更新日:

2021.4.22(木)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第四      ●80          聞書第五                                 

■聞書第四

 この一巻は、勝茂公のお話された事で、御年譜にないことを書き記し、忠直様の御事を書き加えたものです。

 

1  ある時のお話に、「大事の判断に於いて、何とも分かり兼ねる時、暫く目を塞ぎ、この事を、日峯様ならどうされるかと考えると、理が分かる。」と仰せられたそうです。

 

2  「光茂公の御側で召し使われるように。」ということで、御隠居の時、百武伊織、生野織部、岩村新右衛門の3人を遣わされました。「伊織は、よく物を言い砕く者なのだ。織部は、情が強く、雨露嫌わず、勤める者なのだ。新右衛門は、物に念を入れ、落度なく勤める者なのだ。大名の御側に持たなくてはいけない者達だ。」と仰せられたそうです。

 

3  高源院様が御歳17で、伏見の松の丸から、こちらの御屋敷へ御嫁入りなされました。御迎えには、須古下総殿、鍋島主水殿、久納市右衛門方が参られました。(栗山七郎右衛門の書付にあり。)

 

4  久納市右衛門方の知行は700石かと思います。御祝言の頃に、主水殿の御世話で、300石の加増があったと思います。その後、数年過ぎてから、本多上野殿から学校御方までもの御同意があり、500石の加増があったとの事。(栗山書付にあり。)

 

5  有馬から御帰陣され、有馬の事を仰せ付けられている時に、松平伊豆守様から、信州様に小倉にお出で下さる様にとの話があり、細川越中守殿など御同道で、同じ月の29日に、小倉に着かれ、御用を済まされて、御帰城され、色々と御国元の御用を仰せ付けられして、6月6日に江戸へ立たれ、着いてから、そのまま御閉門となり、寅年の12月晦日に御開門でした。明けて、卯年には、ご自分から御断りをされて、江戸に御逗留され、辰年、御下国で、その年は、御国元で、年を越されました。(栗山書付)

 

6  諸国に於いて、居城を残して、その他の城は、すべて、破却するべしとの事で、上意の通り、閏6月13日に勝茂公に御奉書が参りました。

 

7  勝茂公の御代には、風説書というものを差し上げていたそうです。例えば、何山を今の様に切らせていては、末々、こんな差支えがあるという事を、何の宿を通っていた時にか、道を通る者が話して通るのを聞いた。また、今のやり方がこの様では、百姓どもの迷惑だという事を、何町を通っていた時に、道を通る者が話して通るのを聞いたなどと書き付け、差し上げたそうです。古老が話していました。ただ、風説書を差し上げる様にと、手慣れた者たちに、前から、仰せ付けられていたのか、誰でも、思いつき次第で書き付け、差し上げていたのかは分かりません。下々の差し支えは、はっきりとお聞きになられていてしかるべき、という事で、お考えに背く事でも、風説書でお聞きになられていたのは、本当に有難い事で、御明君でいらっしゃる、という事です。(金丸氏の話です。)

 

8  勝茂公が若い時分、何処でだったか、御大名方が数人御一座の時、どなたかが、「九州育ちは魂が一つ足りないと世間では言われます。」と言いました。御一座の方々は、勝茂公がいらっしゃる事に気付いていなくて、「本当に、そう言われることがありますが、どういう訳でしょう。」と、雑談されていました。公が進み出て仰せられたのは、「ここに、九州の者が居ります。御評判の通り、九州者は、魂が一つ不足な事は、確かに覚えがあります。」と、語気荒く仰せられました。御一座の方々は、少し、何でもない風に、「確かに、信濃守殿は、西国育ちでいらっしゃる。覚えがあるというのは、どういう事ですか。」と、言われました。公が仰せられたのは、「臆病魂が一つ足りません。」と、お答になったそうです。

 

9  明暦3年の御病気中に、江戸の大火事があり、正雪の一味が焼いたもので、紀伊国様が大将だという風説があり、その事を申し上げたところ、虚説だと仰せられ、お騒ぎになる事はありませんでした。しかし、だんだん、火が大きくなり、御城にも火が懸かり、きっと、謀反の企てがあると言われ出した、時々の御耳に入る事になり、では、見分しようと仰せられ、三階に上がり、暫く、遠くを見て居られて、「気遣いの必要はない。凡そ、兵火の色ではない。」と仰せられたそうです。

 

10  勝茂公の御目付の御掟では、下目付共が遊山の所を見分の時、笠や頭巾をかぶらせず、袴を着せず、尻を高くからげ、竹の杖を突いて行く様にと仰せつけられたいたそうです。

 

11  勝茂公の御代に、白石の百姓の關右衛門という者が、21回の御褒美で、一匁の銀を21、拝領しました。「子孫が、それを使ってしまっては罰に当たる事なので、大麦にして渡して置きます。この後ずっと、家の梁に釣り下げて置く様に。」そう言い置いたので、今も、虫干しをし、子孫が持ったままでいます。また、御正当の月毎に、怠る事なく、御寺参りしています。五十年忌では、銀を拝領されたそうです。(雲門和尚の話です。)

 

12  勝茂公が、「御鷹師のある人(−何某)は役に立つ者なのか。」と、その頭にお尋ねになられました。それに応えて、「その者は、不行跡者で、何の役にも立ちませんが、鷹の扱い一通りは、無類の上手です。」と申し上げたところ、それで、御褒美を下されました。その後、もう一人の御鷹師の事を尋ねられました。それに応えて、「鷹の扱い一通りは、無類の上手ですが、不行跡者で、何の役にも立ちません。」と申し上げたので、その者は放されました。(金丸氏の話です。)

 

13  代替わりの時、最初に、上下、万民が思いを慕う様にするものだと仰せられたそうです。(金丸氏の話です。)

 

14  忠直公が15歳の時、御台所で使われる手男が無礼な事をしたとして、足軽の者が打擲し、その末に、その足軽を手男が切り殺しました。そもそも、上下の礼儀を違えて、相手を刃傷したことなので、死罪を仰せ付けられるべきと、年寄連中から申し上げられました。忠直公がそれを聞かれ、「上下の礼儀を違えたのと、武道に外れるのと、どちらが落度になるべき事なのか。」と仰せ出だされました。年寄連中ははっきりと答えられませんでした。その時、「罪の疑わしきは軽くすと書物で読んだ。しばらく、自分の小屋に引き下がらせて置く様に。」と仰せ付けられました。(金丸氏の話です。)

 

15  忠直卿の御側の人が不届きな事をして、死罪に決まり、その仰せ出だしがあったのですが、高源院様が赦しを請われる事がありました。忠直公がお聞きになられ、「今後の締まりがなくなるので、助ける事はできません。女が知っているべき事でもないので、もう、言わないでください。」と、仰せ切りされました。

 

けれども、高源院様は納得されず、色々と仰せられ、三度、御使いを遣わされました。「そうであるならば、理非ではなく、お助けするべき。」と仰せになり、お助けなされました。この件については、罪科は逃れられない者の事なので、高源院様に御内意を仰せ上げられ、この様にされた、という事です。(金丸氏の話です。)

 

16  忠直公が若い時、伊達政宗の所からお招きがあり、お出でになりました。色々と、もてなしを受けて、その後、伊達家に伝わる刀を、興味があればと、お目に懸けられました。御覧になり、御褒めの上、それを置かれました。御接待の人たちは、その時のご挨拶で、御目に留められたのであれば差し上げます。重代の刀で、随分切れる物という事を、忠直公は聞かれて、「何が切れますか。」と仰せられたところ、「胴試しなどをしても、無類です。」とのご挨拶でした。公が仰せられたのは、「人を切れるのは珍しくはなく、とりわけ、御重代の物は、御家の重宝ですし、自分の所にも、重代の刀を多く所持しますので、その用事はありません。」と仰せられたそうです。

 

17  忠直公が、まだ前髪立の頃、どちらかに御能を見にお出でになり、夜まで御接待で、座にそのままいらっしゃいました。その内に、御菓子、饅頭が出て、それをお包みになり、懐に入れ、立って、御供の綾部弥左衛門をお呼びになり、「隙があり、腹も空く。これを食べてくれ。」と、御菓子を下されたそうです。

 

18  勝茂公は、毎夜、御寝酒を召し上がられ、そうして、お話などされ、御酒気がまったくない程まで醒めてから、御寝みされました。また、御寝みの時には、御下帯を締め直し、御不断差しの長脇差をお抜きになり、御眉毛に懸けてご覧なされてから鞘に納め、御寝みになるという事は、最後まで、変わらずされていたそうです。

 

19  勝茂公が若い時、直茂公から黒田如水軒に、万事のご指導をお願いされた事により、特に親しくされ、御国へもいらっしゃり、筑前へもお越しになられ、長政の代までは、お互いに懇意にしていらっしゃいました。

 

筑前守殿(後名 右衛門佐忠之)の代に、江戸屋敷の高石垣を作り、筑前大堀を掘らせ、大早船を作りして、公儀との折り合いが悪くなり、家を滅却するとの取り沙汰があった時に、御用で江戸へ召され、その家中の上下が慌てる騒ぎになりました。

 

筑前守殿が言われたのは、「もしも、難儀に及ぶ程の事があれば、信濃守殿が御在府で居られるので、お知らせてくれるはず。そうならない内は、御気遣いはない。」という事で、道中の宿宿で、飛脚を待ちましたが、御知らせは来ず、江戸の近くになって、飛脚が来たので、筑前守殿が怒り、うまく行っている時は親しくして、難儀に当たる時は、よそ事にされては、承知できないと、その後、御間柄が悪くなったのだそうです。

 

また、一説には、何事か、中国筋(広島立ちという事)で騒動があった時、勝茂公と筑前守殿が御同道で御下りなされました。全て、申し合わされ、一つの宿に御泊りのはずが、勝茂公は御通り過ぎになったので、筑前守殿は怒り、それ以来、仲が悪くなったとも言われます。また、大坂の石引喧嘩で不和になられたとも言われます。

 

この高石垣については、筑前守殿は、味方はなく、一本槍となられました。細川、立花などとも不和になり、宜しくない人だったと言われます。

 

20  勝茂公は、元日の朝は、夜の内に與賀社を御参詣されます。それに付き、嶋内新左衛門は、囲みのない所で、夜中なのを心もとなく思い、大晦日の夜、公私の祝い事を済ましてから、與賀の宮の四方の掘を調べ、夜を明し、御参詣後に、直ちに、御城へお出になっているそうです。

 

21  勝茂公の仰せで、「武士たるものは、28枚の歯を、悉く、噛み締めているのでなければ、物事の埒は明かない。」そう考えて居られたそうです。

 

22  御歩行十人衆に、三尺三寸の刀を差させられ、途中、急に、言葉を掛けられ、度々、抜かせられたりしていたところ、次第に、お言葉があると、すぐ、抜き合わせる様に、練磨されました。それから、一寸ずつ、長い刀を差させ、それで、段々に練磨を重ね、そして、再び、三尺三寸の刀を、普段は、差させられたそうです。(金丸氏の話です。)

 

23  御閉門の時、申し合わせていた出家、百人余りを、三人、五人と、小屋小屋、町宅へ、秘かに召し置かれて、随分とご馳走を仰せ付けられ、「御閉門の仰せが出て、この後は、それぞれの落ち着き所へいらっしゃって下さい。これまでの志に報いる事ができない事になりました。この後は、20年に一度の御帰国をなされて下さい。せめても、お互いの安否を聞きたく思いますので。」とお考えを述べられ、住所を記し、それぞれに、御切手を下されました。この時から、出家の他国出の年限という事が始まりました。その後、5年限りとなされましたが、高傳寺の梁重和尚の申し出で、10年限りとなったのだそうです。

 

24  御閉門の前の頃、江戸に着かれて、中屋敷へお入りなされた時に、月堂様の御内方が御出会い、「御遠島の取り沙汰もあり、皆が申し合わせて、そうなれば、六ケ所屋敷に火を懸け、残らず切り死にする覚悟でおりますので、後の事は御心配なく、公儀には、潔く仰せられ申し上げます様に。」と申されました。次の間には、武具を、すべて取り出し、召し置かれていたそうです。(助右衛門殿の話です。)

 

25  勝茂公の御代には、毎年、元日の朝に、御願文を認められ、與賀、本庄、八幡に御納めされました。大晦日に、御願解きをされました。その御意向は、

一、家中によい者が出来るように

一、家中の者が、するべき事を見失う事がない様に

一、家中に病気の物が出ない様に

この三箇条です。御死去の年の御願書は残っているはずです。(一鼎の話しの旨です。)

 

26  天正年中に、勝茂上人(證音坊とも言う)という真言の徳高い人がありました。生国は伊豆です(または、出羽とも言う)。六十六部の札を打ち、神埼郡圓福寺に居て、後に、寺井の長福時に5年、居ます。直茂公は、度々、招かれて、石井六左衛門(三太夫の祖)を加えて、御馳走をされました。上人が言われるには、「直茂公の御厚恩浅からずにより、報恩の為に、自分は水定して、この国の主に生まれ、法を立て、国を治めようと思う。」という事です。直茂公は、それを聞かれ、六左衛門を通して、何度も止めましたが、御承知なく、名を阿運と改め、小舟に乗り、寺井の海に漕ぎ出そうという時、北山の宥譽(法相宗で、生国は美濃の人)上人もそこに来られて、「一緒に水定を遂げる。」と、同船して、押し出されました。

 

阿運が言うには、「自分が、国守に生まれ出るならば、履いている草履が、片方は死骸に付き、片方は失くなっている。また、海上に、夜毎に火を現わす。」と言って、合掌、称名して、水定されました。見物人は袂に涙を絞りました。その後、死骸を探して、見ると、果たして、草履の片方はありませんでした。両上人の亡骸を長福時の東に一緒に埋め納め、印の松を2本、植えました。今、上人塚とも、勝茂塚とも言っています。北山に上人嶽という山があります。

 

伊勢松様が、御長年の後、勝茂公と申し上げて居られるので、上人の再来という説があります。また、一説に、上人の水定は、勝茂公の御出生以後の事とも言います。しかしながら、再来の事では、多く、そうした例があります。聖徳太子は、南岳大師の再来と言い伝えられています。大使の御出生後に、南岳は遷化されたそうです。勝茂公が歯痛の時、「長福時の本薬師に願懸けする様に。」と仰せ出だされ、御平癒されてから、絵馬を懸けられました。今も、それはあるそうです。

 

27  勝茂公が御礼日で出て、その御退出の時、林道春が、ふと近付き、「鍋島のご先祖は誰になりますか。」と申されました。きちんとは、その元を確かめていらっしゃるのではなかったのですが、その時のお考えで、「少弐です。」と仰せられると、「それはそれは、御歴々です。今、御系図の確認がされています。追って、大田備中守殿から仰せ入れがあります。」と言われました。御帰りになってから、御僉議され、平原善左衛門が少弐の系図を持っていて、それを召し上げられて、御系図を書き立て、公儀へ差し出されたそうです。一説には、道壽様は、佐々木の末だという事です。(御道具に佐々木の宇治川先陣の時の太刀がある。)

 

28  勝茂公の御代の、加判御家老は、鍋島安芸守、鍋島玄蕃(千葉氏で、宗碩と言う)、中野數馬(前名は兵右衛門)。

 

29  勝茂公の御代の、御年寄は、勝屋勘右衛門(その末は、五郎右衛門)、關将監(御茶道役、二千石)。

 

30  松平土佐守殿は、勝茂公と無二の御仲で、親しくされているそうです。その御蔭で、御代々、今も、親しくされているそうです。

 

31  肥前様の御年寄、成富五郎兵衛(次郎左衛門の祖)、鍋島右近(生三の御子の縫之助殿)。

 

32  野田七右衛門に、西目山の管理を仰せ付けられていたところ、自分で気を伐り、売り払ったということで、御目付から言上がありました。その後、七右衛門が御前に出られた時、秘かに仰せ聞かせられたのは、「こういう事を聞いた。その方は、その様な事をしないと思う。何か似た事を、人があれこれ言うのだと思うので、そのままにしてある。これからも、気を付ける様に。」と伝えられたそうです。

 

33  中野杢之助が、まだ、若い時、よろしくない事があるという事で、御目付からの言上がありました。杢之助を召し出し、「こんな事を聞いた。随分と気を付ける様に。」と、内密で仰せ聞かされました。この時に、追腹の覚悟が出来たという事です。

 

34  寛永9年、加藤肥後守殿が御取潰しになった時、家来たちが城を持ち続けると、もっぱらの評判がありました。その時は、近国の事なので、ここからも人数を差し出す事になる。それに付いては、成富兵庫、その時分は老体で病身でしたが、御僉議の為、召し出されたのですが、兵庫が申し上げたのは、「今まで、城は持った事はありません。武功の家ですが、戦いを知る巧者は一人も生き残っていません。その上、兵糧もありません。これまでに、家来を遣わし、見分させたところ、近年は奢りが強く、兵糧の用意はないということを言っていました。三年の兵糧がなくては、籠城は出来ないものなので、城を持つ事はないに決まっています。」と申し上げました。また、公儀からも、上方の町人に仰せ付けられ、肥後の米を、大分は、買い取って、上方へ送ったとも言っているそうです。

 

35  勝茂公の御具足祝いの時は、御納戸に飾られたそうです。

 

36  勝茂公は、元朝に、與賀、本庄、白山八幡に御参詣されます。ある年の元日、甲州様の御出仕が遅くなったので、「その方は、どういう訳で遅くなったのか。」と申されました。甲州様は御答えに、「御前が、何時も、三社の御参詣をされますので、私も、その後から参詣し、それで、遅くなりました。」と仰せられたところ、公が仰せられるには、「その方は元朝の参詣には及ばない。自分は、御両親も居らず、在国で、公方様への御目見えもせず、自分より上への礼儀が、年の初めにないので、三社へ参詣する。その方は、こちらに祝儀を申せば済むのだ。」という事を申されました。光茂公は、元朝に、向陽軒の御宮に御参詣されます。

 

37  勝茂公の御代には、徳善院が御名代として、彦山へ年籠りに遣わされ、御願書を納められました。その御意向は、

一、公儀が首尾よく居られます様に、の事

一、御国家が御長久で、御子孫が繁盛される事

一、御家中に、御用に立つ者が出来ます様に、の事

 

38  千葉の元祖は、父母も分からない童子が現われて、その前に、太刀一振り、妙見菩薩の像一幅がありました。それが成長の後、国守になられたのです。ある時、雷が、その太刀を望み、落ち懸かりして、それを掴んだのですが、童子が現われ、取り返したのだそうです。今も、その爪形があります。千葉胤頼に伝わり、没落後は、神代家に預けられていましたが、その二宝を、神代家で持ち伝えられました。勝茂公がそれを聞き及ばれ、大炊介殿に御所望され、今は、御城の什物です。その時の証文が神代家にあるのだそうです。

 

39  勝茂公が、御鷹野にお出になられたところ、ここからは甲斐守領分との札が立ててあったのをご覧になり、殊の外の御立腹で、すぐに札を抜かせて帰り、御城の御式台の柱に立てかけて置かれ、甲斐守様が御登城された時にご覧になり、様子を聞き、全くの迷惑という事で、お話を申し上げられました。科料として、鷂(はいたか)二連を差し上げる様にと仰せつけられ、御進上されたそうです。

 

40  甲州様が、十間掘で藻まくりをしたいという事で、山城殿を通して、勝茂公に仰せ上げられたので、「大いに藻まくりをされて下さい。その時は、自分も見物するので、知らせて下さい。」と、仰せ遣わされました。

 

さて、その日になり、公は土橋からご覧になっていましたが、甲州と城州が走り回り、御下知されているのを、「その方なども掘りに入る様に。」と仰せられたので、御両人とも、掘りに入りました。この事を言うために、御見物にお出でになったのだそうです。

 

41  勝茂公が白石の御鷹野にお出でになり、ひどく凍えられたので、百姓家に入り、火にあたられていたところ、姥が一人居て、「今朝は、ひとしお寒いので、御あたりください。」と言って、藁をくべました。暫く、当たり、御礼を言い、御出になる時、庭に米が広げてあったのを、御越えになりました。

 

姥は立腹して、「それは殿に上げる米です。勿体ない事をする人だ。」と言って、箒で御足を打ったので、「ご免。」と仰せられて、お出になられました。帰られてから、感心されて、白石の十人百姓の内に加えられたという事です。

 

42  白石の御狩の時、大猪を打ち止められました。皆が走り寄り、「これはこれは、珍しい程の大物を上げられました。」と見物していたところ、猪が、急に起き上がり、駆け出したので、見物していた人たちは逃げました。鍋島又兵衛が、抜き打ちで倒しました。その時、勝茂公は、「ごみがあるぞ。」と仰せられ、御袖を御顔に被せられました。これは、狼狽える人たちを見ない為という事だそうです。

 

43  御城坊主のお出入りの始まりの事。勝茂公が御登城の時、御城の御供は、何時も、成富十右衛門、久納市右衛門でした。ある時、十右衛門が御玄関から上がり、坊主衆に会い、「私の連れが、今、体調が悪くなり、困っているので、済みませんが、湯を下されます様に。」と言いました。坊主は、暫く考えていましたが、天目茶碗に湯を継ぎ遣わしてくれたので、持ち出て、市右衛門に呑ませ、翌日、その坊主の宿許へ、十右衛門主従が、身なりを正して、礼に行き、巻物などを持参し、その後、市右衛門も金子など持参して、礼を言い、近付きになり、それから、心安く、時々に、やり取りもし、後には、殿中にて、勝茂公の御用もする事になりました。御出入り坊主の始まりです。この事が諸家に聞こえ、次第に、御用を頼む坊主が出来て来たのだそうです。この坊主は、鈴木久齋というそうです。

 

44  勝茂公は、御一代中、丸絎(まるくけ)の帯をされていました。昔の人は、大方は、丸帯をしていたそうです。

 

45  勝茂公へ、井上筑後守殿が言われたのは、「御在所の海、川、掘の深さ、浅さ、間数などまで、全て、公儀に知られています。」との事を、御物語があったそうです。

 

46  直茂公は、ある時、御本丸へお出でになり、その通りの道筋で、刀に切柄をしているのをご覧になり、「それはどうするのか。」とお尋ねになると、「明日、御仕置者があるので、御腰の物を試す切柄です。」と申し上げられました。直茂公が仰せられたのは、「信濃守は人を切る時に、切柄をはめて切るのか。自分は、今まで、その様にした事はない。」と申されました。その事を、勝茂公が聞かれ、「御尤もな事、よろしくない仕方。」と仰せられ、全て、切柄を外され、翌日、御仕置者を、水ケ江(後では、神代殿の屋敷になりました)で、御前に引き出し、縄を解き、「逃げ切れたら、助ける。」と仰せられるので、走り出したのを、抜き打ちに御切りになりました。

 

この事を、直茂公へ誰かが申し上げ、「見事にされました。」と言うと、笑われて、「それは、自分が切柄の事を言ったからなのだろう。」と仰せられたそうです。

 

47  勝茂公が御若年の時、直茂公から、「御切り習いに、御仕置者を御切りになる様に。」という事なので、今の、西の御門内に、10人を並べて置いたのを、続け切りで9人まで御切りになり、10人目の者が、健康な若者なのをご覧になり、「もう、切り飽きたので、その者は助ける様に。」と仰せられ、御助けになりました。(助右衛門殿の話です。)

 

48  勝茂公が江戸に御在府の折り、加賀守殿の御縁組の話が方々からあって、その中で、御老中が取り持たれて、ほぼ御議定になり、紀州様元茂に仰せ遣わされたところ、その御返事に、先年、甲斐守に、松平伊豆守の息女を御縁組され、その後、下総守殿の姫を再縁されたので、伊豆守の御縁は切れ、気まずい事になっています。加賀守などには、御家中の者から、御縁組を仰せ付けらるべきかと思っています。他方に縁組を仰せ付けられれば、先々は、他家の様になり、御家の害になる事もあります。日峯様の仰せ置きにも、自分たちなどは、御家を思い、他の望みは持たない様に仰せ聞かせられたのは、この事かと思って居りますという事を言って来たので、御相談は止められ、鍋島平八(後名は彌平左衛門)に話が済んでいる、美作の息女、勝茂公の御孫ですが、それを御養子して、御本丸にて御養育しておりましたのを、色々とお断りを仰せられて、縁を切り、加賀守殿に遣わされました。

 

御本丸より、西丸へ輿入れがあり、御台所の前に、勝茂公、徳壽院殿、長寿院殿(御両人とも勝茂公の御姉様)がお出でになり、ご覧になり、御見届なされました。御輿を、鍋島式部が受け取り、御迎えは、小城の衆が皆、参られました。これに付き、清光院殿が残念に思われたとの様子をお聞きになり、隼人の娘を、和泉守直朝に縁組を仰せ付けられました。清光院殿が御登城されると、勝茂公は御裃で、次の間から御礼をされ、御挨拶されたので、その後には、登城はされなかったそうです。龍造寺政家公の御姫です。

 

49  勝茂公が、西名の御鷹野で、鶴を取り、飼って、その場から、侍一人を御使いを仰せ付け、高傳寺に遣わされ、和尚が受継いで、日峯様の御位牌に披露されたそうです。

 

50  勝茂公が、日頃、考えておられた事ですが、奉公人は4通りあるものだ。急だらり、だらり急、急々、だらりだらり、だ。急々は、申し付けた時もよく承知し、事をよく行う者だ。これは、上々で、なかなかいない者だ。福地吉左衛門などは、急々に近い者だ。だらり急は、申し付けた時は分かりが遅くて、事を行うのは手早く、よく行う者だ。中野數馬どもなどだ。急だらりは、申し付けた時は分かりがよいが、事を行うのは手間が掛かり、延び延びになる者だ。これは多い。その他は、皆、だらりだらりだ、と仰せられたそうです。

 

51  松平下総守から、西御丸で、将軍様に、踊りを御馳走されるという事で、「こちら様からは、須古踊を出されて下さい。」と御頼みになるので、小々姓衆や、御子様付きの衆まで御選びになり、踊りを用意し、拍子方まで、侍数人を差し出されました。小歌の文字を新たに御作らせになりました。その為に、順長老を召し寄せられたとも言います。

 

52  勝茂公が、高傳寺に御参詣の時は、何時も、御吸物が出ました。ある時、御吸物を差し上げたところ、申されたのは、「いつもの通り、豆腐の吸物を出して呉れる様に。」と申され、取り替えて、差し上げられたそうです。

 

53  勝茂公が、戦の軍物語をされた時、「高麗で、加藤左馬之助が敵船を乗り取った時、鎧には、蓑毛の様に矢を射付けられ、敵船に乗り込み、働かれた。ある年、太閤様の吉野の御花見にも御供されたが、花よりも何よりも、左馬之助の働きほど見事なものはなかったと仰せられた。」という事です。

 

また、「上方で、立花攻めを仰せ付けられた、その御礼の時、井伊直正が奏者だったが、関が原で肩先に手傷を負われていたので、白い布で結い、首に懸け、片手付きでの作法、容儀、勢い、見事な事は言葉にも表わし難い。天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫だ。」と申されたそうです。

 

54  泰盛院様の御一周忌の御法事の時、御霊前方の役を、御一生の間、御膳を上げた人なので、大田與右衛門が当たるべきだとの事で、仰せ付けられました。それに從い、勘定の書付に、酒が五石要ったと書き出されました。役人から、これは書き間違いだろうという事を言われました。與右衛門が言うには、「全く、書き違いではありません。皆様は、御側の事を御存知ないので、そう言われるのです。自分は、数年勤めて、御側の事をよく知っている者だという事で、今度の役を仰せ付けられました。

 

まず、泰盛院様の御一代で、朝夕晩の三度の御酒、中椀で三つまで、一日に九つ、召し上がられました。御供の衆、杢之助殿初め、28人共に、下戸は一人も居ませんでした。今度の御法事中、何卒、上下共に御酒を上がられる様にと思い、一人での御相伴はし兼ねるので、寺中の出家衆に頼み、数日の間、随分と気を入れて、御酒を進め差し上げたのですが、御存生の時の半分も要りませんでした。」と落涙して、話したそうです。

 

55  勝茂公から光茂公へ御代譲りをされる、その前の頃、20箇条程の御書き物を渡されました。その全てが、直茂公の御言葉ばかりでした。その中で、直茂公の御病気がいよいよ進み、5月26日に勝茂公の御面談され、仰せられたのは、「国家を治めるのは、よい人を持つ以上のことはありません。」と申されました。それに付いて、「よい人が出来て来るようにするには立願などを懸けるものでしょうか。」とお尋ねになられたところ、直茂公が仰せられたのは、「何でも、人力でできない事を、神仏に御頼み申すもの。よい人が出来て来るのは、自分の力でできる事だ。」と仰せられました。「それは、どうすれば、出来て来ますか。」と重ねてお尋ねになられたところ、「物事好きの者は集まるものだ。花が好きならば、それまで、1種も持っていなかった者が、少しの間に、色々集まり、世に珍しい花もできて来るものだ。その様に、人を好きになれば、そのまま、出来て来るものだ。ただ、好きになるだけだ。」と申されました。また、「何事も、誠の事でなければ、役に立たない。」という事など、その他、数箇条あります。

 

56  勝茂公が白石に御逗留の時、夜になり、御寝みになり、御庭をご覧になっていたところ、月影に、縁側の袖、袖壁の裏に人影がさしました。こっそり起きて、袖壁ごと、お切りになられたところ、壁が切れ通り、裏に立っていた者は、大袈裟懸けに切り落とされました。その者は、誰とも知れず、秀半右衛門の一党だろうと御沙汰になられたそうです。

 

その御脇差は加賀清光でした。光茂公が若年の時に、御定差しとして差し上げられました。後に、綱茂公に差し上げられました。その時に、「古い物なので、試しをする様に。」と仰せつけられ、中溝半兵衛が三つ胴を切ったそうです。(金丸氏の話です。)

 

57  白石の秀林寺の事。勝茂公が御狩で白石に御逗留の時、ご先祖様方の御命日に御焼香の為、秀林寺を建立されたのだそうです。

 

58  高源院様の御自筆の写しの本書は、善応庵にあるのだそうです。

 

   信濃殿たいち御厄違えの御祈祷の御心持の事。

 

信濃守五十

一 天正八年 かのえたつ 十月 きのとねの日 きのえ ねの時

 

肥前守十七

一 慶長十八年 みずのと うしの年六月二日 つちのとのうしの日 かのえ 丑の時

一  同  七年 みずのえとら 十月十一日

 

加賀守十五

一  同  廿年 きのとの うの年十一月十二日 きのとのとりの日 みずのとのひつじのとき

元和元年にてつるなり

 

弾正殿うし廿三

一 けい長十二年 ひのとの ひつじの年 九月二日 みずのえたつの日 かのとの亥の時

 

おつる殿廿二

一  同 十三年 つちのえ さるの年 十月十一日 きのとのうしの日 ひのとのうしの時

 

お龜十三

一 元和三年 ひのとの みの年 四月六日 かのえねの日 みずのとのひつじの時

 

おちよう七つ

一 元和九年 みずのとの ゐの年 二月二日 みずのえいぬの日 つちのえさるの時

 

四十二歳(高源院)

一 天正十六年 つちのえ ねのとし 七月十六日 ひのとのとりの日 つちのとのとりの時

 

萬(よろず)吉なり

 

この他、養子にさせ申す子供が恙なき様にと、御祈祷御初めに、御本尊に仰せ上げさせられ −めでたく−

 

59  勝茂公が御老中を御招きになる、その前方に、御馳走の為、築山を珍しい物にしようとご工夫なされ、「經山寺の図を、手を尽くして築き立てる様に。」と仰せ付けられ、出来上がった時、忠直公が若い時で、御同道され、見せられて」、「老中方も珍しく思われるはず。」と仰せられましたが、忠直公が、ただ、何も申されずにいるので、勝茂公が仰せられて、「その方はどう思われるか。」とお尋ねになりました。その時、忠直公は、「愛らしいもので御座います。」とだけ申されました。忠直公が御帰りの後、「即刻、御庭を取り崩す様に。」と仰せ付けられたそうです。

 

60  忠直公が、御側の人を、勝茂公へ御遣いに遣わされたところ、その御口上が違う事を申し上げ、話が進まなかったので、不届者で、御叱り下さるようにという事を、年寄どもが申し上げました。忠直公は、その人に、また、御遣いを仰せ付けられ、御口上を詳しく仰せ聞かされて、しっかり、理解ができる様に、何度か仰せ含められて、その言い方までも聞かれて、遣わされました。今度は、少しも間違いなく勤め上げて、帰りました。その時、年寄りどもが召し出され、「この前は、口上の言い方を教えるのが十分でなかったので、あの者が聞き違え、言い誤りをした。今度は、詳しく、申し聞かせたので、間違いはなかった。それならば、この前の不調法は自分にある。あの者に咎は少しもない。」と仰せられたそうです。(助右衛門殿の話です。)

 

61  勝茂公の御代には、御家中の大身、小身に拘わらず、子供の11、12歳から御側に召し使われ、色々の事を御指南され、御用に立つ者が数人出来て来ました。70何人もが召し使われていたそうです。副島八右衛門は42歳まで、鍋島勘兵衛は40歳まで、前髪立の御小姓でした。

 

それで、御前の御内情も分かり、江戸や御国の諸役の事も見慣れ、聞き慣れて、御大名方へのお世話も慣れ、御顔も見知り、御前に居るのに慣れて、嗜みも深く、元服以後、早速に、御用に立ちました。そして、また、その親が亡くなった時、本知行を下されなかったので、幼少の時から、御奉公に励んだのでした。

 

ある年の御参勤の時、小田原から公儀へ、御使者を出して、委細を御老中方に、直に、仰せ入れられる事柄があって、御供の中で選び考えられましたが、口上が出来て、御心にかなう者がなくて、御小姓の齋藤作太夫に元服を仰せ付けられて、御使者に上げられました。

 

62  勝茂公が、常々仰せられていたのは、「人数1万人という事で、朝鮮7年の在陣の用意をして置かなくてはならない。重ねて、異国との取り合いの時、不覚悟の事のない様に。」と仰せられ、雑務方は働かれたそうです。勘定所に、朝鮮在陣の御積帳があるのだと言います。(金丸氏の話です。)

 

63  ある説に、勝茂公が御評定所にお出での時、夜の内に御屋敷へお出でになり、甲州様は手燭を、紀州様は御腰物をお持ち出しになり、紀州様は、そのまま、徒歩で御供されました。御評定所にお上りになる時、「御腰物はどうするべきか。」と仰せられるので、紀州様が仰せられたのは、「私は、自分の大小を抜いております。御脇差は差してお出で下さい。」と仰せられ、自分の大小は玄関の前に抜き捨て、奥まで御供して通られました。

 

勝茂公は、一通り、仰せなされた上で、「私は、老体になり、物言いもうまく出来兼ねます。倅の紀伊守に、委細は、申させせたく思います。」と仰せられるので、召し出された時、敷居の外に、頭を畳に付け御座なされていたのを、「これへ、これへ、お辞儀は要りません。」と、再三あって、間内に入り、「御茶道衆、御茶をお願いします。一大事の申し事なので、しっかりと落ち着いて申し上げなければと思います。御赦し下さい。」と、平座になり、書き物二巻を取り出し、委細を仰せ上げらますと申し伝えられました。御年譜などには、紀州様のお出での事は見えていません。

 

64  勝茂公が御寝みになる時は、侍4人が御寝間の四方に居て、刀を身に引き直して不寝番をします。いろいろの番の中に、その組を置かれていたので、今も、御城に不寝番があります。

 

65  勝茂公が、ある時のお話に、「小身の者程、その元を忘れてはいけない。」という事、また、「後ろを前と心得る事が第一だ。」と仰せられたそうです。(金丸氏の話です。)

 

66  御家老中に仰せ出されたのは、「公事や裁判沙汰のとき、どうか、死罪にならない様にと心得て、聞く様にする、直茂公が常々、仰せられていた事で、今も忘れずに居るので、申し渡しす。」という事、また、「大事の時に、酒は要らぬ事だ。全て、酒は好まないとの事。これも直茂公が申された。」と仰せられたそうです。(金丸氏の話です。)

 

67  寄合日の書付をご覧になり、仰せ出だされたのは、「僉議の書付は、雑務方の事ばかりだ。国家の事が一つもなく、これをどうこう言う以前のもので、不届き千万だ。」と、特にお叱りで、遊出の文書を以て、仰せ下されたそうです。(金丸氏の話です。)

 

68  徳善の十二坊を御建立の時、随分と信心され、その費用を、きれいな米、きれいな銀で用立て、万事を清浄に、信心を以て行う様にと、山本前神右衛門に、勝茂公の御印の御書き物を下されたそうです。(金丸氏の話です。)

 

69  了關様へ、清原彌三郎を以てお尋ねされた時の御答えの書付の写し。

一 泰盛院様の御死去の地はどこでしたか   浅布

一 高源院様 同断                 浅布

一 恵照院様 同断                 浅布

一 興国院様 同断 (※私に付記すると、三島屋敷です。御下屋敷は今は増上寺内になっている由。)

一 義峯院様の御屋敷始めはどこでしたか。 寛永18年  浅布

 

70  寛永12年正月、勝茂公の御下国の石薬師の御宿で、江戸から飛脚が来て、忠直様の御死去の事を言って来ました。二度はこの宿に泊まらないと仰せ出だされ、その後、家中の者も、一宿もしなくなりました。今も、本陣としての御目見えは、仰せ付けがなくなりました。(中野是水の話)

(この事は違っていて、この年、勝茂公は御在府です。石薬師の本陣の詳細は、さらに調べるべき事)

 

71  寛永2年、肥前様が御鎧着の時、伊豆守(鍋島安芸守です。)から、一篇の槍を差し上げられました。身七寸、左文字という事です。この槍は、光茂公から左内様へ遣わされましたが、御死去により、御寺へ上げられたそうです。(深江二左衛門の話)

 

ある説に、この槍は、柳川一戦の時の槍だそうです。

(この事は違っていて、柳川一戦の時の槍は勝茂公へ上げられ、その御居間に懸け置かれているそうです。頼母聞書より。)

 

72  肥前様の追腹で、林形左衛門は、肥前様が御存生の時に、御側に人が無いので御望みになり、勤めに上る支度の途中に、御死去の知らせが来て、一日も御奉公はなされませんでしたが、御家中の数百人の中から御望み申された事を、身に余る有難さだとの事で、山城殿が止められたのですが承知せず、追腹をなされたとの事。

 

形左衛門を御望みされた仔細は、勝茂公から、「誰でも、御望み申されるように。」と仰せられたので、「林形左衛門という者は、去年、御使者で遣されて、見知っています。他には、まったく、知っている者はいません。」と仰せられたので、形左衛門に仰せ付けられたとの事。

 

一説に、林栄久が亡くなる時、林形左衛門に申し聞かされたのは、「自分は侍従殿に追腹のつもりで居ましたが、先に死ぬ事で、残念です。」と申されました。形左衛門はそれを聞き、「その事は御心安くお思い下さい。名代に自分が御供を致します。」と言い、それで、栄久は喜び、亡くなりました。形左衛門は、病気持ちであり、短命だろうと、自分で考えていたところ、肥前様が御死去になり、この時と思い、追腹をされたとの事。

 

73  日峯様の二十五年の法事の時、勝茂公が仰せ出だされたのは、「三十三年の御法事までは生きていないだろうから、この際、一度にしよう。」との事で、一通り済ませ、その上で、僧たちに御酒を振る舞われ、御親類や御家老中も列座する中で、御物語されたのは、「日峯様の申された事で、自分の十三年忌まで、国を治めてみよ、と仰せられた。その御一言を大事に思い、大きな荷物となり、昼夜、心を尽くして、国を治める事に苦労して来たところ、十三年も過ぎ、今、二十五年まで、何と言う事もなく、大慶この上ない事だ。」と御落涙して御話しされたとの事。

 

老士物語に言う、この頃は、殿様御自身が骨を折られ、何とか、国を失わない様に、家中に、連続して、御用に立つ者が出来る様にと、御心遣いの深い事で、御家中の者も、何とか、御家が御超級である様にとのみ思い、御国家を見に引き受けていたので、上下の志が通じ合い、よい人も多く出て、御国家は、厚みを持って見えていました。

 

また、日峯様の御遺言で、国替の事などがあったならば、それは命の限り、とばかりある事なので、諸朋輩が一味同心で覚悟をしていました。その世の威徳、日の字の(日峯様の)御光、それが、今の世までも輝き、比類なき御家なのです。この事を知って、若い者たちも覚悟あるべし、とです。

 

74  高傳寺の釈迦堂を御建立の時、下奉行の頭人の石井十助が、下人と喧嘩し、相手を切り殺して、御耳に聞こえたのですが、御仏に対して、この節、どんな科であっても御赦しなされる様にと、仰せ出だされました。

 

宮崎利兵衛が言った事ですが、勝茂公が御存生中に、常に申されていたのは、「自分の命日には参詣しなかったとしても、家中の者は、これからは、御仏に御無沙汰してはならないのだ。」と聞かされていたそうです。御前の御給仕と同然だという事で、出家衆と相談して、開帳の度ごとに、御供物一品の御給仕をなされていました。

 

75  明暦2年、勝茂公の御参勤の御供を、多久美作守がお願いして、上りました。翌年、御隠居され、光茂公が御家督され、その御礼のために、美作守を公儀御目見えに出されるはずでしたが、それは出来ないと申し切り、その為に、他の人を出されました。

 

先年、甲州様を御取り立ての様子が見えて、御家中が納得せず、御家の大事と思い、美作守がわざと江戸へ赴き、光茂様の御取り立ての事は申し置いていた事なので、その替り目を見届けるため、お願いして、御供をしたのでした。それなのに、御目見えに出たならば、その望みで上り赴いた様になるので、御供したのは、考えるところがあっての事なのです。公方様への面談の用事はありませんと、申し切られたとの事。

 

76  勝茂公の御病気が重くなられた頃、光茂公に志和喜左衛門が申し上げたのは、「私は、以前から、御供の御約束を申し上げています。御本復が定かでないように見えますので、御命代わりに、先に腹を切り、そうすれば、自然と、御本復の事もあるかと思います。いずれ、御供する事ですから、御赦しを下さいます様に。」と申し上げたので、増上寺方丈に、「命代わりという事は、ありますか。」と御尋ねされたところ、「およそ、してはならない事です。大切な士ですから、そのまま御持ちなされる様に。」と言って来たので、止められました。その忠心を御感になり、その子供たちを疎かにはしないという、御自筆の御書を下され、今も、その子孫が持ち伝えているとの事。

 

77  中野杢之助(年寄役)が、去年、御参勤の道中で、ある者に讒言をされ、その始末が悪くて、御目通りに召し出されませんでした。御容態がよくない事もあり、鍋島采女が申し上げたのは、「このまま、御本復なされない時は、杢之助、志波喜左衛門、自分の3人は、御供する事に、兼がね、申し合わせています。他にも数人あるとは思いますが、申し合わせていない人は、はっきりとは分かり兼ねます。ですから、杢之助の事は、御存生中に、召し直されて下さいます様に。」と申し上げたので、すぐに、御前に召し出されました。采女は小姓として召し使われ、御進物役を勤めて居ます。喜左衛門は御印役です。

 

78  御気分が差し迫り、御前様は御暇乞いにお出でになり、御枕元に寄られて、「さても目出度い御臨終です。御一生落度なく、弓矢の働き、国家を治め、子孫を数多持ち、家督を譲り、八十になり、この度の御成就は、比類ない御振る舞い様です。この上、少しも思い残すされる事はないものと思います。今、これで、御暇させて頂きます。」と、高声で仰せられました。御側に、お長様がいらっしゃいましたが、御落涙なされたのを、御前様は、はたと御にらみになり、「如何に女だからと言っても、物の道理を聞き分けず、末期の親に涙を見せるものですか。」と荒らかに御立ちになり、内に御入りになられたそうです。

 

79  御薬役を采女が勤め、御臨終の時、御薬道具を打ち砕き、御印役の喜左衛門は、光茂公の御前で、御印を打ち割りました。そうしてから、両人で御行水を仕舞われて、御棺に入れ、俯き泣き入り、居られました。そして、急に起き上がり、「殿は一人で行かれたのに、一刻も早く追い付き申すべし。」と浴衣のままで表に出ると、大広間には、美作守を始め、御前、外様の衆が並び居りました。両人は手を突き、「何れの皆様も、その御懇意を今更に申すまでもなく、御名残は、何日語り続けても尽きません。さらばで御座います。」と言って、通って行かれました。どの人も、落涙の外は言葉もありませんでした。さすがの剛勇の美作守も、声が出ず、後ろから見送り、「ああ、曲者なり、曲者なり。」とだけ申されました。杢之助は、最後まで、讒言した人の事を言い、憤りを持って居られました。采女は、自分の小屋に帰り、頃日の疲れ休めに行水して、少しの間休むと、暫く寝入り、目覚めてから、「枝吉利左衛門が餞別に呉れた毛氈を敷いて下さい。」と申し付け、二階の一間に、一枚の毛氈を敷き、追腹で、介錯は三谷千左衛門がなされました。

 

ある人の話ですが、杢之助が常に持っていた扇に、歌が一首ありました。

 

惜しまるるとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

 

80  御葬礼の翌日からは、公儀に、差し障りの事があり、夜中に済ませなければならなくなり、美作守から申し付けたのですが、誰もが、それは出来ない事と言うのでした。枝吉利左衛門に申し付けたところ、容易く請合い、その夜中に、御葬礼を済ませたとの事です。美作守は、御病中から、御屋形の大広間で、夜昼、酒盛りし、御葬礼の済むまで、銚子を取る事はなく、そうして、万事の事を下知されました。この時に落髪して、そのまま、最後まで髪を立てず、愚渓と名乗りました。

 

81  老士物語にあるのですが、勝茂公が初めて国守になられ、弓矢の働きをし、御切腹の場にも出逢い、御家中の御支配、御国の経営、御城各所の要害の事、雑務方の仕組みまで、御一生の御苦労は、耐えがたい程です。常々、申されていたのも、「日峯様の御勲功で、御取り立てとなった国で、子々孫々まで、家が続く様にするのでなければ いけない。天下泰平の御代なので、次第に、飾り立てた世の中になり、今までの物を失い、上下共、困窮して、弓矢の道を唱える事も失い、不意の事で、時に、内外に恥を掻き、家をも、掘り崩してしまうのだ。言い聞かせただけでは、年移り、老人は死に失せ、若者どもは、時代の風潮ばかりに馴染み、末々まで残る事はないのだ。せめて、書き物にして、家の譲り事として渡して置けば、末代になっても、覚えていられる。」と仰せられ、御一生を反故紙の中に過ごされ、御書き物を仕上げらました。

 

御秘事は分からない事ですが、語り伝えでは、カチクチという御軍法、御代々の御代替わりの時、面談し、口伝にて、御伝えになるのだそうです。御譲りの御懸硯には、視聴覚知抄・先考三以記という御書き物があり、それも、御家督の時、直に御渡しになるとの事です。

 

そして、また、御家中の決め事、御国内の端々までのあり方の仕組み、公儀に対して、また、雑務方の一切の万事のなされ方を、鳥の子帳に書き記し置かれました。こうしたご苦労は限りなくありました。その御勲功での御家御長久、目出度い事です。末代になって、こうした事を知らず、あるいは、昔風とか、時代に合わないなどと、変わって行く事は嘆かわしい事です。一旦は、不必要な事に思われても、名人のする事、その扱い方に、外れはない筈です。たとえ、不必要であっても、御先祖様に対して、その風を変えないのが、古い家の銘すべきところです。しかしながら、数年の間、変わって来た事を、今、急に、古法に從う様にするのは、それがまた、新しいやり方の様になるので、時節を待って、段々と、古法に帰りたいものです。

 

さて、また、この御国は、根本において、剛忠様の御願力、隆信様の御武勇、利叟様の御善根、日峯様の御勲功、泰盛院様の御苦労で、御家御長久なので、御家中として、毎朝、拝み奉るべき事です。かつ、また、御代々の太守に悪人がなく、鈍智もなく、日本の大名に劣る御器量という事は、これまで、ありませんでした。他方では、鍋島律義と言うそうです。御慈悲の国守ばかりが御出来になる事、不思議の事です。

 

さて、また、御国内の者を、他方へ差し出されず、他方の者を召し入れず、浪人者も、切腹の子孫も、御国内に召し置かれ、御家中の上下、百姓町人まで、何十代か、相替わらず、馴染みの深い御譜代の深い御恩、それは、言い尽くせない事どもです。他家の衆などは、移り替わりして、心が落ち着かず、浪人を限りとして他方に出て、それで、主従の縁は切れ、不憫な事です。

 

御家では、一旦、御意見される為に浪人を仰せ付け、切腹の子孫どもに、やがては、召し直され、死んでも御国の土となりで、兎にも角にも、有難い御国で、日本で比類のない御家に、不思議に生まれ出でた事は、本望この上ない事です。殊にも、先祖代々以来、御恩を受けていて、体を張っても報い奉る事は叶わない事です。こうした味をよく理解して、数代のご恩に報ずべく、何とか御用に立つようにとの覚悟に心を決め、親しみを以って召し使われるときは、ますます、私なく御用に立ち、御情けない御無理の仰せ付けも、または、不運にも、浪人や切腹を仰せ付けられても、少しも恨まず、一つのご奉公と思い、生々世々、御家を心配する心入れが、それが御当家の本来であり、覚悟の第一歩です。智慧、分別、器量、芸能は二番目です。御当家風の心のあり方を最初に得心して、多くの仲間と一和し、粉骨して、御用に立つべきものだという事です。

 

82(口宣文書)

一 勝茂公の口宣

一 従五位下の口宣

一 (従五位下)御受領の口宣 豊臣清茂 とあり。永禄4年2月14日

一 侍従御昇進 寛永3年8月19日 藤原勝茂 とあり。

 

*... 何某 →ある人(−何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」)

   忠直様 勝茂の嫡子 松平忠直

*1  日峯様 鍋島直茂

*3 高源院様 勝茂の後室

*4 学校御方 佶長老

*14 忠直公 鍋島勝茂の嫡子で、光茂の父

*24 月堂様 鍋島元茂

*24 助右衛門殿 柴田助右衛門

*25  一鼎 石田一鼎(山本常朝の師)

*27 少弐 日本の氏族の一つで、筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名

*27 道壽様 鍋島経直

*36 甲州様 鍋島直澄

*37 徳善院 真言宗の寺院

*38 大炊介殿 神代家良

*40 山城殿 鍋島直弘

*46 信濃守 鍋島勝茂

*48 加賀守殿 鍋島直能

*48 下総守殿 松平忠明

*48 美作 多久美作守茂辰

*48 清光院殿 鍋島隼人助茂貞室

*48 和泉守直朝 鍋島直朝(勝茂の九男)

*54 泰盛院様 鍋島勝茂

*63 紀州様 鍋島元茂

*71 肥前様 鍋島忠直

*71 左内様 鍋島光茂の五男

*72 侍従殿 鍋島勝茂

*81 剛忠様 龍造寺家兼

*81 隆信様 龍造寺隆信

*81 利叟様 鍋島清久

注記 11:御正当 →忌日

注記 26:水定 →水に入り死ぬこと

注記 36:向陽軒 →佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の別荘

注記 58:たいち御やくちがへ →太一御厄違え

注記 66:遊出 →藩主自筆の仰出し文書

注記 69:浅布 →麻布

注記 73:老士物語 →当時既存の物語本

注記 81:御懸硯 →懸硯箱(貴重品を入れた)

訳注 58:−めでたく− ※「−」は、書き文字の表記記号の置き換え分(原文参照の事)

訳注 78:惜しまるるとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

      →月清、細川ガラシャに辞世

 岩波文庫「葉隠」上巻

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