御前妻は、高木肥前守の娘です。その高木の末は、諫早の三村惣左衛門だそうです。御離別以後、筑後の鐘ヶ江甚兵衛の嫁になりました。高木の正法寺に納まっています。主水殿(日妙)の奥方の天林様は、この御前妻の御腹の子です。日妙というのは、陽泰院様の御甥になります。日妙の母は、石井安芸守殿の戦死後、深堀茂宅の嫁にと仰せ付けられたのだそうです。助右衛門殿のお話です。

 

24  隆信公の御戦死以後、直茂公が御念じなされて居られるのは、「自分は、島原で御供をするはずでしたが、一度、薩摩に仇を返す為に命を永らえ、必ず、それに取り懸かる積りで居たところ、勇士共は島原で討死にし、生き残った者どもは、老人や若輩の者で、思う所に任せず、時が過ぎて来ました。この事を叶えられないで、御弔いをするのも、御承知にならないものと思い、御弔いをしていません。一度は、この念願がかなう様に護って頂きます様に。」という事を御祈念になられました。そうした所、太閤秀吉公が薩摩退治の為に御下向になられ、直茂公より、「古い敵なので、先陣を仰せ付け下さい。」と願い出て、赦されました。

 

直茂公の御祈念で、「今度、先陣をする事になり、念願叶い、帰ってから、御城の鬼門に一寺を建て、御弔いし、さらに、当家の弓矢の守護神と崇め奉る事にします。ますます、御威力を加えてください。」ということを、隆信公の尊霊に御祈誓されて、打ち立たれました。

 

島津兵庫が降参となったので、御褒美として、政家公へ羽柴の御苗字を拝領なされ、直茂公へ豊臣の氏、並びに、御小袖二つを御拝領させられました。御帰国し、金剛山宗龍寺を御建立、御七年の御法事から、初めて、御弔いをなされました。戦死の方々も、同様に、御弔いするべきとの由で、直茂公のご直筆に書かれていました。今も、宗龍寺にあります。

 

御拝領の小袖は、一つは寺に納められました。もう一つは御城にあります。宗龍寺の住持が年頭には、その小袖を着て、天下泰平、国家安全の御祈祷をなされるそうです。また、川上棟木の銘に、羽柴肥前守政家、とあるそうです。宗智寺の御塔には、鍋島加賀守豊臣朝臣直茂公、とあるのだそうです。

 

政家公の御名字御拝領は、天正16年の大阪御参上の節、大友や立花と同様に、御官位、御名字、御紋を下されたのだそうです。馬渡氏の話です。

 

25  隆信公の御首が薩摩から送られて来て、筑後国の榎津に着き、これは、国の強弱を覗っているのだと、直茂公はお察しになり、大隈安芸守に仰せ含められて、遣わされ、御首は差し返されました。それ以来、薩摩には用心されているのだそうです。薩摩の使いは、御首を肥後国の高瀬の願行寺に納めて帰りました。

 

26  直茂公の耳に瘤が出来たのを、誰が言ったのか、「蜘蛛の巣の糸で巻き、引き切れば、切れます。」と申し上げたので、「面倒なものだ。」と仰せられ、その通りになされました。その跡が爛れ、だんだん腐って行きました。御養生されたのですが、直らなくて、「自分はこれまで、人の為によい様にとばかり、何でも、して来ましたが、聞いた事に間違いがあり、知らずに誤りをしてしまったようで、天道から耳にお咎めを受けたものと思います。くされ死にしては、子孫の恥なので、ひどい事にならない内に、死んでしまいたい。」そう仰せられ、その後は、ただ、病気とのみ言い、深く隠して居られましたが、絶食され、御薬も飲まれませんでした。

 

勝茂公から、「親の死ぬ時に、薬を飲ませない事は、後日、批判されて、面目ない事になりますから、御薬を召し上がって下さい。」と、繰り返し、申し開き、仰されるので、「では、信濃守の為だから、軽い薬を飲ませて呉れるように。」と仰せになり、御薬の煎じ役の林榮久に仰せ付けられました。御薬を差し上げたところ、榮久は召し出され、殊の外のお怒りで、「その方は心安くて、律義な者と思い、薬の事を申し付けたのに、不届千万の事をした。この薬には米が入っている。本当の事を言え。」と申されました。榮久は涙を流し、「数日も食を召し上がらず、御力もなくなっているはずなので、せめて、御薬に少し米を入れ、煎じて差し上げ、御力も付けば、御快復なされるものと思い、確かに、米を加え入れました。」という事を申し上げました。「もう、こういう事はしない様に。」と、厳しく仰せ付けられました。

 

御病気中に、石井生札を召し出し、「今夜中に書院を片付け、空にしたい。人足共が物音を立てない様にしてできるか。」と、尋ねられました。「た易い事です。」と引き受けられました。一夜で、片付け、空にし、物音も立てませんでした。翌朝、御覧になられ、「どのようにして、物音も立てずに出来たのか。」とお尋ねになりました。生札は答えて、「人夫に柴の葉を咥えさせてさせました。」と申し上げられました。公はそれを聞かれて、「よくやった。だから、その方に申し付けたのだ。ところで、泉水の中島の石を、書院の跡に、逆修で立てて置きたい。野面石で墓碑を立てれば子孫が絶えると、婆さんや女房共が言い、人が気味が悪く思うので、石の裏を斧で切り形を付けて置く様に。」と仰せ付けられ、御銘書は暫く考えられて、鍋島加賀守豊臣朝臣直茂、とお書きになりました。この御屋敷は宗智寺です。墓碑もそこにあります。ただし、御死去の前年に建てられたものです。

 

27  元茂公へ直茂公がお話になられたのですが、「上下によらず、時節が来れば、家は崩れるものです。その時に、崩すまいとすれば、きたな崩しになります。時節到来と思ったら、いさぎよく崩したらよいのです。その時は、崩れるのを抱き留めるという事もあります。」そう、仰せられたそうです。月堂様のお話を禅界院殿が聞き覚えて居られたそうです。

 

28  直茂公の夢で、興賀の宮の前を通っていたところ、後ろから、「加賀守、加賀守」と呼ぶ声がして、振り返ると、白張装束の人が、石橋の上に立ち、「暗くてならない。」と言ったのです。夢の中で、「それは、常灯を上げよという事なのだろう。」と思い、それからは、常灯を上げる様になりました。御隠居後も、直茂公から差し上げられたので、今も、小城から差し上げているとの事です。

 

29  直茂公の前の御前様が、御離別後、うわなり打ちに、折々御出でになられましたが、陽泰院様のご対応が御丁寧にされたので、納得し、御帰りになられた事が、度々あったそうです。

 

30  日峯様が御存命の内から、遠くに在在の端端の者共は、分かり兼ねることがあれば、佐賀の方を拝み、籤を引き、「加州様、教えてください。」と言って、決めたそうです。

 

31  藤島生益の家に、早朝、本庄院の住持が来て、「今朝、御神体の御身拭いをする為に宝殿を明けたところ、その御首が落ちていました。早速、申し上げる為に、御首も持って来ました。」と、それを袈裟に包み、差し出されたました。生益が言ったのは、「御首はご覧になる物でもないので、持ち帰って下さい。この件は、すぐに申し上げて置きます。」と言って、出仕し、申し上げたところ、直茂公は、以ての外に御立腹で、「はてさて、憎たらしい坊主だ。加賀守を騙そうとして、しているのか。すぐ、あの者どもを連れて行き、拷問して、ありのままを言わせるように。」と仰せられました。

 

生益は、落ち着かない気持ちになって、「御為にと思い申し上げましたが、拷問するというのは、如何かと思います。」そう申し上げたところ、殊の外お叱りになり、「その方は出来ないだろう。他の人に申し付ける。」と仰せられたので、生益が言ったのは、「出来ないという事ではありません。そう、お考えでしたら、すぐ、あちらに行きます。」と言って、牢守の織部を連れて、行ったところ、住持が出て来たので、その手を取り、加州様は御立腹で、すぐに拷問だと仰せ出だされたという事を言ったところ、「はてさて、迷惑な事で、何の事か分かりません。」と言われました。

 

生益が言ったのは、「出家たる者の、あの者の手に渡り、それで白状では見苦しい事です。」と言うので、住持が言ったのは、「それならば、ありのままに言います。御身拭いをし、御神体が動いて、その御首が落ちたので、ふと思いついて、そういう事を言えば、御造営もされ、寺も栄えるものと思って、言いました。」ということを白状したのでした。

 

生益は、急ぎ帰り、白状の通りに申し上げたところ、最初とは違い、お笑いになりました。生益は、思わず、言い立てて、「私を騙した仕返しに、磔にしてやるので、私に、あの住持を下さい。」と申し上げました。直茂公は、ますます笑われて、「その方は、最初は本当だと思ったので、今、腹を立てているのだ。自分は、謀事だとすぐに察していたので、その時は腹が立ったが、今は、そうではない。あの坊主は、この頃、こちらが社参の度に、寺にお立ち寄りくださいと言うので、一度、寄ったところ、吸い物を出し、その椀の底に土が付いていたのだ。そうしてから、頭を地に付け、有難い事などと言っていた。そう思っているのなら、こちらに据膳する膳の心遣いをこそ、入念にするべきものだ。売僧者、くわせ者と、日頃思っていたが、こんな事を、し出かして来たのだ。祈願所の事なので、ただ、住持を代えればよい。」そう、仰せ付けられたそうです。生益は、恐れ入りましたとのことで、お話されたのだそうです。清左衛門の話だそうです。

 

32  稲垣権右衛門が御暇を下された事。直茂公の時に、御家中の者が、上方の事を全く分からず、公儀の事を勤めるのは、倉町九郎、一人しかいませんでした。国廻りの上使に付いての廻り役を九郎に仰せ付けられた時、「上方衆は、銀の轡を使いますので、早くに、仰せ付けられて下さい。」と、急報なされました。また、野がけで、上使から弁当が振る舞われた時、毛氈を敷いてあり、どういう風にしたらよいかと色々工夫して、毛氈を膝に懸け、野がけの弁当を食べました。みがき轡、毛氈などさえも見た事もない人の様に思えましたが、公儀方は、せめてもの所、九郎しか居らず、特に、事を欠きしていたので、稲垣権右衛門という浪人を二百石で召し抱えました。その時分に、高傳寺に御参詣の折、門前に張り紙があり、「 御譜代の者だに取らぬ知行をば稲垣が来て二百石取る」と書いてありました。

 

御帰りになってから、「譜代の衆にさえ、何も沙汰せず、他所の者に知行を呉れた事は、どちらも、不合点とされるのは、至極、もっともな事だ。自分の誤りで、痛み入る。公儀の方が不調法になっても、国家の害にはならない。」そう仰せられ、権右衛門に、その事を仰せ聞かされ、御暇を下されたのだそうです。

 

33  永禄(※天正か)18年の秋、太閤の大明征伐の時、道を通る事を朝鮮に頼んだのですが、朝鮮が承知せず、まず、朝鮮征伐という事になり、名護屋の御城を直茂公に命じられました。文禄元年、高麗御陣は、加藤清正、直茂公が御先陣、公の御勢は1万2000人でした。三月下旬に御出船、4月28日に朝鮮釜山浦に着きました。文禄3年中に、戻りで、諸将は、休憩の為に、呼び寄せられました。

 

慶長2年3月、直茂公が召させられ、御帰朝され、大坂に御逗留し、6月上旬に御暇を賜り、蜂須賀、安国寺、直茂公が、軍事三奉行に仰せ付けられました。同3年12月に、皆が帰朝となり、直茂公と勝茂公は直に上られ、伏見で家康公と御面談し、大坂で、秀頼公にお勤めされました。同4年3月、直茂公は御暇とされ、御下国で、朝鮮立ち以来、8年、御帰国されなかったそうです。

 

34  直茂公が、「その時に気味よく思ったことは、必ず、後で、悔やむ事があります。」そう、言われた事があるそうです。

 

35  隆信公の軍功が重なって行った頃、ある夜、御酒宴をなされた時、御庭の隅に人影が見えたということを、女中などが言ったので、すぐ御庭に出て、「何者だ。」と、お咎めなされたところ、「左衛門太夫です。」と答えがあり、抜き槍を持って、御座されていました。「なぜ、そこに居る。」と隆信公が聞くと、「世の中に敵は多く、御油断される時節ではありません。今夜、酒盛りと聞いたので、心配に思い、御番をしています。」との事を申されました。隆信公は、一方ならず、感心に思い、「こちらで、酒を飲め。」と仰せられるので、座に行こうとされたところ、寒夜で、手が凍え、持たれていた槍が、手から離れなかったそうです。

 

36  太閤様が仰せられたのですが、「竜造寺隆信という者は名将だと思われる。その訳は、鍋島飛騨守に国家をまかせ切ったのという事は、よく人を見て、知っている者なのだ。今、飛騨守を見て、思い知っているところだ。」と、言われたそうです。

 

37  天正18年、小田原の御陣に直茂公が参られる時、下関の宿は道山平兵衛でした。

 

38  慶長8年11月、中野神右衛門の預かる代官所の百姓共が、下役人の八並八左衛門という者の事を、生三方に直訴して挟み状を出し、それで、調べがあって、無実となったので、磔にすると申し上げたところ、直茂公は、「台木も人間も腐って捨てものになります。特に、神右衛門は承知しないでしょう。蓮の池、見島(めい島)に千間掘を掘らせる様に。」と仰せつけられました。訴訟人達は千間掘を掘ったそうです。

 

39  有田皿山ですが、直茂公が高麗国から御帰朝の時、日本の宝になされようと、焼き物の上手を6、7人連れて来ました。その者たちは、金立山に置かれて、焼き物をしていました。その後、伊万里の藤の河内山に引き移り、焼き物をしていました。それから、日本人が見習い、伊万里、有田など方々に行ったのだそうです。、

 

40  鹿子村の龍星寺の天神は、隆信公が大宰府から御勧請されました。安藝殿が若い頃、天神の森で鳩を打ち、外したので腹を立て、「今の鳩に中らなかったのは、天神がしたのだ。憎たらしい天神だ。」と、二つ玉を込め、宝殿を裏表まで射抜いて帰り、直茂公にその事を申し上げられました。

 

公はそれを聞いて、「それは、恐れ多い事をした。」と言われ、御行水をして、御裃を付けられ、、御参詣になり、「只今、粗相者が、以ての外の事をして、御怒りになされた事と、今、迷惑千万に思っている所です。その者は、前から、こうした粗相者で、平にご容赦下さる様にと、お詫びの為、自分が参り来ました。」そう言って、地面に平伏され、高声に吟じて、お詫びを申し上げられたそうです。

 

41  直茂公の仰せで、「自分の気に入らない事が自分の為になるものです。」と仰せられたそうです。これは、勝茂公が、常々、お話されていたそうです。

 

42  陽泰院様は、前の夫の納富治部大輔殿の御討ち死に以後、石井兵部大輔殿の飯盛の屋敷に居られました。ある時、隆信公の御出陣の御供の衆が、兵部大輔殿方に立ち寄られ、弁当をされました。兵部大輔殿が家の者に、「鰯を焼いて差し上げる様に。」と御申し付けになりました。家の者が焼いたのですが、大勢なので、中々、間に合いませんでした。陽泰院様が、のれんの陰からご覧になっていましたが、すっと出られて、大竃の下の火を掻き出し、鰯駕籠をそこに移されて、大団扇で煽ぎ立て、箕に空けて、炭を掻き出し、それをそのまま差し出されました。

 

直茂公はそれをご覧になっていて、「あの様に働く女房を持ちたい。」と思われ、その後、通われたのでした。

 

ある時、「泥棒。」と言って、追い掛けて、掘りを飛び越された時、刀を打ちかけて来て、その時、足の裏を、少し、疵付けました。その他、多久の夜討ちの時、薄手を一カ所負われたという事です。また、一説には、天正4年2月、横沢城攻めの時、手疵を負われただけ、との事。

 

43  太閤様が名護屋に御在陣の時、九州の大名の内方を呼ばれて、御遊興なされました。陽泰院様にも、「お出で下さる様に。」と、言って来られたので、孝蔵主に頼み、お断りされました。孝蔵主の心配りで、お出でになられなくてもよい事になりました。とはいえ、「人の都合の例になるので、一度は、顔を出してください。」と言って来られたので、顔を御額角に作り、異形の御面相でお出でになり、顔を出されました。それから後は、お出でになる事はありませんでした。金丸氏の話です。

 

44  ある山伏が、黒田長政の所に来て、「昨日の夢で、長政が五か国の太守に成られるというのを見ました。」そう言うのでした。長政は、それに返答して、「それはそれは、よい夢を、早速知らせて呉れて、身に過ぎた事です。その内、五か国の太守になった時は、祝儀を遣ろう。」と言って、返されました。

 

その山伏は、思惑が外れ、こちらの御国に来て、直茂公に御目にかかり、「公は五か国の太守に成られるという霊夢を見ました。」そう言うので、「それはそれは、よい夢で、早速知らせて呉れて、身に過ぎた事です。」と仰せられ、金子百疋を下されました。

 

ある時、お話の衆が申し上げたのは、「筑前では、こうこうだったと聞いています。金子を下されたのはどうなのかと、下々まで、取り沙汰しています。」という事を申し上げました。公が仰せられたのは、「凡そ、道の者は、その道で立って行かなくてはならないのです。山伏などは、あの様な事を言って、人の施しを受ける者なので、金子を呉れてやりました。」そう仰せられたそうです。助右衛門殿の話です。

 

45  ある時、御伽の衆が直茂公に申し上げたのは、「現在の日本では、名将というのは、隆景と直茂公だいう話が広まっています。」と申し上げたところ、「自分には及びもつかない事です。先年、太閤様の御前に諸大名が居並び、居られた時に話し申されたのは、皆が数年苦労を致された事に、知行を遣わしたく思っても、どうしても、日本は小国で、地が足りず、唐、天竺を切り取り、その方らに、十分に知行を与えようと思い立ったのだが、どうしたらいいかと仰せられました。

 

その時は、御乱心かと思う程度でした。一人も、それに応えて何かを言われる人はなくて居たところ、隆景が、一人、成程、もっともの事で、その様にあるべきと思いますと申し上げられると、御機嫌よくて、絵図を差し出されて、山や川、道や橋、兵糧などの事を、すぐその場で僉議を始められて、隆景は、それに応えて、何かと、申し上げられていました。その時は、軽薄な事を言って、どうして、こちらに居て、知る事が出来るものかと思っていましたが、実際に行ってみると、隆景の言い分と少しも違わずで、天下の名人なのです。」と仰せられたそうです。

 

46  直茂公への用事で、安芸殿が三の丸に来たところ、御留守で、「どちらへ行かれたのですか。」と聞いても、分かりませんでした。翌日、行ったのですが、どこに居られるのか分かりませんでした。方々を尋ね探すと、角櫓にいらっしゃいました。そのまま、上って行き、「どうして、そこに居るのですか。」と言ったところ、「2、3日、ここから、国の風俗を見ている。」と仰せられました。「それは、どうしてですか。」と尋ねたところ、「人通りを見て、考えているのだ。嘆かわしい事に、もう、肥前の槍先に弱みが付いたと思われるのだ。その方なども、心得て置くべきだ。往来の人を見ると、大方は、上瞼を落として、地を見て通る者ばかりになった。気質がおとなしくなったせいだ。勇むところがなければ、槍は付けないものだ。律義、正直にとばかり覚えて、心が狭くなっていては、男の仕事はできない。時には、空言を言い散らし、見かけを見せる気持ちが、武士の役に立つ。」と仰せられました。それ以来、安芸殿は、虚言が多くなったそうです。中野氏の話です。

 

47  (馬渡氏の書付)直茂公が千葉殿からお戻りになられた時、屈強の強者12名を付けられました。お仕えする初めの者たちです。鑰尼、野邊田、金原、平田、巨勢、出手、田中、濱野、陣内、仁戸田、堀江、小出、です。

 

48  直茂公が御寝入りの時は、御次の間に古老の勇士が出て、茶、煙草を下され、寄合話をする様に仰せ付けられて、間越しに御聞きになられ、御不審の事は問答され、聞きながら寝入りなされたそうです。

 

49  (語録の写しから)日峯様が御伽の人たちに仰せられた事ですが、「侍たる者は、不断に、心を緩めてはならない。思いがけない事に出会うものだ。油断すれば、必ず、仕損じがある。また、人が言うからと、人を悪く言ってはならない。奉公の道には人を勧め、物見遊山は人に勧められるのがよい。人が自分の知らない事を語る時、知った振りはよくない。知っていることを人から尋ねられたら、言わないのはよくない。」と言われたそうです。

 

50  (語録の写しから)直茂公の御前に、綾部右京、千布太郎左衛門、大隈玄蕃が参り、お話を申し上げる、その時に、右京が言ったのは、「上方の大名の事も、大方、聞き及んでいます。中でも、小早川殿は、判断力も、武の道も兼ね揃えた大将と言われております。御前様には、武道は、隆景よりは、数多く、大事の場での槍を成し遂げられています。世間では、隠れなく、それを褒め申しております。」という事をお話された時、殿が仰せられたのですが、「何を聞いて、その様に、隆景と自分を似ている様に言うのか。田舎者で、世間や上方の事は知らないはずだ。自分と比べて言う事のできる様な人ではない。詳しく言って聞かせよう。

 

小田原御陣の翌年、大阪の御城に諸大名が呼ばれて、高麗の御陣に付いての僉議があった時、自分も末座で、それを聞いていたのだが、太閤様が仰せられたのは、高麗を攻めて末代までの物語にするという事で、その時、隆景は進み出て、全く、然るべく思い立たれた事と申し上げられた。自分が、その時思ったのは、隆景は日本での分別者と聞いているが、さては、売主の人かと思いました。まだ見た事もない高麗国の事を、そう思い立たれ下さいと申し上げたのを、何か可笑しく聞いていました。では、と言う事で、祐筆を呼び、1つの書で、掟など定めて置こうと、高麗の御陣中の事を、次々と僉議になりました。太閤の仰せ出だされる言葉に、ごもっともとばかり申し上げました。

 

自然自然に、それは、差支え、進めなくなるとか、それはどうだろうかとか、または、山がじゃまでとか、はっきり答えられて居ました。高麗での7年の間の事を、一々申し上げられ、どういう事かと自分は思いましたが、その時に隆景の言った事で、高麗での7年の間の事で、一つも相違はなく、どれも、割符を合わせた様でした。」そう、右京へお話されたそうです。

 

51  (透運聞書から)直茂公の御前に、多久與兵衛殿、諫早右近殿、武雄主馬殿、須古下総殿が、長くお話をされていた時、美濃柿が出され、皆が、おいしく頂きました。與兵衛殿が、柿の実を畳と敷の間にこっそり押し入れ置くのを、直茂公が、ちらっと見て、「台所に大工は居ないか。道具を持って、出て来てくれ、と仰せられ、「その敷を外せ。」と仰せられ、「柿の実を捨て、元通りに敷居を嵌めろ。」との事で、その通りにされました。皆のこの上ない迷惑で、與兵衛殿は、その後、一生、つるし柿は食べられなかったそうです。

 

52  (透運聞書から)斎藤佐渡が若い時、武道に勝れ、度々、手柄を上げ、直茂公は、特に親しく、召し使われていましたが、世間付き合いは下手で、平和になってからの奉公はうまく出来ず、世の中が静まってからは、朝夕の食事も儘ならず、とうとう、飢えてしまい、年越しの夜を過ごしかねて、腹を切ると言うのを、倅の用之助が、「何でも、やってみたら。」と言うと、「卑劣な事をしてでは、生きていても意味がない。むしろ、大きな悪事でもして死ぬのは本望だ。」と言うのです。用之介は、「もっともです。」と言い、親子で、高尾の橋に出て、よい機会を待っていると、米を背負った馬が通るのですが、一駄やニ駄は目もくれず、十駄程を一繋がりで通るのを、親子が刀を抜き、馬主共を追い散らし、その米を自分の家に運びました。

 

その事は、世間に隠れなくて、目付の方、また、米の持ち主の犬塚惣兵衛よりも言上があり、奉行方で僉議の上、勝茂公の申し上げ、死罪に決まり、奉行方は三の丸に出て、藤島生益を通して、直茂公に御報告されました。御夫婦様が一緒に、それを聞かれて、悲しむ事は一通りでなく、何かのお言葉もなくて、生益は下がり、それを、奉行方に知らせられたので、勝茂公へ申し上げられたところ、驚かれて、佐渡に浪人を仰せ付ける旨を、もう一度、奉行方から三の丸へ仰せ上げられたところ、御前へ召し出されて、「あの佐渡の昼強盗は、自分がさせたのと変わらず、度々、手柄、高名をした者だが、平和時の奉公は、戦さ程もなくて、何がしかの知行も取らせずにいて、無事の世間に、自分も忘れていた。その恨みに、こうした事を仕出かすのだ。面目ない事だ。自分に対して、浪人を申しつけられた事は、信濃守の孝行は有難く、嬉しい事だ。こうした悪事を仕出かした者を助ける様にとは言い難く、さっきは、何も答えなかった。」と仰せられて、奉行方は退出されました。その後、生益に御せ付けられ、佐渡へ米を十石、下されたそうです。直茂公が御他界の時、佐渡が追腹のお願いを出された時、勝茂公は聞かれて、「その御気持ちで、自分に奉公してください。」と、お留めになりましたが、何度も御暇申し上げ、切腹されました。倅の用之助も、同様に、追腹をされました。用之助の次男、権右衛門は勝茂公に追腹され、父子3代で、御供をなされました。

 

53  (透運聞書から)横尾内蔵丞は、並ぶ者のない槍の遣い手で、直茂公は、特に親しく召し使われていました。月堂様へのお話でも、「内蔵丞が若い盛りで、虎口前の槍遣いを、そちらにも見せたかった。本当に、見物と言えるものだった。」と褒められる程の人でした。内蔵丞も、親しくされて、それを有難く思い、追腹の御約束の誓紙を差し上げられていました。

 

そうしたところが、百姓と裁判沙汰を起こし、上への申し上げの御披露もありました。無理の裁判沙汰で、内蔵丞は負けになりました。その時、内蔵丞は怒って、「百姓に思し召しを替えられる者が、追腹は出来ません。誓紙を返して頂くようお願いします。」と申し上げるので、直茂公は、「一方がよければ、一方が悪い。武道はよいが、世の中を知らずで、惜しい者だ。」との御意向で、誓紙を返されたそうです。

 

54  直茂公は、前から、御船は嫌いで、船の匂い、磯辺の匂いが胸につかえ、御食事も、まったく召し上がられませんでした。慶長年中、御下国で、10月8日の朝、順風で、御出船のところ、八つ時過ぎから難風が吹き出し、夜に入って、大浪が打ち、梶が砕かれ、行方が知れなくなりました。船頭や舸子、その他も、船の中の人たちは、前後も分からなくなり、舸子1人と藤島生益の二人だけが、何かと働きましたが、手に負えず、余りにも危なくなったので、御屋形の中に生益が行って、持永助左衛門を何とか起こして、二人で抱き起して、屋形の上に上げ申し上げ、欄干に取りつかせ、「万一、間違いの時は、何にでも御取り付いて下さい。」と申し上げ、後ろから、助左衛門と一緒に抱き抱え、公は吐き、助左衛門も吐き、御顔、御胸、御懐に吐き込み、言語道断の事でした。

 

生益が戯れに申し上げて、「その御有様は、童共の、兔の子取ろ、に似ています。」と笑いました。船底の替え梶を舸子と二人で取り出し、やっと押し嵌めて、夜半に及ぶ頃、風が少し収まり、御船は静まりました。その時に、御供船が2、3艘、御召船の脇を通りました。月の光で、公がご覧になり、「舫いして。」と仰せられました。声々に呼び掛けましたが」、風波荒く、耳に入らなかったのか、どことも行方知らずに吹かれて行きました。公は、大いに御立腹で、「ある者(−何某)が乗っているのを確かに見た。今のこの船が落ち着いたら、切腹だ。」とお怒りになられました。

 

生益が申し上げたのですが、「この波風で、心の儘にならない事です。見捨てたのではない筈です。」と申し上げました。暫くして、また、大風が吹き、替え梶も折られ、御船は漂流になりました。公は、「梶をまた折ったか。」とお尋ねの時、誰かは分かりませんが、「板を踏み折ったのです。」と言うのです。公は、大いに御立腹で、「自分らをたぶらかす奴だ、成敗しろ。」と御怒りでした。

 

やがて、船が沈みそうになりました。公は生益を呼んで、「もう、どうにもならない様だ。腰の物を差させてくれ。」との仰せです。生益が申し上げたのは、「こうした時は、誤りがあるものです。事極まった時に及び、腰の物を差し上げます。」と申し上げました。公は、重ねて、「差させてくれ。脇差だけでも差させてくれ。不肖ながら、天下に名を知られた加賀守が、どこの浦であっても、死骸が丸腰と言われる事は、子孫の恥だ。頼む。」との仰せです。生益は推し測り、事が極まる前に御自害される御気質を、既に、よく、存じ上げているので、一切、御意に從わず、船底に入り、米俵を二俵、取り出し、細引きで結び合わせ、梶穴から海底に下げました。これに依り、御船は静まり、落ち着かれました。

 

そうしたところ、舸子の者が言うには、「夜も明け方になり、山が見えます。」との事。皆が喜び、見れば、播州明石の前、僅か5,6町沖の方でした。風波も静まり、橋船に公を乗せ、御打物を持たせ、塩屋を借りて、暫く、休み、御衣装を着替えられて、一眠りされて、御顔色も直り、御行水をされ、四つ頃、御膳を上がり、御機嫌よく、昌益の終夜の働きで落ち着いたと、御印籠から、延齢丹を飲ませ下されました。

 

その後、無事に帰国となりました。その一部始終を、御前様(陽泰院様)、勝茂様がお聞きになり、御前様から御頭巾、勝茂公から知行の御加増を下されました。御前様は、「その時の様子を詳しく話し聞かせて下さい。」との事で、御前に出て、御子様方、残らず、御座されて、聞かれたのでした。御前様は、御声を上げられ、御落涙、御合掌されて、生益を拝まれたと、宮内卿(木村主馬の母)が清左衛門の姥(生益の女房)に話されたそうです。その話を、直茂公も聞かれて、お笑いになりました。「今は、可笑しいけれども、その時は、それどころか、可笑しい気持ちはなかった。生益が脇差を呉れたら、喉を突こうと思っていたが、呉れなくて、不届きに思ったが、今は、大慶と思っている。その時は、脇差を取る程の気力もなった。」そう仰せられました。御帰国の後、御召船を見捨てて、乗り通った者も、御沙汰はなく、人は感じ入ったのでした。

 

生益の孫の清左衛門が、その、乗り通った者の名を尋ねたところ、生益は、この上なく怒って、「御主人さえ、その後、言わないで居る事をなのに、自分の口で、その方に言うべき事か。奉公の勤めをする者が、その様な無遠慮の事を言うのか。」と、きつく叱ったと言う事です。

 

55  天守を御普請の時、大工の棟梁のある者(−何がし)が奸謀を計ったということで、死罪になりました。この件では口伝ありです。

 

56  直茂様から、與賀社、本庄社、大堂社、この三社へ常灯を差し上げられました。大堂は、月堂様の御産神なので、差し上げられたそうです。與賀社は、直茂様が三の丸から多布施にお通りなされた時、與賀社の神社前で、社内から、「くらきくらき。」と言う声があり、神社前へ人を遣わされ見させたところ、「人は居らず、殊の外、暗い様子でした。」と申し上げられました。それから、常灯を差し上げられたそうです。この三社のどれにも、御隠居後も、直茂様ご自分で、お灯しされていたので、今は、小城から、その料銀を上げられています。この様に覚えております。

 

左仲。

 

*... 何某 →ある人(−何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」)

*3 陽泰院様 直茂室

*3 小少将の尼 陽泰院に仕えていた。

*4 石井一門 陽泰院の出た家系

*8 信濃殿 勝茂公

*8 小城 鍋島元茂が藩祖の小城藩

*14 藤八郎殿 竜造寺高房

*17 飛騨殿 鍋島直茂

*19 豊前守殿 鍋島直茂の兄、鍋島房義(信房)

*20 隆景 小早川隆景

*23 主水殿 鍋島茂里

*23 天林様 鍋島直茂の長女

*24 島津兵庫 島津義弘

*27 元茂公 鍋島勝茂の庶長子

*27 月堂様 鍋島元茂

*27 禅界院殿 鍋島元茂の次男 直朗

*30  日峯様 鍋島直茂

*31 あの者 →原文「XX共」 (XX:伏字箇所)

*35 左衛門太夫 鍋島直茂の事(左衛門太夫信昌)

*38 生三 鍋島生三

*40 安藝殿 鍋島茂賢

*43 孝蔵主 太閤の侍女(尼)

*43 御額角 額辺りの様子を角に作る事

*50 透運 松浦佐五右衛門(鍋島茂貞の三男)

*56 左仲 連歌宗匠

注記 5:かか →直茂がその室(妻)に呼びかけた

注記 5:口宣 →口頭で受けた内容を文書化する事

注記 24:川上棟木 →佐賀郡川上村の河上神社の棟木

注記 24:宗智寺の御塔 →宗智寺の鍋島直茂の墓碑

注記 26:逆修 →生前に自分の墓碑を立てる事

注記 33:永禄(※天正か)18年 →天正18年

注記 40:二つ玉 →火縄筒(ひなわづつ)に十匁の弾丸(たま)を二つこめて撃つこと

注記 50:祐筆 →記録を採る役

注記 54:八つ時 →2時

注記 54:四つ頃 →10時頃

 
 岩波文庫「葉隠」上巻

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