更新日:

2021.5.9(日)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第六      ●80   ●160        聞書第七                      

■聞書第六

 この巻は、御国の古来の事を、取り混ぜ、記す。

 

1  玉林寺の金峯和尚の時、末寺の禮徳寺に実萌えの紅梅がありました。金峯がそれを分けて、玉林寺に植えました。それ以来、梅の名を禮徳寺と名付けて来ました。金峯がその梅を2本、接ぎ木で分けて、1本を直茂公に進上し、今は、多布施の宗智寺にあります。1本は、金峯の隠居の地の嘉瀬に植えました。東光寺と言います。落命の地です。梅は今もあります。

 

寺社縁起では、霊壽、徳壽の2人の童子が植えた、とあります。玉林寺の末寺帳には、禮徳寺はない、との由。

 

2  (村山氏の話)隆信公が島原で戦死の所は、沖田太原と言います。そこに御卒塔婆がありましたが、今は、温泉山真言宗の一乗院に引き移されました。御祟りがある故との事です。

 

3  高木鑑房が龍造寺を背き、前田伊豫守を頼み、そこに身を寄せました。鑑房は無双の勇士で、早業打物の達人です。家来に因果左衛門、不動左衛門といい、これも劣らずの曲者がありました。昼夜、鑑房の身辺を離れることはありませんでした。そうして、隆信公から、鑑房を征伐の事で、伊豫守への頼みが遣わされました。

 

ある時、鑑房が縁に腰を掛け、因果左衛門に足を洗わせていた時、伊豫守が鑑房の後ろから走り懸かり、首を打ち落としました。鑑房は、首の落ちる前に脇差を抜き、振り上げ、打つと、因果左衛門の首を打ち落とし、二人の頭が盥の中に入りました。鑑房の首は、その座の上に舞い上がりました。こういう様な早業で、常々、魔法の術を持っていました。

 

4  (佐嘉、神埼の文字の相違の事)嚴有院様の御代替りの時、御判物を差し出される前に、郷村帳を差し出されました。まず、小川舎人が持ち向かわれました。江戸で、御役人に納められる時、昔、信濃守殿が差し上げて居られた御帳には、「左嘉」、「神埼」の文字が書かれていました。今度の御帳には、「佐賀」、「神崎」と書かれていました。「以前の様に書き直して出される様に。」ということになり、書き替えて、納められました。それ以後、「嘉」、「埼」の字を使われているそうです。正徳3年11月19日に、そう聞いたものです。

 

鐡炮改御帳には、「佐賀」と書かれている由。先年、鐡炮替目書附に、「左嘉」と書いていたのを、御役人家来から、「本帳に賀の字が書いてあります。前に納められた御帳の通りに書いてあるべき」との由、言うのでした。それ以後、鐡炮替目書附だけは、「佐賀」と書いています。この事は、江戸置物帳の袋に書き記してあります。

 

5  鍋島和泉守直朝の御内方は、花山院定誠(入道時實)の御妹です。

 

6  (御国の執行という名字の謂われの事)昔、神埼田宮の祭礼に、毎年、勅使が下向されました。何度も下向の公家衆は、神埼に住宅し、社務を勤められました。社務の事を執行と言いました。何年もして、社職の執行を、そのまま名字と定められました。この末が、執行越前守です。

 

7  佐嘉の御城の御普請で、御囲掘を掘らせられた頃、長政(黒田殿)から、加勢という事で、北御門の際を掘らせられました。その御返礼で、筑前の福岡城の普請の時、囲掘を、こちらから御掘りになられました。今、肥前掘と言っています。この掘については、直茂公のいろいろな御賢慮のあるものという事です。

 

8  (金丸氏からの写し)政家公の口宣の事。

 

上卿 中山大納言

 天正16年7月6日 宣旨

    豊臣政家

    宣令して従五位下に叙す

      蔵人頭左近衛中将 藤原慶親(奉)

 

上卿 中山大納言

 天正16年7月6日 宣旨

    従五位下 豊臣政家

    宣令して侍従に任ず

      蔵人頭左近侍従衛中将 藤原慶親(奉)

 

上卿 式部大輔

 天正16年7月28日 宣旨

    従五位下 豊臣政家

    宣して従四位下に叙す

      蔵人右中辨 藤原宣康(奉)

 

9  徳善権現御本尊の写しは、彦山増了坊の本尊との由。去年の焼失の時、御本尊は井戸に沈めて、無事だったとの由。先年に、住持の話として聞いたとの由。先年、住持の話として、そう聞きました。

 

徳善権現の御神体を御代替わりの時、拝見されるのだそうです。

 

10  鍋島主水殿が御幼稚の時分、直茂公の御養子とされていたところ、勝茂公が生まれたので、横岳の跡知行を主水殿に遣わされたそうです。

 

字、太郎五郎、左衛門太夫、平五郎、主水佐。一説に、主水殿は、梯淡路守の子だったのを、石井安藝守が養子にされたのだそうです。

 

11  主水殿(直朗)に男子御出生で、光茂公に、「名を御付け下さいます様に。」と申し上げたところ、「産名は親が付けるものです。まずは、何にても、付けて下さい。その後、名を遣わします。」と言う事で、萬五郎と付けられました。その後、光茂公から、掃部と御付けになられました。その時に申されたのは、「先手の家なので、井伊殿から取って附けました。成長の後に、江戸に行かれた時には、遠慮もあるので、替えたらよいです。」と仰せ出だされたそうです。後に、主水直恒、正徳2年に茂の字を御拝領で、茂主と改められました。

 

12  多久長門殿が隠居の時、光茂公が仰せ出だされたのは、「伊豆を長門の子にしているけれども、幼少なので、家督は兵庫に仰せ付けられるべき」と仰せ出だされたのだそうです。この事を家来共が聞いて、「太守の御子様を養子にされているので、今こそ、伊豆殿に家督を仰せ付け下さるべきです。兵庫を主人とする事はできない」の由を言うので、伊豆殿に家督を仰せ付けられました。それから、伊豆殿を褒め上げ、崇敬して、恙なく、家が連続しています。多久家中の義の厚い事として、評判されたそうです。

 

13  鍋島舎人助の草履取りで、14歳の者が、諫早家に供で行き、供屋で、石見殿の中間を切り殺しましたが、その仕方はよく、御助けになられました。

 

この者が思ったのは、たまたま人間に生まれ、思い出もなくて死ぬのは無念の事です。それなら、天下を取ろうと思い立ち、夜昼と工夫して、はっきりと手に入れました。その時思い付いたのは、天下を取ることは、確かに、手に入れたけれども、いかにも骨折りして、天下取りになっても、そのための対応仕事で苦労は多い事です。一生を苦労で終わるのも詰まらない事です。それよりは、出家して、成仏した方がましなはずと、出家の執行を、またさらに工夫し、真言宗になり、後に温泉のホッチと言われ、日本に名高い名僧になりました。その詠歌に、

 

我他彼此と思う心のとけぬれば自己智もなくて無性なりけり

 

14  (脱空の話)清光院殿が2歳の時、政家公が御卒去で、妙安様が御養育なされました。妙安様が御死去の後、直茂公が御養子になされて、鍋島隼人助意安と祝言させました。婚礼は、直茂公が御卒去の後に、陽泰院様が御心遣いとなされて、御遣しになりました。その時、御祝言道具等の事は、陽泰院様の御自筆の御書附で、安達脱空が所持されています。

 

15  鍋島豊前守殿の御内方は、誰とも、はっきりは分かりません。一説には、家来と密通があり、切り捨てられ、弔いもなく、家中にも、申し伝える者がないという事です。彌平左衛門茂昌の御袋との事です。妾は、鍋島大膳殿の御妹で、谷平次兵衛に嫁し、それが、後には本妻の様になされたとも言います。平次兵衛入道は、名は壽齋と言われたそうです。

 

また、馬渡氏の書傳では、茂昌の母は、徳島土佐守胤順の女とあります。豊前守殿の御知行所は、鹽田、鹿島、神代と、替わったのだそうです。

 

16  神代勝利の遺言で、「長良の事は、自分に負けない大将だけれども、龍造寺の勢いは、日に日に強大になっているので、この先ずっと、この家を保って行く事はできないと思う。自分の死後は龍造寺に合体して、龍氏の子を養い、家を続けさせるべき」との由でした。長良は、いろいろ考えて、「隆信は威があるけれども、仁の心はなく、家も長久はできない。鍋島飛騨守は勇知兼備で、慈悲深く、子孫は繁昌するはず。」と、直茂公の御弟の小川武蔵守殿の三男を隆信公の子として養い、家良としました。

 

17  高傳寺の鶚峯和尚が隠居の時、後住に月舟和尚を願われました。月舟は武雄の生まれで、曹洞宗のすたれた宗風を振るい起こした名僧です。その頃は三河國で、板倉周防の守殿の菩提所の長遠寺の住持に成られていらっしゃいました。防州と、取り分け、親しくされていました。高傳寺の住職の事が言われて来たのですが、「防州の菩提寺を預かっている者が、他に寺を持つからと、それを断るのは出来ない」由、返答されたので、鶚峯和尚から、またまた申し越しされたのは、「高傳寺の事は月舟に渡す事と決定しているので、他に後住を願う事はできないのです。下国が叶わないなら、高傳寺は月舟に附属のものなので、後住を月舟が見立て、申し付けてください。」と言い来たり、その後、間もなく、遷化されました。

 

それに付き、月舟から、「湛然和尚がよいかと」との指図により、御国から使僧の懐芳を遣わし、請待ちとされ、それから、住持を勤めることになりました。その時までは、三河國の何とかいう寺の住職です。この事の前には、高傳寺に小姓などを召し置いて、酒の扱いもありました。湛然が来てからは、禁酒は厳重な法式となりました。

 

その頃、圓蔵院の村了は、由緒を申し上げ、「知識地の願で、12カ寺に加えられます様に。」と、度々訴えていましたが叶わず、ある時、光茂公が、慶闇寺を御参詣された時に、仏壇の下に隠れて居て、直訴をしました。これを御糾明の上、斬罪に仰せ付けられました。その時、高傳寺の湛然が、「出家を御殺しになるものではありません。衣を被せて置きますので、御助け下さるよう」との由、御断りを入れられました。けれども、御承引なく、斬罪を仰せ付けられました。湛然は、その場からすぐに寺を出て、新庄の東禅寺に駆け込み、入られたので、光茂公からの上使で、「高傳寺に帰られる様に。」と、重ねて、丁寧に、御断りを入れられましたが、御承知なされず、他国に出る願いを申し上げられるので、いろいろ仰せられて、他国は差し止められました。

 

隠居を仰せ付けられて、松瀬通の天庵に引っ越されました。それで、「隠居所を建てられるので、地元を望みで言う様に。」という事で、華蔵庵を御取り立てになり、10石を御附けになりました。13年間、禁足蟄居の体で、終わられました。

 

湛然の遷化後、高傳寺の恵方が、華蔵庵の10石を差し上げる由を言われたので、上がりとなり、召し上げられました。この件は、詮議が足りずに、残念な事でした。薪山4丁5反余を、今も附けています。慶闇寺には、恵照院様の御霊屋があります。後に、高傳寺に移されました。

 

18  湛然和尚の平生の教えで、出家は、慈悲を表にして、内には、あくまでも、勇気を持っているのでなければ、仏道の成就もできないものなのです。武士は勇気を表にして、内心には、腹の破れる程、大慈悲を持たなければ、その家業は建たないものなのです。そういう事で、出家は、武士に伴い、勇気を求め、武士は、出家を便りに、慈悲を求める物なのです。自分は、数年の修行で、知識に逢い、修業の便りになった事は一つもありませんでした。そこで、所々で、勇士とさえ聞けば、道の難儀も厭わず、訪ねて行き、武道の話を聞いたのですが、それが仏道の助けになる事は、確かに覚えがあります。

 

まず、武士は、武具を持って、それを力にもして、敵陣に懸け入ります。出家は、数珠一連で、槍、長刀の中に駆け入る事は、柔和、慈悲心だけでは、どうして出来るでしょうか。大勇気なくしては、駆け入る事はできません。その証拠は、大法事の時、焼香する和尚などが、震えてしまいます。勇気がないからです。甦る死人を蹴倒し、地獄の衆生を引き上げる事は、すべて、勇気の業です。それなのに、この頃の出家は、誰もが、どうでもよい事を取り上げ、殊勝、柔和になりたがり、道を成就する者はありません。そればかりか、武士に仏道を勧め、臆病者にしてしまうのは、残念な事です。年の若い侍が仏道を聞くのは、以ての外の間違いです。それは、物事が2つになるからです。一方向きでなければ、役に立たないのです。

 

隠居、閑居の老人などは、遊び仕事で仏法を聞くのもよいのです。武士たる者は、忠と孝を片荷とし、勇気と慈悲を片荷として、四六時中、肩が割れる程、荷を担いでいれば、侍が立つものです。朝夕の拝礼、行住坐臥、「殿様殿様」と唱える事です。仏名真言と、少しも変わらないのです。また、いつでも、その氏神に相応しくして居るべきで、運が強くなります。また、慈悲というものは、運を育てる母の様なものです。無慈悲で居て、勇気ばかりの士は、断絶する例が、古今、明らかです、と。

 

19  相良求馬は、高源院様付きの手男、津留(鶴か)源兵衛という者の子です。源兵衛は、掃除の者で、数年勤めて、手明槍に召しなされました。それから、御鎖口の番を仰せ付けられました。

 

高源院様から、宮内という女中を嫁娵りに仰せ付けられたのです。その出生の子が助次郎で、御側で御養育なされ、光茂公が御幼年の時、その御遊び相手に付けられました。段々と仕立て上げられて、1200石を下され、加判家老を仰せ付けられました。

 

一説には、成富兵庫の弟で、小城に附けられた持永助左衛門の末子でしたが、出生の時、産月がよくなくて、捨てられたのを、高源院様が秘かに御貰いになり、源兵衛の子に召しなされたのです。そういう訳で、成富の帰依寺の本行寺を、求馬も帰依寺にされているのだそうです。

 

20  (野邊田氏の事、旧記に写しあり。彼の家の覚書。)野邊田傳之助は、寺中間をして居りました。光茂公の御代に、「三岳寺の學校の一門で、野邊田氏の者はないか。探してくれ。」と仰せ出だされ、僉議したところ、傳之助が名乗り出ました。申し上げたところ、すぐに侍になされて、御切米を下されました。そしてまた、丹羽氏は、學校の御頼みで、御家に召し抱えられたのです。

 

21  勝屋勘右衛門は、勝茂公の年寄役を勤められました。その末が、五郎右衛門です。和泉守殿(紹龍)を、最初は、勘右衛門の養子に遣わされ、後に、鹿島に遣わされました。勝屋勝一軒の末は孫太夫です。

 

22  (江副彦次郎の話)四天王、十人衆、というのは、勝茂公の時、御駕籠副えの4人を、屈強の者から選び、四天王と言ったのです。御歩行の中から10人を選び、長刀を差させ、御共に召し連れられたのを、10人衆と言ったのです。市太夫から十太夫までありました。御道中では、4天王の内の一人が先に行き、御本陣の御居間の天井、板敷まで、一枚ずつ外し、改めました。また、10人衆が一人ずつ、御居間の縁の下に、終夜番をしていました。今も、その例で、御裏番と言って、御道具の者の内から、番所に立つのを勤めています。

 

23  石井正札の嫡子は雅樂で、次男は傳右衛門です。安藝守殿に子がなくて、雅樂を養子としたところ、早世してしまいました。そこに、安藝守殿に実子が出生し、後に、志摩殿と言いました。しかしながら、父子が少々不仲で、雅樂の一子の小右衛門(古入)を養子にする事で、内輪の僉議がありましたが、整わずに終わりました。その為に、小右衛門に安藝殿の地行の中から遣わし、今も、その様になっています。

 

一説に、有馬御陣の後、勝茂公から、「志摩を嫡子とする様に。」と仰せられ、安藝殿も同意され、雅樂に深堀の知行の中から100石を遣わし、御奉公するようにされて勝茂公から下され、そう勤められました。今も、100石は深堀家の石高の内にあるのだそうですが、これが正しいのでしょう。

 

24  (金丸氏の話)当国の石井の元祖は駿河守忠吉です。関東の安倍野の城主、石堂上総介の末です。忠吉が、初めて、当国に下向し、與賀庄の飯盛村に居住したのだそうです。(この事は、石井の系図とは違いがあります。これはよく調べるべき事です。)

 

25  前田與四右衛門というのは、陽泰院様の御里から御附きで来られた人だそうです。

 

26  田原次左衛門が大坂聞番の時、妾腹に男子が出来、それを国に下らせたのを、原田又兵衛が、新三郎の仲立ちで、京都の医師、春庵という者に与え、以後不通の証文を取り置きました。次左衛門は、後に、不調法があり、浪人となりました。子供は、倉町勘左衛門、鶴七右衛門、小宮六兵衛等で、それぞれ養子に行きました。この、春庵の養子の子が春宅と言いましたが、どうにもならない者で勘当したところ、放火の企てなどしたので、養子を差し返す事で奉行所への届けをしました。

 

そのころ、七右衛門が大坂目付に来ていたので、七右衛門に渡されるものと考え、その次第などを届けていたのだそうです。その事で、京都の御留守居の江副太郎左衛門が召し出され、春宅を渡すことを仰せ聞かせられました。太郎左衛門が言ったのは、「以前の事で、よく承知していませんので、帰って、様子を聞き、御請けを申し上げます」との事を言い、帰りました。

 

その頃、山本神右衛門が京都御書物方御用で逗留中で、相談したところ、まずは、御用聞共を召し寄せ、以前の事を僉議するべきと言うので、呼び寄せると、又兵衛と新三郎は、その事は気を付けていたという事で、証文などを差し出しました。

 

それにより、その書付を作り、実父の次左衛門は国元で改易、死去し、跡式は断絶し、七右衛門は他家を継いでいるので、受け取っても渡す所はなく、殊に、以後不通の証文を仲立ちの者が今も所持している事、そしてまた、毎年の人改めして、旦那の判形をする事が国法で、新たに国元に加える事は出来ない事なので、別様に御定め下さる様に御願い申し上げます。その上で渡しますという事で、旦那に申し渡しの指図の上でなくては、受け取る事は出来ない旨を書き上げました。

 

その上で、雑式の係の者を御用聞所に秘かに呼び、書き上げたものを見せたところ、少し添削がありました。仰せ付けの通りに大坂へも申し送りして、御奉行所に差し上げたところ、もっともな事とされ、こちらへは渡されず、京都の御払いとなりました。

 

この経緯については、言上の一通りを詳しく書き調えて差し出されたので、御感の旨が、年寄中から御伝えがありました。

 

27  小森覺右衛門は、光茂公が御部屋済みの頃から、親しく使われていて、御歌書役を仰せ付けられ、京都に差し向け、置かれていました。公家方から、覺右衛門に短冊を拝領させられました。それを、取り紛れで、御用物の中に入れてあったのを御覧になられて、日頃の仰せ付けと違うという事で、浪人を仰せ付けられました。最初は御台所役でした。

 

28  (天祐寺の御話)本庄村の東光寺は、平右衛門様が歳暮や年始に御祈祷を御頼みなされる寺です。

 

29  室節次左衛門は、勝茂公の御病気中に、神尾備前守殿からの御頼みで召し抱えられました。恩田次郎兵衛は、柳線院様の御女中の高津殿の甥です。大猷院様の御代には、御走(御徒歩の事)奉公をして、後に浪人となっていたのを、光茂公が、書写物の御用を仰せ付けられ、召し抱えられました。山村孫太夫は、土井大炊頭殿の御家来でした。家老と出入りがあり、暇を取っていました。大炊頭殿が惜しみ、こちらに御頼みになり、召し抱えられました。子供は、十左衛門、清右衛門、助太夫、平左衛門、外記、です。平左衛門は、多久の家中となりました。残り4人に、孫太夫の知行を分け下されました。

 

外記は、神道の伝授を仰せ付けられたのですが、神田様の年寄に成られたので、神職を、福地源之丞の弟の造酒を養子して、譲られました。造酒の女房は、助太夫の娘で、それを外記が娘としていたのを合わせたのです。また、助太夫の娘は、横平左右衛門の母で、常朝の母です。

 

大野喜内は、阿部豊後守殿からの御頼みで召し抱えられました。その後、北島外記が度の過ぎる騒気で跡が潰れたのを、喜内に下され、北島覺左衛門と言いました。二の丸の牡丹がなくなった時、覺左衛門と副島兵左衛門は浪人し、覺左衛門は、多久殿に預けられました。

 

30  隆信公の時、四天王と言った武勇の士は、百武志摩守、木下四郎兵衛、成松遠江守、江里口藤七兵衛、です。

 

31  (一知房の話)中野の名字が両統ある事。中野神右衛門の一統は武雄の別れで、西目の中野の城主です。中野杢佐の一統は、古瀬郷中野村の城主です。杢佐の嫡子は勘解由、二男は勘右衛門です。

 

32  中野八兵衛、相良権左衛門は、光茂公の御衣装納戸役です。両人の同船が上關で破損し、二人とも亡くなりました。八兵衛は実子がなく、弟の宗三が江戸で医学を学んでいたのを召し寄せられ、八兵衛の家督を下され、還俗を仰せ付けられ、勘右衛門と言いました。

 

始め、実子がないので、中野杢佐の次男の勘右衛門(前名は七兵衛)を養子にした後、宗三の実子が二人出生しました。一人は竹田権右衛門に養子に遣わしました。権右衛門は、もともとは上方衆です。それが御料理人に召し抱えられました。段々に御奉公を仕上げられたのだそうです。そうして、宗三は隠居後、またまた医師になられました。医師の御用で、新たに100石を下されました。その御知行を、実子の宗見に譲られました。宗三が江戸に在番の内に、妾腹の子が出家し、上野三別当の内の東漸院と言っています。また、宗三の娘は藤井清右衛門の妻です。

 

相良権左衛門は、その年生まれの女子が一人ありました。求馬(最前名は助次郎)を家督に仰せ付けられ、後々、権左衛門の娘を嫁娵りする事と仰せ出だされました。その後、求馬は、次第に御加増下されたので、求馬が御願い申されたのは、「相良の跡式の事は、娘に似合いの入婿を取る様にと仰せ付けられます様にと思います。娘の年頃に似合わないので」の由を申し上げたので、権左衛門の跡式は、福地彌左衛門の弟の八左衛門を入婿に仰せ付けられました。求馬には、鍋島一雲の妹を嫁娵を仰せ付けられました。(福地吉左衛門の嫡子が彌右衛門で、二男が八郎左衛門、三男が太左衛門です。)

 

33  大木兵部入道宗繁は、堀切の城主の蒲池一門です。鎮並を御征伐の時、筑後から御国に参り、御恨みを申し上げ、「切腹する。」と言うのを、いろいろと宥めて、その忠心を御感になり、召し抱えられました。以前は小身で、家計も差支え、組衆の役の人たちの出入りに茶煙草を出すこともできずにいました。その為に、夫婦は代わり飯を食べ、茶の間に甕を置いて、朝夕の米を分けて、それに入れ、それで、組衆の取り持ちをされたそうです。

 

元祖は、兵部入道宗繁、(二代)兵部(有馬で働き)、(三代)彌左衛門、(四代)兵部(始めは権之丞、勝右衛門)、(五代)佐助(後に、勝右衛門、八右衛門、兵部、牧太、道貫)。

 

34  鍋島喜雲の子は、五郎左衛門と言います。無双の曲者です。(有馬で討死)。中野将監の妹婿です。実子はなく、鍋島市正殿の弟を養子にされ、千手外記と言いました。

 

勝茂公の御代に、鍋島傳右衛門が悪事をして、御仕置を仰せ付けられました。その後、小身者に御名字を下し置かれると、悪事などをした時に、御名字の疵になるので、「総領家だけが鍋島を名乗り、その外は、御名字を替える様に。」と仰せ出だされました。その時に、千手の名字になりました。

 

35  御船印の角取紙の事。高麗の陣の時、各方の船には、その印がありました。こちらの船だけが印がなく、御船頭の池上六太夫が、即座に、鼻紙を取り集め、隅取紙にして、御船印とされました。

 

36  政家様の御舅は、有馬越前守入道仙岩義貞(あるいは義定)と言います。前名は、修理大夫晴純と言いました。子息は、左衛門佐義純(後に鎮純と改め)です。義直は、仙岩の養子で、波多氏です。政家公の夫人は、仙岩の女です。

 

37  慶長19年に、有馬左衛門太夫が、日向への領代えを仰せ付けられた時、有馬をこちら方に御預けになり、その加番の為に多久長門守が御出でになり、10月から12月まで、そこで勤められました。

 

38  盛徳院殿の家来の、ある人(-何某)が、ある時、話の序でに言ったのですが、「頼み切りの人をお持ちでなくいらっしゃいます。自分は、常々は、何の御用にも立ちませんが、一命を捨てるのは、自分一人だけです。」と申されました。盛徳院殿は、以ての外に御立腹で、「家中の者で、一人も、命を惜しむ者があるものか、高慢な事を言う。」と、手打ちにもする様子だったので、側から、その者を引き立てて下がったそうです。

 

39  寛永20年に、長崎御番を、以後、松平右衛門佐殿と、1年交替でする様にとの由を仰せ渡されて、翌年、正保元年2月に、御暇で御下国され、筑前から、この御番の事で使者が来て、北の使者屋に居られました。この時、勝茂公が使者屋に御見舞いされたので、その座の前に中門が作られました。今もそれがあります。そうして、御差しになられていた御腰物を、御手ずから使者に下されたそうです。晋周の話だそうです。

 

40  (圓城院の話)嘉瀬の蓮乗院の増誾(能書です)は、筥崎の別当です。病気で帰国し、肉食がなくては、本復がない病気との事で、直茂公から、秘かに、肉を遣わされました。本復の後に、それを聞き、それでは、出家ではないと、山伏になられました。その屋敷が今の圓城院です。さらに、直茂公から、鹿江氏の娘を遣わされ、出生の子が圓城寺美濃守です。島原で戦死しました。その跡は、権兵衛です。(増誾の弟の増算は、川上実相院の住持です。)

 

41  紀州様は勝茂公の御嫡子ですが、高源院様の御子様を御取り立てにならずには済まない事なので、直茂公の御考えで、総領に生まれ、器量も勝れているので、後々、大事の事もあるかとの事で、御養子にされ、小城の御隠居料を遣わされ、御自分が御仕立ての家来を御附けなされて、公儀の御勤めを御願いされました。甲州様は、忠直公の御死去後、大よそ、御総領に定められ、恵照院様を御再嫁までなされたのですが、御家中が納得しないという事で、光茂公の御世になり、それでは、気持ちよくなく思われる事かと、公儀の御勤めを願われたのです。

 

泉州様は、初めは、勝屋勘右衛門の養子でした。勝茂公の弟の和泉守殿は、小川を御家督し、小川平七殿(半助とも)と言いました。江戸へ証人として差し上げられるという事で、小川の名字ではなくなり、鍋島和泉守と名乗られ、御上られたのです。御前との首尾がよくて、矢はぎの5000石の加増となりました。御子の孫平太殿は、勝茂公と不和で、鹿島を召し上げられ、義絶になりました。その後、和泉守殿の跡を紹龍様へ遣わされ、公儀に御願いし、御勤めなされました。前述の孫平太殿の養子です。

 

42  石井前傳右衛門が江戸御参勤の御供で留守の時に、女房が弟と密会して、一門中から打ち捨てられました。その家を、そのころは、畜生門と言い、一門残らず付き合いを止めました。倅の次左衛門の女房は、山本前神右衛門の娘で、中野一門は取り返しされました。傳右衛門が江戸で遊女狂いをしていた頃に、御式台に、鍋島主膳様と書いた文箱を遊女町から持参して来て、この様な名前はこちらの家中にはないと言ったところ、紋所とその風体を詳しく申し立て、とにかく、渡さずには済まない旨を言うのでした。

 

傳右衛門に間違いないので、それを書き留め、返しました。この事は、隠し様もなく、御耳に入り、科を仰せ付けられるべきかという事で、話を聞きに、吉原に、中野将監が遣わされ、その後、何とはなく、話は終わりになりました。一番乗りした者なので、差し赦されたとの事でした。そうしたところ、その遊女が御国に尋ね下り来ました。傳右衛門は、どうしようもなくて、まず、宿元に呼び入れ置きました。この事が明らかとなり、切腹を仰せ付けられました。その頃、大木兵部、中野内匠、鍋島舎人が御前に出で参られたそうです。それは、御殺しにならない様にと申し上げる為かという事です。次左衛門は12、3年浪人していたところ、帰参を仰せ付けられました。その子の傳右衛門は、また浪人となりました。

 

43  千葉の元祖が西国に下向の時、海上で嵐が吹き、船が破れて困った時、鮑が集まり、船の破れを塞いだのだそうです。その後、千葉一家は、家来までも、鮑を食いません。もし間違って食べると、体に、鮑に似た形の腫れ物が出来るのだそうです。

 

44  直茂公が千葉殿から帰られる時、その家来の数人、屈強の者が選ばれ、引き出物に附けられました。その一人が、錀山(尼、とも)です。小出、平田など、その外です。(都合12人です。錀尼、野邊田、金原、平田、巨勢、井出、田中、濱野、陣内、仁戸田、堀口、小出、です。)

 

45  松崎彦右衛門は、金右衛門の弟です。御小姓で召し使われ、おらんと言いました。後に、御名字を下され、300石を拝領し、諫早豊前殿(水月院)の御娘と縁組を仰せ付けられました。実子がなくて、十左衛門殿の御末子の内記を養子にされました。父子の中が悪くて、訴訟が起きて、身上を召し潰され、御扶持を下し置かれる事になりました。綱茂公の御代に、松崎の名跡に、鍋島一雲の末子の源太左衛門を立てられ、150石を下される事になりました。

 

46  鳥巣甚右衛門は、土肥進士之允組の足軽でした。女房を、娘一人を付けて離縁しました。この女房は、母子共に、お春様の御側に御奉公に上がりました。娘は、光茂公が使われ、後に、岡部権之助の女房になされました。その時、実父の甚右衛門を侍に召しなされました。母は、野口新右衛門の女房になされました。新右衛門の後の女房です。男子が一人出来たのを、光茂公の御卒去の時に出家にして、自分も尼になられたのです。

 

47  来迎寺村は白水村と言いました。寺があるので、それで、名を替えたのです。川久保に白水の名字があるのです。

 

48  星野惣右衛門は、母は懐胎の時、いつも、抹香を飲んでいたそうです。5歳の時、「浮世はつきせぬもの」という小歌を聞いて、疑問が募り、半日、座禅しました。一生、不思議が多かったのです。上洛の時、夢中で相傅の高王観音経を女院様からの御所望で、書いて差し上げられました。御礼として、名香(八重垣)と、その外1種を拝領されました。

 

この事が知れて、浪人を仰せ付けられました。28(31か)歳で死去、元来は、大木正兵衛の子です。星野に養子に行き、部屋住みで浪人となり、大木惣右衛門とも言いました。御小姓役の時、文四郎と言いました。

 

49  相良市右衛門の書置きの奥書に、「この様に申し置いても、子々孫々に至り、守っては行けないと思います。なぜかというと、自分などは5歳の時から酒を好み、大酒するので、度々意見されましたが、最後まで、その通りにはしませんでした。けれども、意見された時には、少しは控えたものです。それがあるので、書置きは、この通りにするのです。」と。

 

50  徳善院の歌仙、絵は土佐、歌は飛鳥井雅彰です。彦山の歌仙(倉永利兵衛)。櫛田宮の歌仙(關正伯)。川上社(増誾)。栃久天神(星野惣右衛門)。

 

51  翁助様は、鍋島彌平左衛門の與賀石橋の屋敷で御出生、與賀の御氏子です。(向陽軒の御普請の間、この屋敷にいらっしゃいました。)

 

52  東福寺の大涅槃は、日本に一つだけのものです(兆殿司筆)。綱茂公から藤本父子に仰せ付けられたのですが、写しが赦されず、經師の若井左衛門に仰せ付けられて、役僧に頼み込み、その衆会で僉議されましたが、誰もが、できないと言うのでした。

 

役僧が言うには、「日本に一つだけの重宝ですが、その内に焼失でもしたら、取り返しがつきません。由ある所望と思われます。写しを預けて置きたいのです。」そう言って、写させました。成就の前に御卒去となり、利左衛門から高傳寺に寄進されました。日本に二幅の大涅槃です。

 

53  鍋島玄蕃は千葉氏です。身上は800石、内方は、壽峰の妹で、桃源院と言います。嫡子の玄蕃は200石です。内方は相良求馬の娘で、後に、取り返しされました。玄蕃の跡は、志摩の弟の孫太郎で、50人扶持を下され、後に、出入りがあり、召し上げられました。

 

千葉氏 鍋島宗碩(加判家老) _ 鍋島玄蕃

                  |_ 千葉太郎助

 

54  光茂公が御他界の時、御香典の事を御老中が御僉議され、近年では、同じ並びの御大名の例がなくて、御悔みの御奉書を遣わされるという事迄に決まりました。その頃、村山長古という御城坊主が、長く御出入りされていて、娘は寂光院様が召し使われ、そちらからも御出入り扶持が下し置かれる者でしたが、御城で、日記役の柴田助右衛門殿に言ったのは、「私は古い者で、鍋島家に長く出入りして居ります。故信濃守殿が御卒去の時、御香典を拝領したと覚えて居ります。明暦3年ですが、御日記を御覧になられたく」の由を言うので、御改め見たところ、長古の覚えの通りでした。助右衛門殿が言ったのは、「今日、御僉議が終わり、奉書の判形の事も、今、済んで、明日、渡される事になりました。よい時に思い出されました。すぐに、月番の御方に申し遣わします。」と、夜中に、尋ね聞いたところ、「前例のようであるべきです。明日、ご僉議になるはずです。御香典は、今夜、御納戸に申し付けられる様に。」と返答されたそうです。この経緯について、翌朝、長古が御屋敷に参り、老後の御奉公の本望との事と、話されたのだそうです。

 

55  有馬落城の28日、詰の丸で、三瀬源兵衛が、あぜに腰掛けて居ました。中野内匠が通り掛かり、その訳を聞いたところ、「疝気が起り、一歩も歩けないのです。組の者は先に行かせたので、下知を頼みます。」との由でした。この様子を御目付けに言上し、腰抜けの由で、切腹になりました。昔は、疝気の事を臆病ぐさと言いました。いきなり起こり、働きが出来ないからです。

 

56  宗龍寺に佐々木殿の宇治川の先陣の時の鞍があるのだそうです。御寄進物との事。その由緒を調べてみたいものです。

 

57  妙雲寺は、佐々木殿の寺です。佐々木殿に日本の半分を呉れると頼朝が御約束で、治世となってから、その実行の為に、1国に1郷ずつ下されたという事です。筥川は佐々木殿の知行の由です。

 

58  六角主計は、白石の六角の住人で、佐々木氏だそうです。帰依の寺の過去帳に先祖の書載があり、正徳4年に下向の時に改めたのだそうです。

 

59  江戸三島町は、昔、福島、鍋島、久留島の屋敷があったので、三島町というのだそうです。こちらの御屋敷は、今の増上寺の所化寮の辺りだと、長譽の話です。その替りは、打越屋敷は烏森の近所です。その替りが、愛宕下です。それは、今は松平若狭守殿の屋敷です。その替りが、桜田西の御添屋敷で、太田原殿の屋敷でした。

 

60  一鼎は浪人で、梅の山に住居があります。倅の泰左衛門に知行を下され、一鼎は隠居身分で山居です。御用を仰せ付けられて、上京の時、下村三郎兵衛が聞番でしたが、一鼎に言うには、「永く浪人して、酒なども飲めないでしょう。」と言うので、「山中に見たこともないです。それよりも、飯がないです。麦、そば、ひえなどを釜に入れて置き、好きな時に食べるのです。汁も食べた事がないです。」と言われるので、「まず、寒い夜などには酒なしに寝入られないでしょうし、その食も食べられないでしょう。」と言うので、 一鼎が言ったのは、「寝られない時は寝ず、寝られる時は寝る、食われない時は食わず、食われる時は食う。」と言われました。また、「三郎兵衛は、人の気持ちも思わずに物を言い返すので、それでは、人の為にならないし、つれづれ草のあずまおとこだ。」と意見されたそうです。

 

61  (深江氏の話)青山の御屋敷(今は蓮池の屋敷)は、証人の屋敷です。その脇に牢屋敷があります。その脇にお長様の御屋敷があります。今は一つになっているのだそうです。

 

62  下村左馬之助の三男を枝吉利左衛門と言います。善右衛門の養子です。左馬之助の娘は石田安左衛門(一鼎の親)の女房です。下村七右衛門の弟は、勝屋新右衛門です。(五郎右衛門の親です。)前は「しょうや」と言いましたが、他所の人には聞き知らない事なので、後には、「かつや」と言われました。

 

七右衛門が勝茂公の御鬚役の頃、御蔵の銀50貫目が失くなりました。御蔵の係の存坊主の江藤傳齊が申し上げ、調べられましたが、分からず、傳齊が自分で山伏を頼み、よりを立て、祈り上げたところ、よりが口走ったのは、鬚を撫でて、「これが取った。」と言いました。「さては七右衛門だ。」と、取り沙汰して、御前にも聞こえ、七右衛門の家を改めたのですが分かりませんでした。その頃、御城の供屋の前に札が立ち、「御蔵の失銀、この下にあり。」と書き付けてあるのを、中野三太夫(後の數馬)が見付け、御城で申し伝えられたので、掘らせたところ、残らず出て来ました。

 

その時、これも七右衛門がした事という扱いになりました。その事で、下村一門から訴え出たので、別に何をするとかはなく、傳齊と山伏の両人が生害を仰せ付けられました。七右衛門は、後に、御留守居役を勤め、小男で、白鬚で、御国口を言う事で人に知られた人でした。下村の長興寺は生運が開基です。

 

63  向陽軒は、勝茂公の御代に建て置かれました。御宮は光茂公が立てられました。

 

64  千布太郎左衛門の女房は、勝茂公の御女中で居たのを、太郎左衛門に下されたのです。戸田殿の御姫の御腹に御出生の伊勢松様が御死去の時、太郎左衛門の女房が呪詛し奉った様に言い扱いされ、生害を仰せ付けられ、太郎左衛門は浪人となりした。その後、柴田宗俊と名を改めました。直茂公の御物語を書き集められました。柴田聞書といいます。

 

65  盛徳院殿が死去の時、追腹人を光茂公が差し止められました。御使いが、屋敷に行き、そう申し渡したのですが、一向にその旨に承知の者はありませんでした。その中で、石丸采女(後の名は、清左衛門)が末座から言われたのは、「若輩者で、出過ぎた事ですが、御意の趣はもっともに存じます。自分は、山城殿の座を整える者で、ひたすら追腹と思い定めて居りましたが、殿様の御意をお伺いして、その理は、それ以上ないものと思いますので、面々はともかく、自分は追腹を思い止まり、世継ぎの方に奉公申し上げる事に致します。」と言い、それで、誰も、同じ様に、御承知なされたのだそうです。

 

66  大膳の妻女は鍋島市佑の娘ですが、勝茂公が御養子され、大膳に下されました。有馬の陣の時、御引き離しになりました。その住む配所に内方から使いを遣わされても、一度も文を見ず、「愛しく思う事は限りもありませんが、主人に離別させられた女房の文を、隠れてとはいえ見る事は本意ではないので。」と言い、返され、後には、「もう、存命の用事はない。」と言って、食を絶ち、大酒して、血を吐き、果てました。後に、妻女に、飯米料150石を下されました。

 

(大膳の子)次郎右衛門(有馬初陣は14歳、元の名は、長助)

  |_ 正左衛門 - 次郎右衛門(切腹、跡断絶)

  |_ 岡山庄九

 

次郎右衛門が切腹の時、四郎の旗を預かっていたので、庄九に御切り米を下され、旗を預かりました。御家老衆の書き物が添えられています。大膳は、元々は、蒲原氏です。始めは、御小姓を勤め、段々に立身して、400石を下され、無双の曲者で、昔の鍋島大膳の跡式を下され、「武勇にあやかる様に。」と仰せられ、御名字を下され、大膳になされました。御小姓を3年勤め、手枕をさせ申し上げたので、片腕がなえてしまったそうです。

 

67  (金丸氏の話)深堀茂宅の事を、太閤様から直茂公に御預けになり、その後、それを外されましたが、御断りを入れて、御家来となられました。御預けの事では、口達があります。

 

68  (深江氏の話)深堀猪之助は、元は、田代という名字です。一説に鎮並の落胤との事ですが、鎮並が御征伐された後、その母がこの御国に落ち来て、隠し置いたのですが、安藝殿が召し抱えられたとも言います。勝茂公が長崎の御番を仰せ付けられ、御下りになり、深堀に御逗留の間に、猪之助を召し出され、柳川・有馬の戦功により、諫早に50石を下されました。

 

その御礼に、御成りをお願いしたくて、その由を、中野數馬を通してお願いされ、御成りの節に、御紋付きと御小袖二つを拝領させられました。その時、猪之助から、「前から用意を致して置きました物で、何かにお使い下さいます様に。」と言い、銀子100貫目を進上されました。その志を大そう喜ばれた由で、その上で、それは御返しになられたそうです。その銀は、深堀で置物になったのだそうです。深江氏の話です。

 

69  (深江氏の話)有馬左衛門佐の所替えで、島原をこちらに御預けになられた時、在番は安藝殿、代官は有田氏が仰せ付けられました。その時に、安藝殿は、自分から、米1000石を城に置きました。この事を勝茂公がお聞きになり、御書を遣わされたそうです。

 

この島原領は、直茂公に御預けでした。大坂の陣の時も御代官の所との由。

 

70  鍋島助右衛門殿近所のの法華寺(浄土宗か)で講話があり、聴聞の為に助右衛門殿の娘が参詣され、寺から直に、若党と二人が駆け落ちで、方々を探されましたが分かりませんでした。程過ぎてから、肥後の家老に妾奉公をしているという事が聞こえて、取手を、度々遣わされましたが差し出さないので、成富兵庫に仰せ付けになりました。

 

すぐに、熊本に行き、加藤主計殿に御目に懸かり、「その女を差し出される様に。」と言いましたが、「こちらに駆け込みをした者なので、渡す事はできない」由でした。その時、兵庫が言ったのは、「御自分が高麗で、御難儀の所を見てお手伝いした時に、この返礼に、何事でも、この後、承りますと言われました。今度の御無心をこの返礼に受け取りたくと思い、来たのですが、御一言を無にするという事ですか。」と言いました。主計殿は、「そうであれば、力及ばずで、渡す事にします。命は御助けなされますか。」と言われたので、「その事は承りました」との由を言い、連れ帰り、その後、殺しました。

 

そして、助右衛門殿父子には、切腹を仰せ付けられ、その旨で、検使が押し掛け遣わされました。折節、碁を打っていたのですが、検使が通り来て、申し渡したところ、「もっともの事です。まずは、碁を御覧ください。」と、打ち終わらせました。そこに、家来共が18人出て来て、「御供します。」と言いました。検使は、「それは、どうなのか。」と言われましたが、子息の織部殿が庭に下り、「思い切ったる者供なので、自分が介錯をする。」と、18人、すべて、首を打ち落とし、父子は切腹でした。屋敷沿いの川は一筋の血に染まりところとなり、その当時、血川と言ったそうです。

 

助右衛門殿の末子2人は、乳持ち共が抱いて、逃げました。蒲原善左衛門、鍋島(蓮池)又兵衛、です。織部殿の子は、後に、鍋島源右衛門と言いました。

 

この時、直茂公の仰せでは、「人を持たずに、事を欠く。」と述懐されたそうです。これは、助右衛門を申し乞う人がなくての事かと、です。

 

71  高源院様の御年寄の朝倉久左衛門が浪人して、代役で、千住久左衛門が仰せ付けられました。久左衛門の子の善右衛門(枝吉利左衛門の聟)は、江戸で喧嘩して、切死し、跡式は断絶のはずのところ、光茂公が久左衛門の聟の今泉傳兵衛に善右衛門の跡式を立てられ、今泉の跡は、次男の六郎右衛門に下されました。その後、傳兵衛を元の様に、今泉の名字にになされ、六郎右衛門を千住の名字に仰せ付けられました。

 

72  諫早石見守殿の御女は、鍋島玄蕃(宗碩)の室、小川舎人の室、です。この二人へは、勝茂公から化粧田50石が遣わされたそうです。

 

73  (副島氏の話)納富常陸殿(始めの名は左馬助、家輔、あるいは、賢景)に、直茂公の御嫡女(天林)を御嫁娵りなされ、御姫(公御料人)一人が御出生のところ、常陸殿は島原で戦死により、主水殿(日妙)に再嫁なされ、この時、納富家8000石(一説には、息二人ありと言う)は断絶となりました。(一説に、直茂公から後室と息女に新地1500石を下されたと言う。)その後、公御料人に、化粧田700石を遣わされました。

 

須古安房守殿の三男の市佑殿を公御料人に取り合わせ、納富家を700石で立てられました。市佑殿は、段々の加増で、1400石になりました。市佑殿の隠居料315石は取り分けて置かれたのを、子息の道圓の次男の十右衛門殿に譲られました。鍋島正兵衛家です。本家は1015石なのを、九左衛門殿が病気で、領知が召し上げられ、御息の齊殿に200人扶持を下され、寶永6年に、600石を下されました。

 

74  成富兵庫は、知行が1700石でした。実子がなくて、太田殿から養子をしていたところ、山城殿(盛徳院)を、兵庫の養子に遣わされました。その後、実子が一人、出生し、家督を、十右衛門に1000石、実子の五郎兵衛に300石、山城殿に400石と、分けて譲られました。その後、山城殿に、新知が2600石下され、3000石になりました。成富家は、この時から1000石になり、十右衛門の跡式を後藤の若狭殿の弟、民部殿に仰せ付けられたところ、出入りがあって、取り返され、成富家は14、5年の間、断絶していたのを、山城殿の心遣いで、諫早石見殿の四男の十右衛門殿(獨幽)を本知1000石で立てられました。十右衛門殿は、この前、諫早の証人で江戸に詰められていました。幼少の頃は御城で御育ちになりました。勝茂公の御孫になります。五郎兵衛は肥前様に御年寄を勤められました。その倅の佐内の代に乱心で自害し、断絶となりました。佐内の子の蔵人は、光茂公が召し出されました。

 

75  (助右衛門殿の話)主水殿が死去の時、御加増は一万石を遣わされましたが、御受けにならず、淡路殿に御加増を遣わされる御内存で、公儀の御代替りの御祝儀の御使者を仰せ付けられ、帰ったところで、御加増のはずでしたが、成富兵庫が江戸勤めの時で、淡路殿が来られる前に、公儀への御使者を兵庫殿が勤められました。(この件は口達あり。)その為に、淡路殿は、何もなく下り帰られました。それから病気となったのです。この事を、御袋の天林様が御述懐され、嘆かれたので、安藝殿が、高傳寺で御法事の時に、兵庫殿を取り伏せ、兵庫殿が証文を差し出されたので、それを天林院様に遣わし差し上げられました。その証文は、今もあるのだそうです。

 

片田江の川浪屋敷は、主水殿の下屋敷です。死去の6、7年前に、片田江の屋敷で妻子を暇乞いし、直茂様御夫婦も御出でになり、その後、佐留志に引き込まれました。

 

76  吉刻附けの事。永禄9年、大友宗麟が高良山に出て来て、龍造寺を囲む。その時、「城を開かれるべきか否か。」の吉凶を泰長院震龍に占わせられる。「在城が吉。」との占い。果たして、それで、御利運でした。それから、今に至るまで、歳暮、年始の御規式で、吉刻附けを泰長院から進撰されるそうです。

 

77  歳夜に大漁の包丁の事。天正元年12月、龍公(龍造寺隆信公)が、西肥前を御征伐の時、所々を平らげ、唐津で御越年の時、漁師が鰤を献上されました。「大魚を得たり。」とお喜びで、すぐ、包丁を仰せ付けられ、御祝いされました。これは吉例です。また、大イヲと唱え言う事も、御国に限ったことです。

 

78  御鎧祝の事。元亀元年8月20日の今山の夜討ちが御利運となり、慶長5年10月20日の柳川の一戦も御利運で、それで、正月20日を御鎧祝とするという一説があります。けれども、天下一般に、正月20日が御鎧祝という事です。大猷院様の御忌日なので、その後、11日に変わったのだそうです。

 

79  政家公が御勤めを御断りの事。秀吉公の御前で将棋をされて、大名衆が拝見し、退出の時、政家公が立たれましたが、御足がすくみ、御歩きになる事が出来ず、這って行かれたので、皆が笑われたそうです。政家公は大柄、肥満で、常々、ご膝を立てる事が出来ませんでした。この事があって以後、出仕は出来ないとお思いになられ、御断りを仰せられたそうです。

 

80  土佐の御前の事。政家様の御姫が太閤様から毛利豊前守殿(勝豊、または、定政とも)に御婚礼を仰せ付けられました。その後、太閤様が召し使うとされましたが、出来ないという事を、御姫様が仰せ切りになられました。この事は、政家公の御指図なのだろうと、太閤様が御憤りになられて、藤八郎殿の御取立は成らなかった由です。

 

(毛利殿は土佐で御領地があり、土佐の御前と、その頃、申されました。この事は肥前舊記にありますが、少し違いがあります。)

 

81  山内を御支配の事。勝茂公の御代までは、山内の者共は、神代の遺風だとして、佐賀に從わない事ばかりあるので、誰か、そこの支配の為に遣わすべく人を御選びになられたのですが、その器量の人がなくて、鍋島舎人殿が21歳で仰せ付けられました。

 

松瀬に屋敷を作り立てて移られましたが、御眼鏡に違わず、山内の者共は親しくなり、後には、舎人殿を主人の様に取り成して、それからは、佐賀にも從う様になりました。山内に、刀差を500人仰せ付けられ、鉄砲をそれぞれに一丁ずつ用意していました。すべて、舎人殿のお考えです。

 

今も、山内の一通りは彼の家の支配で、その外への被官は、新たには出来ない事になっています。近年までは、山内、本庄、鍋島の代官、下代は、彼の家の組衆が勤めました。

 

御代替りで、初めて御入部で来られる時は、殿様は山内か川上まで来られ、山内の者共に御目見えして、ご酒を拝領され、献上物を差し上げ、御礼があれば、またさらに献上物を差し上げ、大庄屋4人が御城に参られ、御酒を拝領されます。不意に山内に来られる時も、同様です。詳しくは、佐保十兵衛の日記の写しがあります。

 

82  (金丸氏の話)勝利の間者の事。小副川左衛門は神代家の者で、佐賀に奉公させ、御軍配の次第を書き付け、高木氏の何某(XX)を使いにして、勝利に通じていて、最後までそれは知られず、毎度の事も、いつも、勝つ事が出来ず、御手に入らずにいたとの由。

 

83  (馬渡氏がお尋ねになったところ、この様に聞き伝えているとの事。)龍造寺の御城の事。御本丸は、今の諫早殿の屋敷、二の丸は、多久殿の屋敷です。泰長院は、元は、西の丸にありました。八幡宮は武雄殿の裏門の前にあったそうです。

 

御城の御普請は、慶長19年の頃で、今ある所に作り立てられたのだそうです。

(本行寺を、北御門内から、御門外に御引き移されたのだそうです。)

 

84  江戸御屋敷の事。家康公が御城を御普請の頃、勝茂公が御見分という事で、桜田、麻布、青山、龍土町、中屋敷、三島町の6カ所を仰せ請けになり、江戸御屋敷として、御取り立てになられました。

 

桜田屋敷の前の見附は、昔はありませんでした。今の鍋町は、当方の御蔵屋敷で、中門からの出入りをしました。その後、見附ができた時は、くぐり門と言いました。後に、姫門、鍋島門、油門とも言いました。御蔵屋敷が町になった時は、江戸の町数外で、名もなかったのですが、鍋町と言い慣わして来たそうです。御出入りの御用聞きの老人の木屋次兵衛が話してくれた事です。

 

85  小川殿の家督の事。武蔵守殿の御子が御両人共、高麗で御病死され、三男は神代殿の養子なので、勝茂公の御舎弟の平七郎殿(半助殿)を小川家の家督に立てられました。ところが、平七郎殿を公儀へ証人に差し上げられるので、鍋島和泉守と御改めになり、小川の名字は絶えたのでした。

 

それに付き、神代伯耆に武蔵守殿の血筋を御尋ねになられたところ、武蔵守殿の聟の千布惣右衛門に子の四兵衛が居て、その子の舎人が居るとの由を仰せ上げられて、小川の名跡を500石で立てられる事になったそうです。

 

86  鍋島帯刀殿の御仲直りの事。和泉守殿(忠茂)を公儀に証人として差し上げられていたところ、御小姓に召しなされて、首尾よくて、矢作に5000石を御加増下され、御息の孫平太殿が御子がないので、和泉守殿(紹龍)を養子に遣わし置かれました。そうしている内に、孫平太殿に御意見の事共が起り、勝茂公が度々御意見されましたが從われず、却って、その思う事共を言われるので、義絶なされ、和泉守殿に御戻しになり、鹿島の領地を取り上げて、その和泉守殿に遣わされました。

 

光茂公の御代になり、孫平太殿の御息の帯刀殿の舅の大久保甚兵衛殿から、久世大和守殿が御老中の時に、甚兵衛殿が縁類で、御仲直りされる事を頼み入れられ、大和守殿から光茂公に、返し様もなく仰せ入れられた事で、御納得されて、「孫平太殿は、信濃守が義絶した事なので、面談は出来ないが、帯刀の事は仲直りするべき」の由を仰せられ、帯刀殿と御面談なされました。その後、内匠様を帯刀殿の御養子になされました。(御知行、今は遠州の内にある由。)

 

87  鎌倉屋太郎左衛門の事。有馬一乱で、勝茂公が御下向の時、箱根の峠の鎌倉屋から、強飯、酒などを道端に取り出して、御供中に御馳走されました。山中の事で、食物がなく、上下共に、その日の難儀を凌ぎ、御喜びなされ、それ以後御本陣とするの由の御詞を下されました。それから、御紋を下され、御宿となりました。

 

鎌倉屋は、元来、細川の本陣で、その時、細川と取り違え、勝茂公に御馳走されたのだそうです。今も、御往来で、御立ち寄りの時は、強飯を差し出されるそうです。

 

(金丸氏、立川杢右の話ですが、その後、牛嶋新五郎に頼んで聞き合わせたところ、当の太郎左衛門の直の話も、その様な事でしたとの由。)

 

88  (金丸氏、並びに、立川杢右の話)小田原宿の久保田屋七右衛門の事。有馬の一揆で、細川、黒田、勝茂公が小田原の宿を次々に通り、御本陣の亭主共が出て、それぞれの行列を褒めていたところ、こちらの御方の御供立てがみっともない旅行姿なので、誰もが悪く言って、「あれでは、城攻めが心配だ。」などと言いました。

 

その時、久保田屋は怒って、「道中の行列が城攻めの役に立つと思いますか。細川、黒田は、旅行姿ばかりが厳しく、長い道中で草臥れて、敵に向かうのには役に立ちません。肥前衆は物慣れて、随分、道中は寛いでいて、敵に向かうのを第一に心懸けて来ているので、あの通りなのです。」と言うと、ますます笑われてしまったので、久保田屋は、むきになって、「それなら、今度の一番乗り、首を懸ける。」と言い切りました。

 

そして、落城の早打ちを待ち受けて居たところ、細川の飛脚が通って行くのに聞くと、「細川、一番乗り。」と言いました。「約束通り、久保田屋は首を出す様に。」と言うのでした。しかしながら、一番飛脚では、実否が測りかねると、待っていたところ、黒田の飛脚が通り、「黒田、一番乗り。」と言いました。その次に、こちらの方の飛脚が通り、「一番乗り。」と言いました。それぞれなので、事が定まらず、江戸に行き、公儀の御注進を聞き合わせたところ、鍋島一番は紛れもない事の由を聞き届け、久保田屋は、相手の首を取ると言い立てて、そこの所の者達が言い宥めても納得しません。領主が御聞きになり、「町人として、武家の批判をするのは不届き」の由で、三人とも追放されました。後で、帰参になり、今は、こちらの方の本陣なのです。

 

89  大坂御普請の時の役附けは、惣奉行(御家老衆)、四組頭、200人頭、行合奉行、下奉行、下割、副衆、浮奉行、横目、銀遣、大工頭。

 

90  (玄澄和尚の話)賢崇寺は、肥前様の御位牌堂で、恵照院様が御建立されました。寺号を賢崇寺と言います。新地の寺社が破却の時に、芝の正重寺を移し替え、寺号を替えられ、御寺として御取り立てになされました。寶永5年、当住の玄證和尚が、公儀に寺号の改元を願い、賢崇寺と改められました。

 

賢崇寺に長壽院様の御石塔があります。これは、傳高院様の御石塔の由、久我勘右衛門殿が、そう言われました。

 

91  御出生御屋敷の事。隆信公は水ケ江の御館、直茂公は本庄千本松(千本松は賢譽様の御屋敷)、勝茂公は龍造寺二の丸(圖書屋敷の西、多久屋敷の東、今の御馬屋です。堤氏が、代々、御番を勤めた。賢譽様は直茂公の御姉、鍋島伊豆の御内方。)

 

92  御三人御元服の事。紀伊守元茂(三平殿)、慶長19年から在府、元和5年元服。甲斐守直澄(千熊殿、加賀守)、寛永12年元服、和泉守直朝(刑部大輔茂繼)、寛永17年元服。

 

93  高源院様御在国の事。慶長10年5月、伏見で御婚礼、6月に御下国、元和8年の夏、御参府、御在国18年です。

 

94  慈悲小屋の事。光茂公の御代初めに、慈悲小屋を仰せ付けられました。

 

寛文3年癸卯10月吉日 奉行友田彦兵衛尉敬白

 四方に石仏を建てられました。銘書はこの通りです。

 

その後(天和2戌年)、新小屋を仰せ付けられました。吉茂公の御代(寶永7年寅5月から7月までに成就)に、新小屋100軒を仰せ付けられ、新入りの非人に、1ヶ月の飯米を下されました。

 

95  多久圖書殿の事。多久長門守(安順ノブタダ、天叟トシ定)は、御子がなくて、後藤貴明の実子の彌次郎家忠(初めは晴明)の子の圖書殿を養子されました。家忠の御内方は長門殿の妹です。そうして、太田正左衛門茂連の息女を、勝茂公が御養子とされて、圖書殿に合わせました。後に、父子の仲が悪くて、圖書殿は、佐留志の鳥坂に退き込まれました。鍋島圖書と言っていました。

 

圖書殿の子の美作殿を長門殿の家督に立てられました。7歳から、家来は一人で、順長老に附けられて、学問の事のみでした。圖書殿へは、飯米料300石を上から遣わされました。圖書殿の死後に、末子の小田蔵人に、その300石を下され、その跡を立てたところ、蔵人は若死にし、多久民部に仰せ付けられました。圖書殿は、萬治2年己亥6月26日に死去、法名は久山隆永、八戸の龍雲寺に納められました。

 

96  本庄鍋島の百姓共が、年頭の御目見え、御代替りには、御樽肴を進上されます。盆には、高傳寺に参詣しています。毎月、御先祖様方の御命日毎に、線香、野菜を差し上げ、鍋島本庄の百姓共、5、6人が参詣をされます。

 

97  御聖霊祭の事。陽泰院様が御剃髪の時、楊柳寺の住持の正意が御剃髪申し上げました。毎年、御城の御聖霊祭に、その正意がお出になるので、今も、楊柳寺の住持を勤められています。

 

98  千本松の御祭りの事。本庄の千本松は、賢譽様の御屋敷です。清久公の御代から、千本松で、彦山祭を遊ばされました。御祭料として、田地2反6畝5歩を御附けになり、鍋島内記が頭人で、3年に一度、2月10日前後の吉日に御祭りです。

 

御神供は、直に、御城に上らせれます。未明に徳善院が来られて、三汁十采の御料理があり、終わってから、その座から直に彦山に参詣されます。その次に高傳寺の僧衆が残らず御振舞があり、並びに、本庄郷中の僧俗男女にも御振舞です。

 

賢譽様は、直茂公の御姉で、鍋島伊豆の御内方です。御年籠りの御代参は、徳善院と、鍋島勘右衛門、鍋島藤兵衛、両人の内の一人が御代参で、隔年に勤められます。徳善院は下向し、正月4日に御目見えです。

 

99  徳善院の御本尊の事。(寺社縁記に詳しい。また、肥前舊記にあり。)

 

100  中野式部の分捕りの事。天正7年、筑後国の三池の城主の鎮實を攻められた時に、城中からは激しく防ぎ、終日、味方には、分捕りの者がなくていたところ、式部がその槍で首一つを打ち取られました。直茂公は感激され、「後陣にいらっしゃる隆信公に御目に懸ける様に。」と仰せられ、持参するとき、遠くから御覧になられて、「分捕りの者と見える、誰なのか。」と御尋ねの時、「多分、中野式部の様だ。」と、隆信公が仰せられていたところに、その首を持参されたので、特に御機嫌がよく、今日の一番首は、日頃の100よりも御大慶だとの由で、御褒美され、隆信公が御手で式部の頭を御さすりなされたそうです。

 

101  永禄6年8月12日、後藤氏と須古の平井氏とが、杵島郡の椛島で合戦の時、中野右衛門之助忠明が討ち死にされました。倅の式部(後名は甚右衛門)は、幼少でしたが、右衛門之助が出陣の時、庭の中で式部を抱き、「成長の後、武道の誉を取る様に。」と暇乞いされたのだそうです。

 

山本前神右衛門は、一門の子供の、当歳の生まれた年の子にさえも、耳に口を寄せ、「大曲者になり、殿の御用に立つ様に。」と言いました。「未だ聞き分ける事のできない時から、耳に吹き込むのがよい。」と言われていたそうです。

 

102  平戸の城主の松浦道可の子息は、後藤左衛門太夫惟明です。惟明の子は後藤又兵衛で大坂に籠城と言います。(不審、中国の者ともあるが、いかがか。)

 

103  有馬の陣の時、黒田殿は御城から直に御立ちで、細川殿は屋敷の玄関まで御立ち寄りされ、直に御立ち、勝茂公は、御屋敷に帰られたところ、毛利長門守殿が御暇乞いに御出でになり、御立ちの時間を取られたとの事。細川殿は、はたご食で御通りの由。勝茂公は、御膳番が御先に追い越し行き、御膳を差し上げられたそうです。細川殿、黒田殿は、公儀から、御早船が渡り来たのですが、勝茂公へは、来ませんでした。御城で、御老中に御乗船の事について仰せ伝えられましたが、これという御返答もありませんでした。これは、有馬は御国内の事で、御子様方が仰せ御願いされて御下りになりましたが、落城が延びていて、首尾がよろしくないとの事だったそうです。それで、松平下総守殿の御船を御借りになりました。これ以後、大坂に詰船を召し置かれたとの由です。

 

104  勝茂公が有馬に御着して、石井彌七左衛門は、特に決まった役もなかったので、美作殿に言われたのは、「請役附に仰せ付け下さる様に。」とお願いされ、万事を、自分で、早くお聞きになる様にされました。

 

27日に、出丸の仕寄りに人が多くいるのが見えたので、中野平右衛門を遣わされ、早早に引き取る様に、上使の御下知の旨を仰せ遣わされました。彌七左衛門、傳右衛門が言うのには、「榊原殿の父子が、今にも、乗り込まれる様子に見えます。その節は、我々が一番乗りするべく、様子を見ています。」との由を言い、引き取りませんでした。晩の七つ頃に乗り入れられました。その後、一番乗りの者の調べの時、争論となりました。

 

紀州様が仰せられたのは、「一番乗りの者は公儀に召し出され、御調べもある。その時に当たり、一分を以て言う者は彌七左衛門に続く者はあるはずもない。不調法の事など言ってはならないので、自分の家来などには納得させる。彌七左衛門に決められる様に。」と仰せられました。

 

勝茂公が仰せられたのは、「一番乗りの事で、争論がある由、こうした時には論があるもの。成程、よい考えだ。この上は、自分の見たところで決める事にしたいので、その他の証拠は止める事にする。黒羅紗の羽織に猩々緋の日の丸の切入れをしたのを着ていた者が一番乗りだ。」と仰せられました。

 

その時、彌七左衛門が申し上げたのは、「今この時にここを立つことはできないので、御取り寄せ、御覧下さる様に。」と言うので、御取り寄せなされ、そして、「この羽織だ。」と仰せられ、彌七左衛門と傳右衛門に決まったのだそうです。

 

105  勝茂公の御代に、中野杢佐を黒田長政から所望されたのですが、遣わされませんでした。その後、村山覺左衛門を御所望で、筑前に遣わされ、その子孫が、今、居るのです。また、黒田家中の、吉田太郎右衛門は、大木兵部の一門です。(杢佐は、小小姓の物書です。段々に立身したのです。初めは杢兵衛と言いました。)

 

106  多賀又左衛門は、光茂公(勝茂公か)の御代に召し抱えられた料理人です。

 

107  久納市左衛門は、大坂から黒田長政の陣屋の大亀谷に参り来て、勝茂公の御断りを申し伝えようとされましたが、家来共が出て来ないので、市左衛門が大声で言ったのは、「村山覺左衛門は腰抜けだ。古主の恩を忘れ、この大変な時に出て来ない。」と悪口したのでした。長政が、風呂の中で御聞きになり、「久納市左衛門の声だ、呼び入れる様に。」と言われて、御目に懸かり、御断りの事を申し伝えられたのだそうです。

 

108  倉町も鍋島式部、太田も鍋島式部(前名は出雲監物)、紹龍様の末子も鍋島式部と言います。

 

109  中野甚右衛門の子供は、一、女(水町丹後次男の内匠を聟養子)。二、中野将監(前名は又右衛門、知行を、内匠と将監に二つに分けて譲られた)。三、女(鍋島五郎左衛門の内方)。四、山本神右衛門(山本助兵衛入道宗春の養子)。五、村川傳右衛門(藤右衛門の養子)。六、中野大學。七、」中野権右衛門。八、中野又兵衛(末の3人へは新たに御知行を下された)。

 

110  中野甚右衛門が高麗から童子を一人連れて来て、後に、槇忠左衛門と言い、足軽にして、その子の長右衛門は御直人になり、秀島長右衛門と言いました。(その子は秀島五右衛門。)

 

111  桑名の太田惣太夫の歴来聞書。関が原の御陣の時、桑名の城主の氏家内膳(領は3万石)の、その町の別当の太田惣助(この惣太夫の高祖夫)が、桑名の御崎門の番を勤め(御崎門は桑名から西五丁程の所にあり、美濃街道、伊勢海道にも通ずる門の由。今も、大手の門として警護されている。)、関が原が没落の時、勝茂公が御上下13人で御崎門を御通りの時、番人が固く止めたのを、惣助に御頼みになられたという事です。その申し出により、差し赦し、通され、御道筋の事などを御尋ねなされたのに対して、その時、「惣助の宿に御入りなさる様に。」と申し上げ、御上下に粥を勧められたのだそうです。(米7升5合の粥の由。)

 

御道筋の事は、桑名から南西の隅まで行って、近江越しの山の、ちくさ越(君がはたごえとも言う)という山道を御通りで、江州の麹袋という郷に出る道があるという事を申し上げると、その筋を御通路とする旨を仰せられ、惣助も御供して行き、麹袋六左衛門と言う百姓の所に着き、御休息との事。

 

この山越えで、麹袋まで23里の道のりです。本筋の海道は13里だそうです。

 

112  御参勤の時、惣助を御尋ねになるとの由を言われて、翌年の御参勤の時、惣助の所に御宿なされて、その後、今も、御本陣になされている事。

 

113  上の、この御在府中に、惣助から、御機嫌伺いで、飛脚で二種を差し上げたところ、御書を下されました。

 

贈られた、鯨の肉の曲、一つ、奈良漬の曲、一つ、到来、忝く、祝着しました。すぐにも、賞翫し、頂く事にします。猶、下村治左衛門から申し伝えます。謹言。

 

閏2月晦日         鍋信濃守 勝茂御判

太田惣助どのへ

 

この治左衛門は、この後、桑名に遣わされたとの事。その時、品々、拝領物などあったと思いますと、惣太夫は言っていました。

 

それについては分かっていないとの由です。

 

114  惣助は、今に至るまでも、代々に別当を勤め、桑名本町が居宅で、それが、勝茂様の御入りになられた時の屋敷との事です。その後、隣に、小屋敷があったのを買い求め、足したとの事です。

 

この書付は、正徳4年4月18日に到来したもので、横尾氏が頼まれて、惣太夫に直に聞いたとの事で、江戸から差し寄こされたのです。

 

115  藤本宗眞の事は、実は、小倉殿の甥です。小堀遠州の弟子で、茶入れの袋を縫い、それで生活していいたのを、小倉殿の子になされて、200石を下されました。宗眞の子の宗吟の代に、御叱りがあり、知行は減りました。

 

116  安田道順の事は、小倉殿の一門なのですが、召し抱えられたものです。

 

117  小少将殿は、陽泰院様が御養育なされ、縁附きを仰せ付けられて、その夫が切腹となり、また、御奉公に出られました。娘が二人あります。姉は、槇九郎兵衛の女房で、妹は、石井茂左衛門に娵取りさせ、50石を下され、小少将殿の跡とされたのです。

 

118  槇玄清は、内匠様、八介様の御袋の縁の者で、御切米を下されました。

 

119  高木宿の土器作りの御朱印の事。太閤様が名護屋に御在陣の時、御母堂が御病気で御上りになり、それからまた下向の時、佐賀上道を御通りになられました。川上川の下、名護屋渡しというのは、その時の御渡し筋をそう言うのです。

 

その時、見物していた者の話で、太閤は小男で、眼が大きく、朱をさした様に、顔の色、手足までが赤く、華やかな衣装で足半を履かれ、朱鞘金ののし付きの大小を差し、刀の鞘にも足半を1足を結び付け、馬上で旅行し、御供中に、駕籠に乗っている人は一人もありませんでした。

 

この時、慶誾様の御考えで、「その所々から戸板を出し、竹4本を立てて、戸板を据え、飯を固く握り、土器に盛り並べ、尼寺通り筋の道端に出して置く事。」と仰せ付けられました。太閤様が御通り懸けに御覧になり、「これは龍造寺の後家の働きだろう。食物のない道筋で上下が難儀している時、気が付かれての事、有難い。」と仰せられ、手に取られて、「武辺の家は女までこうして心が働く。この硬い握りを見ろ。」と御褒めになられました。その土器が御目に付かれ、「最上の物。」と仰せられて、名護屋まで土器作りを召し寄せられ、御印を下され、今も、持ち伝えているそうです。

 

御朱印の写し

 

土器の手際は比類なく、九州名護屋に於いて、司たるべき者なり。

 天正20年極月26日 御朱印

          土器師 家永彦三郎

 

この彦三郎は、元の名を壱岐守と言います。後に、柳川に移住。これが本家なので、この御朱印が伝来して来ています。彦三郎の弟の長右衛門は、元の名を右京と言います。その子孫は、今も、高木村にあります。この写しを、今、所持する者です。両家は共に、代々、彦三郎、長右衛門、と言います。

 

120  江戸御屋敷の事。麻布御屋敷、元は二つの屋敷でした。桜田は、勝茂公が御縄張りされ、仰せ請けられたとの由。三島町(増上寺所化寮の辺り)。中屋敷(御成橋の内側)。打越(烏の森の辺り)。

 

元禄10年、桜田御屋敷が、甲府様の御殿屋敷に召し上げられ、代地に、新堀端の水谷左京の屋敷を拝領、元禄12年、溜池端の水野松之丞の屋敷を拝領し、新堀端は差し上げられました。寶永3年2月2日、桜田御屋敷を返し下されて、麻布の御屋敷を差し上げられました。

 

溜池の御屋敷は、桜田が近く、御勝手がよいので、麻布を差し上げられたくと、お願いになりました。

 

苗木山は、加賀守殿の御屋敷でしたが、御所望されたのです。甲州様は、最前は、麻布にいらっしゃいました。北の方の御屋敷や、高源院様の御茶屋などがありました。後に、麻布の両御屋敷は一つになりました。1万坪余り、の由。

 

121  柳川の一戦の時、小野和泉の手の物頭の立花三太夫を後藤家が打ち取ったとの事。また、三太夫の首を、牛島監物が打ち取った由。また、一説に、三太夫は二人での相討ちだったとも言います。三太夫の紋所は二ツ銀杏との事。

 

122  (助右衛門殿の話)主水殿の陣幕の紋は、瓜と立花杏葉との由。瓜は太閤様からの御手ずからの拝領で、その後、家の紋に附けられたとの由。

 

一説に、この事は詳しくは分かりません。主水が出仕の頃は、瓜の季節ではないと。多賀主水が拝領の瓜を紋所にしたという事もあります。この事と紛れたのかと。

 

安藝殿の陣幕にも、家の紋と立花杏葉を附けられている由。

 

123  (武藤氏の話)今山夜討ちの時、新圧の勝楽寺に直茂公がお入りになられた時、伊東兵部小輔が寺内の林で、旗竿を切り曲げ作り、紙旗を附けて御供されました。その後、御旗竿は勝楽寺の林から出す様になったとの事。

 

124  御代々の加判御家老衆

 

勝茂公御代 鍋島安藝 鍋島玄蕃(千葉宗碩) 中野數馬(平右衛門) 久納市左衛門

 

光茂公御代 鍋島彌平左衛門(一雲) 相良求馬 生野織部 太田弾右衛門

                  中野數馬(利明) 原田吉左衛門

 

綱茂公御代 鍋島志摩 成富九郎兵衛

 

吉茂公御代 鍋島若狭(主税 座階だけ御家老の座に仰せ付けられ、他方に連判などはなし。) 鍋島帯刀

        大木兵部(初めは八右衛門、後に、牧太、入道の後、道貫。) 鍋島市正(一學)

 

125  御代々の御年寄役

 

勝茂公御代 久納市右衛門 勝屋勘右衛門 關将監 中野内匠

        鍋島式部(出雲監物) 中野數馬(平右衛門) 中野杢之助

 

忠直公御側 成富五郎兵衛 鍋島右近(姉川です)

 

光茂公御代 馬渡市之丞 副島五左衛門 中野數馬(平右衛門) 小川舎人

        鍋島彌平左衛門(一雲) 大木前兵部 岡部宮内 相良求馬

        生野織部 山﨑蔵人 木下五兵衛 小川舎人

        中野将監 馬場勝右衛門 土肥進士之允 副島五佐衛門

        中野善太夫 江副彦次郎

 

綱茂公御代 岩村内蔵之助 鍋島内記 中野數馬(利明) 生野織部

        石井修理 深堀新左衛門 原田吉右衛門 鹿江伊左衛門

        鍋島正兵衛 武藤主馬 丹羽蔵人 副島五太夫

        大木八右衛門 本告七郎兵衛 中野數馬(是水) 石井傳右衛門

 

吉茂公御代 副島五太夫 大木八右衛門 深江六左衛門 生野織部

        石田平左衛門 石井修理 小川舎人 下村八兵衛

        諸岡彦右衛門 池田彌市左衛門 中野數馬(休夢) 江副忠兵衛

        安達藤左衛門 竹田文右衛門 牟田権左衛門 下村安右衛門

 

126  御家老衆の家中、御目見え座位(正徳年中)

 

主水 彌平左衛門 志摩(深堀) 若狭(姉川) 帯刀(太田)

 

127  御代々の召し抱えられた衆の事

 

勝茂公御代 朝倉久左衛門 松崎彦右衛門 松崎六郎右衛門 秋山覺左衛門

     遠藤惣兵衛 龜田六右衛門 宮崎利兵衛 村松伊兵衛

     大塚治部右衛門(元は岡崎) 以上は、御前様附き、並びに、跡追の人です。

     山村孫太夫 竹田権右衛門(御料理人 中野杢佐の聟で、大坂籠城後に西門跡の扶助料理人)

     室節次左衛門 岡部宮内 太田與右衛門(御料理人) 生嶋作庵

     丹波喜左衛門(信玄の士、後に、學校扶助に召し抱えられた。隠居名は養元) 薮内常知 小原幽閑

     原次郎兵衛 安田道順 藤本宗眞 近藤安右衛門(母は高源院様の女中)

     玉井次左衛門(後名は我孫子助之進)

 

光茂公御代 堀田玄春(勝茂公の御代か) 堀田源左衛門(玄春の跡を下された) 南部宗壽 林順庵

     松永宗雲(勝茂公の御代か) 矢嶋玄智(勝茂公の御代か) 太田長悦 中川雲庵(勝茂公の御代か)

     石川宗與 太田良庵 長束瑞竹 杉本道碩

     坂部又右衛門 近藤伴右衛門 池田治左衛門 鈴木角太夫

     羽室権右衛門 大野喜内 井内小左衛門(御料理人) 多賀又左衛門(御料理人)

     恩田次郎兵衛 中林武左衛門 下村忠兵衛(馬のり) 下村忠左衛門(馬のり)

     林次郎左衛門(御料理人) 片岡四郎兵衛(御料理人) 福所 田中(御料理人)

 

綱茂公御代 佐々木瑞庵 佐竹瑞雪 朝日宗圓 平本権之進

     長森傳次郎 野崎五郎左衛門 湯原清右衛門 柏木武左衛門

     中林新兵衛 坂部七郎左衛門 坂部團右衛門 伊津野新平

     小原閑悦 田中小兵衛 高木作兵衛(正徳4年に長崎町年寄高島四郎兵衛の養子を許された)

     岡井政之進(儒者) 溝口主馬(土屋相模守殿の御頼み) 岡野井玄考(天文者) 川村若元(畫かき)

 

     能役者共、この人たちは御隙を下されました。

     この外、江戸、京、大坂に、御扶持を下された者については、別に記す。

 

128  安藝殿の追腹人(正保2年乙酉2月11日)

 

 

     田代三郎左衛門 深堀権兵衛 田代幸右衛門 重松彌惣右衛門(組)

     赤司内蔵之丞 野口杢之丞(組) 西條九郎右衛門 田中與右衛門

     松永徳右衛門 皆良田重右衛門 深堀助右衛門 石田佐馬之丞

     北島九郎右衛門 石丸宗左衛門 田代大九郎 江口孫右衛門

     山田忠右衛門 大島善右衛門 以上18人

 

この内、重松、野口は、組の者なので、勝茂様は差し赦されず、重訴されるので、御赦しで、9月24日に追腹。

 

田代幸右衛門の供 山田新右衛門 荒木保喜左衛門 古賀右衛門之丞

             犬塚久右衛門

 

全てで、22人。

 

129  蒲原善左衛門の子供の事。妹のお霜(綱茂公の御守り)、子は、権太夫、次右衛門です。(次右衛門は勝茂公の御茶道をされていたそうです。)

 

130  鍋島周防守殿の屋敷は、本庄の浄元寺だった事。

 

131  (下村氏の話)鍋島舎人殿の屋敷は、二の丸南の塀の内だった事。

 

132  鍋島舎人の弟の諸岡相左衛門は、後に、鍋島孫左衛門と言いました。大坂に籠城し、落城の時、御国に帰られました。子の傳右衛門の代に、重科で切腹を仰せ付けられました。傳右衛門は鍋島の名字でした。この時から、「本家々々、以外は御名字を附けない様に。」と仰せ付けられ、別名字になりました。

 

勝茂公の御代に、御懸硯方の諸岡長左衛門と北島五左衛門は奸謀をし、差し違えしました。傳右衛門も同類です。傳右衛門の子兄弟は、湛然和尚の弟子で、種福寺、玉林寺の先住です。

 

133  鍋島雅樂助正儀は和泉守忠茂の三男で、その末が善兵衛です。

 

134  西目一向宗の科銀の事。関が原の後に、西門跡に御礼の為、御領中の一向宗を西門跡派に仰せ付けられた時、それはできないと言った者が西目に数人あり、御申し付けに背くという事で、死罪に仰せ付ける由を仰せ出だされたので、やっと、從う事になりました。

 

この時、勝茂公は御立腹で、殺すはずなのでしたが、助けられ、科の代銀を毎年差し出す様にと仰せ付けられました。この銀は、願正寺が取り立て、西門跡の炭料として、毎年、差し上げられているそうです。

 

135  柳川七騎の事。七左衛門、牛島監物、相浦三兵衛、秀島四郎右衛門(源兵衛の親)、田代猪之助、田代大右衛門で、一人不足。

 

丸堀の橋板が外されていたのを、勢いに乗じ、乗り越えて戦うところに、城中から大勢が打って出て、味方が引き加減になった時、ただ、この7人が一足も引かず、踏み止まり、戦いました。茂里の軍略では、敵を橋の此方側に、偽り引き出し、取り掛かり、川に落とそうと思い、七左衛門にもそのように言い含めて置いたのが、逸り過ぎ、川を越えたのだとの事。

 

136  (助右衛門殿の話)牛嶋監物に御褒美の事(安藝殿の書付けにあり)。

太刀、鑓、白猪空穂、知行50石、小與55人(内、弓25挺、鉄砲30挺)、

 

九州記には、

立花三太夫の事 今泉軍助(武雄の士)の鉄砲下で、末藤四右衛門(軍助の従者)が首を取る

  信国の刀、甲添えて

薦野九左衛門の事 牛島新右衛門(茂里の従士)が討つ

内田久助の事 杉町勝蔵(茂里の従士)が討つ

 

137  鍋島平五郎(この時は左衛門太夫と言っていた由)の兄弟が人質に差し上らせ置いたところ、太閤様が薩摩入りの時に、先陣を仰せ付けられ、差し返された時の書状の写し。

 

その境の者共、忠節を致すべきの由を申して、人質を差し出し、為に、一礼の使者の上着を御覧なされ、この節、島津一類、為に、何の詫び言か申し上げ候えども、討ち果たされ、九州の平均を仰せ付けらる可く候に付き、各々忠勤次第に恩賞宛行われれる可く候、粉骨が肝要の由をよく申すべくと也

 

10月7日

(天正14年か。御年譜には、御朱印を遣わさるとあり。)

 

宛て所なし。

 

小早川左衛門佐

安国寺

黒田勘解由

 

138  倉町勘左衛門の乱心切腹の事。勘左衛門が江戸詰めで居たところ、綱茂公から御急用の御使いを仰せ付けられ、向っていた時に、熱田宮に差し掛かったところで、時に遅れ、その外回りの道で乱心と成り、馬から飛び下り、御文箱に火を附け、自害しようとするのを、その所の者が押し留めて、御文箱の火を消し、閉じ込め置きして、江戸と御国に、尾州の役人から告げ知らせて来たので、中野前又兵衛が御国から遣わされました。

 

勘右衛門を牢輿に入れて、役人が出会い、又兵衛にその顔を見せて、そして、牢輿に向い、「勘左衛門殿。」と呼び、それに答えたところで、「聞かれましたか。」と言い、引き渡し、大坂まで連れて行き、仰せ付けの通り、その地で切腹させました。介錯は、河原與右衛門との由。勘左衛門が自害を押し止められた時、たちまちに、本気に戻ったそうです。

 

(勘左衛門は田原次左衛門の次男の由。また、勘左衛門の母が死去し、火葬の折の事、乱心の様子を、與左衛門に物語されたそうです。)

 

139  村上源左衛門の乱心自害の事。綱茂公の御代に、源左衛門が江戸への御使者を仰せ付けられ、道中を急ぎ通り越し、三島で乱心して、馬から飛び下り、喉に刀を立てるのを、宿の者が取り止め、江戸屋敷に知らせられて、御留守居の者を遣わし、源左衛門は牢輿で御国に差し下し、御用の物は江戸に取り寄せられました。御国に着き、浪人を仰せ付けられました。

 

源左衛門の、後の話では、「三島を通った時に、向こうから来た馬方が、夕越えはできないと言うのを聞き、それでは、決められた日の江戸到着はできず、無念の事と思い詰め、自害しようとしました。取り止められ、たちまちに、本気に戻った」との由です。数日の疲れで、心が一杯で、そうなったとの由です。

 

140  (脱空老の話)意安の御事、5歳の時、主水殿に御養子され、淡路殿が出生の後、小城屋形殿(千葉殿です)の養子とされ、それが不愛となり、取り返されて、14歳で彌平左衛門殿の家督を仰せ付けられました。主水殿が亡くなられた後に、意安は、道圓、並びに、勝右衛門の3人で、淡路殿を守り立てるようにと、直茂公が仰せ付けられ、一つになり、その心遣りで居られました。有馬の陣の時で、一雲が14歳から15歳でいた頃との由。

 

141  (左仲の話)おひがしの事。安住殿が建立された天神の社がありましたが、勝茂公が東田代に御移しになり、その跡に御茶屋を御建てになったのを、お東といいます。天神は今の安住天神です。お東で、十八丁踊、その燈籠などを御覧になられたとの事。

 

142  弁財公事訴訟の時、百姓共が詰めかけた事。境目の御見分の上使の御下向で、久保山が公役に当たり、100人のところに300人もやって来ました。それが、山中に多人数が見えて、十左衛門殿からお尋ねがあり、百姓共が言ったのは、「大事の時の公役なので、余計に出て来ました」由を言うので、「耕作もあるので、それはだめなので、相当分だけ出る様に。」と申し付けられました。

 

けれども、人数は減らず、野も山も人ばかりになり、またまた、お尋ねになられたところ、「明後日に当たった人夫共が今日から出て来ました。この時に、公役と聞きながら、内に居る事はできません。」と言ったそうです。

 

143  綱茂公御卒去の時の芸者共の評判の事。御抱えの芸者共数人が御国元に下り来て居ました。御卒去の時に評判したのは、「鍋島家は古い家で、手厚いと兼がね聞いて、来ていたのですが、これまで、他と変わる事はなく、ただ窮屈な田舎とばかり思っていましたが、今度の不慮の事で思い当たりました。若殿は在府で、当の主人が大役を受けていて、急に死去の時、どちらかでも、家中が浮足立ち、騒がしくなる事は、所々を廻り、よく見て来ました。ところが、御国中、鳴りを沈め、御親類を初め、御家中が残らず御寺に詰め、ただ落涙されるのみです。そして、また、江戸、長崎への人数の配り、国中の万事の仕組みが、少しも滞りなくています。これは、誰がいつの間に、捌くのかと。こういう事なので、厚き御家なのだ。」と言われたそうです。

 

144  牛島天神は、牛島氏が筑後から当国に引き越された時、天満宮を奉じて、勧請されたとの事です。牛島清右衛門の屋敷は、その頃からの屋敷です。昔は館屋敷と言いました。

 

145  (種福寺の話)城原伊勢福寺は、今、城跡があり、伊勢の福寺明神が居られます。

 

146  高傳寺の事。本庄村に高傳庵、高楊庵と言って、水上派のわずかの庵跡があります。清久公が本庄村を御領知の後、高傳庵を御帰依寺にされ、直茂公の御取り立てで、清房公を開基になされました。開山は、箱川の妙雲寺の住持、玲岩和尚です。本寺は、長州の瑠璃光寺に定められました。

 

147  御城での歳暮年始の御祈祷の事。12月13日、大般若を執行、正月11日、御鎧祝前に、年始の御祈祷の大般若を高傳寺が勤められました。玄玻和尚が勤められた例により、ござを一枚敷き、古机を置き、土器に香を焚き、土瓶に樒を立てて、鳥目100文の御布施でした。

 

天國和尚が現住の時、勝茂公から、「今は国守になったので、壇を飾り、御布施も改めたく。」と仰せられましたが、天國は承知せず、「こうした古風のあるのが、古い御家の証なのです。少しでも改める事はよくない」との事を言われました。「それでは、御布施だけでも、改めたい。」と仰せられましたが、承知なされないのを、色々と仰せられ、銀少しづつとなりました。今も変わらないでいます。

 

天國は、勝茂公が御帰依なされ、その両親に御面談なされるとの由を仰せられましたが、「百姓なので、御断り致します。」と言われたのを、頻りに仰せ下されるので、御寺参の時に、門前に両親が出て来て、天國の指示で、蓑笠に農具を持ちながら御目見えされたところ、親しくお話されたそうです。

 

148  (小川氏が話したと、横尾氏から聞きました。)藤八郎様の御座所の事。桜田御屋敷の南長屋の西の方です。そこで自害されました。護摩堂の地で、というのは誤りです。

 

149  富士形御道具の事。勝茂公が御部屋住の頃から、御持ちになられたのだそうです。一説に、肥前様に公方様からの御拝領で、葵崩しと言い伝えているというのは、確かではありません。有馬の陣の前年の、その図を、鑓屋忠兵衛が所持しているのです。

 

150  道中で、自分駕籠を乗った者があり、御目付が浪人の事。勝茂公の最後の御参府の御道中で、御駕の立たれたところから、その跡を御覧になると、駕籠に乗る者が数人見えました。予めのお赦しなくて道中駕籠に乗る事は禁止されていたので、目付共の言上がないのは、不届きとの事で、川浪先権兵衛、石井古十助は浪人、御年寄の中野杢佑は御叱りでした。翌年、御死去前に、杢佑は差し赦され、御供されました。

 

権兵衛、十助は、光茂公の御代に召し直されました。長門殿が御成りの時、十助、山﨑十左衛門が、長門殿に悪口をした事があり、両人とも、浪人を仰せ付けられました。その後、帰参して、孫の十助、孫の十郎兵衛が両人共、偽判しての先納銀の一味で、追放となり、十郎兵衛は、その後、追剥をして、牢屋で死罪とされ、一門中にその受取り手がなかったそうです。

 

151  小川前舎人の嫡子の佐兵衛が早世の時、若党が一人、寺に駆け入り、自害しました。

 

152  勝屋孫太夫が浪人の事。孫太夫は、綱茂公の御部屋住みの時、御近習頭を勤めて居ましたが、宮部佐助が御仕送銀の事で、やって来て、孫太夫の小屋で夜話をしていた時、何か上の事を批判して、その末に、出入りとなり、両人共に浪人を仰せ付けられました。

 

孫太夫は西目に引き籠り、二度と人前に出ず、厳しく蟄居して、その姿を見る人も居ませんでした。近所の永壽寺に了為和尚が越して来られた時、使いを出して、「浪人以後、全く、人前に出ずに居るので、御目に懸かることも致しません。それなりの御用がある時には、仰せ聞かせください」との由を言い、最後まで、面談もされなかったそうです。田代前九兵衛は、綱茂公の御台所役での不注意で、閉門を仰せ付けられ、3年の間、茶の間の敷居を越えなかったそうです。

 

153  多久長門殿(天叟)が死去の時、古賀彌太右衛門が、報いることが出来ない程の日頃の懇意でと、追腹をなされました。

 

154  直茂公が、下村生運に話されたのは、「段々年を取り、世話する事が思う様にならずで、誰かに任せてしまいたい。」と仰せられるので、「高楊庵の住持が御縁であり、出来る人なので、還俗させ、御頼みになられたらよい」との由を申し上げました。「承知しないだろう」との由を仰せられるので、「御使いは、自分が勤めます。」と、数十度も通い、説き伏せました。「髪を立てるのはお赦し下さい。」ということで、正三で御奉公され、姉川の知行を下されました。

 

155  (新圧でお聞きしました)びれいの先祖は、梅崎作兵衛と言います。馬医をしていたかと。政家様の御判のある馬医の書に、作兵衛も判をされたのが、今も、持ち伝えてられています。直茂様の御代に召し立てられ、よい仕事をされたのか、知行を新庄村に拝領させられ、「芸が何かないか。」とのお尋ねで、「その頃の上手の者に能を習っております。」と申し上げると、御城の御祝いなどに召し出されました。光茂様の御代に、田地を御加増下されたそうです。当時、宗八郎左衛門組で、御留守居組に入っていました。

 

156  利叟様が本庄社に、年越しで籠られた時、尼が一人、参籠して来ていました。御尋ねになると、「一生、行脚しております。在所も父母も分かりません。」由を言うので、召し連れて、元朝の祝振舞をなされました。可哀想に思い、5日間、御介抱されていると、何でも心懸けて働くので、御約束し、夫婦になられました。

 

程なく、男子が御出生で、後に清房公と言いました。清房公が御3歳の時、母堂が暇乞いして、御立ちになるので、追い掛けましたが、追付かれず、筑後川を越え、高良山の方へ行かれ、行方は分からなくなりました。御前妻は、松月妙榮(英とも)言いました。

 

157  (馬渡氏の話)赤司党は、元来、筑後衆です。隆信様の御味方をされて以後、境目の用心に召し置かれたのだそうです。

 

158  (馬渡氏の話)直茂公から、與賀、本庄、大堂の3社に常灯を上げられました。(慶長15年の事です。)御隠居料は、月堂様が御継ぎなされたので、今も、小城から、常灯料を差し上げられています。

 

勝茂公からは、白山八幡、川上、千栗、櫛田の4社に御上げなされています。

 

159  御一門の外、御名字を差し赦された人数

 

千葉(鍋島玄蕃) 千手(鍋島六之允入道喜運。同五郎左衛門) 後藤

須古(鍋島伯耆守 代々) 山代 姉川(鍋島正三 代々)

澁川 深堀(鍋島安藝守 代々) 伊萬里(鍋島六左衛門 代々)

太田(鍋島式部、鍋島帯刀) 納富(鍋島市佑 代々、鍋島正兵衛) 蒲原(鍋島大膳)

堤(鍋島采女) 朝倉(鍋島傳左衛門、但し、齊は高源院様の御拾子) 松崎(鍋島彦右衛門、初めは、おらん采女)

武雄(鍋島民部、同伊織) 多久(鍋島圖書、引取以後) 倉町(鍋島式部)

小田(鍋島左馬之助、同彌次右衛門)、嬉野(鍋島織部)

 

160  (馬渡氏の話)御国の古来の受領は、寺井神通院にあった由。

 

161  (馬渡氏の話)御領分減の事は、政家公の高良山への遅参のせいと肥陽軍記にあります。一説に、御礼金がなくて、筑後を召し上げられたとも言います。馬渡氏からの返書では、島津、大友、龍造寺が九州の3大家なので、秀吉公が削られたとの由です。

 

162  御家の根元の佐々木氏の事、馬渡新七の書付の事。

 

一、紹龍様からですが、先年、常住寺という出家を以て、御先祖の道壽様は、御俗名を佐々木長岡三郎兵衛と言われたとの由です。ご自分が御若年の時分、泰盛院様が御話されていたのを聞き覚えて居られたました。「もしかして、その様な書付などはないか。」と仰せ下されました。田手村の石塔院の古い書付の中に、一枚の系図があるのを見付け、持っていたのを差し上げられたところ、その書は召し上げられました。その写しは今も所持しているのです。

 

一、小城の岩藏寺の如法經の過去帳に、永徳4年4月16日、鍋島崇元とあります。御仮名、御実名はありません。

 

一、野田家の書付には、道壽様は洛陽の北野の御素性とあります。

 

一、良本様は、中頃には、左近将監經房。道壽様は、中頃の御実名は茂久。この両方は、世の中に確かには伝えられていません。泰盛院様の御代の、御先祖様、並びに、御一門改めの御控えに見えている事です。

 

一、松月妙英様は、御父は、野田大隅守清忠です。正妙様の御姪子になります。

 

163  興国院様の御靈屋の後に、塔が2つあります。御局日置殿(馬場十兵衛の伯母)、御乳人(伊藤権之助の母)。

 

(光茂公の仰せ出だしで、後年、その帰依寺、帰依寺から、御靈屋の後に移したのだそうです。)

 

164  直茂公が。多布施の御隠居所を御取り立ての時に、今宮殿の社があるのを移すべきかを御伺いしたところ、「在世の時は心安くしていたが、今は、神と崇めていて、凡夫の居宅を一緒では憚りがある。けれども、籤を引いて、それに任せればよい。」と仰せ付けなので、籤を引くと、「移さない様に。」とあり、そのままにされました。とはいえ、なを、御憚りなされて、道は、外から行き通る様に建てられました。今宮殿は倉町殿(左衛門太夫か)を崇める社です。

 

165  高麗陣中で、澤邊源左衛門、村上源太夫、幟大将です。源左衛門は、幟の立て位置が悪いとの由。生三が下知の時の返答の事で、口達あり、です。源左衛門の末は平左衛門(実は中野又兵衛の子)は、切腹、断絶です。

 

166  福地孫之允の介錯で、小城の蒲池は仕損じて、浪人の由です。

 

167  (横尾氏の話)大津の肥前屋の九左衛門が御扶持願いに出て来たので、その由緒を尋ねられたところ、若輩で、古来の事は知らず、書付などもなく、そのして来た事で、御本陣とばかり心得ていたといいます。

 

泰盛院様が御本陣に召しなされた頃、「唐破風作りにする様に。」と仰せ付けられ、その後、町屋に唐破風は禁止になった時、この由緒を申し上げ、大津の宿の中で、ただ1軒の唐破風なのでした。修繕をする時には、御代官様に御届をされました。その際に、作り替えるという事は赦されず、元の唐破風を持ちだし、御目に懸け、修理の事を申し上げました。そういう事で、泰盛院様の仰せ付けられた唐破風を、今も所持する由を言われています。(正徳5年、桑名惣太夫に、10人扶持、九左衛門に3人扶持を下されました。)

 

168  鍋島の御紋の事。元来、四ツ目結の由。直茂公が御隠居以後、慶長8年に家康公から召させられて御上りの時の御召船の御幕には、最初の、四ツ目結を御附けなされました。これにより、御隠居方の小城の御召船、並びに、御陣具などには、四ツ目結を御用いになられています。

 

勝茂公が江戸に御在府中に、松平若狭守殿が御料理に御出での時、御尋ねなされたのは、「御手前様は御先祖は佐々木でいらっしゃるとの由、内々にお聞きしました。それならば、御紋は四ツ目結のはずです。今の御紋はどういう謂れの事でしょうか。御切り取りの物という様にも聞いています」との由で、勝茂公は御答に、「いかにも、その通りです。佐々木の相続の紋は四ツ目結です。」と御挨拶されたそうです。

 

一、寄懸目結は、少貳殿の先祖の武藤検杖頼氏が、昔、八幡太郎義家朝臣が奥州征伐の時、禁裏から検杖(御目付です)のため副えられv、奥州に行き、合戦して、一番に大城戸を打ち破る戦功があり、義家朝臣がそれを賞して、その当の城戸の形から子孫永々の家の紋にするようにとの由を仰せられ、それ以来、武藤少貳の紋なのだそうです。

 

これは、少貳の系図の傳です。

 

一、目結というのは、その形は、四ツ目も寄懸も同じで、紛らわしいものです。その中で、よせかけというのは、木戸がまちの事なので、目結の中に縄結の形が少しあります。

寄懸目結          四ツ目結      総領は竪に

少貳殿の紋                佐々木殿の紋           二男三男は筋違い

 

一、佐々木の正統嫡傳の系図は、近江國の浪人が正嫡という事で所持し、金泥の巻と言ったそうです。浪人ながら、今も、禁裏から諸大夫に任ぜられているのだそうです。朽木殿、京極殿などは、庶流だそうです。

 

一、御番所の幕の紋が剣菱の事。天正13年、政家公の御代、御城を築地し、大堀を御構えで、その後、慶長6、7年から総曲輪を増やされ、御家も段々出来て、同13年から、40間掘を御掘らせ、同14年に天守が完成、同16年に総てが出来上がりの上、黒田甲斐守長政(如水の御子)が御見舞があり、それは前もっては知らされず、俄かの事で、御門幕が出来上がりが間に合わなくていたので、その当時の執権の鍋島生三老が、取り合えず、自分の剣菱の幕を置かれました。その後、幕を替えられた時も、そのまま、剣菱を付けられたのだそうです。

 

生三老は、姉川殿の遺地を御相続されたので、剣菱の紋を使われたのかと。姉川氏は、元来、菊池の別れで、本紋は鷹の羽です。征西将軍の宮から菊の御紋を下され、その略紋が、形が似ているので、剣菱なのです。執行の新助種直の内方は、中務少輔の息女で、諸道具に、皆、菊の紋を付けられたそうです。

 

一、杏葉御紋は、元龜元年に直茂公が今山で、大友の夜討ちに御勝利された吉例の御紋なのです。

 

私注:大友八郎の下陣の幕は、薬研の子です。成松刑部少輔の紋所にしていたそうです。

 

この一々は、馬渡新七の書付にある事です。

 

169  佐嘉郡の内の小津郷というのは、水ケ江辺りから、今の御城地に掛けてで、土地80丁の所です。その中に、龍造寺があるので、龍造寺村と言います。そこは、今の御城の西北に当たり、寺の旧跡は、当時の鍋島能登殿の屋敷の東北、楠などがある辺りの左右だという事です。龍造寺の八幡宮は、寺の西脇に勧請されています。龍造寺村は、今は「佐嘉」と言っています。小津郷の事は、古い郷村帳などにはあるものかと。

 

これは、馬渡新七の書付の写しです。

私注:龍造寺村の地は、今は、龍造寺の供日の地のはず。

 

170  勝茂公の御裃は褐布小紋(上方ではかちんと言う)、粘り加減は御好みがあります。芝田道甫に仰せ付けられました。

光茂公は、栗梅無地を召させられました。摂州、加州、 備州、帯刀殿も、同じ御裃を召されていて、江戸では、その染色を、鍋島柿と言います。綱茂公は、浅黄唐松の小紋を召させられました。

 

この御代々の染色小紋の手本、粘り加減の書付は、芝田五左衛門が所持されて居ます。

 

171  勝茂公が御参勤の時は、御供に家老は御遠慮で、召し連れられなかったそうです。了關様の御物語という事で聞いています。

 

172  江上家種は、文禄2年2月2日、朝鮮で卒去。知行の2700町、並びに、家中残らず、その以前から、伊平太様が御相続で、家種の隠居分の物成1200石を、この時に、実子両人に御分け遣わされました。800石は江上孫太郎(後名は佐野右京亮)、400石は、同左近之允(後名は勝山大膳)。右京は、知行の三部地など、段々に上がりになり、今の分だけになりました。(馬渡書付。)

 

173  勝茂様と高源院様の御腹の萬千代様御出生。鍋島安藝守預かりで御養育のところ、3歳で御死去。龍雲寺に納められました。御法名は幻花童子。慶長19年甲寅3月14日、御早世。忠直様は慶長18年御出生。

 

174  御紋所で、御本主は茗荷の丸、御部屋住御一門衆は花茗荷のわかり、という事。凡そ、家の紋は、諸家でも、総領筋と庶子筋の違いがあります。龍造寺の御紋なども、御本主は1十六日足、その外は十二日足、八日足を附けられました。

 

茗荷の丸御紋も、御本主は茗荷の本体です。その外は、茗荷を二つに割った形で、中に、花の様な所があるのだということです。(馬渡氏の話です。)

 

175  高麗の御陣中に、ちゃわんという所で、直茂公の御手勢で、鉄砲の玉が切れました。堤雅樂が、その辺りの在家を見回ると、唐かねの大はんどうがあるのを、無理に買い取り、切割って、鉄砲の玉にしました。切り玉の初めです。本人の話です。(但し、戦功書出には、堺織部、切り玉をして、その時の御用に立てた由があります。馬渡氏の覚え違いなのかもと。)

 

176  弁財公事訴訟の時、山内の者共は襟に小さな切縫いを附けて居ました。晋周に深堀新左衛門が聞いたところ、「その謂れがあります。先祖の鍋島六左衛門が80石を下されて、山内に住居の時に、太鼓門の番をしました。その頃、直茂公は、何となく、番帳を御覧になり、『ある人(-何某)はいくつで、これは、その子だろう。』と仰せられ、会話しながら御覧になられました。番をしている六左衛門の所を御覧になり、召し出され、『その方は、自分の死後に、信濃に意見する事ができるか。』と申されるので、『御申し付けであれば、御意見を申し上げられます。』と承知された時、『よく言った。それならば言おう。山内の者共は、勝利の家来なのだが、その方を遣わし置いて、帰服するという事で、從った来た者共だ。信濃守が狩などで行った時、山内の者共に酒を飲ませる時、後々には、勝手に飲ませて下さいと言う者も出て来るはず。その時は、その方が心遣いして、信濃の前で飲ませる様にしてくれ。凡そ、俸禄は勝軍の時には役に立つ。負軍になった時は、一言の情を掛けた者でなくては役に立たない。』と申されました。

 

数年後、勝茂様が山内で雉狩をなされ、日暮れに御帰りで、御洗足されていたところに、誰かが出て来て、『当所の者に御酒拝領は、こちらの勝手でさせて頂きたいのです。御前では恐れ多くて、快く下されるという事になりません。緩々と、勝手に飲ませて頂きたいのです。』と申し上げるので、『そうしたらよい。』と仰せられました。六左衛門がこれを聞き、御前に出られて、『御酒拝領は、御前で下されます様に。』と申し上げました。その時、樽に残っていた水を御被りになられ、御裃を召させられ、六左衛門を床脇に置き、平伏されて、『今、自分は誤りをした。御赦し下さい。』と仰せられ、『六左衛門の言った事は、日峯様の御考えなのだ。さてもさても有難い御事。』と仰せられたそうです。御父子様から、折々に、御裃、御小袖など下された者共の末々の者は、それを少しづつ裁ち裂き、御守りにして置いていますが、この時、皆が、それを襟に縫い付け出て来たのです。」と話をされました。

 

この事は、先年、鍋島庄兵衛と大木八右衛門に、新左衛門が話したところ、庄兵衛が言うには、「綱茂様の御家督の時、山内の者共の御目見えがあり、御酒拝領は勝手でしますかと原田吉右衛門が伺われたところ、それは僉議するまでもない事だ。大事の御口伝にある。自分の前で酒を飲ませる様に。」と申されたそうです。

 

177  右近刑部は歴々の方でいらっしゃいましたが、御約束で、町人に召しなされて、伊勢屋町で旅人宿をする様に、仰せ付けられました。刑部の死後、清龍院に、刑部の菩提の為、勝茂様から御知行を御附けになりました。

 

拝領の鉈、薙刀、太刀、御書数通を持ち伝えているそうです。また、何かの時には、出て来るようにと、割符を下し置かれました。原城の時、持って出たところ、割符の一方を、月堂様が御持ちで、その御手勢に附かれたそうです。

 

團氏も歴々の方ですが、町人に召しなされたとも言います。江副修理は八幡、宮崎掃部は祗園の社家に召しなされたそうです。この様な事の詳しい事は、小城の御文庫には知られているのだそうです。日峯様の御書付は、すべて、月堂様の所に行かれたそうです。

 

178  萬部の事。

 

永正2年3月    剛忠様御執行 天亭和尚(導師) 野田石見(奉行)

天文14年11月  剛忠様御執行 水上和尚(導師) 堀江兵部(奉行)

元和3年6月    勝茂様御執行

寛永9年3月    勝茂様御執行 背振山東福院僧正玄純(導師)

萬治9年3月    光茂様御執行

明暦4年5月    御当家一族並びに諸士等

寶永2年6月    綱茂様御執行 本庄神社別当大乗院僧正覺賢(導師)

 

179  善應庵は、佐内様の御部屋を遣わされ、御早世の御子様方の菩提の為に、光茂様が御建立され、寺号を御引きなされたのだそうです。

 

180  「北山筋の寺々に、薪山がないので、御国家の御祈祷をする為に、寺裏の山を少しづつ御附けなされます様に。」と、光茂様に、鍋島内記(晋周)が申し上げられ、「見計らい、附ける様に。」と仰せ出だされ、内記の判形の書付を以って、薪山を、それぞれに附けられたのだそうです。

 

この事は、北山の寺持ちの間では、今に、光茂公の御厚恩に、深く、有難く存知申し上げ、御祈祷を特に丹誠にされています。

 

181  (ここから最後まで、百武氏の書簡の写し)

 

善應庵御建立の覺。

 

一、延寶7年己未12月10日に、寺号引地を仰せ付けられ、圓通院様の御部屋を客殿として建てられました。

  元禄2年己巳9月16日に、圓通院様の御開基所に御せ付けられ、寺領切米12石を御寄附、御印を差し出されました。尤も、切米12石の内、蔵米で10石6升9合、残りは、寺内の御免地に引き当てられました。

 

一、元禄2年9月26日に、御本丸の御持仏堂を善應庵に御移しで、御早世御子様方の御位牌を御立てなされました。御持仏堂は、圓明院様の御部屋でした。

 

一、天和壬戌7月13日から、御早世の御子様方の御追善の為に、法華一万部を、17年で成就する事と仰せ付けられ、元禄11年戊寅7月23日に結願になりました。また、御塔も建てられました。

 

182  寛永18年、青山御屋敷を御受取り、この年から、両御屋敷になりました。

 

183  慶安3年3月、江戸西丸の御普請で、いろいろと献上物がありました。勝茂公から金箔10万枚。

   慶安3年9月20日、家綱公の御移徒の御祝儀で登城、献上物あり。勝茂公から、御廣蓋2つ(梨子地御繪金具)、御手水継2つ、御手拭掛2つ、御手水盥2つ。

 

184  明暦3年、大村のきりしたんを、当方に御預けで、受取の為、大木兵部、永山十兵衛が出向き、12月朔日に諫早で会い、80人を受け取りました。今泉村に、新たに牢屋を建てられ、入れ置きました。心遣い人は、兵部、中野數馬、中野又兵衛に仰せ付けられました。

 

翌年、7月27日、牢屋で生害し、長崎から検使が遣わされました。首は高尾で獄門に掛けました。心遣い人は、中野嘉右衛門(後名は又兵衛)、永山十兵衛、大目付は、大木兵部、中野數馬が仰せ付けられました。切り手は、御徒歩の中から御選びで、一人が三つずつ切りました。最後の三つは、三谷千左衛門が、功労者なので仰せ付けられ、無類の手際を見せました。その外は、武富三之丞、三浦治部右衛門、野副三郎兵衛、野副八太夫、鈴木安太夫、久米惣之丞、水町六之丞、その外には知りません。死体は船で肥後海に送り、御沈めになりました。

 

185  寛文3年3月8日、長崎の下筑後町の樋口惣右衛門が乱心し、自家に火を附け、巳の時から出火し、9日の巳の時までに焼失し、近隣から米穀を送られて、こちらからも、米3804俵を送られました。

 

この火事で、牢屋が焼失し、罪人が御預けになり、邪宗門の女31人は大村預かり、同男40人は島原預かり、同男61人はこちらのお預かりで、出島に召し置き、番人の足軽数十人、侍3人が向かい行きました。さらに、牢屋の御普請大工、人足、竹木など、仰せ付けられた通りに差し出されました。同4月に出来上がり、囚人の入牢を仰せ付けられました。

 

186  近代の4家からの証人は、諫早十右衛門、須古は市兵衛(大膳)、多久は民部、武雄は十兵衛。

 

187  (副島氏の話)薩摩御和談の時、人質としては、最初、小林播磨守、二番は、土肥出雲守弟平左衛門、三番は、副島長門守。その何れも、5、6カ月で差し返され、天正14年6月半ばに、向こうから、納富但馬守を質に差し出される様にという事で、秀島進士左衛門が主従84人で行き向かわれ、薩州の化導院という在所で、蓑田信濃守が300騎で、警固きびしくされて居られて、難儀されたそうです。(これは、秀島家書出にあります。)

 

進士左衛門は、但馬守の弟で1000石です。薩摩に遣わされた時、政家様から日足の御紋、御腰物を下されて、そのまま、薩摩に召し置かれることになるので、その時は自害する様にとの事で仰せ付けられました。

 

その時、但馬守から五郎川善左衛門を付けて遣わされました。そうしたところ、秀吉公が御発向と聞こえて来て、今ここで御帰りがなければ、その後は手下になってしまうと、五郎川が勧めて、伊集院幸□に書状を残し置き、戻り帰られました。

 

途中で、政家様の御先陣に行き合われ、御目付け衆が出会われて、様子を聞かれました。御帰陣の後、五郎川に御褒美として、30石が下され、本地は納富家で40石でした。その後、また、内知行の御取り上げの時に、それは、召し上げられました。そしてまた、勝茂公の御代には、15歳の倅には、親死後の知行は召し上げられ、15歳以上の者も、家督を取らない内に親が亡くなった場合は、本知の中から、少しづつを下されました。

 

新次左衛門の死後に、倅の九郎左衛門に200石を下されたので、有難き幸せと、すぐに御受けになりました。翌日、100石を御加増下されました。九郎左衛門の子の與左衛門は、行いの不良で浪人となり、その後、100石で召し直されたところが、また浪人となりました。生三の一門のある人(-何某)も、九郎左衛門と同日に、親跡式の内の200石を下されましたが、お受けならないので、召し上げられ、今は、姉川の家老でいるそうです。

 

188  御家に元来は、足軽はありませんでした。高麗で、諸家に足軽が居て、働いているので、二男、三男が供をして来ているのを、新たに、足軽に仰せ付けられ、この時から始まったのだと言います。(大坂御陣の時、江戸御普請人夫を急に足軽に召しなされた由。この事に取り紛れたのかとで、これは改めるべき事。)

 

189  關将監殿の跡式の2000石を、左京殿(観性)に仰せ付けられました。そうしたところで、神代辨之助殿が御死去で、左京殿を神代の家督に遣わされました。その時に、關家の2000石も加えられ、合計で6000石になりました。

 

光茂公の御代に、右兵衛様を、2歳の時に、左京殿に養子に遣わされました。左京殿の御実子の左近殿が御出生されたのを、光茂公が御養子にされ、右兵衛様が御家督の時に、關家の2000石を左近殿に遣わされ、神代家は、元の通り、4000石になりました。左近殿は、初めは、岡部の名字でした。後に、鍋島飛騨殿(また、内記とも)と言いました。大物頭を仰せ付けられた時に、400石の御加増になりました。高源院様の御持ちの山を一通り、左京殿に差し上げられましたが、今は、内記殿の御領内になっているそうです。

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*4 嚴有院様 徳川家綱(4代将軍)

*10 横岳 横岳頼継

*14 清光院殿 龍造寺政家の三女

*14 妙安様 龍造寺隆信の養女

*14 陽泰院様 直茂室

*15 鍋島豊前守殿 鍋島信房

*17 恵昭院様 鍋島忠直の室(牟利姫 - 松平忠明の娘)

*18 高源院様 勝茂の後室

*29 柳線院様 光茂室(2代米沢藩主上杉定勝娘の虎姫)

*29 大猷院様 徳川家光

*38 盛徳院殿 鍋島直弘

*41 泉州様 鍋島直朝(紹龍様)

*51 翁助様 鍋島光茂の幼名

*54 寂光院様 鍋島綱茂の室

*54 信濃守殿 鍋島勝茂

*75 主水殿 鍋島茂里

*75 淡路殿 鍋島茂宗

*75 安藝殿 鍋島茂賢

*77 龍公 龍造寺隆信

*80 藤八郎殿 龍造寺高房

*86 和泉守殿(忠茂) 鍋島忠茂(直茂の次男)

*90 肥前様 鍋島忠直

*90 長壽院様 傳高院様」の事

*90 傳高院様 鍋島勝茂の長女(名はお市)

*95 多久圖書殿 多久圖書茂富(山本常朝の名付け親)

*104 美作殿 多久茂辰

*104 紀州様 鍋島元茂

*118 内匠様 鍋島茂長

*118 八介様 光茂の第六庶子

*119 慶誾様 龍造寺胤和の女

*120 甲府様 徳川家宣

*140 意安 鍋島茂貞

*140 一雲 鍋島茂貞の子

*150 長門殿 多久長門殿

*154 正三 鍋島正三

*156 利叟様 鍋島清久

*158 月堂様 鍋島元茂

*162 道壽様 鍋島経直

*162 泰盛院様 鍋島勝茂

*162 良本様 鍋島經房

*162 正妙様 鍋島經房の室

*163 興国院様 鍋島忠直

*171 了關様 鍋島直之

*176 晋周 鍋島種世

*179 佐内様(圓通院様) 光茂の五男

*180 圓明院様 光茂の四女

注記 17:知識地 →仏法の教えの関わりの深い所

注記 17:12カ寺 →佐賀の12カ寺

注記 33:代わり飯 →飯代わりの食事

注記 37:加番 →城番を加勢して城の警備に任じたもの

注記 50:歌仙 →歌仙絵

注記 50:四郎の旗 →天草四郎の旗

注記 76:吉刻附け →吉凶の占い

注記 98:徳善院 →肥前佐賀藩藩祖・鍋島直茂の祖父清久の祖父・長岡恒直が開基の寺

注記 110:御直人 →直接、主君の側近に親しく仕えている家臣

注記 119:足半 →芯緒を利用して鼻緒を前で結んだ小さな形のわら草履

注記 136:白猪空穂 →白猪の矢入れ

注記 149:富士形御道具 →「御道具」槍をいう武家のことば

注記 168:薬研の子 →薬研の挽き道具

注記 172:上がり →上に召し上げられる事

訳注 60:つれづれ草のあずまおとこ →(参考)『徒然草』141段 ..吾妻人は、...げには、心の色なく、情おくれ、..

 岩波文庫「葉隠」中巻

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