更新日:

2021.5.17(月)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第八      ●60                                                                

■聞書第八

 この一巻は、第七と同じ。御国の諸士の褒貶です。
 

1  御歩行の荒木九左衛門の喧嘩の事。9月13日の夜、御歩行の中山茂助の道祖元の宅で、御能役仲間の10人が月見をしていました。荒木は小男で、直塚勘左衛門を始め、いずれもが、からかって居ました。荒木は腹を立て、勘左衛門を切り殺し、残りの人数にも、切り掛かりました。松本六左衛門は、片手を打ち落とされながら、荒木が庭に下りたところを、後ろから、片手で引っ掴み、「おぬしの様なのは、片手で首をねじ切ってくれる。」と、刀をもぎ取り、敷居に押し当て、膝で押さえて、首を掴み、その後は、気分が悪くなり、そのまま打ち伏せ、果てました。それから、荒木は、跳ね返し、また、切って回り、早田(後名は次郎左衛門)は、鑓で立ち合いました。数人で、ようやく取り押さえました。追って、荒木は切腹、その場の一座の者で、不働きの者は、残らず、浪人、早田は、後に、差し赦されました。委細は覚えていないとの由です。そのうちに、聞き合わせて置くべき事です。

 

次郎左衛門は、暇乞いして、早めに帰ったところ、その後、喧嘩があるとの事を途中で聞き付け、取って返すと、玄関口に、何の八太夫かが切り伏せられ、居ました。九左衛門は、抜き身を持ち、庭に立っていました。勝手から、袖まくりを持ち出て来ていて、次郎左衛門は、それを取り、九左衛門に言葉を掛け、巻き止め、そのまま、取り寄り、捕えたということです。

 

2  大石又之允の喧嘩の事。又之允は、倉永利兵衛の聟です。利兵衛が加増で、その御祝いで来客の時、又之允が進め、利兵衛の子の市太夫も進めで、座が乱酒になり、市太夫が又之允に、様々に雑言したので、「小舅(こじゅうと)でも、そうまで言うなら、物見せてくれる。」と言いました。市太夫が聞いて、「それは、こっちを切るというの事ならば、切れ。」と、首を差し出したのでした。又之允が、我慢しきれずに、切ると、市太夫の耳を切り落としました。

 

その時、江口市郎左衛門が、又之允の脇差を取り上げました。手に届かなかったので、袖口に指を懸け、引き下げて取ったという事です。そうして、一座の衆が立ち会い、取り押さえ、又之允は、宿元に連れ帰りました。市太夫は浪人、又之允は切腹、利兵衛は別条なく、一座の衆は閉門を仰せ付けられました。仰せ渡しの趣は口達があります。

 

一両年過ぎて、利兵衛は浪人を仰せ付けられました。これは、この喧嘩の時、宿元から御城に申し伝えたのですが、利兵衛が聞いて、「當番を明ける事でもないと思い、終わるまで帰らなかったので、様子は分からない」との由を申し出たので、御咎はなかったのです。ところが、その時には、すぐに帰り、その道で、又之允に行き会い、又之允が言うには、「利兵衛殿ですか。今、逃れられない事で、市太夫を切りました。切り留めなかった事が残念です。必ずや、遺恨に思われるはず。」と言われ、又之允の同道の人が、二人の間を押し隔て、それで、通られました。この事は、世間に隠れのない事なので、一両年過ぎてから、御調べがあり、利兵衛は浪人でした。後で、その委細を聞き合わせるべき事です。

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私に付け加えれば、総じて、酒宴の座では、不覚の事を覚悟するのは、勿論のことです。正体もなく酔い伏し、不働きの悪名を取るのは、是非にも及ばずで、どうしようもありません。大酒の時、必ず、思わぬ事があるものです。しっかりと覚悟をして、大酒はしてはならないのです。訳があり、その座を早く立って、その後に喧嘩がある時さえ、後日、いろいろと言われるものです。ただし、そうした時は、聞き付けたなら、すぐに駆け付け、その場での一言が大事です。また、どちらも仲間で、その座に居たからには、後難は考えずに、恥をかかせない様に、事をさせ、様子によっては、討ち果たさせて、それでよいのです。大方は、喧嘩と言えば、止める事だけを考えます。とかく、自分の事でも、人の事でも、武士の仕事は、聞いて、潔い様にするというだけです。

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この事を、江口市郎左衛門に聞いたところ、昼からの客人は、諸岡金左衛門、山領善兵衛、伊香賀武右衛門、杉町彦左衛門でした。晩方からの客は、伊東勘左衛門、市郎左衛門、杉町傳介です。初めは、座に居て、又之允、市太夫が相手をし、その後、夜に入り、茶の間で、酒が出ました。昼からの大酒で、金左衛門、善兵衛、武右衛門は、暇乞いなしに帰られました。残った人数も、随分と酔い、座と、茶の間の間を行き来して、あちこちと酒から逃げて居ました。

 

市太夫と又之允は真向い合わせに居たのですが、又之允が、何も言わずに切ったと見えたので、市郎左衛門が走り懸かると、又之允は立ち上がりました。大男で、手に届かないので、袖口に手を懸け、引き下げたので、脇差をふらりと引き落とし、それを取りました。初太刀の時と思うので、初太刀で市太夫の耳を切り、二太刀目を取ったのだと、後で分かりました。

 

市郎左衛門は行燈を蹴り倒しました。次の間に居た家来が灯を持ち、出て来た時、皆が寄り集まり、引き分かれさせ、又之允は座敷に引き立て、勘左衛門と彦左衛門の両人を側に附け、宿元に送り届けました。傳介、市郎左衛門も、しばらく、後に残っていましたが、市太夫は血止めとかの騒ぎで、何の対応をする事も出来なくて帰ったのでした。

 

御調べの時、又之允が言ったのは、「勘左衛門が酒に酔い、又之允の膝枕をしたのを、市太夫が見て、『不作法だ。』と言い、勘左衛門が立腹すると思ったので、『御側衆の子だとはいえ、気ままな言い方をするべきでない。刀が立たぬものでもない。』と言うと、『切ってみろ。』と言うので、切りました。」と申し出られた」そうです。市太夫の申し分は、「何事もない所に、又之允が酒狂して、切って来たのです。」と申し出られました。

 

一座の人々を御調べになると、「大酒して、あちこちとしていたので、何も覚えていません。」との申し出でした。勘左衛門の申し分も、覚えがない、というものでした。それで、相客の6人とも、閉門を仰せ付けられました。御調べに当たり、座中の事を覚えていないと言うのは、不埒です。また、何の意趣で切ったのか、その場に居て、聞き分けなかった事、あれこれと、ゆるがせにした仕方だという事でした。

 

それはそれとして、大酒で、その時の様子を覚えていないのです。もっとも、その場でも、市太夫は何も言わない様子でした。それまで、聟(むこ)舅(しゅうと)とはいえ、不仲だと聞こえていました。仔細を言うと、(又之允の父)軍平と利兵衛は同役で居たのですが、利兵衛は、段々と立身し、又之允は、聟ながら、押し下げられていた事を遺恨に思っていたのだとの事が、聞こえて来たそうです。

 

3  木塚久左衛門の被官の事。先年、川上御経の時に、紺屋町、田代辺りの者が、5、6人、参詣し、途中で、酒を飲み、時を過ごしてしまいました。その中で、久左衛門の被官の者が、宿元に早く帰らないといけない事があり、同道人に断りをして、日のある内に帰りました。そうしたところで、同道人共が、その後、他の人と喧嘩し、相手を切り殺して帰って来た由を、夜更けてから、久左衛門の被官が聞き付け、早速、同道人の所に行き、様子を聞き、「これから、口書きをとる事でしょう。その時は、自分もそこに居て、相手を、同じく、切り殺した由を、そなたなどからも申し出られてください。自分も帰り、九左衛門に、その通りに言います。喧嘩は、相手のある事なので、その方などと、同様に、自分も御仕置に逢います。そういう事で、本望です。

 

というのも、自分は早く帰ったと主人に言っても、とても、本当とは思わないはずです。久左衛門は、日頃、厳しい人なので、御上からは御助けでも、すくたれ者と、手打ちになる事は、眼前です。そうなれば、その場を逃げたとの悪名で死ぬ事は、無念千万です。いずれ、死ぬ命は、同じ事なので、人を切った科で死にたいので、こう言うのです。もし、そなたの了解がなければ、ここで、腹を伐ります。」と言うので、同道人共は、力及ばず、その通りに申し出ました。その後、評定所で、御調べの時も、同じ様に申し出ましたが、先に帰った事は、知られる所となりましたた。いずれもが、深く感じられ、御褒美に会いました。この事は、あらましを伝え聞いたものです。委細の事は、この後にさらに調べるべき事です。牛島新五郎の話だと。

 

4  野村源左衛門の切腹の事。源左衛門は、小城家中で、器量の優れた者で、芸能などは、何事でも、人に劣らない者でした。博奕をする事にかけては、西目一と言われました。それが、他国に行き、博奕をしました。この事を、紀州に、目付共が言上して、源左衛門を、暫く、側役で召し使われました。御惜しまれた為です。その後、往来札を持ち、長崎に行き、金銀を、夥しく、打ち取り、屋敷などを買い置き、不断は、丸山に行き、遊山していました。この事が聞こえて、小城から捕手が差し向けられ、召し取り、連れ戻しました。

 

御国法を背いた事で、切腹を申し付けるという事で、検使が行くと、介錯人に言ったのは、「存分に腹を切り、十分にする事をして、首を打てと言う時に切れ。もし、声を掛けない内に切ったら、うぬしに七代まで祟り殺す。」と、睨み付けました。介錯人は、「心安く。存分に、お任せします。」と言う。そして、腹を木綿で巻き立て、十文字に切り、前に腸が出た時、色が少し青くなり、暫く目を塞いで居て、小鏡を取り出し、顔色を見て、碩紙を乞う時、脇から、「もう、よいのでは。」と言うと、眼をくわっと見開き、「いやいや、まだ、仕舞ではない。」と言い、

 腰抜けと言うた伯父めくそくらえ死んだる後で思い知るべし

と書き、「これを伯父に見せよ。」と家来に渡し、「さあ、よいぞ。」と言い、首を討たせたそうです。

 

また、切腹前に、番人に物語したのは、「先年、與賀ン馬場に、3人切り倒してあったのは、博奕の意趣で切り殺した。終に、切り手は分からずだった。夜明けの事で、通り掛に見た者もあったが、今も、人は知らないでいる。不審の事だ。」と言ったそうです。また、「先年、博奕に負け、気が草臥れ、せめて気晴らしに辻斬りをしようと思い、多布施に行き、待つと、北から一人が来る。これだと思い、切り掛かると、その者が言うには、『自分は、意趣の覚えはない。もしや人違いか。御道具の何某と言う者だ。御城に、番替りで行くが、どういう事か。』と言ったけれども、耳にも入れず、切り掛かったので、その者が言うには、『さては、辻斬りと見える。ならば、物見せてくれる。』と、かさ高に切り掛かって来た。

 

しばらく、やり合う内に、次第に受け太刀になり、殊の外、危なくなったので、土井を東へ、少しづつ下りると、なをも、手繁く切り掛かるので、是非に及ばずで、速足にして、神野の方へ逃げのびた。後から、声を掛け、『卑怯者、卑怯者』と言っていたが、敢えて、取り合わず、宿元に帰ると思ったのか、余り、追い掛けては来なかった。追い付かれたら、その時はその時で、声を掛けるまでだった。」と話したそうです。

 

また、嘉瀬で、車座で居て、博奕に嵌まっていたところに、亭主の、2歳の子が、後ろから這い懸かり、それを肘で突き退けると、急所に当たり、たちまち、死にました。母親が声を立てて泣き出し、一座の者は呆れ果てました。その時、母親を取って押さえ、申し聞かせたのは、「その方が声を立て嘆くと、隣近所に聞こえ、この座中の者が一人残らず御仕置に逢うのだ。我慢して呉れたら、座中の金銀を残らず取らせる。命に代える物ならば、惜しむ者は一人もない。帰らぬ子を嘆き、人の命をとっても、何にもならない。もし、この事を聞き分けないなら、まず、その方を手に掛け、亭主を切り伏せ、自分は自害する。」と言ったので、女も亭主も、納得しました。金銀を払い合わせて、皆が皆、それを呉れて、それから、医師に人を遣り、「倅が急病。」と言い遣わしました。医者が道の半分も来た頃を見計らい、また、人を遣り、「今、亡くなりました。御出でに及びません。」と言い遣わしました。隣近所にも、病死にして、事が済んだとの事です。

 

5  青松寺の住持が光茂公に御礼の事。先年、青松寺の住持は国僧でした。公が御参詣されると、寺の格式で、御等輩並みで御会釈されました。御帰りの時、裏門から、ふと、出られて、土に頭を附け、「自分の御礼を申し上げます。」と言われたそうです。

 

6  中野甚右衛門が、桃川に居住していた時、誰か、佐嘉から見舞いに来られました。甚右衛門が言うには、「佐賀表は、替りはありませんか。江戸辺りは無事でしょうか。」と尋ねると、「江戸は、殊に、静かで、佐賀表は何事もありません。」と言われました。客人が帰った後、甚右衛門が子供に言ったのは、「今日は客人が遠くから来られたので、随分と、御馳走しようと思っていましたが、折悪く、気分が勝れず、大方にして帰しました。佐賀表は替りはないとの事ですが、不意は何時との事も知れないので、士共は、片時も油断せずに居る様にする事。」と言われたそうです。

 

山本神右衛門の話の由です。また、山本神右衛門は、老後、見舞いの人に、「世の中で、変わったことはないですか。」と尋ねて、「無事です。」と答えると、「無事とは心もとない。」と言われたそうです。

 

7  鍋島安藝殿が、膳の食事の半ばに、客人が来て、急に御目に懸かりたいとの事で、そのまま出会われました。その後、家来のある人(-何某)が安藝殿の膳に座り、焼魚を食べていた所、安藝殿が見られて、うろたえ、走り立ち去ったので、「あいつは、人の食い物を食って、憎い奴。」と言われて、そのまま膳に座り、食い掛けを食べられたとの事です。山本神右衛門の話です。その家来は追腹されました。

 

8  鍋島七左衛門が12、3歳の時、守役のある人(-何某)は、不調法という事で、志摩殿がお叱りで、その何某は、自分の小屋に引き入り、居ました。一両日が過ぎて、夜中に、七左衛門が小僧を一人連れて、秘かに、小屋に来ました。その人は驚き、「早早、御帰り下さい。やがて、差し赦され、出て行かれますから。それなので、深堀にも遣わされず、小屋に遠慮して居る様に仰せ付けられたのです。こうして、夜中に、御出でに成られた事を、志摩様が聞かれたら、私を、深堀に帰し遣わされるはず。早早、御帰り下さい。」と、涙を流して言うので、帰られました。

 

翌晩、祖父の壽峯の隠居所へ行かれると、「よく来られた。」と、菓子など御馳走され、しばらくして、「七左衛門、何か用事のある様子だ。言いなさい。」となり、「あの何某を差し赦される様に、志摩様に仰せられて下さい。」と言われました。壽峯は、頻りに落涙して、「深堀の家は、その先は知らずでも、七左衛門までは、確かに、連続だ。」と、大喜び、一方ならず、翌朝、その人は、赦免の由です。この事は、その家の出入りの人から聞きました。

 

9  有馬の陣の夜懸けの時の安藝守の考えの事。敵城から夜懸けの時、勝茂公に安藝守が言われたのは、「よい頃合いなので、それに付け入り、夜中に城を乗り落とすべしと思います。そう、お考え置き下さい。」と言うと、「自分も、その様に思っていても、上使の衆がそれを好まない。指図を受ける様に。」と、お止めになったそうです。

 

10  安藝守の事を石見守の見立ての事。安藝殿の事で、我儘でよろしくないとの事共を、23箇条書き付け、御意見頂く様にと、組内の年配の衆が、諫早石見守殿に言われました。石見殿が言われたのは、「安藝の事は、3箇条、よい点がある人です。仔細のある使者に出会うのは、安藝に続く者はいません。また、何かで、他方に弓矢の事が起きた時、加勢などを遣わされる時の大将には、安藝でなくてはできません。そしてまた、その時に当たり、僉議などがある時、奥の間には老巧の人が出座され、次の間には、若手の者どもが、稽古習いの為に、僉議をします。奥は、長門の申し分に決まり、次の間では、安藝の申し分に落ち着きます。そうして、両所の僉議を比べると、たぶん、安藝の申し分が勝るのです。この3箇条で、23箇条は、皆、消えて行く程の事です。誰もできない事なので、意見は無用。」と差し止められました。この事は、当の、安藝の家の説では、その子息の志摩殿の事です。

 

この安藝は、知行の中から、毎年、法花料を、永く、差し分けています。今も、怠りなく、何万部か、不断に、妙玉寺で、読誦がある由。

 

11  石井源左衛門の働きの事。源左衛門は、一番乗りの彌七左衛門の次男です。不断から、覚悟して、親の名を汚すまいと、力みのある者でした。綱茂公の御供で、苗木山の御屋敷へ行くところで、途中から御歩きになられ、源左衛門を御呼びになり、「その方の刀の差し様は悪い。柳生流などにより、嫌う所だ。加賀守からの傳受で、自分はこの様に差している。落とし差しは抜け兼ねない」との由、申されるやいなや、源左衛門は、すば、と抜き、「抜けました。」と鞘に納めたのです。「さてさて、粗忽者だ。」とばかり仰せられ、それで済みました。

 

また、ある時、綱茂公の御供で居た所に、御駕籠の先で、他方の使者らしきものが、御行列近くに乗り懸けて来たので、御歩行の何某が、その鐙を取り、撥ねたところ、逆さまに落ちました。その者が、片膝を着き、刀に手を懸けた時、源左衛門は、果たし眼で走り懸かり、「構いません。そのままで、お通りになられて下さい。」と言いました。案外の対応に、この人は了承し、馬に乗り、通って行きました。その時、源左衛門は、小道具の者を付けて遣り、屋敷名、名字を聞き、御帰宅の後に、年寄中に申し伝えられたのは、「今日は、この様な事がありました。重ねて、御駕籠に向い、慮外な事があるかとも。他の衆は、その者の顔を見知られていません。自分は、よく、見覚えていますので、明日から、定御供を仰せ付けられます様に。」と願い、その御在府中は、定御供を勤められました。そうして、その人の屋敷の出入りの町人と近付きになり、親しくして、様子を聞き続けました。

 

また、先年、青海和尚が、御暇なしに、出で発たれた時に、呼び返しに、源左衛門が仰せ付けられ、大里海道の内野かで追い付き、「立ちかえる様に。」と言った時に、上方の弟子共が騒ぎ立て、理屈を言いましたが、少しも取り合わず、青海に言ったのは、「もし、御立ち帰りがなければ、御手の障りにもなられます。空しく帰っては、源左衛門の一分が立ちません。」と言うので、すぐに、青海和尚は、上方の弟子に暇を遣わし、立ち帰られたのだそうです。

 

12  富岡覺之進の時宜に適う振舞の事。光茂公が御能を思い立たれ、覺之進を急に呼び寄せられ、御能の御用で、御前に召し出されるとの旨を伝えられると、「全く、御前に出る事のない筈の者で、直に応対をするなどしては不調法も申し上げて、御機嫌に適わないものと思います。御取次を以って、仰せ上げられる様にと思います。」と、繰り返し、丁寧に御断りされましたが、すぐに、御耳に聞こえ、御書院に召し出され、一々、御尋ねの趣を仰せ聞かされました。

 

その時、覺之進は、すり入りして、御目見えされ、御尋ねの一箇条を、奏者の中島善太夫の方ににじり寄り、向かって、「只今、申されましたのは、これこれの事と思いますが、確かに、その通りでございますか。」と言うと、御前から、「確かに、その通り。」と申されるのでした。少し、間を置き、「その一通りは、こうこう。」と言いました。その時、御前は、「もっともに思う、それで分かった。さて、これこれは。」と申される時は、また、御前の方に向い、御聞き合わせの時は、善太夫の方を向き、御取り合いを申し上げました。その末に、「立って、舞いを。」とある時は、次の間の扇を取り、仕舞なされました。この始終は、時宜よく、作法に欠ける所もなかったとの由です。

 

この覺之進は、弘徳院殿の御能の相手で、すべて、加州の御使いになられる人は、時宜に勝れていました。いつも、その御自身の前に出る者の、時宜、物言いを、こまかく吟味なされました。不恰好の時は、それが直るまで、何度も、言い直し、し直しする様になされました。また、御国侍の恰好は、何事も、田舎風なのですが、裃の附け様だけは勝れていたそうです。これは、加州の御仕出しによる、なされ様によるものとの由です。また、加州の仰せでは、「その場の進退がなかなかできないもの。せめては、茶の湯をさせる外はない。」と言われたそうです。

 

13  後藤家の相模守の家督時の騒動の事。若狭守は、民部に分地をしようと思い立たれました。相模守の惣領の事故があり、家中も、また、一門衆が2つにわれ、以ての外の騒動となった時、山城殿宅で寄合の時、美作守が言うには、「今の急な用事を捨てての、その外の僉議は無用で、急なのは、武雄の乱れです。」と言うと、「そうすると、何とも納まらない事になります。そちらはどう御考えですか。」と言うので、美作守が言うには、「自分に任せて呉れたら、収められる事で、民部に行き、納得させるまでです。」と言われました。その時、皆々は、「それでは、民部が納得しないはず。」と言われました。美作守が言うには、「納得しない時は、その、し様があります。では、今、行って、申し聞かせます。」と、刀を取り、立ち上がられた時、大木兵部が言うには、「これは、その身に相応しくないなされ方です。家老たる者が、民部程度を相手にされるのは、不相応です。民部は、自分の碁相手にも足りない者ですが、自分が行きます。」と、すぐ、立って、行きました。

 

その後に、「兵部の様子は、ただ事でない。あれを死なせるというのではないか。呼び返せ。」と、成松新十がはだしで追い付き、無理に引き返させました。その時、「中務は民部の近縁なのだから。」と美作守が言われるので、行き向かわれて、申し聞かせられました。無事に納まりました。それ以来、多久と大木は親しくなったという事です。

 

14  山本前神右衛門は、家来どもに会うと、「博奕を打ち、虚言を言え。1町の間に7度、虚言を言わなければ男は立たない。」とだけ言われました。昔は、ただ、武辺の心掛けだけでいたので、正直者は大業がならないと思い、その様な事を言い、不行跡の者も、知らぬ顔で、赦し置いて、「いい事をした。」と言われました。相良求馬など、それこそ、盗み、密儀などをする家来共を赦し置いて、段々と、仕上げられました。「そういう者でなければ、用に立つ者は出来ない。」と言われていたそうです。

 

15  中野内匠が年寄役を外れた事。内匠は、勝茂公の年寄役を務めて居られましたが、御手元の役をしていては大働きは出来ないと思い立ち、急に、出仕しなくなりました。お召しになっても、出て来なくなったので、浪人を仰せ付けられました。その後、御加増され、召し出されました。その子の數馬(前名は平右衛門)が年寄役を仰せ付けられました。部屋住みで居たので、別に500石を下されました。内匠が言うには、「御膝元の奉公をして、よい奉公と思うのか。それでは、大仕事は出来ない。」と言われたそうです。

 

16  安藝殿が、人の目利きの事を申し上げられた時に、中野内匠が止められた事。勝茂公が、御鷹を据えられて、安藝殿に言われたのは、「この鷹は、自分の目利きしたものだが、無類の逸物だ。鷹の目利きでは、よく分かっているという覚えがある。」と申されました。安藝守が申し上げたのは、「その通りです。不思議に、御目利きが、お分かりです。私は、人の目利きでは、よく分かって居ります。」と言われました。中野内匠が居合わせて、言われたのは、「その様な、畏れ多い事を、御前で言うものではない。人の目利きは、その方に、自分も、少しも劣らないのに。」と言われたそうです。

 

17  羽室権右衛門が目安を読み、物語りの事。権右衛門は、公儀の與力でしたが、女房が、お春様に乳を上げられて、それで、御出入りとなりました。その後、願いを出し、御家来に成られました。権右衛門の話ですが、公儀の御評定所での目安の読み様は、節、調子なしに、ぬらりと読まれます。調子よく読めば、御役人方が、よく聞き取られるので、依怙贔屓が出来て来るとの吟味をなされての事の由。

 

18  石井九郎右衛門の口上得意の事。ある年、綱茂公が、九郎右衛門を召し出され、「妹共が川上遊山に行くので、その方が、供をする様にとの由。女中が大勢の事なので、乱れる事のない様な仕方をしなければならない。どうしたらよいか。」とお尋ねがありました。九郎右衛門は、すぐに、その仕方を、一々、少しも滞りなく、詳しく申し上げたので、「もっともな仕方。念を入れて呉れ。」と申されました。その後、「九郎右衛門という者は珍しい者だ。重宝の者だ。」と、殊の外、御褒美なされたそうです。これは一芸というものです。御前などで、取りあえず、空で、詳しく申し上げる事は、大切な事です。

 

19  石井五郎右衛門の口上の事。綱茂公から大久保加賀守殿に仰せ伝えられる事があり、御家老、御年寄、御近習頭、留守居が召し出され、色々と僉議され、一通り、済みました。そして、「誰を御使いに仰せ付けられるか。」と仰せられても、人柄を言う事なので、誰も申し上げる者がなくていたところ、五郎右衛門が、御留守居役でその座に居たので、「五郎右衛門を申し付けるべきと思う。口上は、今、詮議した通りに心得て居る事なのだから、言い聞かせる迄もない。直に聞いてみるので、そこで、言って見ろ。」と仰せられました。一座の衆は、「さても、言うのに難しい所だ。」と、脇から手に汗を握り居ました。五郎右衛門は、「畏まりました。」と言い、御口上を具に申し上げると、「そうあろうと思って居た、その方に申し付ける。」と申されたそうです。

 

20  生野織部が言われたのは、「奉公は、今日、一日するとさえ思えば、どのような事も出来ます。一日の事ならば、どうでも、堪えられます。翌日も、また、一日の奉公です。」と言われたそうです。

 

21  中野又兵衛の有馬出陣の事。有馬の切支丹の事が起きた頃、又兵衛は、無足で、西目の代官をしていました。その時、21歳でした。彼の地で、疱瘡に罹ってしまいました。程無く、有馬表に、御国元から出陣の時、又兵衛の一門衆から、それぞれ、使いが来ました。その口上で、「唯今、出陣です。疱瘡の養生をして、快気の上、来られてください。」などと、いずれも、同じ口上でした。

 

又兵衛の姉聟の鍋島五郎左衛門から使いが来て、その口上は、「時もこそあれ、陣立ての時に煩いが入る事、武運の尽きた者とこそお思い下さい。」とだけ、申し寄越されました。又兵衛は、この口上を聞いて、すぐに起き上がり、「それもそうだ、さてさて、残念の巡り合わせ、このまま発向する。」と走り出しました。疱瘡に罹ってから12日目でした。看病人共が取り留め、乱気かと心得て、気遣いされるのでした。又兵衛が言うには、「乱気ではありません。五郎左衛門の口上はもっとも至極の事です。武士たる者が煩いありとして、この度の戦場に行かないのでは、一分が立ちますか。もし、途中で死んだなら、討ち死にです。それは武士の本意です。是非に発足致します。」と言うので、「ならば、湯を掛けよう。」と、白膿みした疱瘡に、あわてて、取り違えて、水を掛けました。気分は、酷く悪くなり、絶え入りそうなのを、歯噛みして、気色を取り直し、佐嘉に行き、中野内匠が同道で、すぐ、打ち立たれました。から尻馬に乗ったので、その夜に足が腫れたのを、終夜、にごしの米のとぎ汁で撫でて、腫れが引き、何の事もなく、有馬に着き、始終、働き、御褒美に、白銀20枚を拝領させられました。面目のある成り行きでした。五郎左衛門の一言で、気を引き立て、し果せたのでした。疱瘡などは、気持ちで、何事もないものとの、直の話を聞いたのだそうです。

 

この鍋島五郎左衛門の跡は、小城の千手外記です。五郎左衛門の親は喜雲と言い、剣術者です。草履取の角蔵という者が、捕手の一流を立てました。五郎左衛門の息女は、石井八郎左衛門の女房です。老後に、孫共が来ると、茣蓙の上に長脇差を出して、嗜みとは、こうするものだと、大ねたばを付けているのを見せて、「孫共の器量ある者に、形見に遣わそうと思う。精を出し、この脇差を取ってみなさい。」と言われたそうです。

 

22  山本五郎左衛門が江戸詰めの頃、海音和尚に仕懸けられた事。綱茂公は御部屋住の頃、黒龍海音和尚に帰依され、仏道を聞き習われました。悟道されたとの事で、和尚から印可を差し出される由を、御屋敷内で評判されていました。

 

その頃、五郎左衛門は、綱茂公の御供立、御目付役に、しばらく仰せ付け置かれていました。この評判を聞き、是非におよばざる事と思い、海音に一分を申し伝え、納得されなければ、打ち捨てる覚悟で、江戸の宅に行き、申し入れると、和尚は、拝みに来た人と心得て、法義正しく出会われ、五郎左衛門が言ったのは、「御対面で申し伝える密事があります。伴僧を取り除かれて下さい。」と言い、膝元に居寄り、「聞くところによると、信濃守が仏道の器用という事で、近々、褒美をなされるとの話が言われています。御手前は、肥前の御生まれで、龍造寺、鍋島の家風も大体は御存知の事と思います。

 

他家とは違い、譜代の相伝の家なので、上下和熟を以て国を治めております。前々から、国主に、仏道の褒美を取る事は、こちらの家ではない事です。今度、御手前から印可を差し出されるならば、ご自身のその身は悟りと思い、家中の者の言う事などは、土の様に思われる事と思います。そうなる時は、上下が隔たり、家の悪事というものです。さらにも、身分の上の人は自慢するものです。必ず、褒美はなされないで下さい。もし、御承知なければ、自分は、思うところがあります。」と、思い切って言いました。

 

和尚は顔色を変えておられましたが、「さてさて、頼もしい御心底です。御家の事は、その様に心得て居ります。ご自分は忠臣で居られます。」と言われました。五郎左衛門は、「いや、その手も分かって居ます。自分は褒められる為に来ていません。何かとかは要りません。印可を止められるか、そうでないか、聞き果したいのです。」と言うので、「それも、もっともに思いますので、一切、褒美はしない事にします。」と請合い、言われたので、詞を固めて、帰り来たのだそうです。

 

直の話で聞かれたそうです。

 

23  大島外記の追腹の事。勝茂公が御逝去の事を、御飛脚で伝えて来ました。その日、外記は、屋敷前の畠にたところに、女房が来て、「侍従様が御死去の御飛脚が来たと言う人がいます」の由を言うので、すぐ帰り、「行水を沸かしてくれ、帷子を出してくれ、自分は追腹をする」の由を言い、身仕舞を始めました。いずれもが寄って来て、下々に似合わない事は無用の由で、差し留めた時、外記が言うには、「先年、西目で御狩の時、御眼通りして、大猪を一刀に切りました。それで、御前に召し出され、何某組かと御尋ねがあり、福地覺右衛門組の者ですと申し上げました。さてさての曲者、よい被官だ、など、何かと仰せられ、御巾着の御銀を一掴み(数は12)拝領させられました。御銀を頂いた時、御供申し上げると思い決めました。誰が御留めになっても、留まりません。」と言い、負腹されました。外記の孫の御歩行の善助の話で、「その時、9歳に成っていて、覚えています。」と話されたそうです。

 

金丸氏の話に、厨子に芋がらを一かたまり、櫃の底に白帷子を一つ、きちんと置いていたのを取り出し、あさがらで行水を沸かし、拝領の銀を出し、酒を調え、隣に住む人に介錯を頼んだと言う事です。

 

24  石井八郎左衛門が鮒を進上の事。勝茂公が御鷹の夜居に御出でになり、方々をしなされていたところ、網を引いている所に御立ち寄りになり、「入るか。」と仰せられると、誰とも分からずに、「今夜はよく入ります。」と言って、網を上げると、大きな鮒が入っていました。「さてさて、大きな鮒だ。」と仰せられると、「前にも、この様な鮒を2つ取りました。」と言うので、「明日は、御賞翫か。羨ましい。」と仰せられると、「嫌な事を言う。」と言い、「旦那を持って居ります。鮒好きなので、いつも、一番の大鮒は旦那殿に食わせます。こっちは、小鮒ばかりを賞翫です。一番の大鮒をこっちが料理しては、気分がよくないのです。」と言いました。「よい心懸け。」と仰せられ、御帰りになされ、翌朝、御膳図をお尋ねしたところ、「暫く、待て。鮒が来る筈。」と仰せられて、石井八郎左衛門から、「昨夜、取りました鮒なので、進上致します。」と言い、差し上げられたそうです。

 

勝茂公の頃は、以下以下の者でも、物の初穂は御城に差し上げました。接ぎ木の初生などと言って、所の在の方々から、木の実1つ、2つでも、進上されたのだそうです。

 

25  安藝殿の追腹人の事。安藝殿が死去の時、組家中18人、内組衆2人が、追腹をされるとの事で、御家老から、殿様を差し置き、寄親の供をする事はあるべからずの由、頻りに差し止められました。組中の者が言うには、「先年、八院の一戦の時、主水殿の組の中から選び取りとの事で、我々を、安藝殿が選ばれました。八院で、同じ枕に死ぬと申し交わしました。その時は、安藝殿が討死なくて、我々も今まで生きながらえました。武士たる者が、同じ枕と言い交わしたものを、一日も後に残る事が成りますか。」と言い、追腹されたそうです。18人、その中での又供4人の位牌は、妙玉寺にあります。名書は別に記す。

 

26  小川舎人の役替えの事。光茂公の御時、小川氏が御近習役を仰せ付け置かれました。知行は500石です。ある時、諫早豊前(水月院)が年寄中に申し伝えられたのは、「舎人の事では、自分の何かの事情で、こう言うのではありません。家柄、身上など、御手前などの下に召し置かれるのは、よくないです。外様に召しなされるか、そうでなければ、年寄役に召しなされる様に申し上げられて下さい。」と、です。光茂公が聞かれて、尤もと思われた由で、舎人を年寄役の座上に仰せ付けられたそうです。(27歳の時。)

 

27  江戸の大火事の時、相良求馬の働きの事(酉の年か)。光茂公の御在府の頃、大火事があり、「御機嫌伺いで、御登城なされるのではないか。」と、御玄関に御控え、御座なされて、御留守居共と御僉議をされました。

 

求馬が申し上げたのは、「自分が見測り、申し上げます。」と言い捨てて、騎馬で駆けだしたところ、途中で、輪乗りをされている御大名がいらっしゃったので、求馬は飛び下り、御供の衆に尋ねたところ、「松平長門守です。」と言われました。求馬が言ったのは、「松平丹後守に使いを申し付けられ、これ程の大火なので、登城なのではないですか。ご相談の為、使者を以て申し承ります。」の由を伝えました。御返答に、「こちらも、並びの方を見合わせ、待ち居るところです。早早、お出で下さい。御同道で登城します。」と仰せ聞かされ、すぐに帰り、申し上げたので、御登城なされました。

 

この時、求馬が乗り出した後に、光茂公が申されたのは、「求馬程の者を、さらに一人欲しく思う。但し、疵のある。」と田中九郎右衛門に仰せられました。九郎左衛門は答えて、「あの疵は年若の頃のものなので直ります。」と申し上げたそうです。

 

28  中野勘右衛門が妻殺害の事。勘右衛門の妻は、枝吉利左衛門が養子をされた娘です。一旦は離別し、その後、呼び戻し、若党と密通した事を申し聞かせ、下女と共に3人を殺害しました。御僉議の上、下女は、既に、暇を呉れていたのに、用事の由で呼び寄せ、打ち捨てた事は不調法という事で、浪人を仰せ付けられたのだそうです。

 

29  石井内蔵允の御調べの事。中野将監が切腹の後、内蔵允と楢村清兵衛の両人は、将監の附役なので、将監の仕方を一々、御尋ねがありました。

 

内蔵允に、「この事は如何だったか。」と一箇条、問い懸けると、「それは、まったく、将監殿が知らない事です。私の不調法です。」と、また、一箇条を尋ねると、「それも、私のしたことです将監殿は、御前の隙がなくて、我々の考えで、何事も済まし、少々は、お聞かせした事もありますが、何事も御存じない御方で、我々次第で、とばかり申されました。皆、以て、自分の不調法です。」と言うので、「そればかりではない筈。将監の考えでした事もあるはずだから、そのまま、申し出る様に。」という時に、内蔵允が言うには、「将監殿が御存生なら、少々は、あなたの言われる、御申し付けの事という箇条もあります。今は、もう亡き人に科を負わせ、我が身を逃れるのは侍の本意ではありません。」と言うので、御僉議の衆は、いずれも、感じ入り、何の科もありませんでした。

 

清兵衛は、色々と、申し訳などして、不埒の事共が出て来て、隠居を仰せ付けられました。その後、弁財嶽の公事の時、人柄の御僉議で、一人は内蔵允にと、最初から決められたそうです。

 

30  弁財公事の時、鍋島普周の評判の事。普周は、北原に居られました。弁財嶽の公事が公儀の事になったので、役人を江戸に差し上らせられるの由で、取り沙汰されていた時、永明寺の住持、海音和尚に、普周が申されたのは、「今度の役人は、大木佐助を仰せ付けられて下さい。その訳は、今度の公事は、萬一、負けになれば、江戸で腹を切らなければならない事です。佐助は、その心得がある者です。」と言われたそうです。海音和尚の御話だそうです。

 

31  弁財公事の時、石田五左衛門が元結を払った事。弁財嶽の公事が、肥前の勝ちになり、百姓五左衛門と内蔵允が帰国の時、道中で、五左衛門が、元結を切り払いました。役人中が、その訳を尋ねたところ、「今度の公事に一命を捨てていました。勝ちになった上は、何も世に望みはありません。これからは、遁世のつもりです。」と言いました。誰もが押し止めて、何事もなく御国元に帰り着き、両人共、御加増が下されました。

 

ある人が言うには、五左衛門の所存は、潔く聞こえますが、無事に帰り着くのよりは劣る事と思はれる、と。

 

32  三谷千左衛門の意見の事。千左衛門は、勝茂公の御歩行十人衆の随一で、段々に御取り立てになられ、常々、物語されたのは、「人は気持ちが大事です。重病で死ぬ時も、今日、死んではならない事がある間は、2、3日は生きて居ようと思う事で、気を引き上げ、3日ばかりの命は、きっと、生き延びると考えて居ます。」と言われました。

 

勝茂公が江戸で御卒去の時、追腹の外、御側の衆は、いずれも髪を剃り、元結を切り払われました。そのうち、石井六郎左衛門と大隈加兵衛の両人は、御骨の御供を仰せ付けられたので、髪を剃らずに、下り帰られ、高傳寺に御骨を差し上げ、両人、共に、涙に咽び居りました。

 

千左衛門は、白州に居られましたが、旅支度の儘、駆け上がり、両人の元結を、脇差を抜き、切り払いました。その場を外さない様にと、軽はずみですが、その様にしたとの由です。

 

光茂公の御代、急に、御能を思い立たれましたが、能を心得ている者が居なくて、探したところ、安住権右衛門の養子の源七という者が、藤島清左衛門の弟子で、能をしていました。その頃、御臺所役者をして居られました。すぐに召し出され、御相手に成られるという事で、侍に召し成され、日々夜々、御前に御出になられました。殊の外、気遣いなされ、居られました。

 

千左衛門が言うには、「そなたは、きっと、気遣いの事と思われているはずです。心持を言いたいと思います。一度、立身を仰せ付けられたならば、生来の本望は、もう、達しています。その上で、浪人、切腹を仰せ付けられても、少しも、残念の事はありません。一度の立身で、侍の浪人となるのは、面目です。」と言われました。この一言で、源七は、胸が座り、「心が楽になりました。」と言われたそうです。

 

33  村川傳右衛門の下人を仕立てる事。傳右衛門の家来は、口上を言うのが上手いと、その頃、世上の評判でした。まず、上に立つ者に、よく、口上の指南をして置き、中間、小僧共にまで指南をさせて、その都度、その聞き次ぎした口上を言わせて、し直され、時宜、作法を、基本から、よく仕込み置かれました。

 

傳右衛門は、月堂様の兵法の打太刀の人で、柳生殿の弟子です。返誓詞の時、傳右衛門が行き向かわれ、但馬守殿が病気で判形をできないので、傳右衛門が筆を持ち、但馬守殿に筆を取らせて、判を取られたそうです。

 

34  浅草の喧嘩の事。船遊山の為に、小森榮順、大坪甚右衛門、武藤六郎右衛門、鹿江茂左衛門、吉井與一右衛門、江副甚兵衛、牟田六之允、丹羽喜左衛門などが同道で、出て行かれました。榮順と甚右衛門の両人は、浅草観音の前の遊山茶屋に行き、茶屋の男共と口論をして、打ち負けました。

 

この事が船に聞こえて、六右衛門が、「打ち返しだ。」と言いました。與一右衛門と甚兵衛は、「同意。」と言いました。しかしながら、その外の衆は、「御家の御難になる。」と、差し止め、帰られました。御屋敷でも、六右衛門は、「是非に、打ち返しするべし。」と言うのですが、差し止められていました。榮順と甚右衛門は手足の働きの叶わなかった事で、そのまま、切り捨て、他の衆は御叱りとなりました。詳しい事は、この後、聞き合わせるべき事です。

 

この事で、ある人の話。打ち返しなどは、申し合わせて、埒の明く事ではないです。一人で行き、切り殺されるまでと覚悟するものです。口で、打ち返し、打ち返しと言い募るのは、紛れが出来てしまうものです。智慧のある者は、口ばかりで、後日の外聞を取る事もあります。曲者というのは、何も言わず、秘かに抜け出て、死ぬ者です。仕果たすのでなくてもよく、切り殺されるのが曲者です。そうした者は、たぶん、仕果たすこともあります。

 

35  成富久米之助、兄の敵打ちの事。蔵人の惣領忠兵衛が14歳の時、古賀の橋の上で、その所の者が盗人を打ち叩いているのを見物し、その後には、忠兵衛が一人になり、打ち叩きました。その時、盗人が走り懸かり、忠兵衛の脇差を抜き取り、一突きに突き殺し、南の方に逃げました。

 

この事が、鷹師小路の宿元に知れて、弟の久米之助が、13歳でしたが、懸け付けると、忠兵衛は、既に、息絶えていたので、羽織を脱ぎ、被せ置き、盗人に声を懸け、追い掛けました。この事を、蔵人の女房が聞き、差替えの刀を持ち出し、下人の關左衛門に渡し、「忠兵衛の敵と言い、久米之助は幼少の事だから、何処までも追い、追い付いて、敵を取って見せてください。」と申し付けました。

 

關左衛門が走り出ると、「南里村の方に行きました。」と言う者があり、息を切り、走り付いたところ、所の者が、その盗人を取り囲み居ました。關左衛門が飛び掛かり、言葉を懸け、一打ちに打ち落としました。久米之助は、田の畔を走り、度々転び、土に汚れて駆け来たので、「兄の敵なので、止めを御刺し下さい。」と、關左衛門の働きで、仕済まし、帰られました。3月4日の事です。

 

久米之助は、今の次左衛門です。母は、荒木平八の妹です。その日、山本権之丞は、遠くに出ていて、夜になってから帰って来たところ、その途中に、下人が、提灯を持ち、出会い、事の次第を知らせたので、直に見舞いに行かれた」そうです。

 

36  下村生運の事。ある時、直茂公が、早朝、御鷹野に出られ、下村で寺に御走り入り、湯を御所望されたので、住持は、いろりで火を焚いていたので、煮え湯を少し茶碗に入れ、水を多くして、差し上げました。一口に飲まれ、「今一つ。」と仰せられた時、湯の加減も熱くして差し上げました。静かに飲まれて、その僧の機転を感じられ、後に、召し出されて、生運と申されたそうです。泰嚴記に、僧芳叔としてあります。

 

37  多久長門殿の隠居の事。長門殿の隠居は、少し、様子のある事です。口達あり、です。それに付き、多久の家中が屋敷に行き、「それでは、多久へ御引き取り、御隠居されます様に、御迎えに参りました」との由を言われました。長門殿の返答は、「何れもが言う所はもっともに思う。しかしながら、自分の隠居は思う所があるの事なので、一生、佐嘉を離れる事はならないので、堪忍して呉れる様に。」と言われたそうです。口達あり、です。

 

38  中野神右衛門の家来の大河内勘解由の事。神右衛門は、濱松で、小川右馬之丞を討ち果たして、多久長門殿はお怒りになられましたが、神右衛門は、色々と、様子もあり、浪人で済み、その年の暮れに、召し直された時、まず、長門殿に礼に伺い、御面談があるとの事で、奥の間に通り向かう時、家来の勘解由が、刀を差したまま通るので、家来衆が咎めると、「自分は、主の側を片時も離れる事はならない生れつきです。前々から、如睦、甲冑、いつでも、この様にして居ます。御赦し下さい。」と言い、次の間まで、行き、居られたそうです。本当に、一人當千です。

 

39  中野将監が浪人の時に、山本神右衛門の一言の事。将監は、光茂公の御小姓に召し使われていました。後に、年寄役を仰せ付け置かれました。そうしたところ、浪人を仰せ付けられ、「先祖は忠義の家なので、跡式は、間違いなく立てる事なので、一門中から、願いを出す様に。」と仰せ出だされました。その前に、御調べとかもなく、不意の成り行きで、一家一門中が途方に暮れていました。

 

そうしたところ、山本神右衛門が来て、仰せ渡しの様子を尋ねられたので、その趣を話されました。神右衛門は、それを聞き、涙を流し、「さてさて、有難い事、いずれも、御城の方を拝まれてください。」と手を合わせ、「御主人の事なので、御気に背く時は、浪人はさて置き、磔にも懸けられる事なのです。それを、先祖の忠を思召され、跡式を御たて下さる事は、御厚恩の次第、何に例えも出来るでしょうか。こうした有難い事を分からずに、皆の衆は、不平不満を言う様に見えます。すぐ、盃を出して、祝いをする事。」と言われたので、数人集まっていた衆は、家内の女童まで、浮き立ち、勢い立ったとの事です。老巧の一言は、的を得たものです。

 

その時、将監の知行は、中野市左衛門に下されました。今の十右衛門です。将監が道を歩けるよう仰せがあってから、市左衛門は御断りを申し上げたので、将監に400石、市左衛門に100石を下されました。

 

40  深江二左衛門の御調べの事。二左衛門は大坂の御留守居役を数年勤めていましたが、不行跡の事が聞こえ、役を差し外され、御調べがありました。召使共は下国になり、宿元宿元に帰って来たところ、御調べの事があるので、評定所に出向く様に言われて、まず、二左衛門の宅に行き、様子を尋ねました。

 

二左衛門の返答は、「上から御尋ねの事、有のままに言いなさい。言い方とかを言い聞かすこともない。」と家来を通じて、申し聞かせ、終に、面談はしませんでした。そして、評定所で御調べの時、草履取りの一人は、何も知りませんと、申し出て、調べ役は、厳しく問い掛けられ、嘘を言えば、拷問を仰せ付けるとの由でした。

 

その時、その者が言ったのは、「主人の事で悪い事を、家来として言うものではないとの由、聞いています。たとえ、責め殺されても、言う事はなりません。」と言うので、いずれもが、感じ入られたそうです。その者は、深堀新左衛門が、願い出て、取られたそうです。二左衛門は、鍋島安藝殿の孫です。この時、主水殿に御預けにられなりました。

 

41  北島甚左衛門が御裃を拝領の事。甚左衛門が、大坂ご屋敷の雑務の目付を勤められていた時、勤めで詰めていた者の中で、上下に不行跡の事があり、御国元に聞こえ、その後、佐嘉で、甚左衛門に、御目付中からの言上の延引の事で、調べがありました。

 

甚左衛門の答は、「詰めていた者の中で、上下、一人も残らず、悪所に行っていた事は、紛れもなく、その通りです。確かに、見ました。言上したならば、一人残らず、御仕置が仰せ付けられる事のはずです。その時は、大人数の事なので、御名が立つのは、何とも、迷惑になる事と思い、差し控えました。それで、目付け役として見届けた事を言上しなかった科は、切腹を仰せ付けられる事と覚悟して居ります。これからの締まりの上でも、数人を御仕置なされるよりは、自分が切腹を仰せ付けられるならば、人は皆、身を嗜む事と思います。御名の立つ替わりに、腹をする事は、本望に思っています」という事を申し出ました。

 

その後、何かの事はなく、それから、役方を神妙に勤めた由で、御裃を拝領させられたのだそうです。金丸氏の話です。

 

42  安住道古の物語の事。道古は、石見守殿の末です。小城に附けられました。道古の話で、「人の身で、大切なのは、気味合というものです。命などは散り行くものです。また、日本に仏法が広まり、近年は、俗人も仏法に心懸けるなどと持て囃しますが、後には、腐れものになるものです。

 

その訳は、仏道では、「生死大事」、「生死切断」、「生死を離れる」などと言い、生死を重く言います。本当に大切な事と思い付いて、座禅や工夫をしますが、悟りが出来て、死が軽くなる者は稀にある事です。未だ、悟らない内に死ぬ事が出て来たならば、大事に思う癖が付いているので、死に兼ね、腐れる事になるものです。死程軽いものはありません。恥を知る児女などは、屁一つで命を捨ててしまいます。そうならば、屁よりも軽いものです。

 

また、近頃の者は、飲み食いの集まりをするのは、是非もない事ですが、益体もない事です。少し心ある者共は、主人や家老の非議を語り、笑止な事などと言う者もあります。これは、少しは良い様でもありますが、嘆くばかりで、何にもならない事です。主人や家老の非議ある時は、譜代の士は、それは、再興門と心得るべき事なのです。再興門というのは、もし、御国としての仕方が悪くて、他の領地となる時、鍋島家に取り返す仕方の事です。

 

その仕方というのは、まずは、前もって、御主人の御末子を一人、出家にして置くのです。御家中の士も、嫡子の外は、百姓、出家にして置きます。そして、新領主が入れ替わりの後、出家、百姓が寄合い、領主の非議を作りたて、様々、世上に取り沙汰させ、国を失わせるのです。その後の領主も、また、崩させ、崩させして、その上で、百姓、出家が公儀に出て、肥前は譜代の國なので、旧主を慕い、御領主を、一向に、承知しないのです。この後も、長久はならないと思います。それならば、旧主の末の者が出家で居るのを、一国中への御憐憫で、還俗を仰せ付けられ、国主に仰せ付け下さる様にと、そうすれば、国は収まるはずものと申し上げるのです。その時、御家は再興するのです。」と言われました。道古の次男は出家、三男は百姓にして置いたそうです。

 

また、「鍋島の槍先、1寸5分、折れました。その訳は、まず、直茂公、勝茂公の御軍功、御物語を覚えている者が、次第になくなり、鍋島家の骨を知らない者がはびこり、昔風などと言い、昔話は嫌われます。これで、5分折れました。また、昔は、黒米飯、千葉汁で、朝夕暮らしました。そうして置いて、その身上の柄により、馬を立て飼い、米豆を食わせ、随分と秘蔵したのです。それは弓箭の為です。近頃は、食物に、様々のおかずを出し、妻子共を駕籠に乗せ、縫箔の着物を着せて、馬は持ちません。これで、5分折れました。また、近年、江戸、上方との往来が繁くなり、上下共、他所風を見習い、肥前を見下げる事になり、骨が弱くなりました。これで、また、5分折れました。」と言われたそうです。

 

43  杉野徳太夫、長森傳次郎の御調べの事。山村造酒の御調べの時、徳太夫が召し出され、造酒の悪事を一々申し出る様に、尋ねられても、一向に知らないとの由を言い、その座で、「藤廻松」という題で歌を考えていました。その後のご尋ねでも、「一門であり、普段、一緒に立ち会われて居られた者なので、知っているはず。」と、厳しく、問い質されました。徳太夫が言うには、「自分は神職の者で、朝夕の勤めに、人の安穏をこそ祈り居ります。たとえ、造酒の悪事を知っていても、神慮に背き、人の非を言うのは、身命に替えて、できない事です。」と言いました。その後、御調べはなかったそうです。

 

武藤主馬の御調べの時、長森傳次郎が召し出され、「主馬から林家への内通の取次をしていないか。」と尋ねられました。傳次郎が言うには、「自分は、儒者のまねをして居り、その道で御家に召し出され、御厚恩は身に余るものです。さてまた、主馬殿が、自分と、極めて親しくさせて頂いて、今も、忘れる事はございません。けれども、不忠の聞こえがあるという事で、恨みに思い居ります。御厚恩の御主人に対し、儒門の法に対し、不忠の聞こえがある人から、たとえ、頼まれても、全く、取次をする所存はありません。」と言うので、いずれもが、感じ入りました。

 

44  川上喧嘩の事。土山茂右衛門(今の脱空屋敷)、東彌市左衛門(野口次郎兵衛屋敷)、大木次太夫、石井伊左衛門が、同道で、お経参りをしていたところ、川上宿の鐡タク長左衛門という取手者が弟子を数人召し連れて参詣していたのに出会い、その弟子共と口論をし出されたのを、大勢で打ちひしぎ、茂右衛門、彌市左衛門には、棒疵を付けました。

 

この事が御調べとなり、4人とも、その一門々々に預けられました。茂右衛門、次太夫は、大木兵部の預かりでしたが、両人が申し合わせ、抜け出て、長左衛門の所に仕懸け、声を立てたので、長左衛門が裏の口から出たところを、茂右衛門が待ち受け、切り止めました。その上で、「最初の相手は数人だったので、誰ともしれず。川上宿中、残らず撫で切り。」と呼ばわり懸けたので、悉く、逃げ去りました。その場を片付け、帰り行きました。

 

この後、茂右衛門、彌市左衛門は切腹、次太夫は浪人、治右衛門は閉門でした。茂右衛門は、手腹の願いをして、左の片腹に突き立てた時、何某(森門兵衛)が向かいに居り、「深く立てれば、腸が出て見苦しいです。浅く立てられてください。」と言いました。茂右衛門は、それを聞いて、「その方は、物事の上手な人ですが、腹を切った事はないはず。」と笑いました。介錯は、中島七左衛門でした。右に引き回した時、回り兼ねているのを、七左衛門が、エイ声を掛ける勢いで引き回したのだそうです。

 

また、仰せ出だしの中で、お經参りの時、4人とも脇差だけで居た事は、士の本意を取り違えているとあったそうです。4人とも、春日の北原辺りの住居の頃です。かつまた、兵部の進退の事は、口達です。

 

9月26日、供日の振る舞いで、川上桜場の社家に参り、終日、大酒して、その中の、伊左衛門、次太夫は下戸、茂右衛門、彌市左衛門は、正体なく酔い、夜になり帰る時、茂右衛門がよろめいたのを、桜馬場に居た若手の者共が笑い、「そんな風に呑めない酒は呑まぬがまし。」などと言いました。茂右衛門は腹を立て、「うぬしの様な奴には、糞を食わせてやる。」と言ったので、数人が取り懸かって来たのを、残りの3人が押し隔てて、中河原まで来て、茂右衛門が尻をまくり、「うぬし共には、これを食わせてやる。」と言ったので、またまた、大勢が取り懸かり、茂右衛門を散々に打ち殴り、踏み倒し、残り3人は、1人に、2人、3人と抱き付き、止めて動かさずに、茂右衛門を踏み倒した上で、14、5人の者共が、一度に逃げ失せました。

 

相手が分からないので、力及ばず、茂右衛門は、駕籠を取り寄せ、それに乗せ、4人共が、そのまま帰り、それぞれが、申し出たので、茂右衛門は、一門の土山惣兵衛の預かり、伊左衛門は、一門の、綾部権之允の預かり、次太夫は、大木兵部の預かり、彌市左衛門は、寄親の預かりとなりました。

 

10月何日の夜、次太夫から、茂右衛門に手紙で、「この分では、一分が立たないので、明朝、夜のうちに、打ち返しすべくと思うので、忍び出て来て下さい。」と申し遣わしました。

 

翌朝、主従衆で、都度城に行くと、都度城の中程で、鐡タク長右衛門という、1000人余りの弟子を取り、名高い指南者が居たのでした。川上で喧嘩の相手の内に、長左衛門の子供、兄弟が居た事が分かり、長左衛門宅に行き、外から、「茂右衛門、大木次太夫が、打ち返しに来た。出会う様に。」と呼ばわりました。「子供両人は居ないので、自分が出会う。」との答えで、表の口には次太夫、裏の口には茂右衛門が待ち懸けるところに、長左衛門が裏の口から出るのを、1間ほどやり過ごし、大袈裟に、茂右衛門が切り落とし、止めを刺し、別に出会う者も居ないので、川上の光明院に行き、附け届をして帰りました。

 

伊左衛門には、両人からは知らせないで居たところに、宿元に、その様子が知れ、伊左衛門に申し遣わしたので、すぐに、駆け出し、その日の暮れに、川上に参着し、都度城、川上宿に懸けて、3度、走り回り、「石井伊左衛門、唯今、懸け付け。長左衛門の子供、その外、相手になる者、出会え。」と、声高に呼ばわりましたが、1人も出会う者はなく、光明院に付け届して、帰り行きました。

 

45  福地孫之允の介錯人の事。孫之允、向井茂左衛門、池田善次郎、大隈新之允、中野休助が申し合わせ、休助の実の兄、澤邊平左衛門宅の的山(あづち)で、賭け射の的をしました。その末に、博奕になり、休助に向い、孫之允が過言を言い、取り伏せられたのを、押し隔て、分けました。

 

その頃、世上に言われたのは、「孫之允は踏まれた。」という事でした。これは、紛れもある由です。その上で、御調べになり、孫之允、休助は切腹、平左衛門はその場の亭主なので、これも、切腹、茂左衛門、新之允は浪人を仰せ付けられました。善次郎を御調べの時、同座して、博奕の同類の由を申し出たのですが、残りの人数から、善次郎は加わっていないという事を申し出たので、重ねて、御調べになると、「自分は、上手なので、その場には加えなかったのです。実は見物して居りました。しかしながら、一座のことなので、逃れる」ものではないと思い、同類と申し出ました。」との由を言うので、申し分よしとの事で、閉門を仰せ付けられました。

 

孫之允の介錯は、小城の蒲池氏がなされましたが、程遠い所から刀を抜き、初太刀を伐り損じ、叩き切りされたそうです。

 

46  古川三太左衛門の追腹の事。三太左衛門は、柳線院様に、こちらから御附けになった御料理人で、濕を煩い、食事が絶え、十死一生の様子だったのを御前様がお聞きになり、坂部御局を通して、大事にとの御気持ちから、御前の御用の品々を拝領させられました。有難く存知申し上げ、無理に粥を一口食べ、それから食に付き、本復されました。この時から、追腹の覚悟をされて居られました。

 

そうしたところ、御前様が御他界され、御葬礼の時、三太左衛門が御供なされ、死道具を持ち、参られましたが、差し止められたので、力及ばず、下国され、翌年、2月15日に追腹をされました。上杉殿から、附けられた家老衆に、御寺で三太左衛門は追腹を致します。御自分方も御供なされる事かと思い、申し合わせの事をと申されたところ、もとより、その覚悟のない事なので、それへの取り合いはなく、無興で、何もなく終わりました。その後、御在所で改易との沙汰となったそうです。三太左衛門の孫の増田氏の話です。

 

47  橋野将監の追腹を請合いの事。隆信公の御姫様が、唐津の波多三河守殿に御縁組され、御迎えに、八並武蔵守が来られたところ、御姫様は御病気で、十死に一生の様子でした。武蔵守が言うには、「御姫様の御共に参り来たことなので、もし御本復がなければ、追腹をします。」の由を言われました。頻りに差し止めましたが、一途に思い決めれていました。

 

御家老中が御僉議され、「こちらからも、追腹人がなくてはならない事です。御姫様の追腹を申し付けて、請合う者は居りません。橋野将監は御請け合いの事もあるものと思われます。」と、すぐに呼び出し、「こういう事で、面倒な事ですが、腹を切る事になる」の由を伝えられました。将監が言うには、「考えた事もない事です。ただし、御家の御外聞に懸かる事で、私には似合わない事です。日頃、大身で、立派になされている方々で、御切りなされて然るべしです。」と言い、「ただし、畏まりました。」と請合われました。そうしてから、直に武蔵守の旅宿に行き、「自分は、姫の重恩の者ですが、追腹の事、申し上げ、お話致したい。」と言ったそうです。しかしながら、御本復で、御祝言は済まれました。

 

48  廣橋一遊軒の仕立て上げの事。一遊軒は、御臺所の手男でした。相撲の意趣で、相手の7、8人を切り殺したので、生害に決まったのを、隆信公が聞かれて、「今の時、乱国で、勇者は大切だ。この男は勇者である。」と御赦しになり、その後、姉川辺の御働きの時、召し連れられると、比類なき高名で、毎度とも、御先に進み、分捕りをしました。

 

高木で御一戦の時、一遊軒が、あまりに深入りしたので、御惜しみなされ、呼び返し、御馬の脇で召し置かれたのですが、先手が進みかねていたので、駆け出し、駆け出しするので、鎧の袖を御抑えになられていました。その時、頭は数カ所切り割られ、そこに青葉を押し込み、鉢巻をして居りました。そのころ一遊軒の黒薬と言って、膏薬を合わせられ、外科などこの国にない頃で、腫れ物が出来た者は、黒薬を付けました。その薬は、臍垢に塩の練り飯でした。出来物の頭を切り割り、薬を押し込んだので、大方の者は、絶え入り、気絶したそうです。

 

直茂公の御腕に御腫れ物が出来ているのを見て、「是非とも、御見せ下さい。」と言うので、御見せになると、針を隠しておいて、急に切り割りました。直茂公は、「これは。」と仰せられましたが、「この程度の疵で痛むものか。」と言われました。直茂公は、鍼を取られ、一遊軒の頬を切り裂かれました。御仲はよくなかった由です。天正2年須古の平井攻めの時、直茂公の御手配に居て、討ち死にです。

 

49  有馬で、鶴田彌七兵衛が使者を勤めた事。原城の元日乗りの時、美作殿から大木兵部に彌七兵衛が使いに来て、口上を申し伝えていた時、城中から、撃ち掛けて来た鉄砲が、彌七兵衛の腰を打ち通し、たちまち、うつ伏せに伏しました。彌七兵衛は起き上がり、申し残した口上を言い継ぎ、また、打ち伏し、果てました。死骸を平千兵衛が送り返されました。千兵衛は、兵部の陣に帰ったところに、鉄砲が中り、果てたという事です。

 

50  赤司茂右衛門の御調べの事。茂右衛門は雑務役をされていて、勘定方の違いの事があり、石井傳右衛門、葉利左衛門が仰せ付けられ、御調べになりました。その口上披露の時、勝茂公の御心に適わない所がある由で、中野大學、於保作右衛門に、調べ直しを仰せ付けられ、傳右衛門、利左衛門も立ち会う様に仰せ付けられて、その頃の評定所は水ケ江の山代殿の御屋敷でした。

 

茂右衛門を呼び出し、一口言うと、傳右衛門、利左衛門が言い被せ、言い伏せました。その時、大学が言うには、「最初、それぞれが御調べの所、御心に適わないので、この度は、我等に仰せ付けられました。それぞれはお聞きになっていて下さい。さて、しっかりと、お聞きする事にしますので、よく落ち着いて、申し出られて下さい。」と言うと、茂右衛門は、「畏まりました。」と言い、差し俯き、頭が割れ、血が飛び出しました。

 

その後、全て、調べが終わり、4人一同が御前に出られて、口上披露すると、最初の口上と雲泥の違いでした。そうして、引き下がる時、大学が言うには、「傳右衛門、利左衛門、申し分があれば、今、御前で言われて下さい。後には、言わせません。」と言いましたが、両人共、一言も言わず、引き下がりました。

 

この科で、利左衛門は浪人、傳右衛門は有馬の軍功に合わせ考えられて、閉門を仰せ付けられました。

 

51  枝吉]利左衛門が米兜羅(ビードロ)屏風を打ち破った事。勝茂公が御参勤の前、長崎に米兜羅(ビードロ)屏風が初めて渡り来たので、御求めになり、珍しい物なので、御献上なされるとの由で、江戸に持って来られ、壊れやすい物なので、随分と念入りにされる様に、度々、仰せになりました。箱の拵えが出来て、御進物役の鍋島采女が受け取り、小屋に持ち帰られました。

 

そうしたところ、枝吉利左衛門が来て、「米兜羅(ビードロ)屏風という物を、話の種に、見て置きたい」の由を言われましたが、「箱に入れて置いてあるので、見られない」の由を言われました。けれども、是非見たいと言う事で、取り出して、見られましたが、取り落とし、打ち破りました。

 

利左衛門は、それをそのままにして置き、「人の運命は分からないものです。」と言い捨てて、立ち行きました。その様子が心もとなくて、呼び返し、「少しも、困る事はないです。わざとした事ではないです。御前には申し上げ様があるので、少しも、気に懸けないで下さい。何も御沙汰もない事です。」の由を、采女は言いました。

 

利左衛門が聞き、「大切の御道具を打ち破り、腹を切る覚悟です」の由を言うので、「さてさて、気の小さい事です。何ほどの宝でも、人に替える事はなされますか。」と言い、すぐに、御前に向い出られて、「御献上の米兜羅(ビードロ)屏風は、いよいよ大事と思い、小屋で入れ組具合を改めていて、取り落とし、打ち破りました。この事は、人に申し上げてもらうまでもないので、直に申し上げます。」と言い捨て、立ちました。その風情が心もとなく思召され、御呼び返しになり、「少しも困らない事。気に懸けるな」の由を申されて、されで、済みました。

 

その後、利左衛門、采女も、終に、沙汰はありませんでした。利左衛門は、この事の一礼を、何時か言おうと思っていたのでした。そうしたところ、勝茂公が御逝去、采女が追腹との事で、利左衛門から、進物に、浴衣1つ、大毛氈1枚、二階一間に広がる様に拵え、送られました。采女は、取り分け、過分の思いの由で、浴衣を着て、追腹されたそうです。介錯は三谷千左衛門。

 

この話に付き、大切の道具などを、いい加減に取り扱うものではないという事です。

 

52  石井縫殿助の放し討ちの事。縫殿助は、石井與左衛門という人が奸謀の事があり、勝茂公から、その放し討ちを仰せ付けられ、與左衛門の方に漏れ聞こえる事のない様に、その事を家内でも話しをせず、家来の彦右衛門という者1人に、密に言い聞かせ、鹿江村の與左衛門宅に行かれました。

 

與左衛門は、火鉢に松火を焚いていました。縫殿助が言ったのは、「この間から、御自分の身上の事を聞き合わせておりましたが、科に仰せ付けられる事に決まりました。もしも、申し開きなどはないのかどうか、相談の為に来ました」の由を言うと、與左衛門は、「さてさて、有難い事です。まず、御酒を差し上げたく。」と言って、勝手に言ったので、ここを延ばしてはならないと飛び懸かり、組み合っているところで、火鉢を踏み返し、暗闇になりました。

 

縫殿助の家来の彦右衛門は、内談の通りに刀を抜き、闇内に切ると、主人が上になっていたのを、大腰を切り落としました。その時、「これは縫殿助ぞ。」と言われるので、彦右衛門は、狼狽え、懸け出て、後で、自害されました。そして、縫殿助は、腰を切り落とされながら、與右衛門の首を掻き落とし、共に、果てました。

 

放し討ちを仰せ付けられた事を、その後、聞き付け、岩井與兵衛(三郎太夫の祖父)が、一番に懸け付けたところ、一家の者が、鑓、長刀で出向かいました。同組衆が段々に集まり、一家残らずを打ち捨てました。

 

この事が御耳に達して、縫殿助の倅、鹽童、13歳に成っていたのを召し出され、家督を相違なく仰せ付けられるとの事を、御家老中が仰せ渡されました。鹽童は、その御請けで、「有難く存じますが、家督の事は御断り申し上げたく思います。自分は養子なのです。後に、実子の倉法師が出生しました。縫殿助の内存でも、倉法師に、家督を譲りたく思われていたのだと思います。実子の事ですから、倉法師に家督を仰せ付けられ、自分は、無足で、召し使われ下さいます様に、お願い申し上げます」の由を申し上げました。

 

勝茂公は聞かれて、「若輩者が神妙の申し分だ。そうであれば、倉法師に600石、鹽童に100石を下さる」の由を仰せ渡されたところ、鹽童が、また、申し上げたのは、「重畳に、有難く存じ上げますが、縫殿助は、し落ちのこともなくて、一跡の知行を減じる事は、残念に存じ奉ります。ただ、自分は、無足で、御奉公申し上げたく。」と言うので、倉法師に家督を相違なく仰せ付けられました。鹽童には、内証で、「合力される事。」と仰せ付けられました。それで、70石を遣わし置かれたのだそうです。

 

鹽童は、高麗人の林榮久の嫡男です。次男の形左衛門は、榮久の家督を継ぎ、忠直公の御供をなされました。三男の藤竹源右衛門は、小城の家来です。鹽童は、段々と御用に立ち、石井彌七右衛門と言いました。倉法師は、後に、兵庫助と言いました。役人を勤めました。光茂公が龍造寺の八幡宮を御参詣の時、兵庫助は、屋敷内の的山のあづちで的を射て居て、逸れ矢が御駕籠の前に来ました。この時、浪人を仰せ付けられました。兵庫の子の修理は、帰参し、500石を下されました。

 

この話に付き、弓、鉄砲などの稽古の時、よくよく、落とし矢の確認をして置く事、とです。

 

53  石井茂右衛門の切込みの事。茂右衛門は、三郎兵衛の子です。乱心して、乗物を二挺鎖繋ぎして、その間の隔てを取り払い、女房も乗せて、早津江の百姓家に入り、戸口を閉め、大小を抜き、居ました。女房は、中野将監の娘です。

 

この事が勝茂公の御耳に達し、「中野一門に下されたものなので、茂右衛門は打ち捨てて、女房を、安藝に、どうか、取り戻す様に。」と仰せ付けられました。そしてまた、他領との境なので、見物人もあるはず。警固の為、足軽、物頭を二組遣わされました。

 

これによって、中野一門中は、色々、考え、検討して、早津江に向い越されました。その頃、山本神右衛門は、隠居入道していて、「有馬の手傷が残っていて、歩行が出来ないけれども、一門衆と同様に向かう」の由を言われ、一門衆から、「御老体の御越しは不要の事です。」との由で止められましたが、殊の外、怒り、「その方共は、何を分かってそう言うのか。手足は叶わないけれども、事の差し引きは自分がする。不調法の事をして、一門に恥を掻かせてはならないのだ。」と言い、乗物で、越し来たり、袖まくりを一本持たせ、家来の者に申し含め、来られました。

 

予め考えていた通り、家の両方を一度に打ち破りました。茂右衛門が双方に心を移しているところに、手棒で打ち止め、捕り伏せ、そうして、神右衛門の家来は、申し付けの通り、壁を破ると同時に、女房を袖まくりに引懸け、撥ね出したのを、そのまま、神右衛門は駕籠に乗せて、「自分は、この用事だけで来ました。後は、いずれもが、気を付けてして下さい。上からは、女房を、恙なく取り返す様にと仰せ出だされているので、少しも、疵を付けてはならないので、老人は、越し来たのです。」と言って、帰り行かれました。

 

その場で、茂右衛門は打ち捨てました。介錯は成富次左衛門(前名は五郎兵衛、後名は蔵人)で、その頃は、中野數馬の小姓分でしたが、房付きの縄襷を懸け、家が低いので、小膝を折って、首を打ち落とし、片手に提げ、間に刀を構え、検使に見せたという事です。

 

54  山本五郎左衛門の喧嘩の事(萬治3年です。)。五郎左衛門が20歳頃の事、7月17日、母方の伯父の大塚勝右衛門、同権之助を見舞いの為、田代の宅に、暮れ前に行かれました。途中で、網を引いていた者が、引き違いで、手竹の泥を五郎左衛門の白帷子の肩に擦り付けました。草履取りが立ち留まり、「無作法者。」と咎めると、その者が言うには、「よけた者に突っかかって来るとは、驚いた。」と、双方が言い合いになりました。

 

五郎左衛門は立ち帰り、「困る事ではないから、草履取りは、構わずに来る様に。」と言ったのですが、お互いに言い募り、網引き男は棒を振り上げ、草履取りを叩き伏せようとしました。それで、五郎左衛門は、走り懸かり、相手の髻を掴み、引き倒して、「不注意な事をして、一言も断らない。そればかりか、棒など見せて、不届き者だ。」と言い捨て、小者にも、「構わず来い。」と言って、先に通り過ぎました。

 

相手の子は、宿元の座敷で、謡を謡い、居ましたが、門外の事で、それを聞き付け、刀を持ち、駆け出して、「何毎ですか。」と言いました。親が言うには、「先に行った男が乱暴した。」と言い、草履取りと組み合っていました。この倅が、刀を抜き持って、五郎左衛門の後から、附け寄り、拝み打ちに打つと、右の肩から、乳の辺りを立ち割りました。五郎左衛門が、振り返り様に、抜き合う所を、また、左の肩から二刀切り、腕2カ所、合わせて、5カ所の手負いとなりました。

 

その為に、左右の手は萎えましたが、暫く切り合い、相手にも数カ所の手を負わせて、手繁く切り掛かったので、その者は、次第に後ろに引きましたが、その者の門の際で打ち伏しました。五郎左衛門は、乗り懸かり、止めを刺そうとしましたが、相手を打ち伏せてからは張り合いが抜け、腕も萎えたので、喉に刀を当て、足の指に刀を挟み、喉を蹴切りました。

 

それから、いよいよ、気が弛み、刀を杖に突き、草履取りを探すと、掘りの中に転び入り、最前の相手と、組合い、「ここに居ります。」と言うので、「その者、逃さぬ。」と言葉を掛け、切り掛かった時、切り離された方の疵は、元の様に付いたのでした。相手は、瑞龍庵の馬場に逃げ込むのを、追い掛けると、卵塔の方へ、小掘を飛び越えるところを、殴り打ちに打つと、切っ先で、頭から足まで、割り付けました。この者は、後には、生きたそうです。

 

そうして、五郎左衛門は、小者の肩に懸かって、「この辺りに、雪駄を脱ぎ置いた。探してくれ。」と言うと、小者は、「ただ、もう、捨てて下さい。」と言いました。五郎左衛門が言ったのは、「履物を捨てて立ち退いたと、後日の評判になるのを思うと、是非、探してくれ。」と申し付け、見つけたのを履いて、大塚権之助の所まで行きました。

 

この事を、五郎左衛門の親の吉左衛門が宿元で聞き、大塚左太夫との喧嘩と思い、長刀を持ち、「大塚一家を、撫で切りする。」と言って、駆け出されたりしたそうです。やがて、祖父の神右衛門が来て、外科に見せて、「疵が直り、自分で腹を切る様にさせたいので、とにかく、療治をお願いします」の由を言われました。段々、疵は直りました。

 

見舞いの人が、数多く来られた中で、鍋島監物殿に神右衛門が言われたのは、「さてさて、人の身の上は測り難いものです。自分は、老後、隠居の身で、皺腹を切ることになるとは思っても居ない事でしたが、不慮の幸せです。」と言われました。「それは、どういう事ですか。」と言うと、「倅の吉左衛門は病者で、御奉公は出来なくていたのを、色々と養生し、家督を譲りましたが、しっかりもせず、五郎左衛門は、人並みに生い立ち、月、星とも頼みにして居ましたが、この度の行懸かりちなり、相手は主水殿の御家来です。五郎左衛門は、やがて、切腹を仰せ付けられるべき事と思います。それを見て、永らえ居る事はできません。九萬軍神、あの者より先に切腹してお目に懸けます。」と言われたそうです。

 

そうしたところ、主水殿(睡雲)から仰せ上げられたのは、「山本五郎左衛門は、先祖が御用に立って居り、自分の家にも、その謂れがなどがある者です。相手は、自分の家来なので、この度は、五郎左衛門の御仕置を差し赦されます様に御断り申し上げます」の段を、申し願われました。これにより、別条なく澄みました。

 

五郎左衛門の話に、出宅の時、2尺8寸の刀を差して出ましたが、思わず、短い刀を差したい気持ちが付き、立ち帰り、2尺3寸の刀を差して出ました。それで、事が済ませられました。両の肩を切り離され、腕も思う様には出来ずで、長い刀では、なかなか、抜き合わせもならなかった筈です。二刀遣いでも、両手で漸く一刀を扱うものです。初めに、相手を、一刀でも切れば、勝負の合いの理も見えるのですが、だしぬきに、たたみ切り懸けられて、真っ暗になり、相手の体が、少し白く見えるのを目当てに、ただ一打ちに、鍔元で切るの念より他にはありませんでした。切られた時は、鞭などで打った様にとばかり覚えた由です。雪駄を踏み居ましたが、滑るので、踏み抜きました。この以後、一家に雪駄を踏ませなかったそうです。

 

55  龍雲寺の傳湖和尚の敵討ちの事。傳湖は多久の素性です。兄は、次郎兵衛、弟は、ある人(-何某)、母一人があります。9月の頃、母が談義に来て、次郎兵衛の子を召し連れました。帰りの時に、草履を取ろうとして、傍らの者の足を、次郎兵衛の子が踏みました。それを咎められ、その末に、言い募り、その者が脇差を抜き、次郎兵衛の子を突き殺しました。次郎兵衛の母は驚き、その者に縋りついたのですが、それも突き伏せました。そうして、その者は、宿元に帰りました。その者は、中島茂庵という浪人者の子で、五郎右衛門と言いました。弟は、山伏で、中蔵坊と言います。茂庵は、美作殿の話し相手で、五郎右衛門に知行を取らせ置かれて居ました。

 

この様子は、次郎兵衛の宿元に聞こえて、次郎兵衛の弟は、五郎右衛門の所に仕懸けましたが、内から戸を閉め、出会わないので、見舞いの様に作り声をたので、戸を開けたのを、名乗り掛け、切り結びましたが、掃き溜めに、2人とも落ち入り、五郎右衛門を突き殺しました。そうしたところに、中蔵坊が駆け出て来て、次郎兵衛の弟を切り伏せました。

 

この次第を傳湖が聞き付け、早速、次郎兵衛の所に行き、「相手は1人、こちらは、3人切り殺され、無念千萬で、中蔵坊を打つ様に。」と次郎兵衛に勧めましたが、請合いませんでした。傳湖は悔しく思い、出家なのですが、母、甥、弟の敵を討とうと思い立ちました。それに付き、平僧の分で居ては、美作殿に言うなりにさせられる事もあるかと思い、その後、出世して、龍雲寺の住持になられました。そうして、伊豫掾に大小を打たせ、手習いの弟子に呉れるものと言って、拵えまで作らせて、翌年、9月23日に出で立たれました。折柄、客来もあり、馳走などを申し付け、方丈から、秘かに忍び出て、俗の身拵えで出で立ち、多久に行き、山伏の中蔵坊を尋ねると、月待に出ていて、大勢が集まり居て、中々、手出しが出来ない様子なのでした。

 

けれども、次の時と取り延ばすことは出来ないので、親の茂庵を討って、本望を遂げる事にして、茂庵の宅に仕駆け、寝間に駆け込み、名乗り掛け、起き上がったところを、ひた突きに突いて、突き殺しました。近所の者が駆け付け、取り巻いたので、様子を話し聞かせ、大小を投げ捨てて、そのまま居られました。この事が、追々、佐嘉に聞こえ、旦那共が数十人駆け付けて来て、同道で、帰られました。

 

美作殿は、以ての外に、立腹されましたが、御立寺の住持で居られるので、手に及ばれず、鍋島舎人(普周)から、高傳寺の湛然和尚に申し入れられたのは、「人を殺した出家なので、死罪に仰せ付けられるべき」の由を申し遣わされました。湛然の返答は、「一派の仕置は高傳寺の心のままです。御構いない様に。」との由でした。

 

美作殿はいよいよ立腹して、「どういう御仕置きをされますか。」と尋ねられました。湛然は、それを聞き、「御聞きになられても無駄ですが、強いて御尋ねなので、申します。破戒の出家は脱衣追放にする作法です。」との由。そうして、高傳寺で、傳湖を脱衣、追放の時、弟子共が大小を差し、旦那共数十人が守って、轟木まで、送りました。道筋に、猟師の様な者が数人見えて、「多久から来たのか。」と言いました。その後、筑前に住居し、人が何人も持てなしされ、士などからも懇意にされました。その趣が聞き伝えられ、所々で、持てなしを受けたそうです。

 

56  江戸御蔵番の侍、堀江三右衛門の事。三右衛門は、御蔵の金銀を盗み取り、駆け落ちしたとの事。捕えて、白状の上、「重罪なので、責め殺しにする様に。」と仰せ付けられ、中野大學が検使に行き向かわれました。

 

まず、身内の毛を焼き、爪を剥がし、筋を切り、錐もみなど、様々に責めましたが、少しも動かず、色も変わらず、お終いに、背を立て割にして、醤油を沸かし掛けた時、身を反らして、果てたとの事です。

 

57  福地六郎右衛門が殺害人を押し留められた事。六郎右衛門が御城から退出の時、多久屋敷前で、御歴々と見える女中の乗物が通り、何者かが礼をして、そこに居ました。長刀持ちが、通りながら、「頭が高い。」と言って、長刀の柄で頭を打ちました。その者が頭を拭うと、血が付いていました。そのまま立ち上がり、「礼をして、そこに居るのに、法外の仕方で、残念の仕方。」と言葉を掛け、長刀持ちを、一刀に切り伏せました。乗物は、どこかに通り過ぎました。

 

六郎右衛門が、参り来て、鑓の鞘を外し、「刀を鞘に納めて下さい。御城中のことなので、抜き身を持たせては通しません。」と言いました。その者は、それを聞いて、「今は、逃れられない行き懸かりで、きっと、御覧になられたと思います。刀を納めたくは思いますが、今の御一言では、納め難く、迷惑ながら、御相手する事にします。」と言うので、すぐに、鑓を捨て、「御尤もです。福地六郎左衛門です。天晴、見事な御仕舞われ方で、自分が証拠に立ち、一命を捨て、御後ろを見るつもりです。刀を御納め下さい。」と礼儀正しく言うので、「心得た。」と言い、刀を納めました。

 

そして、「どちらの方の衆ですか。」と尋ねると、多久長門の家来という事です。それで、六郎右衛門が同道し、その次第を申し上げました。その時、六郎右衛門は出向かわれ、「侍の申し交わした事ですので、この人に切腹を仰せ付けられるならば、六郎右衛門が、先に切腹致します。」と言い、別条なく済んだと言う事です。

 

六郎右衛門は、大身ですが、宿元では、何時も、蓆(むしろ)を打って居たそうです。家来は、兼がね、不似合いの事と、呟いていたのを、六郎右衛門が聞き、ある時、使者の出合いに出る時に、門前で、馬に乗り、家来共に、「肩衣に蓆は付いていないか、よく見てくれ。」と言われたそうです。また、主水殿が、自分が役人をしている組の組親で、主水殿の所に行き、そこに居て、台所で、蓆を打って居たそうです。それも、時代の風儀で、寄親と組子が親しくされていたのだそうです。

 

58  鍋島安藝殿から志摩殿に意見の事。志摩殿から、使者を立てられ、安藝殿に申されたのは、「京都の愛宕に参詣したい」の由です。安藝殿が、それを受けて、「それは何の為ですか。」と言われました。使いが言ったのは、「弓矢の神と聞くので、御武運の為に思い立った」の由を言われました。安藝殿は立腹して、「はっきりと、無用です。鍋島の先手が、愛宕など頼んで成りますか。向こうに愛宕権現が立ち向かわれたならば、真ん中を二つに切り割り、先手を勤めるものと御思い下さい。」と返答の由。

 

59  深江助右衛門が駆込者を囲った事。助右衛門は柳原御前様に御附けになられました。ある時、土井大炊頭殿の御家老の中間が、朋輩を刃傷し、助右衛門の長屋に駆け込み、頼まれました。助右衛門は請け合い、囲い置きました。この事が知れて、家老共から使いが立てられましたが、差し出しませんでした。

 

大炊頭殿から、御使いが来ました。助右衛門が言ったのは、「主人の丹後守の申し付けで、奥様に御付きの者は、何事に依らず、表の御下知に從い、御家中同然に振る舞う様にとの由を申し付けられました。万事を、その通りに守って来ています。しかしながら、この度の駆込者の事は、鍋島の家に係わる事です。助右衛門を人と思い、頼み申されたのを、自分の身が難儀に及ぶからと言って、差し出しては、侍の一分が立ちません。自分の一命に替える覚悟でおります。大炊頭様の仰せでも、この事は、はっきりと、承知しない事」の由を申し切りました。

 

それに付き、御前様に仰せ入れられ、「全く、死罪などに仰せ付けられる事はないので、差し出される様に。」と、重ねて、丁寧に、御断りなされたので、後々の事まで、確かにと、承り届けて、別条はないと決まったので、差し出されたそうです。

 

60  深江助右衛門が相良求馬に意見の事。助右衛門が御目付け役をされ、御供立で上り向かわれた時、求馬は年寄役で、悪所に狂いされて居られました。数人が意見されましたが、聞き入れませんでした。ある時、助右衛門が来て、求馬に行ったのは、「御自分の悪所狂いの事は、すぐに、見届け居りました。それにより、言上するべきのところを、当時は、そちらが一人で御用が済んで居られました。言上すれば、御仕置となります。その時は、御国家の御用が済まないものと思い、御国家の事を考え、言上を差し控えて居りました。けれども、いつまでも、お考えが止まらないのであれば、是非なく、言上致します。言上するからには、年寄役だとかは言わせず、すぐに、御仕置に合わせます。何とか、御国家の為、お考えを止められてくださいませんか。」と言うので、求馬は涙を流し、過分至極の事と請け合い、止められましたとの事。

 

助右衛門は、緑樹院様が御死去の時、御許しの前に江戸で出家し、高野に御骨を納めて、下り帰り、高傳寺の御法事が過ぎてから、草場の百姓家の家を口なしにして、ごき穴から食を通し、御七年忌まで籠居して、その後すぐ、北山に庵を建て、引き入りました。

 

先年、野田八兵衛の座籠の番の深江平八、土肥蔵人の両人が不注意の事があった時、蔵人は浪人、平八は、長清の忠を思し召しになられ、閉門を仰せ付けられたそうです。綱茂公の御代、です。平八は、実は、大塚平次兵衛の子です。平次兵衛の女房は、助右衛門の娘です。助右衛門の子は、八左衛門。八左衛門の跡が、平八です。

 

61  中島十右衛門の母の敵討ちの事。十右衛門の親の何某が寝入っていた時、何者とも知れず、忍び入り、討ち果たして、逃げました。女房が起き合わせ、「何者ですか。やらぬぞ。」と言葉を懸け、臺所で追いつき、後ろから、むずと抱き付き、少しも動かさず、倅の久太郎を呼びましたが、寺に、夜手習いに行き、居合わせず、家来共を呼び寄せ、打ち留めたそうです。

 

十右衛門は、2度、浪人し、後に博奕宿をして、切腹です。

 

62  鍋島十太夫の家来の黒川小右衛門の女房の討返しの事。小右衛門の女房は、山城殿の家来の蒲原喜兵衛の娘です。小右衛門は、身上は3石で、初々しい感じで、芦原に住んでいました。隣に、徳永三左衛門という者が居ました。三左衛門は、十太夫の家老分で、有徳の者です。

 

8月15日は、喜兵衛宅の大町の祭礼なので、小右衛門は、女の方の事ですが、供日参りを思い立ちましたが、喜兵衛から蚊帳を借りていたのを、三左衛門の所に、質に遣っていました。供日参りに、客人もあるので、持って行きたいと思い、三左衛門の所に行き、「2、3日借りたい」の由を言いました。三左衛門は、請合わず、そればかりか、悪口などして、「多くの借銀を少しも払わず、その上、質物を返す様にというのは、理不尽なだ。今後は、こちらに出入りはするな。もし、来たら、打ち捨てて下さいとの手形判を出す様に。」と言いました。小右衛門は、もう、逃れられない所と覚悟をして、そこで、その手形判をして、帰り行きました。

 

その様な事になってしまったので、供日参りも行かず、8月27日までに、いろいろな事を秘かに取り片付けて、28日に田の初穂の餅をつき、夜になって、子供2人の枕元に並べ置き、女房へも知らせず、三左衛門の所に行き、窓からその意趣を申し伝え、討ち果たすので出会う様にと呼ばわりましたが、中から戸を閉め、答えませんでした。

 

三左衛門は、裏小屋に居ました。弟の與左衛門という者に、娘のお七を遣わし、この事を知らせたので、與左衛門は、表に回り、後ろから、小右衛門を切りつけると、頭を打ち滑りになりました。小右衛門は、振り返り、暫く、切り合っていると、與左衛門は藁が足に纏わり、倒れました。小右衛門も、同じく、倒れましたが、寝ながら切り払い、與左衛門の腹を切り破りました。両人は、共に、起き上がり、またまた、切り合いになりました。與左衛門は、次第に引色になり、外に出て、暫く切り結び、小右衛門は切り殺されました。近所の新介という者が駆け付け、與左衛門を肩に懸け、帰りました。

 

小右衛門の女房が聞き付け、鎌を持ち、駆け出し、小右衛門の死骸を見て、鎌で石を叩き、「無念なり。」と歯噛みして、小右衛門の脇差を取り、三右衛門の所の窓に立ち掛かりして、声を掛けましたが、だれも出合わず、中から、長刀で切り払いました。小右衛門の女房は長刀に取り付き、引き合いの出合いとなり、女が引くと、窓が崩れました。すぐに、中に駆け込み、三右衛門に数多の手傷を負わせました。その時、下人共が出合い、女房を切り殺しました。與左衛門は、9月朔日に果てました。三左衛門は、同4日に切腹されました。光明寺に納められたそうです。義柱師の話です。

 

63  鍋島左太夫の家来の道白の手疵の事。道白は、黒土原に住んで居ました。倅は、五郎兵衛と言いました。ある時、五郎兵衛が稲を担いで通っていたところ、向こうから、神代左京殿の浪人の、岩村久内という者がやって来ました。前に、遺恨があり、久内に稲を突き掛け、口論を仕掛け、久内を打ち据え、掘りに突き落として、五郎兵衛は帰って行きました。

 

久内は、言葉を残し、宿に帰り、兄の源右衛門に聞かせて、兄弟連れで、五郎兵衛の所に討ち返しに行くと、戸を細目に開けて、五郎兵衛が抜き身を持ち、待ち居るのを知らずに、源右衛門が入ったのを、横に払ったので、深手で、刀を杖に突き、外に立って居ました。

 

その時、久内が駆け入り、道白の婿の勝右衛門という者が、囲炉裏端に居るのを切ると、自在に当たり、勝右衛門の顔の半分を切り割りました。娘の夫で、道白は、久内の刀をもぎ取りました。その時、久内が言ったのは、「最早、本望は遂げました。兄を召し連れて帰るので、刀を御渡し下さる様に。」と、色々と、断りを言うので、渡したところ、刀を取り、道白の背を1カ所、首の半分を切りました。それから、五郎兵衛と切り合い、外に出て、暫く、勝負が付かなくて居てから、五郎兵衛の腕を切り落としました。それまでに、久内も数カ所の手負いで、兄の源右衛門を肩に懸けて帰っていたところ、源右衛門は、果てました。五郎兵衛が血止めなどをしていたところ、水を飲んだ事で、果てたのでした。数カ所の手傷でした。

 

道白の女房も指を切られました。道白の手傷は、首の骨を切り落とし、喉ばかりが残り、首は前に下がりました。道白は、自分の手で、首を押し上げ、外科に行き、まず、腮(あご)にくすねを付け、それに苧を懸け、上に縄を付け、梁に釣り、疵を縫い、総身を米に埋めて、動かない様にして、療治しまし。後には、骨は付き、別条なく癒えました。

 

道白は、最後まで、気分を取り失うことなく、始終、平生に変わる事なく、人参も飲みませんでした。三日目に血が走った時は、獨参湯を少し用いただけの事の由です。

 

この岩村は、親は久兵衛と大黒舞をしていて、拍子方、舞方の、拍子を論じて、久兵衛の頭を切りました。その為に、浪人となったそうです。(この喧嘩の一通りは、その時に、行き合わせた者の話で、直に聞き、書き入れたものです。)

 

64  成富蔵人が御城で、乱心者を捕えた事。西牟田三之允が御式台の番をしていたところ、麻裃を着て、書き物を懐に入れた者が、御式台から上がり、それを三之允が咎めると、「音成七郎兵衛という者です。殿様に御用があり、出て参りました」の由を言いました。乱心者と見えたので、御台所に連れて行くと、人が集まり、見ていました。蔵人が聞き付け、人を押しのけて飛び掛かり、取り伏せて、縄を掛けました。その者は浪人者で、乱心したとの由です。

 

65  石井権之助と西牟田三之允の口論の事。権之助は、神代殿の御家来です。有馬で、右の手を討ち落とされました。手切れ権之助と言い、口の利く曲者です。ある時、綾部市郎左衛門の所で、数人が参会し、話しをして居た時、三之允が言ったのは、有馬で、伯耆殿が不出来の由を言いました。権之助が聞き、起き上がり、「今の話、聞き届けました。何を証拠に、有馬話をされるのか。伯耆の供をして、有馬で、この様に片手を打ち落とされ、手切れ権之助と言われ、各々様方の御前で口を利く者が、主人の悪名を言い付けられ、その方を、立て置いては、一分が立たない所です。とはいえ、手がなければ、業はならず。この腹を突いて、腹を切れ。主人の為に捨てる命で、本望です。この様に言われて、この座を立っては、その方も、一分が立たないはず。ここに寄り来てくれ。」と、押し肌脱ぎ、仕掛けました。一座の衆が、様々と宥めましたが、赦さなかったので、三之允から詫び証文を出し、済んだとの事。

 

66  西牟田三之允の自害の事。三之允が大坂で納戸役を勤めて、下り帰られた時、勘定方が、違却の事があり、御調べの事となりました。評定所に出向かわれ、一通り、申し開きをして、帰り、大分多くの人の損となる事があり、自身も、いずれ、逃れられない事となり、自分一人の科に引き受けて、自害されたのだと、話になりました。

 

三之允は、玄智の兄です。兼がね、粗忽者でした。大野市郎兵衛と両人が、不寝番をしていて、相撲を取りました。三之允は負けて、大野の額を食い付き、噛みました。血が流れたので、三之允に、「拭いてくれ。」と言いました。三之允は、褌の端を出し、「拭く物がないので、これで拭いてくれ。」と言ったそうです。

 

67  中島二右衛門が大木兵部を討ち果たすとした事。先年、長崎に、イギリス船が来着の時、神代左京殿が向かわれて、大木兵部は相談人として、添えられました。船中で、兵部の話で、「有馬で、伯耆は不出来でした。」と言われました。二右衛門は、物陰から、それを聞き、左京殿を呼び寄せ、「今の兵部の話を聞きました。そのままにして置く者ではありません。兵部を海に切り込み、自分は、乱心者に成り、切腹をするので、その様に御心得ください。」と言いました。

 

左京殿が聞き、「尤もな事で、その方の志は感じ入りました。けれども、今度、長崎に向うのは、御家に関わる大事の場です。殿様の事を思い、我等の事を思いで、堪えて下さる様に。」と、色々と断ったので、堪えられました。この二右衛門は、実子がなくて、弟の源左衛門を養子にしました。源左衛門は、何事も器用で、芸能や細工で、しない事はないのでした。学問などもよくして、黙傳、寂湛という出家を2人を呼び寄せて、仏法を聞き、後には、剣術に仏道を取り合わせ、女中に剣術などをさせ、その外、事々しく、大げさな事があり、浪人したのだとも言います。また、荒い御意見をされて、浪人されたとも言います。

 

兄の二右衛門は、無芸無能でしたが、一生、家老役を尖り勤められたそうです。(源左衛門は、後に、入道し、一水と言いました。高城寺の齢西堂の親父です。)

 

68  志田吉之助の事。吉之助は、政家様の御小姓でした。勝茂公の御代になった時、石田慶春(一説に吉之助の弟と言う)を養子にし、家督を譲り、隠居楽人となりました。多久美作殿が懇意で、心安く出入りされました。

 

吉之助は、抜群の器量者なので、美作殿は秘かに万事を相談されていました。後に大知行を下され、御用に立つ様にしようと、美作殿は思われていました。その事を、吉之助は見て取り、馬鹿を拵えて、欲深者にして、眼薬を売り、質を取り、舞を舞い、人食い犬の近くでは、裾を絡げ、「足の疵は直る事あり。着物の疵は直らず。」などと言ったりして居ました。

 

けれども、美作殿は、彼の者が作り馬鹿になっているのを察せらて、いよいよ、奉公をさせようという心入れでした。吉之助は、また、見て取って、その後は、大臆病者にし成して居ました。鳥居の下を走り通り、御堀端は塀の下を通り、後には、御掘の端を通って、「切害人が来た時に、御掘りに飛び入り、命を助かる。」と言い、「打ち首よりは磔がまし。少しでも、遅く死ぬのがよい。」と言い、「生きても、死んでも、残る事がないなら、生きた方がまし。」などと、言い拵えて、終に、奉公はしませんでした。

 

ある時、筑後に、眼薬売りに行った時、山立ち追剥に会い、3人切り伏せ、2人に手を負わせ、追い払いました。この事を深く隠して居ましたが、段々に顕れ、「天晴の手柄の曲者だ。」と人が言うと、吉之助の応対は、「少しも、曲者ではなく、臆病だからです。というのは、油断したら、切り殺されそうなので、命が惜しさに、働き、相手を早く切りました。」と言いました。こうした事は度々でした。金銀を集め、埋め隠し、柱の節穴に込め、簗に釣りなどして、老後に龍泰寺の山門を建て、政家公の御霊屋の脇に庵を結び、果てました。一生を、欲深と、腐れ者に隠れて居ました。

 

光茂公の御代の初めに、美作殿が吉之助に相談したのは、「代初の仕立て方が大事だ。それで、勝茂公の仰せ置きの趣で、御書付を作り置いた。その方の思う通りに聞かせてくれ」の由で、2、3箇条を読まれた時、「退屈致しましたので、帰ります。」と言いました。美作殿は、立腹し、訳を尋ねると、吉之助が言うには、「御手前は人並みの家老かと思っていましたが、何の役にも立たない家老です。その訳は、家老という者は、主人に、家中の者の思いが付く様にするものです。今の書付を家中に見せれば、勝茂公の御事を有難く思い、その方の事を褒めるだけのことです。勝茂公の御死去の間もなく、家中の馴染みの士も、未だ、涙の乾かないで居るところに、この様な御遺言となれば、いよいよ、慕い申し上げ、当の殿様は、素より、馴染みはなし、江戸生まれ、育ちの主人は如何なのかと思っている時なので、1人も、思いの附く者はありません。忠節の家老の仕方とならば、その書付の通りを、悉く、当の殿様の思し召し寄りにして、自分の思い寄りなど、ゆめゆめ、人に知らせず、そうして、書き物を差し出す時は、さては、勝茂公にも勝る主人と、代初に、思いの付く様にするものです。」と言うので、美作殿は、「もっとも至極、だから、その方に見せた。」と、すぐに、書き物を破り捨てられたそうです。

 

69  生島作庵の御匙の事。光茂公が、上の關で、御疱瘡をなされた時、作庵が御薬を差し上げました。取り分け大切の御疱瘡なので、御供上下は、気を詰めて居りました。そうしたところ、俄かに、御瘡が黒くなりました。御看病人は力を落とし、作庵に、秘かに、申し伝えたところ、すぐに出て来て、伺い申し上げ、「さても、目出度い事です。御瘡が直りました。最早、別条なく、やがて、御快全になられます。作庵が請合います。上下、御祝いなされます様に。」と言いました。

 

御側の衆は、それを聞いて、「さては、作庵は、気乱れとなったものと見え、いよいよ、頼りない事。」と思って居りました。作庵は、屏風を立て回し、暫くして、御薬を一貼、差し上げたところ、たちまち、御瘡は直り、御本復になられました。後に、作庵が言われたのは、「御大人の御療治を一人にて請け合い申した事なので、もし、御本復なされない場合は、即座に、腹かき破り、御供するべしと覚悟を決め、一貼の御薬を調合し、差し上げました。」と、秘かに、話し申されたそうです。

 

70  中野内匠の遺言の事。内匠の末期に、一門共を集め、「奉公人の覚悟、三次第と心得るべし。御意次第、情次第、死次第、です。」との言い置きの由。中野氏の話し。

 

71  北島作兵衛の御仕置の事。作兵衛は、御側に勤めて居りました。ある時、光茂公が召させられたところ、緋縮緬の下着で、出て来られました。御穿鑿され、尋ねられたところ、神代辨之助殿に恋慕して、前の晩に、辨之助殿方に一宿して、辨之助殿の下着を着て、帰って来て、そのまま、出て来られたの由です。この事が明らかとなり、切腹を仰せ付けられ、その時、「大石小助が刃引き刀で切る様に。」と仰せ付けられ、「畏まりました」と御請けなされ、直に寺に行き向かい、常の刀で介錯をされました。この時、北島の名字は潰され、田原と改められたそうです。

 

72  田崎外記の御仕置の事。外記は、小小姓目付けを仰せ付けられました。誰かが、小姓衆に戯れかけているのを見て、「その方が、その様にするのなら、言上をします。」と言いました。この者は、さては、逃れられないものと心得、勝茂公の御前に出られて、「外記は御小姓衆に戯れている」と申し上げました。それで、「外記は、引き入り、下がる様に。」と仰せ出だされ、中野數馬に、仰せ渡しの書類を御書かせなされました。數馬が引き取る、下る所に、外記がこの様子を聞いて、御前に出向かう為に、御次まで来た所で、行き逢いました。

 

數馬が、取り敢えず言ったのは、「御手前は、仰せ渡しが、今、済む所です。すぐに、小屋に御帰りになって下さい。よい所で、出合いました。」と、笑って、言ったので、外記は小屋に帰って行きました。その後、仰せ渡しがあり、切腹が仰せ付けられました。妻子共に、御殺しなされたそうです。數馬が、機転の弁で、外記の気を奪ったと、その頃、噂されました。

 

73  石尾何某の御仕置の事。石尾又兵衛は、弟が御茶道で、坂部又右衛門の小小姓の時に恋慕して、討ち果たすなどという事が顕れて、切腹を仰せ付けられました。その時、ある人(-何某)が暇乞いに行かれると、頻りに落涙されるのでした。石尾が、切腹の場で涙を見せた事は、弱気の仕方で、腰抜けだと取り沙汰されました。武士の仕事は、少しの事も大事な事です。

 

74  中野數馬の組内の科人の僉議の事。數馬の組内で、御調べに出る者がある時は、前もって、組内で呼び、調べて、「その中で、不埒に落ちる事もあっては、組内の恥なので、いずれもが、気を入れて、思う所を言われる様に。」と言われたそうです。

 

75  中野甚右衛門の浪人の事。光茂公の御代、甚右衛門は、御近習頭を仰せ付けられました。その頃は、公は向陽軒に居られ、各役人は、御本丸に詰めていました。

 

何事か、甚右衛門から申し上げる様にと仰せ付け置かれた事を、「早々に、御書付を差し上げる様に。」と、倉永利兵衛に仰せ付けられたので、御本丸に言い遣わしましたが、書付けは来ませんでした。御前からは、間がなく、御急ぎで居られる時で、甚右衛門から利兵衛に宛てての様な手紙が来て、火急の時なので、利兵衛は、思わず、直に差し上げました。

 

御覧になられ、その書中で、自分事で、「この書付をすべて、持参する事になっていたので、御前には、持参したものとして、仰せ上げられて下さい。」などの書載がありました。以ての外の御立腹で、「すぐに、調べる様に。」と申されました。将監が申し上げたのは、「御調べに及ぶ程の事ではありません。すぐに、科を仰せ付けられます様に。」と申し上げたので、浪人が仰せ付けられました。

 

利兵衛は、申し訳なく思い、「役を下ります。」と言いましたが、将監は差し止め、「甚右衛門に憎しみがあってした事ではなく、あの者の運が尽きたからです。」と言われるので、利兵衛は、別条なく、勤められました。

 

あるいは、言われるのは、利兵衛の言い分は、今、一段、足りていません。「甚右衛門は、自分の筆談をしたのを、私が、気を付けず、御前に差し上げ、甚右衛門に科が仰せ付けられたので、私は、讒言したのと同然な事です。人に面目もありません。甚右衛門と同然の不調法で、御奉公を勤められるものではなく、なので、役を下がる事に致します。この事は御耳に達せられます様に。」と言い伝えられて、御赦しを得るべき事なのだとの由です。

 

こうした事は、心が遅れ、言い訳という事ではありませんが、その時には見えないものなのです。そういう時には、知恵を付けてくれと、朋輩、一門衆に、前から、言い、話し合って置くべき事なのです、と。

 

76  久納市右衛門が御加増の事。市右衛門は、取り分け、御用に立つので、御加増されたく思われたのですが、主水殿と市右衛門は仲が悪くて、御遠慮で、御加増なども仰せ付けられませんでした。

 

そうしたところ、市右衛門の宅に御成りなされるの事を、主水殿が御聞きになられ、勝茂公に、「市右衛門は御用に立つ者なので、この際、御加増下されて然るべき」の由を申し上げられました。御大慶、大方ならずで、すぐに、市右衛門を召し出され、御加増下され、「主水の心が直り、安心、至極だ。礼に行け。」と申されました。市右衛門は喜び、すぐに、主水殿に行かれて、御加増の御取り成しの御礼、かつまた、御成りで、薄縁を300枚下され、忝く、有難く思っている由を、深々と御礼し、感謝を申し伝えられました。

 

聞次ぎの者が、主水殿に申し伝えたところ、その後、面談で、「その方は、奉公に精を出して居るので、御加増の事は申しあげた。殿の御成りとの事なので、薄縁を300枚は遣わした。少しも、その方と仲直りの事はならない。すぐに、帰られる様に。重ねて、こちらには来ない事。薄縁は取り返して呉れる様に。」と申し付けられ、すぐに、取り返しになりました。

 

その後、主水殿の死去の前に、市右衛門を招き、「その方は、御用に立つ人ですが、自慢、奢りの心もある。それで、自分は、一生、仲悪くして、その方を押さえて置いた。自分の死後は、その方を押さえる人はいない。ずいぶんと、人に譲り、御用に立つ様に。」と言われました。市右衛門は、感涙を流し、帰って行かれた由です。

 

77  内田正右衛門の介錯事での返答の事。ある人が、御本丸の式台で、数人の中にいて、そこで、正右衛門が言ったのは、「御手前は剣術指南という事ですが、平生の気質からしたら、さぞ、手荒い指南と思います。介錯などを頼んでは、頭のてっぺんを打ち削るなどもある事と思います。」と言われました。正右衛門は、それに答えて、「そうしたものでもありません。御自分の首に墨を引き差し出してください。一部も違わず切って見せます。」と言われたそうです。

 

78  永山六郎左衛門が行列割りの者を投げた事。光茂公が御在府で、何方に御出での時、六郎左衛門は御乗物の棒先に立ち、御供をして居た時、何方かの侍が、ふと、出て来て、御行列に歩き入りました。六郎左衛門は走りかかり、その侍を捕え、下水に投げ込みました。そうして、そのまま、傍らに控えて、御行列に向い、「永山六郎左衛門の家来は残る事。」と言い、その侍に、「言い分はないか。」と言うと、「御赦し下さい。」と言って、通って行きました。

 

御帰りの後、その日の御供の者は、方々に出られて、難儀させたので、御酒の拝領を仰せ付けられるとの由で、いずれもが、出て行かれると、御出でになり、「ご苦労だった。御酒を下される様に。六郎左衛門にも御酒を下される様に。」とばかり申され、この事の一通りは、兎角の事はなかったとの由です。

 

79  永山六郎左衛門が道中にて、浪人者とやり取りの事。六郎左衛門が、東海道の浜松を通っていた時、宿外れで、物もらいが居ましたが、六郎左衛門の駕籠に向い、「越後浪人ですが、路線に困り、難儀しています。士はお互い様で、御見掛け次第で、下され物を下さいます様に。」と言いました。

 

六郎左衛門は立腹しし、「士はお互い様とは、出過ぎの事を言う。自分などは、そんな風になったならば、腹を切る。路銭がなくて恥をさらすよりは、そこで、腹を切れ。」と言ったので、立ち去ったそうです。

 

80  野副次郎左衛門の介錯請け合いの事。主水殿の組内の内田吉右衛門が切腹に付き、主水殿方に組中が集まり、介錯人を話あった時、誰も一言も言わず、時が過ぎました。その時、次郎左衛門が末座から立ち出でられて、「こうした事は、身上の高下、人柄にも依る事ではないです。される人がなければ、自分が致します。」と言い、し済まされました。

 

助右衛門殿の話です。

 

81  槙口與兵衛の介錯の事。與兵衛は、一生に数人の介錯をされました。金原何某が切腹をした時、與兵衛が介錯を請け合い、腹に刀を立て、引き廻した時に、廻り兼ねたので、與兵衛は側に寄り、エイ声を懸け、地踏みされました。その勢いで、一文字に引き廻されました。介錯が終わり、その上で、「いつも、隔てなく、寄合いしていたものを。」と、落涙されました。

 

助右衛門殿の話です。

 

82  ある人(-何某)が介錯の時、皮が少し懸かった事。ある人(-何某)が切腹の時、介錯の人が首を打ち落とすと、皮が少し懸かりました。御目付衆が、「懸かっている。」と言われました。介錯人は立腹して、首を掴み、切り落とし、目より高く差し上げ、「御覧ください。」と言われたので、座が冷めました。

 

助右衛門殿の話です。

 

古来の僉議に言うところでは、首が飛ぶ事もあるものなのです。検使の方になど飛ばない様にして、皮を少し切り残すのがよいのだと言うそうです。けれども、この当時は、打ち落とすのがよし、でした。

 

また、首を50切った者の話で、「首に依り、一つの胴ほども手応えする事もあります。初め、首を3つ程切るまでは、手に覚えなく、よく切れました。4つ、5つになってから、余程、手応えがするものです。とにかく、大事の事なので、何処までも、平地までも、と思われていれば、仕損じはないです。」と言われたそうです。

 

83  主水殿の末期に、安藝殿に話の事。佐留志で、主水殿の病気が差し迫った事になっていた頃、安藝殿が言われたのは、「仰せ置かれる事共があれば、お聞き致します。」の由を言われました。主水殿の答は、「言い置きたいことはあるけれど、役に立たないだろう。」と言われるので、「是非、お聞きして置きたいのです。」と安藝殿は言われました。

 

主水殿が言われたのは、「後、五年過ぎたら、大坂に一乱が起きるはず。その時の様子を考えると、それが、天下の弓矢のお終いであるはず。そうであれば、我も人も稼ぎ所の時だ。自分が存命なら、一番乗りをして、殿に加増させる事と思っていたが、本望を遂げずに残念な事だ。大阪の城は名城なので、乗り落とすことは難しい。自分は、数年、それを考えて、ただ一カ所を見附け置いた。」と言われました。

 

安藝殿は、これを聞かれ、「御安心下さい。御死後に自分が乗り落とします。乗り所は何処になりますか、御教え置かれます様に。」と言われました。主水殿が言われたのは、「弓矢の事は、その方も、自分と変わる事はない。それで出来る事ではない。功を積み、人に赦されなければできない事だ。殿を自由に扱う事は、その方は、自分の様にはならず、今が城の乗り潮と思う時、そのまま乗らなければ、人も稼ぎ、早、乗る。その方が、乗り落とすべし、と言っても、殿を初め、人が請合わないのだ。例の、ねば口十右衛門が、大事でござる、大事でござると言い、御僉議を始めたら、その間に、人が乗っ取とってしまう。自分が、生きていれば、殿にも、人にも構わず、そのまま乗り落とすのだ。その乗り所は、××ヶ崎、ただ一カ所。日本で、ここを知り、乗り込む者は、蜂須賀、一人だ。たぶん、蜂須賀の手柄になる。」と言われました。

 

さて、大坂の一乱は、年数が少しも違わず、安藝殿が、今こそと、上り行かれましたが叶わず、主水殿の申し分が少しも相違なくありました。安藝殿は、この事を、特に、残念と思われていたところに、原ノ城の一乱が起きたので、この時、一番乗りして、討ち死にと、思い込み、決められました。主水殿が末期まで召されていた夜着を形見に貰い置かれていたのを、陣中でも着られ、居られました。その夜着の切れが、深堀新左衛門の所にあるのです。これは、大阪冬の陣の事なのか、追って、考えるべき事です。

 

84  岩村内蔵助が御意見を申し上げた事。綱茂公が御幼少の頃、内蔵助を年寄役に仰せ付けられました。ある時、御前に判金があるのを内蔵助が見て、「これは、どういう事で、御前に出しているのですか。」と御側の衆に言われると、「唯今、御進物に来られた由を聞かれて、これまで、御覧になられた事がないと申されるので、御目に懸けています」の由を言いました。

 

内蔵助は、聞いて、「御大人に、この様な賤しい物を御目に懸ける事は、不調法千万の事です。御前にも、御覧なされる物ではないと、思召されるべき事です。御側の衆は、嗜み置く様に。」と、きびしく、叱られたのだそうです。

 

また、綱茂公が、20歳ばかりの頃、苗木山の御屋敷に、遊びに御」越しになり、御屋敷近くになり、御杖を欲しがられました。御草履取りの三浦治部左衛門が御杖を作り、差し上げようと持って通るのを、内蔵助が見て、すぐに、取り上げ、折り捨てられました。そうして、治部左衛門を叱り、「大事の若殿を腰萎えにするか。たとえ、お望みでも、御杖を上げない筈の事です。御側の者の不調法。」の由、以ての外に、叱られたそうです。

 

この治部左衛門は、後に、手明け槍迄立身しました。治部左衛門の話で聞いたそうです。常朝の御話です。

 

85  杉本道碩が酔狂人と応対の事。長崎に行かれた時に、道碩は、所持の煙草盆を、中台所の小屋に持ち行き、呼ばれたので、煙草盆は、そこに置いて、出られました。ある人(-何某)が、その煙草盆を取り、二階に持って上がり、置いていたところに、道碩が来て、煙草盆の事を尋ねました。その、ある人が、酒酔して、二階から言ったのは、「ここに、持ち上がり、置いて居ます。侍に、盗人沙汰を仕掛けるのか。不届き。」の由を言いました。その時、道碩は、はしごを2、3段上がり、上を見て、「やれやれ、強く出たな。」と言い捨てて、御屋形に出られたのだそうです。

 

86  石井甚左衛門の申し分の事。甚左衛門が、江戸の御留守居で詰めている時、御屋形で博奕をして、相手の石井杢之助の大小を取りました。この事が顕れて、両人は切腹、御居間番の松野喜兵衛は、江戸で死罪に仰せ付けられました。親の十郎太夫は浪人を仰せ付けられました。十郎太夫は、江戸勤めで、倅を召し連れて、行っていたのです。

 

甚左衛門は、御国元に召し返され、御調べの上、揚屋に入れ置かれました。御家老中が、話しを聞き、御尋ねの時、甚左衛門は、博奕の一通りを、詳しく、申し出て、その上で言ったのは、「私の仕出した悪事で、今、揚屋に入れ置かれ、この後、御仕置を仰せ付けられるものと待ち居る迄のところなので、少しも、思い残す事はないのです。けれども、唯一、無念の事があり、昼夜、口惜しく思っています。それは、揚屋の樋の下は、鎖下ろしです。侍も、この様になっては、樋の下を潜り、逃げるものと言われる事は無念千万に思います。」と言ったそうです。

 

さてまた、御仕置の時、藤井嘉平次が寺に見舞いに行くと、暇乞いの盃事をして、肴に田芋を取り、半分噛み割り、小声で言うには、「これは、出ないか。」と言うので、「どうして、出る筈がある。」と嘉平次が言うと、「いや、胸が詰まり、なかなか、呑み込める物ではない。切り口にあったら見苦しいかと。」と言って、捨てられました。

 

そうして、嘉平次に、秘かに、言ったのは、「自分は、人に重んぜられる者ではありましたが、今思うと、腐れ者でした。死に場で、もし、這い廻りしたらば、それは、兼て思う事でもあるので、早く、片付けて下さい。というのは、曲者は、死に場は平生と変わらないものと聞いています。昨夜までは、変わらずに居ました。寺に来てから、変わり、無念に思うのです。」と言いました。介錯は大塚貞助でした。取り分け、死に場がよかった由です。

 

嘉平次の直の話しです。

 

87  石井三郎太夫が安藝の使者番と応対の事。三郎太夫が江戸の留守居の時、御使者に出て、山下町の廻り角を乗り回した時、何方の使者番の挟み箱持ちが、馬の後に突き当たり、跳ね返され、たちまち、跳ね殺しになりました。その主人が、馬から下りて、「自分は、松平安藝守の家来の何某という者です。今の、一通りをご覧になられましたか。」と言われました。

 

三郎太夫は、馬から下りて、「そうです、見届けました。しかしながら、御断りを言う事でもなく、其処もとの引けを取る事になる事でもないです。前足で踏んだなら、不調法ですが、後足の事なので、特に、障りなければ、跳ねないものです。時の御不幸せというものです。この先、御難儀と思います。こちらの用聞所に御出でになり、御養生され、御用事など、仰せ付けられて下さい。自分は、急用で、何方に行くところです」の由を言い、龜屋彦右衛門の所に引き連れ行くと、先の人が言うには、「仰せ聞かせられた事は尤もと聞き入りました。自分は、この頃まで、小姓役を勤め、先日、前髪を取り、使者番の申し付けで、今日、始めての勤めです。先頃まで、朋輩共と、江戸表の事を稽古して来ましたが、こうした事は、考えませんでした。これから帰って、朋輩共に話し聞かせ、萬一、自分の引けになる事ならば、追って、御考えを伺いたいので、御屋敷、御名、御長屋迄、御書き下さいます様に。」と言いました。

 

三郎太夫は、これを聞き、「御引けになるような事であれば、何時でも、御相手になります。」と言って、書付けを渡し、通られました。翌朝、その人が、三郎太夫の長屋に来て、「朋輩共に聞いたところ、少しも別条なしの事でした。その場の御介抱は忝く、有難く思います。早早、御礼に行けと言われ、出て参りました。」との由を言い、帰りました。20歳余りと見えたそうです。

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*2 軍平 大石軍平(又之允の父)、

*4 紀州 鍋島元茂

*11 加賀守 鍋島直能

*12 弘徳院殿 鍋島直能

*13 相模守 鍋島茂和

*13 若狭守 鍋島茂綱

*13 民部 鍋島茂明

*13 山城殿 鍋島直弘

*13 美作守 多久茂辰

*16 安藝殿 鍋島茂賢

*25 主水殿 鍋島茂里(茂賢の兄)

*26 諫早豊前(水月院) 諫早茂眞

*30 鍋島普周 鍋島種世

*33 月堂様 鍋島元茂

*42 石見守殿 安住秀能

*46 柳線院様 鍋島光茂の前室

*54 山本五郎左衛門 山本常朝の甥

*59 柳原御前様 土井利重の室(鍋島光茂の長女、お仙様)

*60 緑樹院様 鍋島光茂の長女(土井利重の室)

*65 伯耆殿 神代常親

注記 3:川上御経 →川上峡のお寺での法要会

注記 3:口書 →供述書

注記 3:すくたれ者 →くされ者

注記 17:目安 →訴状

注記 21:無足 →領地を与えられないこと

注記 21:から尻馬 →荷物のない馬

注記 21:ねたば →鈍くなった刃

注記 29:公事 →訴訟事

注記 44:取手者 →柔道、相撲などの力技の人

注記 51:米兜羅 →ビードロ

注記 55:月待 →定まった月齢の夜に、月の出を待ってこれをまつる行事

注記 60:口なし →窓のない家

注記 63:くすね →薬練

注記 65:押し肌脱ぎ →上半身の着物を脱ぎ、肌を表す

注記 76:薄縁 →縁の附いた敷茣蓙

 

 岩波文庫「葉隠」下巻

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