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2021.5.19(水)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠            

   葉隠 聞書第九      ●40                                                               

■聞書第九

 この一巻は、第七、第八と同じ。御国の諸士の褒貶です。
 

1  寛永14年、勝茂公が御参勤の時、長門殿(安順)が申し上げられたのは、「私の孫の美作は、年若ですが、よく学んでいるので、御留守の請役を仰せ付け下さいます様に。」と申し上げられたので、美作殿に仰せ付けられました。20歳余りでした。そうしたところ、有馬の原の城の一揆が起り、御領の境まで、人数を差し出されるという事で、美作殿が継紙を作り、即座に、自筆で、いろいろな仕組、浦々の取り決めまで、片時の間に定められました。

 

江戸で、勝茂公が心もとなく思召され、鍋島市之丞を以て、御仕組みの御書付を作られ、遣わされたところ、美作殿の仕組は、少しも違いはなかったという事です。

 

2  鍋島生三が、上方の土産を差し上げられた事。生三が参宮し、下り帰られ、直茂公御夫婦様に土産を差し上げる由を言われ、御覧遊ばされると、剛意様、花渓様の御位牌でした。「よく気が付かれて、過分な事です。高傳寺の御位牌は粗末です。」と、内々、思召されたそうです。さらに、位牌を2つ出した時、「それは。」と言われると、「これは、御夫婦様の御死去の節の用に。」と、差し上げられたそうです。今の御位牌です。

 

3  下村生運が登城されると、直茂公の御話で、「伊平太は、年よりは逞しく、力量もあり、大慶の事。側の者共が相撲を取ったが、年上の者にも勝った。」の由を仰せられました。生運は、それを聞いて、「年は取りましたが、座り相撲を一番取ります。」と言って、伊平太様を引き寄せ、御痛みなされるほど投げました。そうして、言ったのは、「まだ骨も定まっていなくて、力自慢などすれば、人中で恥を御掻きになり事があります。見かけよりは弱いです。」と言って、立たれたそうです。

 

4  永山六郎左衛門が火事場の御供をされた事。光茂公が御在府中に、申歳の大火事が出来し、御登城の時、御側も外様も、残らず御共に出で立たれました。年寄衆から、「残る様に。」と言われましたが、少しも、聞こうとしませんでした。

 

この事が御耳に聞こえ、御馬を召されてから、「当番の者は供をし、非番の者は残る様に。」と申され、御一言で、鎮まりました。その時、六郎左衛門は、年寄衆(山﨑勘解由)の手を取り、「永山六郎左衛門、当番なので、御供致します。」と言って、御供されたそうです。

 

5  相浦源左衛門の御使者勤めの事。寛永11年、家光公が御上洛の時、勝茂公が御供なされました。御旅宿に、若年寄の永井信濃守から御状が来たので、御返書の御使いを、源左衛門が仰せ付けられました。信濃守殿の御旅宿に持参したところ、御登城の由を、取次の者が言うのでした。源左衛門は、初めて御供に登り来て、公儀勤めは不案内で、二條の御城に持ち行き、御玄関前まで行きました。

 

御番衆が見咎め、「狼狽え者と見える。捕える様に。」との事で、棒突きが立ち上がり、棒を当てようとしました。源左衛門は、壁を背に当て、蹲り、御状を取り出し、「御静まり下さい。申し上げる事がございます。」と言う。その風情が尋常ではないので、棒突きも、猶予した時、岡部丹波守殿(外山)が、奥から御出でになり、御玄関が騒ぎで、御見分なされ、源左衛門が言い、「自分は、鍋島信濃守の家来でございます。永井信濃守様に書状を持参して参りました。」と言われる。丹波守殿は、御聞きになり、「鍋島の家来ならば、自分を見知っているか。」と仰せられました。

 

「これまで、見知りございません。」の由を言いました。丹波守殿も、気分を損ね、「この人は、初めて勤めの、不案内者と見える。鍋島の家来で、自分を見知らないのが証拠だ。御番衆は、御静まり下さい。自分が引き受けます。」と言われたので、御当番は、源左衛門を憎らし気に見て、歯噛みし、睨み睨み、立ち退きました。

 

さて、「その書状を、こちらに御渡し下さい。返書を取り遣わします。」と言われました。源左衛門は、それを聞き、「私のこの場の難儀は、一命に懸かる事です。書状を、見知り申し上げないい方に御渡しする事はできません」の由を言いました。丹波守殿は、御聞きになり、「尤もだ。しかしながら、その方こそ、見知らぬ者だ。自分は、信濃守殿の妻室の弟の岡部丹波守だ。構わないから、書状を寄越してくれ。」と言われるので、御渡しすると、やがて、返書を御持ち出でになり、渡されるのを受け取り、帰り行きました。

 

晩方に、丹波守殿が、こちらの御旅宿を御出でになり、この次第を御物語りで、「源左衛門の働きは、比類ない器量者です。御目を懸けられ、召し使われます様に。」と御褒美になられたので、御叱りもなく、その後、段々、立身を仰せ付けられました。

 

6  諸岡嘉右衛門が使者を取次の事。光茂公が御在府中に、御式台に、何方の使者を受け、取次したところ、光茂公が、その何方に御出でで、御通り掛かられました。嘉右衛門は御前に向かわれて、使者の応対をして、その御口上を申し上げました。

 

また、同人が、綱茂公が江戸に御越しの時、御供をし、光茂公が御下国で行き合わせになられる時、途中から急に御使者を遣わされるという事で、嘉右衛門が仰せ付けられました。「裃を着てする様に。」と申されるので、挟み箱をを開けようとしたところ、鑰(かぎ)が見つからないとの由を家来が言うので、御目通りして、挟み箱を踏み割り、裃を取り出しました。

 

その後、その時の有様の絵を御筆になされ、拝領させられました。

 

7  大木権左衛門が山城殿と組打ち始めの事。山城殿の所に、年の礼で、権左衛門が出掛けられると、「よく来た。まだ組打始めをしていない。その方が取り方相手になれ。」と言われました。権左衛門は、それを聞き、「取り方相手ばかりではできません。私にも取らせて頂ければ、御相手にもなります。」と言うので、「なるほど、その方にも取らせる」の由を言われました。

 

決めの事を言葉で言い固めて、権左衛門が取り方相手になったのを、山城殿は、ちから一杯御取り伏せになり、仕舞われて、御立ちになるところを、権左衛門は引き止め、「侍の言い交わしたことを変えるなどありますか。」と言うので、「では、簡単にしてくれ。」と言われ、取り方相手に成られたのを、権左衛門は力を出し、取り伏せ、痛くなったので、山城殿が力量は勝るので、「憎い奴。」と、御取り返しに掛かられたのを、権左衛門は、脇差を抜き、山城殿の首に押し当て、「鎧武者の取り様は、こうです。」と言い、少しも動かさなかったそうです。(村岡氏の話)

 

8  松田與兵衛の喧嘩の事。石井甚九(後名は利左衛門)は、與兵衛と知音の仲になっていた頃、野副甚兵衛に対しての遺恨が出来て、與兵衛から甚兵衛に、「討ち果たすので、来る様に。」と言い、同道し、木原の山伏屋敷に行き、一ツ橋があるのを取り除けて行き、遺恨の趣旨を言い伝え、双方が思っていた事を申し開きすると、何の事もないのでした。

 

「さてさて、討ち果たす事ではない、帰ろうか。」としたところ、橋はなく、「この時分に、掘を越えるのはない。どうしようか。」と言っていたところ、両人が打ち果たしに来た事を聞いた者が、忍び忍びに見物に来ていました。それを見附けて、「もう、逃れられない所だ。後日の悪名になるので、打ち果たしする」と申し合わせ、やや、しばらく、切り合いました。

 

與兵衛は深手を負い、畑の間に打ち伏しました。甚兵衛も深手を負い、眼に血が入り、與兵衛を見付けられず、探しているところを、與兵衛は、伏しながら横に払い、切り止めました。止めを刺そうとしましたが、手力がなく、足で刀を踏み、止めを刺しました。そうしたところ、次第に、朋輩共が駆けつけ、與兵衛を連れ帰り、疵の平癒後に、切腹の仰せ付けになりました。その時、甚九を呼び、暇乞いの盃をしたそうです。(金丸氏の話)

 

9  多久兵庫の火消の時の事。長瀬町が火事の時、兵庫が一手火消で、消して、帰り行かれていたところ、西寶院(西念寺とも)の小道で、大島何某(浪人者)が行き合い、道を踏み退けていたのを、供の者共が、「無礼だ。」と言い、掘に付き込みました。後から、子の市太夫が、前髪立の頃ですが、来て、咎め掛かり、数十人を、若輩の一人で切りたて、無類の働きをしましたが、大勢が相手で、力及ばず、打ち臥せられました。

 

翌年、盆に、市太夫が燈籠を持ち、寺参りをしていましたが、多布施の土井で、鑓疵があり、突き殺されていて、相手は、終に、分かりませんでした。世上には、兵庫の仕業と言われました。中でも、その立場の口利きの衆の中で、それが言われました。

 

そうしたところ、兵庫から、口利きの者達10人ばかりに、夜会するという事で、廻し手紙が来ました。さては、その件を、何か言うものと思いながら、行って見ると、何の事もなく、夜明けまでの御取り持ちでした。それ以後、その沙汰はなくなったそうです。

 

10  吉島五郎左衛門が水風呂桶に乗った事。御参勤の時、御共に召し連れられたところ、築庭の名人との事が知られ、御老中から招かれました。その時、風呂桶に乗って行かれました。これは、馬上でと仰せ付けられなかった事を、是非なしと思い、そうしたのだそうです。

 

また、長門殿を御招きになった時、前日になってから、長門殿用と言って、人夫を数人、山々に行かせ、振りの良い木を切らせ、庭に突き立てて、一夜に、庭を作り替えました。

 

ある時、長門殿の所で、舫(もやい)銀の僉議の時、五郎左衛門は、五徳を持ちだし、「一足は殿様、一足は御家中、一足は百姓、三足にて立って居ります。舫銀では、一足を打ち折ると、御家は立たないのです。」と言うので、長門殿は尤もな事と、舫銀は止めたそうです。

 

五郎左衛門の跡は、兄弟に譲ったところ、論が出来、断絶しました。同人が、にせ物語を書かれました。その中の歌で、

 

老いぬとも、さらぬ入り目のありと言えば、いよいよ見まくほしき銭かな

 

また、

 

阿弥陀如来、とても助くる願いならば、このまま此処に置き給えかし

 

11  須古八兵衛が大下馬で働きの事。勝茂公が御登城の御供番に、八兵衛が出られました。大下馬から辰ノ口へ廻る所で、門番の棒突きの後を通ると、棒突きが、前の者を打とうとして、棒を振り上げたのですが、八兵衛の眉間に当たり、血が出ました。八兵衛は血を拭き、飛び掛かり、棒突きを取り伏せると、同列の者が、棒を振り上げ、振り回しました。その時、御供番の仲間が一所に集まり、刀を押さえ、構えました。御頭衆が来られ、様子を聞き、「こちらの者の誤りです。こちらで咎はします。」との由で、受け取り、事は済みました。

 

12  大久保勘之助の敵討ちの事。鹽田の大久保藤右衛門は、鍋島監物の被官で、酒屋でした。甲斐守様の御嫡子の大蔵殿が不具で、御引き入りになられて、美濃という所に居ました。。相撲取りを抱え、奴好きでした。相撲取り共は、いつも、近村に行き、狼藉を働いていました。

 

ある時、藤右衛門の所に来て、酒を飲み、理不尽をし、それで、藤右衛門は口論し、長刀で切り合いましたが、相手が2人で、藤右衛門は切り殺されました。子の勘之助は15歳で、常在寺に手習いに行っていましたが、この事を知り、駆け付けて来て、1尺3寸の脇差で、大男2人を相手に切り合いをして、2人を、その場で、討ち留めました。勘之助は13箇所、手傷を負いましたが、平癒しました。後に、道古と言い、按摩の術の上手い者でした。

 

13  多久家の茶道方の者の酒狂の事。伊豆殿の茶道方の者が何方で大酒して、夜半過ぎに帰った時、太田弾右衛門殿の屋敷に入り、書院に通り、掛物、畳、障子、庭木まで、切り散らしてありました。それを見合わせた者はいませんでした。夜明け方に、多久殿の西の橋の上で、抜き身を振り回しているのを、神代殿の御屋敷番の神代三左衛門が、いつも、夜明けは、屋敷の内外を見分していましたが、見合わせて、すぐに、捕え、連れ帰り、酔いを醒まさせ、秘かに帰しました。

 

太田殿では、翌朝、跡を見附けて、不審のまま、分からず、色々と話し合い、調べたところ、上記の、その様子が知られました。多久家にも知れ、糾明したところ、茶道方の者が白状したので、仕置するべきの由を家来共が言いました。伊豆殿は、御聞きになり、「まずは、そうせずに、控えて置く。自分の、日頃の願いで、元山様の御七年忌までは、自分の仕置で人を殺す事はするまいと思っている。弾右衛門は、兄弟なので、話してみる。」と言われたそうです。

 

御城で、この事を弾右衛門殿に御相談になると、「一切、御叱りもなされない様に。その御方への仰せ付け次第では、私の家の家来の数人が科を申し付けずには居られず、その時は、御奉公もできなくなります。」と言われるので、差し赦されました。

 

伊豆殿は、後に、伊豫殿と御改めになりました。慈悲深くて、家中、百姓まで、よく馴染み、御死去の時は、庄屋共が、村々から願書を捧げて出て来て、今も、進山講と言い、御弔いをされている由です。

 

14  中野又兵衛に、中野數馬が教訓の事。又兵衛が奉公の初めの頃、數馬(兵右衛門)が言われるには、「皆、人は、幼少の時に、いろは、を習い、その後、段々と、手本を習い、善し悪しはあるけれども、物を書かない者はいません。奉公も、手本を置いて習えば、奉公人となるものと思います。人は、それに、気が付かず、奉公が不調法になります。」と言われるので、「手本は誰にするべきですか。」と、又兵衛が尋ねると、「山﨑三郎兵衛(後名は勘解由蔵人)などがよいです。」と言われました。それからは、万事、三郎兵衛を見まねしました。その後、勝茂公の御供立に、三郎兵衛、又兵衛が、毎年、御供を仰せ付けられ、御駕籠の左右を両人が勤める事になったそうです。

 

又兵衛が老後に、この事を言われては、數馬の手本の事を言われるので、今も、その心を失わず、万事に付け、心に僉議しておられるのだとの由、言われたそうです。

 

15  徳永古善右衛門の老後述懐の事。善右衛門が言われたのですが、「今、陣立と言っても、極老して、体も不具合なので、働くことはできない、が、敵中に駆け入り、突き殺されて死にたいものです。やがて、このまま腐れて死ぬのが残念です。」と、くれぐれと述懐の由を、行寂和尚が小僧の頃、聞かれたそうです。

 

行寂和尚の師父の要門和尚は、善右衛門の末子です。

 

16  中野數馬が嫁の死骸を葬った事。數馬の総領の三太夫に、岩村内蔵助の娘を縁組されました。5、6歳の時に、疱瘡で果てたのを、「一度、披露した嫁なので、こちらの寺に葬らないという事は出来ない。」と言い、死骸を取り寄せ、葬りました。その時、數馬の家内に、疱瘡前の幼子が3人ありました。一人は、病に罹っていた頃でした。岩村は、色々と断りましたが、聞き入れなかったそうです。

 

17  片田金左衛門が猛虎と討ち死にの事。高麗の御陣の時、虎狩りがありました。猛虎が1疋出て来て、岩を木立の様に背にして、威を振い、控え居りました。近づく者はありません。金左衛門は、刀を身に引き付け、持ち、数万の中から、ただ一人、進み出て、虎に向い、飛び違え、走り合わせ、しばらく戦い、虎の首に刀を突き立て、まもなく、首を掻き落とした時、虎は怒って、金左衛門を2つに引き裂きました。

 

諸軍の人々は感動し、時を移し、過ごしました。加藤主計殿は、「あれあれ。」と、思わず、鍔(つば)を叩かれて、十の指から血が出たのだそうです。金左衛門は、諫早家中です。勝茂公は、子供に、知行を下されました。

 

金左衛門の孫は恵了長老です。

 

18  鍋島平左衛門の家中の高瀬治部左衛門の事。相良求馬が御家老に仰せ付けられた頃、平左衛門に言われたのは、「自分は、段々と、よい形で召し使われ、大身を仰せ付けられましたが、用に立つ家来を持たず、事欠いております。そちらの家中の治部左衛門を望み致し度く」の由で、平左衛門は、聞いて、「自分の家来を御目に留められたのは本望です。それでは、差し上げます。」と請け合い、治部左衛門にその事を申し渡したところ、治部左衛門が言うには、「この返答は、求馬殿に、直に言います」の由で、求馬の所に行き、面談して、「私を人と思われ、御所望の事、忝く、幸せに思います。しかしながら、奉公人は、主人を持ち替えないものです。そちらは、御大身なので、御家来になれば、一生、生計は立つものと思いますが、その生計は苦しいものです。平左衛門は、小身で、貧しく、自分らは、雑炊などを食べて暮らしていますが、それは甘く思います。思し召し分けられて下さいます様に。」と言うので、求馬は、ひとしおと、感じられたそうです。

 

治部左衛門は、大膳が有馬の働きの時に供をしたものです。

 

19  ある人(-何某)が密夫を切った事。ある人が、何方に行き、夜更けに帰ると、何方の者が忍び入り、女房との密通しているのに見合わせて、その密夫を切り伏せました。そうして、壁を破り、米一俵を立て掛けて置き、筋筋に、強盗を切り止めたと申し出て、見分の上、別条なく済みました。程過ぎてから、女房に暇を出し、全てを片付けたそうです。(金丸氏の話)

 

20  ある人(-何某)が女房を切り殺した事。ある人が、何方から帰ったところ、女房と家来が寝間で密通しているのを見合わせて、それで、座敷の方に行くと、家来を台所に逃がすのでした。その時、寝間に入り、女房を切り殺し、下女を呼び、この事を言い聞かせて、「子供の恥になる事なので、病死という事にするので、随分と、働いてくれ。もし、ああだこうだ言うなら、重罪の事なので、すぐに、切り捨てる。」と言うと、「命を御助け頂けるなら、随分と、知られない様に働きます。」と言い、取り片づけて、夜着を着せて置きました。

 

そうして、医師の所に、急病の由、2、3度、人を遣り、その上で、「片付きましたので、御出でに及びません。」と留め遣いを出し、女房の伯父を呼び寄せ、この次第を言い聞かせ、納得したので、全て、病死にして、最後まで、それは知られませんでした。後日に、その家来は暇を出したそうです。

 

これは、江戸での事だそうです。

 

21  ある人(-何某)が討ち果たしの時、ある人の意見の事。御在府中に、ある人(-何某)が出頭人で、上に立っていた頃、御用に事寄せて、ある人(-何某)を様々に悪口し、叱りましたが、言われた何某は、その時は、一言も言わず、立ち帰られました。その様子は、討ち果たす覚悟と見えました。ある人が、脇小屋に呼び、「先程の行掛りで、遺恨を晴らすべしと思われて居る事は尤もに思います。けれども、奉公の眼の付け所の違いで、遺恨が出て来たものと、出過ぎたことですが、思います。そう言うのは、殿の思し召しに、我々などは、何かの時に、一鑓を御頼みの事もあるので、日頃、心を隔て、召し使われるのです。

 

あの者などは、普段の尻拭い役に召し使われるので、御心安くされるのです。それを気が付かずに、親しく使われて、出頭で、上に立っているなどという事で、人に不躾な事を言う、大たわけ者です。大たわけなので、心安く召し使うのです。蠅が頭に止まるのと同じだと思います。その様な者を相手に、大事の場を御頼みのために召し置かれる者が、討ち果たしをする事は、かったいと棒打ちで、無用の事です。その上、主に事欠かせる事は、不忠です。この申し分を聞き分けられて、思い止まられたら、実の士です。その上で、御心次第になされて下さい。思い付いたので、御話し申しました。まったく、無理に止めようというのではありません。」と言われるので、留まられました。

 

22  多久美作殿が小城に見舞いに行かれた事。紀州様に美作殿が見舞いに行かれて、話の序でに言われたのは、「末の代になってから、御家は何で崩れるものと思われますか。」と言われました。紀州様は、暫く、考えられて、「多分、自分達の子孫が崩すのだ。」と言われるので、別の話に取りなして、帰って行かれました。後で、紀州様が仰せられたのは、「美作は無双の家老だ。今日の見舞いは、その一言で、この我の心に気が付かせるためだ。」と褒められたそうです。

 

23  中野神右衛門が高麗で、直茂公に申し上げた事。慶長3年正月、蔚山で、漢南人が数十万人も出て来た時、日本勢も呆れ果て、固唾を呑み、居た時、直茂公が申されたのは、「さてさて、夥しい人数だ。あれは、何十万とでも言うのだろうか。」と言われた時、神右衛門が申し上げたのは、「日本では、数の知れない事を、3歳牛の毛の数と言います。これが、則ち、3歳牛の毛の数です。」というと、人が皆、笑いだ出し、力を得たのだそうです。

 

この事は、勝茂公が白石山の御狩りの時、中野又兵衛に御話され、「その方の親の神右衛門でなくては、その時、一言を言いだす者はなかった」の由を、申されました。

 

24  中野神右衛門の教訓の事。御主人から親しく召し使われる時にする奉公は、奉公ではない。御情けなく、御無理千万の時にする奉公が、奉公だ。この旨をよく理解して置く様にと、常々、言っていたそうです。

 

25  中野神右衛門の霊夢の事。神右衛門が、桃川に居住の時、ある夜、黒髪山権現から、夢で、「神右衛門は家が貧しく、不憫に思し召されるので、寶の銭甕を御与えなさる事にする。どこそこに、あるので、はやはや、山に登り、取る様に。」と、三夜、続けて同じ夢を見たので、さては、神の御告げと思い、黒髪山に登り、神前で申し上げたのは、「自分は、家が貧しく、困っているのを不憫に思し召され、寶を御授けになるとの由、有難く思います。しかしながら、銭甕の望みは御座いません。その様に思し召されるならば、中野一門が子孫繁昌となる様に、御守り下さい。それに替え、銭甕は、即ち、返上致します」と、祈念して、山を下りました。その神慮の故か、子供は、残らず、御知行を拝領させられ、末々端々の者まで御取り立てになり、段々、繁昌となりました。

 

「ただし、銭甕を返上の為か、中野一門は、どれもどれも、貧乏で居ます。」と笑われたそうです。

 

26  山本神右衛門の末期の事。神右衛門は80歳で、病中で、呻きたくなる気分だと言うので、「呻けば気分もよくなる様になるものです。呻いて下さい。」というと、「そう言う事ではなくて。山本神右衛門と、人に名を知られ、一代を、幅を利かせた者が、最後に呻き声を人に聞かせてはならない。」と、最後まで、呻き声は出さなかったそうです。

 

27  田代利右衛門の女房に、下人が密通を仕掛けた時の捌きの事。利右衛門の留守に、女房に下人が言うには、「御主人に不義を仕掛ける事は、以ての外の事と思い、何度も思い止まろうとしましたが、業因らしく、最早、一途に思い込み居ります」の由を言うので、女房は立腹して、厳しく叱りましたが、聞き分ける様子がなくて、女房が言ったのは、「その様に思い込み居るのなら、自分の力の及ばない事。奥の物置に来る様に、その執心を叶えて上げます。」の由を言うので、下人は喜び、奥に行きました。物置に引き入れ、表を取り直して来る様にして、そこを出て、外から物置の戸の鎖を下ろし、利右衛門の帰りを待ち、やがて、帰って来たので、その次第を言い聞かせ、下人を引き出し、その言うのを聞いた上で、打ち捨てました。(金丸氏の話。)

 

28  ある人(-何某)をある人(-何某)が接待して、言葉の誤りの事。ある人(-何某)が、綱茂公の御年寄役を仰せ付けられた時に、その長屋に人を招き、何某が、取持ちの御相手しに来て、酒を強い、勧めるのでした。「夜更けなので、銚子は御納め下さい。」と、そう言われました。何某は、余りに取持ちで、御相手を過ぎて、「是非、今一つ、御請ください。」と言うのを、断ると、「その様に我儘ならば、堀田殿風を致します。」と言うのでした。ある人(-何某)は、立腹して、以ての外に叱り付けました。

 

暫くして、何某が言うには、「今晩の取持ちの御相手に来て、なにとぞ、御酒を勧めたくと、偏に思い、思わず、麁相致しました。私の不調法でした。御赦し下さい。」と言われました。一座の衆が取りなして、別条なく済みました。(了伯の話。)

 

ある人が言うには、誤りをして、早速に断りを入れたのは見事です。立腹するのは大人げない事です「堀田殿風とは、こちらの腹を抉るという事なのか。それは当てが違うというものです。殿の御為の腹であれば、めったには抉らせるものではありません。その方は酒が過ぎると見えます。まずは、勝手で、茶など飲んで来て下さい。」と言えば、猶も見事な事です。

 

事に依り、命を捨てるのは簡単です。死ぬよりも、見事な一言があるものです。心懸けて置くべき事、の由。(坂部中野勘右衛門。)

 

29  山﨑蔵人が御前に申し上げた事を、小川舎人に話された事。光茂公の御前に蔵人が召し出され、相良求馬が亡くなったので、代役の事を御相談されました。小川舎人がよいと思召される由、申されました。蔵人が申し上げたのは、「仰せの通り、舎人より他には、求馬の代わりに御家老をする者はありません。しかしながら、舎人は、まだ年若いので、やる気にはやり、御用には立たないものと思います。器量者なので、今少し、年を重ねてから、仰せ付けられるのがよいと思います。」と申し上げたので、尤もの由を申され、御前が座を立たれてから、舎人に蔵人が言ったのは、「今、御前で、この様に言いました。その様に心得ていて下さい。」と言われたそうです。

 

30  森門兵衛が倅を討ち捨てた事。門兵衛の嫡子の何がしが、喧嘩して、手負いして来たので、「相手はどうした。」と尋ねたところ、切り伏せた由を言いました。「止めを刺したか。」と言うと、「いかにも、止めを刺しました。」の由を言いました。

 

その時、門兵衛が言ったのは、「よく始末を付けて仕舞われたので、この上は、思い残すことはない。今は、逃れても、いずれ、切腹になる。冷え腹を切り、人手に懸かるよりは、今、親の手に懸かりなさい。」と言い、すぐに、介錯をされたそうです。

 

31  相浦源左衛門の放し打ちの事。源左衛門の組の者が、不届きがあり、打ち捨てる様にとの由の切紙を、その組の者に御家老衆から渡され、源左衛門の所に持って来ました。源左衛門は、見られて、その者に言ったのは、「その方を討ち捨てる様にと言って来ました。東の土手で、討ち果たす事にします。これまでもそれで、剣術などをして来ているのです。これが最後なので、その方は、精一杯働きください。」と言うと、「畏まりました」の由を言うので、その者一人を召し連れ、立ち出でたところ、十間の堀端を通った時、掘の向こうに、源左衛門の被官が居たのですが、「それそれ。」と呼ばわり、声を掛けるので、源左衛門が振り返ると、その召し連れていた者が、刀を打ち懸けて来ました。引きしざり、抜き打ちに討ち止め、帰られました。

 

この時、源左衛門は、その衣装を長持ちに入れ、封をして、一生人に見せられませんでした。死後に見ると、襟通りが切り裂かれていたそうです。倅の源左衛門の話だそうです。(金丸氏の話)

 

32  南里主税、深江十兵衛が喧嘩の事。田尻宮内が、大名小路の屋敷で、馬を買い求めた祝いで、いつもの寄合の衆を招き、夜更けまで酒宴をしていました。そうしたところ、主税を十兵衛が引っ掴み、膝の下に引き敷きました。十兵衛は大兵で、大力、弓馬、剣術の達者で、主税を、少しも、動かせませんでした。

 

座中の者が、取り離して、盃などをさせたのでした。そうして、主税は、先に帰りました。その後、十兵衛が帰ったところ、門外に、主税の家来が数十人、鑓、長刀を持ち、待ち掛けて居ました。十兵衛は、見て、「さてさて、六先を塞ぐという事か。最後の一六勝負を打ってみる、だ。」と、抜き合わせ、暫く戦っていたところ、大酒の上、多勢の事で、十兵衛は切り死にしました。主税は、その場に居なくて、その後、切腹を仰せ付けられました。

 

主税は大膳の子です。十兵衛は蔵人の兄です。

 

33  木村武右衛門の仕立の事。前髪立の頃、エンギ僧正の小姓として、江戸に向われ、僧正は気に入り、御旗本の所に、職にあり付く様にしようと、内々、心掛けて居ました。

 

そうしたところ、御旗本の二男の何某が、衆道の遺恨で武右衛門を討ち果たすと言われた由、松岩殿カウジウが内意を申されたので、その意を得、心得て、ある所で出会い、先にやられる前にと思い、御旗本を一刀で討ち果たし、立ち退きました。

 

僧正は、この事を聞き、以ての外に立腹して、「一度は、身上のあり付き所なのだと、折々、意見をしていたのに、軽率な振る舞いで、その上、人を殺害。不届き者。これで、すぐ勘当で、二度と顔は見ない。今まで使って来た情けで、書付を呉れる。」と、意見の箇条を書き、顔に投げつけ、追い出されました。

 

この事を、三田の御前様が聞かれて、不憫に思われ、打ち返しなどに会わない様に、身を隠す事などを仰せ付けられ、その後、屋敷の詰衆を心遣いにして、秘かに、下国させました。その際に、皆が取り持ちされて、僧正が面談され、金子を過分に下されての下国でした。

 

主水殿が御聞き付けになられ、手明槍の切米を下されたそうです。前髪立の頃、辻斬りをし、男伊達をしていたそうです。

 

34  百武彦兵衛が南御堀端で乱心者を捕えた事。南の御堀端を、彦兵衛が夜更けてから、一人、通っていたところ、向こうから、「その者を止めてくれ。」と声が掛けられました。近寄ると、刀を抜いた者が来ました。彦兵衛に切り懸かったので、刀を、鞘ごと抜き、受け止めると、鞘に切り込みましたが、それ以上、互いに手を出しませんでした。

 

彦兵衛が言ったのは、「こちらは、道を通った者です。構わず、御通り下さい。」と言い、相手が、刀を引き取り、通るところを、行き違い様に、投げ伏せ捕えました。その時、後から、数人が来て、「乱心者で、御沙汰なしでお願いします。」と、繰り返し、断り、言うので、そのまま渡しました。

 

江戸の浪人の夏目隼人は、日本橋で、殺害人の二人に行き合い、後から、「止めて下さい。」と呼び掛けて来るので、「手に余れば、切り捨てても構いませんか。」と言うと、「構いません。」と呼び掛けるので、先の一人を切り伏せ、次の一人をとらえたのだそうです。

 

ある人(-何某)は、大阪詰の時、町方で、向こうから殺害人が来たのに行き合い、後から、「止めて下さい。」と呼び掛けるので、少し、脇に踏み避けると、殺害人は、そのまま通ったのを、行き違いに、抜き打ちして、切り伏せました。追手の者が、何かと言って来たのには、「止めて下さいと言うので、切り止めました。死骸を受け取り下さい。」と言って、それで、済んだそうです。

 

35  相良喜兵衛が長大小を咎められた事。喜兵衛が、江戸の御共で登り行き、何方に出向われ、その帰りに、御屋敷の前で、公儀の御目付け衆に行き合い、その者が、「御法度背きじゃ、大小の長さを計れ。」と言って、馬を止め、供の衆が廻りを取り囲みました。

 

その時、喜兵衛は小膝を折り、声高らかに言ったのは、「自分は、當屋敷の鍋島信濃守の家来です。在所からで、用事があり、昨夜、御当地に着いたところです。江戸の御法度の事は、主人から、家中に、きびしく申し付けられているので、長大小が御法度の事は聞いていました。しかしながら、道中の物忙しさもあり、若くて、初めての旅で、寸延びした大小を差して来て居ました。それで、御当地では、御法の通りの大小を差すべくと、今日、大小調えの為に、町方に出て、今、帰って来たのです。そうであれば、自分の一命は、逃れられない行き懸かりでもあるので、覚悟は決めました。主人から、御法度の事を言われ、聞いていた事を、聞し召されて、届けられて頂きます様に。」と言い、刀に手を懸け、勢いを顕わにして居られました。「そうならば、構いません。」と言い捨てて、御目付け衆は通られたそうです。

 

この時、長屋から、それを見附けて、御屋敷中の上下が、御門の中に詰め懸け、すはと言えば、打ち出す支度で居ました。御前にも、はやくに、聞し召されて、「喜兵衛なのだから、家に恥は掻かせないはず。」と、ぶつぶつ言われ、御歯噛みれて、御前の衆を、程なく、見分に遣わしました。事が済んでから、喜兵衛が召し出され、御褒美なされて、御羽織を下されたのだそうです。

 

36  大久保道古の名花の評判の事。道古が言うには、「末世になり、名人はいないと、皆、人が言います。自分は、それは、そうなのかなと思います。その訳は、牡丹、芍薬、つつじ、椿などの花は、末世程、名花が出来ます。であれば、時が行くに連れて、出来て来るものと思われます。今でも、名人が流行れば、いろいろな道の名人が出来るはずで、世が末になったと、人々が思い、見下して、精を出さないのは、残念です。世には、科はないのです。」と言われたそうです。

 

37  深堀孫六を、家来が怪矢した事。孫六(後名は鍋島七左衛門志摩)が次男で居られた時、深堀で狩りをされたところ、家来が葉の暗がりを猪と見誤り、鉄砲を打ち放すと、孫六の膝を擦り、高い所から落ちました。

 

その時、家来は驚いて、押し肌脱ぎして、腹を切る所に、孫六が言われたのは、「腹は後で切れ。気分が悪いので、水を飲ませて呉れ。」と言われるので、まず、走り回り、水を掬い、飲ませて、正気が付きました。

 

その後、家来が、切腹しようとするのを、孫六は、無理矢理、取り留めて帰り、番を付けて置いて、父の官左衛門(壽峰)に、差し赦される様にと、申し伝えられると、「思わざる誤りで、すこしも、構わない。遠慮せず、勤め続ける様に。」と申し付けられたそうです。(勘右衛門殿の話。)

 

38  齋藤権右衛門の追腹の事。権右衛門は、用之助の次男で、大男なので、勝茂公の御乗物副を仰せ付けられ、親しく召し使われました。権右衛門の近所に、溝田市郎左衛門という者が居たのですが、大兵強力の者で、常に、大小は差さず、手ごめで人をこなしていました。

 

ある時、権右衛門に出合い、理不尽を言い掛け、権右衛門を取り伏せようとしたので、抜き打ちに切り付けると、居合わせた者共が、抑え、遮り、二人とも、その宿元に帰しました。権右衛門は、おそらく、打ち返しに来ると思っていましたが、手に覚えがありで、市郎左衛門は、おそらく、死んだはずと思いました。その老父は、日頃から手荒い者なので、打ち返しに来るはず。自分は、いずれ、切腹する事なので、老人を打ち捨てるのは不似合いなので、首を差し出し、切らせる事にすると決め込んでいました。

 

市郎左衛門は、宿に帰り、打ち返しをしようと、刀を取りましたが、疵が痛み、そのまま、果てました。この事の御僉議で、権右衛門は切腹に決まり、御耳に届けたところ、御殺しなさる事はならないとの由で、御助けなされました。御卒去の時、御国元に居て、御側の方々に聞かれ、4月7日に追腹をされました。

 

権右衛門の孫の社家の齋藤佐渡の話です。

 

39  高木何某が討ち果たしの時の女房の働きの事。高木何某は、近所の百姓3人を相手に、口論となり、田の中で打ちひしがれ、帰り来ました。女房が言うには、「御手前は、死ぬ事を御忘れではないですか。」と言うので、「今まで、忘れた事はない」の由を言いました。女房が言うには、「いずれ、人は、一度は死ぬもので、病死、切腹、縛り首、様々ある中で、見苦しい死をなされては無念の事です。」と言い捨てて、外に出て、やがて、帰って来て、子供が二人いるのを、よく寝付かせて、松明を拵えて、暮れ過ぎに、身拵えして、「先程、見て来たところ、3人が1所に集まり、相談していた様子です。よい頃合いなので、すぐに、御出で下さい。」と、夫の先に立ち、松明を燈し、脇差を差し、相手の所に踏み掛け、女と夫の二人で切り立て、二人を切り伏せ、一人は手を負わせ、追い散らしたのだそうです。夫は、切腹をおおせつけられたそうです。(了伯の話)

 

40  満岡十蔵と山中立閉の口論の事。綱茂公が部屋住で、麻布の御屋敷の御式台の御帳付きの十蔵持ちの一間に、御道具、長持があるのを、坊主の立閉に、「直す様に。」と、度々言いましたが、「自分の知っている物でもないので、聞いてから、直します。」と言って、過ぎていました。

 

ある時、内匠様付きの池田彌市右衛門が来て、御酒拝領の事で、立閉が給仕をしていたところ、十蔵が来て、「用事があるので、来て下さい。」と、無礼に言い掛け、胸ぐらを取り、詰め寄り、様々と悪口して、引き立てるので、逃れ難く思い、足を蹴ると、十蔵は倒れました。そのまま、乗り掛かり、衣紋を詰め押さえるところに、彌市左衛門が来て、その外も集まり、取り離しました。

 

その長持は、5日の前に直して置いてあるのを、十蔵は知らずに居て、この様な事になりました。それなので、十蔵から断りを入れ、それで済むはずのところでしたが、彌市左衛門は、十蔵と同組の事を、その後に聞いて、思い付き、「さてさて、是非に及ばずで、あの時、立閉の事を立て置いたのは、組内としての引け事でした。」と申し出られたので、十蔵は隠居浪人、立閉は浪人となりました。

 

その後、立閉は召し直され、段々と立身して、御茶道になりました。

 

41  神代右兵衛殿(鍋島左近、後名は神代大和、また、左京直長)が、御母堂(高源院様)の御見舞いの為に、江戸に向われ、その下国の時(夏の初め)、道中、原と吉原の間の茶屋で、二條御番の鈴木又左衛門殿、筧與惣兵衛殿も来られていて、その時に、この兵衛殿の草履取りの劒之助が茶屋に入り、馬柄杓で水を飲みました。挟み箱持ちの善右衛門が、「自分も水を飲むので、持って来て下さい。」と言うので、馬柄杓に水を汲み、茶屋から走り出た時、鈴木又左衛門殿の乗懸馬に行き当たり、水を掛けました。又左衛門殿は立腹して、「それ、逃すな。」と言うので、鑓持ちがその小尻で突きました。それで、とどめき騒ぐのを、「突け突け。」と言われ、劒之助は、走り懸かり、又左衛門殿の左の腕を、したたかに、切り付けました。

 

その家来で手向かいする者はなく、右兵衛殿の供に走って行きました。又左衛門殿は、乗懸馬から下りて、腰帯で腕を結び、首に懸けました。右兵衛殿の家来の松島六左衛門、福田善兵衛が、走り帰り、話の取り合いを聞かれました。

 

さてまた、須古八兵衛が江戸の御使者に登り向われていて、その帰国のところを、御前様から右兵衛殿に附けられて、差し下されていたので、八兵衛も懸け付け、3人で色々と断りを言ったのですが、御両人は、殊の外、詰め寄られるような様子なので、六左衛門が言うには、「是非を言う様な事ではないです。不調法でした。まず、向いの宿本陣に御入り下さい。お詫びは、幾重にも申し上げます。往還の妨げにもなりますので」の由を、礼儀正しく言われるので、尤もという事で、宿宿に御入りになりました。

 

右兵衛殿の供の衆は、その後、打ち返しの用心をされたのでした。宿の亭主が出て来られて、「思わぬ成り行きの事、まず御味方致します。」と言い、張弓20挺を差し出しました。又左衛門殿の宿では、右兵衛殿を相手に取るべしとの僉議となっているの由を、亭主が聞き合わせ、知らせました。

 

そうしたところ、青山大膳殿が、その宿の泊りで居られました。こちらの方の亭主が、行って、知らせたので、大膳殿は、すぐに、又左衛門殿に行かれて、色々、話をされて、全く、引けとなる事ではないと、言い宥めて、すぐに、劒之助は生害し、首を折敷に載せ、六左衛門が持参して、それで済みました。

 

その後、勝茂公から、御使者の御音物で、大膳殿に御礼を仰せ述べられました。その返答で、「公方様の御為に、間に入りました。御礼には及びません。」との由で、音物は返されました。

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*1 美作 多久美作守茂辰

*2 剛意様 鍋島清房(鍋島直茂の父)

*2 花渓様 鍋島清房の室

*3 伊平太 鍋島勝茂の前名

*7 山城殿 鍋島直弘

*10 長門殿 多久長門安順

*12 甲斐守様 鍋島直澄

*13 伊豆殿 多久茂文

*13 元山様 多久茂矩

*22 紀州様 鍋島元茂

*33 三田の御前様 鍋島綱茂室(寂光院)

*40 内匠様 鍋島直政

*41 高源院様 勝茂の後室

注記 2:参宮 →伊勢神宮への参拝

注記 12:奴好き →跳ね上がり者、伊達好み

注記 21:かったい →社会的弱者、乞食など

注記 28:堀田殿風 →大老の堀田正俊が江戸城の殿中で殺害された事を言う

注記 32:六先を塞ぐ →サイコロの1から6のすべての出目を封じる

注記 37:怪矢 →誤射

 

 岩波文庫「葉隠」下巻

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