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The legendary country singer | |||||
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伝記 ⇒レコード |
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パツィ・クラインは1932年9月8日に、バージニア州ウィンチェスタ(Virginia, Winchester)でバージニア・パターソン・ヘンスリー(Virginia Patterson Hensley)として生まれました。母親はヒルダ・ヘンスリー(Hilda Hensley)、旧姓パターソン(Patterson)で、父親はサミュエル・ローレンス・ヘンスリー(Samuel Lawrence Hensley)です。サミュエル氏は前の結婚での2人の子ども、タンパイ・グレン(Tempie Glenn)とランドルフ(Randolph)の、パツィにとっての異母兄姉、がありました。パツィが生まれてまもなく一家はエルクトン(Elkton)郊外の、サミュエル氏の故郷に移りました。そして、それから一家がウィンチェスターに移る(パツィは8年生でした)までの間に約20回近く引越しをしています。ヒルダ・ヘンスリーは1998年10月10日に亡くなりました。家族にとって、また、すべてのパツィ・クラインの熱心なファンにとっての大事件でした。パツィの父親は1956年に亡くなっています。パツィが20歳になる頃まで、彼女はたいていジニー(Ginny)と呼ばれていました。(ただ、以下では簡単のために、「パツィ」の名前を通して使います。) 小さい頃パツィはダンスが好きで、ダンサーになりたいと思っていました。彼女のアイドルはシャーリー・テンプルです。母親がパツィを子どもダンス競技会に出場させ、見事に第1位に輝きました。しかし、その後パツィは急にダンスへの興味を失い、代わりに音楽に没頭しました。始めはピアノを弾くことでした。聞きながら楽しんでいました。その後歌うことが好きになりました。パツィは音符は分からず、どのキーで歌っているかも分かりませんでした。でも、その音はとにかく間違いないものでした。 彼女の歌の経歴はバプティスト教会の合唱隊で始まりました。そして13歳のとき重い病気になりました。パツィが1957年にこう言っています、「私は13歳のときリューマチ熱と闘っていて、ひどい喉の感染症になり、心臓も止まったほどです。私は、お医者さんに酸素テントに入れられました。私が歌手になれたのは、何日かして生き返ったからです。熱が私の喉を変えて、ケート・スミス(Kate Smith)のようなよく響く声になっているのが分かったのです。」 そのおかげで、また彼女の決意により、歌手としての経歴が始まりました。まず、地方のラジオ局のショーから始めて、ダンス会場で歌い、会うべき人達と出会うという幸運にも恵まれ、1954年にフォー・スター・レコード(Four Star Records)とレコーディング契約をすることができたのでした。ウィンチェスタで、パツィは母親が家族を養うのを助けて、いくつかの仕事を経験しました。母親がウェイトレスとして働いていたガス・カクニス・キャピタル・レストラン(Gus Kaknis' Capital Restaurant)でキッチン・ポリスの仕事をし、 レッド・ウィング・レストラン(Red Wing Restauran)やシド・ヴィーシズ・トライアングル・ダイナー(Sid Veasey's Triangle Diner)でウェイトレスとして働き、グレイハウンド・バス・ターミナル(Greyhound Bus Terminal)の軽食コーナの裏方として働き、ガント・ドラッグストア(Gaunt's Drug Store)で店員をしたり、接客コンパニオンをしていました。 ある人に言わせると、パツィは不幸な子ども時代を過ごしたと言うのですが、父親が1947年に家族を捨てたこと以外、彼女は母親と、なぜかジョン(Jhon)と呼ばれていた兄弟のサム(Sam)、そして姉妹の、シス(Sis)と呼んでいたシルビア・メー(Sylvia Mae)と素敵な家庭生活を過ごしたのでした。パツィと母親は、ヒルダがパツィを生んだときは16歳でしかなかったので、親子というよりは姉妹でした。(ヒルダがサミュエルと結婚したのはパツィの生まれる6日前、1932年9月2日でした。)そしてパツィは、父親が肺がんで西ヴァージニア(West Virginia)の病院に入れられたとき、1956年に、父親とまた連絡が取れたのでした。パツィとヒルダは病院にサムを訪ねました、そしてパツィは興奮して父親に自分が有名な歌手になったことを言ったのでした。「お父さん、私の歌うのを聞いたことないでしょ。うまいんだから!」パツィは病院で父親と別れ、その後、彼は自分の娘の歌うのを聞くことはできませんでした。彼は1956年10月11日に亡くなったのです。 1953年に戻ると、パツィ・ヘンスリーはジェラルド・クライン(Gerald Cline)と結婚し、それからパツィ・クライン(Patsy Cline)になりました。「パツィ」(「ヴァージニア」とか「ジニー」でなく)の名前はビル・ピーパー(Bill Peer)に勧められたものです。ビルは彼女の芸暦の初めで彼女を助け、パツィは彼と交際していたと言われています。パツィとジェラルドには子どもはありませんでした。1956年に、地方のダンス会場で歌っていたとき、彼女は人生の伴侶となる、チャーリー・ディック(Charlie Dick)と初めて出会い、しばらくして、彼女はジェラルドと別れ、1957年にはチャーリーと結婚しました。 そして、彼らには、1958年に、ジュリー(Julie)と呼ばれたジュリア・シマドア(Julia Simadore)、そして1961年に、ランディ(Randy)と呼ばれたアレン・ランドルフ( Allen Randolph)の2人の子どもができました。チャーリーと結婚したとき、アーサー・ゴドフリー(Arthur Godfrey)が彼女に「幸せ?」と聞いたとき、パツィの答えは「センスがよくなったみたいに幸せ」でした。 1961年6月14日、パツィと兄弟のサムはナシュビル(Nashville)のマジソン高校(Madison High School)前で、自動車衝突事故を起こしました。そのとき衝撃でパツィはフロントガラスから飛び出し、ほとんど死ぬところでしたが、奇跡的にこの危機も切り抜けたのでした。それは2度目の死の瀬戸際でした。パツィが病院にいるときに、ロレッタ・リン(Loretta Lynn)という名前の新人女性歌手がパツィの大ヒット曲「I fall to pieces」をアーネスト・タブ(Ernest Tubb)レコード店からの放送でパツィへの追悼として歌っていました。パツィはそれを面白く思い、その子に会いたくて、夫のチャーリーをそのレコード店にやり、ロレッタを病院に連れて来させました。それが、美しい友情の始まりでした。 その自動車事故のおかげで、パツィの額に目に見える傷が残り、その後の公演活動では傷を隠すためにウィグをつけていました。
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