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2021.5.24(月)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第十      ●40   ●80   ●160          聞書第十一             

■聞書第十

 この一巻は、他家の噂、並びに、由緒などを記します。

 

1  甲斐の信玄の士が、口論を始めて、相手を取り伏せ、散々に殴り倒し、踏み付けしたのを、朋輩が駆け付け、引き分けました。家老共が僉議して、「踏まれた士は仕置を仰せ付けるべきだ。」の由を申し上げました。

 

信玄は聞かれて、「勝負の事は、最後でよい。武道を忘れ、刀束を使わないのは、運の尽きた者どもだ。これからの、家中の見懲らしの為、両人共に、磔に懸ける。」と申し付けられ、引き分けた朋輩共は、追放です。

 

2  由井松雪の三極流の兵法伝授に、因縁性という事があります。大勇、小勇、18巻の書などの口伝を受け、書き留めることもなく、覚えることもなく、相伝の一通りを、皆、忘れるのです。そうして、事に臨んで、心のままに働くことです。その時、習い置いた事が、自分の知恵となって出るのです。これを因縁性と言うのです。

 

3  大事の場に出る時は、耳のたぶに唾を付け、鼻から大きな息を吐き、そこにある器物を打ち伏せて、出でるのです。秘事です。また、上気した時は、耳塚に唾を付ければ、すぐに、醒めます。

 

4  鄭子産の末期に、国家の治め方を尋ねた人がありました。子産が言う、「仁政という事以上の事はありません。けれども、国家が治まる程に仁政を行うというのは出来ないものです。なまじいにすれば、ゆるがせになり、締まりがなくなる事があります。仁政が成り難いのならば、厳しく、政をするのがよいです。厳しくというのは、事の起らない先を厳しくして、悪事の出来ないようにする事です。悪事が出来てから厳しくするのは、罠を掛ける様なものです。火は肌を破るものと知るので、火の過ちをする者は少ないのです。水は心安く思うので、溺死するものは多いのです。」と答えられたそうです。

 

5  ある人が、「理と非の形を知っている。」と言う。その形を尋ねると、「理は角なるもので、極まり、動くことはありません。非は丸いもので、善悪邪性を嫌わず、所を定めず、転ぶものです。」と言いました。

 

6  秀頼様が御上洛の時、内府様からの御引き出物の中に、御腰物、鍋四郎とあります。これは、正宗の作の由です。

 

7  物忘れをした時、いろはを繰り出し、つめたり、引いたり、はねたり、清濁をして、思い付くものです。村如水の工夫です。

 

8  礼儀の大意、初めと終わりは早く、中は静かに動作するものとの由。三谷千左衛門は、これに則り、介錯も、その様に致しましたと言われたそうです。

 

9  島原きりしたんの蜂起の時、板倉、石屋を差し下されましたが、落城の知らせの到来が延引し、酒井備後守を仰せ付けられました。そこに、御前に松平伊豆守が一人、出て来られて、「今度、備後守を島原に仰せ付けられましたが、御心に叶う事はないはずです。その訳は、出陣の支度に屋敷に帰られ、まだ、発足していません。ここで、もう、御心に叶っておられない仕方になっています。自分が仰せ付けられたならば、御城から直に馳せ向い、有馬に参着の上、即時に踏み潰し、御心に叶う様に致します。」と申し上げられたので、それで、伊豆守が仰せ付けられ、直に、向い立たれました。

 

備後守の方には、有馬への下向に及ばない旨を言って来ました。備後守は、聞いて、「伊豆守の仕業だと見える。討手の先を越され、人前に顔を向ける事ができない。追付いて、伊豆守を討ち果たす。馬を引いて呉れ。」と申し付け、走り出られました。父の讃岐守が聞き付け、「暫く。」と押し留め、「早まって、仕損ずるな。まず、心を静めて聞いてくれ。土井大炊守が死去の時、自分に一言を残された。『伊豆守に油断すべからず。』と。こうした働きがある事は、兼ねて、分かっていた事だ。さてまた、追い掛けて、討ち果たされたら、その方は本望、外聞も取る。けれども、忠節の所は少しもない。ああいう伊豆守だが、一器量ある者で、公方の御用に立つことは多い、その伊豆守を討った時、まず、公方に事を欠かせ、次ぎには、『公方の下知が略略で、備後守が鬱憤を散じたのだ。』と日本国中に言われる事があれば、主君に悪名を取らせることで、重畳の不忠なのだ。また、その方が、堪忍し、堪えて、存命するのは難儀な事。自分が難儀恥辱を堪忍して、主君の恥を表わさず、主君の用の欠ける事のない様にするのが忠臣というものだ。どうして、一身の潔さを好む事があるか。」と制せられて、備後守は、すぐに、得心し、その上で、讃岐守が言うには、「では、奉公を下がるべし。人の嘲りがある。」ということで、備後殿は引き取り、下がり申されました。二男の修理太夫が家督を継がれました。

 

10  秀忠公の御時、大久保相模守を井伊兵部大輔に御預けに仰せ付けられました。兵部大輔が、参勤の前に、相模守に言われたのは、「御自分の事では、讒言で、無実の難に逢い、こちらに御預けに仰せ付けられたという話がもっぱらです。今度、江戸で、その旨を上聞致し、早速、帰参が仰せ付けられる様に致します。その事の委細をお聞かせ下さい。」と言われました。相模守は、これを聞いて、「御心入れを有難く思います。しかしながら、自分の咎の事は、まったく無実ではないのです。御聞き違いだと思います。それを、讒言の様に取り成しては、本当に、宜しくないです。どうか、御沙汰の事は御無用です。」と言われました。

 

兵部は、これを聞き、「結構な御考えの事です。自分一人が知る事でもなく、御自分の無実の事は、証人が数人もある事です。御政道に、こうした邪まがあっては、御為にならないので、いずれ、今度、申し直し、帰参させ申します。」の由を言われました。相模守は、これを聞き、「さては、委曲の事、御存知ですか。それならば、御考えの通り、詳しく、お話し致します。自分は、讒言に逢い、無念に思うならば、すみやかに、申し開きを致します。しかしながら、今、天下が漸く治まり、日本国中から、将軍の仕置、作法を伺い立てる時に、役人に讒人があり、大久保相模守を讒言したとの話が出ては、将軍の御悪名となり、諸大名が心を置き離す事になります。

 

であれば、自分は、無実の申し開きをせず、配所で果てるのが、この節の奉公と覚悟を決めました。たとえ、帰参したとしても、これ程の奉公は、とても、ないものと思いますので、少しも苦にならず、出世の望みも、少しもないのです。ただ、ここで、朽ち果てるのが、一廉の御用に立つというものなので、御取りなしは、しかと御無用に。」と言われました。

 

兵部は、至極、感じ入り、「それ程の忠節の臣を埋め置いては、天理に叶わない事なので、構わず、召し返される様にされて下さい。」と言われました。その時、相模守は立腹して、「自分の心底を、残らず、詳しく申し上げたのに、聞き分けられないのであれば、ここで餓死します。」と言われるので、「そういうのであれば、その意にお任せ致します。天下への忠節、比類なき事、です。」と感涙を流し、向い立たれました。

 

11  家光公の御時、どなたへか、明日、御成りになるの由を仰せ出だされました。御道筋が道普請をしていて、道に大石があり、一夜で、それを取り除ける事は出来ない事でした。この事を、御老中に申し伝えました。松平伊豆守が言われたのは、「取り除けようとするから、手間を取るのです。掘り埋めて、上に土を置けば、間に合います。」と言われました。

 

総じて、伊豆守は、当座の考えの早い人です。この事を、土井大炊守が聞き、「以ての外に、よくない事です。大人は、何事も、思う通りになるものの様に考えますが、それが悪事の基です。明日の御成りは、叶わない事の由を申し上げる事。」と言われ、御成りは延びたとの由。

 

12  太閤秀吉の奉公の始めに、名字、名乗りを選ばれました。「当時、天下の鑓柱は、丹羽五郎右衛門長秀、芝田修理亮勝家です。自分の鑓では、その両人の分を手にしたいものです。そうであれば、一字づつ取り、羽柴を号として、自分が気に入り、類もない名なので、藤吉郎と付けます。古今の勇士で、自分の心に叶うのは、朝比奈三郎吉秀です。そこで、秀吉との名乗りにします。」そう、思いを立てられたのです。

 

13  阿字の初入の文  復来只承心王命 根識須縁能六塵密法(口伝あり。)

 

14  本多佐渡守正信 元和二年六月七日卒、79歳。

 

本多上野介正能 寛永14年3月10日、配所の羽州の由利で卒、76歳。

 

15  大久保相模守忠隣 寛永5年6月に江州にて卒、76歳。

 

16  筑後の久留米城主、藤四郎の名字、並びに、名乗り  秀包(始めは元綱。)、世々、代々に、久留米藤四郎と言います。小早川隆景の弟で、毛利家です。

 

17  久我勘右衛門の名字替えの事。綱茂公の御側頭で、中野勘右衛門、中野十右衛門が勤めて居りました。御参勤前に、御直に仰せ聞かせられたのは、「同役に同名があると、他方の衆などは、親類を同役にしている様に思われるので、一人は、名字を替えるのがよい。年下なので、十右衛門を替えたいが、先祖の神右衛門は、島原の退き口7人衆の中の随一、比類のない働きをした中野なので、勘右衛門が替われ。」と申され、即座に、母方の久我と、願い出られたそうです。

 

18  大坂の鐡舟和尚に、深江安元が、近付きの者を同道で参られ、まず、内々に、「この者は、志があり、御示しを受けたいとの由を言っています。たしかに、よい者です。」と言って、押し付け面談し、その上で、和尚が言われたのは、「安元は人を損なう人です。この人を、よい人と言われましたが、どこがよいのか。鐡舟の目には、よい所は見えませんでした。総じて、めったには、人を褒めない事です。褒められれば、智者も愚人も自慢するものです。褒めるのは、損なうという事です。」と言われたそうです。

 

19  井伊の家には、本妻はありません。直政の遺言に、「御先手の家なので、不器量の者が家を継いでは御用に立たない。本妻と定めると、是非、その腹の子に家を継がせるものなので、不器量の者も家督をさせないでは叶わない事がある。妾腹の多くの内に、器量を見定めて、家を継がせる事。」の由です。

 

ところが、直政の嫡子の右近太輔の直繼は不器量です。家老の松下源左衛門が言われたのは、「御次男の御器量が勝れて居られるので、家を御譲りするのがよいと思います。」と、公儀にも申し上げ、右近殿を引き下がらせました。その時、公儀から、別知3萬5千石を、遠州の掛川に、右近殿に下されました。

 

源左衛門が言うには、「自分が申し上げ、引き取らせた上は、右近殿の家来になる事にします。」と言い、掛川に越し行かれました。公儀の七種(七草)佳例には、今も、松下が行き向われ、勤められるそうです。

 

20  井伊萬千代殿が御小姓の時、御囲炉裏で御料理物をなされていて、萬千代殿に蓋を渡され、「塩梅は。」と御尋ねになられました。御答えに、「あつく御座います。」と申し上げられました。

 

また、ある時、家康公の軍が破れ、それぞれの足々でという事に成り、御主従5、6人で、御退きなされました。皆、飢え、疲れ、傍らの社頭にお立ち寄りになると、お供えで、赤の飯が、備え置かれていました。これこそ、軍神の御与えと、いずれもが、それを頂いていると、萬千代殿、一人が、手に取られないので、家康公が御叱りになり、「倅(せがれ)程の子供の事とは言え、時にこそ依れ、飢えを凌がぬ馬鹿者。」と仰せられた時、「私は、まったく、慎みというのではありません。御敵が、後を追って来ているので、やがて、ここに取り懸け来るものと思います。その時、自分一人は踏み止まり、討ち死にするつもりです。その間に御退き下さる様に。死後、飢えに疲れ、上下が、赤の飯を食べた事を顕すのは、無念に思うのです。」と言われました。無双の勇士で、後に、御先手を仰せ付けられました。

 

ある時の戦場で、余りに手ひどく働かれるのを、家康公が御覧なされて、御気遣いの余り、御采配の柄を御噛みなされました。その時の金の御采配は、その場で、御預けなされて、彼の家に伝わる由です。

 

21  堀田加賀守殿が御小姓の時、余りにしぶとい者なので、試みる為に、火箸を焼き立て、御囲炉裏に御立てになり、いつも、向かい側で、火箸を取り、居て、御挨拶するので、召させられたところ、何の事もなく、火箸を取られたので、たちまち、手に焼けが入りました。けれども、平成の通りに、御会釈されたので、すぐ、御立ちになり、御取り離しなされたのだそうです。

 

22  由井正雪は、紀伊國の浪人です。江戸で、軍学の弟子を取り、天下を望み居ました。まず、天下の人を、正雪の知恵で、思う様に扱ええるものか、試しにと、弟子に参宮をさせ、不思議の霊験で参宮するの由を言い触らし、幟を立てさせ、大勢を参らせました。それ以来、あそこ、ここで、奇妙な事があるとの由で、日本国に、ぬけ参りという事が始まりました。

 

また、正雪の風俗に、人が心を移すかどうかと、ある時は、大鍔の大小を差し、ある時は、長刀を差しして、江戸中に流行り、、諸国までも流行りました。また、門弟衆を集め、講釈の場では、最後まで、正雪の顔を見る者はなく、自然に、眼に入ると、心気に深く当たるという程の威勢なのでした。

 

第一の弟子は、丸橋中彌です。この者は江戸に置き、自分は江戸を立ち、御薬蔵に導火を仕掛けて置いて、箱根を越える時、江戸に火の手が上がる計画でした。江戸を立ってから、「今度の一揆の中で、両人、近年の弟子で、覚束ない者がある。江戸で打ち捨てなかった事が残念だ。多分、訴人に出る。誰々、行き越し向かい、打ち捨ててくれ。」と申し付けました。

 

その者共が行くと、もう、訴人に出ていて、御薬蔵の導火を取り除け、徒党の御調べがあり、中彌は、裏の口に出たところを、待ち受け、捕えたのでした。正雪は、箱根で、火の手が見えないので、さては、事が顕れたと覚悟し、駿河府中に辿り付いたところ、討手として、駒井右京殿が来たのでした。宿中で、人改めがありました。正雪は病気の由を言いましたが、亭主は、迷惑になる由を言うので、弟子共を連れ、刀を持たせ、改役人に面談し、返しました。

 

目明しが見届けていて、すぐに、取り懸かかって来たところ、細引きで、少しの間に、家の中を幾重にも、張り巡らしたので、駆け入る事がならないでいるところに、正雪は、首に懸けた袋から、書付けを出し、焼き捨てました。そして、正雪が盃を取り、次の座の者に差した時に、その者が立ち上がり、正雪の首を打ち落としました。その次も、その様にして、次々と首を討ちました。

 

末座の者が自害する時、漸く駆け入り、生け捕りしました。その場で、獄門に懸けられました。この事は、討手の不覚となりました。最初、改めの時、踏み懸けた味方の数人を切り殺されたなら、生け捕りするべきでした。評判はいろいろとありましたが、正雪の仕組みは、「人改めの時、もし、取り懸かかって来るなら、相手に構わず、自分の首を討て。」と刀持ちに申し付け置いたとの由です。明暦2年の事です。

 

23  この(前項)正雪の一揆、滅亡の後、世上に、与力の、手助けした大名が数人あるとの由が、噂になりました。中でも、紀伊國様は、正雪の生国の太守で、大将に据える仕組みがあったと話が拵えられ、御老中が御僉議された時に、紀伊國様からの諸方への反逆の廻し文を見つけたとの由で、差し上げる者があり、御老中は、色を失い、「この大事、どうしたらよいのか。」との御僉議でした。

 

その時、井伊殿がその廻し文を御覧になり、「これは、謀書です。兼がね、天下の御大事は、御三家の上の事で起きるものと思っていたので、よく、その、手跡、判形を、見覚えて居ります。」と申されるので、座中は落ち着きました。その上で、掃部殿は、「皆様には、内の僉議ばかりで、埒明くものではありません。紀伊國殿に、直談で、様子を糺されて下さい。」と言われるので、皆が御同意で、それでは、この人数で、今、紀伊殿に向う由を申し合わされました。

 

紀伊國様の所で、掃部殿は御出がなく、使いを立てられると、急病の由で、来られませんでした。そして、紀伊國様に、御老中が御面談で、「現今、この様な取り沙汰があります。現の當将軍は御幼稚で居られるので、御家の連続の為に、思し召し立つのは、御尤もに思います。そうであれば、御手前様を主君に取り持ち、御家の御長久の御仕組みを致します。権現様の思し召しも、御家の連続の為、御三家様を御取り立てられたのです。御遠慮なく、仰せ聞かされください。」と言われました。

 

紀伊様は、それを聞かれて、「将軍に対し、各々が、粉骨浅からずされているのは、自分も満足この上なし、です。いよいよ、盛り立て、天下長久の仕組みに油断なくなされて下さい。自分は、まったく、天下の望みはないのです。」と仰せられました。

 

その時、廻し文を御目に懸けると、御覧になり、「自分の謀反の沙汰は、これで、落ち着きました。これは、謀書です。よく似せているので、疑いは尤もです。自分が数年召し使った小姓あがりの者が居て、重々、不届きで、追放を申し付けました。その者が遺恨を含み、今になり、様々の沙汰を拵えているそうです。手跡も、自分に、よく似せています。不審に思われるなら、召し捕り、糾明されて下さい。」と仰せられるので、御老中は安堵し、立ち行かれました。

 

さて、掃部殿が来られなかった事は、不義の様に、いずれもが思い、何れもが、直に行かれて、「何故、御出がなかったのか。」と尋ねられたところ、「各々には、その様に分別がなくて、天下を治められる事ができますか。御心懸け下さい。その訳は、もし、紀伊殿が謀反を決められたのなら、即座に討ち果たさなくては叶わない事になります。老中が、残らず果てられて、幼将軍は、どうして、天下が相続できますか。一両人は残るべき場なのに、残らず、行き向かわれると聞いたので、せめて、自分一人なりとも、将軍の御為に生き残るべしと思い、行きませんでした。」と申されました。

 

さてまた、「あの廻し文は謀書に決まりました。御智慧の深い事に感じ入りました。御目利きはどこでなのですか。」と尋ねられました。掃部殿の返事は、「まったく、見覚えはありませんでした。その座で、各々が驚天の気色でした。気を静めさせ、料簡が出来る様にと思い、謀書と言いました。」の由を言われたそうです。

 

24  翌、明暦3年、江戸が大火事の時、正雪の残党共が焼き立て、紀伊様が大将の由、噂がありました。御門御門を、諸大名が出勢し、固めました。諸屋敷は、残らず、焼亡しました。この時、御門堅めの上下は、気が上ずり、振るえが出ていて、その様子を、掃部殿が御覧になり、御城の櫓から、大鉄砲2筒を放ち、撃たれました。この音で、上下は、力が付き、気が鎮まりました。

 

それから、掃部殿は、ただ一人、紀伊様の御屋敷に行かれて、御面談し、上様が、当屋敷に御成りになる由です。見分の為に、来たとの由でした。御屋形中を見回り、その後、やがて、帰り行かれました。

 

御城にも、火が懸かりました。この時、3日の間、将軍の御在所は知れなかったそうです。また、一説に、この火事の最中、藤堂殿は、上野の宿坊で、ずっと酒宴されていたそうです。

 

25  北野能圓は、源氏物語の鍛錬をされた方です。次男の能貨は器量があり、傳を継ぎ、首書(注釈本)を書きました。光茂公が召し寄せられ、講釈を聞かれました。それ以来、その家を、御宿坊となされました。

 

能圓-能朝-常圓

   ∟能貨-能貨

 

26  ある人が言う、「城渡しの時、城を、そのまま持つと思い立つ者は一両人あったとしても、総勢がそろわないので、結局、城を持つ者はないのです。城の持ち様は、城受け取りの衆が、城の近くに来られた時、城を持つと思い立った者、一両人が、物陰から、弓、鉄砲を、少々、射掛ければ、受取りの衆は騒ぎ立ち、弓矢の事になります。その時は、いやでも、持つ事にならずにはいないのです。向こう様から、城を持たせられると言うものです。」と言われました。

 

27  寛文7年、島原の城主の高力左近太夫は遠島でした。以前から、事の仕置が宜しくなく、諫言の家老の志賀玄蕃(1000石)を手討ちにし、段々と、悪政となり、没落しました。城渡しの時、井上牛之助(300石)は、「城をそのまま持つべし。」と言われたのですが、同意の人はなく、城渡しの時は、行列して、肥後に立ち退き、その後、大禄で、身の振り場所を見つけたそうです。

 

この、城受け取りの衆の下向の事で、付け回しとして、朝倉傳左衛門が仰せ付けられ、行き向かわれて、小倉で、上使が御昼休みの間、町中を廻り歩き、待ち合わせて居るうちに、水が飲みたくて、裏棚に立ち入り、水を所望されると、老人が一人居て、「御入りになり、御汲みになられて、召しあがり下さい。」と言いました。

 

下人に申し付け、水を飲むと、老人が言うには、「どなたの衆ですか。御越し掛けになり、煙草もどうぞ。」と言いました。「肥前の者です。島原への上使の附け回りをしています。」と言うと、「では、肥前の御方と聞くと、懐かしくなります。誰々様は御存命ですか。」などと尋ね、「さて、今度の島原の城は、そのまま持つという話なのですか。」と言いました。傳左衛門は、答て、「取り取りの沙汰があります。」と言いました。

 

老人は、それを聞いて、「御年若にいらっしゃるので、後学の為に、お話し致します。自分も、昔は、はげ鞍に腰を掛けた者です。よく、世上の事を見分致し居ります。まず、城を持つというのは、成り難いものです。公儀から、御無理の仰せ付けの時は、恨み奉る事もありますが、理の上の御仕置なら、そのなされ方には、弓を引くことは成り難いものです。これが一つです。

 

また、城を持つという時は、遠島となった主人への御仕置があるはずです。家来として、主人の首が落ちる様にする事は、成り難いのです。これ二つです。また、有無なく、城を持つという行き懸りの時は、必死の覚悟なので、妻子を切り捨て、籠城のはずです。妻子が安穏で、城を持つという事は、成り難いのです。これが三つです。

 

この様に言ってみると、今度の島原も、城を持つという事はない筈なのですが、持つとの話があるというのは、訳がある事なのです。その家中に智慧のある者が進み出て、是非とも城を持つ事と、一旦は言い募るのです。それは、後の見込み、在り付きを考えて言っているのです。天下に弓を引くからには、逃れる事は出来ない事なので、妻子を切らない内は別条なくて、城は渡すと思われてよいのです。」と言われたそうです。

 

28  了山法師が、隆信公の御弓矢の事の大概を文に書き立てられました。ある僧は、これを見て、非難して、言うには、「武将のことを、出家の身で文に書いたりすることは、するべきではない。どれ程、文を得意にして居たとしても、武勇の道は不案内なので、名将の御心入れについては、違う事もある。末の世に至り、名将に誤りを付ける事になり、勿体ない事。」と言われたそうです。

 

29  公儀が、御城で、御老中方が御僉議の事が、早くに、世上に漏れ聞こえるとの取り沙汰があり、ある時、御参会の時、衆座の中から、漏らさないでいる事を、世上に風聞するのは不審です。締まりを付ける為、厳しく御調べになるべきの由を、いずれも、同様に評議があり、土井大炊殿頭が言われたのは、「まったく、各々が御僉議の事を聞いた者が、漏らし言うのではありません。世上に、知恵のある衆が寄合い、この事はこの様に仰せ付けられるはずの事と評判し、それが、流布するのです。世上の評判に、各々の御僉議が合うのは、この上もなく良い事です。御穿鑿は御無用。」と言われたそうです。

 

石田軍記の内

 

30  太閤秀吉公は、尾張國の愛智郡中村に出生、松下加兵衛に仕え、名を猿と言う。自ら、羽柴藤吉郎秀吉と改め、信長公に仕え、筑前守になり、後に、従一位関白となりました。居城は、京、伏見、大坂に構え、甥の三好秀次を養い、関白を譲り、京の聚楽城に置き、自分は、伏見、大阪に隠居し、太閤と称したのです。

 

31  太閤の妾は、江州の浅井備前守長政の女で、文禄元年の冬に懐胎し、同2年8月20日、安産祈願の為、大阪城中に於いて、連歌をし、花下紹巴が発句で、

 

大般若はらみ女の祈祷かな

(脇)一二は過ぎて産の紐解く 昌叱

 

この百韻が未だ満了しない内に、若君が誕生、秀頼公と言われました。

 

32  文禄4年7月8日、石田が登城し、秀次が逆心の由、讒言しました。秀次は高野に入り出家、道意と号しました。同7月15日、自害(31歳)。上使は、福島左衛門大輔、福原左馬介、池田伊豫守です。総勢、1萬余騎です。御小姓の山本主殿(19歳)、岡三十郎(同歳)、不破萬作(17歳)が、まず切腹しました。笹部淡路守は、秀次の介錯をして、切腹。立西堂(伽坊主)は追腹です。木村常陸、千志摩助、熊谷大膳、白井備後、阿波杢、その所々で追腹でした。

 

33  同八月2日、三条河原で、秀次の若君、仙千代丸(5歳)、百丸(4歳)、お十丸、土丸、御姫一人、これを誅す。上臈、一ノ臺ノ御局、小上臈、お妻御前、お亀ノ前、お和子ノ前、山口将監の女、おチヤノ前、お佐子ノ前、お萬ノ前、おなめノ前、お阿子ノ前、お伊滿ノ前、阿世智ノ前、小少将前、左衛門後殿、右衛門後殿、妙心尼、お宮ノ前、お菊ノ前、お喝食ノ前、お松ノ前、お伊佐ノ前、お古保ノ前、お假名ノ前、お竹ノ前、お愛ノ前、お藤ノ前、お牧ノ前、お國ノ前、お松ノ前、お紋、東、お三、津保見、お知母、この34人を誅す。

 

34  慶長3年8月18日、太閤薨去、63歳、東山に葬る。豊国大明神と号す。

 

35  同4年は、秀頼(7歳)、6月16日に家康公は大阪を発足し、関東に下向、上杉景勝を退治の為です。御供は1萬余騎です。

 

36  大津城主の京極宰相高次は、秀忠公の御婿です。松ノ丸殿と言います。

 

37  石田治部少輔三成は、江州石田村、地士の佐五右衛門の子で、佐吉と言いました。近里の真言寺の小姓となり、太閤の御小姓に御召し使われ、江州佐和山20万石です。

 

38  関東下向の大名、総勢5萬8千余騎です。

 

39  大坂着陣は13萬3千8百余騎が、7月19日に参着です。

 

40  両公は、野州の小山から江戸に御帰府です。これは、大坂の反逆が聞こえたからです。

 

41  7月17日、細川越中守忠興の妻、大坂で自害、女子(10歳)、男子(8歳)を殺害。小笠原正齋、河北、石見の、3人が自害。乳母2人、女中4人、火に入り、死す。これは、人質として、城内に入れるとの事があるからでした。

 

42  若狭少将勝俊(伏見の御加番でしたが、諸将が不和で、京に退き、隠遁し、長嘯と号す)は、太閤政所の舎兄、木下肥後守家定の子で、筑前金吾中納言秀秋の弟です。家定の麁弟の木下佐渡守は兄と不和で、加藤清正を頼み、肥後熊本に居て、太閤の逝去の後、肥前の寺井に住み、鍋島家中となる。

 

43  細川幽齋が高麗御陣の時、名護屋に居て、古今の箱を烏丸光廣卿に預けられた時の歌

 

人の國むくや八島も治まりて二度かへせ若の浦浪

藻塩草かきあつめつつ跡とめてむかしにかへせ和歌の浦浪

 

光廣卿の返歌

 

萬代と誓ひし龜の鑑しれいかでかあけん浦島が箱

 

幽齋が帰陣で、箱を返す時 光廣卿

 

あけてみぬかひもありける玉手箱ふたたび帰る浦島が波

 

御返し 幽齋

 

浦島が光を添へて   玉手箱あけて だに見ずかへす波かな

(いかにかく心へだてて)         (を見ぬも浦島の波)

 

44  田邊の籠城の時、三条實條(香雲院)、烏丸光廣(幽齋の孫婿、長岡佐渡の婿)が加茂松の下に遣わされ、勅命に依り、實條に古今傳授、源氏物語奥義、二十一代集の口訣の切り紙、和歌の三神人、人丸の正体、八雲の大事、の傳授あり。その時、幽齋は

 

古も今もかはらぬ世の中にこころの種をのこす言の葉

 

45  尊氏12代の後胤、義春の四男が藤孝です。母は、還翠軒義賢の息女で、飯川妙佐の妹です。母は、後に、三淵伊賀守に嫁し、藤孝も三淵の子になりました。その頃、泉州岸和田の城主の細川右馬頭元常が藤孝を養子としました。長岡というのは、昔、藤孝が、京の南、勝龍寺の軍に戦功があったので、信長公から長岡の庄を拝領し、名字としたのです。

 

私に付け加えれば、細川を改めて長岡と言われたのを、家康公から、大忠節の名字なので、細川と返改する様にと御掟があり、今も、松平をくだされないという事です。

 

46  岐阜中納言秀信は、信長公の御孫の信忠公の御子です。30万石です。

 

47  眞田安房守昌幸は、宇多下野守の婿です。石田と相婿です。眞田の次男の左衛門佐幸村は、大谷刑部少輔の婿です。

 

48  徳永式部卿法印は、壽昌です。

 

49  関ヶ原の先陣は、福島左衛門太夫正則、池田三左衛門光政です。

 

50  備前中納言秀家は、宇喜多和泉守直家の息です。備前、美作を切り從え、50万石を領とした。直家が死去の時、秀吉の推挙で、秀家が継ぎました。

 

51  立花左近が上方に召されて、当分にとして、奥州棚倉に1万石を下され、法体し、道伯と言いました。4年後に、本知の柳川を下されました。

 

52  関ヶ原落去は、慶長5年9月15日です。それで、今度に、闕國を賜った方々。

 

安藝備後    福島左衛門太夫正則          播磨 池田三左衛門輝政

紀伊       浅野左京太夫幸長             筑前  黒田甲斐守長政

出雲隠岐越前府中 堀尾帯刀義春      備前美作 金吾中納言秀秋

土佐       山内對馬守                       伯耆 中村一學一忠

若狭       京極宰相高次         丹後 京極修理亮高知(政)

筑後       田中兵部太輔吉政      豊後 細川越中守忠興

豫洲松山    加藤左馬助嘉明        豫洲今治 藤堂佐渡守高虎

因州鳥取     池田備中守長吉         飛騨 金森出雲守重頼(法印長近)

丹波福知山 有馬玄蕃頭豊氏                濃州高須 徳永左馬助壽昌(法印昌時)

伊勢神邊    一柳監物有未(直盛とも)    能登加賀 前田肥前守利長(勝)

肥後       加藤主計頭清政(正か)   越前 秀康卿

尾張       忠吉卿

 

同6年2月、御譜代が所領を賜う。

 

江州佐和山 井伊兵部少輔直政       勢洲桑名 本多中務大輔忠勝

濃州加納    奥平美作守信昌       濃州大垣 石川長門守康通

三州岡崎    本多豊後守康重       三州西尾 本多(吉良)縫殿助康俊

三州吉田    松平玄蕃允家清       遠州濱松 松平大膳正家廣

遠州掛川    松平隠岐守定勝       遠州横須賀 大須賀出羽守忠政

駿州田中    酒井備後守忠利       駿州府中 内藤三左衛門信成

駿州興国寺 天野三郎兵衛康景       駿州沼津(三枚橋) 大久保治右衛門忠佐

上総大多喜 本多内記忠朝       この外、城地の変わらないものは記さず

 

 

53  小西摂津守行長は、肥後半國、八代の城主です。

 

54  安國寺恵瓊は、藝州沼田郡金山の城主の武田刑部少輔信重の末子です。その竹若丸が出家して、頓蔵主と言いました。東福寺の住持で、紫衣の僧です。12万石に替えて還俗しました。

 

55  大久保彦左衛門は、武勇の人で、いつも、気軽に、悪口ばかり言い、御老中方への御見舞いもされません。ある時、一門衆から、「御手前は、上の思し召しがよくて、御歴々も崇敬されますから、今の通りで、その御一代は済むでしょうが、子孫の為を思い、老中方へも、折節の御見舞いは、時代の風で、御挨拶されて下さい。」と言われました。彦左衛門は、「もっともの事。」と、その翌朝、御老中を廻られました。取次役も、御主人も、日頃の強面振りを知っているので、早早に出合い、「珍しい御出で。」と御挨拶されると、彦左衛門は、そのやり取りで、「当世は、皆々様に追従しないで居ては、子孫の為にならないの由、一門共が言うので、子供を不憫に思い、追従の為、出て来ました。」と言われたそうです。

 

56  大野道賢の火炙りの事。慶長19年、大坂冬の陣が和談になり、大坂の御城廻り、外堀を埋める様にとの御約束で、家康公は駿府に御帰りになりました。その後で、総掘を総塀ということにして、悉く埋めました。

 

秀頼公の御内の大野修理の弟の道賢入道が、この様子を見て、「家康は、全く、和談の気持ちではなく、来年は、和談を破り、大坂を攻める準備です。味方の者は、その心を悟らず、要害を失う事、是非にも及ばずの次第です。家康には手配の工夫があるので、来年の備えに、堺の町に隠し勢を置く事と、仕組みをしているはずです。せめての無念晴らしには、堺の町を焼き放つとするべきです。」と思案し、風を見立て、放火しました。道賢の付け火という事は、自然と、世上に言われ、家康公は聞かれて、その御心底を考えて、その様にしたのだと御察しになり、深く、御憎みなさいました。

 

夏の陣の折の仰せ出だしに、今度の第一番の戦功は、大野道賢を生け捕りしたものに決めるとの由を、御触れなされました。そこで、人は、道賢一人を目掛け、取り巻いたのを、比類ない働きをし、終に、生け捕られました。

 

この事を申し上げると、「白州に引き出す様に。」と仰せ付けられ、そこに御出座され、高声に申されたのは、「汝は、天下に名を知られた勇士だが、今、千筋の縄を懸けられ、諸大名の前に恥をさらす事、面目なくは思はないか。」と仰せられました。

 

道賢は、首を項垂れていましたが、この御言葉を聞き、きっと、伸び上がり、眼を活っと見開き、「その方をこの様に致すと思っていたが、運が尽き、力及ばず。今、生け捕りとなる事、古今の勇士にある習いで、どうして、恥とするか。それでは、天下は心元ない。大たわけだ。」と大口を叩くので、愛想も付き、御言葉もないのでした。

 

その時、堺の町人が出て来て、「この者の付け火で、自分たちは難儀この上なしでした。町の焼け跡で、火炙りにするので、町人共に下されます様に。」と願われました。家康公は聞かれて、そのまま下されました。随分と、悲しい目に合わせる様にとの由、仰せ付けられました。

 

やがて、検使が向い越し、遠あぶりで苦しむ様に拵えたのでしたが、少しも動かず、焼け死んだので、火を取り直すと、真っ黒に体ばかりが見えましたが、そのまま検使に飛び掛かり、検使の脇差を抜き取り、ただ一突きに突き殺し、体は、たちまち、灰になったのだそうです。

 

57  大谷刑部の最期の事。金吾中納言秀秋卿(裏切りの事は、今度の大将を、浮田秀家に仰せ付けられたのを憤りてとも言う)の関ヶ原での裏切りに付いて、西方の敗軍の折り、大谷刑部嘉隆が、「金吾殿に一言言いたいことがある。病気で眼が見えないので、近くに引き寄せてくれ。」とで、やがて、近くになった時、金吾殿に向い、高声に行ったのは、「もともと、そちらの御自分の事は心元なく思っていたので、昨夜、そちらに行き、不審の事を言ったところ、『この期に及び、頼もしい御心に思い、自分はまったく異心なし、です。』と言われたので、『とは言え、神文をなされて下さい』と言うと、お安い事と、神文をなされた。昨夜の事を、今日、変改し、裏切りの事、何と、これが人のする事なのか。それなら、畜生と思う上は、何事を言うのも無益な事。今度の褒美に、おそらく、国の2,3箇国も御もらいになり、御仕合せよく居るが、待って御覧あれ、3年の内に思い知らせてくれる。自分の死に様を見よ。」と、はたと睨み、立ちを咥え、飛び下り、突き貫かれて死にました。

 

その後、金吾殿には、備前、美作を下されました。とはいえ、刑部の末期の顔が、中納言の目を離れず、夜昼怖ろしく思われ、関ヶ原の第三年の慶長7年寅9月15日、邪病に侵され、22歳で死去です。秀秋は太閤の甥です。筑前の領主の小早川隆景の家督として、筑前一国、並びに、筑後二郡、東肥前三郡を下されたのです。

 

58  ある人が尋ね言うには、「聖廟の御歌、

 

心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん

 

この誠の道とは、どの様な事ですか。」と。

 

答えて言うには、「そなたは、歌好きの様です。歌で教えます。

 

何事も皆偽りの世の中に死ぬるばかりぞまことなりける

 

常住、死人になるのを、誠の道にかなひたる、と言うのです。」

 

59  顔面の皮の剥ぎ方の事。顔を縦横に切り裁ち、小便を掛け、草履で踏みこくれば、剥げるものです。行寂和尚が、関東で聞いたとの話です。秘蔵の事。

 

60  細川幻旨の死去で中陰の時に、霊前に、観世黒雪が焼香し、引きしざり、下がり、「をしみても、かへらぬはもとの水、流れはよもつきじ、絶えせぬぞ手向けなりける。」と謡い納め、落涙し、立ち帰られたそうです。

 

61  幽齋は、天下藝を7つお持ちだと言われます。ある時、鯉の包丁事があり、ふざけた者が居て、火箸を通し入れて置いたのです。幽齋は、包丁を押し懸け、火箸に当たると、九寸五分で抜き打ちにまな板を切り落とされました。名人は、難に臨み、滞る事もないものです。

 

62  永井傳八郎の初陣の事。駒木山の城主の池田勝入と家康公が御合戦の時、傳八郎は15歳で初陣を勤めました。父の何某は、安藤彦兵衛に、傳八郎の初陣の手引きを頼まれました。勝入方が打ち負け、駒木山の本城に取り詰て、勝入が打って出たところ、彦兵衛が渡り合い、槍を附け、傳八郎を呼び、「首を取れ。」と言う。傳八郎は乗り懸かり、甲を取り、「初首に坊主首は嫌だ。」と言い、立ち退く。その時、勝入が見返り、「天晴、器量の若者。日本に隠れのない武勇の大将、池田勝入齋だ、首を取り、末代までの高名にせよ。」と言う。傳八郎は立ち帰り、首を掻き落とし、家康公の見参に入れました。安藤が槍を付けた事は言わず、傳八郎の手柄にされたのです。

 

その後、勝入の息の三左衛門は、和談になり、家康公の婿に御取りになりました。婿入りの時、永井に面談するとの由でした。公を初め、いずれもが、気遣いのところ、永井が聞き付け、「三左衛門殿は、親の敵なので、今日の御肴に、自分の首を望まれるのは確かです。この時に、出向かわなければ、瑕瑾となります。」と言い、そのまま、御座に出られたところ、三左衛門は、盃をさされ、「自分の父、勝入の首を、その方が15歳で打ち取り、比類なき高名で、日本が日本でいる間は、その隠れなしの事です。知行はどの位下されたのですか。」と尋ねられました。7万石という事を家康公がそばから答えられると、「こうした大剛の者には不足です。御加増下される様に。」とで、即座に15万石に召しなされました。

 

永井家は、信濃守が増上寺で討ち果たされたのです。

 

63  東福寺の書記の正徹は歌道の名人です。ある時、五条辺りに、齋法要に行かれた折節、大雪が降りました。途中で、鷺の飛び帰るのを見て、

 

飛び帰る雲井の鷺の羽風よりわが色こぼす雪の曙

 

さて、その家に着くと、亭主が出て来て、「今朝の暁時の夢に、定家卿が御来臨で、

 

飛び帰る雲井の鷺の羽風よりわが色こぼす雪の曙

 

と、御詠歌されたと見ました。」と言われると、「それは、今、途中で、自分が読みました。」と言われました。さては、定家卿の御再来なのかと言われ、世上にその話が沙汰されたという事です。

 

徹書記の恋の歌で、

 

千早振神の御鉾の露もうし、国とならずば君を見ましや

 

また、畠山匠作亭の12月の歌の中で、

 

ちらせただ(なを)見ぬもろこしの鳥もねず(こし)桐の葉わけの(来る)秋の三日月

 

と読まれたので、遠島を仰せ付けられたのだそうです。一説に、遠島とは、京都を御払いの由。しばらく、山﨑に居られたそうです。その配所で、

 

中々になきたまならば古郷へ帰らんものをけふの夕暮

 

これは、盆の歌です。この歌で、帰参を仰せ付けられたそうです。家集を草根集というそうです。

 

64  ひとたまひの奥に、押しやられる車を賜る時というのは、乗車、副車と2両を賜るのを一たまいと言います。副車の後に押しやられると言う事です。

 

65  松平相模守殿(因州鳥取の城主)の御家来の何某が、京都に、借銀役で、向い越し、町屋に借宅して居りました。ある時、人通り見物に、表に出たところ、道を通る者が言うには、「今の喧嘩は、松平相模守の衆だそうです」との由を話して通りました。その人は、それを聞き、自分のところの朋輩が、ここで喧嘩という事は心元なく思いました。この頃、江戸詰の交替の者が、見物の為に、ここに逗留をしていました。たぶん、その者共かと思い、道を通る者に、その所を尋ね、息を切らして駆け付けると、朋輩は打ち留められ、相手が留めを差す所でした。すぐに、詞を懸け、相手の両人を打ち捨て、帰り行かれました。

 

この事が、御奉行所に聞こえ、その人が召し出され、「その方は、朋輩の喧嘩に加担し、御法を背かれた。正しく、その通りか。」と仰せ尋ねられました。その人は、それを聞き、「自分は田舎者で、各々様の物言い、その理が分かり難く思います。今、一度、仰せ聞かせられ下さる様に。」と言いました。御奉行衆は立腹して、「耳が聞こえないのか、喧嘩の方人をして、人を刃傷するのは、法度に背き、掟を破っているのではないか。」と仰せ聞かせられました。

 

その時、答えられたのは、「お申しの通り、ようやく、聞き分けました。御法を背き、掟を破ったと仰せ聞かせられましたが、まったく、法には背かず、掟を破っても居ません。その訳は、人間は言うに及ばず、一切の生類に、命を惜しまぬ者はありません。私も、とりわけ、命は惜しくて居ます。しかしながら、朋輩が喧嘩という沙汰を、空しく、聞かないままで居るのでは、武道を取り失う事と思い、その場に駆け付けました。朋輩が討たれたのを見て、おめおめと帰るならば、命は生き延びますが、武士道は廃れるという事です。武士道を守り、大切の命を捨てるのは、武士の法を守り、武士の掟に背かない為です。一命の事は、もう、その場で捨て置いて居ます。早早、御仕置を仰せ付けられます様、お願い致します。」と言いました。

 

御奉行衆は、浅からず、御感心され、その後、何の御構いもなく、相模守の方に、「よい士を御持ちなされます。御秘蔵されます様に。」と仰せ越し、聞かされたのだそうです。

 

66  有馬中務太傅殿の京都の屋敷の留守居は、山田角右衛門と言いました。ある時、角右衛門の長屋に、衣類に血の付いた者が駆け込み、家来に申し次ぎされたのは、「自分は、何年か以前に、どなたかの所で、角右衛門殿に御近付きになりました者です。火急の御用があり、今、御目に懸かりたく思い、玄関に、少しの間、御出会い下されます様に。」と言いました。

 

家来が聞き、角右衛門に申し伝えると、「なるほど、その様な人と近付きになった事がある。何の用事なのか。」と考えられていました。家来が言うには、「着物に血が付いています。」と言うので、「それで、分かった。」と言って、すぐに、大小を差し、出会うと、その人が言うには、「今、逃れ難い事が出来て、人を殺害しました。即座に切腹するのも無念と思い、仔細の訳があるので、そちらを頼む事を思い、走り込みました。後から、追手が来ますので、御囲い下されますか。」と言われました。

 

角右衛門は、それを聞いて、「御始末はどのようにされたのですか。」と尋ねました。その人が言うには、「両人は止めまで刺し、一人は手負いで逃げ延び、力及ばずです。」と言いました。角右衛門は、しっかりと、聞き届け、「残るところのない御始末です。奥に御通り下さい。」と、家来に、手水、茶、煙草などを出させ、角右衛門は、直に、門番所に行き、番人になって居ました。

 

そこに、大勢が押し懸け、「この御屋敷に殺害人が駆け込むのを、附け来て、見届けました。差し出してください。」と言われました。角右衛門は、聞いて、「何事を言われるのか、所違いです。」と、とぼけて、答えましたが、「確かに、附け込み、来たので、偽りは言わせません。」と言いました。角右衛門が言うには、「それは証拠がありますか。」と言いました。追手共は、「見届けたのが証拠です。御屋敷に入れられていないという証拠はありますか。」と言いました。角右衛門が言うには、「中務の、兼ねての申し付けに、駆込者を入れない様にという事なので、主命に替えて、入れるなどという事はないのです。それが証拠です。」と言いました。「では、御屋敷を探す事にします。」と言いました。

 

その時、角右衛門は、立ち向かい、「有馬の屋敷を、その方などに探させて番人の一分の面目も立たない。仔細の話を聞き分けず、大名の屋敷に踏み込むと言う狼藉者は、一人も残さない。」と、刀を抜き、番人共も、一同に抜き連れて、切り懸かったので、追手の者共は迷惑し、色々と断りを言い、帰りました。けれども、駆け込みの事は、見届けた者がたしかに居るので、その事を奉行所に申し上げました。それで、角右衛門は召し出され、この段を、仰せ聞かせられました。

 

角右衛門は、それを聞いて、「まったく、こちらには来ていません。」と申し上げました。御奉行衆が仰せられたのは、「その方が、どう隠しても、その紛れなしとの由、訴え出されているので、もはや、囲い置くことはならない事です。者が難しくなるので、早早、出す様に。」と仰せ聞かされました。

 

角右衛門が言われたのは、「それでは、是非もない事です。有体に申します。私は、数年の留守居役、年も寄り、の者で、各々様方にも丁寧に仰せ下され、人に名を知られている者です。この事で、外聞を失う事は、面目なく、今まで、偽り居ました。確かに、こちらに駆け込み、自分を偏に頼むの由を言われました。けれども、中務太傅のこの御屋敷の掟書に、駆込者を隠し置かない事との由、書き載せ、渡されています。主命は背き難く、今となっては、不義理の事なのですが、その訳を申し聞かせ、裏門から、密に、出しました。」と言うので、御奉行衆は、尤もな事と、御感じになり、訴訟人共に、「有馬屋敷を御僉議なされましたが、隠し置いてはいない事に決まりました。外を探索されます様に。」と仰せ付けられました。

 

角右衛門は帰り行き、殺害人の疵などを養生させ、暫くして、路銀なども呉れて、出て行かせたそうです。

その当時、四條河原で、狂言にもなりました。

 

67  権現様の一枚紙の事。ある時、家康公が御佛参で、御前に諸大名が伺候の節、御鼻紙を一枚、御取りになり、御腰に挟み、御手水を御使いなされるその時に、風が吹き、鼻紙を吹き散らし、縁の方に落ちたのを、御走り付き、御取りになり、御手を拭かれました。伺候の衆は見て、ひそかに笑われました。

 

家康公は大音声で、「いずれもの方々は、今の仕方を見て、可笑しいと、ですか。自分の天下は、これで取ったのです。」と仰せられ、濡れ紙を座中に投げ捨て、奥に御入りなされた由です。

 

月舟和尚は、板倉周防守殿の菩提所の三河、長遠寺の住持になられ、周防守殿が参会の時は、他の話はなく、権現様の御話ばかりでした。周防守殿が幼年で、御小姓を勤められた頃の事の由で、この一枚紙の話をなされた時、月舟は、たちまち、思い付かれ、頻りに落涙し、三日も寝食を忘れ、胸を突き通したかの様なあり様でしたとの由。それから、権現様の御位牌を建て、一生の間、毎朝、毎晩、礼拝されたそうです。周防守殿は御小姓から、段々と立身された由です。

 

この時の月舟の偈を、別紙に記す。月舟一派は、一枚紙の工夫と言います。

 

68  盤珪和尚の示しに、他力を借らず、自力を頼まず、前念、後念を裁断し、当念に住せずんば、大道は現前する、と。

 

69  相馬殿の系図をチケンマロカシと言って、日本一の系図です。ある年、屋敷が、何かで、焼亡の時、相馬殿が言われたのは、「家も、器財も、また作れば出来るものなので、残らず焼いても構わない。けれども、当家第一の重宝の系図を取り出さない事は残念だ。」と言われました。供の侍の一人が、「自分が取り出します。」の由を言いました。相馬殿を始め、朋輩共も、「最早、家々に火が懸かっていて、どの様にして取り出すのか。」と笑われました。

 

その人は、普段から話をしない人で、それほど用に立たないのでしたが、首尾よくできる人なので、側に勤め居ました。その者が言うには、「日頃は不調法者で、御用にも立たないのですが、いつか、一命を御用に立てると覚悟して居りました。この節が、それと思います。」と、火の中に飛び入りました。

 

そうして、火が鎮まってから、「あの者の死骸なりとも、見付け出す様に。不憫な事だった。」との御申し付けで、方々を探したところ、居間の庭で焼け死んで居ました。引き立たせてみると、腹から血が流れていました、腹の中に、系図を入れ置いて、すこしも、毀損がありませんでした。それから、血系図と言うのだそうです。

 

70  灼艾の吟。

 

只惜一分膚 何忘五尺身 艾煙不須断 豈是竟為薪   元政

 

(訳者読み下し)

只一分の膚を惜しみて、何ぞ忘れむ五尺の身、艾(もぐさ)の煙、断ずべからず、あにこれ竟に薪となるをや

 

71  正三は、鈴木九大輔という御旗本でした。詳しくは、驢鞍橋にあります。要門和尚が隋仕されていた時、髪を剃ったところ、「剃った毛を火鉢にくべてみて下さい。もう、臭気はないはずです。」と言われたので、剃刀に付いた毛を火にくべると、何の香りもしませんでした。その時、正三が言われたのは、「匂いはない筈です。自分んは、覚えがあります。修行は、その様にし届けなければ成らないのです。」と言われたそうです。

 

要門和尚の直の話です。

 

72  易経相傳に、占いは、中たるものと思うのは誤りです。中らないのが本来です。易は、カハルと読むからです。占いで、吉でも、悪をすれば凶となり、凶でも、善をなせば、吉となるのです。

 

孔子の、「我に数年を貸して、竟に、以て、易を学べば、大なる過ちはなかるべし。」と仰せられたのは、易経の修学の事ではありません。易の本体を学んで、数年の間、善道を行えば、過ちはなかるべし、なのだと、ある人の話です。

 

73  平野権平殿は、賤ヶ岳先登の七本槍の人です。後に、家康公が御旗本に召しなされました。ある時、細川殿へ、振舞で行かれました。御亭主が言われたのは、「権平殿の武辺は、日本に隠れもない事です。その様な大勇士を、今の様な小身で召し置かれるのは、残念です。ずいぶんと、御手元は不如意で居られると思います。自分の家中になどなられるならば、領知の半分は差し上げるもの」との由を言われました。

 

権平殿は、どうという返事もせず、ふと、座を立ち、縁に出て、正面に立ちはだかり、小便をしながら言われたのは、「御手前の家中になれば、ここから小便する事はできません。」と言われたそうです。

 

74  関ヶ原の一戦の時、秀忠公は、木曽路を御登りになられて居ましたが、眞田阿波守が、手向かわれて、御遅参されました。家康公は御立腹で、「佐抛(さなげ)大明神も御照覧あれ。汝が顔を、二度と...」と仰せられた時、本多佐渡守が御口に手を当て、「先は言わせません。その御短気の為に、三郎殿を御失い、まだ懲りて居られないのですか。」と言われるので、そのまま、御座を御立ちなされました。秀忠公は、関ヶ原の御遅参を御一生、後悔の由です。佐渡守殿の老後には、御前での、安座、頭巾を御赦しになされました。

 

75  家康公の手の内の成瀬小吉を、太閤が御所望されましたが、小吉が出られなかった事は、松永聞書に見えます。その時、太閤が仰せられたのは、「家康公の家来は格別に見えます。何か、人の仕立て方があると見えます。是非とも、御傳受下さる様」との由を仰せられました。

 

家康公はそれを聞かれて、「今までも、何の仕方も存じて居りません。」の由を仰せられましたが、強いて御尋ねで、「別に替わる事はございません。私の心持に、100石以上の者は、犬の様にしています。その下は、猿の様にしています。」と仰せられると、太閤は、しばらく、目を瞑られ、「篤と、合点しました。今日からは、人のし様は、そなたの弟子になります。」と仰せられました。その時、御小姓衆は笑いました。

 

家康公が御帰りの後、御叱りなされました。「何事を笑うのか。」と仰せられるので、御小姓衆が言われたのは、「家康公の家来は、皆、畜生ですか。」と言われました。太閤の仰せに、「犬猿をわかるという事、仔細のある事です。」と御講釈なされた由です。

 

76  参州の大融和尚が、ある病人の家に見舞われた時、「今、果てられました。」と言うので、「今などと、こんな事がある筈もないので、養生不足ではないですか。残念の事です。」と言われました。

 

医師がその家に居て、障子越しに聞き、以ての外に立腹し、すぐ、出て行き、「養生不足で果てたと仰せられたのを聞きました。もっとも、下手医師なので、そうかも知れません。出家は法力があると、伝え聞いています。この死人を祈り活かして下さい。その事が示されなければ、仏法は役に立たないものです。」と言われました。

 

大融も迷惑に思われましたが、さすがに、仏法に傷を付けられては、私事ならずと思い、「随分、祈りをして、活かし見せます。しばらく、御待ちください。身拵えをします。」と言い、寺に帰り、やがて、戻り来て、死人の傍らで座禅をされました。しばらくして、死人が、息をつき出し、蘇生しました。半年ほど永らえたのだそうです。

 

この事を、湛然和尚が直に尋ねられると、少しも相違ないという事でした。そして、其の祈り様を相傳するとの事で、話されたのは、「宗旨では用いない事なので、もとより、祈祷の方法は知らないのですが、ただ、法の為と、思いを致し、寺に帰り、上がり物の九寸五分を研ぎ、懐中して、死人に向い、もし、法力あるものならば、すぐに甦れ、と念じたのです。もし、蘇生しなければ、言い掛った事なので、腹をかき破り、死人に抱き付き、果てるものと覚悟し、決めたまでです。」と言われたそうです。

 

大融和尚は、水野監物殿が帰依で、常々、出入りされて居ました。物を貰う時などは、手をつかね、崇敬の御挨拶をされ、着物などを乞われたそうです。また、ふくべに酒を入れ、普段、腰に下げて居られましたが、酒が切れた時は、監物殿に行かれ、「御銚子酒を拝領致します。」と言い、ふくべに入れました。帰りには、監物殿が送りに出て来られるのに、大融は、手を出して、「監、入りやれ。」と言われたそうです。

 

ある時、大融が逐電したので、監物殿で、方々が探されたところ、「非人の中に見えます。」という者がありました。監物殿は工夫されて、施行を行われました。非人共が集まり居り、奉公人が、「この施行を垣の中に入らずに取る様に。」、と言いました。その時、非人の中から、「ここに投げろ、取ろう。」と言うのでした。それで、取り押さえると、大融だったそうです。

 

77  梁重和尚が上方に在留の時、越後浪人で懇意にしている者がありました。娘が一人居たのですが、念の野狐が付き、祈祷を数を尽くしてしましたが、離れませんでした。梁重和尚に御頼みになる様にと言われました。宗旨にない事と断られましたが、「これで、終わりとしますので、是非、御加持なされて下さる様に。」と、拠所なく言われるので、「では、理趣分を繰り出し、使い、叩き離してみます。」と、机の向こうに娘を据え、理趣分を言い立て、經にて叩かれなさいました。一昼夜、座も去らずに、祈られましたが、まったく、その験はなく、その後は、鞭を以て、叩き伏せられました。夜明けに、娘は果てました。

 

親が言うには、「さてさて、本望の事です。存生でも畜生です。御経の功徳で、来世は助かります。」と言われました。梁重も、是非のない、宿業と観念し、出家として、人を打ち殺して、永らえては面目ないので、自害する事と覚悟を決め、寺に帰り、取り片づけていたところ、使いが来て、「すぐに、御出で下さる様に。家の中に、狐が何百匹も入り込みました。」と来て言うので、もしや、変わった事でもあるかと、出て行かれると、狐は、皆、逃げました。

 

不思議な事に、娘の死骸を見れば、息をつき始めて居ました。水薬などを与えると、段々、気が付いて、蘇生し、本気となったのでした。「確かに、打ち殺した者なので、狐は死んでいるはずです。屋敷内を改め、探す様に。」と言われ、探すと、先程の祈祷をした床の下に、古狐が死んでいました。そこで、25丈の袈裟に包み、葬礼を丁寧にして、引導をして、葬りなされたそうです。

 

直の話という事でした。

 

78  中院通村公(通重公の祖父)が、御水尾院様の御時、勅使として、江戸に下向、御登城の時、下乗はされないとの由を仰せられました。御番衆は、先例との由を言いました。通村公の仰せでは、「法を知らない者が、それが例だとするので、下乗するという事があるか。勅使の下乗の法はない。」と仰せられました。けれども、御番衆は納得しないので、「では、勅諚は御伝えできません」の由を言われ、御引き返しなされました。この事で、傳奏屋敷で、3年、蟄居されました。この時、御製が5首あるとの事です。(御製集あり。)

 

通村公の御子は道純で、御早世です。道純卿の御子は、従一位内大臣通茂公です。仙洞様が御在位の時、松の木殿の御姫を御寵愛で、その御腹に御出生の五ノ宮様を御位に即けるとの由です。「一ノ宮様は、蝕の日に御出生なので、王位はなりません。公卿が僉議をする事」の旨を勅諚されました。いずれもが同意の由を申し上げられました。

 

通茂公は、御一人、納得されず、「その様に思し召しされては、天下に道は絶えてしまいます」の由を仰せ上げられました。また、一ノ宮様の外叔の小倉殿は、その場で、蝕の日の出生の帝王、聖主の例として、和漢を引き、申し上げられました。しかしながら、五ノ宮様が御位に即かれました。その節、通茂公は、七年、蟄居されました。

 

小倉殿は、伊豆に遠島でした。この様な無道の世に存えて詮なしと、絶食21日目に果てられました。御子は、帰参を仰せ付けられました。その時に、流人たちから、餞別が、されました。

 

見隠れし、芦間のひかり顕れて、雲の上まで、飛ぶ蛍かな

 

79  眼療治の事。目は、人の眼なのだと心得る事です。一身の内で、尊いのは眼です。天に日月がある様なものです。だから、汚れを嫌います。仮にも、汚れた物を近付けるべからず、です。もし、触るのならば、親指の中の節で、触るのです。汚れない所です。そのように心得た時、眼に威が出来、病がなくなります。秘蔵の事です。

 

もし、頻りに病む時は、清い水を、清い器に入れて、湯に沸かし、新しい碗に入れ、新しい布を浸し、鹽を入れ、湯の中に漉し入れ、新しいもみ絹の切れで、眼の廻りを洗う事。湯加減は、眼に当たる感じがよい様にします。すぐに、よくなります。ゆめゆめ、薬を使うべきではありません。これは、朝倉の傳です。

 

80  出家出入りの真言に、「数珠、掛絡、手巾に、跡見よソワカ。」 旅などでは、特に、物を落とさない為によいです。

 

81   嚴有院様は11歳で将軍になられました。その頃、御三家は御在府で、御後見は、保科肥後守、御守は、酒井空印です。

 

82  南光坊が言うには(権現様が御若年の時の御夢合わせで、参河のこの寺の住持が言われたとも)、「松平の御家は、五の指を折り、6代目の起る時が大事」の由です。それに付き、家宣公は元に御返りで、家康公の御子様分で、御一字を取られたのだそうです。御尊骸も、臺徳院様の通り、増上寺に納められました。

 

83  俊乗坊は、日本に、丈六の廬舎那仏を建立し、末世の衆生を救いたいとの誓願を起こされました。それに付き、三国の人民の結縁の為、三国勤化の志があるとはいえ、余命はなし。そこで、伊勢に参詣して、衆生済度の為に、我に長命を御許し下さいと祈られました。願いの通り、三国を勧進し、大仏の建立を成就し、御礼の為に伊勢に参詣して、下向の道で遷化されました。多賀にその跡があります。

 

84  蝋燭のしん切り様の事。立筋違いに切る事。消し様は、しんを切って、吹き消して逆さまにする事。点け様は、本火のしんを突き懸けて置く事。表の仕事です。よくよく、嗜みがあるべきです。灯は掻き立ててから消す事。臭いがなく、そうするものです。

 

85  題線香 (線香に題す)  元政

 

    糸頭乱緒白雲香 変態百興終不常 (糸頭の乱緒、白雲香る  変態して、百興、終に常ならず)

    清話濃時尺還短 安禅倦處寸猶長 (清話して濃時に、その尺は還りて短   安禅して、倦む處、その寸は猶長し)

 

86  江戸の鐡牛和尚に、山本五郎左衛門が面談して、仏道についてお聞ききしたいの由を言われると、鐡牛の答は、「仏法は、分別を、取って除くまでの事です。別に何の事もありません。士の上で例えてお話します。憶の字は、立心偏に意の作りです。意は分別です。本心に分別が付く時、臆病者になります。武士に分別が出来ては、武勇ができますか。これで、理解されて下さい。」と、言われたそうです。

 

87  中院通村公が、関白殿が御子の御指南を御頼みになられたので、その御出での後に、付け置かれる御家臣を、通村公が召し出され、「最早、御幼年という御歳でもなく、御物言いは上臈の格式に違い、下臈の真似をされる事は、是非に及ばぬ事です。これは、付け置かれる人々が、おろそかなのです。今日の座でも、『障子を開けい、燈を掲げい、料紙を持て来い』と御申しです。『障子を、燈を、料紙を』で分かります。開け、掲げ、持て参るは、下臈の業です。こうした事がない様に心得て下さい」の旨を仰せられたそうです。

 

88  江戸の御城が類焼の時、松平伊豆守殿が、殿中の通路を一筋、畳を裏返しにして、女の道に定められ、即座に男女の別が立てられたそうです。

 

89  焼香の持参時に、包み様の事。

 

 

 

杉原紙で二重に折り、これを作る。

折り目は、裏が左の方になる様にする。紙の二重に折った所は、4寸5、6分角にする。

 

90  大猷院様が、島津家の犬追物を上覧の時、島津飛騨守が落馬しました。この時の作法を御感なされ、重ねて、落馬を御所望との由。

 

91  慶長5年、家康公は、景勝の御退治で、関東に御下向され、野州小山で、伏見が落城の知らせを聞かれ、下向の諸大名を召し出され、「今度、秀頼公の御下知と称して、石田が反逆の由に付き、これから、上方に引き返す事となり、各所は、その所存に依り、石田方にもなられる事と思います。少しも遺恨に思わない」の由を仰せられました。

 

その時、長岡越中守忠興が一番に進み出て、「石田の謀計である上は、このまま、御味方。」と言われました。次に、福島左衛門太夫正則が、「石田謀計ならば、御味方、秀頼公上意ならば、御敵になる事です。上方で、實非を聞き届けた上で、決める。」と言われました。その他は、皆、「御味方。」と言われました。

 

そこに、真田安房守昌幸は、「石田謀計たるべきとは、推量です。秀頼公の上意とある上は、御敵になるものです。けれども、家康公の日頃の御芳志は忍び難く、嫡子の伊豆守信幸を御味方に差し上げる事にします。次男の左衛門幸村は、自分の老身の介添えとします。」と言い切り、座を立ち、「父子、兄弟、敵味方となる証に、信幸に一矢射よ。」と下知し、しばし、戦い、引き別れ、居城の信州上田に引き籠るのです。秀忠公の木曽路の御通路を遮りました。昌幸は義を立て、家を立てたのです。智謀の義士という者です。

 

92  古老が言うには、戦場で敵を討ち取るのは、鷹の小鳥を取るが如し。千羽の中に入っても、初めに見込みを付けた一羽の鳥以外には眼を付けないのです。また、毛づけの首というのは、あの何威しの鎧武者を討ち取ると言って、取った首を言うのです。

 

93  甲陽軍艦に、何がしが、「敵に向かう時は、暗闇に入る様な覚えがあります。その為か、手傷を、多く、負いました。そちらは、数度の高名にも疵を負われないのは、どうされているのですか。」と尋ねられました。何某の返答は、「敵に向かう時は、確かに、闇になります。その時、少し、心を静めれば、薄月夜の様になります。それから切り掛かれば、傷などは負わないものと覚えがあります。」と言われました。

 

時の真の位があるのです。(この返答は、馬場美濃守です。詳しく、古老物語にあります。)

 

94  江戸の火消しの衆の立附(たっつけ)の着方は、まず、尻を絡げ、その上で、立附を着ます。直に立附を着ると、足が重く、働きが悪くなる由。また、革頭巾を、火事場では、手に持ち、煙を払い、頭には、鉢巻をするのがよい、とです。革頭巾を被れば、物音が大きく聞こえ、働きにくいものとの事です。

 

95  鉄砲の玉は、水に当たると、玉の行く先の宛てもない、野打ちになります。玉に、小刀目か歯形かを付けておくと、水を潜るとの由です。また、御狩りなどの時は、玉に印を切りつけて置くと、それで、用に立つ事があるの由です。

 

96  月舟和尚は、板倉周防守殿の菩提所、三州の長遠寺の住持を勤められました。入院し、その寺に入ってすぐ、隠居と当住を周防守殿が招かれました。御亭主は唐物の巻物を持ち出され、「久しく持ち伝えていましたが、文字が読めません。御慰みに、御覧になり、御読みになる様に。」と言われて、隠居の前に、差し出されました。唐筆の草文字で、殊の外、読みかねる墨跡でした。隠居は、一覧しましたが、読めず、「これは、月舟に読ませる。」と言い、月舟の前に遣られました。

 

月舟は、一遍見て、残らず読めましたが、読みかねる風情で、いかにも、不辨に、少し、読み掛け、隠居に向い、「この字は何でしょうか。こうも読みますか。」と尋ね、伺い、また、少し読み、その様に繰り返し、綴り読みに、お終いまで読まれました。そうして、月舟は庭見物に出られた後で、防州が言われたのは、「月舟は、とてもよいです。」と褒められたそうです。

 

この事は、月舟の直の話です。了意和尚が聞かれたそうです。その頃は、まだ、年若ですが、抜群の器量だったそうです。 

 

97  関ヶ原の一戦の頃、毛利一族が参会して、家康に付くか、石田に付くかを評議しました。甲斐守秀元は、「家康公の味方で、自分に任せられて下さい。」と言われると、吉川が進み出て、「石田方に付くと、もう、返答しました。」とい言う。秀元は、聞いて、「それでは、力及ばず、です。士の一言は金鉄より硬いもの。この期に及んで、自分が同意しないからと変替すれば、毛利の恥です。」と言い、一家の軍勢を秀元が引き具し、関ヶ原で家康公の御陣近くに、備えを立て、固く守り、睨み、居ました。

 

家康公の御旗本からは、この供えを見附けて、「まず、毛利の一備えを討つべし。」と言うのです。家康公は聞かれて、「秀元は無双の勇士。こちらが手を出すのを待ち、死に狂いする様子。決して、手向かうべからず。」と、深く、制されました。

 

石田方は、一戦に打ち負け、四方八方に逃げ失せました。家康公は、御陣を全うし、押し道堅固に、京都に赴かれました。秀元は、なおも、備えを固くして、家康公の御行列の後に食い付きました。御旗本衆は、「すは、毛利勢が付いて来るので、討ち散らします」の由を申し上げました。公は聞かれて、「まったく、手を差すべからず。」と、再三、御止めになり、京都に御着きになりました。

 

秀元は、京都までしたい付き行き、引き退きました。その勇勢は、無双の大将と、その頃、言われたそうです。また、はやり歌に、「吉川味噌に毛利とうふ、付けて辛いは宰相」と諷されたそうです。(秀元は宰相です。)

 

98  尾張様、紀伊様、水戸様が、御10歳前後の頃、家康公が御庭に御同道なされ、大きな蜂の巣を御落としになりました。蜂が、多く飛び出し、尾張様、紀伊様は、御驚きで御逃げなされました。水戸様は、御顔に付いた蜂を御取りになり、片っ端に御投げ捨て、最後まで、退かれませんでした。

 

また、ある時、家康公は、大囲炉裏に、栗を、沢山、くべて、置かれました。御三人様を御呼びになられました。栗に火が廻り、一度に、撥ねました。御両人は御驚きで、御立ち退きされました。水戸様は、撥ね出た栗を御取りになり、御囲炉裏に御投げ入れして、少しも驚かれませんでした。

 

99  権現様の御神号は、御存生の内の御願いでした。御遺言の通りに、御遺骸を、甲冑を御帯し、御棺に入らせられて、久野山にに御納め、後に、日光山に御移りになられました。

 

また、御病中の4月13日に、御陣刀にて罪人を切らせ、血が付いたままで、久野の御宮の御神体とされました。「当国は、皆、手に入れ、死後も別条はない。西国は心元なく、切先を西国の方に向け込み置く様に」と、仰せ付けられました。

 

100  筑後の久留米の侍従、有馬中務太輔頼元は、賢君との由、取り沙汰されました。ある時、家中の侍の奸謀の僉議があり、それに対して、まったく、私欲の事はないと言うのでした。家老共は吟味して、拷問をするとの由を披露に及びました。中書(中務)が言われるには、「前々から、侍を拷問した例はなく、無用。」との事でした。しかしながら、家老中は納得せず、力に及ばずで、拷問したところ、奸謀との旨を申し出、仕置の申し付けとなりました。

 

その翌年、中書(中務)は、小鳥を好まれ、「小倉に、九州無双の鶯があるとの事なので、値に構わず、求めて来る様に。」と申し付けられ、莫大の金子で、乞い求められて、特に寵愛されて、侍一人を附け置かれて、その他の人は見る事もなりませんでした。

 

ある時、茶道の小僧に申し付け、その鶯を、密に、庭に放させました。そうして、小僧は宿元に返して、他言しない様に申し付けられました。この鶯の心遣りの侍が、餌を与えようと駕籠を見ると、鶯はいなくて、早速、耳に申し上げ、伝えたところ、「不届き者、たぶん、盗み取り、他所に売ったのに違いない。厳しく、僉議し、なおも、偽るのであれば、拷問する様に。」と家老共に申し付けられました。

 

既に、拷問に及ぼうとする時、「この上は、ありのままに申し出ます。薩摩に売り渡しました。」の由を申し出ました。家老共が、それを披露の時、あの小僧を呼び出し、初めの次第を言わせ、「侍は、拷問に及んでは、死後までの恥と思い、ない科をも引き受けて仕まう事は歴残と明らかだ。この後、侍の拷問は無用。」と申し付けられた由です。

 

また、ある時、盗人を死罪に申し付けると言う事で、家老共が披露した時、「下々の者は、一旦は、不義をもするもの。死罪には及ばない」の由を申し付けられました。家老共は、それを聞いて、「以後の締まりにならないので、是非に、死罪に仰せ付けられる様に。」と言うので、「それならば、どうでも、この者を殺すという事で、この者が、以後の締まりになり、二度と盗賊は出て来ないだろう。もし、盗賊が出来たならば家老共の不調法との由の証文を差し出すという事か。」というので、理に負け、盗人は助けられたそうです。

 

101  江口東庵が、医学の為に、江戸、番丁の吉田一庵老の所に居た頃の事ですが、近所に、剣術の指南者があり、折々、稽古に行っていました。浪人の弟子が居ましたが、東庵方に来て、「自分は、数年の本望を、今に、相遂げる事に成りました。兼て、御心安くさせて頂いていたので、御知らせ致します。」の由を言い捨て、帰り行かれました。

 

東庵は、心配に思い、追い付いて行くと、向こうから、編み笠を被った者が来ました。剣術の師匠が、4、5間先に立ち、行き違いに、したたかに、鞘当てしたのでした。その者が、振り返り見た時、あの浪人が、かさを脱ぎ捨て、敵討ちの由を声高に言い、名乗り掛けました。前後に気を取られて居るのを、何という事もなく、討ち果たしました。その近辺の屋敷屋敷、町屋の家々から、祝儀を言うのが、夥しく多くありました。銚子なども出されました。

 

東庵の話という事です。

 

102  江戸通町を博労が通り来て、馬が狂い、店棚を踏み崩したのに、何とも言わずに通ったので、家主が咎めると、「その店棚は、公儀の道の中。」と言い、通って行ったそうです。

 

103  猪犬のキワ見様の言葉、「眼か油か、尾か棹か針か、毛か日本国か、尻のすか。」。

 

また、傳受では、口脇の小髭が一筋あるのは気過ぎ、二筋は上、三筋は気弱なり。また、犬の子で、猪を食わせて、よく食うのは、逸物になるなり。また、生まれた時、持ち上げ、懸け比べてして、その中で、重いのが逸物なり。また、打ち叱る事なく、撫でさする事なく、食物を少しづつ、度々に食わせるのだそうです。

 

104  御老中の井上主計頭殿を戸島刑部が殿中で討ち果たされた事。主計頭殿は、末の娘を、太田備中守の子息に縁組が出来ればと、兼て出入りし、心安くしていた、刑部に頼まれていました。刑部が取り持ちし、備中守と相談を済ませて、その返答を伝える為に、主計頭方に、折々、刑部は行かれましたが、面談されませんでした。備中守殿から催促があり、その後には、刑部の追従が不埒なものと言われる様になり、それで、討ち果たされたのだそうです。

 

この時、水野監物殿は、主計頭殿の婿でした。早速、登城して、まず、刑部の死骸の被せ物を取り除け、口に手を当てて、息を聞き、腰の物に手を懸け、暫くして、主計頭殿の死骸を見届けられたのだそうです。巧者の武士は抜かぬ太刀の功名と、言い習わされました。

 

105  延寶8年5月24日、増上寺で、嚴有院様の御法事の半ばに、永井信濃守を内藤和泉守が討ち果たされた事。読経の半ばに、諸役人が、大勢、列座の前を、和泉守が通られ、信濃守の前になり、「信濃守、覚えたか。」と言葉を懸け、首を打ち落とされました。信濃守も、小さ刀の方に手を懸け、少し、抜き懸けられたそうです。

 

その時、傍に居た人(遠山主殿)が、抜き打ちに、和泉守の胸を峯打ちし、脇差を打ち落とされました。また一人(伊奈兵右衛門)が立ち上がり、「二の目をする。」と声を掛け、和泉守の後ろに廻り、腮に手を懸け、引き立たせ、投げ伏せ(長袴の裾を引き、俯伏せに、引き倒したとも言います)、懐中縄で搦め取り、勝手にまで引き立てられました。

 

その時、見向いた僧は一人もなく、經奉行の出家が、屏風を持ち出し、その所を隔て切り、役人が来て、畳を取り替え、死骸を裏門から差し出し、御法事は、少しも、懈怠なく、行われたそうです。また、一人は(遠山主殿が直に山門に走り出たとも)、山門に走り出て、御番衆にこの事を申し伝え、両人の供の者を居込めて、少しも、騒ぎはなかったそうです。即刻、上聞に及ばれ、その夜、青松寺で、和泉守は切腹でした。

 

落書 むかしより和泉守は切れもので、ながい命をたった一うち

 

この時、永井伊賀守は、13、4歳で、増上寺に参詣していて、この様子を見て、遠くから駆け付けられたのを、御番衆は、無用と言い、押し留めたのだそうです。永井の一家の者です。

 

106  貞享元年8月28日、御城で、御老中の堀田筑前守(御老中の座上)を、若年寄の稲葉石見守が討ち果たされた事。石見守は脇差で、筑前守の原を突き刺し、繰り廻されました。大事の敵は、こうするもの、となのです。この時、御老中は残らず、御立ち向かいになり、石見守を切り伏せました。大久保加賀守が初太刀の由です。

 

107  元禄14年3月14日、殿中に於いて、吉良上野介を浅野内匠頭が討ち果たされた事。吉良は高家役、浅野は公家衆御馳走役です。上野介の手傷は二ヶ所で、浅手です。梶川與惣兵衛(御留守居番)が浅野を抱き留めました。吉良を平川口から宿元に送り、浅野も平川口から差し出し、田村右京太輔(御奏者番)に御預けになり、その晩に切腹です。この事が大下馬まで知られない内に、両人の屋敷屋敷に御目付けが行き向かわれ、家中を静め、供の者共は、事が済んでから、それを聞き、帰り行かれたそうです。

 

同15年12月15日、浅野浪人の47人が吉良の本庄の宅に夜討ちし、同16年2月4日、何れも死罪となりました。

 

108  常憲院様の御法事の半ばに、上野の宿坊で、前田采女正が、織田監物を討ち果たされた事(この事の始終は、この後、尋ね、聞く事)。

 

109  慶長4年、石田の反逆の時、関東に下向の大名の妻子を人質とし、伏見御城に取り入れるべく、まず、長岡宅が、御城から一番目の屋敷なので、妻子は、御城に上がる様にとの上使を遣わすと、忠興の妻女は、その答えに、「男の留守に、女の身として、登城する事は、迷惑の事なので、お赦し下さいます様に。」と御断りされました。重ねての上使にも、同様に申し上げられました。。三度目の上使は、「もし、異議に及ばれるのならば、手込めで、力尽くで、召し連れる様に。」との上意の旨を申し伝えました。

 

忠興の妻室は、これを聞き、「この上は、力及ばずで、登城致します。女の事なので、身拵えの時間が要ります。御苦労ですが、上使は、暫く、御待ちくださる様に。」と申し伝え、留守家老の小笠原正齋、川北何某、石見何某、を呼び出し、申し聞かせられたのは、「自分は、越中守殿と夫婦になった後、父の明智日向守殿の不義の行跡があり、越中守殿は意見をなされたのですが、承知されないので、不義の人と縁を結び置く事は出来ないと、自分を離別されました。そうしたところ、父の日向守殿は、程なく滅亡し、自分は、身の置き所がありませんでした。

 

その時に、越中守殿からの使いを頂き、昔は、日向守の不義の事で離別して、今は、流浪の難儀で不憫な事だ。その上、道路に恥を曝し、越中守の妻女だと言われることは、一分が立たない。呼び取る事にするという事で、またまた、立ち帰り、男女の子の二人を出生しました。この厚恩を生前には報じ難いものと、かねて、思い込み居りました。ところが、この度、御城に召させられ、力及ばず、御城に上がる時は、越中守殿への一分が立たず、また、家康公の御味方で居るのに、妻子が人質に取られたと聞かれて、恩愛の道で、心も替わるのであれば、不義の名を取らせる事になります。

 

そうであるならば、越中守殿への恩報じに、今、自分は、自害致します。妻子が相果てたとお聞きになられたら、憤りは深くなり、無二の忠節をなされる事と思います。時刻が移ってはならないので、居の間の中に、早く、焼き草を積み、自分の自害を見て、火を掛けて下さい。召使の男女は、心心に落ち行き、越中守殿に面談があれば、この趣を詳しくお話し下さい。」と言い、居の間に入り、10歳の女子には、その趣を申し聞かせ、引き寄せ、刺し殺し、8歳の男子に向い、「武家に生まれた験に腹を切れ。」と言われると、「心得ました。」と押し肌脱ぎ、小脇差を腹に突き立てた時、憂き目をみせるよりはと、それから、首を打ち落とし、その身は自害されたので、焼き草に火を附け、思い思いに働き、火の中に駆け入り、死んだ者も多かったと言います。7月17日の事です。

 

この後、妻子の籠城は止められました。

 

110  大勢が込み合う場に行ったときは、替え草履を懐中に持っているとよい。御供の時などは、その御草履の為にもなるのです。

 

111  蘭奢待は、東大寺の勅封の御蔵にあります。鎌足の大臣が、その流木を拾い上げた名香です。御即位の時、1寸四方を取られ、八重垣と名を替えられました。後は、取った分が満ち合い、元の様になるそうです。

 

112  御国の医師の何某が江戸に居た時、御旗本の何の源兵衛殿の父子が、同道で通られていたところ、その跡の行列に割り込みをした者を、家来が打ち捨てました。源兵衛殿は、振り返らず、家来に様子を聞き、「苦しからず。」と言い、通って行かれました。

 

そうしたところ、後から、辻番人が付けて来て、家来は源兵衛に、その事を知らせました。源兵衛殿が言われたのは、「棒を持って来ているか。」と尋ねられました。「はい、棒を持って来ています。」の由を言うので、申し付けられたのは、「何某という者です。行列への割り込みを切り捨てたのを、附けて来るのは尤もです。棒を持つのは無用という事」の由を申し付けられました。

 

そうして、源兵衛殿が宿元に帰ると、台所に家来どもが寄り合い、「どのように、仕舞われたのか。留めは刺したのか。」と言うと、この人が言うには、「旗本奉公をする者が、不詮索の事を言われました。留めをするのは意趣切りの事です。主人の難になります。無礼を咎める端的の一刀は、御掟です。こうした事は、一刀切りのもの」との由を言われて、この医師は、それを聞いたという事です。

 

山本五郎左衛門へのお話です。

 

113  薩摩の家来が、百人番所の前を眠りながら通るのを、同心が見て、「眠らせらるな。」と言い、棒の先で突いたところ、顔に当たり、血が出ました。この士は、血を拭い、何もない様にして、通り行きました。晩方になり、騎馬で大勢を連れて、同心の帰りを待ち、乗り掛かり、飛び下り、言葉を懸け、切り伏せ、その外を追い散らして、帰り行きました。やがて、その届があったのですが、「こちらの者ではない。」と取り合い、応じて、それで、済みました。

 

114  大猷院様の御圍いの所で、掘田殿が、若年の頃、柳生殿が相伴され、御手ずから、御茶を下され、捨子(捨子は壺です。名物の茶入れです。)の御茶入れを、堀田に拝領させられました。

 

「若輩で、茶人の重宝である事を知らないと思う。日本Iに隠れのない名物で、値などは、親の甚十郎の身上のいくつ合わせても足りない物だ。」と申されました。堀田は、茶入れを頂きましたが、すぐに、柱に当て、打ち割り、投げ捨ててしまいました。

 

暫くして、申し上げたのは、「自分程度の者の事とは言え、倅を立てた者に対しての、その値の申され様は、御情けなき事と、一編に、こみ上げて来て、御前にも拘わらず、慮外な働きで、重科は逃れられないもの」の由を言われたそうです。

 

115  太閤様が、太田三楽に仰せられたのは、「そなたは、智仁勇を兼ねた良将だ。けれども、小身で居る。自分は一つの徳もない。天下を取るのが得意なだけだ。」と。

 

116  幽齋が隠居の以後は、在京でした。肥後で、家中に異議が出来て、暇乞いした者が、数人居るとの由を聞き、幽齋は、短冊を二枚送られて、すぐに、静まりました。

 

越中守へ 真菰草つのくむ程の澤邊にはつながぬ駒も離れざりけり

 

家中へ 相坂の嵐の風は寒けれど行方知らねばわびつつぞぬる

 

117  家康公の申された事ですが、「濱松から西は、将軍の居所ではない。都が近く、風俗が弱い。」と仰せられたそうです。

 

118  天海僧正が出生の時、産湯として、桶に水を汲み入れると、鯉が入りました。「料理する。」という者もありましたが、「この悦びに。」と言い、放しました。博士が来て、「この人は、天下の主なり。けれども、鯉を放したので、果報は無くなりました。出家になれば、将軍に劣らない果報があります。」と言う。親共は悦び、出家にしました。(畿内の百姓です。)

 

17、8歳の頃、修行に出て行き、日が暮れ、宿を借りました。夜半に、荷物をして、男が一人来て、天海を引き起こして、櫃を担がせ、女が一人、附き来て、山中で、天海に穴を掘らせ、浅いと言って、男が入り、掘りました。その時、櫃に添えた脇差を抜き、男を突き殺し、女を殺そうとすると、女は手を合わせ、「命を御助け下さい。」と言いました。「おのれは、密夫に本の夫を殺させたのだと見える。家内一職全てを自分に呉れるなら、助ける。」と言うと、承知したので、財宝を残らず取り、その女は尼にして、自分は京都に出て、信長に謁し、その後、家康公に頼り、御祈祷を主として、御政道の御助言をも申し上げられました。

 

秀忠公、家光公、家綱公、4代の御祈祷、御心のままに修し、得寿150歳で遷化でした。死去の時、御城にも聞こえ、家光公は、すぐに、御成りなされたところ、すでに、事切れていました。御落涙で、「御遺言はないのか。」と御尋ねの時、一封の物を差し上げられました。御覧なされると、鑰(かぎ)が2つありました。「秘筐があるはず。」と御尋ねがあり、2箱を差し上げられ、御開きなされると、天海大僧正の綸旨、慈眼大師の綸旨です。寝間には、袈裟と酒樽一つがありました。他に何もなし。これは、南光坊の事です。

 

119  家康公の尊骸が、日光へ、駿河の久野から御越しの時、南光坊は、御棺に向い、御引導は、「あればある、なければなきに、するがなる、くのなき神の宮移りかな。」、この1首です。

 

家光公は、御老後に、初めて、御子懐胎で、天海に、変生男子の御祈祷を御頼みなされたところ、「元三大師の自筆の像が叡山にあり、信長が一戦の後、転傳して、今、伊勢國にあります。これを本尊にしてすれば、祈り果たせるもの」の由を言われるので、すぐに、上使が立ち、その寺に寺領を附けて御所望されて、差し上げられました。やがて、家綱公が御出生です。

 

また、「目黒行厳院の再興の訴訟が叶います様に。」との、江島の参詣の旨を天海が聞き、すぐに、呼び返し、「生弁財の法を修しみるとよい。護摩を焚く様に。」と御申し付け、御城に使僧を遣わして、御老中を呼ばれていたところ、御前から、「急ぎ、来る様に。」と申され、早速、行き向かわれたそうです。その時、行厳院の訴訟の事を天海が言うと、寺々からの訴えが多くて、調べが済んでいないとの由でした。とは言え、この寺は別格。すぐに、申し付けられるべき由で、奉行を呼び寄せ、即座に申した付けられ、住持が帰ると、もう、普請が始まっていました。

 

上野の寺々に、元三大師の月移りの時、慈眼大師も同座です。これは遺言なのです。物咎めがあるのも慈眼大師です。

 

120  権現様が御臨終の時、半弓を御取りになり、御平臥し、そのまま矢を御つがえ、天井をはっしと射通されて、そのまま息が絶えたそうです。天下取りになられた事は。末期の一箭にあり、と言い伝えている由。

 

121  關山国師は足が不自由で、座禅も半跏座です。末期に、斧を持ち、自身の足を切り折り、結跏座を組み、辞世を書かれました。裁断仏祖 吹毛常磨 機輪轉處 と書いて、息が絶え、筆を投げ捨て、牙を噛み、果てられました。鐡堂和尚が側に居られましたが、すぐに、末句を次ぎ書かれました。虚空噛牙。

 

122  日光は3社です。頼朝、家康、天海。(日光の出家の話の由、丹羽蔵人の話です。)

 

123  小幡上総助の妻は、小幡駿河守の娘です。駿河守が追放の後、上総助が妻を離別するようにとの事を、家老共の考えとして申し聞かせるようにと、信玄が言われました。それで、上総助を召し寄せ、屋敷を囲み、その旨を申し伝えたところ、上総助が言うには、「侍の縁は、よい時ばかりではありません。この場に及び、科なき妻を去り、路頭に立たせては、上総助の一分が立ちません。侍は不義を恥とするのです。それと同時に、主命は、力及ばずで、御内意の場合には、そうもできない事です。または、主を妻に思い替え、逆意ある上総助と思召されるなら、この座で切腹します。」と言うので、一座は理に詰まり、信玄に、そのことを披露すると、「自分の誤りだ、あの者の心を試し見ようとして言った。」と、殊の外、褒められた由。

 

124  信玄の家中では、誓言には、「山を越え申すべし。」と言うのだそうです。これは、追放の時、領境の山を越える事から来るのです。ところが、追放の者に、暇乞いとして、因みの者が、その山で名残を惜しみ、酒宴などするのでした。

 

「この事は宜しくないので、停止とする。もし、背くならば、曲事になる。」と申し渡されましたが、止みませんでした。この事を披露すると、信玄が申し渡されたのは、「曲事を顧みず、朋輩の別れを慕う志には、感じ入る。」と、倍する加増がなされました。その以後、酒宴は止んだそうです。これを不法の法と言うのです。

 

125  松島の雲居和尚が、夜中に山中を通られるのを、山賊が出て、捕えました。雲居が言われたのは、「自分は、近辺の者で、遍参の、諸国を巡る僧ではない。金銀は少しも持たずで、欲しければ着物を遣る。命は助けろ。」と言われるので、「さては、無駄骨折りで、着物などは、用はない。」と言い、通しました。

 

一町ばかり行き過ぎてから、雲居は立ち帰り、山賊を呼び返し、「自分は、妄語誡を破った。銀一つが、前巾着にあるのを、狼狽え、忘れて、少しも銀子なしと言う事は、是非に及ばずの事。それを遣るので、取れ。」と言われました。山賊は感じ入り、そのまま、髻を切り、弟子になったそうです。

 

126  江戸で、御旗本衆が、4、5人、夜会碁を打たれている半ばに、一人が、雪隠に行かれました。その後で、口論があり、相手が、一人を切り伏せ、灯が消え、騒動となって、雪隠から駆け出て、「皆々、静まり下さい。何の事もありません。自分が受け取ります。灯を出して下さい。」と言うので、灯を出し、皆々が静まった時、その相手の首を打ち落として、言ったのは、「自分は、武運尽き、喧嘩の座に居合わせず、臆病者という事で、切腹に決まりです。そうでなくても、雪隠に逃げたなどと言われて、言い分はならず、腹を切らずにはならない場となりました。一人、恥を掻き、死ぬよりは、相手を切り殺してなりとも死ぬべしと思い、こうしたのです。」と言われました。この事が上聞に達し、御褒美との事。

 

127  ある山中を、座頭共が10人位で、連れ立ち、通っていて、崖の上を通る時、皆々が、足が震え、大事とばかり、胆を冷やしながら通っていたところ、真っ先の座頭が踏み外し、崖に落ちました。残りの座頭共は声を上げ、「やれやれ、可哀想な事。」と泣き叫び、一歩も歩けませんでした。

 

その時、落ちた座頭が、下から言ったのは、「気遣い要りません。落ちたけれど、何の事もなし、却って、安心な事です。落ちない間は大事と思い、落ちたらどうしようと思うので、気遣いが限りなくなりますが、今は落ち着きました。各々も、安心したければ、早く落ちて。」といわれたそうです。

 

128  北見若狭守殿が、御預けで、桑名に越し行かれた時、宿宿で、方角を尋ね、江戸の方を後にしませんでした。それからは、本陣に、方角の張り紙をする様になりました。配所でも、毎朝、裃を着て、江戸の方を奉拝されていたそうです。

 

129  北條安房守殿が、軍法の弟子共を集め、その頃江戸で流行りの人相見を呼び、剛臆の相を見せられました。「剛は、いよいよ、励むべし。臆は、命を捨てて励むべし。生まれ来たものは恥辱ではない。」と、一人一人、見せられました。

 

その時、廣瀬傳左衛門は、12、3歳になっていましたが、人相見の向かいに座り、声を、いららけて、「おのれ、臆病の相ありと言うなら、ただ一刀で、切り捨てる。」と言ったそうです。

 

130  月舟に、法意を問う人があれば、まず、言葉が出て来なくて、不埒な答えで、附いている出家などは、興醒めの事のみがあるのだそうです。これは、その内心に何もない位に居るからだとの事です。

 

盤珪に律僧が来て、仏法を尋ねると、「その方は、殺生戒を破った。佛性を殺している。佛性を殺していないと言う道理を言え。」と言われるので、その場で数珠を切り、弟子になったのだそうです。殊の外、手の早い示し方です。佛と祖師の違う所なのだとの由です。

 

131  伊達政宗の屋敷に、御旗本の兼松又七が見舞い、話の後、扇で、正宗の頬をしたたかに打ちました。正宗は、少しも騒がず、「日本に隠れのない、伊達正宗の頬先を撫でたり、さするなどする者の覚えはない。その方は曲者に似たる者。後には、御用に立つべき者なり。」と褒められました。又七は帰宅後、正宗の側に居た小姓を呼び出し、「主人の面を打った者を見ながら、そのままにして置くとは、腰抜けだ。」と、切腹を申し付けられたそうです。

 

132  足の運びの高い者は、着物を長く、着る事。そして、足の運びの直ってから、普通の尺にする事。

 

133  貴人の御方へと行くとき、煙草入れを持つのは尾籠な事。

 

134  菜越というのは、汁を食い、汁を食わず、菜を食い、菜を食わず、と言います。

 

135  膳越というのは、右の物を左の手で取る事です。右は右、左は左、です。

 

136  墨継は、口上の息継の様に、です。

 

137  介錯の時、刀ならば、膝から1尺4、5寸に、右の足を踏み懸ける事。脇差ならば、1尺ばかり、です。膝の通りに踏む、です。刃の向きを直に、手心で打ち懸けるのです。手元を下げて打つ事。

 

138  生け花の事。投げ入れは、茶の湯では、禁ずる言葉です。出船、入船、泊船、この3通りです。朝から昼までは、流しを外口の方にし、これは、出船です。昼から晩までは、流しを内の方にし、これが、入船、です。夜中、風雨などには、左右を平にする、これが、泊船、です。

 

草木、どちらでも、生来の通りです。(庭にある花、懸絵、押絵にある花、それを生けて、立てない事、堯海坊の傳です)

 

花を持たせる仕方は、木乃伊を水に溶き、紙に浸し、切り口を巻いてから、立てます。針金を使う時は、針金に塗り付け、下は、先の様にします。24時、一日、持ち堪えます。朝顔の茶の湯というのは、未明を言う、入れ方です。前の晩に生ければ、朝に開きます。

 

139  公事の争論で、やり取りの時、「この後、よく考え、御返答致します。」と言うのがよい。たとえ、一通りの事を言ったとしても、「なお、また、考えます。」と、末を残すのがよいのです。そして、その通りの事を、誰にも、彼にも、相談し、談合、評定するのがよいのです。智慧のある人からは、こちらの方に智慧を付けられて、案外の理を持つものです。無知の人にも聞かせて置けば、世間の沙汰が、こちらの理になるものです。

 

また、下人、下女にも聞かせて置いて、「向こうから、この様に言われるので、自分は、この様に言うつもり。」と、度々、その言い様を言っておくと、口慣れ̪、言葉続きがよくなり、理も見えてくるものです。そのときの一分で、思わず、やり取りすると、多分、外れる事があるのです。

 

とにかく、何事も、談合するのがよいです。智慧ある人がいない時は、妻子にも談合すれば、自分の智慧も出来て来るのです。こうした事は、年の功でなければ、出来ない事と、村如水の話です。

 

言うべきことは、始めに言って置くのがよいのです。後に言えば、言い訳の様になります。また、間間には、蹴爪を入れ、区切りをして置くのがよいのです。また、十分に言った上では、相手の為になる様な、物教えなどするのが、一段上の勝ち、です。それが、道でもあります、との事です。

 

140  客人の応対には、座敷、器物まで、新しく、態と用意して、初めて、その客に披くのが馳走です。それを最後の事として、それまでの段々は、その次第があります。その客の為に、障子を張り替え、手拭、柄杓など、新しいものを出し、枕を包み、煙管を改め、灰吹きを新竹に拵えるなど、するのです。料理の事でも、その人の為に、態と用意した物を出すべきなのです。当座漬けの香の物などです。数寄者の話です。

 

141  成瀬隼人正を尾張様が御家老に召しなされた時、誓詞に、尾張殿が、もし、謀反を企てられたならば、早速、江戸に言上するの由を書き載せられていました。隼人が言うには、「この誓詞は、なりません。その訳は、自分を尾張殿の家来に召しなされた上は、今日から、尾張殿が主人です。主人の事を言上する謂れはありません。もし、逆心を企てられたなら、自分は、同意して、江戸に向けて弓を引く事にしますので、その様に、思し召しなされて下さい。」と言われ、誓詞は止めになったそうです。

 

142  今の肩衣袴は(素袍の略のもの)、太閤秀吉公が御仕え初めのものの由、小出兵太輔の話です。

 

143  このもちゐ(餅)、けんちやう(玄豬)の御いはい(祝)、御いきかけのもれたるにて候。

 

武富市郎右衛門の母子に、禁裏の、おやつのまえからの文にあり。玄猪をげんちやうと唱えるのか。御いきかけとは、御息掛かりたる事なり。

 

144  武富市郎右衛門が上京の時、小倉殿に参上し、音曲がありました。帰られて、1町程来て、笛の音が高く聞こえました。人を遣ると、小倉殿の御宅でした。送り別れの故実の事かと、です。

 

145  太閤秀吉公に、御伽の衆が尋ねられたのは、「今時に、天下を取る器量の大名は御座いますか。」と言うと、太閤の御答えは、「天下を取る事は、大気、勇気、智慧がなければならない。この3つを兼ね備えた大名は一人もいない。また、小者には、2つまで兼ねた者が3人いる。上杉の直江山城、これは、大気、勇気はあるが、知恵が、まだ足りない。毛利の小早川隆景、これは、大気、智慧はあるが、勇気が、まだ足りない。龍造寺の鍋島飛騨、これは、勇気、智慧はあるが、大気がない。大名には、これ程の者もいない。」と言われたそうです。

 

146  辰敬教訓状の中に、社参佛詣も、其の坊、その神主、あるいは、その辺りの人の面倒になる様には、しない事です。人の隙を見る事が第一です。内の者を使うのにも、その心得が肝要です。そのような考え分けをしない人には、使われたくないものです。また、使って、事が叶わない時に、心の痛い事と、そのままにして置く心があれば、一度が数度になり、人が勝手になるものです。よい事はありません。悪い方には、引かれやすいものです。

 

ですから、少しの事だと、違っているのを許せば、次第次第に、法も陰り、理も澄まないのです。針ほどの違う事でも、固く、申し付けるべきです。大きな事は、事により、咎を赦しても、少しの事は赦してはなりません。大なる事は、まれで、小事は多いのです。

 

内の者を折檻するなら、自分の心を、まず、よく、顧み、究めなければなりません。前以て、外に漏れない様に言い含め、悪事を嫌い、非を除き、理を立て、道の分別が間違いなければ、上を学ぶ下なので、内の者も、その心が付きます。それに反するならば、折檻するのです。また、矢の箆(へら)はゆがむ事があっても、人は、その矯め様でまっすぐになります。人にも、よく意見して、教訓をし、諸芸を教え、あるいは、法度を言い含めるのです。人を使うのは、大工が木を使うのと同じ事です。

 

また、下々らは、一日、一日、その身命を続け、中のものは、一月の事を考え、その上は、一年を送る事に励みます。さらに、その上は、1世の事を思い、その上は、未来を嘆きます。上品の人は、末世末代までも、その名を残す事を祈るります。

 

そうして、幼い頃から、内の者を取り上げ、物を教え、召し使えば、人に事欠く事はありません。内の中で、よい者を欲しがりますが、幼い時から召し使うのでない者は、心が置かれて、よくないのです。幼い時から召し使うのでなく、容儀が退廃して悪いならば、人は、中々、直らないものです。24、5歳までも用に立たない者は、扶持をやめるべきです。

 

けれども、若い時に用に立った者か、または、親の時に用に立った事があるならば、その恩を送ると思い、召し使うべきです。そうすれば、そうした者を抱えて置けば、誰それは、今は用に立たないが、いつ頃にか用に立つ者なので、その恩を報ずるために扶持するなどと、何度も言い聞かせるのです。さては、年を取っても、今の奉公のお蔭で、心安く居るのだと思い、よく奉公をするのです。

 

こうした趣を知らない者は、用に立たない者に扶持を与え、今、用に立つ者に、扶持をしないのは、忠不忠を知らない主人で、それに奉公しても何にもならないなどと言い、空病をして、仕事に出て来るものが無くなります。

 

また、昔は、分際分際で、知行の3分の1を寺社に附けました。それはあまりの事と、嵯峨天皇の御時から、10分の1に定まりました。1000貫の分限から100貫を寺社に施すのであれば、災難とはなりません。それを惜しみ、不慮の事があり、損が大きくなり、物入りになるのです。

 

また、武士たる者は、特に、足や手の爪を揃え、爪際などに垢のない様にして、歯のかね(鉄漿)を剥がさず、髪を結い、小袖、布、帷子なども、襟をきっちりと巻いて着て、肩衣、袴は、破れはあっても、腰が歪まない様に着て、頸の周りに垢もなく、額は生えない様に抜き、うぶ毛の生えない様に擦り切り、仮にも、人の事を悪く言わず、人には寄り添い、とは言え、さすがに、尾籠、緩怠の事のない様に嗜み、表裏のないのが人の本です。

 

諸事の中で、力の要る事をするのは、下です。力も入れて、手足を働かせるのは、中です。心ばかりを働かせて、事をなすのは、上の人です。

 

147  水戸黄門(光圀)の家老の何がしが、黄門を押し込める企てがあると聞き、ある夜、能興行を催し、その紛れに、居間にその家老を呼び寄せ、「近くに寄って。」と、膝元に引き寄せ、「汝の悪事はこの通り。」と、書付けを以て、読み聞かせ、「これにより、今、手打ちにするので、覚悟する様に。」と、抜き打ちにされ、側の者を呼び、「片付ける様に。」と御申し付けになられて、能を見物されたと聞き及びますとの、了意和尚の話です。ある僧が、「さてさて、きつい事をなされた。」と言われた時、和尚は、「何がきついのか。自分も、簡単に、そうする。」と、です。

 

148  了為和尚の話に、今時の出家は、引き込み、鼻の先を守るのが大した事と思い、皆、ぐだぐだして居ます。役立たずです。逃げ尻、腰抜け、という者です。自分は、今、年寄りですが、どこかから、呼び出しがあれば、駆け出して行く積りです。

 

大乗寺に隠居してから、直に関東に下り、三ヵ寺を駆け回り、人に親しくし、せめて、少しは落ち着きたいと思いますが、雑用で、心に任せず、残念です。昔の侍は、寝の座で死ぬ事を無念に思い、戦場で死にたいと嘆いたものです。出家も、その心を持たなければ、道を成就する事はできません。人中を避けて、引っ込みたがるのは臆病です。引っ込んで、何をするかと思えば、悪念ばかりです。たとえ、引っ込んで、よい事をしても、宗風を振るい起こして、道を開くことは出来ないのです、との事。

 

149  安藝の侍が、勢洲の關の宿で馬を継ぎ替えた時、馬方が理不尽を言うのを、そのまま差し置き、向かいの家に入り、茶を出させ、暫く、話をして、「あの馬方が不平口を叩いていたのを、こちらの御亭主は、きっと、聞いて居たと思います。憎たらしい奴です。」と言いました。亭主は、「ただ、御堪忍を。」と言いました。その後、立ち出て、馬方を打ち捨て、向かいの家に行き、「先刻、話したのは、この為です。証拠に立って呉れますか。」と言われるので、亭主は承知して、その所の役人に届け、それで、通られたそうです。

 

150  紀新太輔の刀の銘の事。鬼が来て、相槌を打ち、その後に、鬼新太輔と切られたそうです。

 

151  中院通茂公が、有栖川宮様に、御振舞で、御出でになったところ、御詠歌の事を御話しになられて、それを、そのまま、吟じられ、御膳が出たのも御覚えなく、数十返、御吟聲され、御膳が冷めるので、御相伴衆が、「まず、御膳を上がられる様に。」と仰せられるて、御膳の箸を取られたとの事です。

 

152  關ヶ原の御陣の時、伊奈圖書が、その受け持ちの番所を通る者を見咎め、番人共が打ち捨てました。そうしたところ、福島正則から、家康公に使いを以て、「自分の家人が、科もないのに、伊奈圖書が打ち捨てにしたので、圖書に切腹を仰せ付けられる様に。」と申し上げました。御秘蔵の圖書なので、御惜しみなされて、「もともと、圖書が知らない事なので、番人を切腹に仰せ付ける」の由を仰せ遣わされましたが、「圖書の首を見ずには、成らない。」と申し上げられました。

 

「圖書を御殺しになる事は、叶わせることは出来ない。」と仰せ渡されましたが、「ただ今、大事の場で、福島が遺恨ではなりません。兼がねの気質なので、その内、御陣に仕懸けて来る事もあります。」と、重ね重ね、いずれもが言われたので、圖書に切腹を仰せ付けられ、首を送られました。その御使いが向かわれている途中で、福島が押し出して来ていて、「御聞き入れがなければ、御陣に伺候するべしと思っていましたが、圖書の首を見たので、引き取ります。」と御答えなされたそうです。

 

153  大坂が落去の時、家康公の御下知に、「御軍勢は朝の支度をせず、米を噛み、早早に、出て来る様に。朝の間に攻め落とす様に。米を水に漬けて噛む事。臓腑を損なう事がない。」との由です。

 

154  村山長古が柚子を切る事。綱茂公が、御客を御馳走され、長古が出て来られました。御客様が御盃を御受けなされる時、「長古は柚子を切る事が無類の上手と、兼がね、聞いて居ます。それを所望したいものです。」と仰せられましたが、辞退されるので、「そうならば、酒は差し上げません。」と、頻りに御所望され、綱茂公も、「御所望という事なので、する様に。」と、重ねて、仰せ聞かされるので、「そういう事ならば、憚りながら、差し上げ申します。」と、手水に立ち、手を拭きながら、御座に出られました。手水を使った事を御知らせする仕方なのです。

 

そうして、柚子の皮をへぎ切り、小刀に乗せ、つかつかと進まれるので、御座中の御小姓役なども、色めき、見物していたところ、何の事もなく、御盃の中に浮かべて、御礼をし、引き下がられたのだそうです。

 

155  板垣信方が、外様で居られた時、何とか、信玄の傍に近寄り、諫を言い、非議をさせない様にしたいものと思っていましたが、御前の事は疎くて、思う様に出来ないでいたところ、信玄は詩歌に心を寄せられると聞いて、信方は学問に励み、詩歌を習い、ある時、御前で、詩作し、詠歌して、御気に入られ、その後、思う所の諫言をして、忠節を尽くしたのだそうです。

 

156  秋元但馬守喬朝は、綱吉公、家宣公、家継公の御三代に御老中を勤められ、唯一の御家老と、御三代の間、共に、日本国中で称美し、上からも、御代々、御頼みに思召されていた由です。

 

但馬守殿の平生の覚悟は、まず、将軍の御考えの中に入り、近寄り、力を尽くして、御政道を糺されたのだという事です。御寵愛の品々を、その時代時代に從い、献上されたのですが、誰も、それに難を言う者は居られませんでした。

 

157  井伊備中守殿に、御一門衆から、「御家の通り名なので、掃部頭に改められる様に。」との事がありましたが、「この名は、日本に隠れもない名なのです。公儀の御外聞に関わる事なので、自分から願いを出される名なのではありません」の由、返答されました。そうしたところ、正徳5年4月8日、権現様の御百年忌に、日光山の御祭の御名代を仰せ付けられ、その上で、家柄の名を、時節到来により、掃部頭に召しなされたのだそうです。

 

158  信玄家中の甘梨備前守が討ち死にで、子の藤蔵、18歳、に與力を元の通り付けられました。組内の何がしが深手を負い、血が止まらず、藤蔵の下知で、芦毛馬の糞を水に立て、飲ませたところ、「命が惜しいと言って、馬糞を呑むか。」と言う。藤蔵は、それを聞いて、「あっぱれの勇士。尤もの事。けれども、大事の戦場で、命を全うして、主君に勝ちを取らせてこそ、忠臣の本意。いざ、自分も呑み、遣わすもの。」と、自身が呑み、それを差し附けられると、忝しと服用し、本復したとの事です。

 

159  承應4年(明暦に改元)正月25日、松平右衛門佐(光之)が家督を相続し、長崎見廻りとして、御領内を通路し、白山の武富の所で、勝茂公に御面談で、御料理がありました。

 

元禄元年12月、右衛門佐は隠居、肥前守綱政が家督を相続し、次男の伊勢守に、新田5万石を分知で、同21日に、御礼、同22日、右衛門佐に御鷹の鶴を拝領され、同25日、肥前守は、侍従に任ぜられました。同27日、御鷹の鴈を拝領、同28日、長崎御番を仰せ付けられました。

 

長崎見廻りとして、御領内を通路し、4月20日、願正寺に於いて、光茂公が御面談されました。

 

160  家康公が御隠居の時、上意で、日本国と土井大炊頭を御譲りなされたそうです。

 

161  寛永11年9月、長崎奉行の竹中采女が切腹を仰せ付けられました。その訳は、堺から長崎に来ていた町人、平野屋三郎右衛門のめかけ女のるりを、無理に押し取った事で、公儀にその訴えがあり、かつまた、その行う仕置も宜しからずで、金銀を貪り、殊に、前代未聞の、刀の柄の鮫の親粒17、走り睨みで、次第の乱れのない物を隠し置き、その上、村正の刀脇差24腰を求め置いた科です。

 

162  寛永16年8月11日、江戸城の御臺所から出火、御天守は無事でした。

 

163  家光公御辞世

 

嘆かじな悦びもせじとにかくにきのふはけふのむかしなりけり

 

追腹は、堀田加賀守正盛、阿部對馬守重次、三枝土佐守。22日に追腹は、奥山茂左衛門(御勘気の内なのでした)、内田信濃守正信、です。

 

164  天和元年6月21日、松平越後守の家来、永見大蔵、荻田主馬、小栗美作、同大六が、御城で、綱吉公が直に御調べをなされ、越後守殿は、松平隠岐守殿に御預け、御子息の三河守殿は、水野美作守殿に御預け、永見、荻田は、八丈に流罪、小栗父子は切腹、小栗兵部、同十蔵、安藤次左衛門は大島に流罪。その他、追放の侍は多数。

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる

表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*4 鄭子産 孔子から称賛された賢大夫

*62 信濃守 永井信濃守 →「105」参照

*70 元政 元政法師

*78 仙洞様 霊元天皇

*78 松の木殿 松木 宗子(霊元天皇の典侍で、東山天皇、京極宮文仁親王ら3男4女の母)院号は敬法門院

*81 嚴有院様 徳川家綱

*82 南光坊 南光坊天海

*82 臺徳院様 徳川秀忠

*90 大猷院様 徳川家光

*108 常憲院様 徳川綱吉

*109 長岡宅 細川(長岡家)宅

*118 慈眼大師 江戸時代の僧、天海の諡号

*144 小倉殿 (前出*78)御水尾院様の一ノ宮様の外叔

*146 辰敬 多胡辰敬(尼子経久の老臣)

*149 安藝 鍋島茂賢

*154 村山長古(御城坊主)※聞第六54参照

注記 3:耳塚 →耳郭

注記 19:七種佳例 →正月の七草の行事

注記 22:明暦2年 →慶安4年の誤り

注記 40:両公 →徳川家康、徳川秀忠

注記 42:御加番 →城の正規の警備役に、別に加えられた者

注記 42:麁弟 →腹違いの弟

注記 43:古今の箱 →古今和歌集の解説本の箱(参考:細川幽齋) *古今伝授の故事

注記 44:口訣 →口伝

注記 44:和歌の三神人 →住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂、などと言う

注記 44:八雲の大事 →日本神話においてスサノオが詠んだ歌が日本初の和歌とされることから来る事

注記 61:九寸五分 →刃の部分の長さが9寸5分(約29センチ)の短刀

注記 69:チケンマロカシ →平将門以来の名称で、由来は定かでない

注記 70: 灼艾 →灼(焼ける)/艾(もぐさ)

注記 71: 驢鞍橋 →江戸時代初期の禅僧鈴木正三の法語類を弟子の恵中が編録したもの

注記 77:理趣分 →理趣經(真言宗の経文)

注記 78:下乗 →乗物を下りる事

注記 94:立附(たっつけ) →男物の袴の一種、

      短い袴に脚絆を縫い付けた形で、脚絆の部分は、こはぜやボタンで脛にぴったりさせ、その上下を付けひもでくくっている

注記 103:キワ見 →出来不出来の見立て

注記 107:大下馬 →江戸城大手門内外の下馬する所

注記 114:御圍い →茶席

注記 118:綸旨 →蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書

注記 119:月移り →月待ちの行事

注記 134:菜越 →食事の作法の言葉

注記 136:墨継 →筆の墨の継ぎ様

注記 138:木乃伊 →防腐剤の一種

注記 143:玄猪 →亥の子の祝(亥の子の日に行われる収穫祭の行事)

注記 146:矢の箆 →矢の、竹(柄)の部分

注記 148:三ヵ寺 →(各地にあり)江戸なら、總泉寺、青松寺、泉岳寺

注記 161:刀の柄の鮫の親粒17、走り睨みで、次第の乱れのない

        →刀剣の柄に用いる鮫皮の背筋の真中、上方にある最も大きな粒、また、その外の形状を言う

訳注 13:復来只承心王命 根識須縁能六塵密法

      →復来し、只、心に王命を承く 根識、須べからく、能く、六塵密法に縁す

訳注 70:只惜一分膚 何忘五尺身 艾煙不須断 豈是竟為薪

      →只一分の膚を惜しみて、何ぞ忘れむ五尺の身、艾(もぐさ)の煙、断ずべからず、あにこれ竟に薪となるをや

      (僅かに一分の膚を惜しみ、五尺の身を忘れるか、艾(もぐさ)の煙は絶やさない、これで竟に薪となるものでもない。)

訳注 85:題線香 ※()内は、私訳の読み下し

訳注 103:「眼か油か、尾か棹か針か、毛か日本国か、尻のすか。」

       →(※一説に、「眼は油ぎり、尾は棹で、毛は針、尻穴は締まるか。」)

訳注 116:越中守へ 「真菰草つのくむ程の澤邊にはつながぬ駒も放れざりけり」

       →まこも草が芽を出す程の沢であれば、馬も繋がなくても放れないもの。

訳注 116:家中へ 「相坂の嵐の風は寒けれど行方知らねばわびつつぞぬる」

       →人の行き来し、出会う、坂の嵐は寒くても、それぞれの行方は分からずで、寂しく思いつつ、寝ています。

訳注 121:裁断仏祖 吹毛常磨 機輪轉處 虚空噛牙

       →仏祖を裁断して 吹毛常に磨す 機輪轉ずる處 虚空牙を噛む

訳注 134:汁を食い、汁を食わず、菜を食い、菜を食わず

       →汁から汁、菜から菜、という、同じものを続ける食べ方をしないと言う事(※などの、食事の作法)

訳注 143:このもちゐ、けんちやうの御いはい、御いきかけのもれたるにて候

       →(本文の説明に依ると)この餅猪は、玄猪の御祝い、御息の掛かった中のものです

 岩波文庫「葉隠」下巻

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