ダイナ ショア(Dinah Shore)wikipedia

 A class act 一級品

 

ダイナ・ショア(Dinah Shore)は、フランセス・ローズ・ショア(Frances Rose Shore)として1916229日に生まれた−1994224日永眠−米国の歌手であり女優です。彼女は1940年代から1950年代のビッグバンド全盛時代にもっとも人気がありました。彼女はその時代の人気の「ガール・シンガー」の一人になりました。彼女はポピュラー曲のヒットを続け、後には何年もの間、ドリス・デイ(Doris Day)のように、女優として成功し、ました。彼女が1940年代にデビュして以来、ポピュラー音楽界には何人もの成功した女性歌手が、コニー・フランシス(Connie Francis)やパティ・ペイジ(Patti Page)を含め、現れました。

パティ・ペイジの時代

パティ・ペイジ(Patti Page

パツィ・クライン(Patsy Cline)

キーリー・スミス(Keely Smith)

サラ・ボーン(Sarah Vaughan)

ダイナ・ワシントン(Dinah Wshington)

パティ・ペイジ(Patti Page)−2

ローズマリー・クルーニ(Rosemary Clooney)

ベット・ミドラー(Bette Midler)

ソフィ・タッカー(Sophie Tucker)

タミー・ワイネット(Tammy Wynette)

アネット・ハンショー(Annette Hanshaw)

エバ・キャシディ(Eva Cassidy)

 

 

子供時代と成功の始まり

ロシアからのユダヤ系移民だった、ソロモン(Solomon)およびアンナ(Anna)シュテイン・ショア(Stein Shore)の間に生まれて、彼女はテネシー州(Tennessee)、ウィンチェスタ(Winchester)に住んでいました。彼女が2歳のとき、当時はまだよい対処方法のなかった病気、ポリオ(infantile paralysis 小児麻痺)に罹りました。幸い、両親は治療を徹底的に施すことができたおかげで、彼女は回復し、その病に打ち勝ちました。けれども、物理的に実際上の障害にはなりませんでしたが、彼女は足がすこし曲がり、ひきずり気味でもありました。小さい子供の頃も彼女は歌うのが好きで、母親にも励まされて、オペラ的な声のコントラアルトを歌いました。父親は彼女を自分の店によく連れて行き、そこで彼女はお店に来た人に思いつきの歌を歌いました。1924年に、彼女は家族と一緒にテネシー(Tennessee)州、ナッシュビル(Nashville)に移りました。そこで彼女の父親はデパートメント・ストアを始めました。子供のころ、彼女は足が悪いため内気な子でしたが、積極的にスポーツやその他の体を動かすことをするようになりました。彼女がまだ14歳のときに、ナイトクラブで歌いました。

彼女は、また、グランド・オル・オプリ(Grand Ole Opry)にもよく出かけ、ラジオ局の仕事を得ました。彼女の母親が心臓発作で突然亡くなったとき、ダイナは学校をさらに進むことを決めました。彼女はバンデルビルト大学(Vanderbilt University)に進み、そこで多くのイベントや活動に参加したのでした。1938年にその大学を卒業しました。彼女は歌に戻って自分の道を進むことを決め、オーケストラやラジオ局のオーディションに出るためにニューヨーク(New York)に行きました。オーディションの多くで、彼女はポピュラー曲の「ダイナ(Dinah)」を歌いました。ディスク・ジョッキーのマーチン・ブロック(Martin Block)が彼女の名前を忘れ、「ダイナの子」と彼女を呼んで、まもなく、その名前が決まりとなり、彼女のステージ名となりました。彼女はやがてラジオ局WNEWのボーカリストに雇われ、そこで彼女はフランク・シナトラ(Frank Sinatra)と一緒に歌っていました。彼女はまた、ザビエ・クーガ(Xavier Cugat)オーケストラとレコーディングや演奏をしました。そしてついに、彼女は1940年にRCAビクター(RCA Victor)レコードとレコーディングの契約を得ました。

1940年代、1950年代の仕事

RCAビクターのブルーバード(Bluebird)レーベルでレコーディングする中で、彼女の最初のレコーディング、「Yes, My Darling Daughter(イエス、マイダーリン、ドーター)」をリリースし、それは彼女のヒットになりました。ダイナの歌はエディ・カンター(Eddie Cantor)の注意を引き、彼はそのポピュラー曲中心のラジオ・ショー「Time to Smaile(タイム・トゥ・スマイル)」のレギュラーとして1940年に彼女と契約しました。ダイナは、自信を持つこと、コメディ的なタイミング、聴衆とのつながり方は、彼が教えてくれたとしています。

ダイナ・ショア(Dinah Shore)は、「The Chamber Music Society of Lower Basin Street(ベイシン・ストリート音楽会議)」、伝統的ディキシーランドとブルースの歌謡ショー番組、の中心ボーカリストでした。彼女は2つのベイシン・ストリートのバンドとRCAビクターでレコーディングし、その1つは、彼女の名前を冠した「Dinah's Blues(ダイナ・ブルース)」でした。

ショアはまもなく、1943年には自分のラジオ・ショー「Call to Music(音楽を求めて)」で、成功したスター歌手になりました。また同じ年に、最初の映画、「Thank Your Lucky Stars(幸運の星ありがとう)」に出演しました。その映画の主演はエディ・カンタ(Eddie Cantor)で、そして彼女はまもなくもう1つのラジオ・ショー「Paul Whiteman Presents(ポール・ホワイトマンからの)」に移りました。この時期、米国は第2次世界大戦に参戦しており、ダイナは軍隊で、ビング・クロスビー(Bing Crosby)の人気と並ぶ人気歌手になりました。彼女には主要なヒット曲、「I'll Walk Alone(一人で歩く)」、そして、その後の第1位のヒット曲の最初の1つ、「Blues In the Night(夜のブルース)」、がありました。彼女の歌に心酔する海外に出た軍隊を応援するために、彼女はヨーロッパへのUSOにも参加しました。彼女は若い俳優で軍隊への応援に行こうとしていたジョージ・モンゴメリ(George Montgomry)と出会いました。2人は1943123日に結婚しました。結婚して、モンゴメリはすぐに軍の応援に行きました。彼が帰って来て、2人はカリフォルニア(California)州、サンフェルナンド(San Fernando)に居を構えました。1948年に、最初の子供、娘のメリッサ・アン(Melissa Ann)が生まれ、ビバリー・ヒルズ(Beverly Hills)に移る前に、1954年には養子、ジョン・デビッド(John David)を籍に入れました。

ダイナは1940年代中、ラジオ・ショーに出演していました。彼女が出演したラジオ・ショーは、「Birds Eye-Open House(鳥の見た家)」、「Ford Radio(ラジオ・フォード・ショー)」などです。彼女のもっとも人気のあったレコードは、バディ・クラーク(Buddy Clark)と一緒の「Baby It's Cold Ouside(外は寒いよベイビー)」です。この歌は、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)を初め、多くのアーチストにカバーされました。その他のヒットがこれに続きました。「Buttons and Bows(ボタンとリボン)」や「The Gypsy(ジプシー)」です。彼女はCBS15分のラジオ・ショーをジャック・スミス(Jack Smith)とレギュラーでやっていました。多くの映画にも出ました。女優として、ショアはミュージカル映画にも出ています。1944年の「Belle of the Yukon(ユーコンの美女)」や「Up in Arms(腕の中で)」、1946年の「Till the Clouds Roll By(雲の流れるまで)」などです。彼女はまた、数え切れないほど、テレビ映画やシリーズに主要な役で出演しています。彼女は2つのディズニー映画で、声の出演をしています。1946年の「Make Mine Music(音楽をここに)」と1947年の「Fun and Fancy Free(楽しく夢のような自由)」です。1946年の初めに、彼女は別のレーベル、コロンビア・レコード(Columbia Records)に移りました。1950年には、彼女は「Ed Wynn Show(エド・ウィン・ショー)」で初めてテレビのショーに出演し、ボブ・ホープ(Bob Hope)の最初のテレビ・ショーのゲストにもなりました。沢山のテレビ・ショーに出た後、1951年に彼女は自分の「ダイナ・ショア・ショー(The Dinah Shore Show)」を持ちました。彼女はNBC15分のショーが週に2回ありました。そのショーはシボレー(Chevrolet)自動車がスポンサでした。そのスポンサのテーマソング「See the USA in your Chevrolet(シボレーにアメリカを見よ)」は彼女の代表曲になりました。彼女はシボレー社の広告に1950年代まで出ていました。

後半生の仕事

1970年から1980年まで、ショアはホストとして2つの昼間の番組を持っていました。NBCの「Dinah's Place(ダイナズ・プレイス)」(1970-1974)と1974年から1980年までの企業共同提供による「Dinah!(ダイナ!)」(後で、「Dinah and Friends(ダイナと友達)」になった))です。「ダイナ!」のショーで、彼女は1度ひどい目に遭いました。コメディアンのアンディ・カウフマン(Andy Kaufman)がトニー・クリフトン(Tony Clifton)をやっているときにインタビューしたのです。彼は彼女の質問に怒った振りをして、彼女の頭に卵の入ったフライパンをひっくり返したのです。それが起きたのは多くの視聴者が見ている放送中のことで、ショアのプロデューサは予定外のコマーシャルに切り替えて、カウフマンをスタジオの外に出したのでした。

彼女はLPGAでのもっとも権威のあるゴルフトーナメントを創設しました。カリフォルニア州、ランチョ・ミラージュ(Rancho Mirage)での「コルゲート/ダイナ・ショア のウィナーズ・サークル・ゴルフ・チャンピオンシップ(the Colgate/Dinah Shore Winner's Circle Golf Championship (今は「クラフト・ナビスコ・チャンピオンシップ(the Kraft Nabisco Championship)」になっています)」です。

ショアは俳優のジョージ・モンゴメリ(George Montgomery)と1943年から1962年まで結婚していて、娘が1人あいます。メリッサ・アン(Melissa Ann)、今日では、メリッサ・モンゴメリ・ヒメと呼ばれ、ダイナ・ショア・トラスト(the Dinah Shore Trust)の遺産管理者であり、ショアのテレビ・シリーズのほとんどの権利の保持者です。ショアは後に、息子となるジョディ・モンゴメリ(Jody Montgomery)を養子にしました。モンゴメリ(Montgomery)と離婚してから、短期間ですが、モーリス・スミス(Maurice Smith)と結婚しました。1970年代になって、ショアは20歳も年下の俳優のバート・レイノルズ(Burt Reynolds)と長く幸せな世間周知のロマンス関係を持ちました。その関係はショアには、新しく、セクシーなイメージを与え、レイノルズの女好きのイメージから来る気負いを取り除きました。

ショアは、そのディキシーっぽい語り口と控えめなマナーで、常に南部を表わすものとされ、彼女のショーのゲストもしばしばそれを口にしました。彼女はこのイメージを、「Went with the Wind(風と共に行った)」、「キャロル・バーネット・ショー(The Carol Burnett Show)」での「Gone with the Wind(風と共に去りぬ)」のパロディ版、のメラニー(Melanie)役で遊んでいました。

死と遺産

ダイナ・ショアは77歳(78歳の誕生日の5日前)で、カリフォルニア州、ビバリーヒルズ(Beverly Hills)で、卵巣腫瘍でなくなりました。遺灰は2つに分けられ埋葬されました。半分は、カリフォルニア州、カルバー・シティ(Culver City)のヒルサイド・メモリアルパーク墓地(Hillside Memorial Park Cemetery)に埋められ、他の半分はカリフォルニア州、パームスプリングス(Palm Springs)の彼女の愛した2つ目の家の近く、フォレスト・ローン墓地(Forest Lawn Cemetery)(カテドラル・シティ(Cathedral City))に埋められました。

ショアの遺産は、その死後、アンドレ・プレヴィン(Andre Previn)のアレンジ技術を中心にし、彼女のクラシックなレコーディング、「April in Paris(パリの春)」、「My Funny Valentine(マイファニー・ヴァレンタイン)」の再リリースとなる1988年のアルバムで鳴り響き、かなりの成功を収めます。


 

 

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