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2021.5.3(火)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠              

   葉隠 聞書第五      ●80        聞書第六                                 

■聞書第五

 この巻は、光茂公、綱茂公、了關様、御姫様方の事を、取り混ぜ、記す。
 光茂公御代

 

一  明暦3年丁酉2月 御家督御相続 26歳。

一 2月19日、岡部内膳正殿、同丹波守殿が、鍋島泉州を御城に召し出し、御隠居、御家督の仰せ渡しがあり、御礼の為、光茂公はすぐに御登城。

 

3月朔日、御礼として、光茂公から、御太刀の豊後行平(代 金10枚)、白銀300枚、色羽二重100疋。勝茂公から、定宗 御刀(代 金80枚)、御掛物ホッタン。御家老御礼銀馬代 (宛)主水、縫殿助、有田勘解由。

 

一 正月18日大火事、桜田御屋敷が類焼で、光茂公は青山に御移り、5月4日、麻布へ移りなされる。同19日、またまた、大風、大火で、御城は焼失し、西の丸は残る。死人は3万7千余、道程は22里8丁に渡る。

 

一  萬治元年戌戊(この年5月改元) 27歳。

一 2月 御暇、(晦日御発駕)。4月5日 御着城。

 

一 5月 当家御一族、並びに、諸士等、万部執行。

 

一 8月16日 山内へ御越しになり、佐保十兵衛宅で、山内の者を御目見え。

 

一 2月5日 彦法師様、左衛門様に御改名。

 

一 5月12日 御代始めの遊出あり。

 

一  萬治2年巳亥 28歳。

一 9月29日 御参勤のため御発駕

 

一 12月28日 侍従御昇進

 

一 10月6日 佐賀にて、お初殿出生

 

一 今年から、着座の人数を御定め、御家への誓紙を仰せ付けられる。

勝茂公の代までは、長袴を着せられる。御家誓紙は人を指名して仰せ付けられる。

 

一  萬治3年庚子 29歳。

一 三月 御暇

 

一  寛文元年辛丑 30歳。

一 9月28日 御発駕 御参勤。

 

一 7月7日 盛徳院殿死去、追腹の者どもを止められて、それ以来、御法度と仰せ付けられる。その後、紀州の光貞公が御感心され、御家中で、追腹を法度とされる。寛文3年、癸卯5月20日、公儀御法度となる。

 

一  寛文2年壬寅 31歳。

一 2月 御暇。

 

一 この年、向陽軒の御社の御勧請あり。

 

一 この年、公の仰せ出だしで、御家中は追腹は御法度となる。ただし、去年の盛徳院殿死去の追腹の者を止められている。この事を、紀州様が聞かれて、御感心され、その御家中の追腹を御法度とされた由。

 

一  寛文3年癸卯 32歳。

一 9月29日 御発駕 御参勤。

 

一 6月11日 佐賀の一里四方で大雷が80箇所以上に落ちる。黒白の毛が降る。正月2日に、大坂の御天守を雷火で焼く。

 

一 5月20日 追腹御停止の事が、公儀から仰せ出だされる。

 

一 この年に、中院通純卿の御姫、お甘様が御下国され、二御丸で御祝言。

 

一 この年、御即位の御使者に、諫早豊前(茂眞)を差し上げられる。

 

一 この年10月、非人小屋を建てられ、弥陀、釈迦、観音、薬師の石仏を四方に建て置かれる。奉行は友田彦兵衛なり。同7年国廻りの上司の御尋ねを聞き届けられる。

 

一 4月8日 北山の寺々に薪山を御寄附の事、鍋島六左衛門の書き出しあり。

 三瀬観音寺、杠清龍寺、杠龍護寺、畑瀬曹源寺、松瀬通天庵、鹿路用音寺

これらは、山内六ヶ寺なり。この他は調べる事。

 

一  寛文4年甲辰 33歳。

一 2月28日 御暇

 

一 4月19日 甘姫様御産、右兵衛様を御出生、御生所は二御丸です。この時、御掘りから龍が上ったという事です。甘姫様の御祈誓の初瀬の観音は、後に、清心院へ安置され、吉茂様の御代に堂を建てられる。

 

一  寛文5年乙巳 34歳。

一 9月 御参勤。

 

一 6月23日 榮正院様が御産で御死去、御出生の御子様も御消えなされる。清蓮院様と申し上げる。

 

一  寛文6年丙午 35歳。

一 2月 御暇。

 

一  寛文7年丁未 36歳。

一 9月 御参勤。

 

一 7月 国廻り上使の岡野孫九郎殿、青山善兵衛殿、井戸新右衛門殿に、蓮池町で、公が御出会い。

 

一 12月25日 左衛門様16歳、御一字(綱)御称号と四品を赦される。同26日、御前髪を取られる。綱茂公と申し上げる。

 

一 7月 津廻り上使、竹野又兵衛殿、向井三郎兵衛殿が、寺井、武崎、諫早、脇津、深堀、伊万里の浜を御巡見、公は寺井を立ち会われる。

 

一 春、牛島射場で、足軽、弓、鉄砲の的撃ちをする。御名代は翁助殿。

 

一 秋、片田江新馬場で、御家中の馬究めと馬責め。御名代は翁助殿。

 

一  寛文8年戌申 37歳。

一 2月朔日 江戸大火事で、桜田屋敷類焼し、御両殿様(光茂公、綱茂公)が麻布に移られたところ、同4日にまた大火事で、麻布御屋敷が類焼し、青山の和泉守殿の屋敷に移られる。

 

一 2月 御暇

 

一 12月 綱茂様の御縁組に、松平越前守様の御姫を、御願の通り、仰せ出だされる。

 

一  寛文9年巳酉 38歳。

一 9月 御参勤。

 

一  寛文10年庚戌 39歳。

一 2月 御暇。

 

一  寛文11年辛亥 40歳。

一 2月12日 綱茂公(22歳)御祝言、お譜代様(18歳)。鍋島若狭、鍋島平五郎、相良求馬が、江戸へお越しなされる。

 

一 光茂様は11月に御着府、同3日、朝、上使は板倉内膳正殿。

 

一  寛文12年壬子 41歳。

一 綱茂公が始めて御暇。御両殿様(光茂公、綱茂公)、同じく、御下国。3月12日に江戸を御立ち、4月13日に御着城。(多久屋敷に御在留。)

 

一 3月6日 朝、光茂様が御暇で、上使は土屋但馬守。

 

一 9月13日から、御父子様は長崎に御越し。22日に御帰城。

 

一 10月 綱茂公は御参勤。

 

一  延寶元年癸丑 42歳。

一 9月 御参勤。

 

一  延寶2年甲寅 43歳。

一 2月 御暇。

 

一  延寶3年乙卯 44歳。

一 9月 御参勤。

 

一 綱茂公 御暇。12月29日 御着国。

 

一  延寶4年丙辰 45歳。

一 2月 御暇。

 

一  延寶5年丁巳 46歳。

一 御参勤のため御発駕 11月11日 御着府。

 

一 綱茂公 御暇を御拝領。11月晦日 江戸御立。

 

一 12月 鶴を御拝領。

 

一 今年の御在府中に、御供廻りの人数を、無用との思し召しで、減らされる。その後、公儀から、供周廻りを減らすようにとの御触れあり。

 

一  延寶6年戌午 47歳。

一 正月29日 おきら様 御祝言。加賀守殿の御姫を公が御養子にされ三浦隠岐守殿へ御縁組される。

 

一 2月15日 お春様が伊東出雲守へ御祝言。

 

一 2月28日 御暇。3月2日 江戸を御立、4月2日 御着国。

 

一 12月3日 桜田御屋敷の御納戸脇から出火。本多越前守殿へ類焼で、御使者、丹波新兵衛を遣わされる。ご遠慮におよばず、との事。

 

一  延寶7年巳未 48歳。

一 10月11日 御参勤の為に御発駕。

 

一 4月 土屋但馬守殿(御老中)御卒去。

 

一 同月 久世大和守殿が御死去。

 

一 5月22日 桜田西の屋敷を受け取り、これは、愛宕の下屋敷を松平若狭守殿へ遣わされ、若州の高輪の屋敷を大田備前守へ遣わされ、備州の桜田の屋敷をこちらへ御取りになるとの御願いが済みとなる。

 

一  延寶8年庚申 49歳。

一 綱茂公 正月29日 御下国。9月13日 佐賀を御立。

 

一 公、4月5日 御着国。

 

一 5月24日 江戸の増上寺で、厳有院様の御法事の半ばに、永井信濃守殿を内藤泉守殿が、討ち果たされる。

 

一 2月 御暇。

 

一 5月8日 家綱公御他界、御使者は鍋島若狭、綱茂公からは、鍋島十太夫に仰せ付けられる。綱吉公の御家督の御祝儀の御使者は村田隠岐。

 

一  天和元年辛酉 50歳。

一 御参勤 9月26日に御発駕。この年から、前髪立の小小姓を召し連れない。八丁から中国、東海道、美濃路を行き、11月6日に御着府。

 

一 11月12日 堀田筑前守殿宅で、御代替わりなので、公が御誓紙を出される。

 

一 11月26日 綱茂公は江戸立ち。

 

一 来春に将軍宣下の御祝御能の御興行なので、御作事方、その他、調えの為、木下五兵衛に仰せ付けられる旨を、3月22日に仰せ渡される。(この前年か、上屋敷火事出来あり。)

 

一 7月 国廻りの御上使、奥田八郎右衛門殿、戸川杢之助殿、柴田七左衛門殿に、蓮池町で、公が御出会い。

 

一  天和2年壬戌 51歳。

一 2月9日、13日、16日、三度、将軍宣下の御祝いの御能御興行。同21日、公から御供中に御料理を下される。

 

一 3月朔日、現の将軍の綱吉公から御暇、御代替わりの初めなので、御腰物を拝領する。同7日に江戸を御立ち、美濃路、中国を御旅行、4月7日に御着城、同9日に長崎に御越し。戸町の御番所で御供の主水殿、志摩殿、番頭の千葉太郎助に、御番のあり様を仰せ聞かされる。

 

一 7月11日、長崎に御越し。

 

一 この年、新非人小屋を建てられ、土手駕籠の者どもを置かれる。

 

一  天和3年癸亥 52歳。

一 御参勤の為、9月29日に御発駕。11月12日に御着府。上使は戸田山城守殿。

 

一 綱茂公は御暇。12月5日に江戸を御立ち。

 

一 閏5月28日 徳松様御他界。「浄徳院殿霊嶽崇心大童子」

 

一  貞享元年甲子 53歳。

一 3月朔日 御暇が出る。今回は、当代の御感状、御感書など、家中にあるものを調べ、上覧するべき旨を、正月22日に仰せ出だされたので、野口新右衛門が御国に下り、御感状を持ち来たり、差し上げる。茂里の御感状は相良市左衛門が持ち来たり、差し上げる。この事で、御立ちが延び、3月22日に江戸を御立ち。 

 

一 綱茂公は5月2日に佐賀を御立ち。

 

一 5月15日 天守の修理が完成したので、御親類、御家老中を御供に、天守に上がり、上段で、修理頭人の主水殿に御熨斗を遣わされる。御城の御普請方の頭人は、昔から主水殿の由。

 

一 8月28日 江戸御城で、堀田筑前守殿を稲葉石見守殿が討ち果たされる。

 

一 正月28日 興国院様の五十年忌法法事。

 

一 この年、光茂公が思い立たれ、幻花様の御霊屋を龍雲寺に新たに建てられ、御施餓鬼を仰せ付けられ、毎年、御名代を遣わされ、盆には、御堂参りをなされる。これは、勝茂公の御子の萬千代様の事。

 

一  貞享2年乙丑 54歳。

一 2月22日 現の将軍の綱吉公からの御判物を江戸から多久長門殿が持ち下られ、同29日、御本丸の御書院にそれを置かれ、御祝いの為、御家中、惣侍まで、残らず召し出され、光茂公が御手づからの御酌で、御酒を拝領させられる。

 

一 6月3日 日峯様の御影の御讃が出来、高傳寺へ、公が御持参される時、長崎から、南蛮船の来着の注進があり、路の途中から帰城して、すぐに、対応方法を決められる。同7日に長崎に御越しになり、同12日に御帰城される。

 

一 9月晦日 光茂公は御発駕、11月7日に御着府される。

 

一 12月4日 綱茂公は江戸を御立ち。

 

一 3月24日 隆信様の御影の御讃を宗龍寺に御寺納。

 

一  貞享3年丙寅 55歳。

一 2月 御暇。

 

一 この年、各組に能を仰せ付けられる。彌平左衛門(高砂)、主水(八島)、志摩(加茂)、圖書(田村)、數馬(船弁慶)、大木(藤戸)、岡部七之助(源氏供養)、左太夫(忠度)、多久兵庫(芭蕉)、馬場勝右衛門(清経)、千葉頼母(土蜘)、中野将監(夕顔)、大田弾右衛門(兼平)、石井修理(橋弁慶)、百武善左衛門(元服曽我)。

 

一 この年、綱茂公が、古賀に御茶屋を御取り立てなされる。

 

一  貞享4年丁卯 56歳。

一 3月16日 公が向陽軒を御移りになられる。御作事の間は、彌平左衛門の屋敷に御座なされる。

 

一 9月晦日 公が御発駕。

 

一 12月25日 春岳が邪宗を企てられるの由。道心社の浄心が長崎の御奉行衆に申し出でる。調べをなされたところ、無実で、その後、赦される。

 

一 4月28日 御即位により、御使者として神代弾正殿を差し上げられる。

 

一  元禄元年戊辰 57歳。

一 正月16日 綱茂公が御着国。疱瘡が流行なので、満溝に御廻りになる。

 

一 2月28日 江戸桜田御屋敷の家老の小屋が出火。光茂公は、御遠慮あり。3月7日に御登城して、御暇を延期され、御能を拝見し、4月5日に御暇が出て、同12日に御発駕、5月7日に御着城。この年は、御家老の御供はなし。

 

一 5月16日 綱茂公が佐賀を御立ち。

 

一 9月晦日 年号改元。

 

一 松平右衛門佐光之は隠居。肥前守綱政が家督相続。

 

一  元禄2年己巳 58歳。

一 9月中旬から願正寺で密談。同23日の夜、和泉守殿、摂津守殿が御屋敷に御出でになり、御密談の御用。同夜、中野将監、馬場勝右衛門の両人を、年寄役の大和殿宅で御調べがあり、同26日に将監は切腹。(介錯は山本権之丞。)勝右衛門は浪人を仰せ付けられる。

 

一 10月朔日 光茂公が御発駕。

 

一 4月18日 長崎の御番を筑前の番人へ渡される。

 

一 同20日 肥前守が家督以後初めて、長崎を見舞い、御領内通路の願正寺で光茂公が御面談。御供は、上下の者、1042人、他に、雇い者90人、先立を加えると、合わせて、1300人。

 

一  元禄3年庚午 59歳。

一 正月26日 綱茂公が御着国。

 

一 2月28日 御暇、4月11日に御着国。

 

一 4月21日 綱茂公が佐賀を御立ち。この日、中野數馬に加判家老を仰せ付けられる。御加増、本知と合わせて現米800石を下さる。

 

一  元禄4年辛巳 60歳。

一 9月晦日 光茂公が御発駕、11月5日に江戸に御着。

 

一 12月16日 綱茂公が江戸を御立ち。

 

一 5月23日 公の60の賀で、綱茂公から銀の鳩の御杖を差し上げられる。着座の者まで御料理を拝領。御杖の拝見を仰せ付けられる。

 

一  元禄5年壬申 61歳。

一 3月13日 光茂公が御立ち、2月28日に御暇。

 

一  元禄6年癸酉 62歳。

一 9月29日 光茂公が御発足なされ、10月29日に大坂御着、御逗留の間に、弁財嶽の公事が御利運と江戸から言い来て、その時、御話あり。

 

一 10月29日 江戸上屋敷で出火(田尻団十の小屋から)。沼津でお聞きになる。

 

一 11月7日 光茂公は江戸に御着。出火があり、暫く、遠慮していたところ、14日に御奉書が来て、15日に御登城。

 

一  元禄7年甲戌 63歳。

一 3月 光茂公は江戸を御立ち、同26日に大坂に御着、4月15日に御着国。

 

一  元禄8年乙亥 64歳。

一 2月8日 江戸麻布の御屋敷類焼。

 

一 5月16日 お光様が佐賀を御立ち、8月16日に榊原式部大輔様へ御婚礼。ただし、綱茂公が御養子となされる。それにより、麻布の御前様から葵の御紋が差し上げられ、諸道具を二通りずつ出来、作られる事。

 

一 10月5日 光茂公は御発駕、同22日に大坂に御着、25日に大坂を御立ち。この御在府では、青山に御座される。

 

一 11月29日 光茂公は御隠居。綱茂公が御家督を御相続。

 

一 12月15日 御父子様が御登城され、御礼を済まれる。献上の御刀は義弘(代 200枚)、金馬代は御服20、御壺は縄簾細柴霞赤地錦。御台様へ新古今集、二條為重卿筆、外題後小松院(代 20枚)。桂昌院様へ和漢朗詠集、二條為世筆(代 25枚)。水戸様へ盛衰記、中御門宣衛卿筆。同宰相様へ百首和歌軸物、二條定為(代 10枚)。大久保加州へ誘刀の吉房(20枚)。土屋相州へ備前兼光(20枚)。阿部豊州へ延寿国資(20枚)。戸田山州へ城州兼永(10枚)。柳沢羽州へ備前長光(10枚)。松平右京亮へ備前兼光(10枚)。秋元丹州へ備前義景(10枚)。加藤佐州へ未青江(10枚)。松平弾正忠へ貞吉(10枚)。小笠原佐州へ三原(10枚)。土岐與洲へ石州貞綱(6枚)。宮城越州へ備前盛景(5枚)、丹羽遠州へ青江(5枚)。本庄因州へ了戒(13枚)。六角越州へ是助(10枚)。林大学頭へ信國(6枚)。松平右衛門佐へアサ御壺。松平肥前守へ来國光(25枚)。松平左京亮へ駿河守鞍鐙(30枚15枚)。この外、御一門様方へ御贈物あり。

 綱茂公御代

 

一  元禄8年乙亥 44歳。

一 11月22日 光茂公が御隠居のお願いを仰せ入れられ、同29日にお召しがあり、御父子様が御登城、光茂公の御隠居、綱茂公の御家督を仰せ付けの事を御老中が仰せ渡される。12月15日に御礼を仰せ上げられる。長崎御番を仰せ付けられる事を御老中が列座の中で仰せ達せられる。(委細は別記あり。)

 

一 12月18日 侍従に御昇進。同28日に御礼を仰せ上げられる。

 

一  元禄9年丙子 45歳。

一 3月朔日 御父子様が御登城、公方様の御講釈を御拝聴の事。

 

一 2月27日 上使の戸田山城守殿がお出でになり御暇する。御小袖50、銀子500枚を御拝領する。翌28日に御礼の為御登城、御前で、御馬を御拝領する。長崎御番の事で、上意あり。3月14日に御発駕、4月11日に御着城、初めての御暇なので、御礼の御使者に、御家老の鍋島平左衛門を差し上げられる。

 

一 3月9日 御家督の御祝いの為、御老中を御招請し、御囃子あり。

 

一 4月朔日 光茂公は御暇、御馬を御拝領。同7日に江戸を御立ち、5月12日に御下着、東御屋敷に御入り。

 

一 11月10日 本院様が崩御。奉号は明正院。

 

一 同月 長崎御番を御受取り。

 

一  元禄10年丁丑 46歳。

一  月 長崎御番、松平肥前守殿に渡される。

 

一 この春、背振山の弁財像が京都で出来、御下りの事。

 

一   桜田御屋敷が、甲府様の御成御殿として、御用地に召し上げられ、代地は三田新掘端で、水谷左京が上り、屋敷を御拝領。

 

一 4月21日 光茂公が御参府の為、佐賀を御立ち、6月16日に御着府で、麻布に御在館。

 

一 9月29日 綱茂公が佐賀を御立ち、御供は、鍋島十左衛門、原田吉右衛門、鍋島正兵衛、鹿江伊左衛門。

 

一 10月7日 光茂公が江戸を御立ち、石部で、綱茂公に御面談、同23日に大坂着。

 

一 11月9日 珪光院様が御死去、中院通茂卿の御母堂。

 

一    麻布の御屋敷に御着府、   御礼を仰せ上げられる。御在府中に、武藤善兵衛、丹羽喜左衛門が年寄役に仰せ付けられ、溝口主馬という者が、土屋相模守殿(御老中御用御頼み)から仰せ入れられ、召し抱える。野崎五郎佐衛門という者は、大目付の高木伊勢守殿からの御頼みで、御出入り扶持を下される。

 

一    麻布南町で、大久保隠岐守の又中間が酒狂で、もさ馬(放れ馬)を切る。その津番が捕えて、疵馬を御屋敷で養生する。御馬医の桑島新五右衛門殿がお出でになり、御療治し、平癒後に、馬主へ渡される。この中間は、牢を仰せ付けられる。

 

一 御在府中に、小石千右衛門、野田二衛門、権藤七兵衛が、悪所に行ったのを、御歩行目付の直塚茂兵衛が言上し、3人は、苗木山に牢舎され、その後、切腹を仰せ付けられる。

 

一  元禄11年戊寅 47歳。

一 2月 御暇。上使 御発駕、4月12日に御着城。

 

一   長崎御番を御受取り。

 

一 8月2日、京都烏丸通四條下ル町、水野美作殿の元屋敷を御求めになり、受け取る。堺町の元御屋敷は片付けとなる。

 

一   西御屋敷は御取り立てとなる。

 

一 江戸御留守の頭人は、丹波卯右衛門。御留守居は、副島五左衛門、羽室清左衛門。

 

一 光茂公が御病気なので、御参勤は御断り。

 

一  元禄12年巳卯 48歳。

一 光茂公が、今年の4月中に御参府される様にとの御指図があり、御腰痛で御断り申し上げる。

 

一 4月12日 御前様が麻布の御屋敷で御卒去。奉号は寂光院殿。初めは、臺壽院様と付けられたのを、臺の字は御遠慮の旨を仰せ寄越されて、御改められる。御朦気の御尋ねということで、御奉書を御用番から渡される。納富九兵衛が、東海道を5日で到着し、持ち越し来る。御礼の御使者あり。

 

一 鍋島主税殿が召させられる。溜池端の水野松之丞殿の揚リ屋敷を御拝領となり、三田の屋敷は召し上げられる旨、綱茂公から仰せ越しなされるとの旨を仰せ渡される。

 

一 9月29日 佐賀を御立ち。

 

一 閏9月21日 佐賀の御本丸で、御姫様御出生。伊勢峯様と申し上げる。

 

一 溜池の御屋敷に御在府される。

 

一 8月12日か 洪水、諫早、山崩れが出て、人畜の多くが死す。

 

一  元禄13年庚辰 49歳。

一 2月 御暇、上使あり。

 

一 御留守頭人は、鍋島市兵衛、武藤主馬。御留守居は、羽室清左衛門、大塚平治兵衛。

 

一   長崎御番を御受取り。

 

一 5月16日 光茂公が御卒去。17日の夜に高傳寺へ御入寺、20日に御野焼、22日に御骨拾い、6月14日に御葬礼、今日からの御中陰の一七日(初七日)と、5月29日から7月2日まで、千部御修行の事。御法事頭人は、鍋島内記殿が仰せ付けられる。

 

一 6月3日 江戸の溜池屋敷へ上使の田村右京太夫殿がお出でになり、御香典銀子300枚を御拝領、御朦気の御尋ね御奉書を、三上新助、中島三左衛門が持ち下り、6月18日に参着、そのまま、御寺に綱茂公が御持参される。

 

一 御法名は、初めは大輪院様と付けられたが、大の字は御遠慮と、乗輪院様と御改められる。高傳寺の了為和尚が御引導される。

 

一 12月20日 長崎で、高木彦右衛門の中間と、深堀三右衛門、志波原武右衛門が喧嘩し、同夜、彦右衛門の家来どもが仕返しして、夜明けに、深堀の侍19人が行って、彦右衛門以下、数人を打ち取りの事。(委細は別書に記す。)

 

一 光茂公が御卒去で、剃髪、染衣の人は、牛島源蔵(一仲)、同女房、山本神右衛門(常朝)、同女房、落髪の人は、江副彦次郎、野田元右衛門、村岡五兵衛、原清左衛門、高木忠五郎、竹下八兵衛、戸田次郎兵衛、三谷助右衛門、山ア惣右衛門。半髪は御駕籠副の4人。(この外、隠居人などあり。)

 

一  元禄14年辛巳 50歳。

一 4月17日 長崎御奉行、丹波遠江守殿が下向、寺井で、御面談され、この時、御黒印御下知状の御条目の写しを、御受取り、御拝見なされる。これは、前に、お願いされていた事。公儀へ御礼の御使者の事。

 

一 長崎御番を渡される。

 

一 10月朔日 佐賀を御発駕。(御供は、諫早豊前、成富九郎兵衛。)

 

一    御礼を仰せ上げられる。溜池の御屋敷に御在府。

 

一 正月 鶴姫様が御疱瘡。綱吉公の御姫で、紀伊綱教の御簾中。

 

一 この年、御家中の手明槍まで、親族改めあり。

 

一  元禄15年壬午 51歳。

一 2月 御暇。上使  3月9日に御着城。

 

一 御留守頭人は、平右衛門殿、後に、登太郎殿。御留守居は、大塚平次兵衛、鐘ヶ江杢左衛門。

 

一    長崎御番を御受取り。

 

一 3月9日 桂昌院様が従一位御叙位、綱吉公の御母堂。

 

一 7月 北山の所々が洪水、山崩れ出る。8月に大風。

 

一  元禄16年癸未 52歳。

一 稲垣対馬守殿、安藤筑後守殿、萩原近江守殿、石尾織部殿、所々を巡見として、長崎まで御下向、御領内を御通り、4月16日に神埼で御参会される。

 

一 長崎御番を渡される。

 

一 10月朔日 佐賀を御発駕。

 

一    御参勤の御礼仰せ上げられ、溜池の御屋敷に御在府。

 

一 11月18日 麻布の御屋敷類焼。(坂部弾右衛門、仁戸田文右衛門が焼死。)

 

一 11月21日 夜、大地震。(手男1人が塀に押され死す。)

 

一  宝永元年甲申 53歳。

一 2月 御暇。上使   三月晦日に御着城。

 

一 3月晦日 年号改元の仰せ渡しあり。

 

一 4月12日 鶴姫様が御逝去。

 

一 5月8日 嚴有院様の25年忌の法事。

 

一 9月17日 御老中の阿部豊後守正武、卒去。

 

一 12月5日 甲府中納言綱豊卿を御養君、同9日に家宣公と改められる。

 

一 今年の御留守居頭人は、鍋島市兵衛、武藤主馬。御留守居は、鐘ヶ江杢左衛門、石井弥左衛門。

 

一  宝永2年乙酉 54歳。

一 正月9日 綱吉公の60の御年賀。

 

一 3月5日 綱吉公が右大臣、家宣公が従二位大納言に御叙任。

 

一 6月22日 一位様が御逝去、綱吉公の御母堂。

 

一 6月   万部御執行、導師は本庄社の別当、大乗院覚賢僧正。

 

一 10月朔日 御参勤の為、御発駕。11月10日に江戸に御着。(御供は鍋島十左衛門。)

 

一 大阪から成松又兵衛が御国元へ遣わされ、11月7日下着。神代弾正様は同15日に御出足。

12月10日に江戸に御着なされる。(又兵衛は、御国元から御用を仰せ付けられ、江戸へ遣わされ、大坂へそのまま向かい、着かれる。)

 

一 12月26日 綱茂公は弾正様を召され、御老中が列座の中で、秋元但馬守殿のお願いの通り、御養子に仰せ付けられる旨を仰せ渡される。弾正様の御名乗は、矩茂と改めになり、元は直利。

 

一    長崎御番を渡される。

 

一 弾正様は今年42歳。公儀への御願書には、40歳とされる。

 

一  宝永3年丙戌 55歳。

一 2月2日 桜田御殿屋敷を拝領、代地として、麻布屋敷を差し上げられる。

 

一 2月   御暇。上使は、井上河内守殿、2月5日に江戸を御立ち、同29日に御着国。

 

一 4月4日 長崎御番を御受取り。

 

一 今年の御留守居頭人は、副島五太夫、成松貞右衛門。御留守居は、鐘ヶ江平左衛門、石井彌左衛門。

五太夫、貞右衛門は、弾正様の年寄兼役。溜池北東の隅長屋に御座なされる。

 

一 3月24日 泰盛院様の五十年忌の御法事あり。(高傳寺で千部執行。)

 

一 5月16日 乗輪院様の七年忌の御法事あり。(千部同前。)

 

一 12月5日 弾正様が召され、御元服を仰せ付けられる。御称号の御一字、四品御刀(則光)を御拝領。左衛門佐吉茂公と改められる。即日、御礼済む。

 

一 綱茂公が御病気との事を申し来て、御典薬を願われ、長島的庵老が仰せ付けられる。御看病の為、吉茂公は御暇を願い、12月6日の晩、御用番の大久保加賀守殿宅で仰せ付けられ、御関所の御証文を渡される。道中で、もしも、その様子がいろいろ伝えられても、その當番という事で、そのまま御下国される様にとの旨を伝えられ、翌7日に江戸を御立ち、同13日に熱田で、既に2日に御卒去となられたのを聞かれ、同28日、御着城。

 

一 12月6日の晩、病気御尋ねの國継の御奉書が御留守居に渡される。

 

一 12月22日 上使の水野監物殿で、御香典銀子300枚を御拝領。御朦気の御尋ねの御奉書が御留守居に渡される。

 

一 御法事頭人は、鍋島内記殿。御引導は、行寂和尚が千部執行。

 

一  宝永4年丁亥 吉茂公44歳。

一 4月21日 長崎御番所を渡される。同28日に吉茂公は佐賀を御立ち、5月9日に大坂に御着、5月25日に江戸溜池の御屋敷に御着なされる。御参勤の時期の事なので、次第次第をお伺いの上、公儀から御指図あり。

 

一 正月28日 高傳寺の行寂和尚が隠居、当住に、川久保の松陰寺の寂照和尚が仰せ付けられる。

 

一 5月20日 (隠居)松平右衛門佐光行が筑前福岡で病死。江龍院殿淳山宗眞と号する。

 聞書

 

1  (金丸氏の話)慶安4年は、将軍家家綱公の御代替りでした。その暮れに、勝茂公が御参府で、御道中で御病気になり、御着府が延び、御代替りの初めての参勤で、特に申し訳なく思い、急がれましたが、力尽きて、出来ませんでした。そして、御着府してすぐに、御老中を御廻りのために、この延着の理由の御口上書を御案文されましたが、一行に心に叶うものにならず、その内に、時刻が過ぎ、御老中の御出仕の時間になり、殊の外、御手を掛けられました。光茂公が、御次に御座されていましたが、差し出て、仰せ上げられたのは、「今朝の御着を、御老中の登城前に御届けにならなくてはなりません。御病気で、御着が延びたのですから、早速の御出は、不相応のはずです。今朝は、まず、自分を御名代に遣わされ、晩になり、御廻りされてはどうでしょうか。」と仰せ上げられました。高源院様も御同座なされていましたが、それを聞かれて、「丹後守の言う所はもっともです。あの者におまかせなさいませ。時刻も過ぎます。」と仰せ上げられたので、勝茂公も、「なるほど、もっともだ。よく気が付いた。それでも、口上書は出すべきだ。」との由、仰せられた。光茂公が、また、仰せられたのは、「御口上は、しっかりと、合点しています。御書付には及びません。」と仰せられたので、「では、申してみよ。」と仰せられ、即座に、御口上を仰せられました。御夫婦様が共に仰せられたのは、「これまでの僉議して来た書付よりはよく聞こえる。その通り申し伝える様に。」と仰せられ、後で、「あれ程知恵があるとは思っていなかった。」と、殊の外、御褒めになり、それから以後は、じっくりと、御指南などされたそうです。その前は、あまり親しくもいらっしゃらなかったそうです。御十九の時の事だそうです。

 

2  (同上 金丸氏の話)。光茂公が14歳の時の御詠歌、

  さむき夜にはだかになりて寝たならば明くる朝はこごえ死ぬべし

これが御詠歌の始め、ということを伝えられています。また、一説に、多久美作から、「唐の山辺も紅葉しにけり」との歌をお聞きになり、御歌に御執心になられたそうです。

 

3  元禄10年、桜田の御屋敷が、甲府様の御成御殿の御用地として、召し上げられました。光茂公が御隠居以後、4月の御参勤の御旅中に、この事での連絡が来て、御供の上下共、何か気味が悪く、御前にも残念に思われているものと思っていたところ、申されたのは、「それはそれは、信濃殿は、巡り合わせがよいのです。有難い事です。」と申されました。

 

御参府の上、御城で、御老中が列座の中で、「今度、信濃守の桜田屋敷を御殿の用地に召し上げられます。これ程までの御用に立つことになり、巡り合わせがよいと、有難く思っております。自分は、数年勤めて、その間に、何の御用にも立てませんでした。信濃守の代になり、間を置かずに、この巡り合わせで、自分は羨ましく思います。」と仰せ申されたそうです。

 

4  (金丸氏の話)御老中廻りをなされるときは、道の都合ではなく、御順の通りに御廻りなされた由。

 

5  (金丸氏の話)御側の者どもへのお話でも、御旗本衆の事は、「何某殿がこの様にしゃって」と仰せられた由。御小身の衆の事でも、公儀衆の事は、陰でも粗略には仰せられなかった由。

 

6  (金丸氏の話)先年、長崎に御越しの前、御子様方が御病気で、御出立が少し延びたので、「早々に御出駕される様に。」と年寄中から言われて、「では、出立しよう。」と仰せ出だされ、「御膳を差し上げる様に。」と仰せ付けられましたが、出来るのが間に合わず、半煮えの御食を沢山食べ、御往来の6日間は何も召し上がられず、御帰城後に、御膳を召し上がられました。たいていの場合、御膳の事は尋常ではなく、一度に10度分も召し上がられ、また、何日も召し上がられない事もありました。普通の生まれ付きではないと言われていたそうです。

 

7  (金丸氏の話)御法事の時は御寺に御参詣され、読経の間は進んでお手伝い番をされ、頓寫がある時は、硯の水を、始終運ぶ役をされていたそうです。

 

8  (金丸氏の話)どなたにも、「江戸の方を枕に、御床を取られる様に。」と仰せ付け置かれ、道中などでの御寝みの時は、「江戸はどちらの方か。」と御尋ねなされるとの由。

 

9  (金丸氏の話)死罪の者の披露を聞かれるときは、すぐには仰せ出されず、暫く考えられて、逃れられるところのない場合には、一等ずつ減じて仰せ出されるとのとの由。

 

10  御側の者に御意見など仰せ聞かされる時には、「外様の者が聞けば、近い者だから丁寧に言い聞かせするように思うだろうが。」と、いつも、仰せ出だされて、全く、御側、外様の御隔てをなさらない言い方をされるとの事。

 

11  総じて、讒訴する人を、深く、御嫌いになられた。呼び出した人の到着が延びた時、「誰それはまだ来ないか。」とお尋ねのとき、「まだ参りません。」と申し上げると、「仲間を倒す心入れの者だ。」と仰せられるので、出仕が遅くなったときも、「どうしたのか、見て参ります。」と言って、御前を立ち、使いなどを出したそうです。また、「こういう不始末を誰それがしたのか。」と申された時は、誰と言う事はしないという事です。

 

12  (金丸氏の話)先年、御子様付きで、その子供たちに能の稽古を仰せ付けられていた田中覚兵衛に、「子供たちは稽古しているか。」と御尋ねの時、「子供で、ろくに稽古はしていません。」と申し上げました。以ての外に御立腹で、「子供のことを讒言する。」と、覚兵衛は浪人を仰せ付けられました。

 

13  (金丸氏の話)御慈深くいらして、「御家中の下々に至る迄、痛む思いをすることがない様に。」と、いつも思し召しでした。先年、堀田玄春が御雇分として下られたとき、東御屋敷で、毎月の御詠歌で御座に出られて、御次の間に、玄春、藤本宗吟、恩田恕情、が居ました。水ケ江のあたりに花火が上がり、玄春が見つけて、御挨拶されたのを聞き、御立ちになり、御次の間にお出でになり、玄春に仰せられたのは、「その方は、今ある法度については知らない。城下で、火の扱いは厳しい禁止事項だ。今夜のことは、絶対に、話してはならない。外に知れたら、科を申し付けなくてはなりません。ここから見たのは、見ていないという事になる。」と申されました。玄春は感涙を流して、「天下に、主君と望むのは、他にはありません。すぐに御家来となります。禄は御考えの通りに。」とお願い申されたので、召し抱える事になりました。いつも、公儀をと望んでいたので、これより以前から召し抱えるという事でしたが、御断りされていたので、まずは、御雇分で下り来た時の事だそうです。

 

14  (金丸氏の話)先年、久波に御泊の翌日、御供当番の御小姓役、中野七郎右衛門、古賀源太左衛門が船で海田に行き、御供の予定に間に合わず、外してしまいました。僉議があり、「ここから下国させられる様に。」と申し上げると、「それは、宮島の遊女町へ行ったのではないのか、改める様に。」と仰せ出だされ、またまた僉議して、遊女町に行ったのではないと、その言う通りに申し上げました。「そうならば、赦してよい。供番の者どもが、供の予定を外したのは、科としなければならないが、あの者どもは、男ではあるが、小姓役という名があり、前髪立てと同じ者どもだ。この科については、大坂まで、先に行かせる様に。」と仰せ出だされたそうです。

 

15  (金丸氏の話)先年、大坂に御逗留中(御隠居以後の御参府。)に、不寝番を、馬渡角兵衛、矢島彦兵衛の両人が勤めていた時、彦兵衛が小用に行った後に、覚兵衛が寝入りました。その時に、目を覚まされて、お呼びになったが、返事をしませんでした。起きようと思われたのですが、御腰痛の頃で、這って、御次の間に出られました。その時、彦兵衛が来て出会いました。「相番は誰なのか。」と仰せられましたが、いつもの御気質を心得ていたので、何かと言い、申し上げませんでした。

 

角兵衛は、膝を立てて、俯いて寝入っていました。角兵衛だと御覧になられ、両人は引き下がる様に、また、年寄りどもが出て来るように仰せ出だされ、年寄衆が出て来ると、「両人は、不審だあり、不届き千万だ。夜中は、ただに、不寝番のみが頼みなのに、不覚悟の者どもなので、きびしく、調べ、様子を聞き置く事。」との旨を、仰せ出だされました。

 

僉議の後、「不調法で、申し訳がありません。この上は、御国元に帰し、殿様の仰せ付け通りにと、仰せ伝えられます様に。」と申し上げられました。それで、またまた仰せ出だされたのは、「彦兵衛は科はない者だ。角兵衛は枕をして寝入っていたのかを調べる様に。」と仰せ出だされました。調べをしてみると、居ながら眠り倒れていたのに間違いなく、その事を申し上げると、「それでは、不覚悟というのではない。極々疲れた時は、眠り倒れる事は力及ばない事だ。佐賀へ行かせるのは休息ということだ。それに、信濃守が聞けば、切腹も申し付ける事がある。この件の科としては、江戸へ先に行かせる様に。」と仰せ出だされたそうです。

 

総じて、科人の事は、これは申し開きのできる事と思い付かれた時には、確かに厳しく穿鑿なさり、申し訳を聞き、赦されるのです。申し開きのできない事と思われる時には、あまり、調べもなく、御前の方から、色々と、違った道理を付けて、赦されました。こうした事は、一入、御慈悲深くいらっしゃるからと、人皆、感じ上げられたのだそうです。

 

16  (金丸氏の話)御参勤で大坂に御逗留中に、伊東大和守様が御出でになった時、薬酒を出されました。御酌取は遠藤六兵衛で、ビードロ瓶を脇差の鍔に当てて打ち割り、座が白けてしまいました。六兵衛は、下国させ戻すべきと申し上げたところ、「皆、考えても見よ。客人の前で瓶を打ち割り、座を白けさせようとする者があるか。自分事でない誤りは科にならず。」と、赦された由。

 

17  (金丸氏の話)公は、何事でも、筋目を明らかにして申し上げるのでなければ、聞かれませんでした。御目付から言上の書類は、御近習頭が取り次ぎ、差し上げられました。御受け取りになり、「そこを立ってよい。」と、御近習頭を下がらせ、おそらく、封のまま、月箱に入れ、御覧なされた分を、毎年暮れに、御焼かせになったとのこと。

 

18  (金丸氏の話)先年、密通の事がご報告された時、申されたのは、「他人の妻を犯すという事は、終ぞ、聞いたこともない事だ。重科の者だから、仕置する。」と仰せ出だされたそうです。

 

私に付け加えれば、環翠軒式目の箇条に、「昔はあった事なのか、源氏物語にもあり。今はない事。」と書かれています。

 

19  公が若い時、何でも、思い立たれた慰み事は、一途にのめりこみました。御年寄のある人(−何某)が、あろもこれも、止められました。いずれ、後で害になる事と思い、止められたのです。人並みの生れ付きでなく、一途にのめり込むので、と言う事です。御歳19の年から、御歌書を御好みでした。それは、御好みが過ぎても構わないだろうという事で、御心の儘にとされました。そういう訳で、すべて捨てて、御歌書のみ一途に貪り、御好みなされました。それを勝茂公が聞かれて、以ての外に御立腹で、きびしく御意見され、御歌書を残らず打ち纏め、御屋敷で焼き捨てられ、年寄役の両人を役から外し、光茂公にも、二度と御歌書をご覧にならないようにと御神文を仰せ付けられました。「歌は公家のする事。武家には用はない。それぞれが家の仕事を捨て、どうして国家が続くことがあるか。ただ、武の事、御政道を心掛けるべきだ。」と、きびしく御意見でした。

 

それからは、御歌も止められました。数年過ぎてから、公が思し召し付かれたのは、「政道を横に置いて、歌道一途で貪るのを制せられた祖父様の御気持ちは、もっとも至極のことだ。政道をまず第一に心掛け、その隙に、歌道を遊ぶのは、祖父様ご存命でも赦される事と思う。また、御先祖様方は乱国に生まれ、日本でその名を上げた武の方々だ。たまたま、人と生まれ、後々までの名を残さずに終わるのは無念の事だ。しかしながら、治世の世なので、武を以て名を残す事はできず、乱世ならば、御先祖様に劣らないものをと思う。今の時に、名を残すのは、歌学を成し遂げ、日本第一の宝、武辺の者では幽齋以外ではいない古今伝授を致し、一生の思い出にしたい。政道の障りにさえならなければ、祖父様への申し訳もでき、不孝にもならないものと思う。とはいえ、制せられた事なので、秘密にする。」と思い決められてからは、その御末期までに、古今伝授も済み、本当に、他に例のない事でした。また、世上に、御詠歌が漏れ聞こえる事も、深く、気を付けられていました。幽齋の伝授も一つは残してしまった由。公の伝授は、西三條家の正統のもので、無双の御秘書までも渡され、この御家に残り、存している事は、不思議な事です。正統の古今伝授は、今は、仙洞様、西三條家、こちらの御方の三所に留まり、在る、という事です。

 

20  興国院様の50年忌の時、恵峯和尚に御弔いのなされ方を御尋ねの事。

 

21  御参勤で大坂に御逗留の間に、弁財嶽境の公事の訴訟で、よい結果になった事を申し伝えられた時、「同役の、隣国の事でもあり、笑うしかない。」と申された事。

 

22  前項の公事の訴訟が起きた時、論地として、争うようにと仰せ遣わされた事、また、その時の御述懐の御詠歌の事。

 

23  御城で、御矢倉に鳥が居付いているのを、鉄砲で中てるべきかどうかを御大名方が御評判され、公にお尋ねのあった時のやり取り。

 

24  徳松様の容態が不例の時、御在国で居て、御裃を着て、数日環、御座される。

 

25  禁裏をご崇敬の御気持ち。

 

26  酉の年の大火事の時、夜中に御巡見。

 

27  長崎御番所で、鍋島主水、鍋島官左衛門、千葉太郎助に、長崎御番の大意を御物語される。

 

28  江戸大火事の時、御見舞いに御出でになった時、御供の者は残らず御供の為に用意の支度をしたところ、御一言で、御供する者とそうでない者を分けられた事。

 上記9箇条(20〜28)は、その詳細を、後で、別に記す。

 

29  (金丸氏の話)御病中に、和泉守殿(後には、紹龍と号す)が来られ、御面談の際に、御布団の上で御逢いなされるのは無礼に思い、布団から下りようとされましたが、できなくて、御転びになり、下りられ、それが気に中り、しばらく、気絶された由。

 

30  綱茂公が初めて御暇の時、御父子様が共に、御下国されました。若殿様が、初めての御下国という事で、村々の者が道の左右に出て、拝み申し上げました。後で、光茂公に、「私が通る時、皆が拝まれました。」と仰せられたので、「それは、心して考えるべき事だ。自分が人に拝まれるなどとは思わない様に」との由、きびしく仰せられたそうです。

 

31  御病中に、御床ずれが出来たのですが、一度も、御痛みを仰せられず、総じて、御苦痛の様子は少しもなくて、「機嫌はよいぞ。」とばかり申されていた由。

 

32  御在府中に、増上寺に御成りのある時は、御裃を着られ、御居の間に御座されて、御付き人が来て、今、御帰りですと申し上げると、暫くの間、御礼をなされていたとの由。

 

33  盆に御寺参りをされる時、近い道で行くという事はなく、御先祖様の順序通りに、御参詣されたそうです。

 

34  光茂公は、水戸黄門(光圀)様と御相性よく、時々、その御振舞にお出でになりました。ある時、黄門様が船の御話をされ、「丹後殿は、西国衆で、殊に、長崎御番を御請けになって居られるので、船の事はよく御存知でしょう。まさに、そういうものですか。」と御話し掛けられました。公は、その御答えに、「そういう詳しい事まで、よくご存じでいらっしゃいます。」と御答え、話されました。御帰りになってから、「少しも知らない事だったが、知らないとは言えず、何とか、間に合わせた。」と御話されたそうです。

 

35  (金丸氏の話)水戸様が紀伊守殿(元武)に御話されたのは、「鍋島風は、丹後殿までと見える。摂津守は似て居られるが、遥かに劣って似て居られる。その方などは、旗本程度だ。」と仰せられた由。

 

36  (中西氏の話)摂津守殿は、先年、江戸で、御供の人数の者が何事かあり、5、6人、浪人を仰せ付けられるべき由を、家老たちが申し上げると、「処罰ということなら、仕方がない、その通りでよい。さても可哀想な事だ。さぞ、難儀する事だろう。」と御落涙し、家老たちも落涙して、居りました。御側の者に仰せ付けられたのは、「浪人共が出て行く時、こっそり知らせてくれ。」と仰せ含められました。

 

今夜、出て行く由を申し上げると、「それでは、こっそりと、その者たちに、夜更けてから小庭の中門を開けて置くので、小者にも知らせず、通って来る様に。」と仰せ付けられ、夜更けてから、皆が忍び忍びで、御居間に通られました。「さても可哀想な事だ。どの様にして暮らすのか。処罰の事なので、自分一人の考えに任せられないのだ。最早、老体となったので、その方共が帰参するまで、永らえて、また会う事は分からない。暇乞いと思い、召し寄せた。帰参も間もなくの事なので、ずいぶんと元気で暮らしてくれ。命があれば、また、会える。」と仰せられ、御落涙されて、皆、立場も忘れ、泣き沈んでいるのを、脇から、「時刻が過ぎます。」と言われ、漸くに、立ち上がられたのだそうです。

 

37  御同人(摂津守殿)が、佐賀に御越しになり、今宿を御通りなされ、牢屋を御覧になり、「あれは何の家か。」とお尋ねなので、「牢屋です。」と申し上げました。「さてさて、この温かさで、あの中に居て、随分と窮屈な事だろう。可哀想な事だ。」と仰せられ、帰ってから、「我らの所で、牢に入っている者はいないか。」と御尋ねになられました。「塩田に2人入っています。」と申し上げました。「今日、佐賀の牢屋を見て、思い付いた。殿様の御処置はどうするものでもない。我らの中では、その様な事で、苦しめて置くのは、勿体なしで、可哀想だから、早々に出牢させよ。」と仰せ付けられた由。

 

38  御同人(摂津守殿)は、毎朝、手習いをなされます。これは、義峯様が御存生の時、「手習いをする様に。」と仰せられたのを忘れられず、せめて、御死後になりとも、御心に叶う様にと思われ、御習いになられるとの事です。

 

また、御参勤の時は、御霊屋に御参詣し、御存生の時に御暇される様に御詞を仰せられ、そこからすぐに御出発になり、御下国の時も、すぐに、御霊屋に御参詣され、御詞を仰せられてから、御入城との事です。

 

また、先年、誰かに御話されたのは、「もう、よい年なので、隠居したいとは思うけれども、家中の者が可哀想で、まだ勤めをしている。甲斐守が、もう少し年が行き、家中を慈しむ心が出来るまでと思い、延びていると。」と仰せられたそうです。

 

39  (金丸氏の話)お仙様が土井大炊頭殿に御祝言の後に、光茂公が仰せられたのは、「大炊殿とは親戚には成れない。そなたを取り返し、ある方(−何方)に遣る。」と申されました。お仙様はお答になって、「不足の人に添う事になるのは恥にはなりません。一度、夫婦となり、女の方から離別し、そして、また、二度目の夫を持つ事は、不義です。二度と、そう考える事もしないで下さい。」と、はっきりと仰せ上げられたそうです。

 

40  (金丸氏の話)申の年の大火事の時、光茂公が柳原に御見舞いされると、もう、長屋に火が移っていました。「奥はどこへ立ち退かれたか。」と御尋ねになると、「まだ、中にいらっしゃいます。」と申し上げられました。すぐに、通って行かれて、様子をお聞きになると、「付きの者供が、先程から、立ち退く様にと申しますが、大炊殿の御留守に、女が屋敷を立ち退くことは本意でないと思い、焼死の覚悟でここに居ます。」と仰せ上げられたので、光茂公が御同道で御立ち退きされたのだそうです。

 

41  (蒲原彌左衛門の話)了關様は、辨財天を信仰をあるべきとの由で、秘法伝授の出家を招き、弁財の法を行われました。そうしてから、「家中の者は、皆、出て来て、拝礼し、信心をする様に。」と御申し付けになりました。その後で、仰せられたのは、「我は老命僅かの事なので、弁天に用事は少しもない。甲斐守殿が家督以後、家中に、地三分を懸け、取り上げられた。元の儘でも難儀の者が、何として続けられるのか。その内に、飢える事と思い、どう考えても可哀想なので、あまりに嘆かわしくて、弁天の法を行ない、家中の者の家計が続く様にと祈る事にするので、随分と信心して呉れる様に。」と仰せられたそうです。

 

42  牛島源蔵が京都聞番で、山本神右衛門が御歌書御用で在京の時、光茂公からの御書の中で、「源蔵の事で目付共からの言上があったが、何だったのか、もう忘れてしまった。神右衛門もその場に居合わせていたという事だったが、何だったのか、忘れた。とにかく、源蔵は、身持ちよくする様にするのがよい。」と仰せ下されました。

 

その後、綱茂公に、御目付の者たちから、源蔵の不行跡が言上され、源蔵を下国させ、取り調べられる事になりました。この事を光茂公が聞かれ、綱茂公に仰せ入れられたのは、「源蔵は、自分の慰み事で、なくてはならない者だ。今度、下国させられ、調べた上で、国家の害にならない事ならば、科を赦して、自分に呉れる様にしてくれ。もしも、その方が気に入らないことがあれば、入道させて、使いたいのだ。」という事を仰せ遣わされました。綱茂公は、それを聞いて、「さても、その様にお考えの者でしたか。全く、国家の害になる事ではありません。何でも、孝行の事はしたく思っています。せめても、この位の事でも、思し召しに叶う様に致します。その者は、科の僉議はせず、そのまま京都に居て、御用を調える様に申し付けます。」との事を仰せ上げられ、それで済んだとの由。

 

43  光茂公が、御乳兄弟の高山宇兵衛という者を召し抱えられたが、不行跡で、その跡は、退転となりました。宇兵衛の母は御国に納まり居る由。

 宇兵衛の母は、法名は峯照院、正定寺に位牌があります。宇兵衛の子孫は分からないそうです。元文5年申8月に太田喜内が御知らせ下さいました。

 

お岩様の御乳兄弟は大田良庵、お春様の御乳兄弟は羽室清左衛門です。

 

44  光茂公が、御在府の時、誰か、心安い旗本衆が申されたのは、「疱瘡をひどく御嫌いなされていますが、御大名様には差し支えない事と思って居ります。」と申されました。公がそれを聞かれて、言下にお答になったのは、「親の敵と思って居りますので、嫌いです。」と仰せられたそうです。

 

(金丸氏より写し)光茂公

 

寶永9年 壬申 御誕生。

 同 1 年甲戌 御中剃、並びに、御袴着。

 同 12年乙亥霜月 初めて御内方から家光様へ御目見え。 

 

慶安元年戊子12月22日 御元服、御一字、御名字を御免。

 同年 同月25日 御前髪を御取り。

 同 2年己丑卯月16日 御祝言。

 同 3年9月 お仙様御誕生。

 同年 10月 光茂公御麻疹

 

承應元年壬辰正月18日 御老中を仰せ請けられる。

 同年 2月 勝茂様と光茂様が江戸を御発足。

 同年 3月 上關で、光茂様が御疱瘡。

 同年 5月彦法師様御誕生。

 同年 11月 光茂様が御参府。

 同 2年癸巳6月26日 光茂様が日光へ御参詣。

 同年 10月 お岩様御誕生。

 同 3年甲午3月26日 光茂様が江戸へ御出足。

 同年 11月 光茂様が御参府。

 同 4年乙未正月7日晩 ばば様、主殿頭殿、御内儀様、この方々に、御嘉例の御振舞。

 同年 同月9日晩 山ノ手に、御振舞に御出。

 同年 同月10日晩 酒井讃岐守殿に、御振舞に御出、御相客は、松平右衛門佐殿、黒田市正殿、

             大久保加賀守殿、松平山城守殿、船越越中守殿、道春、との事。

 同年 2月朔日 初めて、御鷹の鴈を御拝領、上使は下曽根三十殿。

 同年 同月4日 この鴈を御披き、御囃子あり。

 同年 7月22日 ばば様と光茂様に、それぞれ雲雀30を御拝領、上使は三十殿。

 同年 8月12日晩 それを御披き。

 同年 9月29日 亥の子祝いで、御登城される様にと御奉書が進ぜられる。

 同年 10月8日 朝鮮人が御城に御礼との事で、御装束で御登城される様にと御奉書が到来。

 同年 12月13日 勝茂様に鶴を御拝領の御礼に、御老中へ御出。

 同年 同月14日 この御礼の為に御登城。

 

明暦元年乙未2月2日 鴈を御拝領。

 同年 3月4日 それを御披き。

 同 2年丙申2月5日 お仙様がお紐解き。

 同年 2月 お春様御誕生。

 同年 8月 彦法師様、袴着。

 同年 12月23日 勝茂様の御参勤の際の御礼物を、光茂様が御名代となり上がる。

 

 同 3年丁酉正月2日 御登城、御流れ頂戴。

 同年 同月19日 大火事で、光茂様御夫婦の御二方様と御子様方は青山に御移り。

 同年 2月18日 勝茂様が御煩いで、上使の安倍豊後守殿が御出でになり、

            そこで、御礼の為、神尾備前守殿が御同道で、光茂様が御登城。

 同年 同月19日 御家督の事で、岡部内膳正殿、同丹波守殿、和泉守殿が御城に召し出され、

            仰せ渡しがあり、同晩に、御礼の為に御登城。

 同年 3月朔日 御家督の御礼の為に御登城。

 同年 5月4日 青山から麻布に御移り。

 同年 同月16日 御老中に御出であり、ただし、御忌が明けたので。

 同年 同月26日 御鷹の鶴(5)御拝領。

 同年 6月13日 それを御披き。

 同年 同月16日 御嘉祥で御登城、初めて御着座される。

 

以上。

 

45  光茂公が御隠居の後、御参勤の御供の御家老は、いろいろと御相談の上、中野數馬(是水の父、利明)が仰せ付けられました。御発足前に、數馬に御用という事で、光茂公が午前に召されて、誓紙を仰せ付けられました。「前書を中島善太夫、読み聞かせる様に。」と仰せ付けられました。その内容は、「その方は、信州様が御若年の時から付いているので、信州様の事は詳しく心得ている。これからは、信州様の御身の事は、何事に依らず、丹州様には申し上げない事。もし、これに背く場合は。」の趣旨です。その内容についての御話については分かりません。

 

數馬は落涙して、「さても有難い御心入れの事と、憚りながら、感じ入り申し上げ、我知らず、落涙してしまいました。」と申し上げたそうです。御前に居合わせた人の話だそうです。

 

46  先年、小城、蓮池、鹿島の御三人の方に、公儀から御役が仰せ付けられ、献上物などを、例の通りに、段々に差し上げるまでの格になられました。その頃、綱茂公は御部屋住みで御在府されていて、この事を聞かれて、御格式違いになる事を仰せ伝えられ、御国元にも聞こえて、光茂公から御三所の方に、やり取りされて、それに対して合点の行かない返答もあり、殊の外難しく、不和の事になり、御家老衆が、夜昼と僉議されても、埒が明きませんでした。

 

その時、中野将監が、一人で、御前に出て申し上げたのは、「この頃、何日も、御三人方の衆とのやり取りが、今もまだ済んでいません。決まらないままでは、御家の大事にもなるものと思い、いろいろと考えています。そのことで、私の考えを申し上げたいと思います。私の事は丁寧に御使い頂き、子供まで、それぞれ、御知行も下され、御厚恩は身に余るものと存じております。自分に知行を下されるよりは、子供に知行を下され、親しく、召し使われますのが、特に有難く思っております。これが親子の道という事と思います。そうであれば、御三人の事をよくよく考えてみれば、公儀の御三家は、他の分知の家とは違います。勝茂様の御子様が公儀に御勤めされているというだけの事なので、御三人は、いつまでも、その御子様方との考えで、信州様と同然のものとお考えになられているはずです。その時は、公儀の事がうまく運んでいる程、御前にとっても大慶の事であるはずです。御三人が公儀との間がよいからと言って、御家の害になる事はなく、結局、御家の御威光となります。この根本の所の考えの行き違いで、御三人方の衆の御上が首尾よくなされている事を御立腹なされては、御三人方の衆は、御情けない事と憤り、御互いに悪事の見付け比べになってしまいます。その先はどう納まるか、分からない事です。泰盛院様の御代までは、御三人に付けられた者共は、御用の時には、直に御前に出られ、御礼日、御祝事などの時にも、少しも分け隔てなく、親しくされていましたが、近年、又家中とか言って、隔てられるので、誰もが、嫌になり、佐賀を出てしまいました。

 

こうした事で、その御主人も御憤りが出来てしまいました。さらに、御三人方の衆は、その上の方が、うまく行っているのを御立腹されるという事では、合点の行かない事のはずです。そういう事ですから、非となる事はこちらから始まっています。ですから、今のなされ方としては、加州を御呼びになり、御面談で仰せられるべきは、さてさて我等の不調法は痛み入ります。若い者が何かと言い、年寄りが同意して、いろいろお互いの非となる事を言い募るのは、言語道断な事で、これは自分一人の不調法です。本当に、間違いだと分かりました。この上は、いずれの方も、信濃守と同じ様に一和する事で、国家相続の事を御頼み致します。そちらは、年の役で、他の者にも、そういう事で、申し聞かされて、得心させて頂きたいのです。信濃守へは、私から申し聞かせると仰せになって下さい。きっと、加賀守殿は感心し、無事に納まるはずです。」と申し上げられました。

 

光茂公は、ふと、気が付かれ、「尤も至極で、自分の誤りだった。加賀守の迎えには、その方が行ってくれ。」と仰せ付けられました。将監が思ったのは、まだ、その最中の事でもあるので、小城へ行っても加州殿が御面談頂けるか分かりません。女房の続き中があるので、深江藤右衛門に、先立って小城へ行くように申し聞かせ、将監が尋ね来る御用というのは、加州様が、特に御大慶なさる事なので、御面談下される様にと申し上げる様に言い含め、遣わされました。

 

そうしてから、小城へ行くと、早速御面談となったので、「丹州様が直接に仰せ伝えられる御用がありますので、一両日中に、佐賀に御越し下さいと申されていました。御用の筋は何か分かりませんが、御双方が御大慶の事と思っております。」と申し上げて、それに対して、何日に御越しになるとの御返答で、将監は帰ったのでした。

 

その日になると、紀州も御同道で、「いずれ、その方も聞く事になるので、西の丸に控えている様に。」と御申し付けになり、加州は御城に御出でになりました。光茂公は御面談で、「この頃、何日も、三人に対し、何かと面倒なやり取りが出来て、今も、まだ、済んでいないと聞いています。よくよく考えてみると、つまりは、自分が誤っていました。」と仰せ始められ、一々、細かく仰せなされたので、加州は頻りに御落涙され、「もう、最後まで言わないで下さい。さても、有難い御心入れで、心から了解できました。年を重ねた自分がありながら、若い者に、この様な事を言わせてしまう事は、自分の不調法、この上ない事でした。自分が、この事は受け取りますので、少しも、御心配なくいで下さい。紀伊守も呼んで来ています。この際ですから、あの者にも、直に仰せ聞かされ下さい。」と申され、早速、紀州が出られて、詳しく御聞きになり、加賀守殿は牛王を請われ、父子で血判して誓詞をなされて、差し上げられ、その場ですぐに無事の事となったのだそうです。

 

 この事を御前に申し上げた事は、将監は最後まで他言せず、ただに、御前の思し召しに依るものにし成しました。本当に、忠臣の心入れというものです。この事を常朝に密談の事は、正徳3年12月7日に安住で、秘かに物語られ、承ったのです。その話の始めに、「大体において、器量の奉公人、知恵深く、ご意見などされる人は、自分の手柄にして、殿に恥を掻かせることは、古来より数多く見て来ました。御意見などと言う事は、殿の思し召しで、御自身が思い付かれたと、皆、人が、そう思う様に内々に行い、殿の悪事は自分の身に引き被ってこそ、御譜代の士の覚悟と言うべきです。中野内匠は有馬の一番乗りを隠し置きました。また、その事を御味方の者が一人で、密に申し上げる時は、御納得されるはずです。そして、また、御三所の事は、古老の評判では、行く末に、御家の崩れるのは、三所の未熟さからになる。」と言われたそうです。

 

古老の士の物語では、勝茂公の御代には、三人が御子様方なので、区別することなく、若殿様が4人居る様な様子に成っているので、御家の御威光と見えました。いずれの方も、御城内の屋敷屋敷に居られて、そこに付けられた衆も、小城には直茂公の御取り立ての名士、蓮池、鹿島へも、御頼み切りの衆を付けられ、御家の骨切侍共で、御掘を取り回して住んでおられ、勝茂公に申し上げる事がある時は、御次に通り出て、御用御座候と申し上げて、御前に直に進み出、そしてまた、役儀で御使者などが数多く要る時は、いずれの方でも、御用を仰せ付けられ、御祝儀事、御礼日などには、御家中合わせて取り掛かり、少しも区別なく、一つに召し使われました。

 

そうした所で、勝茂公がご卒去で、光茂公の御代になり、江戸の御育ちで、御家の古い事は御存知なく、その年寄衆も御家風を心得ず、高傳寺の月堂様の御霊屋を囲い直して、垣で仕切り、御三人を公儀の御三家の格にして、三家と名付け、その御付きの衆を、又家中という扱いで、御城に出る時も、御式台などに待たせ、少々の事では面談もせず、多くの事で隔てが出来、御三人付きの者どもは立腹し、「御家の御譜代で、御国を取り固めたのはこちらの事なのに、蹴り下されては、是非に及ばずです。二度と御城には上げりません。」などと憤り、皆、佐賀を立ち退き、御主人方も、その御在所、御在所に御引き取りになり、月堂様の御霊屋を宗智寺に引き取り、隔て心が出来、その後は、殿様を御本家と言い、御主人方を殿様と申して、別の旗を立てられました。

 

他家の、内分、分地などという事とは様子が違い、勝茂公の思し召しでなされた事とは違うものになり、嘆かわしい事と申していたところ、近年、また、慣れ親しむ様子が見えて来て、目出度い事と物語されました。また、前の古い方の山本神右衛門の話に、「小城の御家中は、直茂公の御頼み切りの衆なのです。追腹が数人、その後も、段々と相果て、終わられて、昔の衆はようやく半分が生き残っているのです。この半分に、殿様の御家中の残らず全部と比べても、なかなか及ばない事です。」と申されたそうです。同席で聞かれた話だという事です。

 

47  お春様の御祝言の流れで、御長屋に御出でになり、人通りを御見物されました。江戸の御籏本衆、御大名方の御通りで、御行列が厳めしくあるのをご覧になられ、いろいろと評判されていたところ、光茂公が通られました。ある方(−何方)の供周りに比べると、どうも不行儀で、男ぶりも衣装も劣り、殊の外御機嫌悪く思いなされました。

 

その後、光茂公が御出でになられたので、仰せられたのは、「この前、長屋から人通りを見物していましたら、ある方(−何方)の供周りは、殊の外立派でした。こちらの御通りは、散々で、見劣りし、悔しいものでした。きつく、仰せ付けられてください。」と、殊の外、せき上げ、涙ぐみ、仰せられました。光茂公は、それを聞かれて、「その方が知るべきことでもない。」とばかり仰せられたので、「どういう事があるのでしょうか。」とお尋ねになりました。光茂公が仰せられたのは、「言っても分からないかも知れないが、あまりにせき上げて言うので行って聞かせる。他方の供の者は、見かけのよい男を選び、寸尺を合わせ、見栄えだけで取り集めた、お抱え者なのだ。だから、何事かある時は、主をも捨てて逃げる者共だ。自分の家中は、譜代相伝の者共ばかりなので、見かけの善し悪しを言わず、在り合わせた者を共として連れているので、見ものではないが、何かの時は、一歩も引かず、主の為に、命を捨てる者ばかりだ。我らが家は不男が名物だ。」と仰せられたそうです。この事は、井上市五郎の母が、「御前に出ていて、お聞きした通りです。」との話だということです。これは、同じ日に聞いたものです。

 

48  申の年の大火事の時、桜田御屋敷に火が懸かったのを消そうとしていたところ、光茂公が申されたのは、「大名衆の屋敷が皆焼けてしまったのに、この屋敷だけを消し止めるのは無用の事だ。そのまま焼いてしまえ。」と仰せられました。そうしてから、御父子様とも、御出になられました。どの方向も焼け塞がっていました。中野數馬が出て来られて、「自分が御先乗り致します。」と言って、乗り回りました。數馬は、江戸詰めの間、隙の時には、道筋を調べ、いつも、見分に出て回り、予てから、よく案内を知っていたのです。この時の御先乗りの働きは、その当時の摩利支天と申されたそうです。

 

翌日の夜明けに、漸く、麻布の御屋敷まで御出なされました。そうしたところが、またまた出火し、麻布の御屋敷に火が懸かったので、「今度は、いずれもが精を出して消し止める様に。」と仰せ出だされました。若殿様は長屋の屋根に上がり、御采配で御指示をされました。光茂公がご覧になり、「見苦しいやり方だ。」と御叱りなされました。御家に火が懸かり、どの方向も焼け塞がり、「もう、手に負えなくなって、退き道が危ないので、早くに御退き下さい。」と、何度も申し上げられましたが、御退きにならず、「命の限りに防げ。」との御命令で、下々まで、焼け疵し、焼け死にました。

 

その時、相良求馬が出られて、申し上げたのは、「下々が、段々に焼け死に、手負いしております。御慈悲にも、御退き下さい。」と申し上げられて、「それでは、退く事にする。」と仰せられましたが、もう、御門、御門が焼け塞がっていました。その時、御歩行の野中杢兵衛が、刀を抜き、塀を切り破り、人数全部が取り掛かり、塀を押し倒し、石垣の上から、両殿様とも、御馬を飛ばせて、御退きなされたそうです。

 

49  (蒲原彌左衛門の話)。ある年、摂津守殿に、公家衆への御馳走を仰せ付けられました。ある方に仰せ付けられた時の事の聞き合わせをしている内に、武家の家来は不慣れで、公家の御家来とのやり取りをされては、的外れの事のみあるので、御馳走方を前々から、し慣れた者を一両人を御雇いになり、それに任せるのがよいという事で、両人を雇われました。

 

摂津守殿は平生から律義で居られるままに、ただに御礼を深くされるので、公家方は迷惑して、御手を突いて御会釈なされました。この御馳走方に雇われた人が、その内意を話して、「今度の御役の方は、特に手際がよくて居られるので、御心遣いは、なされないで居て下さい。公家方から武家に手を御突きの御挨拶は、決して、しない事です。先頃、御供の衆に、今度の御馳走人は、殊の外、丁寧な人です。気を付けて、不躾な事のない様に、と仰せられていました。」と話されたそうです。

 

50  光茂公が御隠居された頃、青山のご屋敷で、御年寄の中島善太夫、江副彦次郎から、御隠居付きの人数の書付を御目に懸けたところ、以ての外に御立腹で、「国家を手から離し、付属させ終えたのに、隠居の物が何かあるのか。ただ、事欠く事があるので、信濃守の物を、当分は、借りて済ますのだ。隠居付きと名付けて、分けるのは、そこにもう、父子の間に隔てが出来、よくない事だ。父子の間を隔てある様にするのは、不届き至極。」の由で、きびしく叱られました。

 

その後、御譲りの御道具の事を、度々の御承知をなされ、その事を申されてで、「一式目録で済ませる様に。」と仰せ出だされ、残らず、遣わされました。その内、「御譲りの御掛硯は、御家の大事の御譲りの相伝の事がある。御両殿様の御隙の時に、直伝で遣わすので、残し置く様に。」と仰せ付けられ、その後、御国元で御相伝があったとの事です。また、青山に御在府中に、御道具が何もなくなったので、御客などの時は、時々、桜田から取り寄せられました。御書物の外は、何も御貯えの事はなくていらっしゃいました。

 

51  光茂公が御卒去の時、願い出て、出家された人。(落髪、半髪は末尾に記す。)

 

   牛島源蔵(一中)         山本神右衛門(常朝)

   江口幸左衛門母御局(清印)  嬉野九郎左衛門姉(妙雪)

   増田藤次左衛門母(慈俊)   木塚市之允姉(桂室)

   小森九兵衛姉(空月)    石井久彌(道閑) (この久彌は願い出ないでいたところ、後日、仰せ付けられました。)

 

  自分で出家された人。

 

   野田元右衛門(捨入) (これは御遺言の通り、まずは落髪され、隠居後に出家されました。)

   松崎彦右衛門          松崎彦右衛門女房

   中島善太夫           前山又兵衛

   三谷如休            如休女房

   野口宗慶女房         牛島源蔵女房

   山本神右衛門女房      御台所男(直禅)

 

  鍋島、本庄の百姓5人が剃髪し、十徳を着られました。

 

   鍋島村 今泉忠左衛門(法名 元貞)、同名 新左衛門(法名 元享)

   本匠村 山田形右衛門(法名 道香)、近右衛門(法名 覚圓)、御厨利左衛門(法名 宗賢)

 

52  (高傳寺の出家の話)了關様が、ある時、高傳寺に御参詣され、出家衆にいろいろとお話され、唐茶が御好き、豆腐煮〆が御好き、などと仰せられたので、それを出し、暫く、休憩されて、御立ちの時、「長話で、皆さま、御退屈だったでしょう。とはいえ、供の者を休息させました。」と仰せられたそうです。

 

53  忠直公が御卒去の時、翁助様は4歳に成られていました。御幼少の事で、勝茂様の御家督を甲州様に差し上げようと、御夫婦様が御相談で、まず、恵昭院様を甲州様に婚礼させられました。その時、上臈の小倉殿(元下総守殿の御一門です。)は鬱憤して、御供をせず、翁助様の御養育に、夜昼、心を尽くし、片時も離れず、御食事は、干物の御汁と花鰹の外は何も上げられず、一人で守り、盛り立てられました。そうしていたところ、甲州様の御取立ての事は、御家中、上下共、納得せず、いろいろと僉議される中で、美作殿が、態々、江戸に行き向かわれて、「翁助様を差し置いての、甲州様を御取立ては、御家中は納得していない」との由を申し上げられました。勝茂公が聞かれて、「尤もではあるが、自分の余命はないので、幼少の嫡子では、長崎の御番がならないと思う」との由を仰せられました。

 

美作殿が申し上げられたのは、「それは、翁助様が物にならない時は、甲州に御譲りになるという事です。御家中の承知でない事は、どの様な御考えでも、叶わない」ものと、そのままに申し上げられたので、御納得されました。しかしながら、御前様のお考えの事もあり、御老中を御呼び集められました。その前日に、紀州が御出でになり、小倉殿を召し出され、「翁助殿の為に、明日、御座の所に、何気に、翁助殿を抱いて出られますか。きっと、御立腹で、科を仰せ付けられるのですが。」と仰せ申し上げると、「もとより、一命を捨てております」由で、引き受けられました。

 

翌日は、酒井讃岐守殿(一説には土井大炊頭殿)を初め、御老中が御出でになり、御夫婦様の御盃事が済み、讃州が盃を引き取りした頃合いに、甲州様を御呼び出しなされる様にと仰せになり、話をされていた時、紀州が合図されたので、小倉殿が、御座に出られて、翁助様を御目に懸けられました。紀州が近づいて来て、「肥前守の忘れ形見です。御目に懸け置きますので、御盃を下されます様に。」と申されたので、御老中方は御喜びで、「この様な御子がある事を、まったく聞いていませんでした。さてさて、目出度い事で、よい御世継ぎです。」と仰せられて、御盃事が済んだのでした。そうなれば、御夫婦様にも、何かすることもできず、御議定となりました。

 

小倉殿が心気を砕き、御意見申し上げられていたので、翁助様が御成人の後も、何様というほどの事を仰せられても、「小倉殿がお叱りです。」と申し上げれば、御留まりなされました。何方での御振る舞いに御出での時も、小倉殿が付いて行き、御膳の向かいに居て、袂から花鰹を出し、それ以外の物は、何であっても、差し上げられませんでした。御養育よくて、体は丈夫にならせられたとの事です。

 

小倉殿の老後に、食物、衣類などの事まで、光茂公が御指図なされ、朝夕の料理は百疋宛てに御定めになり、その他、種々の拝領の物は数限りなくありました。それの全てを、御祈祷の為に費やされたのだそうです。藤本宗眞の養母です。(小倉殿の寺は唐人町一向宗妙念寺で、慶安2年己丑8月16日死去。)

 

54  光茂公の御代の加判御家老は、相良求馬、生野織部、鍋島彌平左衛門(後に、御家老の家を仰せ付けられています)、中野數馬、原田吉右衛門。

 

55  同じく、光茂公の御代の御傳夫は納富九郎兵衛。

 

56  同じく、光茂公の御代の御年寄は、馬渡市之丞、副島五左衛門。この両人は、御部屋住みの時に付けられました。勝茂公から、蟄居を仰せ付けられました。残りは末に記す。

 

57  紀州殿が御病気の事を、光茂公は、御参勤の御道中で聞かれて、道中を急ぎ、旅籠で食事をされました。大石小助が言うには、「いつもの、御物嫌いとは違いました。」由。そうして急がれたのですが、御着前に御死去でした。加賀守殿は、御死去前に着かれました。紀州は喜び、「この日頃、夜昼、待っていたのは、他でもない。浮沈は共に、丹州と一味同心の事、自分の目の前で、誓紙をして、牛王を焼き、飲んで見せてくれ。」と申されました。「その事は、安心してください。日頃から、その覚悟です。」と、すぐに、血判、誓紙をして、牛王を焼き、飲んで、御目に懸けると、「安心した、他に言い置く事はない。」と仰せられ、そのまま、御死去という事です。

 

58  光茂公が御家督相続の御礼で、方々を廻られていた時、紀州様へいらっしゃると、取次の衆が言うには、「丹後守様が御出でになったら御目に懸かるという事ですので、奥に御通り下さい。」と申し置かれました。公が御通りになると、すぐに御面談され、御吸物で、御盃事の上で、「今度の御家督御相続、ひとしお、目出度く思っています。そちらは御年若で御存じないでしょう。私は、信濃守殿の御内方と同部屋で育ち、特に、心安くしています。御夫婦は御大慶の事と存知ます。御祝儀申し上げます事、御心得置かれて、仰せ上げられ、お伝えくださいいます様に。」と仰せられたそうです。

 

御門外で御駕籠に御乗りになられた時に、この事を百武伊織に仰せ聞かされ、それで、御夫婦様へ仰せ遣わされ、御礼なされたそうです。

 

59  綱茂公が御若年の時、北條安房守殿の御弟子になり、軍法の御稽古をなされ、小師に、福島傳兵衛が来られました。この事を光茂公が聞かれ、御家には、御相伝の御軍法があるので、他家の軍法の稽古は無用との事を仰せられたので、御止めになられたそうです。また、広瀬傳左衛門の事は、御見捨てなされる事があり、お呼びにならないと綱茂公の申される趣を、常朝が直に聞かれたのだそうです。

 

60  興国院様の五十年忌の時、光茂公が江戸で、御老中に仰せ伝えられたのは、「父、肥前守が死去の時、自分は4歳で、何の孝行もできず、当年、五十年忌の法事に、ぜひ、追善をしたいものと思います。それで、肥前守は、早世の為、諸太夫で終わりました。この度の追善に、侍従の贈官をお願い申し上げます」との由を仰せ伝えられました。しかしながら、先例のない事なので、難しいとの御返答で、「そうであれば、自分は、侍従の官を返上致しますので、亡父に仰せ付けられます様にお願い申し上げます」との由を仰せられました。御老中は感心され、「そういうお考え入れがあるのであれば、例に從う事でもない。」と、事が済んだそうです。

 

その後、京都に御装束の事を仰せ遣わされ、中五郎左衛門が持ち下り、高傳寺に差し上げました。そして、また、御位牌を御立て直しなされるという事で、「鍋島家三代相続前肥前太守 興国院殿敬英賢大居士」と御指図なされ、これも、また、京都で出来上がり、御下りになったのを、伊東新五郎が高傳寺に持ち上がりされたそうです。

 

この贈官の事は、江戸で、御老中方に、役人などが、近年、取沙汰の事だそうです。御装束を御寺納されるているので、御願いは済んだという事のはずです。さらに、この事は調べるべき事。

 

61  光茂公が有馬の陣の時、6歳に成られていました。勝茂公に、御近言の深い意味の事を仰せられたそうです。いずれ、これを調べてみる事。

 

62  光茂公が御卒去の時、落髪を赦された方々。

 

御年寄 江副彦次郎、御同役 野田元右衛門、御掛硯役 村岡五兵衛、御書物役 竹下十助、御書物役 原権兵衛

御書物役 高木忠五郎、御書物役 戸田次郎兵衛、御馬役 山ア惣右衛門、御駕籠心遣 三谷助右衛門

 

御駕籠副4人は半髪を、願い通りに赦されました。この外、落髪願いの深江六左衛門、半髪願いの衆、数人は差し止められました。

 

63  (中野氏の話)木下五兵衛宅が出火し、御家に火の粉が来て、火消し共を御家に上げるかどうかで、御年寄の相良求馬、山ア蔵人から中野市左衛門(後には十右衛門、この時13歳)を通して御考えを尋ねられたところ、「自分は眠くて、今、寝たところだ。火が懸かって、出るのによい時に起こしてくれ。家は焼けても問題ないが、書物蔵に火消しを上げて呉れ。」と仰せ出だされ、そのまま、お寝みになられたそうです。

 

64  御隠居の青山の御屋敷で、御台所役の野田佐五右衛門が、明朝の御膳の図で御尋ねしたところ、御添削され、差し出し、御客前でも御膳を召し上がるという事を仰せ出だされました。佐五右衛門は聞き間違えて、御客の前に済むものと思い、御膳の用意をしませんでした。そうしたところ、御客の御応接が済み、「御膳を差し上げる様に。」と仰せ出だされましたが、用意していなくて、急いで取り掛かりましたが、遅くなり、やっと、食べられるものが出来、それを申し上げたところ、「花鰹だけで差し上げる様に。」と仰せ出され、暮れてから御膳が済み、年寄共を召し出され、「老人を一日中、寒気に当たる様にした訳をきびしく調べる」との由、仰せ出だされ、佐五右衛門を調べたところ、間違って理解していた不調法という事を申し上げて、自分の小屋に下がり、身を繕い、仰せ出しを待っていたところ、そのことを聞かれて、「佐五右衛門は、明日の朝から、ふうけなく、しっかりするとの事を誓紙にさせ、遠慮なく、御膳を差し上げる事」の由、仰せ出だされました。

 

65  取り調べの事の披露を御聞きになる時、調べ役が口上書を読む時に、一方からは御尋ねの事を申し上げられながら、一方では、仰せ付ける事を申され、御自身では、何か書いていらっしゃいました。一度に、4つも、5つも、御済ましになられました。そうしながら、調べ事の理に合わない事は、少しも御聞き落としなく、御穿鑿なされたとの事です。

 

66  光茂公に、江戸で、何方かがご挨拶され、「御道中を御乗馬でというのを不思議に思っております。1日、2日さえ難儀なものです。どの様なことか、お教えの御伝授の事があるだと思います。御弟子になりたい」由、申されました。公が御答えになられたのは、「伝授などというものはありません。馬に乗ると思わず、畳に上に座っている心持ちでいれば、少しも草臥れないのです。」と申されたそうです。

 

67  御参勤の御往来で、陸路を通られる時は、御馬のみを召させられました。出来のよい、上感の馬でなければ続きませんでした。箱根八里の山坂は、いつも早乗りされました。そして、また、御膳は、御泊で一度に召し感がられ、その他は、何も召し上がられませんでした。「何時に御膳を上げ置かれる様に。」と仰せ出されるので、盛り立てて、差し上げ置かれて、役人は次の御泊宿に通って行きました。遅く着かれても、冷えた御膳のまま召し上がられたそうです。

 

68  ある時、一日の内に、御膳を10度召し上がられ、松永宗雲に御腹を診させられたところ、「いつもの御腹と変わりはございません。」との申し上げだったそうです。

 

69  光茂公から加賀守殿に遣わされた御文。

 

昨晩は、御届け物、御気持ちに満悦致しました。さてもさても、竹取の翁の所に出て来たのは玉と輝く姫と聞きます。竹の中からよい肴の出る例は、昔も知らずで、今からは、竹の子の料理を禁物にして、そういうおいしそうな肴の出て来そうな大竹を噛み割りしては、この度の物を頼りに興を増しては、最中の月はともかく、もも中を突き抜くほども、若衆を入れて、酒宴して、東の方に聞く武蔵野という盃を取り交わして、夜明かしで、いつまでもの尽きない遊びをしました。恐々謹言。

 

 肥前の侍従 段子のかひ みつすき

 萬治元年 8月16日

 小城ノ五品 殿

 

70  先年、各組に、能を仰せ付けられた時、御書物役の牛島源蔵、山本権之丞の両人は、御用が多く、それに差し出す事はできないという事を仰せ出だし置かれました。そうしたところ、御能の日になってから仰せ出だされたのは、「家中、一人も残らず、能の役をするのに、両人だけが出ないのでは、どうなのかと思う。当日だけ、組の人数に混じり居る事」の由を仰せ出だされました。

 

そして、また、その組頭と、その組の演ずる日をお尋ねになり、「御書物役は一日の隙も赦されないが、組に付けた者を、一年に一度の出演に遣わされなくては、寄親の思う所もあるだろうから、組の出には出て行く様に。」と仰せ出されたそうです。

 

71  光茂公が御城を御退出の時、御長袴の裾を誰かが踏み掛けて、少し、躓かれました。加賀守殿が御覧になり、行き進んで、その人の長袴の裾をしっかり踏んだので、その為にその人は、うつ伏せに倒れたそうです。

 

72  光茂公に吉良上野殿が申されて、「御大身でも、官位が低くいては、面白くない事でしょう。少将の御許しが出るならば、知行の半分を、それに御替になられては。」との時、その御答えに、「官位ばかりがよくても、食い物がなくては、何もならない事です。」と仰せられたそうです。

 

73  光茂公が御卒去され、御塔石は川上から出されました。まだ、人夫の募集の御触れもないところに、山内の者や川上近辺の者が聞き付けて、駆け付けて来て、佐賀に届けました。とうとう、公役の者は一人も要らずに、人数はずいぶん余る程だったそうです。

 

74  綱茂公の御乳兄弟、坂部又右衛門です。

 

75  綱茂公の御卒去の時、願いにて出家した人達。

 

年寄相続人 生野孫左衛門(沖天一志)     御側 野口千左衛門(本宗一通)

年寄相続人 田原源兵衛              御道具役 田尻次左衛門(鐡關直入)

御神事役 伊東喜兵衛(量外互虚)        御茶道 山中玄疇(不峯了白)

御茶道 増田宗信(鐡幹不芳)           秋山良甫(眞叟未生)

手明槍御居聞番 深堀長兵衛(必海常安)    小出三甫(楽郡浄念)

御局 坂部又右衛門母(了心院眞寂性空)    綱姫様御袋 お花殿(性海院)

京都女中 お辨殿(眞観貞心)           (京都御服所曽谷太兵衛妹、京都に帰る。)

小石軍平娘(屋ばせ良桂)

 

出家を仰せ付けられた人達。

 

丹羽喜右衛門(笑山愚叟)             原伊兵衛(劫外長空)

原口形左衛門(實相無三)

 

自分で出家した人達。

 

相浦清五左衛門(鐡舟宗圓)            高城寺東林西堂弟子

(清五左衛門は太鼓御番で、その場にたところ、御棺が通る時、不意に髪を切り、出家されました。その後に跡式は立てられました。)

浪人内 石井傳右衛門               手明槍御扶持を召し放された者 栗浪彌右衛門

丹羽喜右衛門女房                  隠居人 田代孫助

鍋島本庄の百姓

 

76  光茂公から御目付け中への遊出。

 

御目付共心得

 

一 自分(光茂公)の身の上の事

一 信濃守の行跡の事。

一 江戸についての批判の事。

一 家中の武道の事。

一 親類、家老、その他、請役の者の覚悟の事。

一 公儀御法度、(附)私(当御家)の御法度、が肝要という事。

一 奉公について、感心する事、しない事、いろいろあるという事。(附)病気の者の出仕、その他、不勤の者、極老して方向がならずに隠居の願いも出さない者。

一 請役方の者の風俗は、何よりも、我等の信濃守が極上で、深く感に堪えない事。

 

以上

貞享4年卯2月  日

 

77  寛永13年丙子、勝茂公が土井大炊頭殿を御招きになり、この時に、元茂公が密に小倉女に命じられて、翁助様を小倉女が抱かれ、元茂御付き書院に、不意に御現れ、「肥前守様の御嫡子、翁助様です。」と元茂公が御挨拶されました。大炊頭殿が御面談され、「肥前守の御嫡子、御家御長久で、御目出度く存知ます。」との由、御答えなされました。これは、甲州様の御取り立ての事があり、その様になされたのです。

 

一 小倉女は、父は藤本誓宗と言って、河内国の人で、8歳から京に上り、14歳で、伯父の村上周防守(加賀分国内の領主)が、その国元に連れ下り、養育して、500石扶持となりました。小倉女の母は、同国の七万石の領主の戸樫の末孫で、江沼郡、蓮谷山の城主の娘で、それを、周防守が養子にして、誓宗の妻としました。法名は妙念です。その腹で、嫡子の藤本宗甫(藤本清左衛門の祖父)、二男の同久徳(同宗吟の祖父)、三女が小倉です。久徳は子の宗眞を小倉女の養子にして、京の六條に居住です。

 

一 秀頼公の御前様が、大阪の落城の時、大堀に御落ちになられた時、小小姓3人を御共に召し連れられていました。そのうちの一人が誓宗の娘です松平下総守殿が権現様に仰せ上げられ、誓宗の娘を下総守殿の内室に仰せ付けられました。法名は妙源院殿です。その御娘が恵昭院様です。忠直公が御祝言の時、小倉女は御頼みで、上臈を勤められました。恵昭院様の御伯母になります。小倉女は、慶安2念8月16日、死去。

 

78  勝茂公が有馬の御陣の後に、御評定所に御出でになり、そのまま御改易などの時、光茂公は、ねぶ川通りを御立ち退きなされる様にと納富九郎兵衛に仰せ付けられれ、御屋敷七カ所の扱いについて仰せ付け置かれました。

 

桜田、中屋敷、麻布、三島町、打越、青山、御蔵屋敷。

 

79  寛永20年夏、浅草川に、光茂公(12歳)が御遊びで御出かけの時、尾張義直卿も御出でになられ、「誰なのか。」とお尋ねになられたので、納富九郎兵衛が御答えになりました。尾州の御船に御招きになり、「信濃守殿の内方とは兄弟分の事で、初めて御面談し、嬉しく思います。今後とも心安く」の由、仰せられ、御退出されました。

 

80  慶安元年12月22日、光茂公が御元服。御献上の御太刀(国行)、御小袖(20)、白銀(300枚)、以上、家光公へ。御太刀、白銀(200枚)、御小袖(10)、以上、大納言様へ。白銀(10枚)、御袋様へ。上は白銀(10枚宛)、中は(5枚宛)、下は(3枚宛)、以上は女中方へ。御太刀、金馬代、御小袖(10宛)、堀田加賀守殿、井伊掃部頭殿、酒井河内守殿、松平和泉守殿へ。御太刀、金馬代、御小袖(5宛)、酒井修理亮殿、松平甲斐守殿、中根隠岐守殿、朽木民部殿へ。御太刀、小馬代、御小袖(5宛)、御奏者番、証人、奉行衆、大目付衆、町奉行衆、寺社奉行へ。御太刀、小馬代、御小袖(3宛)、小目付衆へ。二荷三種、尾州義直卿、紀州光貞卿御父子、水戸様へ。

 

81  慶安3年12月5日、勝茂公が御指名された人達が、光茂公に御家誓詞をなされ、差し上げられたのを、翌年、勝茂公が江戸に御持ちになり、渡されました。

 

82  萬治元年5月16日、納富九郎左衛門へ御加増の御自筆の御書。

 

その方は、我等、夫婦、子供に、ずいぶんよく、申し分なく奉公し、陰日なたもなく、こちらが怒った時も顔色を変えず、何事も苦労に思わず、精を出し、抜きんでているのに感じ入っています。特に、自分が幼少の時からの九郎兵衛の苦労、忘れる事ではないです。そこで、今度、加増を申し付ける事にします。少しではありますが、まずは、この様に致します。これからも、精を出し、奉公の事、肝要です。

 

5月16日   光茂御判

 

納富九郎左衛門殿

 

83  萬治元年6月15日、仁比山の山王に御参詣の時の御願書。

 

今日、社参の事、まずは、公方様、御氏神、次に、4人の子供の事も、恐れながら、同じ様に、御頼みせずには居られないものです。特に、山王権現は、中でも、特に有難い神慮を遊ばされることなので、度々、この身にも思い当たる事もあり、特に信心申し上げます。

 

この事で、粗々ですが、書き立てます覚えは、

一 在所にお迎えし、重く信心致す事。

一 領中では、猿の殺生の禁断を、早くに申し付ける事。

一 今後、申の年には、この地の御祭りの度毎に、神馬を2疋づつ、末永く、拝進し奉る事。

一 大きくも、小さくも、毎度、願いの叶えられた事は、今更に申し上げる事も出来ないのですが、神慮、思し召しの程、申し上げ尽くし難い程です。

一 今日、社参致しましたのは、江戸で、6月15日は御祭りになっております。この地は、13年目の事で、この様にさせて頂きました。

 

この五箇条は、一つ一つ、御納受頂きます様。公方様の御長久、天下平安の事、誰もが、競って、お祈り申し上げる中、自分の様なものでは、却って、出過ぎたことと思い、申し上げずに居ました。ただ、公方様が嫌年の厄、または、ちょっとした御災難で、逃れられない時は、自分が、その御身の替ります様にということだけを御頼み申し上げます。自分は、長崎御番までも仰せ付けられ、忝く存じ上げます。ただし、いつまでも存命で居られる様にとは、ひたすらには存じて居りません。ただ、左衛門に家を渡して、心安く居られる今、3人の娘の疱瘡も、どうやらこうやら軽く済み、それぞれに縁付いて、安心し、40代の内に、自分の望みが叶っているので、このまま終わりになっても構わないと思っています。しかし、出来るならば、いつまでも延命の事はお願い致します。今は、一人の親に過ぎないので、ただただ、子供の武運長久、息災延命の事、それのみを、朝暮、心配しています。ますます、御頼み致します。御氏子は、数々居られる中で、4人とも、物強く、無病で成長し、偏に、神慮の御蔭と申し上げるのもありきたりの事と思います。誠に、この気持ちをお汲み取り頂き、御祈り申し上げます事、御守護頂けます様、偏に、仰ぎ申し上げます。よって、精誠、件の如し。

 

明暦4年6月15日  肥前侍従藤原光茂敬白

 

84  興国院様の御菩提の為、開基の地、興国山長安寺を萬治元年に御建立、御位牌の安置を仰せ付けられる。

賢崇寺前住の萬休和尚を据えられ、御切米12石、敷地、田畑を御免許なされる。

 

85  萬治2年卯月4日に仁比山山王に30石を御寄附、御印あり。

 

[覚]

 

山王権現の御社領として、今年から永代、米30石を拝進し、奉ります。この祈願は、4人の子供の武運長久、息災延命、殊に、左衛門は、今年、嫌年の、厄、です。いっそうの平安と、4人共に、悦びのみが重なります様に、偏に、特にご祈り申し上げる所、よって、その状、件の如し。

 

萬治2年卯月4日  肥前侍従藤原光茂敬白

 

86  寛文元年8月16日、小倉の13年忌の菩提坊主の為、宗眞一門の者で9歳になるのを、願正寺で剃髪させ、知観としました。本願寺に仰せ入れして、小倉山誓宗寺と名を付けて、大財村に一向宗の寺を御建てになられました。寛文13年、25年忌に寺地を御免になされました。この事の心遣いには、相良求馬、藤本宗眞が仰せ付けられました。寛文3年に公儀から、新規の寺社は法度で止められた為、田代の妙念寺が破壊で、その寺号を引き継ぎ、「幸い、小倉の母の法名なので、妙念寺と改める様に。」と仰せ付けられました。

 

87  寛文2年、御武運長久、御子繁昌の為に、向陽軒を御建立。奉行は、永山十兵衛、惣大工は、西原與兵衛。

 

寛文6年、左衛門様、お仙様、お岩様、お春様の御為に、拝殿を一宇、御建立。奉行は、重松善左衛門、惣大工は、西原與兵衛。

 

天照大神宮の外宮内宮両社(御祭 9月16日)

住吉(御祭 6月29日)        天満宮(2月/6月25日)

玉津嶋(9月13日)          人丸社(3月18日/5月25日)

加茂社(5月5日 御門外にあり)  素戔嗚尊(石社で、御門外にあり)

東照宮(4月17日)          彦山(2月15日)

山王(6月15日)            八幡(11月中の卯日)

水無瀬(2月12日)           春日(2月11日初申)

稲荷(11月8日 石社)

 

この東照宮以下7社は万部島に御座あり。その内、八幡、水無瀬、春日の3社は寶永2年6月18日に、綱茂公が向陽軒に御移し。

 

88  寛文5年9月25日から、光茂公が徳善の御参籠。御自筆の御願文あり。26日朝、御法楽、御歌。

寛文5年乙巳9月26日より、巳酉吉日の良辰を選び、かけまくもかしこき、大日本国天神7代、地神5代、天孫降臨32神の式内式外、案上案下、3132神、全ては、宮中、洛中洛外の60餘州に、跡を垂れ座す程の大小神祇冥道、別しては、彦山大権現の広前に、かしこみかしこみも、申したまわく、申さく、誠に、吾国の源は天地の両義、陰陽の尊形、寒暑昼夜は陰陽の進退、この神風の作法は、身口意の三業清浄の密法、皆、天地の行い、陰陽の本、故に、天地の間に鎮座の尊神が降臨、影向し、歓喜を給わざる事なく、殊に、彦山大権現は現の当家代々の為の守護神、その所以に云う、先祖鍋島兵右衛門が18歳の年に、参籠して祈念し奉り、霊夢を受け、既に俗体の嶽釋迦尊像を授け給い、末世と雖も、信心の輩は、争いに、佛力、神力を得て、されば、元々、更に以って迷う事、則ち、凡夫と謂うべきに、故に、深く嘆かれ、御座して、五濁塵に交じり給い、是の大神徳にて、それを、弁じて、他念、他心となし、精誠を凝し、丹誠の上、奉るは、心中の大願を不空速に納受御座なされて、加護、冥助を授け給えと、かしこみかしこみも、申す、辭別に申さくは、もしも、不慮外に不信不浄の事あるとも、、只今の啓白の験によりて、曲邪を退け、猶猶、冥応を加え給い、咎も祟も、護りて、幸賜れと、かしこみかしこみも、申す

 

大願主 肥前侍従従四位下行 松平丹後守藤原光茂朝臣 敬白

従四位下行 松平丹後守藤原朝臣光茂

 

たのもしな なほ行く末も限りなく 守るめぐみの神のちからに

 

89  寛文8年、家綱公護判物を御頂戴、10郡の御書付。この前は、8郡の御書を頂きました。それは、勝茂公から、一国絵図を差し上げられたとき、その村附きとして、10郡が記載されていましたが、御判物の副書では、松浦、高来の両群の村を、杵島、彼杵の中に書きいれてあったからです。家綱公の御代になり、御幼年で、御判物の巡見使も御延引になり、去年の巡見使が今年の御判物を差し出されたという事で、多久長門が仰せ付けられて、江戸に差し向かわれ、今回から10郡の御書附が出たのです。

 

90  同3月、島原城主の高力左近殿は改易。上使は、松平備前守殿、上下700人、その内、騎馬は37人、御目付の加藤新九郎殿、上下75人、上使附の森川小左衛門殿、上下45人、内田傳右衛門殿、上下45人、御勘定頭の青木此右衛門殿、酒井基之丞殿、御代官の松村吉左衛門殿、小野長左衛門殿、4月26日に神代に御着。翌27日に、島原城入り、小笠原内匠殿の3000人の内、騎馬100騎、松浦肥前守殿の3000人の内、騎馬100騎、同20日に湯江村、多良村に陣取り、上使も同じく城入りして、異議もなく、済みました。御領内の御泊には、こちらの御方から御使者し、上使には、城受け取りの済んでから、御使者を遣わされました。

 

91  寛文12年、高来郡井樋の尾で、乗掛馬の口副が、馬の後から、口縄を取り、馬を追い掛けていたところ、馬が転び、乗っていた人が思わぬ過ちにになりました。公が御聞きになり、馬方を井樋の尾で生害と命じられ、それ以後、追掛馬を禁止の旨、仰せ渡されました。その後、公儀の御法度になりました。

 

92  勝茂公が御逝去の時、光茂公に孫平太殿が仰せられたのは、「不幸にして、御逝去の時に、こちらに御伺いせず、そういう巡り合わせでした。せめてもに、御焼香を御許し下されます様に。」と御願いされて、御許されなされました。しかしながら、御面談はされませんでした。

 

93  延寶元年丑5月25日、えけれす船3艘が長崎に入津し、商売の訴えを起こしましたが、叶わずに、帰帆を仰せ付けられました。この事で、神代左京が長崎に向われ、深堀に詰めて、7月16日に大木勝右衛門、多久兵庫を遣わし、副えられて、聞番として、廣木八郎兵衛が遣わされました。その後、鍋島志摩、同安藝、中野九郎兵衛、喜多島外記、土肥蔵人、志摩組から、鉄砲物頭の深堀新左衛門、相浦源左衛門、深堀頼母、石井権之丞、堤六左衛門、石井十郎右衛門、西五太夫、石火矢役の原次郎兵衛、大家兵左衛門、平方利兵衛、伊東八右衛門、武富平兵衛、富永次右衛門、井原八郎左衛門、高木與左衛門、内田作右衛門、島内三兵衛、武富三之丞、大庭六右衛門、馬場新右衛門、が遣わされました。多人数が、一同になって行くのは、目に立ち、よくないとの由、左京殿が申し入れ、あんだ駕籠などに乗り、少しづつ、向かいました。左京殿は、海上の備えの事があるので、手頭の指示書で備えを拵えました。

 

[手頭]

一 船の懸場に差し向かわせる事については、えけれす船の帰帆前の夜に、それぞれの懸場に、段々と、秘かに置く事。

 

 一番 白崎に懸ける。鍋島志摩。

     この乗組所は、西浜の北の先。

 二番 神ノ島の前に懸ける。中野九郎兵衛一手の船。

     この乗組所は、同所の志摩次。

 三番 神ノ島の前、沖の方懸ける。鍋島安藝一手の船。

     この乗組所は、中野九郎兵衛一手の次。

 四番 博奕島と一ツ家との間に懸ける。左京一手の船、並びに、多久兵庫、大木勝右衛門、西五太夫の船船。

     この乗組所は、大波留の前。

 五番 高鉾台場の前に懸ける。喜多島外記、土肥蔵人、原次郎兵衛の船船、石火矢船を5艘。

     この乗組所は、マコメの下。

 

一 各手、雑兵、どちらにもの事、前の晩に、明日の1日の用意をする事。もしも、逗留する事もあるかも知れないので、兵糧の必要を覚悟して、夜夜に、次の1日分の用意をして置くべき事。

一 船印は、角取紙までとし、それぞれの船印、並びに、指物は使わない事。

一 たとえ、雨が降っても、苫は使わない事。

一 それぞれの船に、相鉤、がんづめを用意する事。

一 鉄砲は持たず、皆、何も持たず、手振りの申し付けの事。

一 合図の事は、左京の船から大旗を振り立て、並びに、ほら貝で音を立てる事。その時は、全ての船が、綱を切り、押し寄せ、懸かる事。この合図のない内は、決して、船を動かさない事。(附 石火矢船は全船が押し懸かる時も、動かない事。)

一 石火矢を放つ事は、左京の船から、鐘を鳴らし次第、放つ事。

一 石火矢の荷船を押し出し、追懸石火矢を放つ事は禁止。

一 火矢の事は、石火矢と同様に用意して置き、石火矢の合図があってから、頃合いを見合い、火矢を放つ事。

一 えけれす船を乗り取り、あるいは、乗り沈める時は、こちらの残りの船は、えけれす船を取り囲み、順序は決めず、次第不同で懸け置く事。左京が無事にて居ない場合には、残る組の内で、頭立つ人から、すぐに、その場の様子を奉行所、並びに、佐賀に注進すべき事、もしも、左京が別条ない場合には、その時に、申し付ける事とし、えけれす船は御奉行所に引き渡し、行儀よく、深堀に帰る事。

一 えけれす船が何事もなく、うまく通って行った時は、御上使から付けられた船は帰り、その上で、各手の船は懸場を動かず、左京の船から、ほら貝を吹くので、その一番貝で碇を取り、艪の間に嵌め置き、二番貝で左京の船を押し出し、その次に、鍋島安藝組の家中、次に中野九郎兵衛、鍋島志摩組の家中、次に、喜多島外記、土肥蔵人、石火矢船を召し連れ、全て帰る様にする事。

一 深堀で、船を上がる時、乗組所に行儀よく上がる事。

一 船の行儀について、西五太夫から船頭共に、前もって、申し付けて置く事。

 

7月19日    神代左京

 

えけれす船は、異議を唱えず、7月25日に帰帆、左京殿初め、27日に深堀を出られ、同29日に佐賀着。

 

船数34艘

柳川の家老は、十時摂津守が左京殿の船に見舞いして、行儀を褒美申されました。

 

94  延寶2年、江戸に、御急用で、原口作右衛門が向かい、新井で馬から下りた時、脇差が抜け懸かっているのを気付かず、馬の首に押し付けられたので、馬の首が深く切れ、血が出ました。馬子は強請りで、「銀10枚を出してくれる様に。」と言いました。このやり取りを御番衆が見つけ、3人が来て、「鍋島殿からの急の御使いだ。難しく言い掛けて、不届きだ。御構いなく船に乗られて下さい。」と言われ、それで、一礼して、通りました。いつも、御往来に御付け届けよくしていて、この様になったとの由です。

 

95  元禄13年4月26日、光茂公が江副彦次郎に仰せ付けられ、善應庵に御納めなされた品々。

 

一、御胞の緒一包  包紙に御誕生年月日の書付けがあり、高原院様の御自筆です。

一、御生衣       白2、浅黄2、御付帯2、黒1、赤1、これは、勝茂様御夫婦から進ぜられたものです。

一、御生髪一包    高原院様の御自筆の書付あり。

一、御前髪一包    御書付同前。お虎様に申し渡しの由の御書載あり。

    この前髪は藁で結び付けてあります。これは、武士の、前髪を取り、男になるのは、穀の付く始めという事で、

    そうするのです。住持が、それを取り除けてしまわない様にと申されました。

一、御数珠一連(袋あり)

    これは、勝茂様に南光坊から御授物にされた物で、南光坊から進ぜられた物を御守りに御持ちになされる様にと、

    勝茂様から進ぜられたものです。

一 御誕生から今日まで、御一生、御肌に付けられていた御守りは灰にして善應庵の万部塔の下に納める様にとの由、

    申され、同28日にその通りになされました。

 

96  (深江氏書の抜写し)玄梁院様が、寶永3年戌10月12日から、御不快の事。同15日の御礼式は御請けになりました。11月1日に、御不快で、御親類、御家老だけが御目見えで、その他の御礼式はなく、大坂の町医の青木林性を召し下され、呼ばれ、同月11日から御薬を召されました。同15日に、御親類、御家老だけが御目見え、同22日の晩から、以ての外に重くなり、江戸へ御注進の為、三上新助が早打ちで、23日に立ち、12月3日に江戸参着。同4日に、御典薬を御願いし、長島的庵が仰せ付けられ、同6日に夜に立ちました。御本丸の御書院で、五壇の法御執行、白山八幡で温座護摩、12箇寺で大般若、その他、諸寺で御祈祷、そしてまた、御家中残らずから、御祈祷御願書等を差し上げられました。同11月26日夜に、田中九左衛門を江戸へ差し立て、御容態が抜き差しならない所まで来ているとの事を御注進し、長崎の御奉行衆にも、その趣を、山ア久太夫を御使者に、仰せ遣わされました。

 

同28日に、御祈祷の為、非常の大赦をし、御国中の罪人がすべて赦され、その時に究め中の者も、残らず赦され、牢舎の者がすべて出牢を仰せ付けられて、ただ牢舎に母を縛った者1人だけが残りました。同29日夜、御親類、御家老中が、御居間を御通り御目見えされました。12月2日の夜五ツ時、五逝去で、同夜に江戸へ飛脚し、さらにまた、御注進の為、原権兵衛、御典薬留に杉町甚五左衛門を差し立てられました。同5日夜、鍋島彌平左衛門、武藤主馬が江戸へ向われました。同7日夜、十左衛門が江戸へ向かわれました。

 

同3日夜に御入棺、同4日酉の刻に御出棺で、御本丸の東の塀を内から取り明け、出られ、片田江小路から北御掘端、西御掘端、十五縄手に御通りになりました。この時、御側の者は残らず御共し、御親類、御家老中は御本丸で御焼香の上、御先に高傳寺に向われ、お待ちになりました。着座、独礼の者は、高傳寺の山門の外でお待ちしました。惣侍以下、手明槍、御歩行、足軽まで、片田江から十五縄手まで、一組一組で待たれました。同5日夜、御野焼、この時、御親類、御家老、着座、独礼まで、高傳寺に出られて、堪忍で、留まられました。同6日に、御骨拾い、この時は、誰も出るには及ばずで、同7日から18日まで、千部の御法事でした。

 

同22日から28日まで、御中陰、御親類、御家老初め、御家中が、いずれもが、毎日御参堂して、堪忍で、留まられました。同24日申ノ刻(午後4時頃)に御葬礼。御親類、御家中、いずれも、いろ着で御供でした。御名代は内記殿で、御膳御持ちの御供あり。着座の方々は、概ね、御供されました。御側衆の方々も、概ね、御供でした。着座、独礼、惣侍、並びに、又家中の者が出られ、白州で順々に、堪忍で、居られました。御引導師は当住の行寂和尚でした。読経の出家は160人。諷經の次第は、23日は曹同宗、天台宗、25日は真言宗、済家宗、黄檗派、26日は浄土宗、法華宗、律宗、一向宗、27日は山伏、盲僧。

 

同4年亥正月14日に出家願の仰せ出しは済みました。無届に出家する者も、そのまま、赦されました。

 

山ア平次郎、山田藤五郎、石橋太平左衛門。

これらは、寄親に、落髪の願いを差し出し、赦されずにいたのですが、申し付け置いた事に從わず落髪したので、遠慮を仰せ付けられました。その後、跡式は立てられました。

 

御朦気中となり、歳暮や年始の決まりの式はなくて、門松は太鼓御門と二御丸御門だけに立て、その他は、国中、立てず、元日には、御親類、御老中は麻裃を付け、諸侍は、袴羽織で御機嫌伺いに出られ、年始の礼は申し上げられませんでした。公儀からの御病気御尋ねの御奉書は、国継で戌の月17日に着き、嘉村太郎左衛門を以て、封のまま、江戸へ戻されました。御香典300枚を拝領し、原権兵衛が江戸から持ち下り、亥2月7日に着き、翌8日に、高傳寺に吉茂様が御持参、その御礼の使者は隠岐殿で、同10日に出ました。

 

戌11月18日、12月2日、松平右衛門佐殿から御見舞いの使者があり、2日の晩方には、筑前の家老中から御家老中へ御機嫌伺いの使者があり、御逝去の事を聞いて帰られました。それ以後は、東は神崎、西は牛津に侍を遣わし、近くの隣の御衆からの御見舞いの使者、飛脚は差し止められました。亥正月6日に、水野隼人正様から、御見舞いの為、江戸からの使者が着き、同月8日に、松平肥前守殿からの御悔みの御使者の吉田久太夫、同大隅守殿から四宮庄助が、江戸から着きました。

 

戌12月18日、伊東駿河守様、三浦壱岐守殿から御家老中へ御悔み、それとまた、御代香として、御使者が来られました。御中陰前で、取次で、御香典を寺納あり。

 

松平大膳大夫殿(12月23日 御香典10枚) 梨羽源左衛門  松平右衛門佐殿(同25日 同10枚) 田中傳左衛門

松平主殿頭殿(同27日 同5枚) 田村市左衛門         五島主税殿(同29日 同5枚) 三輪長兵衛

伊東大和守殿(正月9日 同5枚) 俵佐熊             土井周防守殿(正月13日 同5枚) 山本諸右衛門

松平肥前守殿(同20日 同30枚) (家老)鎌田八左衛門    同大隅守殿(同日 同10枚) 杉山四郎太夫

水野隼人生様(同26日 同10枚) 坂部藤太夫

松平兵部太輔様(同27日 同20枚) 監物殿より(同10枚) 御使者一人 恒岡安右衛門

榊原式部太輔様(同28日 同10枚) 伊野源右衛門

彦山座主より使僧、25日に参堂、納経あり。

 

97  亥正月29日に高傳寺で、寂光院様の御改葬。玄梁院様の御霊屋に御一所に入らせられる。

 

98  同2月6日、慶闇寺で、榮正院の御改葬、新しく御霊屋を立て、入らせられる。この両方の御改葬の時、吉茂様が御自身、いろ着の喪服で御供されました。高傳寺では、大木八右衛門が御骨箱を持ちました。慶闇寺では、深江六左衛門が御骨箱を持ちました。

 

*... 何某 →ある人(−何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

 

   了關様 鍋島直之

 

[光茂公御代]

 

*明暦3年丁酉2月

 岡部内膳正殿 岡部行隆

 同丹波守殿  岡部長盛

 鍋島泉州(和泉守) 鍋島直朝(勝茂の九男)

 

*萬治元年戌戊

 彦法師様 鍋島綱茂

 遊出 →藩主自筆の仰出し文書

 

*寛文元年辛丑

 盛徳院殿 鍋島直弘

 

*寛文四年甲辰

 甘姫様 (前出)中院通純卿の御姫

 右兵衛様 鍋島吉茂

 

*寛文5年乙巳

 榮正院様 甘姫様

 

*寛文7年丁未

 翁助殿 鍋島直堯

 

*寛文8年戌申

 和泉守殿 鍋島直友

 

*延寶8年庚申

 厳有院様 徳川家綱

 

*天和3年癸亥

 徳松様 徳川綱吉の世子

 

*貞享元年甲子

 興国院様 鍋島忠直(勝茂の世子)

 

*貞享4年丁卯

 春岳 春嶽和尚

 

*元禄2年己巳

 摂津守殿 鍋島直之

 肥前守 黒田綱政

 

*元禄8年乙亥

 お光様 光氏四女

 桂昌院 5代将軍・徳川綱吉の生母

 

[綱茂公御代]

 

*元禄9年丙子

 明正院 明正上皇

 

*宝永元年 

 鶴姫様 徳川綱吉の長女

 嚴有院様 第4代将軍徳川家綱

 

*1  高源院様 勝茂室

*1 金丸氏 金丸一久

*3 信濃殿 鍋島綱茂

*19 仙洞様 仙洞とは、上皇・法皇の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。

*20 興国院様 鍋島忠直

*24 徳松様 徳川綱吉の世子

*34 丹後殿 鍋島光茂

*35 紀伊守殿 鍋島元武

*35 摂津守 鍋島直之

*36 中西氏 中西興明

*38 義峯様 鍋島直澄(直之の父)

*38 甲斐守 鍋島直稱(直之の弟)

*39 お仙様 鍋島光茂の長女

*41 了關様 鍋島直之

*43 お岩様 光茂の二女

*46 泰盛院様 鍋島勝茂

*46 加州 鍋島直能(加賀守)

*46 月堂様 鍋島元茂

*47 お春様 光茂の三女

*53 翁助様 鍋島光茂の幼名

*53 甲州様 鍋島直澄

*53 恵昭院様 鍋島忠直の室(牟利姫 - 松平忠明の娘)

*53 美作殿 多久美作守茂辰

*53 紀州 鍋島元茂

*53 肥前守 鍋島忠直

*58 紀州様 徳川頼宣

*58 信濃守殿 鍋島勝茂

*83 左衛門 鍋島綱茂

*92 孫平太殿 鍋島正茂(鍋島勝茂の甥)

*96 玄梁院様 鍋島綱茂

*97 寂光院様 鍋島綱茂の室

*98 榮正院様 鍋島光茂の室

注記:明暦3年丁酉2月

 御掛物ホッタン →

注記:萬治元年戌戊

 万部執行 →万部法要

 遊出 →藩主自筆の仰出し文書

貞享元年甲子

 御感状 →下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと

貞享2年乙丑

 御判物 →将軍の花押のある文書

注記 7:頓寫 →經を写す行事

注記 32:増上寺に御成り →徳川将軍家の増上寺参詣

注記 40:柳原 →光茂の女婿の土井大炊守の屋敷

注記 41:地三分を懸け →家禄を三分懸けで

注記 46:牛王 →牛王寶院印の誓紙

注記 48:御歩行 →徒歩で戦う下級武士

注記 51:十徳 →僧衣風の衣服

注記 53:百疋 → 銭一貫文。銀一分に当たる(時代によって違いがある)

注記 64:ふうけ →佐賀弁で「馬鹿」の意

注記 69:段子のかひ みつすき →「丹後守光茂」の言葉遊び

注記 76:遊出 →藩主自筆の仰出し文書

注記 91:乗掛馬 →道中馬の両側に明荷を2個渡し、さらに旅客を乗せて運ぶもの

注記 93:あんだ →屋根なしの簡単な駕籠

注記 93:がんづめ →鴈爪(熊手状の鉄爪に 15cmぐらいの柄をつけた水田の中耕用具)

注記 93:手振り →手ぶらで何も持たない事

注記 96:朦気 →心の晴れないこと/気のふさがること

訳注 61:御近言 ⇒言近旨遠(『孟子』「尽心・下」 ) 日常的な言葉でも、深い意味が含まれているということ

訳注 64:(野田佐五右衛門の聞き間違い)

⇒「..客前に済ます..」の「前」を「客があっても、その前で」の意味なのに、「客の用事の前に」と取り違えたもの、と思われる。

訳注 69:(竹の子の料理を禁物にして、...)

⇒竹取の翁の話の様に竹の中から出て来るものが、それで、酒を美味しく飲める「肴」になるなら、竹の子は切られない、という遊び語り

訳注 69:(最中の月はともかく、もも中を...)

⇒「最中」と「もも中」の掛詞での遊び

訳注 69:(東の方に聞く武蔵野)

⇒「武蔵野」という銘の盃で、「武蔵野」なので、「関東」、東の方。(※九州に居て、遠い関東を思うのが面白い。)

 岩波文庫「葉隠」中巻

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