更新日:

2021.4.16(金)

AM11:00

 

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      日本の文学 葉隠               

   葉隠 聞書第十一      ●40   ●80   ●160         漫草                

■聞書第十一

 この一巻は、前の十冊に載せていない事、その外を取り集め、記します。

 

1  軍法聞書の内、始勝後戦は、兼勝の二字に極まり、始める前に勝つのが最上です。治世の智謀は乱世の武備であり、味方5萬の勢で、10萬の敵に勝つ事です。(口伝あり。)

 

敵城に押し寄せる人数が元に戻る時は、元の道を退かず、脇道を通るのです。(口伝あり。)

味方の手負いや死人は、敵方に頭を向けてうつ伏しに置きます。(口伝あり。)

敵陣に押し寄せる時、木陰などを見て置き、あの土手橋から何間程と、よく目印して通る事。そして、味方が退く時、その木陰などに立ち寄り、人数を通して、殿(しんがり)をするのです。元に戻る勢に向って、「自分は殿(しんがり)をする、同志の人は留まり下さい。」と、一々に言葉を懸けます。(口伝あり。)

もっとも、武士の心懸けとして、攻める時は真っ先、引く時は後になる事。攻め、懸かる時に、待つを忘れず、待つときに、攻め、懸かる事を忘れるべからず、です。 

 

2  物前で遠慮してはならないという事。例えば、「何某は、あの掘りを乗り攻める事、あの攻め口の先をする事。」などと言われた時、「どうするか。」と言ってはならない。「心得た。攻め乗る、攻め寄せる。その方は、よく思案して、分別判断して呉れ。」と言う事。心持(口伝あり。)は、この事ばかりではなく、何事を言い付けられた時も、そのまま、畏まり、聞く事。すべて、武士の、前疑いは臆病の元と知る事。

 

3  野合いの軍の事の有り様の事。一番は鉄砲、二番は弓、三番は柄鑓、です。足軽の者共は、心懸けが薄いので、狼狽えるものです。鉄砲は空を打ち、弓は地を射、鑓は眼を塞ぎ、無性に、ただただ、叩き合うものです。大将、物頭は、これを、よく、下知し、指図する事です。

 

そして、そうした時、騎馬の士が、志を一つにして、駆け立て行くと、そうした足軽の兵具は、何の役にも立たず、持て扱い余すものです。相手の総勢が浮足立つ時、勝利は必定です。

 

4  忍緒の上帯の事。忍緒は、布幅を引き絞りするのがよく締まります。上帯も縫い合わせ、綴じたりしてはよくないです。引き絞り、四重廻りにします。両剣は、普通に、落とし差しします。城に乗り込むとき、脇が邪魔にならないという利点があります。

 

特に、拵えて出で立つ時は、帯を二重に廻し、脇差を差し、残る二重に、刀を差します。これを龍虎の爪と言います。

 

5  甲(かぶと)の事。不断は、重い物と思われるのですが、城に乗り込むなどの時に、弓、鉄砲、大石、大木などを打ち懸けて来る時は、少しも、重くないそうです。

 

6  月堂様が、剣術の勝利の御書立を差し上げられた事。家光公が、兵法の御稽古を思い立たれ、御師匠を紀伊様の御内の助九郎か、鍋島紀伊守かとの心当てで、両人に、兵道の勝利について、書立てて、申し上げる様に仰せ出だされた時、助九郎からは、奉書3枚に書き立て、差し上げられました。月堂様からは、「善と思うは悪し、悪と思うは悪し、善悪とするのも悪し、思わざるのが善し。」と書き立てられ、差し上げられたところ、御感になられました。その後、御稽古が決まりましたが、御他界で、その事は無くなりました。

 

7  剣術聞書の中の品々の事。皮を切らせて骨を切る事。無分別にならなくては、勝利はないという事。

 

8  柳生殿が御前で不意の働きの事。御用で、御前に出られたところ、天井から、竹刀が数本落ちて来た時、頭の上に左右の手を合わせられたので、当たりませんでした。

 

また、ある時、急に召し出され、物陰から、竹刀で御突きなされようとされていた時、高声に、「御兵法なのです。御覧なさらない様に。」と言われるので、御振り返りなされた時、御竹刀を取り上げられました。

 

9  白刃を持った者に出会った時の事。向こうからものを言わなければ、こちらも、ものを言わない。向こうから言葉を懸けて来たら、「こちらは構わない。通って。」と言い、すれ違いざまに、そのまま、言葉を懸ける。「行き懸りの事で、抜き身を持って通るのを、そのままには出来ない。」と言い、後から追い掛ける事。徳あり。(口伝。)

 

また、その前から、道の真ん中を通る事。脇から見て、よく見える。そして、行き向かい、そのまま、刀を差させる事。もし、手向かいすれば、運次第の事となる。

 

10  口論の時の心持ちの事。随分と、もっともと言い、折れて見せ、相手に言葉を尽くさせて、相手が勝ちに乗り、言い過ぎる時に、その弱みを見て取り、返して、思うだけ言う。

 

11  刀の打ち込み(附記:柄木のツメの事)の事。込み穴と柄木と、はずれない様に穴をあける事。打ち込みは、根竹の少し古いのに、紫革を添えたのがよい。一説に、二所目釘の、一つは鐡に紫革を附け、一つは、竹に紫革を附ける事。

 

また。替え目釘を拵えて置く事。また、柄木は、柚子の木が、とりわけ、よくて、堅い木で作る事。二所、胴かねをを廻し、その上に、鮫を懸ける事。柄頭は、鐡の引き通しがよい。

 

秘かに、牛島兵太夫の切り死にの時の大小を見たのですが、柄木は砕け、目釘は緩み、糸が解け、中心が外に出ていました。この心持ちで、拵えるべきです。

 

また、柄木の中に、摩利支天、氏神の尊号を書き付けて置くのです。

 

また、ツメは、紫革を鎺(はばき)の刃の方、鞘口によい加減で張り付け、加減が悪くなったら、作り直す事。一説に、伽羅をツメにするとよいとの事。(ツメには、黄柏がよし。刀拭紙は寒の内に黄柏に浸して、干してあるのがよい。大小の袋の裏は、黄柏を染めて使う事。)

 

12  敵の寄せ口の有り無しは、北山筋との事。多布施の御隠居所、唐人町の合満の組屋敷、山内の刀差しの500人、それは、舎人の支配で、いずれも、手当が出来ています。新町口の番所は、以前は東の内にあり、北に窓がありました。近年は、町はずれに立て直され、北の窓はないのです。

 

13  矢違い守りの事。敵の矢向けに当たらない様に思う者には加護はない。雑人どもの矢に当たらず、名ある者の矢向けに懸かれと思う者には、守護が、願いの通りあるとの事。

 

14  急な火縄の事。山中などで、火縄を切らした時は、樫の木を削り、それを綯(な)い、火縄にする事。通常の火縄は、竹を削り、綯(な)い、二口を練り合わせ、早稲の藁の灰汁を引き、縒りかけて、よく、染み込ませます。不断から、し慣れて置くべきです。

 

15  風鈴の事。軍中で使うものです。風の向きを知るためです。夜討ちするときも、風上に火を懸け、風下から、切って入るのです。味方としても、この用心をする事。いつも、風を知るために、風鈴を懸けて置くこと。

 

16  馬の尺の事。地面から4尺は決まりで、その上を、一寸、二寸、三寸、と言い、四寸より上を、一キ、二キ、と言います。

 

タケに余るというのは、前足の爪下から、髪までの所を尺に計っての事です。

 

17  馬の目利きの事。前から轡をきる時に、前に懸かるのはカンが強いのです。後にしざるのは中気で、気に中るのです。また、轡をきる拍子に、口で嗅ぐのは、中気の馬に焼酎を飲ませて置くからです。

 

鼻の穴先に白身のあるのは、穴白と言い、人の癩病の様なものです。血切れ(折り目とも言う)ある馬は、頑丈ではありません。船に乗らないのです。

 

首の肉を見る事。足の樋の間に節があるのを嫌います。爪裏を見る事。また、爪の割れたのを繕った馬があります。その気持ちを知らない馬は、尾の付け根、尾筒、を揉みこなして乗る事。尾筒が硬い時は、曲が出ます。

 

18  討手などを仰せ付けられた時の事。何処に行く事になっても、宿元には帰らず、一足も後に返らず、直に立ち、向う事。平日に、御用を申し来た時も同じです。ですから、武士は、前からの覚悟、嗜みが要るのです。

 

19  關ヶ原の前に、家康公が伏見に御移りの事。その頃、家康公は、まずは、大坂の御花畠に、その御人数で、固まって御座なされていたのですが、直茂公が御出でになり、「早早、伏見城に御入りなされる様に。」と仰せ上げられるので、御移りなされました。その事があって、石田も、力及ばずで、その在所に引き取りました。

 

その頃、直茂公が、御供に中野甚右衛門を召し連れられて、折々、家康公を、秘かに、御見舞いなされていたそうです。そして、また、関東の御陣の時は、御用聞きの為、葉次郎右衛門を御附けなされていたそうです。

 

20  秀頼公、家康公の御和談の事。加藤主計頭清正が、御乗物の脇に高股立ちで、京から伏見まで、歩行で御供をなされました。御面談の時、清正は御座にも出られて、その後で、、家康公が申されたのは、「清正は、必死の覚悟に見えた。座中で、愛宕山の方を白眼視されていた。たぶん、願書を籠め置いている。」と仰せられ、社僧に尋ねられたところ、一通の願文を籠め置いていたそうです。上のその節、九寸五分を懐中されて居たそうです。

 

そして、また、秀頼公に、清正から御馳走があり、川御座で、御供中に、三汁十采の料理を、道筋で仕組み̪、淀川の左右を掘り、炭を入れ、焼き立てのかまぼこを差し出し、川端の左右を金塀を張り、仕切られたそうです。

 

21  大坂の陣の時、加藤肥後守殿が人質を取り返しの事。加藤の妻子が城中に取り入れられました。家老の大木土佐は、80歳にもなる老体で、毎日、見舞いに行き向われ、御門番衆と心安くなり、極老して、歩行が成らない由で、駕籠で出入りし、ある時、駕籠の中に、加藤の妻子を入れ置き、自分も乗り、門番衆に、いつもの様に挨拶して、通って行かれたそうです。

 

22  立花攻めの時、大家太郎左衛門が御使いを仰せ付けられた事。矢合わせの前日に、仰せ入れの為に、柳川に、御使者として、太郎左衛門を遣わされるの由を、直茂公が仰せ出だされました。太郎左衛門は、不男で、吶言なので、宜しくないと、いずれもが申し上げましたが、「今度の使いは、男振りや、口上の要る事ではなく、骨一つで済む。太郎左衛門の事は、そう見抜いて、召し置いている。」と仰せられて、柳川に遣わされました。

 

さて、行った先での口上、「今度、御下知により、明日、そちらの方に発向する事になります。何とぞ、御断りを仰せられる事の思し召しがあれば、早早、御検使に仰せ入れ然るべき事」という趣を、吶言しながら、申し伝えました。返事がない内に、襖の一重向こうで、柳川の士共が言うのは、「手ぬるい口上の趣。立花とも言はれる者が、この期になり、断りを言うと思われるのか。また、あの使いの者は、さてさて、見苦しい男振り、口上も碌に言えず、よくよく、鍋島は人がいないのだと見える。」などと、様々に、悪口を言っていました。

 

そうして、返事が済み、太郎左衛門が立ち行く時に、高声に言ったのは、「今、そちらで、御評判の趣、こちらにも聞こえ、耳の役で、詳しく聞き届けました。手ぬるい鍋島の鑓なのか、明日、各々に御目に懸けます。畳の上の御批判とは、少し違うはず。

 

さて、また、自分は、不男、不口上の非難はもっともです。武士は、男振り、口上が役に立つものと思われるのか、自分の虎口の働きなど、明日、御目に懸けます。この不男に御出会い御覧下さい。もし、また、今、その手並みを御覧ありたければ、ここに出られて下さい。それを御目に懸けます。」と言い、暫く、控えて、それから帰られたそうです。

 

一説に、この御使いは、成富兵庫が勤めたとも、また、久布白久白とも言います。

 

23  柳川の陣の時、主水殿が組衆に気を付けられた事。「今度、小野和泉が裏切りの内意との事。いずれも、心安く居られる様に。」と言い、陣屋の奥で、七左衛門に、「今日を限りの命。随分と働いて呉れ。」と、暇乞いの盃事があったそうです。

 

24  柳川の横矢の事。後藤殿は18歳でした。刀を抜き、かねつ強く(張り、とも)、「自分は一足も引かない。討ち死にする。」と、あり居て、軍兵も一筋に嵌まり居たとの由。そして、鞍がさに立ちあがり、鶴田何某を呼び、「味方の鉄砲は矢の向きが高く、皆、敵の旗指物に当たる、小膝を折り、敵の足を射よ。」と下知され、即時に、勝利を得られました。種ケ島が300挺です。この時、須古殿も、横矢で、そこに居ました。この人は、無口に居たそうです。

 

25  山縣三郎兵衛の鑓を、安藝殿が評判の事。安藝殿が言われたのは、「柳川で、初めて、手痛い槍を突き、もう、20間も先に進むものと思い、見ると、元の所に居ました。10間も進むものと思い、見れば、2、3間も下がり居ました。ところが、三郎兵衛は、家康公と対の鑓で、鑓の度に、5、6間先で、突き止めていたと言うのは、無双の事で、今、初めて、それを思い当たる」との由です。

 

家康公と信玄の争いの時は、いつも、山形が出合いました。一度も負け鑓をせず、対の鑓の時は、5、6間先で、突き止めました。三郎兵衛は、欠唇(みつくち)でした。家康公は、御家中に、みつくちの者の出生を聞かれ、「さてさて、嬉しき事。山縣の再来なるべし。よく育ち立てる様に。」と仰せられたそうです。

 

26  安藝殿が、子孫は軍法を聞かぬようにと申された事。「戦場に臨んでは、分別が出来て、何とも止められないものです。分別があると、突き破る事はならず、無分別が、虎口前の肝要です。それに、さらに、軍法などを聞き込んでいると、疑いが多くなり、中々、埒が明かないのです。我が子孫は、軍法の稽古はしない事。」と言われたそうです。

 

27  原城で、鶴田傳右衛門、同弟の左衛門の働きの事。兄弟が揃って、一番に石垣に上がり、差し物を立てましたが、その後、下りました。この事が、後日、吟味の時、「一番乗りしても、城中の矢向に恐れ、下りたのでは、臆病者だ」との由でしたが、その場の様子を中野内匠が証人に立ち、甲州様が所望され、子孫は蓮池に居るとの由です。

 

28  忠節の事。御心入れ(※一番槍、一番乗りの幾度よりも、主君の、と本にあり)を直し、御国家を固めるのが大忠節です。一番乗り、一番槍などは、命を捨てて懸かるまでです。その場ばかりの仕事です。御心入れを直す事は、命を捨ててもならず、一生、骨を折る事です。

 

まず、諸朋輩も受取り、主君も御受取りの者に成り、御心安く、親しくされて、年寄、家老役に成された上でなければ、諫めるという事は叶いません。その間の苦労は量り難いものです。自分の為の私欲の立身さえ骨折りの事です。これは、主君の御為にばかりに立身する事なので、なかなか、精気の続かない事です。けれども、その辺りに目を付けなければ、忠臣とは言うべきではないのです。

 

29  直茂公の御物語の事。「若い士の嗜むべき事がある。和睦の時の武辺の話で、『事に臨み、どうあるべきか。』などは、言うものでない。さてさて、それは、沙汰の限りの事。座敷の上でさえ疑う者が、手柄が立てられるのか。『有無なく、ただ、勝つ。一番槍を突く。』と言うものなのだ。身命限りにはまり、それでも、時に至り、思う様に行かないのなら、力及ばずの事。」と申されたそうです。

 

30  大坂御陣の時、家康公が物見に御出での事。御堀端の床几に御座されて居られたところ、城中から見附け、弓、鉄砲を雨の様に打ち懸けて来ました。裸で居られたので、御供の何某が御面頬を押し当てた時、鉄砲が中りました。「臆病神が付く。」と仰せられ、御面頬を投げ捨てられました。また、何某が、「江口の方に敵が打ち出でて来たので、御見分されます様に。」と申し上げたので、御立ち退きなされました。

 

31  武田信玄の家来が、13歳から家康を狙う事。「家康公を討ち取れば、過分の褒美を申し付ける。」と信玄が言われました。何某は、13歳から、家康公に奉公し、ある夜、御休みに入られるところを、一刀切り、刺し通しました。家康公は、襖一重の外に居て、見られましたが、すぐに、御捕えになり、御詮索されると、有体に申し出ました。「屈強の勝れた者と見て、心安く使っていたが、猶、一層、感じ入った。」と仰せられ、信玄に送られました。

 

32  北畠殿の喧嘩の事。唐津の士が、夜会に、碁を打ち、それを、北畠殿が御見物されました。助言をなされた事で、抜き打ちにされました。その時、側から、押し留めていた時、北畠殿は蝋燭を揉み消されました。そうして、言われたのは、「自分の不調法この上ない事でした。御断り致します。こちらは、少しも、疵は付いて居ません。碁笥に当たりました。」と言われるので、すぐに、灯を出し、仲直りの盃事にして、差し寄るところを、抜き打ちに、首を打ち落としました。

 

後で言われたのは、「自分は、股を打ち落とされ、手向かい出来ず、羽織で引き包み、碁盤に寄り懸かり、あの様にしました。」との由。そうして、やがて、そのまま、果てられたそうです。

 

33  軍中の防ぎ様の事。菱などを一俵分を撒いても、敵は疑いが出るものです。墓穴なども同じ事です。計略策略が知れたものでも、度々になると、疑いが出て来ます。

 

34  用心の座敷の事。肴などを取る時、主君の御前は別として、その他では、左に出す事。用心の時は、右を嗜むのです。

 

35  中野甚右衛門の物語の事。

 

一、 一代、夜も寝ずに、稼ぐべし。それで、漸く、人並みになる。

一、 神右衛門の体に、手傷が17ヶ所ある。

一、 神右衛門が、三夜も、夢の中で、黒髪山不動から、銭甕を下された。御礼に参詣して、子孫の繁昌を御守り下さる様にと、そして、銭甕は返上致しますと、申し上げた事。

一、 高麗で、漢南人が数限りなく打ち出し、一町四方に渡る程見え、誰もが、胆を潰した時、直茂公は、「あの勢は、幾萬騎になるのか。」と仰せられましたが、物を言う人はなく、神右衛門が、「日本で、三歳牛の毛の数と言いますが、それでしょう。」と申し上げたとの由。

 

36  鎮並を御征敗の時、百武志摩守が出て来られなかった事(附記:女房の働きの事)。辻の堂辺りで、鎮並を御征敗との由で、騒ぎ立てていたところ、志摩守は、起きも立ちもしないので、女房が、物具を投げ付け、「これ程の騒ぎに、御出でのないのは、御後れか。」と言いました。志摩守が言うには、「今度の鎮並の御征敗は、御家の御運の、末になり、細った事と思い、頻りに落涙され、打ち向かう気持ちが出ない。」と言われて、最後まで、出合いなされませんでした。

 

また、ある時、女房が悋気で、一家に朝食を食べさせなくて居たところ、御出陣と申し伝えが来て、早速に、駆け出す。その後で、女房は後悔し、飯を焚き、水樽に入れ、男の恰好で、自分が荷い、下女共にも持たせ、陣所に持って行ったそうです。

 

また、島原の御一戦以後に、筑後に、薩摩方が懸かって来た時、蒲池城に、志摩守の女房が居たのですが、小勢と見られてはならないと、俄かに、旗差し物を、数多く拵えて、立て並べ、堅固に城を持ち固め、敵を追い散らし、後日、旗差し物は、諸用事に使ったそうです。

 

志摩守の初めの屋敷は西ノ丸の奥、今の傳兵衛屋敷の由です。女房は大力です。

 

37  肥後落去後、森本儀太夫に安藝殿が見舞いの事。儀太夫が出会われて、すぐに言われたのは、「今度、城を持つ覚悟を決めたところ、臆病神に引かされて、存命で御目に懸かる事、腰抜けと思召される事と、面目ない次第です。それを思し召し捨てられず、昔の御馴染に御尋ねがあり、返す返す、忝く思います。さてさて、力の及ばないものです。」と言われたそうです。

 

一説に、儀太夫は、これ以前に、病死していたの由です。

 

38  立花宗茂の働きの事。島原の一戦以後、薩摩は、筑後、肥前、肥後を手に入れ、筑前の寶満の城主の戸次道雪を討ち取りました。その時の立花は、戸次の実子なのを、柳川に養子に遣わされていましたが、この由を聞き、即刻、700の人数で、夜懸けに押し寄せ、孝養合戦を遂げ、薩摩の5萬の勢を切り崩し、筑後川を越え、高良山まで追い登りました。

 

これにより、将軍から、立花に、九州の気一物と御感状が下されました。

 

39  立花の本領安堵の事。柳川の一戦の後、家康公の將基の御相手をされました。その時に、本領の柳川9万石か、奥州の12万石か、望み次第に下さるとの由で、望みで、本領安堵になされました。

 

40  後悔の事。後悔程苦しいものはありません。我も人も、後悔のない様にありたいものです。けれども、自分の一身上の運びが幸せで、気乗りがよく、また、普段に、うっかり、気乗りして、そして、気が抜ける様な時に、たぶん、先を顧みず、事に行き当たり、後悔するものです。よくよく、気を抜かさず、巡り合わせのよい時には、気を静めるものなのです。

 

41  中野甚右衛門が子供に申し聞かせた事。子孫末代に至るまで、子は、どれだけ多く持っても、捨てない事。御草履取り、御馬取りでも、その器量次第で奉公に出す事。御草履取りには、侍の末子を差し出したい事です。

 

42  山本前神右衛門の兼がねの教訓の事

 

一 若い者共は、歌や草紙、盤上でする様な、気の抜ける事をしない事。中野一門は、樫木の柄を握り、武辺する役です。

一 万能一心の事。

一 内は犬の皮、外は虎の皮。

一 恐惶に筆潰えず、禮に腰折れず。

一 焼き鳥にもへい緒。

一 走る馬にも鞭

一 面問いに科なし。

一 人は一代、名は末代。

一 金銀は求れば有るもの。人は無いもの。

一 虚笑する者は臆病。女はへらはる。

一 一町の内に、7度、噓を言うのが男。

一 知っていても問うのが礼。知らないで問うのは法。

一 一方見れば、八方が見る。

一 一を知って、万を悟る。

一 志は、松の葉に包め。

一 頼もしいのは、曲者。

一 袴の下に手を入れるな、不用心。

一 人前で、大口を開け、欠伸をするな、扇を当てるか、衣紋の下に隠せ。

一 笠と甲(かぶと)は、前下がりに被る。

一 死病の時、呻きたく思っても、神右衛門と言われた者が、死に際に呻いていたとあっては口惜しいと、最後まで、呻き声を上げなかった。

 

43  中野神右衛門は、下人共に、おろめけ、空言言え、ばくち打て、と言われたそうです

 

44  鳥井ス子右衛門の事。家康公の御持城に、敵が取り掛け、御城番が難儀の由を聞かれて、「明日、後詰めをなされるので、その間、持ちこたえる様に。」と、御使いのス子右衛門を遣わされました。城に忍び入り、それを、敵が見附か、捕え、懐中していた一通に、その趣がありました。

 

「ス子右衛門の命を助けるので、城に向って、家康公の後詰めは近日中との御使いに来たとの由を言う事。」と申し聞かせるので、「畏まりました。」と言い、縄のまま、木戸口に引き向いながら、高声に行ったのは、「家康公の御使いの鳥井ス子右衛門、不運にも虜となった。明日、後詰めされる由なので、随分と、持ちこたえる様に。」と言うので、すぐに、切り殺したそうです。

 

45  道を通る時、自分から見て、左の方を通る事。松平伊豆守殿と阿部豊後守殿の家中が、道中で喧嘩をして、道の左右で、左の方が勝ちになったのです。

 

46  長濱猪之助の物語の事。兵法は身を捨てて打つ事。向こうも身を捨てて打つとき、対になり、そこを勝つのは、信心、運命です。また、寝所を人に見せない事。寝静まる時と、明け放れの時が大事です。これを心に懸ける事、とです。

 

47  夏目舎人の物語の事。出陣には、米を袋に入れて持つ事。肌着は、むじなの皮にする事。シラミが出ないのです。長陣では、シラミが出て難儀するのです。鑓合わせの時、敵の強弱の見方は、俯いて懸かるのは黒く見え、強い。仰のけに懸かるのは白く見え、弱い。

 

48  生死を離れるべきという事。武士たる者は、生死を離れなければ、何事も役に立たないのです。万能一心と言うのも、有心の様に聞こえるが、実は、生死を離れる事なのです。その上で、どの様な手柄も出来るものです。芸能などは、その道に引き入る縁というまでの事です。

 

49  ある人(-何某)の祖父に、馬鹿者なのに、2000石を下し置かれる事。勝茂公に、御家老衆から、「この様な馬鹿者に、2000石を下し置かれることは、納得できない事です。」との由を申し上げました。御自分も、その様に思召されているのですが、「直茂様の思召される事がどうか。」と仰せられるので、その事を申し上げると、「さてさて、思いも依らない事。あの者が、今から、たわけになり、出仕もできないのならば、1000石加増する所が、普通に出仕して、番所の取次などもするので、今の分で居る。あの者に呉れているのではない。親の何某が、どれほども辛労し、血かわになり、血を流して、それで、自分に家を継がせている。親に呉れ置く知行という事」と仰せられました。

 

その人が煩った時、直茂公から仰せられて、勝茂公が、一旦、替りに御見舞いされました。いよいよとの事を聞かれて、「今生の思い出に、何でも、願いを致す様に。」と仰せ下されました。その時、その人は起き上がり、御屋形の方を拝し、「先頃、多布施で一見致しました赤生の御鷹を拝領し、拳に据えて、果てたい」の由を言われました。この事に感じ入られて、すぐに下されました。有難きの由を言われ、その日、果てられました。

 

50  雑役馬の事。加藤清正が、朝鮮で、雑役馬に乗られました。頑丈だからです。斑(ぶち)の馬も二毛と言って、武家は嫌いました。また、竹束の結い目を、女という字になると言って、清正は嫌われました。時により、使う事はありました。

 

51  不明(あかず)御門の火消し御番衆の事。江戸の大火事の時、不明御門の御火消し衆が静まり返って居られたのを、道を通った者が言うには、あの衆は、御門に火が懸かると、立ち退かず、そのまま焼け死になされる仰せ付けなのです」の由を言うのを、中野數馬(利明)が聞かれたそうです。

 

52  御火消し衆の褒美の事。何某殿が火事場働きの時、上使を以て召させられ、御目見えして、召使の者に鴈拝領を仰せ付けられました。そこから帰られた頃、また、火事が出て、直に駆け付け、鴈を馬の脇に持たせて、働き、消し止めました。この事が上聞に達し、一倍の御加増で、火消しは御免なされたそうです。

 

53  心を静める事は、ツノミです、秘事です。立腹の時も同じです。額に、ツ、とするのもよいです。吉田流の弓に、ツノミとあるのも、この極意です。

 

54  石井彌七左衛門が、御式台番の時、毛利殿が御見舞いで、その帰りに、勝茂公が御打ち送り、御礼の際に、毛利殿の脇差が走り、それが下に落ちない内に、彌七左衛門が柄を支え、礼も崩さずに、そのまま居られたそうです。

 

また、同人が御供の時、道中で直訴の者があり、それを蹴倒して、三尺縄で搦め取ったそうです。

 

55  ある大将の曰く、物頭の他の士共は、具足を試すのに、前ばかり試すものだとの由です。また、具足の拵えはどうでもよく、甲(かぶと)は、よくよく、吟味する事。首に添えて、敵方に行くものだ、と。

 

56  首を取ったならば、小刀で、頸の髪の結い目の下に、十文字を引く事。昔、ある士が首を取り、印に奥歯3枚を欠いて置きました。それを、ある士は、奥歯の隙間から手形を入れて、対決に及び、手形の方の勝ちとなったそうです。

 

57  家康公が御他界の時、秀忠公に、「我の死後の仕置の書付を見せる様に。」と仰せられるので、御書き立てられ、御目に懸けました。初めの条に、「諸大名は永々の在府もし、御病中の打ち詰め、大儀で、早速、暇を出し、休息を申し付くべし。」と書かれました。この1ヶ条を聞かれて、「天下泰平、目出度き事。その後、末まで聞くに及ばず。」と仰せられたそうです。

 

58  首帳の執筆で、一番首を持って来た時、そのまま書き付けずに、二番が来てから書付ました。

 

私に(付記)、ある書に、首は遠近に依り、遅速あり。それを記す為、だと。また、一首を嫌う、と。その日、一つ取ったのは、一つ首と言い、嫌うので、髪を二つに分け、二所に結い出す、と。

 

59  成富兵庫が、上杉殿家中の何の兵部と参会の時、兵部が言ったのは、「鍋島家は、松平家の御重恩を、軽く思われていてはなりません。関ヶ原の時は、さてさて、危うい事でした。」と言われました。兵庫の返答は、「仰せの通り、御重恩です。似たことはあるものです。権現様の関東の御陣は誰がした事だったのか。」と言われたそうです。

 

60  中野神右衛門が言われたのは、「兵法などは習う事は無益だ。目を塞ぎ、一足なりとも踏み込み、打たなければ、役に立たないもの。」と。彌永佐助も、同じ事を言われました。

 

61  太閤様が、名護屋に来られた時、主水殿が、御謀反を勧められました。その時、直茂公が申されたのは、「討つのは簡単だ。しかし、末が続かない。また、三国を領するのも簡単だが、十代と治める事は、とても出来ない。一国だけならば、長久なのだ。」と仰せられたそうです。

 

62  先年、江戸の大火事の時、光茂公、綱茂公が御登城され、桜田御門迄御出でになり、御番衆に仰せ置かれて御帰りになられました。その時、加賀守殿も、同じく、御出でになられましたが、御屋敷で、御父子様の御出でを待つ間に、書付けを認め置かれ、先の御門番衆に渡されたのだそうです。

 

山﨑蔵人は、綱茂公が御若輩なので、御介添えをなされました。光茂公が御口上を仰せられた後で、「同姓の左衛門も、同じく、出て参りました。」と、高声に言われたそうです。

 

63  前の大火事の時、光茂公は、求馬、小助、宗信ばかりを召し連れ、御城下の焼け跡を御見分なされたそうです。

 

64  夏目舎人の軍物語で、「この頃の軍を見よ、長陣でも、血臭い事は、一度か二度か、起きない事はないもの。油断すべからず。」の由。舎人は上方浪人です。

 

65  黒田三左衛門の親が、18歳で、如水の人数を召し連れて、関が原に出向かわれた時、關で止められたので、「自分は、黒田の家老の三左衛門という者です。御通し下さい。ここまで来て居て、差し通されないのであれば、憚り乍ら、御番所を汚し、上下の人数は、一同、腹を仕る。」と言うので、差し通されたのだそうです。

 

66  右衛門佐殿が鷹野に御出での後に、黒田三左衛門が登城し、御門を固めて居られた時に、夜更けてから、御帰りになりましたが、門を開けませんでした。御自身が、それを咎められると、三左衛門が言うには、「大名の御身で、今自分に御帰りの筈はありません。いずれ、夜が明けない内は、御門を開ける事はできず、御門番は、三左衛門がして居ります」の由を言い、待たせ、夜が明けてから、門を開き、直に奥に通り、「御側用人の杉原平助の不調法です。凡そ、御大名は、我儘になさるものです。そうした事の心遣いの為に付け置く者が、御鷹野ばかりなされて、夜中に御往来される様にしているのは、不届き者です。だから、その科を申し付けます」の由で、切腹をさせたのでした。その後、鷹野は止められたそうです。

 

67  生害場の事。旅人の行き来する所では、無用の事です。江戸、上方の御仕置は、日本の見懲らしの為です。一国の仕置は、一国での見懲らし迄のことです。悪事の多いのは国の恥です。他方への聞こえが如何かと言う事です。

 

科人は、時間が経てば、その謂れも知れなくなります。その場、その所での仕置とするべき事、との由。

 

68  勝茂公が御褒美なされる時は、御手の裏の御指の筋に、いつの動きが一つ、いつの忠節が一つと、数を取られたそうです。

 

69  使者に行き、口上が違うとしても、困る必要はありません。構わない事です。また、言い違えても、帰ってから他言しないのがよいです。(※本には、幾度でも、言い直す事と。)。後に、てにをはが合わない時、人の言い違いにする事もあります。

 

70  原口作右衛門が、道中で、刀が走り、馬の首に傷が付きました。馬方が、強請り懸かりして来たのを、その場に居させて、よさそうな家に立ち入り、「不案内なので、よろしくお願いします。」と言い、その亭主が、「分かりました。」と、働き回り、何事もなく済ませました。馬方に、金子100疋かを呉れました。亭主に礼を言い、通り行かれました。

 

一説に、新居の御番所の前での事の由。番人が出会い、馬方を叱り、別条なく通りました。これは、御往来で、番人への下され物があるからとの事です。

 

71  慶雲院の先住の令室の話で、今年、80歳に成り、隆信様の御代の事共を聞き覚えて居ります。戦の始まる時、兵の多少に依らず、屈強の士、5、6人が心を合わせて、鑓を入れれば、一方を突き崩すものだと、沙汰されていたそうです。

 

72  御子様を遅く御出生もよい事です。御子様が、歳が長けるまで御部屋住みにならると、思われる事も何かとあるものです。

 

73  本多豊前守殿が、松平伊豆守殿に判形物を差し出され、その挨拶は、「御慰みに、これに御判をなされて下さい。」と言われると、「慰みにならば、しません。」と言われ、座を立たれました。豊前守は、高声で、「公方様の御用ですか、判形をなさらないのですか。」と、きっとして、言われたので、立ち止まり、判形をなされました。

 

74  水野監物殿に、松平伊豆守殿が言われたのは、「御自分は、御用に立つ人です。惜しいのは、背が小さいのです。」と言われました。監物の返事は、「その通りです。世の中は、思うようにはないものです。その御自分の首を切って、自分の足の下に継げば、背が高くはなるのですが、それは、力及ばず、です。」と言われたそうです。

 

75  江戸の御城中は、火鉢たばこは御法度です。また、御老中を初め、何れもの膳も平折敷です。ある時、御目付けの三宅備前守に、ある人が、「ここに、たばこの煙の匂いが来ます。御僉議されて下さい。」と言われました。備前守が、それに答えて、「御目付け役を仰せ付けられています。鼻聞き役は致しません。」と言われたそうです。

 

76  板倉周防守殿が、江戸に来られた時、御老中が仰せられたのは、「この頃は、盗賊の探索に、嘱託の札を立てましたが、訴人はありません。こうした事の手際よくいらっしゃるので、御指南ください。」との御申し入れで、その札を取り寄せ、一覧されると、何々の事、訴人に出れば、300両を下されるの由が書かれていました。

 

その続きに、防州の副書で、300両ではならない。500両下されるなら、申し出るもの、と書き付けられ、「これを立てられる様に。」と言われました。翌日、訴人が出たのだそうです。(周防守は出家されていたのを、御断りして、還俗の由。)

 

77  八戸宿を、ある者が通って居た時、急に、腹がおかしくなり、裏借の家に走り込み、雪隠を尋ねると、若い女が一人居ましたが、雪隠は奥にあると教えたので、そこに、袴を脱ぎ置き、雪隠に行ったところ、亭主が帰って来て、密会を言い懸かり、それで、公事沙汰となり、直茂公が聞かれて、「密通でなくても、女が一人居るところで、不遠慮に袴を脱ぎ置き、女も、夫の留守に袴を脱がせたのは、密通同然の事」の由で、両人共、死罪を仰せ付けられたそうです。

 

78  松平新太郎殿が参勤の時、大坂で、一向衆の寺の門跡から使僧が出て来られて、「御領内に立て置いた末寺数カ所を召し潰しになされました事、どの様な理由に依るのでしょうか。」と申し伝えられたので、答に困った時、家老の池田大學が、若年でしたが、「自分にお任せ下さい。」と言い、出会われて、「その一通りは、新太郎が知るところではなく、自分の親のした事です。その在所で、ご応対します」の由を申し伝えて、使僧を差し返されました。(この大學が20歳の時、禁裏が炎上し、その御普請の頭人として登られ、日本一の利発者と、名を上げました。その時の働きは数多くあります。)

 

79  島原の時に、直茂公が薩摩と、今や、合戦に及ばれようという時、水町丹後が、時節を考え、倉町大隅と申し合わせ、喧嘩を作り、始めました。老巧の両人の、そのやり方で、思召し留められたそうです。

 

80  書物、器物等、一切の貸し借り物は、月の、六齊に、改め見る事。

 

81  美濃國の郷戸川で、先陣は、細川です。黒田が先に乗り入れましたが、長岡佐渡が立ち寄り、話をし懸け、その間に、細川が先陣、との事。

 

82  方違えの事。迷悟の文あり。不落馬文は、金剛經の四句の文があります。一切有為法、と。

 

83  堀田加賀守殿が御追腹の時、御座をも直した者であるので、肌を見せないの由で、肌脱ぎをされなかったそうです。

 

84  大友八郎の刀は、備前兼光2尺9寸です。直茂公が試しを仰せ付けられたところ、切れませんでした。成富十右衛門茂安に下され、2尺5寸に仕上げて、試すと、無類の切れ物でした。故実に、大将の刃物は敵の手に渡り、そのままでは、切れず、改め、使えば、本の通りになるとの事。

 

この刀は、江戸で、火事に焼け、少し、火気があり、銀1000枚で売り、後に、長政が、判金500枚で、兼光を求められたそうです。この刀のはずとの事。獨幽の話です。

 

85  勝茂公が家種に御養子の時、吉弘の刀が切れ物ということで、それを譲られました。後に、大猷院様に御献上され、その後、甲州様に上げられたそうです。今は、天下の御道具との由。

 

86  鍋島舎人の弟の諸岡惣右衛門が、大坂に籠城し、落城後、御国に帰り、鍋島孫右衛門と言いました。孫右衛門の子は、鍋島傳右衛門です。

 

87  主君が大事の時、御家来として、御命代わりに立たない者は、一人もない事です。けれども、前から覚悟している者は稀です。前から覚悟している者は、その時、一番に出て行かれ、続く者はないのです。

 

継信は、奥州を出で立たれた時、妻子に向い、「我が君は、今度、大軍に向わせられるので、御命は危ない事です。その時は、自分が、御身代わりに立つのです。」と言い聞かせ、最後の暇乞いをして、立ち行かれたそうです。屋島で、義経が御大事の時、末代までもの名を残すのです。歴々の郎党、命を惜しむ者はないとはいえ、前からの覚悟をしていた継信に先を越す者は一人もいませんでした。

 

前からの覚悟の者が一人もなくては、危うい事です。だから、前から覚悟を決め、御側近く、勤めるべき事なのです。継信は羨ましい士です。

 

88  敵城の強弱の見方は、「煙霞に春山を見る如く、雨後に晴天を見る如し」と言う。澄み渡るのは弱です。

 

89  高麗で番船に乗り、こちらの物としての切り取りの船がない時、平五郎が駆け回られ、その辺りに居た船を2艘取り、御奉行衆に出で向かわれて、「鍋島の手で、自分が、2艘切り取りました」の由を言われると、「もう、言上の判形の事も済みました。遅く聞く事なので、力及ばず」の由を仰せ聞かされました。

 

平五郎が言ったのは、「日本への御注進に落ちたのでは、加賀守の油断の様になり、自分の手柄も隠れて、帰ってから、加賀守に面談のし様がありません。その通りに仰せ上げられる事こそが御注進です。何とも、迷惑な事で、このままでは、立ち帰り難い」の由を、思いっ切り言われたので、御注進を書き直されたそうです。

 

90  名将の御一言、ウラを仰せられる事もあるものです。うかうかと聞いてはいけないのです。

 

91  禁裏の御普請の御手伝いを、松平伊豫守殿が仰せ付けられ、家老の池田大學、18歳(20歳か)と、大學の家老、19歳が、行き向かわれ、万事の働きを、京中で褒美者になりました。御移徒の時、火事になり、京の者共が見物に来たのを、大學は、御門を開き、「構わない。奥へ通り、見物する様に。」と言うので、大勢が入り込みました。

 

その後、御門を固めて、「禁裏への御奉公なので、命を限りに、消す様に、一人も帰さない」との旨を言われ、大半を消し止めました。そして、そこを立ち退かれる時の道筋で、焼け塞がりの所は、橋を懸け、何事もなく、御退きになられました。橋の仕組みは、前から、御決めになられていたそうです。

 

その時の事で、御感になられ、女院様から、御巾着を拝領させられたそうです。また、御普請場に浪人が来て、御家を見て、少しの扶持の望みを言われたと大學様が聞かれて、新参はならないと言い切ると、「この上は、力及ばず、腹を仕る。」と言いました。「心次第。」と言うと、脇差に手を懸け、その時、「御普請場を汚す狼藉者、搦め取れ。」と下知し、すぐに縄にして、町屋で、切り捨てました。

 

92  武雄の皿山に、物作りの細工の為に、木島形右衛門の三男の治兵衛が行って居て、正徳5年6月7日(17日とも)の晩、宿主の娘と物語していて、須古の者も、細工に来て居て、その家の軒下に屈み居るので、治兵衛が咎めると、雨宿りをしているとの由を言いましたが、立ち聞きするのは不届きと、打ち殴るのを、亭主が出て行き、引き離しました。

 

翌日、治兵衛が昼寝をしている所に、須古の者が来て、木刀で叩き捨て、帰りました。治兵衛は追い懸けようとしましたが、近所の者が、部屋に籠め置きました。この事が、宿元に聞こえ、兄の彌助がやって来て、組の被官も大勢付いて来て、宿主に断り、治兵衛を召し連れて、須古の者の宿に押し懸けると、その朋輩が数人そこに居ましたが、治兵衛の相手を押し出して来たので、一刀に切り伏せ、治兵衛も帰って行ったという事です。

 

93  ある人(-何某)が不首尾の時、ある人(-何某)を招き、「御憤りの事、これこれで、無実なのです。今は、面目をなくし居て、存命の事もなりません。御理解頂けなければ、腹を仕る事。」と、謀略で申し伝えて、首尾を直されたのです。

 

94  山公事の上使が下向の時、左太夫が、山内の心遣いで来られた時、ある人(-何某)が、「兵具などを持って来られる様に、(公事の相手の)大勢が仕懸けるとの話があります。」の由を言った時、それに答えて、

 

「その話は謀です。御治世の時に騒動をすると、それは、前から相手が言っている事なのです。それで、こちらに、兵具等が見えれば、それを証拠に、上使に申し伝える為と思われ、いつもは、小島筒などを持って来ているのですが、物と見紛れるので、今回は持って来ていないのです。随分と無用心で来て居て、もし、取り懸かりがあれば、踏み殺される積りです。後で、そちらのいずれもが、手柄などもある事です。但し、自分が踏み殺される事になれば、自分の所の者が、佐嘉の衆の手に渡す事はしないです。」と言われました。

 

95  若殿が御器量で居られると、人が、皆、褒め立て、御大名、御旗本も御褒め、御出入りの衆は、殿への追従にも、褒め申し上げて、それで、たぶん、仲の隔たりが出来るのです。若殿は、随分と、引き下がり、善悪の沙汰がない様に、控えめで、穏やかに居られるのが、家の長久の基なのです。

 

96  見懸けが利発に見える者は、よい事をしても目に立たず。人並みの事をしては、不足の様に、人は思います。見た目に柔和な者は、少し、振りのよい事をすれば、人が褒美するもの、との事。

 

97  正徳5年9月8日、庵での事。

 

98  自火の時の仕組みは、公私共に、前から決めておくべき事です。歴々の御大名方でも、自火の時、外聞の悪い事があるものです。肝要なのは、諸道具は一つも移さずに、焼き捨ての覚悟で、粉骨して、火を消し、手に及ばない時は、丸焼けにしてしまえば、仕損じという事はないのです。

 

どの様な急火でも、狼狽えずに居れば、身拵えの間もないという事はないのです。兼がね、家内の男女共に、よく、言い聞かせて置くべき事です。江戸の御屋敷でも、その仕組みは、兼がね、よくよく、決めて置く事です。大事の物を仕分けして、決まった場所に置くべきなのです。

 

99  成松新兵衛が、深堀番に、三男の新十、四男の何某を召し連れて行き、勤めていたところ、いけすの魚を盗んだ者を、召使共が捕え、打ち叩いて、死んでしまいました。その者は、志摩殿の被官で、志摩殿から、その意向が申し上げられ、「新兵衛が切腹を仰せ付けられなければ、御奉公できない」の由で、色々となされて、叶わずに、新兵衛は切腹を仰せ付けられました。

 

跡式は、嫡子の新右衛門、次男の貞右衛門に下され、新右衛門は、奸謀事かで、切腹になりました。(その時の評判の事。口伝です。)

 

100  山﨑十左衛門、同三郎兵衛の兄弟は、年頭の隣国への御使者を勤める事を申し合わせ、年の内に、その時宜の振舞いの事を習い居ました。勝茂公は、元日の時宜の振舞のよいのを見て取られ、隣国への御使者を仰せ付けられました。十左衛門、三郎兵衛は、家来共に用意を申し付けて、登城し、思い通りに、両人共に、隣国への御使者を仰せ付けられたのだそうです。

 

山﨑四郎左衛門(500石) - 同権左衛門(100石ばかり) -

          - 十左衛門(十郎兵衛とも) - 平左衛門(後に十郎左衛門) - 三郎兵衛(後に十郎兵衛、追放後斬罪)

          - 三郎兵衛(後に勘左衛門、勘解由、蔵人とも言う)

 

101  中野内匠の組の手明槍、足軽が、御門番を勤めて居た時、まず、内匠の所に行き、届けていました。番を上がった時、直に行き、届けました。その時、「御番は、安大事の事。大儀されたので、酒を呑ませる」の由で、早朝に、徳利の冷酒を、茶碗で、八鐄酒を肴に呑ませられました。

 

爪の根を磨いている者には、殊の外、叱り、「その様に手を汚さずに居ては、如睦甲冑、御用に立たない。見た目も弱く見える。気を付ける事。」と言われました。また、手足の荒れた者には、「さてさて、一段の事の様子。まずもって、男らしく、その様に働かれれば、如睦甲冑、御用に立つ。」と、酒を強い、飲ませました。

 

居の間から外の道を見通せる様にして、居の間の脇に蔵を作り、目前で何事もさせられました。不断に酒を置き、出入りの者には、直に応対し、酒を呑ませられました。

 

また、倅の兵右衛門は、御年寄役を勤められました。それが帰って来た時は、夜中、暁でも、直に来て、面談されるので、内匠も、休まずに、待っていました。その中の話で、もしも、殿中の事などを、思わず、言い出した時には、もっとの外に叱り、「殿の御膝元の奉公をする者は、親子兄弟でも、殿中の話をするものではない。」と、厳しく、言い聞かせていたそうです。

 

102  多久圖書殿が病中に、嬉野十郎左衛門が見舞いに来られたので、「奉行の中で、御用に立つ人はありますか。」と尋ねられると、「御子息の美作殿は御器量です。」と言われると、「器量でも、まだ、功がありません。自分が若輩の時は、日峯様から、奉行中への中使を仰せ付けられ、御取次をしましたが、今、思うと、さてさて、功になる事でした。いずれ、功を積まなければ、御用に立てないものです。」と言われました。

 

103  一鼎の批判に、「御家は中腰で持つのです。昔から、歴々は器量はあり兼ねるもので、成富兵庫、久納市左衛門、關将監、鍋島舎人、中野内匠、同兵右衛門、大木兵部などで、なのです。」と言われました。また、勝茂公に、舎人、内匠、兵部の3人は、外でも、御居間でも、御目見得なされていました。

 

104  正徳3年7月14日、御聖霊祭の役、御料理人等が、二御丸の中台所で支度をしていた時に、相良源太左衛門を原十郎右衛門が抜き打ちに、首を打ち落としました。馬渡六右衛門、相浦太郎兵衛、古賀金兵衛、柿原利右衛門は、うろたえ(一説に、居合わせ)、逃げ散りました。

 

金兵衛を目懸け、十郎右衛門が追い懸けたところ、御歩行の屯(たむろ)場所に逃げ込みました。御駕籠副の田中竹右衛門が立ち会い、十郎右衛門の抜き身を取りました。石丸三右衛門は、十郎右衛門を追い懸け、御歩行の屯(たむろ)に来て、竹右衛門を手伝いました。

 

翌年、11月25日、御仕置があり、十郎右衛門は、縄下で生害です。六右衛門、太郎兵衛、金兵衛、利右衛門は追放、三右衛門は、隠居を仰せ付けられました。竹右衛門に、御褒美で、白銀300枚を下されました。竹右衛門は、その節、搦め取らなかった事は、手の遅れと言われたそうです。

 

105  正徳5年7月、橋本近江が、何れへか出かけて、手拭を取りに、途中の道で立ち帰ると、女房がそこに居なくて、探したところ、番子小屋に屏風を立て、伊勢守という名の雇鍛冶と二人で、そこに居たので、言葉を掛け、抜き打ちにすると、窓の鴨居に切り込み、その時、伊勢守は、「心得たり。」と言って、刀を取り、立ち向かうのを、一刀に切り伏せました。

 

女房が逃げたのを追い詰めると、「身拵え致したく。」と言いましたが、そのまま切り捨てました。

 

106  寶永7年、相良市左衛門の甥の川崎貞兵衛が、不行跡なので、意見をしたところ、手向かうので、打ち捨てました。貞兵衛は川崎藤左衛門の子です。藤左衛門は浪人で、その死去により、市左衛門が世話をして、屋敷内に召し置かれていました。貞兵衛の母は、市左衛門の妹だという事です。

 

107  正徳4年、加賀守殿の初めての御目見得の献上物の事。銀馬代に御肴一種を先例で用意との事を、甲斐守殿から、池田彌市左衛門に仰せ聞かされたので、和泉守殿の例では、御肴一種なので、御国元にも、その様に申し上げてありますとの趣を申し伝えましたが、その時は、物落ちの事、前々から、それまでの例があるとの由で、重ねて、仰せになりました。

 

彌市左衛門は、そうもならずで、「一命を御助けなされると思召されて、泉州様の例を御用い下されます様に。」と、甲州に申し上げたので、御納得で、御肴だけに決まりました。この時は、数度、やり取りなされました。この趣を、御礼の事の前に、もしも、間に合えばと、御国元に早飛脚で言上されたところ、御礼の予定は延びて、その返答が来て、「銀馬代の献上の事は、先例もあり、差し上げられる様に。」と言って来たのでした。早速、彌市左衛門は来られて、甲州に申し伝えられ、御大慶の事となりました。

 

そうしたところ、御月番の阿部豊後守殿から、彌市左衛門が召し寄せられ、「加賀守の献上物は、普段通り、金馬代を差し上げられて然かるべしと思います。この事を御国元に申し上げる様に」の由で、御取次を通して仰せ聞かされました。

 

そこで、彌市左衛門が言ったのは、「畏まりました。早速、申し遣わします。御取次に、自分として、御話しを致します。この事を、丹後守が承る事になれば、家の威光にもなる事なので、特に、有難くお思いになる事と思います。けれども、何方の御分地などとは違い、こちらの家の格式は、諸事、古来より定まり、決まっている事なのに、この節から替えられるのは、何とも迷惑の事なのです。

 

その御内意は、それを承り、丹後守からは御断りは申し上げ難いものです。格式が違いの事は、迷惑で、何ともし難くされるものと思います。もし、御上の向きが差し障りがなければ、その他の事には構わず、旧例の通りに差し上げる様になされて下さる事はならない事でしょうか。」と言うので、取次は、それを、豊後守殿に申し伝えられたところ、「もっともな事。それならば、先の通りになされる様に」の由を仰せ聞かされました。

 

108  納富九郎兵衛の道具持の萬右衛門が、朋輩共が、木挽町の芝居で、半畳売りから酷い目に合わせれたと聞いて、それを無念と思ったのでした。自分で、なまくら刀を持ち出し、芝居に行き、数十人を相手にして、数人を切り散らし、手向かう者がなくなったので、外に出ると、町の木戸は閉めていたので、川溝を渡り、向いに越え出ました。

 

木挽町から、声を立てて、「狼藉者は足が汚れている、捕えてくれ。」と呼び叫ぶので、豆腐屋に駆け込み、半切桶で足を洗い、亭主に金子を渡し、裏道を抜け、落ちのび行き、方々を流浪して、奥州で、猿回しの袋持になっていたところ、酷い使われ方なので、切り殺して、猿回しの金子を取り、江戸に越し行き、御屋敷に立ち帰りました。

 

長門殿が聞き付けられ、多久の者なので、連れて下り、扶持を与えられたそうです。木挽町の喧嘩の後は、子供を脅かして、「萬右衛門来るぞ。」と言うそうです。

 

109  小刀屋半助の先祖は、大坂の者です。関ヶ原の頃に、御用に立ち、安藝殿の心遣いで、御扶持を下される由のところ、御断り申し上げ、刃物商売を願われて、それで、召し寄せられたそうです。(尚も、聞くべきもの。)

 

一説に、美作殿が懇意にされ、有馬の陣の時、美作殿に付き、こちらに来られたそうです。今、多久の家来です。刃物一通りの御城の御用を調えています。

 

110  諫早豊前殿の末期に、主水殿を養子に願われるの由で、この事を、枝吉三郎右衛門、高木勘右衛門を以て、お初様にご相談されましたが、承知されず、歴々方の御取り持ちで、お松様に婿養子に竹松殿が御越しになれば、御兄弟が丁度良く、御仕合せとの由を言うと、お初様が仰せられたのは、「諫早の家が小身ならば、義理に懸かり、主水を遣わすという事もあります。大身だからと言って、我が家を捨てる事はありません。お松の事は、女の事なので、縁次第です。主水の縁組も、おふくに宛てたことなので、その様に言うものと思います。今、縁を切るので、誰でも、婿養子してよいのです。」の由を、一途に、申し切られて、竹松殿が養子という事で済みました。大和殿の御次男です。

 

111  やさしき武士は、古今に、実盛一人です。討ち死にの時は70歳です。木村長門守は、長髪に香を留め、討ち死にされました。武士は、嗜み深くあるべきです。香の留め様は、まず、湯気に打たせて、その後に、香を留めれば、よく留まります。

 

下帯に香を留める事、水風呂の行水に、薫りの焼き物を入れる事。扇に香を留めるには、開いて湯気に打たせ、その後、香の上で、一間づつ畳み、それを身に持ち置くのです。また、扇の木口に、丁子油を引く事、火縄で伽羅を焼くには、火より下に、伽羅を挟み置くのです。

 

112  紫波甚兵衛が言われたのは、「悪事の調べで、落度なく、言い逃れる者を、聞き分け入れられるだけで召し置かれる事は、残念な事です。悪事の中に居て、一人、落度なく、し済ます者は、10年、20年、一役を勤めるよりは手柄です。加増、立身を仰せ付けられたらよい」との由。

 

113  渋谷源五左衛門の中間が、大津で、馬方を投げたところ、討ち殺してしまいました。その時、肥前屋九左衛門が出て来て、「自分が受け取りますので、御構いなく御通り下さい。」と言い、久左衛門の働きで、事は済みました。

 

114  普周が大目付役の時、御前に出られて、書き物を読み上げられると、以ての外の御立腹になられましたが、止めずに読まれたのを、主水殿、相良求馬の両人で引き立て行き、帰られ、仰せ付けを待っていたところ、召し出され、役方に精を出しているの由で、御小袖を拝領されたとの由です。

 

115  武雄家中の両人が衆道の遺恨で、與賀社内に行き向かい、申し合わせて、討ち果たし、双方が一度に首が落ちたそうです。

 

116  御両殿様の時は、年寄役は、立ち兼ねるものです。下にても、倅が成長すると、その中の悪い事があります。心持の要る事、と。

 

117  武雄の立野甚五太夫は、河原勘左衛門の妹婿です。甚五太夫の娘は、中村平六兵衛の嫁です。先年、出入りがあり、勘左衛門が、甚五太夫の女房を取り返し、平六兵衛の嫁に申し送られたのは、「平六兵衛父子が不忠という事で、見舞いのつもりで、こちらに来る様に、介抱する」との旨でした。

 

その返答に、「女として、主人に忠を尽くすことは叶わず、不忠の人を捨て、今、そちらに行ったとしても、何程の忠節になりますか。何方かの所に行き、食を炊く以外にはないと思います。一度、男を頼み、舅と頼んだ人を、今、その身上が危ういからと、見捨てては、女の道が立ちません。特に、親父、甚五太夫が女房に捨てられ、やがて流浪となる時、女ながらも、せめて、自分が介抱しなくては、誰を頼りとすることが出来ますか。自分が男子なら、思う所もあります。人の、それぞれの分別を借りる事はしません。」と言い切り、ついに、行きませんでした。

 

その後、甚五太夫、平六兵衛は浪人し、配所で、嫁も、同じく浪々の体で、そこに居られたそうです。(倹中の話し)

 

118  南光坊に、春日局が見舞い、人を下がらせて、直談をし、その時、懐剣を抜き、突き殺そうとしたので、どういう事なのかを尋ねられると、「今の天下の事は、そちらの思うままに成っています。それを、竹千代様を差し置き、国松様に御代を御譲りになる様に取り成されているのは、不届千万です。だから、刺し殺すのです。」の由なので、「全く知らない事です。それに付いては、随分と、心遣い致します」の由で、家康公に、その御内意を申し上げられたそうです。

 

119  信玄の家中は、無双の勇士共ですが、勝頼が天目山で討ち死にの時、皆、逃げ失せました。数年、勘気を蒙っていた土屋惣藏が、一人、出て来られて、「日頃、口を叩かれていた衆は、何処に行かれたのか。主の御恩を報じに。」と、一人討ち死にしました。

 

120  山村十左衛門が長崎聞番の時、長崎中が焼失し、町人共が飢えていたので、十左衛門の一存で、置米蔵から、残らず、米を差し出し、呉れてやりました。この事を、その後で、言上したところ、御褒美として、20石の御加増でした。この御加増は、小左衛門に分けたのでした。

 

121  鍋島村の市郎左衛門の話ですが、この村は元は長岡村と言いました。長岡伊勢守様が200両の御領知で御住いとの事です。その時の百姓は25人で、一人も竃を倒さず、今も、この村に居住し、富貴にして居られます。もし、力のない者が居れば、村中で見て、普請など迄もして、病気の時は、村中から、田地も作り立てるなどします。200年来に、子孫は続いています。

 

市郎左衛門も25人の中です。そしてまた、昔から、この村の者は盗みをしません。また、殺生もしません。放生掘があり、その前に、決め事の立札があります。20年来、その札を失い、訴え出ていますが、元の札がないので、未だに、聞き届けられていません。

 

御先祖様の御建立の天満宮の御修復の訴訟は叶えられました。勝茂様から、公役御免の御判物があり、市郎左衛門の所で、毎月24日に、村中が集まり、拝礼し、茶講をするそうです。また、御先祖様の御命日毎に、鍋島村から、線香を遣わし(遣わし上げ)ます。御寺に参詣します。盆には、燈籠を差し上げられています。

 

122  彌平左衛門殿に、元日に、御祝儀に参上致されます。殿様の御代替りに、年配の者が、入道されました。御代替りには、酒肴を進上されるそうです。

 

年中、田畑の出来物の初尾を、村中から取り集め、高傳寺に差し上げます。

 

123  志摩殿の家来のある人(-何某)に、浪人の申し渡しがあり、「浪人とは何事なのか分かりません。山中の事なのか、と。自分は、山中になる事はなりません。不届き者と思召されるなら、御殺し下さる様に。」と言うので、お構いなしになり、済んだそうです。

 

また、その家来が逼迫して、蔵の米を盗んだので、死罪に決まった時、「いつも狂歌を詠んで居るが、この場で、詠まれるか。」と尋ねると、

 

ほのぼのとあかしかねたる世の中に、しまかくれざる米ほしぞとおもふ

 

と詠んだので、差し赦されました。

 

124  太閤様の吉野の御花見の御供を、勝茂公が御勤めになりました。直茂公は、羨ましく思われたとの由で、多布施の御隠居所に、吉野の景を、葉山二助に御画かせになりました。近年、宗智寺の普請の時、御居間も、吉野の絵も、替わりました。

 

また、御門前に、往来の者が下馬しない様にと思召され、二重土手を築かれたそうです。先年、それは、どこも、開きになったそうです。

 

125  物言いの上での大事な事は、言わないという事です。言わずに済ますと思えば、一言も言わずに済むものです。言わなくてはならない事を、言葉少なく、道理よく聞こえる様に言うのです。軽い、いい加減な口を利き、恥を顕し、人に見限られるれる事が多いのです、と。

 

126  念仏の行者は、出入りの息にも、仏を忘れない為に、名号を唱えるのです。奉公人も、主君を思う事は、その様であるべきです。主君を忘れない事が、考えるべき肝要の事です。

 

127  死に際のよいのは曲者です。その例は多くあります。日頃、口を利き、重んじられた者が、死に場に取り乱すのは、それで、真の勇士ではないのだと分かるのです、と。

 

128  山本前神右衛門が言われました、「女の、手跡がよくて、字が上手く、草紙などを見る者は密会します。味噌乞い文と言って、親の所に味噌を願いの事が間に合えば、手跡の事は要らない事です。」、と。

 

129  寝ぐせの悪いのを直す事。男は、左を下にして、手足の置き場は、吉祥臥の口伝の通りにして、手の親指を手の中に握り込み、寝るのです。気の漏れない仕様です。

 

130  人は、主君に思いを付け、いろいろな朋輩達と、思い合う事が大事です。その様にする仕方はあります。そうするのが大忠節なのです。たとえ、御主人や、朋輩の中で、悪い事があっても、それに、理を付けて、褒めて置くまでの事です。こうした、ああしたの、宜しくない事があると聞いて、そのままでいては、隔たりが出来るものです。

 

人の心は優しいもので、移ろい易いものです。よい事ありと聞けば、そのままの思いが付くのです。人が、主君に思いを付け、いろいろな朋輩達と思い合う様にする事は、及びもしない事の様ですが、一人の力で、確かに、出来る事です、と。

 

131  内田庄右衛門に、山本一門の娘を、前神右衛門の養子にして、遣わし置いたところ、庄右衛門から離別されました。翌朝、神右衛門が庄右衛門を召し寄せ、「よく、暇を出してくれた。もともと、生れつきの悪い者でした。名字の端に居る者なので、躾をしました。そちらが気に入らない事は、もっともな事です。そういう事なので、こうした事で、たぶん、お互い、疎くなるものです。

 

そちらの御親父の懇意を得て、その先に、今、また、そちらと親しくする事に成ったので、今後も、少しも変わらず、寄り合いしたく思います。その為に、今朝、お話しを聞いたのです。振舞を差し上げたい」の由で、引き止められました。変わらずに、親しくされたそうです。親しい間の縁組は、よく考えなければならない事です。

 

132  仕立て上げの奉公人が、系図を仕立て、紋所を改めなどするのは、すぐに、人に見透かされるものです。先祖の事を大切に思う心があるならば、秘かに書き付けて、直し置くはずです。紋所、替名、名字、判形、手跡、その外、万事、目立つことはよくないものです。何事も、済ませば済むのです。ある人への意見で、口達あり、です。

 

133  柳生殿の極意に、「大剛に兵法なし。」、と。その証拠に、但馬殿に、御旗本の何某が来られて、弟子になるとの由で、その時、但馬殿が言われたのは、「御自分は、何事か、一流を成就された人と見える。有体に御聞きした上で、師弟の契約を。」との由を言われると、「武芸は一事も、稽古したことはありません。」の由を言われました。

 

「さては、但馬守をからかいに出て来られたのか。公方様の御師匠をする者の眼鏡の外れはない。」と言われると、誓言を立てられました。「それでは、何事かを、御得心の事はないのか。」と尋ねられた時、「幼少の頃、武士は命を惜しまない事に極まると、ふと、思い付き、数年、心に懸け、得心し、今は、死ぬ事を何とも思わないのです。その外には、得心した事というのはありません。」と言われました。

 

但馬殿は、感心して、「自分の眼鏡は、少しも違っていなかった。自分の兵法の極意は、その一事の事。今までの数人の弟子には、極意を許した者は一人もいない。木刀を御取りになる事もない。このまま、一流を授け、預ける。」との由で、印可の巻物を即座に渡されたそうです。村川宗傳の話の旨です。

 

134  必死の観念は、一日の内の仕切りなのです。毎朝、心身を静め、弓、鉄砲、鑓、太刀先で、ずたずたになり、大浪に打ち取られ、大火の中に飛び入り、雷電に打ちひしがれ、大地震で揺り込まれ、数千丈の崖に飛び込み、病死、頓死などの死期の心を観念して、朝毎に、懈怠なく、死んで置くのです。

 

古老曰く、「軒を出れば、死人の中(死人なり、か)、門を出れば、敵を見る。」と言うのです。用心のことではありません。前もって、死んで置くのです、と。

 

135  太閤秀吉が、下賤で居た時、朋輩が寝静まってから後に、日本の主になってからの天下の仕切り、人への知行割りを、夜毎、書き立て、仕組みを考えられたのだそうです。

 

136  主君の御供の時は、草履を紙に包み、秘かに懐中する事。思いがけなく、御用に立つ事があります。

 

137  塩山法語から、

 

少年の頃から、一つの疑いが起りました。そもそも、この身を成敗するのに、誰と問われ、我と答える物は、何物なのかと、一念の疑いが起り、歳を重ねるままに、疑いは深くなり、出家しようと思い立ち、その時、一つの大願力が起りました。

 

とにかくも、出家するのならば、一人、ただ一身の為に道を求めず。諸仏の大法を悟り、一切衆生を度し尽くして、その後に、正覚を成ずべし。また、もし、この疑いを明らかにしないで居ては、仏法を学するものではない。また、僧家の礼を学しない。人間に交わる時は、善知識の下に居て、大和の外には身を置かない、というのです。

 

出家の後、更に、疑いも深くなり、それに連れて、この願も深くなり、その様は、前仏が既に涅槃し、後仏が末世に、まだ出ない、その間で、仏法の絶える時に、無仏の世界の衆生を度すのに、障りのない程の大道心を起こすのだ。たとえ、この愛見の罪で、無間地獄に墜ちるとも、衆生の苦にさえ代わる事が出来れば、少しも、退屈する事なく、生々世々、未来の際を尽くすまで、この願を失わない事。

 

また、修業に於いて、生死を見る事で滞らない。また、小善根を修して、寸暇を費やさず。また、自ら、その力がないのに人の利益をして、人の眼を潰すことはしない事とし、この願心が僻となり、工夫の障りとなりもしたのですが、それを止むる事は出来ず、諸仏に対しても、常に、この願を持ち続け、一切の善悪の縁に対する時も、ただ、この願を奉じ、諸天の眼を友として、今に至り居ます。

 

奉公人の大願も、斯くの如くにあるべきです。

 

138  物には、相応、不相応があります。ある人が、間もなく、一倍の御加増が下されようという時に、味方の衆から、「余りに良過ぎて、障りになる方もありで、御断りされるべき。」と内々に言われて、この人が言ったのは、「御尤もで、似合わない事で、荷い切る事は出来ないとも思いますが、主人の御褒美を返上するのは、老巧、大役の方には相応の事と思いますが、自分などには似合わない事です。慮外な事です。初心の自分なので、ただただ、畏み申し上げるのです。」と言われました。

 

また、ある人は不念で、不注意の為、閉門を仰せ付けられた時、同役の何某が、少々、それに付いての関わりがあったのですが、御構いはなくて、「自分も同じような、不念で、不注意でした。御構いなく差し置かれては、御贔屓の様に聞こえるものと思います。引き込みます。」と申し伝えられて、それが、御耳に聞こえ、「思う通りで。」と仰せ出だされ、ある日に、遠慮とされました。

 

もし、引き込まなければ、我が身の難を避けた様に人は思うので、それの図に当たる事の様ですが、年配や、身上を考えると、よくも、身を過ごすべき事です。こうした場合の相応な仕方の事は、申し伝える仕方に、いろいろあるのです。然るべく、知恵ある人に相談するべき事です。

 

139  松平伊豆守殿の家来、奥村権之丞は、松雪(由井正雪)の一味ですが、弓矢藤四郎と申し合わせ、訴人に出て、随分の御褒美を取られたそうです。原城で、鍋島大膳の働きの証文を差し出した人です。

 

140  主君に忠節、朋輩に懇切など、気持ちを入れてしなければ、却って、仇になる事があります。この心は、信玄の壁書に、「忠節述懐、述壊謀反、謀反没落」と書き記されました。一廉の忠節を尽くすと思い、骨折る時、主君から褒

美もなく、上下の行き違いなどで、却って、不調法になどなり、やがて、自分の思いに、不満なども出て、気が荒み、逆意が出て来ます。

 

本来、忠節も思わない者は、最後まで、逆意もないので、それには劣るという事になります。朋輩への頼もしくして居る事も同じです。それほど、有難くとも言わない時、やがて、気が合わなくなり、物知らずなどと見放すなどして、後に、仲違いになる事があり、頼もしくしていない事よりも劣るのです。ですから、最初の気持ちが大事です。

 

御褒美がない時、少しも恨まず、いよいよ忠節を尽くし、人に頼もしくして、御礼も感謝もなく、却って取り違えて、遺恨などに思う人があっても、少しも気を悪くせず、いよいよ、頼もしく、人の為になろうと覚悟するのです。

 

すべて、人の為になる事は、自分の仕事と知られない様にし、主君へは、隠し奉公が、本物なのです。その御返しがある時は、その志に感じ入りで、その様に心得て、仇を恩で返し、陰徳を心掛け、陽報を思わない事です。

 

141  立身や加増が早い時は、人は敵になり、それでは、だめです。遅い時は、人は味方になり、その上での幸いは、確かに、あります。結局、遅速、どちらにしても、人が受け入れるのであれば、危うい事はありません。人が催促する時の幸いが、よいのです。

 

142  人は、立ち上がる所がなければ物になりません。人に頭を踏まれ、ぐずぐずして、一生を過ごすのは、口惜しい事です。本当に、夢の間の事なので、はっきりして、死にたいものです。ここの所に眼が付くのは稀なのです。在家も出家も、その時の、誰それが、家老、年寄役で御用に立ち、誰それ和尚が一派を持っているのを見て、「彼も人なり、鬼神でなし、少しも、劣る謂われはない、もしも、誰それを乗り越えなければ、腹掻ききって死ぬ。」と、突っ立ち上がれば、即座に上手に成るのです。

 

功を積んでからというのでは、まだるいのです。一念発起すれば、すぐに、立ち上がる事です。その様に突っ切って、踏み破る事が難しく、志はあっても、何やかやと取り付き、埒の明かない時もあります。そうした時は、「手握吹毛剣所触着無不剗却」という句などを力にするのです。

 

143  須古家中の池田平五左衛門の悪事が露顕し、須古百助の所に呼び出し、大小を取り上げ、侍5人、足軽5人の番を付けて、宿元に帰し、その後、御調べがある筈でした。

 

その夜、平五左衛門が言うには、「用を足しに行きたい。済まないが、行燈を持って来て下さる様。」と言うので、侍の何某が来たのを、湯殿に、前に隠して置いた脇差で、片腹から肩先に筋違いに上げ刀で切り、引き通し、自分は、吭(のど)を掻き落とし、果てました。家内の見分があり、敷合床の下などにも、刃物の類が、多く、隠して置いていたそうです。正徳5年10月の事です。

 

老師の傳に云う、大事の敵は逆に切るべし。打ち漏らさない為、と。権太夫は、突くべし、と言われました。

 

144  病気が長引くと、気が草臥れ、大病になるものです。そうした病人は、気を引き立てるのが大事です。祈祷や、願力で、奇特などがある時は、気の張りが出来ます、と。

 

常々、法号、真言などを唱えさせると、気が転じて、病気を忘れるものです。また、軍書の中で、勇ましい所、驢鞍橋などを、勢いよく読み聞かせると、ふと、心が乗り、引き上がる気質が出来て、本復するもの、と。

 

145  人の居る丈は、九分十分と言いますが、何段の程があるのか、量り知れません。ここまでと思い、一つ所に滞り、自慢するなどは、なかなかに、卑しき位というものです。歌に、

 

いづくにも心とまらば住みかえよながらへばまた元の古里

 

この様に、あるいは、住み替え、住み替えしないでは、人並みにもならないのです。自分の丈が、少し、上がった時でなくては、量り知れないとも、気が付かないもの、と。

 

146  丹波殿の家来の士が、江戸詰めの間に、妾を召し使い、男子が出生し、妾に付けて、江戸に居させました。その子の成長の後、主取りして、仕え、その主人を殺して、公儀から、従類の御成敗となりました。親類の調べの際に、一々申し出て、彼の士の親子が江戸に召し寄せられ、御仕置が仰せ付けられました。

 

147  千布因幡殿が、元朝に果てられました。隣に、中野神右衛門が住んでいましたが、因幡殿の死去の事を聞きました。「大勢が出入りされ、朝の支度が出来ないでいるでしょう。この節の事で、こちらのこの節の膳を、一通り、隣に遣わす様に。」と申し付けましたが、家来共は、不吉の由で、迷惑がりました。神右衛門は、以ての外に、叱り、「士は、難儀の時に見るのが義理です。こちらの節の事は、遅くても構わないです。」と。そして、今、出来立ての料理を、残らず、遣わされたそうです。

 

148  山本神右衛門の家来の山本権左衛門が、西目で、鶴をかけ鳥で討ち、神右衛門に持参し、「前から御法度の事は心得ていましたが、すぐ近くを飛ぶので、ふと、鉄砲で討ちました」の由を言いました。神右衛門は、西目筋の心遣い役でしたが、家来が御法度に背いた事は、逃れられない行き懸かりとなりました。そこで、権左衛門に、鶴を持たせ、「この者は、御法度を背きました。御仕置を仰せ付けられます様に。」と、手紙を添え、御城に遣わしました。勝茂公は、それを聞かれて、沙汰する事ではないとの由で、権左衛門に、鳥目一貫を下されたそうです。

 

149  吉野桜本坊に、高麗御陣の時、御祈祷を御頼みになりました。その事があり、御代替りには、御国元に、御祝儀に、代々来られていました。先年、上野宮様の、公事、訴訟沙汰で、追放に逢い、その後は、こちらに来られる事もなくなったそうです。(梁山和尚の話です。)

 

150  古老の侍が、上髭の下がりを反らせるのは、陣中で、首を取った印に、鼻、耳を削いだ時、男女の紛れがない為に、髭下がりを加えて、削ぐものです。その時、髭下がりのない首は、女と紛れるので、打ち捨てます。死後に、首を捨てられない様にとの嗜みです。

 

151  北の方というのは、西枕にして、男は南の方に北向きに寝て、女は、北の方に、南向きに寝るのが、本式の躾の法の傳なのだそうです。

 

152  旅宿では、まず、裏道、詰まり詰まりの場所、便所を見届け、火事の時、退場の方角の心当てをし、家の住居、壁、天井、床、戸障子、縁、畳などまで、気を付けるのです。二重壁、床板を取り離しに拵え、または、掛物の下の壁を開け、夜更けてから、盗賊の入り込む事があります。取り分け、御本陣には心を付け、気を付ける事。休んでから、何かの後にならない様にして置くのです。

 

153  松平丹波守殿が、鷹野で、供の若者共の腰帯の色が色々なのを見て言われたのは、「3尺5寸の腰帯は花色が故実です。」と。それからは、家中の腰帯は、皆、紺帯にしたそうです。

 

人を切り、刀の血を拭き、手負いした時には巻き、血の色を見せず、また、血の留めにもなるのだそうです。丹波守は、大坂の御陣の時、高名し、殊に、武功の人なのです。桂岸和尚の伯父です。

 

154  勝茂公の御代、知行の御書き物では、大形、倍高にします。100石の知行は200石と御書き出しになられました。(公儀の知行高というのも、この様なものです。)

 

155  忠直公の御意見役に、澤邊後ノ源左衛門が仰せ付けられたそうです。

 

156  鍋島舎人助は、高麗御陣の時、13歳です。15歳以上を召し連れ行くとの由で、15歳と申し出、御供をなされました。高麗で、清正が見合わせて、「この者は、鍋島一門だ、屈強の士に成る。」と褒美し、近くに呼び、片手で、10回も差し上げ、持ち上げられた。舎人助は、「帯が締まり、腹が痛くなりましたが、何も言わず、されるままにして居ました。」と話したそうです。

 

157  松平大和殿に、綱茂公、その他、御客が夜会され、御旗本の、老人の北見久太夫殿が御越しになり、古戦話がありました。夜更けてから、給仕の小姓が銚子を持ち、躓いて、久太夫殿の膝に酒を打ち懸け、座が白け、赤面して、立ち尽くしました。他の小姓が出て来て、久太夫殿を次の間に連れて行き、衣装を着せ替え、その跡を片付け、仕舞いました。

 

後に、調べをなされたところ、極老の人が長座で、居乍ら小用となり、御座に流れていたので、態と酒を打ち懸け、紛らかしたとの由で、小姓に褒美がなされたそうです。

 

158  先年、御老中を招かれた時、御給仕の村川隼人が、真っ先に居て、御膳を持ち、蹲り居て、立ち上がったところ、長袴の裾を、後の御給仕が踏んでいて、隼人は躓きましたが、すぐに、居下がりして、片膝を突き、御膳を少しもこぼさず、また立ち上がり、持ち出られました。近年は、半袴になりました。

 

159  ある御方に御客の時、霙(みぞれ)酒を御所望で、御小姓が釣瓶を持って出ました。「尻を振って。」と言うのですが、御小姓は、分からず、赤面して居りました。御城坊主などが、頻りに言い、後ろを向き、尻を振りしたそうです。

 

霙(みぞれ)酒は、御座にも、瓶に入れて来て、御酌の時に振り立てるのです。男小姓の役なのです。

 

160  秀頼公と家康公が御和談の時、秀頼公から、御誓詞の受け取りに、木村長門守が遣わされました。その働きに感じ入られました。

 

長門守は、年若い者なので、家康公からも、年の若い者を選んで、板倉内膳正を遣わされました。内膳正は、御式台で、足袋の裏を湿らせ、上がられたそうです。公界の表向きでは、足袋の裏を湿らせる事が故実の由で、能役者などでも伝授にしているそうです。

 

161  光茂公が4月朔日に御登城の時、大久保加賀守殿の御内意で、御足袋を御脱ぎになりました。公儀の礼服で、足袋は布子のものなので、9月9日から、3月晦日までだそうです。

 

後で、この事は調べる事。

 

162  朋輩などに教訓の事。その人の生れつきを考え、その、身の丈々に合わせなくては、言い聞かせても、納得できないものなので、その身の丈相応に、相応しく、害にならない様に、よく考えて、言い聞かせるべき事です。

 

梁山の上方へ上りの事(口伝)。

 

163  男子の育て様は、まず、勇気を進め、幼稚の時から、親を主君に準えて、普段の挨拶、作法、給仕、口上、堪忍、道の歩き、などまで、し習いする様にするのです。古老は、その様にされたそうです。無精にして居る時は、叱り、一日でも、食を食わせないのです。それも奉公の稽古なのです。

 

女子は、幼少から、第一に貞心を教え、男と、6尺より近くは居合わせず、眼を見合わせず、手から手で物を受け取らず、物見や寺参りなどをさせないものです。家内で厳しく言い付けて置き、それで難儀していて、その後、あり付いてからは、退屈という事はないのです。

 

下人に対しては、賞罰があるべきです。申し付け、見届けなどがいい加減では、下人は私を構え、後には、科になるのです。念を入れるべき事です。

 

164  主君から仰せ付けられたものは、そのままに、差し上げるものです。少しの物で、私にする積りでなくても、御見限りなされることがあるものです。大体でよい様に思って居てはならないのです。

 

165  定家卿の伝授で、歌道の至極は、身の養生に極まるとの由です。すぐ出来る善行は、朝起き以上はありません。古老は、夜の内に起き、一日の所作を日の出前にしてしまいます。

 

「子に伏し寅に起く」とも、「鷄已啼忠臣朝待」とも、「忠臣順星」とも、「一日の計事は有鶏鳴」とも言います。

 

166  北條安房守に、大猷院様から、軍法の御稽古をされるとの事で、士鑑用法を1冊書き立て、差し上げられ、御師匠になられ、数多く、弟子も取られました。

 

御老中の井上河内守が見廻り、「弟子は、自分の子を育てる様に大切で、器量の者には、大事を相伝するという事があるので、弟子は大恩を受けるという事です。その弟子に、大事を相伝の事を御忘れではないですか。」と言われるので、「大切の伝授などをする事なので、全く、忘れる事はありません。」と答えられたので、「では、公方様の御師匠は成らない。下として、忠節を尽くし、その忠節を忘れない時、その報いがない時は、恨みに思い、大乱を起こす基になる。」と言われると、言下に得心の由を言われ、「それでは、御師匠で構わない。」と言われたそうです。

 

167  月堂様の御留守に、江戸の御屋敷に火事が出て、それをすぐに消そうと騒ぎ立っていた時、御内方様が仰せ付けられ、御座で、鼓、太鼓を打ち立て、囃子をなされました。隣の屋敷から火消しに来ましたが、皆、帰って行きました。その間に火は鎮まったのです。(助右衛門殿の話。)

 

正徳6年元日の火事は、何某の受け持ちの所で、自分の屋敷は風下になるので、「引き取り、帰るか。」としていたところに、御目付け衆から、「御宅に火が懸からない内は、その御指図はできない。」と言うので、そのまま居られたところ、風が変わり、別条なく済みました。そうなっては、態と居宅を焼いてでも、受取りの場に居て、一言あるべきだという事です。

 

先年、大名小路の杉町甚五左衛門宅から出火の時、中野伴右衛門(16、7歳の頃)が、御城の火消しの受け持ちの所に居たところ、伴右衛門の松原小路の屋敷に火が懸かったとの由を聞き、御目付から、「伴右衛門は帰る様に。」と言われましたが、「たとえ、居宅が焼失しても、受取場を明ける事はあり得ない事です。居宅が焼けるのは構いません。」と言い、帰らずに居るので、御目付は、請役所に、その事を申し伝えたところ、すぐに、伴右衛門を請役所に呼び、「すぐに、帰る事。代人に何某を申し付ける」の由を言い渡されたので、「それでは、代人に受取場を引き渡し、帰る」との由を申し伝えて、暫く、居て、代りの者に渡して、帰ったところ、居宅は、残らず焼失しました。

 

この事を、久我勘右衛門から、伴右衛門の親父の久閑に、「殿中の沙汰がよく、御面目の事」で、褒美の手紙を遣わされたそうです。

 

先年、主水殿(直朗)の屋敷が火事の時、自分は、受取りの固場の東御門に出て行かれたそうです。

 

168  大行は細瑾を顧みず、という事あり。奉公無二の忠節(この事は、詳しく、愚見集にある)を尽くせば、その外の事は、大体でも、時には、我儘、いたずらも構わない事です。何もかも、落度なく揃えれば、却って、見苦しい所があります。たぶん、肝心の所が薄くなるのです。大業をする者は、融通がなければならないものです。身に大節ある時は少過ありと雖も不幸とせず、とあります。

 

169  天下国家を治めるというのは、及びもしない事、大変なことの様ですが、今、天下の老中、御国の家老、年寄中の仕事も、この庵で話した事の外にある事ではありません。これで、如何にも、治める事なのです。むしろ、そうした衆は、心もとない事があります。国学を知らず、邪正の詳しい吟味をせず、生れつきの利発任せで、人が這い回り、怖気づき、恐れて、御尤もと言うばかりなので、自慢、私欲が出来て来るものです、と。

 

享保元年丙申9月10日

 

*... 何某 →ある人(-何某) 実名のところを伏せる

表記(「何和尚 →ある和尚」、何方 →ある方)

*6 月堂様 鍋島元茂

*26 安藝 鍋島茂賢

*27 甲州様 鍋島直澄

*62 加賀守殿 鍋島直能

*84 長政 黒田長政

*85 家種 江上家種

*85 大猷院様 徳川家光

*85 甲州様 徳川綱重

*89 平五郎 鍋島茂里

*91 松平伊豫守 池田輝政

*92 左太夫 鍋島種之

*99 志摩殿 鍋島茂里

*102 日峯様 鍋島直茂

*107 加賀守殿 鍋島直英

*107 甲斐守殿 鍋島直稱

*107 和泉守殿 鍋島直堅

*107 丹後守 鍋島吉茂

*108 長門殿 多久安順

*109 美作殿 多久美作守茂辰

*110 主水殿 鍋島茂清(鍋島茂里の5代の孫)

*110 お初様 鍋島直朗の室

*110 お松様 鍋島直朗の子(女、光茂の養女となる)

*110 竹松殿 諫早茂元の養子、茂晴

*110 大和殿 鍋島直尭

*114 普周 鍋島種世

*157 松平大和殿 松平典信

*165 北條安房守 北條氏長

*165 井上河内守 井上正就

注記 4:忍緒 →兜の緒

注記 11:鎺(はばき) →刀などの刀身の区際(まちぎわ)にはめて、鍔の動きを止め、刀身が抜けないようにする金具

注記 20:九寸五分 →刃の部分の長さが9寸5分(約29センチ)の短刀

注記 24:横矢 →敵の側面から矢を射ること

注記 42:へい緒 →付け下げの緒紐

注記 42:へらはる →浮気する

注記 43:おろめけ →大声で叫ぶ

注記 53:ツノミ →唾呑み

注記 56:手形 →手形証拠の紙

注記 76:嘱託 →賞金を懸けて罪人を探す事

注記 80:六齊 →月の、8、14、15、23、29、30の、斎戒日

注記 94:山公事 →山の事での訴訟

注記 94:小島筒 →小鳥を討つ猟銃

注記 101:八鐄酒 →「鐄」の字は仮(偏は「金」、旁は「爾」らしきもの)

注記 101:如睦甲冑 →平時と戦時

注記 108:半畳売 →芝居小屋の座席売り

注記 121:竃を倒す →財を失う

注記 122:山中 →山中への蟄居

注記 129:吉祥臥 →吉祥座(結跏趺坐の一種)での寝相

注記 137:塩山法語 →禅僧の得勝抜隧(慧光大圓禅師)の著

注記 144:驢鞍橋 →鈴木正三の法語類を弟子の恵中が編録したもの

注記 145:九分十分 →大同小異、大して違わないという事

注記 148:かけ鳥で討ち →飛んでいるのを討ち

注記 159:霙(みぞれ)酒 →奈良特産の味醂の名。麹(こうじ)の粒が溶け切らないで混じっているのを、みぞれに見立てて言う

注記 165:士鑑用法 →北條安房守の著作物

注記 168:愚見集 →山本常朝が養子として迎えた山本吉三郎(常俊・権之丞)に与えた、36ヵ条からなる教訓書

訳注 42:焼き鳥にもへい緒 →焼き鳥の串にも、紐を付けるぐらいの気持ちで用心する事

訳注 123:ほのぼのとあかしかねたる世の中に、しまかくれざる米ほしぞとおもふ

       参照(本歌) →(古今和歌集・409 詠み人知らず)ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ

訳注 140:忠節述懐... →忠節にして、自分の思いもあり、...

訳注 142:手握吹毛剣所触着無不剗却 →禅語、大意は、「手に吹毛剣を握り、触れる所、削捨せざる無し」

訳注 165:「子に伏し寅に起く」 →子の刻(23時から1時まで)、寅の刻(午前3時から御前5時)

訳注 165:「鷄已啼忠臣朝待」 →鷄、已(すでに)啼き、忠臣、朝を待つ

訳注 165:「忠臣順星」とも、 →忠臣は星に順う

訳注 165:「一日の計事は有鶏鳴」 →..有鶏鳴(鶏鳴に有)

訳注 168:大行は細瑾を顧みず →「たいこうはさいきんをかえりみず」大事業をする者は、小さな事柄に拘らない

訳注 168:身に大節ある時は少過ありと雖も不幸とせず →..少過(少しの過ち)

 岩波文庫「葉隠」下巻

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