タミー ワイネット(Tammy Wynette)    CMT

 First Lady of Country Music カントリミュージックのファーストレディ

 

Tammy Wynette タミー・ワイネット(May 5, 1942 - April 6, 1998)

ミズーリ(Missouri)州イタワンバ(Itawamba)郡バージニア・ワイネット・パグ(Virginia Wynette Pugh)で1942年5月5日に生まれたタミー・ワイネット(Tammy Wynette)は、父親が亡くなった後、ほとんどを母方の祖父母のところで育てられました。農場のつらい仕事の中で、彼女はグランド・オル・オプリ(Grand Ole Opry)のスターになることを夢に見て、ギターを自分で弾いて習い、プロビデンス・バプティスト・チャーチ(Providence Baptist Church)でピアニストとしての役を果たし、学校の行事で歌っていました。

パティ・ペイジの時代

パティ・ペイジ(Patti Page

パツィ・クライン(Patsy Cline)

キーリー・スミス(Keely Smith)

サラ・ボーン(Sarah Vaughan)

ダイナ・ワシントン(Dinah Wshington)

パティ・ペイジ(Patti Page)−2

ローズマリー・クルーニ(Rosemary Clooney)

ダイナ・ショア(Dinah Shore)

ベット・ミドラー(Bette Midler)

ビバリ・シルズ(Beverly Sills)

ソフィ・タッカー(Sophie Tucker)

アネット・ハンショー(Annette Hanshaw)

エバ・キャシディ(Eva Cassidy)

 

 

高校を卒業する少し前に、彼女はユプル・バード(Euple Byrd)と結婚し、3人の子供ができました。しばらくは、屋内水道施設もなく、料理と暖を取るための薪の暖炉の丸太小屋で暮らしていました。バードはしばしば仕事を失い家族でよく引越しをし、彼女はウェイトレスとして働きました。

バードと別れアラバマ(Alabama)州バーミンガム(Birmingham)に、親戚と暮らすために引っ越してからは、彼女は美容師として働き、ローカルのTV局番組で歌い始めました。1965年から始めて、彼女はナッシュビル(Nashville)にレコードの仕事を探しに何回も旅行しました。1966年に彼女はミュージック・シティ(Music City)に移り、エピック・レコード(Epic Records)のプロデューサのビリー・シェリル(Billy Sherrill)のオーディションを受け、彼は急ごしらえのオーディションの後、彼女と契約し、彼女のステージネームを変えました。1966−1967年の「アパート9号室(Apartment #9)」から始めて、ウィネットーシェリルのチームは結局第一位のヒット曲を20曲重ねました。

1960年代には、ワイネットは女性の見方を歌で探していました。「家で遊びたくない(I Don't Wanna Play House)」、「り・こ・ん(D-I-V-O-R-C-E)」は、家族の崩壊で引き裂かれた女性と子供たちの苦しみを声にしました。「彼に寄り添いStand by Your Man)」は、気まぐれな男たちを許すようにアドバイスするもので、フェミニストからの批判を呼びましたが、ワイネットはそれが不幸なできごとへの勝利の表現なのだと守り通しました。彼女の好調さは、「グッドラブ(正しくね)(Good Lovin' (Makes It Right))」、「女と女(Woman to Woman)」などのヒットで1970年代中ごろまで続き、「自分の歌(Singing My Song)」、「自分でできるようになるまで(Till I Can Make It on My Own)」などの売り上げ上位の歌の共作者にもなりました。その頃、彼女のジョージ・ジョーンズ(George Jones)との荒れ狂う結婚生活(1969年に結婚し、1975年に離婚)は、その2人デュエット曲、「続けて行きたい(We're Gonna Hold On)」や「2階建ての家(Two Story House)」、「ゴールデンリング(Golden Ring)」、だけでなく、聴衆を釘付けにしました。

ワイネットは作詞家でプロデューサのジョージ・リッチー(George Richey)と1978年に結婚しました。しかし、1979年の自伝「彼に寄り添い(Stand by Your Man)」は、1981年の彼女の人生を題材にしたTV映画と同じく、彼女の、病気、電話の嫌がらせ、経済的困難、自宅への侵入、破壊、殺意のある脅迫、誘拐、の心配が続いていたことを表わしました

それでもなお、1990年代まで彼女は生き残りさらにすばらしい音楽活動を続けました。1992年には彼女は英国のポップグループのKLFと組み、世界的なダンスポップのヒット曲「正しく昔に(Justified and Ancient)」を作りました。その翌年には彼女はドリー・パートン(Dolly Parton)、ロレッタ・リン(Loretta Lynn)と一緒に、彼らの画期的作品「ホンキートンク・エンジェル(Honky Tonk Angels)」のアルバムを作りました。彼女とジョーンズは1995年にアルバム「One(One)」で音楽上での再結合を果たすことができました。

ワイネットは1998年4月6日に亡くなりました。3日後、ファンと音楽業界の人たちは彼女を称え、ナッシュビル(Nashville)のライマン・ホール(Ryman Auditorium)から葬儀をテレビ放映しました。

 

 

 

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