更新日:

2021.5.10(月)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠              

   葉隠 聞書第七      ●60         聞書第八                         

■聞書第七

 この巻は、武勇、奉公の事、御国の諸侍の褒貶について、記す。

 

1  成富兵庫が言われたのは、「勝ちというのは、味方に勝つことです。味方に勝つというのは、我に勝つ事です。我に勝つというのは、気を以て、体に勝つ事です。普段から、味方の数万の士で、自分に続く者はない位に自分の心身を作り上げて置かなければ、敵に勝つ事はできないのです。」と。

 

2  成富兵庫が、高麗で船軍の事。高麗で船軍の時、明朝の合図の太鼓を聞いて、一斉に乗り取る旨の下知で、夜中に船は繋留しました。兵庫は、船碇を入れながら、終夜、水主に艪を漕がせ、合図の太鼓の打ち出しと同時に、碇綱を伐り、それで、真っ先、一番に、敵船に飛び付き、高名されたのだそうです。

 

3  田雑清左衛門の追腹の事。田雑大隅は、子の五郎右衛門を中野式部の婿にと約束が出来て、式部は兄の娘を養い、五郎左衛門に遣わしました。その子は清左衛門と言いますが、浪人となりました。中野内匠は甥のした事なので、知行所に行き、25石を呉れて、助けました。

 

そうした所、内匠が死去し、清左衛門は、一生の厚恩に忍び難くという事で、追腹をされました。清左衛門の子は與助と言い、中野數馬の被官となりました。その孫は主膳様に召し出されました。

 

田雑は由緒ある者なので、名跡を田雑助佐衛門に仰せ付けられました。大隅の女房方の者共です。助左衛門の子の甚左衛門、その外、田雑の別れは多くあり、田雑、田澤、田藏と、取り取りに書くとあります。

 

4  執行の越前殿が討死の事。島原で、具足は陣屋に飾り置き、袴羽織で働き、そのなりで討死との事。

 

5  田崎外記の物具の事。原の城で、外記は、光り渡る物具を着ていて、勝茂公は御気に入らず、その後、目立つ物をご覧になると、「外記の具足の様だ。」と、いつも申されたそうです。

 

この話は、武具、衣装が目立つ様にしているのは、手薄く見え、強みがなく、人に見透かされるものとの事です。

 

6  興国院様の御供の江副金兵衛は、御骨を持ち、高野に納め、庵を結び、御影を刻み、御前に自分は畏まり居て、自影も作り置き、御一周忌かに下り来て、追腹されました。その御影は、その後、高野から来て、高傳寺にあります。

 

7  大石小助の事。光茂公の御代、小助は、初めは御歩行で、御側に勤めました。御参勤の御往来の御道中で、御本陣で、御寝間の周りを外から見回り、不用心な所と思う辺りに莚を敷き、ただ一人で夜明かしして居ました。雨の時は、笠、合羽を着て、雨に打たれて居ました。最後まで、一夜も、それを怠る事はなかったそうです。

 

8  大石小助が、御内頭人の時、夜中に、御内の女中部屋の辺りに、紛れ者が忍び入り、捕えるという事で、上へ下へと、男女、上下が、走り回った時に、小助が見えないので、老女などが、あちこちを探したところ、御打ち物の鞘を外し、御次の間に座り、黙ってそこに居ました。御身辺に人がいないので、心もとなく思い、守り居たのです。気の付け所が違っていましたとの由。この忍び入った者は、成富吉兵衛です。濱田市左衛門の一類で、密通事で、御仕置を仰せ付けられました。

 

9  大石小助が、龍造寺の八幡宮に光茂公が御社参の時に御供し、土足で、白州に居たのですが、拝殿にお通りなされる時、社人等が、御礼を差し上げようとして、我先に争い、数人が一度に、はっと立ち上がるのを、小助が白州から見て、すぐに駆け上がり、公の御前に立ち塞がり、「皆皆、引き退がり、1人ずつ御礼を差し上げられる様に。」と言い聞かせたそうです。

 

10  副島善之丞の事。勝茂公が西目で御狩りの時、何かに御立腹され、御腰物を鞘のまま抜き、善之丞を鞘打ちなされたのですが、外してしまい、御腰物を谷に落とされました。善之丞は、それに取り付いて、谷に転び落ち、御腰物を取り拾いました。そうして、御腰物を襟に差し、岸を這い上り、そのまま、差し上げられました。気の働き、心遣い等、無双の仕方です。

 

11  石隈の子の五郎左衛門の事。申の年の江戸の大火事で、光茂公、綱茂公が麻布の御屋敷に居られたところ、御屋敷に日が懸かり、急に、焼け塞がり、御出でになる道がなくなり、御馬に召しなされ居られたのを、御側や外様の者が、大力を出して、塀を切り倒し、そこから出て、御立ち退きになられました。五郎左衛門は、御馬の脇に立ち、御鐙に手を懸け、始終、何の働きもしませんでした。火が鎮まってから、誰もが御感を頂いた中で、第一は石隈で、有馬で名を挙げた者の子だけあって、その志は、特に浅からず感心だとの事で、御褒美されました。気の付け所が特別だとの由です。

 

この事は、江副彦次郎が、その時の事を、よく覚えているという事で、話をされたのだそうです。

 

12  佐野右京殿の大力の事。ある時、右京殿が高尾を通られた時に、橋を懸け直していて、大橋の杭が1本、どうしても抜けないでいました。右京殿が、下りて行かれ、抜いてみようと、しっかりと抱きかかえ、えい声を出して、抜き上げられると、厳しく音がして、身の丈程抜けましたが、上がらず、そのままで沈みました。帰宅した後、病気が出て、亡くなられました。

 

城原の寺へ葬礼で、高尾の橋を通った時に、棺から死骸が飛び出し、江に落ち入りました。種副寺の僧の中の16歳の小僧が、続いて飛び込み、骸に取り付きました。人々が駆け入り、取り上げました。師の僧が感じるものがあり、引導をその小僧にさせると申されました。後には、名高い出家になったそうです。

 

13  島内新左衛門の事。勝茂公への御礼日に、御目見えを仰せ付けられて、新左衛門だけが、礼をせず、数人いる中で、姿勢を伸ばして居ました。終わって、御入りなされる時、「新左衛門、めでたい。」と、御言葉を懸けられると、礼をして、立ちました。いつも、その様にしました。時代の風です。

 

14  山本吉左衛門は、親の神右衛門が指図で、5歳で犬を切らせ、15歳で、御仕置者を切らせました。昔の衆は、14、5歳より前に、有無を言わせず、首を切らせました。

 

勝茂公が御若輩の時、直茂公の御指図で、御切り習いをなされました。その中には、続け切りで10人という事もなされたそうです。昔は、上の方でさえも、この様にされたのに、今時は、以下以下の、下の者の子供にも、一向に、切らせないのは、油断千万です。しないで済む事で、縛り者を切っても手柄にもならず、科になる、穢れる、などと言うのは、そう言ってみるだけという事です。結局は、武勇の事が疎かなので、爪磨き、綺麗になる事だけを心掛けるからだと思われます。

 

嫌がる人の心の内を考えてみると、気味が悪いので、利口にしなして、切らない様に言い立てるものと思われます。しなくてはならない事なので、直茂様は御指図されたのです。先年、嘉瀬で、切ってみたのですが、殊の外の心持になるものです。気味悪く思うのは、臆病のきざしなのです。

 

15  友田正左衛門の切腹の事。光茂公の御供立てに、前髪の御小姓の中から、正左衛門を召し連れられました。浮気者で、芝居役者の多門正左衛門という立役者に恋慕して、紋所も、替名も、正左衛門と改めました。野郎狂いで、衣類、諸道具まで注ぎ込み、その挙句、手立てがなくなり、馬渡六兵衛の刀を盗み、槍持に持たせ、質に入れました。

 

この事を、鑓持が申し出ました。御調べの上、正左衛門、並びに、鑓持は死罪に仰せ付けられました。御調べ役は、山本五郎左衛門でした。その披露の時、声高に、「主人の事を訴人したのは、槍持の何がしです。」と申し上げました。すぐに、「打ち殺せ。」と申されました。そして、正左衛門に仰せ渡しの時、五郎左衛門も来て、「最早、後の事は何もなく、捨てたのです。死に場を嗜む様に。」と言うと、「さてさて、忝い御一言です。分かっております。」と、落ち着いて居ましたが、誰が知恵を付けたのか、介錯人を誰と言い、騙して、御歩行の直塚六右衛門が脇から切る仕組みなのでした。

 

そして、死に場に来て、直ると、介錯人は向こうに居るところへ、如何にも落ち着いた会釈をされたところで、脇で刀を抜くのを見て、「そなたは誰だ。その方に首は切らせぬ。」と言って、立ち上がり、それからは、心が乱れ、散々に未練の行いをするのを、取り伏せ、引っ張りして、切り落としたとのこと。「騙さなければ、見事に死ぬ事もあったはずのに。」と、五郎左衛門が、秘かに話された由。

 

16  介錯の仕様で、野田喜左衛門が話した事。死に場で、正気を失くし、這い廻る者を、介錯の時に、多分、仕損じる事もあるものです。そういう時は、まず、自分は控えて、何事にもあれ、力む様にさせて、少し、真っ直ぐになったところで、逃さずに切れば、し済ますものと聞いた、との事です。

 

17  (徳永助右衛門殿の話)大木権左衛門の事。山城殿のところに、正月11日に、権左衛門が来られた時、具足をして、馬上で、竹刀を持ち、家中衆を相手に、御試合の途中でした。「権左衛門、できないか。」と言われるので、「では、一鑓致します。」と言って、竹刀を掴み取り、山城殿を、馬から、逆さまに突き落としました。漸くに起き直られて、「もう一鑓。」というのを、左京殿が御立ちになり、「自分が致します。権左衛門、突いて見ろ。」と、馬上から仕掛けたのでしたが、それをも、またまた突き落とし、「正月初めに、馬上武者の首二つを取った、気持ちよし、気持ちよし。」と言って帰られたそうです。

 

その時代の風で、赦されるだけの事です。

 

18  牛島久次兵衛の事。寒水で旅芝居があった時、久次兵衛が編み笠を被り、見物人の中を通っていたところ、け躓いて、うつ伏せに倒れました。久次兵衛の草履が垣竹に懸かり、跳ねて、側に居た見物人の頭の上に落ちました。久次兵衛は起き上がり、「さてさて、粗相な事をしました。ただ、自分もそうしようとした事ではなくて、衣装も汚して、酷い事でした。御免、御免。」と言って、草履を取った時、その見物人は、3,4人と一緒だった様ですが、「刀など差して、そなたは人の頭に草履を乗せ懸け、御免、御免で済むのか。」と、咎め立てました。

 

九次兵衛は、立ち戻り、笠を脱ぎ捨て、「さてさての理不尽者だ。我知らずにした事でも、自分の草履なので断りをしたのに、聞かないで、咎め立てするのか。ここは人中。外に出ろ。片っ端からなで斬りにしてやる。」と言いました。その時、相手は、旗色が悪く見えました。九次兵衛は、また、次に言ったのは、「早く納得してくれ。そうでなければ、そなたの首はなく、自分の首もない。黙って狂言を見てくれ。」と言い、笠を被り、通り行きました。この始終、ゆるみがなく、実に、胆の据わった、ほきれ者と思われました。

 

19  (内田氏の話)牛島久次兵衛が殿中でのした事。御本丸の御式台で、御番衆が碁を打っていました。九次兵衛が脇から見物してた時、松浦嘉左衛門(洞雲の子、実は甥との由)が九次兵衛の顔を見ると、渋面を作っているのでした。碁で心が一杯でいたところで、たまり兼ねて、抜き打ちにして、有田権之丞が、側で、取り押さえました。その時、九次兵衛は、少し、退いて、「おぬしは、御城でなければ。」と、一言、残しました。

 

その一言を、その頃には、感心して、「久次兵衛ほどある。」と、言いました。松浦は切腹、権之丞は、御腰物を御拝領でした。九次兵衛は、筋の気煩いで、時々、目や口の引っ張りがありました。それを、渋面を作ると見誤ったものです。

 

20  (助右衛門殿の話)主水殿の御養子の事。直茂公が御男子がなくて、御養子されようと思われ、太郎五郎殿が12、3歳の頃に御呼びになり、召し置かれ、様子を御覧になられていました。

 

ある時、筑後舞を召し寄せ、御一門衆が寄合い、舞をご覧になられました。羅生門をして、綱が鬼の手を切り、後で、取り返された所を舞いました。一段が終わり、皆が感心し、褒めました。直茂公の後ろに、太郎五郎殿が居るのを振り返り見て、「どう思う。」と仰せられると、「方々の感心された所は、私は、どうも思いませんでした。ただ、我々が出来ない事がありました。それは感心しました。」と申されるので、「それは何か、言え。」と仰せられると、「鬼の手を切る事も、札立てに行く事も、自分には出来ない事には思いません。今でも、行く事ができます。鬼にまで親孝行の者と思われる事、また、あと一夜になった物忌みで、母分の人が恨み、頼むからと言って、門を開けて入れる様な愚かな事をするのは、自分には出来ません。」と申されました。直茂公は、御振り返り見られて、「こしゃくな奴だ。」とお叱りなされました。その後、はっきりと、御養子に御決定されたのだそうです。

 

21  志波喜左衛門(前は福山)が御小姓の時の事。勝茂公の御代には、御家中の者が、大身小身によらず、幼少の頃から御側に召し使われました。喜左衛門が勤めていた頃、ある時、御爪をお切りになり、「これを捨てろ。」と仰せられると、手に載せて、立たないで居たので、「何だ。」と仰せられると、「一つたりません。」と申し上げました。「ここにある。」と、御隠しになり持っておられたのを、御渡しになられた由。

 

22  中野數馬が御小姓の頃、西目で御鷹野の時、鶴取りは、飼われた御秘蔵の御鷹なので、御脇差で鶴を刺されました。數馬もそこに居合わせる鶴を押さえて居ましたが、指に脇差が当たり、血が流れましたが、何も言わず、「そこを、ここを、御附きなされて下さい。」と申し上げたそうです。後日に、「あいつは大胆な子だ。」と申されたそうです。

 

また、ある時、御腰を叩かせて、やがて寝入られたので、そっと引き下がり、御納戸に、糸と針が御用と言って、受け取り、針を曲げ、御泉水に投げ入れ、魚を釣っていると、大きな鮒が掛かり、跳ねて、針から外れ、御座の内に跳ね込み、公の御顔に当たり、御目が覚め、ご覧になると、鮒が跳び回っていました。「さては、あいつの仕業。」と思われ、お呼びになりましたが、御庭に隠れていたのでした。「どこに居るのか。」とお探しになられ、隠れる所もなくて、縁の下から顔を出し、ワンと言って、逃げられたのでした。

 

若輩の頃から、この通りの人物で、20歳の頃は、粗忽で、手荒くして居たのだそうです。御仕置者などがある時は、来て、頸や胴などを乞い求めて、宿元に持たせ帰り、庭に据え、ためし首は木の枝に懸け、弓、鑓で、ためしをされたのだそうです。

 

23  金丸郡右衛門の籠居御免の時に、申し伝えられた事。鍋島靭負殿が数年病気で、御奉公も儘ならないので、息子の左門殿が、ぜひに、御用に立たせられる様にと、その内方が思い立たれ、御側の衆にも頼みして、若輩ではあったのですが、江戸の御供を仰せ付けられ、親しく召し使われました。

 

そうしたところ、寶永3年、綱茂公が長崎に行かれた御留守に、石井傳右衛門(年寄役)を、左門殿が、その部屋に招き、御袋も同席したそうです。この事が御耳に聞こえ、その座の様子が、猥らに聞こえるとの由で、傳右衛門は浪人を仰せ付けられ、靭負殿は隠居、左門殿に、その知行を半分、下されました。内方の事は靭負殿に任せられる旨の事でした。

 

この靭負殿への仰せ出だしの一通りの中で、金丸郡右衛門が、以前から、内通があったという事が聞こえ、寄親の彌平左衛門に御預け、番人を付けて、御調べが数度あったのですが、もとから無実の事なので、追々と申し開きされました。その間に、綱茂公の御重病で、大赦がなされ、郡右衛門も差し赦されて、御城に出て来て、年寄衆に申し伝えたのは、「私は、もともと、科は少しもない所に、無実の難に会い、御調べに出向き、一々、申し開きをして、一つも、落度はないのです。それを、今度、大赦という事で、大盗人の多久蔵などと同然に差し赦されるというのでは、有難いとも思いません。しかしながら、殿様の御病気の事は、籠居にいて、それを聞き、御機嫌伺いも出来なかったのは、一層、無念に思って居りましたところ、今日、出て来て、御容態を伺い、本望の至りと思って居ります。」と申し伝えたそうです。

 

郡右衛門の直の話です。この話の始終は、いろいろ口達ありです。郡右衛門の科のない事、この一言で晴れたのでした。

 

24  天和2年11月11日、澤藤平左衛門は切腹と、仰せ付けられました。10日の夜に内意があり、それで、介錯は山本権之丞に頼むとの由を言って来ました。返書の写し。(権之丞が24歳の時です。)

 

御覚悟乍ら、考えて居りました。介錯を御頼みの由、その御気持ちを受け取りました。一旦は、御断りをも申すべき事ですが、明日の事で、今この時に、何かと言う場でもなく思いますので、それでは、御請合い致します。人の多い中で、私に仰せ聞かせられる事、自分として、本望に思います。この上は、万端、御心安んじて居られて下さい。夜中ですが、この後、御宅に伺い出て、御面談で委細はお話申すべく思います。以上。

 11月10日

 

この返書を平左衛門が見て、「無双の紙面なり。」と言われたそうです。昔から、侍の頼まれて喜ばしくないのは、介錯に極まる事と申し伝えられます。その訳は、首尾よく仕遂げても高名にならず、仕損じる事でもあれば、一代の怪我になります。この返書は、常朝が控えておられました。

 

25  大野千兵衛の追腹の事。千兵衛の兄の何がしと、蓮池鍛治(一説には、他国の砥ぎ師とも)何がしと、衆道の恨みで、双方が言い合いをしていたのを、一門の仲間達が、色々と取り成したが収まらず、訴えになりました。

 

その頃、勝茂公は御在府で留守の事で、甲州様がお裁きをなされました。この事を聞かれて、「相手と向かい合いで、討ち果たしの事。一人も助太刀はしない事。もし、見て、手助けする者があれば、御仕置にする。」と仰せ出だされ、高尾縄手に垣を結い巡ぐらし、その中で、討ち果たしの事となりました。その日になり、見物人は、踵を接して、ぎっしりと集まりました。鍛冶は先に入り、大野は後に入り、「さても待ち遠しかったか、暇乞いに時間が掛かかった。いざ。」と言い、抜き合わせ、切っ先から火を出して、切り結びました。人が固唾を飲んで見ている所に、大野が高股を打ち落とされ、ばったりと倒れたと見えた時、何者かが、垣を破って飛び込み、「逃さぬ。」と言葉を掛け、鍛冶を、ただ一刀で切り伏せました。大野の弟の千兵衛です。大野も即死でした。

 

この事が言上なされた時、「固く、仰せ出だされた助太刀は、不届き者だ。御仕置なされるべき事。」と、御僉議の時、勝茂公が御下国で、その一々を聞かれて、「千兵衛は曲者だ。よくやった。目に前に兄を切られ、自分の命が惜しいと言って、見て帰る事ができるものか。」とされて、御助けなされました。

 

そして、甲州様には、粗相の御裁きで、旅人の往還する所で討ち果たしをさせられたのは、以ての外の事と、きびしく、お叱りでした。この千兵衛は、その後、御鷹師にまで仰せ付けられ、御一代中、大事に召し使われました。この御恩で、追腹をなされました。この事は、千々岩長右衛門の実母の明圓尼が覚えて居られました。この千兵衛の子の千兵衛は、長右衛門の姉聟です。

 

この事を、後年、大木道貫の話で聞いたところでは、少し違いがあります。道貫の話では、親の兵部が幼い頃で、召使いの肩に乗り、試合を見たとの事で、話されたのだそうです。

 

高尾縄手ふたつぎの北の方に矢来を結い、かまえぐちから見ると、橋の真東に当たるそうです。それで、大野は早く来て居り、見物人が大勢来ていたのですが、相手が来なくて、晩方になり、もう、相手が来ないものと言い、見物人が、段々に帰りだした頃に、「今、来た。」と言って、また、立ち帰りました。

 

相手は、ただ一人で、刀を一本差して、編み笠を被り、矢来の内に入り、笠を脱ぎ捨て、左の手を出し、「立たしゃれい。」と言葉を懸けました。その時、大野は、諸肌脱ぎで居て、横から出て来ました。刀を抜き、振りかぶり打つ時、相手が抜き合わせ、高く受け、引き外し、大野の肩から背に掛けて切りました。

 

それを、二太刀しましたが、少しも切れず、皮ばかりを切ったように見えました。その時、弟の千兵衛が走り懸かり、相手を、大袈裟で、一太刀に切り伏せました。この事が御耳に聞こえ、大野は切腹、千兵衛は御免になされ、後に、御鷹師に召しなされました。

 

相手は、他国の砥ぎ師なのだそうです。刀を持っていなくて、遅くなったのだと、後での話です。その刀を、後日に兵部が手に入れ、ためしをしたところ、なまくらだったそうです。もともとが、衆道の恨みでの事の由。千兵衛は追腹でした。

 

26  (横尾氏の話)ある人(-何某)が京都で刀の鎺(はばき)をはずされた事。御供立てとして、ある人(-何某)が上り、当春の御借銀の御用があり、江戸から京都に行き向かわれました。ある夕方、町人の所に行き、帰る時に刀を取ると、抜けかかっていました。すぐ気が付いて、素知らぬ体で暇乞いして帰りました。それから、鎺(はばき)をみると、突き回した様な跡がありました。

 

この事を、心安い衆に、江戸でお話され、どうにかされたという事もなく、それが、御家に恥を掻かせたと悔しく思うのは、焼付鎺(はばき)だったので、突き回しのままで、そのままだった事です。自分の足りなさで、恥掻きでした。

 

こうした時は、金鎺をはずさせてこそ御外聞を取るもの、と言われたそうです。

 

27  田中彌兵衛が下人を切った事。彌兵衛が江戸勤務の時、中間の不届きを厳しく叱りました。その夜半、階段を上がる音を彌兵衛が聞き付け、不審に思い、そっと起きて、脇差を引き構えて、様子を伺っていると、先の中間が脇差を抜き、やって来てました。飛び掛かり、一刀で、抜き打ちにしたそうです。

 

28  高木金左衛門が江戸で、男立を切った事。夜中に三谷の土手の中程で、男だてらしき者が、金左衛門を附けて来ました。すぐに気が付いて、人通りの絶え間を見計らい、一刀で切り捨てて、通ったそうです。

 

29  徳久殿が殿中で刃傷の事。徳久何がしは、人とは変わった生れつきで、見た目、少し、頭の弱い風でした。ある時、客人をして、鰌(どじょう)なますを出されました。そのころ、人は、「徳久殿の鰌なます」と言って、笑っていました。出仕の時、誰かが、その事を言い出し、からかったのを、抜き打ちで打ち捨てました。

 

この事が御僉議となり、「殿中で、粗忽の仕方で、切腹を仰せ付けられるべき」との事になり、申し上げられました。直茂公は、聞かれて、「人にからかわれて、黙っているのでは、すくたれで、使いものにならない。殿中だからと言って、その場を逃す事はない。人をからかうのは、たわけ者だ切られ損。」と、仰せ出だされたそうです。

 

30  神代勝利から小刀を貰った川副小左衛門の切腹の事。隆信公からの御使いという事で、直茂公が、千布の住吉宮で、勝利と会われました。その時、社務の方から熟れた瓜が出たので、御小姓の川副小左衛門に、「作ってくれ。」と仰せられました。そこで、手を洗い、作ろうとして、小刀がありませんでした。勝利が小刀を出されて、作られました。作り終わったとき、「その小刀は、そなたに差し上げる。」と言われるので、おし頂き、下がりました。

 

直茂公がお帰りになり、隆信公に御用の向きを仰せ上げられ、翌日、小左衛門を、直茂公がお呼びで、「小柄を打ち砕いて見てくれ。」と仰せられました。小左衛門は、意味が分からないでいるのを、重ねて、言葉付きも荒く、重ねて仰せられるので、打ち砕いてみると、上は赤銅ですが、下は金でした。「こんな事かと思った。若い時から育てて来て、不憫な事だが、行き懸かりでの事、腹を切らねばならない。」と仰せられたので、すぐに、切腹なされたそうです。

 

31  中野杢之助が隅田川で、男立を切った事。杢之助が小舟に乗り、涼みに出た時に、男立てが乗り込み、いろいろと不作法な事をして、船端で手を洗ったところを見澄まし、首を打ち落としました。

 

首は川に落ちました。人の見附けない様に、手早く、体には物を被せました。そうして、船頭に言ったのは、「この事は話をしない様に。隅田川の上の方に漕ぎ寄せ、死骸を埋めてくれ。金子を沢山やるから。」と言うので、その通りにしました。潟に埋めたところで、船頭の首を切り落とし、そのまま帰り、世上では、何の話もありませんでした。

 

この時、杢之助は、船に、陰間若衆を一人乗せていました。男立てを切った時、杢之助が言ったのは、「そなたも男だ。若い時に切り習うのがよい。」と言われて、死骸を一刀、切りました。それで、後での口外はならなくなったのだそうです。

 

32  千住善右衛門の討ち果たしの事。綱茂公が江戸にあり、御式台、御使、御供などの勤めの人の内、西二右衛門、深江六左衛門、納富九郎左衛門、石井源左衛門などは、若手の切れ者で、その内、二右衛門は、馬芸の名人と言われていました。普段から衣装鏡を立て、木馬で姿形を調え、小袖や袴の仕立て方まで好みがあり、江戸中に隠れなく、馬乗袴は、二右衛門から始まりました。その頃、男立て、という事がありました。二右衛門は、屋敷男立ての内に入ります。幾人ともなく、辻斬りもしました。

 

二右衛門、六左衛門は、大身で、身分のよい者でしたが、部屋住みなので、従者5、6人で勤められていて、善右衛門は、馬上で来られて、初めての上りで、無案内を笑われでもしたのか、討ち果たす事に思い定めたのだとも言われ、2月朔日、御目見えの後、「この4人の衆に、今夜、話があるので、自分の小屋に来られる様に。」と、善右衛門が約束をされました。

 

その宿意は、誰も思い当たる事はなく、二右衛門、六左衛門、九郎左衛門、源左衛門は、行こうという事で、申し合わせました。そして、善右衛門は、馳走などを申し付けて、二階で書置きを書いている所に、馬渡忠兵衛が、思いがけず、やって来ました。「来客があるようです。誰ですか。」と名を聞き、「では、ここに居て、話でもしよう。」と言うので、「そうして下さい。こちらは、書く物があるので。」と、片隅で書き終えました。その為に、書置きは、訳の分からない物になっていたとの由です。その後に、御目付けの石井傳兵衛もやって来たのですが、善右衛門はいろいろ言って、帰したのだそうです。これは、主水殿に心安くしていたので、傳兵衛の難を逃す計らいだったのだと、後に噂との由。(この点は、主水殿の家の話です。)

 

それで、二右衛門、六左衛門、九郎左衛門は来て、源左衛門は、差支えがあり、来ませんでした。夜通しの馳走で、夜明け方になり、誰もが、「帰ります。」と言うのを、善右衛門が言うには、「粥を煮させているので、その間、お待ち下さい。」と言いました。「いや、粥は要らないです。」と、六左衛門、九郎左衛門は、立ち上がりました。

 

二右衛門も立ち上がったところを、善右衛門は、居直り、「覚えたか。」と、抜き打ちに、首を打ち落としました。忠兵衛が飛び掛かり、善右衛門の脇差を持つ手を、きつく取り押さえた時、「そなたは関係ない。」と突き放すと、忠兵衛の髪の鬢下に傷つき、二階から落ち、気を失いました。そして、それから、直に、九郎左衛門に切り掛かったので、抜き合わせて、火花を散らし、切り合いました。

 

六左衛門は、何とも心得ず、意趣の覚えもなく、どちらも仲間の間柄で、どうするべきかと、まず、脇差を抜き、二人の勝負を見ていました。そこに、善右衛門の下人が両人、抜き身を持ち、階段を上がり、六左衛門の背中を二刀、縦割りに切りつけました。六左衛門は振り返り、上から、たたみ打ちに打ち、下人共は上れず、下に下りました。また、二人の勝負を見ている所に、下人共が下から上がって来るので、また、叩き落とし、何度も追い下したのでした。

 

そうしているところ、九郎左衛門は打倒されました。その時、六左衛門が言葉を掛けて、「善右衛門、こっちはどうする。」と言うと、「その方も逃さぬ。」と切り掛かりました。「心得た。」と、切結び、時を移し、双方が数カ所の手負いをしたところで、九郎左衛門が、切り伏せられながら、善右衛門が跳び回る辺りを、寝ながら、「口惜しい。」と言い、横に払い、善右衛門の高股、ももの上の方を切って落としたので、それで、打ち転びました。六左衛門は乗り懸かり、止めをさそうとしましたが、ふと気が付いて、「自分には意趣の覚えはない。止めをさせば、意趣打ちになる。これは、いきなり切り掛かられて切り捨てたものなのだ。」と思い附きました。

 

さて、まだ、九郎左衛門、善右衛門の息が通っていたので、「誰かに見せておきたい。三人とも切死にして、自分一人生きて居て、後日の証拠がない。それならば、御目付けに申し伝えよう。」と思いましたが、深手を負い、気持が悪くて居たのですが、歯噛みして、大小を差し、さて、階段を下りる時に、きっと、下では、下人共が待ち受けていると思いましたが、逃れられないと覚悟を決め、駈け下りると、下には、一人もいませんでした。

 

これ幸いで、石井傳兵衛の小屋に行き、その次第を言い伝えると、始終を聞いてから、「自分一人が聞くだけでは、見分もできないので、同役にも伝える様に。」と言う。この時は限りなく恨みに思った由です。けれども、それなりに、取り合い、に応じて、既に、倒れそうだったのですが、ただ意地で、福地市郎兵衛の小屋に行くと、老人は笑って、「さてさて、若い衆はそうでなければならずで、自分が行って見届ける。」と、すぐ、一緒に出ました。この時の嬉しさは、いつまでも、忘れられないそうです。

 

そうして、市郎兵衛は高腿をからげ、血のぬかるみを踏み、二人に言葉を掛けましたが、物言いは、埒が明かずでした。書置きを見られましたが、訳が分からないので、「ここまでで。」と、立って、出ると、善右衛門は、間もなく、絶え果てました。九郎左衛門は、傷は直りました。

 

この事を言上に及び、九郎左衛門、六左衛門は何の事もなく済みました。これは、偏に、止めを刺さなかったところで、意趣打ちではない証拠になったからです。六左衛門の、この中での始終の働きは、偏に、運に叶った事なのでした。切り合った時、脇差が、か弱い様に感じ、木刀なら一打ちに打ち倒してくれるとばかり思っていたそうです。九郎左衛門は、傷が平癒の後、御番を、一度、勤め、間もなく、他の病気で亡くなったそうです。

 

そして、二右衛門は、このような事で、親の五太夫は子がなく、小川舎人の弟を養子にして、盃事の際に申し渡したのは、「二右衛門は、その場の太刀を打たずに果てた。武運の尽きた者だった。子々孫々まで、二右衛門の弔いはするな。こうした者の弔いをすれば、冥加尽き、運が尽きる事になる。自分は、今まで、弔いはしていない。この事は、きつく、申し渡して置く。」との事をいわれたそうです。(忠兵衛の帰りがどうなったかは、はっきり分からないのです。武藤善兵衛は、忠兵衛と縁組していましたが、縁を切られたそうです。)

 

33  秀島二右衛門の討ち果たしの事。二右衛門、高木與右衛門は、両人とも、光茂公の御側衆です。3月28日に、與右衛門の宅に、二右衛門が見舞いに来たので、出会うと、「何か、少し御用事での様ですね。」との由を言うので、「今、灸を仕掛けて居ます。」と言うので、「では、帰ります。」と言い、挨拶して帰りました。暫くして、また来たので、出会うと、ただ一打ちで、大袈裟に、切り殺しました。

 

女房は、驚き、走り出て、與右衛門を抱き抱えると、二右衛門は、庭の方に下りました。女房は、声を上げ、「下人共、あれを切り果たせ。與右衛門殿を切り殺したぞ。」と言うので、下人共が駆けつけると、二右衛門は、もう、自害して、死んで居ました。書置きには、「與右衛門と口論して、自分が引けを取ったという評判があるので、討ち果たす。」とあったそうです。何も、そういう評判はなかったのです。乱心と言われました。双方の跡式は潰れました。與右衛門の屋敷は、後家に下されました。原権兵衛の姉です。

 

この屋敷については、話があります。

 

34  鶴五郎右衛門の討ち果たしの事。五郎右衛門が御能役で、夜中に帰り、御城で、刀が見えなくなった由を言い、いろいろ調べ始めた時、福岡安右衛門が、「士が刀を失くすという事があるのか。」と言って、辱めました。刀は、置き所が違っていたのか、または、誰かが置き直したのか、横の方から見附けて、帰りました。

 

五郎右衛門は、この一言を憤り、翌朝、早く、安右衛門の宅に押し掛け、討ち果たしました。子供が、両人出会い、五郎右衛門を打ち取りました。五郎右衛門は部屋住みでした。安右衛門の跡式は潰されました。子供への仰せ渡しに付いては、話があったとの事です。

 

さてまた、安右衛門の姉聟は、屋敷内に居ましたが、「この切り合いの時は、水汲みに行っていて、その場に居らず、事が終わってから来た」由を申し出ました。そういう事で、御構いはありませんでした。この者は、青木八郎兵衛の組の者で、大木佐助組内でした。その様子を佐助が聞き、「これは、必ずや、逃げる為と思われる。早朝の事で、その場に来れないはずはない。組内に腐らかした者を置いては置けない。様子を聞く。」と、密に、その者を呼び、座敷で、直に、糺されました。

 

その者が言うには、「この上は、是非もない。有体に言うと、自分が駆けつけて見ると、子供の両人では、なかなか、手に余る様子なので、棒で、まず、五郎右衛門の刀を打ち折り、叩き伏せ、子供に切らせたのです。その様に言うと、外聞が悪いので、自分は行き合わず、子供だけで仕留めたと申し出た」との由を言い、秘かに褒美を受けられたとも言われました。

 

さてまた、五郎右衛門の下人は、宿元に帰ったという事で、生害を仰せ付けられました。

 

35  永山六郎左衛門が組の者に物語の事。組の者に振舞をして、その時、六郎左衛門が言ったのは、「秋津島という事を知ってるか。」、組の者は、「知りません。」との答え。「日本の事だ。その、日本秋津島は広いと思うか、狭いと思うか。」と尋ねると、誰もが、「広いもの。」との答。「その広いものを、六尺の棒で打つならば、中たるか、外すか。」と尋ねる。皆は、「打ち中てる。」との事。

 

「これで、終わり。よく分かっている。しっかりと、その事を覚えて居る様に。そうならば、今、天下泰平とはいっても、不意とは、今の事かも知れず、もし、今であっても、すは、何かの時には、30人のその方共を召し連れて、真っ先に進んで、命を捨てるのは、六尺棒で、日本秋津島を打ち中てるよりも確かな事だ。この六郎左衛門よりも先には一人もやらない。分かったか。」と言う。皆は、「分かりました。」と勇み進む。「では、飲め。」と、飯器で盛り入れ、飲ませたのだそうです。

 

36  (馬場氏の話)松浦洞雲の有馬の話の事。洞雲が言うには、「若い時、有馬の陣に出ました。今、思うと、防戦の場での手柄は、その時の出方次第の事でした。陣屋での嗜みが大事な事でした。嗜みというのは、少しでも、敵陣の側に座る者は、人は、剛の者と見ました。夜話もありましたが、前の方の陣屋に行くのは、よく見え、後ろの方の陣に行く者は、それで、臆病者と見えたものです。若い衆の心得て置くべき事です。」と話されたそうです。

 

37  牛島新助が雑言を言った事。御礼日に登城の方々が、御式台に集まっていた所に、誰かが、新助に言ったのは、「そなたの屋敷の林は、さてさて、見事な竹です。普請用に欲しいものですが。」と言われたそうです。新助が言うには、「その方の女房の様に、自分の屋敷の竹は商い物ではない。」と言われたそうです。

 

38  牛島新五郎の女房の事。新五郎を、綱茂公が、親しく使われていましたが、その女房の兄の権藤七兵衛が悪所に出掛けた事が顕れて、江戸で、御仕置を仰せ付けられました。綱茂公は、悪事を見ての懲らしめの為と思し召して、一門の端々まで、厳しく、遠慮の事を仰せ付けられました。新五郎も、小舅の悪事で、早速、江戸から差し下され、蟄居する事3年でした。

 

その内に一門の、同じ組の者共から言われたのは、「ぜひ、女房に暇を出してくれ。そうすれば、元々通りに召し使われる事になる。今、4石の身代で、何を永らえていられるのだ。」と、度々意見されたのですが、新五郎は承知せず、「まったく、女房にほだされて、暇を出さないのではないです。自分によいからといって、科もない女房に暇を出すのは、義理が立たない事だからです。餓死の覚悟に決めたので、構わないで下さい。」と言ったそうです。

 

39  鍋島左太夫の嫁の事。左太夫の子の内蔵助の女房は、小川舎人の娘です。舎人が浪人して、それは、綱茂公の思し召しのあるところの由で、綱茂公の世になり、左太夫に、「是非にも、嫁を返されたらよい。」と言う人がありましたが、「科もないのを返すのは、例え、それがどんなに都合が悪くても、なりません。」と言い切って居られました。その嫁が、程なく死去で、石井縫殿の娘を縁組しました。その時も、舎人の近縁の事になったので、まったく、それも無用の事と言う人が多く居ましたが、「何はともあれ、縁柄の事なので、その一類から取らなければならないので。」と言い、またまた、その縁組をされたそうです。

 

40  大木前兵部の勇気を勧めの事。兵部が、組中の参会の時、色々な用事が済んでからの話で、「若い人たちは、随分と心懸けて、勇気を御嗜み、身に付けて下さい。勇気は、心さえ付けば、付くものです。刀を打ち折れば、手で向い、手を切り落とされたら、肩節で揉み倒し、肩が切り離されたら、口で、首の10や15は食い切るのです。」と、何時も、話されたそうです。

 

41  綱吉公の御代替わりの時、一鼎が見立ての事。嚴有院様が御薨去で、綱吉公の御代になるととの事が聞こえて来て、石田一鼎が、梅の山から岡部見理に見舞いに行かれて、「新将軍は、どうなられると御考えですか。」と言うと、「そなたは、どう思われますか。」と言われるので、「館林からは一人も手元で召し使われないのならば、よい公方であるはずです。それより他に、しかるべき考えはありません。それで、善し悪しを見る事にします。」と言われるので、見理が言うには、「自分もその様に見ていますので、聞き合わせようと思い、江戸に尋ねているのですが、まだ返答はありません。」と言われたそうです。

 

42  小山平五左衛門が高麗で、母衣を脱いだ事。高麗の御陣の時中で、高い所から、直茂公が、下をご覧になると、母衣武者共が、皆、母衣を脱ぎ、寛いで居ました。公は、殊の外、御立腹で、「陣中で、物の具を脱事は、不覚悟だ。誰か、行って、母衣を一番初めに脱いだ者を聞いて来る様に。その注意を申し付ける事にする。」と仰せられました。

 

御使いが来て、その事を伝えると、誰もが驚き、「何と申し上げればよいのか。」と言っている時、小山平五左衛門が言うには、「20人の母衣武者共が、目と目を、きっと、見合わせ、一度に、母衣を、はらりと取りました。」と言いました。御使いが、帰って、申し上げると、直茂公は、「にくい者共だ。それは、小山平五左衛門の言った事だな。」と仰せられたそうです。小山は龍造寺右馬太夫殿の子で、武勇の人です。

 

43  福地吉左衛門が鶴料理の時に御返事の事。勝茂公が、御客を御振舞し、鶴の御料理があり、御客人が仰せられたのは、「御亭主様は、白鶴、黒鶴など、食べ分けられると聞いていますが、そうですか。」と言われるので、「確かに、食べ分けます。」と仰せられました。「では、唯今の御料理は、何だと、食べられましたか。」と言われるので、「真鶴です。」と仰せられたので、御客方は、「どう考えても、不審に思われます。御膳方の衆を御出し下さい。聞いてみたいです。」という事で、「福地吉左衛門、来る様に。」と仰せ出だされました。

 

この事を、吉左衛門は、物陰から聞いて居て、御台所に行き、大盃で数杯の盃を続け酒を飲んで居るところに、召させられているという事を、度々、言って来るのに、出て行かず、暫くしてから、御座に出ると、御客方が御尋ねに成られました。吉左衛門は、舌が回らずに、「白黒鶴、いや、まな白鶴、黒鶴。」などと、埒もない事を言うので、公はお叱りになり、「飲んで酔ったそうだな、引き取る様に。」と仰せられたそうです。

 

以前からの、勝茂公のお言葉に、「人は四段ありと思う。急々、急だらり、だらり急、だらりだらり、だ。急々はいないものだ。福地吉左衛門などは、急々に近い者だ。だらり急も少ない。中野數馬共などだ。急だらりは多い。大方は、だらりだらり、ばかりだ。」と仰せられたそうです。

 

44  さる方で笄(こうがい)盗の改めの事。さる方で、振舞いのあった時に、笄を失くした人がいたのですが、そのままにして帰られました。その様子を見ていた人がいて、客人が帰った後に、主人に申し伝えたので、まず、表門、裏門の所々の外口の鎖を下ろし、詰めていた者の上下残らずを召し寄せ、「この身の身上の滅亡は、今夜を限りの事。客人を招いて、その道具を失わせ、明日から、人に顔を合わせる事ができるものか。今、僉議しても、自分が取ったとは言わないはず。この上下の者の中に、取った者がいるのに決まっている。そうであれば、是非もないことながら、片っ端から手打ちにして、明日から、自分は、引き入り、籠る覚悟に決めた。科のない者を数人殺してしまうのは、不憫だ。それでも、そうしなければ、一分が立たない。いずれ死ぬ命ならば、ここで、涼しく言って、人を助ける事は成らないものか。」と、言い聞かせられた時、「私が盗みました。」と申し出があり。それで、下屋敷で生害とも言い、また、手打ちとも言うそうです。これは、ある人の話です。

 

手早い仕方の働きで、今時、珍しい。謙信などの風、とも言うべきかと。

 

45  岩村内蔵助の末期の事。内蔵助は、三極流の軍術を伝え、正三の仏法をも直受されたのだそうです。病気もなく、庭を歩いていたら、気分が悪くなり、座に入り、打ち臥されたので、内方が驚いて、抱き起されたところ、眼をくわぁっと見開き、歯噛みをして、正三風の発起心を見せ、そのまま臨終の由です。正三の弟子で、これほど修練した人はいないでしょう。一大事の所です。

 

内蔵助は、姉川村の庄屋の子です。勝茂公が御鷹野の時、御供の衆が見立てられて、忠直公の御小姓物書に召し出されました。御死去の後、勝茂公から、光茂公に附けられた3人の内の一人です。岩村、百武、生野、です。

 

46  生野織部の教訓の事。常朝師が若い時、御城で寝酒の時、織部殿に言われたのは、「奉公の心入れに付いて言えと、将監殿が言われる、心安くしていたので、話した。自分は何も分からない。しかしながら、何事もうまく行き、召し使われるときは、誰もが、進んで奉公をする。下目な、軽い役になった時、気持ちが腐る事がある。それが悪い。勿体ない事だ。今、よい役に付いている者に、水汲め、飯炊けと仰せの時に、少しも苦にせず、一段と進んでするのがよいのだと、自分は思っている。年が若く、しかも、気の使い過ぎに見えるので、心入れあるべし、です。」と、そう言われたそうです。

 

47  生野織部が、食事の半ばに召させられた時に言った事。御城で、その支度の半ばに、「織部殿、お召しです。」と言うので、そのまま、立って、手水を使われました。舎人が言われたのですが、「その年配にも似合わない事です。まず、その支度を済ませ、それから、御立ち下さい。」と言われるので、「それは、頭のよい人の事です。自分は、お召しと聞いてからは、食物の味がしません。」と言って、出て行かれました。全てに、実義第一の人です。それだから、子孫がよいのだと思われます。

 

48  (下村氏の話)志田吉之助の一期を思い測るの事。吉之助が言ったのは、まず、息の切れる程走る時は、苦しいものです。走り終わり、立っている時は、殊の外、快く、それよりも、腰を下ろして、下に居られれば、また、それもよし、です。それよりも、横になれば、また、よし。それよりも、枕をして、ぐっすり寝れば、また、よし、です。

 

人の一生も、それと同じ事です。若い時、随分と苦労をして、段々と、心安くして行き、老後、死に際には、寝ている様にありたいものです。初めに寝ては、後で、骨の折れるものです。後々まで骨折り、一生、苦労で終わるのも残念です。

 

この事は、下村六郎左衛門の話です。吉之助の話に、「人は低くなる程よい。」という事は、この話に似ています。

 

49  上野利兵衛の下人の事。利兵衛が江戸で雑務目付で居た時、御歩行目付の橋本太右衛門と酒を飲み、性根もなく酔い痴れ、以前から、年の若い手男で、心安く使っている者があり、その手男を連れて、小屋に帰りましたが、その道々で、ねだり言を言うので、小屋の前で、その手男を切ろうとしたところ、手男は、尻をからげて、利兵衛と組み合い、下水に利兵衛が落ち、手男は、上から抑え込んでいました。

 

その時、利兵衛の下人が駆け付け、「上が利兵衛様か、下が利兵衛様か。」と言うと、「下が利兵衛だ。」と言うので、手男を、一刀、切りました。手男は、そのまま。起き上がり、疵は薄手なので、逃げて行きました。

 

この事が、御調べ事になり、利兵衛は、苗木山の牢屋に入れ、後に、縛り首で、生害を仰せ付けられました。利兵衛は、その前に、江戸詰めの時、町方の借り家で、下人が手向かって来たのを打ち捨てました。その仕方がよくていたのに、この度の仕方は言語道断の事です。力抜けるまで酒を飲むのは、気の腐れの始めです。その下人は多久の者です。太右衛門は、調べの半ばで、自害されました。

 

50  神代三左衛門が御意見を申し上げた事。右兵衛様が御年若の時は、物事を手荒くなされました。御側に、御気に入らない者が居て、その者の女房の事を、様々に悪口を扇に御書きになり、他の者に仰せ付けられて、「これを見せて、あの者の様子を聞かせてくれ。」と仰せ付けられました。

 

その者に見せると、誰がしたのかも知らずに、扇を引き裂きました。この事を、その通りに申し上げると、「主人の書いたものを引き裂き、無作法者、切腹。」と仰せ出だされました。その時、三左衛門が出て来て、色々と御意見を申し上げましたが、ついぞ、御納得の様子はありませんでした。三左衛門が申し上げたのは、「この事だけならば、仰せにも從い申し上げますが、御心が直らなければ、この後までも、こうした事が絶えない事と思います。最早、よい頃合いまで生きて来ましたから、唯今に、御手打ちに逢う事にします。永らえて、こうした事ばかり見聞きするのでは、生きている甲斐もないものです。私を御手打ちなされれば、少しは、思し召しが直る事もあるかと思います。平に、御手打ちを。」と、這い寄り、涙を流して申し上げられたので、急に、思いを御止まりなされて、「さてさて、尤も至極の事、汝の志で、この心はもう直った。だから、助ける様に、以後も、死罪は申し付けない。」と申されました。

 

「確かに、その様に思われていますか。」と、御詞を固めて、引き下がられたそうです。この後は、御慈悲心が御出来になったそうです。

 

51  驢鞍橋の五の巻十二丁目ですが、肥前國の多久某という人が、疱瘡の半ばで、島原濱の城に出陣しようとしました。親類共は、「大事の病があるのに、彼方の所に行っても、何の用に立つのか。」と、頻りに、止めました。その者が言うには、「もし、途中で死ぬなら、本望。君の厚恩に預かりながら、どうして、今度の御用に立たないという事があっていいものか。」と言い、出陣しました。

 

冬陣なので、寒気がひどいのでしたが、衣を重ねる事もなく、夜昼共、具足だけの体で、養生という事もせず、まして、不浄を忌むという事もせずに居たのですが、結局、早くに本復して、その陣で忠を尽くされました。しなければならない時は、また、さして、不浄を嫌う事もないのだと言います。

 

師(正三です)が聞いて、言うには、「君の為に一命を捨てる程の清浄な事がありますか。義の為に、づんと捨て切った人ならば、疱瘡の神はもちろん、諸天諸神も、皆、加護を加え給わないではいない。」と、です。

 

この事は、中野又兵衛の事に、よく似ています。その話は、後に出て来ます。

 

52  原田四郎左衛門が、蟒蛇(うわばみ)を斬った事。武雄家中の原田氏が15歳の時、鷹を据え、野原を通って居たところ、蟒蛇が鷹に目を懸けたのか、尾の方を打ち掛け、四郎左衛門の肋の辺りを三巻き、巻きました。鷹は据えたままで、脇差を抜き、振り上げて、頭の方の寄るのを待ち懸けていると、首が近寄って来たところで、宙を打って、落とすと、身に巻き付けていたのも、はらりと落ちました。蛇の長さは3間程もあったそうです。その後、肋が痛むのを、長く養生して居ましたが、今でも、寒中は、痛みが出るそうです。直に、その話を聞いたそうです。武雄氏の話です。

 

また、武雄で猟に出た人が、何か分からないものが、口を開けて、懸かって来たので、猟脇差の1尺2、3寸のものを抜き、飛び掛かり、口の中に突き込むと、肘の辺りまで突き込み、たちまちに、仕留めました。長さが1間半ばかりの蛇でした。面は、獅子狛戌の様で、胴の4尺ばかりは、猫の胴の様でした。鱗は、銭の様で、腮(あご)から腹にかけて、白毛が生え下がり、鼠の足の様な足が8つあり、尾の方に行くほど細くなっていた由です。塩漬けにして、佐賀に持って行ったそうです。その後、その草山は震動して、暫く、そこを通るのは絶えたそうです。

 

また、蛇が追い掛けて来たとき、横に、早く、開けば、真っ直ぐに行き過ぎるものです。身の半分は立って来るものです。立っている所を打てば、折れるものです。首を短く切れば、それが無くなる事があります。随分と下から切れば、2、3間先に行って、止まります。その頭、面で、人を突き、それが、裏表に通るものだそうです。また、ひらくちは、刃物で切り捨てて、頭をなくすと、多分、仇をなすものの由。

 

53  中野内匠の家来の相田吉左衛門が辻切を仕留めた事。夜中、神埼の長者林を通っていたところ、向こうに大の男が立ち、道を通さないので、断りを言うと、「裸になって通るなら、通す。」と言い、両の腕をぎゅっと掴むので、少しも動けませんでした。相田は、きっとなって思い付き、「それでは、裸になる。命ばかりは御助け。」と言うと、赦しました。すぐに、丸裸になり、大小と衣装を渡し、すごすごと立別れる、その時に、後ろから、担いでいる刀の柄に手を懸け、抜き取り、大袈裟に打って落とし、神埼に行き、様子を告げ知らせました。

 

そうしたところに、紀州様が御城に御出でになり、「私は、足を、一方、打ち折りました。」と仰せられました。勝茂公が、様子を尋ねられると、「秘蔵の駕籠舁きで、普通人の6、7人前も働く、大力の者でしたが、中野内匠の家来に切り殺されました。その相手は、すぐに、切腹を仰せ付けられて下さい。」と仰せ上げられたので、早速、切腹を仰せ付けられました。残念な出来事です。死場に、中野一門衆が見舞いに行くと、「有難いことです。御礼に、前から好きでしていた仕舞をして、御目に掛けます。」と、子供を呼び、拍子をさせ、自分では、仕舞を舞い、そして、首を討たせました。介錯は、甥の、相田権兵衛がしました。

追加。ある人が、古い書付けを見せてくれました。誰が書き留止めたのかは、その人も知らないとの由。大体は、世にある、覚え書きです。その中で、少々を、写して置きます。

 

54  (泰盛院様の御話の聞書)勝茂公が仰せられたのですが、日峯様の折々の御話で、佐賀は砦と考えて居られました。白石は要害の地で、隆信公が須古に御隠居なされたのも、その御積りがあっての事なのです。北に大江があり、南は干潟で、しかも、船で出る事は、心次第です。かつ、西に諫早と鹿島、西北に武雄、北に多久と小城、東に久保田の親類、家老衆の在所と、取り囲み、敵が容易く来る事はできないのです。米穀、材木があり、勝手がよいのです。

 

けれども、元からの御城地を御使いになられると、北山内、三根、養父は、程遠くて、敵地が近く、御心配に思われました。佐嘉からは程近いので、気を付けて居れば、敵地が近くても、こちらの手廻しをよくする間に、間に合うはするのです。

 

特に、一つの城だけを堅固にしても、それでよいのではありません。一国を持たれていれば、一国を城となされるので、今の佐賀が、確かに、よくて、東目の御領内に敵が踏み入る事が出来ない様にする積りの由との御話がありました。勝茂様にも、御尤もに思われたとの由、御物語でした。

 

55  (泰盛院様の御話の聞書)北山内の事は、日峯様の折々の御話に聞かせられました。山内の者共が帰服して居るので、筑前からは手出しが出来ないのです。先年、隆信公が筑前に手を入れられた事も、山内の者共が、粉骨の働きの故です。

 

筑前から、こちらへは、三瀬、一谷、背振、綾部の難所を越える事になるので、その所の者が出会う事でも、一日か二日は、差し止められる地形です。それなので、先年、大友衆が仕掛けて来た時も、筑前から山内に来た衆はなく、筑後から越えて来ました。

 

山内が、何かで、敵に取られては、佐賀は敵の目の下になり、騒動の地となり、長く守る事は出来難い所なので、山内への気配りが第一の事なのです。山内が堅固ならば、東目から御領内に敵が入って来ても、佐賀を持ち固め、山内から、敵の不意を打てば、御勝利は御手の内にあり、敵は、長く留まる事はできないのです。

 

勝茂様に、山内の事を日峯様程は御存知なく、大方にしてしまうと、折々、御叱りに会われていました由が、御話にありました。

 

56  (泰盛院様の御話の聞書)御国の境目で難しいのは、東目です。朝日山の境目の城は、要害で、よい所にあります。千栗をも、境目に仕立てようと思われて、権現様を御勧請され、いつも、御出でになられています。朝日山と、要害が続く様に、時が来て、仰せ付けられるはずの由、御物語されました。

 

57  (泰盛院様の御話の聞書)黒津崎村の辺りに、境目の城を仕立てて、蓮池と続く様にと、日峯様が御考えになられていた由、御物語をお聞かせになりました。さてまた、龍王辺りにも、砦がなくては叶わない所の由、日峯様が仰せになられていたとの事を、御話がありました。

 

58  (泰盛院様の御話の聞書)東目筋の大道の左右の堅掘、横掘は耕作用ですが、第一は御要害なのです。肥前は平地なので、敵が一面に来ると、難しいのです。大道でなくては、敵も来られない様に、堅掘、横掘を掘らせ、こちらは、案内に通じているので、掘や堰の小橋を渡り、敵を嬲り、横を打つなど、足軽共で出来る事です。

 

北一通りも同じ事です。何かで、北山が敵に取られても、佐賀を保つにはの御積りの事の由と、日峯様が仰せられたと、御物語がありました。

 

59  (泰盛院様の御話の聞書)北東の事は、第一に考えられていたので、川土井などを、段々に、要害に仕立てられて、村の事までも、その所々の事に気を付けられ、一切、全部を守れる様に、御仕組み置きなされました。後々、大方になり、土井の竹木が伐り払われ、掘も水が溢れないかとか、御気の毒なほど、心配されて居られました。

 

そういう事で、御要害の事は、大目付役に兼ねさせて、所々を見測り、百姓供の勝手にならない様に、時々、御聞きになられていたとの事、御物語されました

 

60  (泰盛院様の御話の聞書)東目筋の事。三根、養父は、久留米城からの不意の事が、佐嘉に連絡が来たとしても、間に合いかねるものと思われて、赤司党を召し置き、あちらの様子も聞き合わせ、少しの事は、赤司党と百姓共が一緒になって、それで事が済む様にと考えられて、一組を召し置かれていたとの由、御話がありました。

 

61  (泰盛院様の御話の聞書)肥前は、要害がよくて、たとえ、天下を相手にしたとしても、すぐには負ける事はないとの由を、日峯様の御話で、御聞きになられました。今の御考えも、その通りです。佐嘉を御本城にして、蓮池、龍王﨑村、西嶋、千栗と砦を構え、朝日山、綾部、仁比山、城原、川久保、春日、川上と繋ぐならば、敵が入って来ても、手の内の事と思われる由、御物語がありました。

 

62  (泰盛院様の御話の聞書)勝茂様が仰せられたのですが、日峯様の御物語に、肥前は、他国と違い、召し使われている侍共の、親、祖父が、血の皮になり、今の御国を御取り成されたのです。たとえ、一旦は、取り違えて、悪く言っても、それ切りで、子孫までお捨てになる事はないのだとの由、お話し申されました。今は、いよいよ、百姓共まで、固く、他国にも差し出されずにいるので、飢えて死ぬ事のない様にとはなされようとの御考えなのです。御蔵入りが不足なので、色々と御心を尽くされ、金銀なども集めて居られます。

 

日峯様の申された通り、二心や、野心の者は、切腹を仰せ付けるのは是非もない事です。浪人など仰せ付けられるのは、すべてを見ての、または、その者の考えの異なる所からの事なのです。これまでも、それでも、御見捨てなさる御心入れはないのです。侍の事は言うに及ばず、百姓共までも、それで、餓死させなどなされては、御国を御持ちの事も詮なき事の由、御物語されました。

 

63  (泰盛院様の御話の聞書)勝茂公が仰せられたのですが、御鑓元の強い弱いというのは、上御一人の御心入れなのです。下々まで、御手足の様に思し召しなされて、下々が、身命を捨て御用に立つという事が一つ。御知行などを下されて、御取り立てなされた者で、士の気立てがない者がいる時は、下々の風俗が悪くなります。御取り立てされて、諸人に見せられる人については、よくよく、お考えの要る所です。それが、二つ。

 

大物頭、弓鉄砲頭に仰せ付けられた者は、武勇の心懸けがあり、目心の利いた者を御見立てで、そこに附けられた組子を、御用に立つ様にとする事、これが、三つ。その御自ら、武辺を好み、弓、鑓、兵法をも、若い者が心懸ける様にする事、これが、四つ。ご自身で、一人鷹野をされて、その時の、人の働き、目心の利き様、物の見積もり、その外、器量、不器量の事をも御覧になられる事は、鷹野に勝る事はありません。使者をする前は、使者を勤めなければ分からない様に、普段、推量ばかりでは、人の目利きは分からない事なので、この様になされました。この五つで、大方、御槍先は尖るものとの思し召しの由、御物語がありました。

 

64  (泰盛院様の御話の聞書)肥前の者が、死を惜しまないという事はで、御気になさることはありませんでした。行儀作法を正しく、御下知を守るという事が心もとなくて、その事を第一に考えられていました。御親類、御家老衆が、初めは粉骨に過ぎて、御下知や作法を守るという事が、疎かになる事があると思し召しでした。

 

少し前までは、物慣れた者が残っていたので、少々、作法が悪くても、覚えがあり、それで、事は済みました。こうした事が、御心もとなくなり、その為の方策を御考えなされた由、御物語がありました。

 

65  松浦佐五右衛門入道透雲の話では、大阪の最初の御普請は、元和6年、申の年です。後の御普請は、寛永6年、子の年です。この年、筑前衆と御普請場で喧嘩がありました。こちら方の普請奉行は、諫早右近、請合人は、鍋島喜左衛門、嬉野織部(織部は鍋島平右衛門の子)、鍋島市佑です。その下に、4人の奉行があり、中野又右衛門、葉利左衛門、嬉野與右衛門、南里大膳です。この一人に、また、4人ずつの馬乗侍を、小頭としていました。山本神右衛門などは、その一人です。この一人に、また、5人ずつの奉行があります。この時、物成りの100石に3人ずつの人夫を出し、都合、5000人でした。

 

さて、喧嘩の次第ですが、石場の栴檀の木から大石を引きます。筑前の石場も同じです筑前衆と一度に石を引き出すので、少しでも先に引こうと、大石を引きました。こちらは先に引き、筑前は、その後に引きましたが、競り合って、筑前の石が先に越して行きそうになったので、土橋の上で、こちらの石引縄を左右に広げた為に、端先が21間に広がりました。それで、後の石は、脇を引き通す事が出来ないので、端先を窄める様にと断りを入れに来ましたが、こちらが聞き入れないので、筑前衆が脇差を抜き、引き縄を切ったのです。

 

そこで、小奉行が刀を抜き、脇差を打ち落とし、こちらに取り、その者にも手を負わせました。筑前の侍が、また、刀を抜いたのを、また、金てこで打ち落とし、こちらに取り、そして、喧嘩になり、人夫共が、何れも、刀を取りにと、石を捨て、皆、帰りました。その後に、筑前衆は、石を引き通しました。こちらの石は捨て置かれました。此方には、手負いは一人もありません。筑前衆の刀と脇差は、奪い取ったので、筑前方は遺恨に思い、捨て置いた石を一度は取りに来ない事はないはず、その時に、打ち倒そうと話をして居る事が、こちらに聞こえて、これは、大きな刀杖の争い事になる上、御家の大事にもなる事なので、誰もが僉議や評定に加わりして、漸く一決し、何れ、取らずにはおけないので、その時、筑前が打ち懸かって来たら、それは必死の場になる。そうなれば、筑前の奉行は黒田美作だ。(後に、水翁と言う。)これに右近が差し違えて、その外の、それぞれの奉行も差し違えると、何れもが、志を決めました。

 

さて、雑人の石引場に、右近などが出るものではありません。石場の喧嘩が始まると、そのまま、美作の宿所に踏み込むとの覚悟でした。その下も、それぞれ、その通りです。そして、誰も、死支度で、出で立ち、石引場に出るとの事が聞こえて、細川越中守殿の家老から、兵具は、公儀に対して恐れありと、800人に棒を持たせ、加勢をする」との由を申し来たり、その通りにして、人数総てで、必死に決め、はまり、石引場に出るという事で、筑前衆もこれを聞き、美作の分別で、少しの事から、家の大事を引き起こしてはいけないと、その総人数に、厳しく下知して、鎮め、終に、こちらに手出しをすることはなかったとの事です。

 

66  廣橋一遊軒は、3歳で、母に從い、肥後から来て、多久に住み、母は彌富氏の妻となった。15歳で、初めて、隆信公に仕えた。器量の者です。

 

一、御草履取りを望んだ事。

一、御茶道の者となった事。

一、童の時、砂で手習いした事。

一、夜中、御祐筆の居合わせない時、御状を書いた事。

一、金立の御陣の御帰りに、御羽織を取って来た事。

一、毎夜、御内口から御出の道に寝ていた事。

一、有馬方が西目に打ち出した時、御先手を望んだ事。この時、多久で知り置いた士卒を招き、

  60人ほどを集め、その戦功で、皆、組に附けられ、士大将となった事。

一、信昌公が、一遊軒を、組として望まれた事。

一、後に、須古で討ち死にの時、田中小路だったと言うので、田中一遊軒とも、後の人は呼びました。

 

67  大坂の城が落ちた後、召し取られた大野道犬齋を、泉州の堺の町人などが、申し出て、賜り、火炙りにしました。情けのない、事のあり様です。その理由を聞いてみると、去る冬に、一旦、御和議の事に及び、大阪近辺の民屋を、関東の下知として、ことごとく、それに放火し、堺の町だけを残し置きました。これは、大権現様の御賢慮のあっての事の由。

 

それを、道犬は、易々と、その御謀を察し、それを遮り、大阪方が、堺を残らず自焼しました。それで、その地の役人は、深く、道犬を憎み、こぞって、その受取りを、申し出た、という事です。

 

そして、町人は、道犬を受け取り、自分たちの心の儘に、しようとしたのです。その浦に引き出し、終に、火炙りにしたのです。前代未聞の仕方です。道犬の無念、骨髄に徹する所となったとか。もう、時刻となり、焼き草は次第に燃え上がり、総身、全体が焼け焦げ、繋いでいた柱も、焼けて骨ばかりになりました。多くの見物の者も、「ああ、ひどい、もう、絶命されている。」と、言い騒ぐ所に、柱に繋いだ鉄鎖を引き切り、向こうに、つつっと飛び出し、正面に見物していた者の脇差を引き抜き、その者の胴腹を突き抜きざまに、そのまま、倒れて死にました。人々が、あわてて、取り集まり、見れば、そもそも、五体は、炭の如くで、十指も、過半は落ちているのに、この働きをし、大勇猛の者の一念、向かう所は斯くの如し、です。不思議です。

 

68  元禄年中に、紀伊の國に、鈴木六兵衛という、軽輩の士が居ました。ひどい傷寒の熱がが出て、正気はありませんでした。この時、ある看病人が、欲心が出たのか、金銀を蓄えて置いた掛硯の箱を開いて、奪い取ろうとするのでした。その時、病人が、がばと起き、枕元の刀を押っ取って、抜き打ちに、その男を、一刀に切り捨てました。それきり、打ち臥し、そして、死にました。

 

これも、道犬の気性に似た者です。この事は、江戸にも聞き伝えられましたが、その後、医師の長束氏が当国に召し抱えられ、紀伊の国の出なので、聞いたところ、確かに、その事は知っていて、実説との由、申されました。

 

69  光茂公が申されたのは、「汝らは、何歳の事を覚えているか。」とお尋ねの時、御伽の衆が、「5、6歳の事は、粗々、覚えて居ります。」との由を申し上げると、公は、興国院様の御膝に御腰かけられ、観世、その他の太夫共が仕舞をしたのを御覧になっていた事を御覚えになっていました。興国院様の御他界は、光茂公の3歳の御年の由で、そう御話でた。

 

70  光茂公が御機嫌のよい折に、下々が話しをしていた事ですが、御若くて居られた時に、江戸の御城で、粗忽で、軽率な旗本衆が、御櫓に鴈が来て居るのを、「ここから、何町あるのか、貴公は、長崎表の御當役なので、町見の事は分かるはず。」と、難題を言われたので、「そうですね、そう御考えとは思いますが、殿中で、御櫓の町見の見積もりを自分がするのは、公儀に対して、遠慮します」との由を御答えなされたので、その人は、白けて、引き下がったと、内々に承り、聞いていました。

 

「では、果たして、そう言われている通りの事でしたのでしょうか。」と御尋ね申し上げたところ、御笑いなされて、「確かに、その様な事だった。」と申されたそうです。

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*6 興国院様 鍋島忠直

*17 山城殿 鍋島直弘

*17 左京殿 神代直長(山城殿の弟)

*25 甲州様 鍋島直澄

*41  一鼎 石田一鼎(山本常朝の師)

*41 嚴有院様 徳川家綱

*50 右兵衛様 鍋島吉茂

*53 紀州様 鍋島元茂

*54 泰盛院様 鍋島勝茂

*54 日峯様 鍋島直茂

*66 信昌公 鍋島直茂

注記 8:御内頭人 →御側に仕える職位

注記 26:鎺(はばき) →鍔(つば)の動きを止め、刀身が抜けないようにする、鞘口の形をした金具

注記 28:男立 →かぶき者、無頼の徒

注記 36:有馬の陣 →島原の乱

注記 51:驢鞍橋 →江戸初期の教団外的禅僧鈴木正三の語録

注記 52:ひらくち →まむし

注記 68:傷寒 →腸チフス

 

 岩波文庫「葉隠」中巻

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