ダイナ ワシントン(Dinah Washington)

 A Queen in Turmoil 大嵐の中の女王

 

ダイナ・ワシントンはある時期の20世紀の、もっとも愛され、議論の分かれる歌手の一人でした。彼女のファン、心酔者たち、歌手仲間から愛され、批評家の間で、その芸術的才能を商売に売り渡したこと、趣味の悪さが、議論になりました。彼女の罪状は、どうやら、それが、RBであれ、ブルース、ジャズ、発生途上のポップスであれ何であれ、くつろいでしまう、特有のボーカルスタイルを育て上げたことでした。

パティ・ペイジの時代

パティ・ペイジ(Patti Page

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ダイナ・ショア(Dinah Shore)

 

  彼女はおそらく、その時に会えば、見事にゴスペルを歌い、カントリーを歌っていたことでしょう。彼女の声は、腹の据わった、ソルティで、ピッチの高い声で、発音が完璧に明瞭で、きびきびしたブルージーな語法で際立ったものでした。彼女の個人的生活は大荒れで、7回の結婚を経験し、自分でもそう考えていました。彼女はタフで、全然感傷的なところがなく、しかしながら、愛を失うという普遍的なテーマをしっかり掴まえていました。彼女は、その後に続いた、R&Bやジャズ歌手、ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)、エサ・フィリップス(Esther Phillips)、また、ダイアン・シュール(Diane Schuur)に非常に大きな影響を与えました。彼女の音楽は、今は、長大な7巻の、マーキュリ(Mercury)の「ダイナ・ワシントン全集(The Complete Dinah Washington)」で十分に聞くことが出来ます。

1924年にルース・リー・ジョーンズ(Born Ruth Lee Jones)として生まれ、3歳のときにシカゴ(Chicago)に移り、ゴスペルの世界で育ち、ピアノを弾き、15歳で教会の聖歌隊を指揮していました。リーガル・シアタ(Regal Theatre)でのアマチュアのコンテストで優勝した後、1942年に、彼女はピアニスト兼歌手としてナイトクラブで、最初はガリック・バー(Garrick Bar)で、演奏を始めました。そこで、タレント・マネジャーのジョー・グレイザ(Joe Glaser)は彼女を聞き、ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)に紹介し、彼は彼女にバンドに加わるように言ったのでした。ハンプトンはルース・ジョーンズをダイナ・ワシントン(Dinah Washington)の名前にしたのは自分だといっていますが、その他の資料では、それはグレイザ、あるいは、ガリック・バーのマネジャーだとしています。それはそれとして、彼女は1943年から1946年までハンプトンと一緒に暮らし、1943年の末に、ハンプトンのバンドのセクステットとレオナード・フェザ(Leonard Feather)によるブルース・セッションで、キーノート(Keynote)でのレコードデビュを果たしました。フェザの「悪い子のブルース(Evil Gal Blues)」が最初のヒットとなり、レコードが売れ始め、ソロ歌手としてやって行くためにハンプトンのもとを去る頃には、ワシントンは既にR&Bのトップになっていました。出来てまもないマーキュリ・レーベルで歌い、ワシントンは1948年から1955年までのR&Bチャートでの、うらやましいほどのトップテン(Top Ten)ヒットを続け、ブルース、スタンダード、ノベルティ・ソング、ポップスのカバー曲、それにハンク・ウィリアムス(Hank Williams)の「冷たい心(Cold, Cold Heart)」まで歌っていました。彼女は、また、ビッグ・バンドやスモール・コンボ、特に記憶に残るのはダイナ・ジャム(Dinah Jams)でのクリフォード・ブラウン(Clifford Brown)とのものや、キャノンボール・アダリー(Cannonball Adderley)、クラーク・テリー(Clark Terry)、ベン・ウェブスタ(Ben Webster)、ウィントン・ケリー(Wynton Kelly)、それに、若いジョー・ザウィナル(Joe Zawinul)(2年程の間、いつも彼女と一緒にいた)と、多くの正統ジャズ・セッションをレコーディングしました。

1959年、ダイナ・ワシントンはポップ業界の中心で、「1日で変わる(What a Diff'rence a Day Makes)」、ラテンのボレロ風にしたドーシー・ブラザーズ(Dorsey Brothers)のヒット曲のリバイバル作品、で急激にブレークしました。その後、彼女は、マーキュリとルレット(Mercury and Roulette)の魅惑的な演奏をバックにしてバラッドを歌うことに集中していました。それは当時のもう1人のR&b歌手、レイ・チャールズ(Ray Charles)の行き方と同じもので、彼女のボーカル的には何も変わることはなかったのに、批評家からの多くの非難を巻き起こしたものでした。彼女の後期のレコードはその当時のイージーリスニングものと同じくありきたりのものでしたが、ビリー・ホリデイの、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)の指揮での、ブルースで美しい、アーニー・ウィルキンス(Ernie Wilkins)のヒット曲「訳は言わない(Don't Explain)」のような宝石もあります。体重の増加と戦いながら、ダイナ・ワシントンは、その声は、なおピークにあり、そのわずか2週間前にはL.A.のクラブでブルースを歌っていたのに、アルコールと一緒のダイエット錠剤の飲み過ぎの事故で、39歳で悲劇的な最後を遂げました。〜リチャード・S・ジネル(Richard S. Ginell)、All Music Guide

 

 

 

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