パティ ペイジ(Patti Page)-2 Songwriters Hall of Fame

 [パティ・ペイジ]伝記

 

彼女はいたずらに「シンギング・レイジ(The Singing Rage歌う猛威)」と言われたわけではありません。オクラホマ(Oklahoma)のタルサ(Tulsa)で、彼女が中心の小さなラジオ・ショー番組で「爆発(Rage)」が始まって57年経ちましたが、パティ・ペイジ(Patti Page)は崇拝される偶像であり、ポップ音楽のあり方とそのレコーディングの方法を変えた愛される歌手であり続けています。音楽、テレビでのその業績は今日でも比べるられるものはないのです。

パティ・ペイジの時代

パツィ・クライン(Patsy Cline)

キーリー・スミス(Keely Smith)

サラ・ボーン(Sarah Vaughan)

ダイナ・ワシントン(Dinah Wshington)

パティ・ペイジ(Patti Page)−1

ローズマリー・クルーニ(Rosemary Clooney)

ダイナ・ショア(Dinah Shore)

ベット・ミドラー(Bette Midler)

ビバリ・シルズ(Beverly Sills)

ソフィ・タッカー(Sophie Tucker)

タミー・ワイネット(Tammy Wynette)

アネット・ハンショー(Annette Hanshaw)

 

 

その見事なまでのレコーディング歴の中で、パティ・ペイジ(Patti Page)は1億枚以上のレコードを売り上げ、史上女性第1位の売り上げのではないにしても、その最大の女性演奏家の1人なのです。彼女には認定された15のゴールドレコードがあり、「Tennessee Waltz(テネシー・ワルツ)」は1千万枚を売り、今も、女性アーティストのレコードで最大のシングル売り上げ枚数の記録となっています。彼女は、ポップス、カントリ、R&Bのチャート(「Tennessee Waltz(テネシー・ワルツ)」はこの3つのすべてで同時に第1位でした)で111のヒットという驚くべき数字を残しています。これは他のレコードの歴史上他のどのアーティストもなし得なかったことです!

そして、彼女はオーバーダビング、複数音声技術―画期的な、まったく新しい試みで、彼女の最初のトップ20ヒットの「Confess(コンフェス)」で始まった、それの認識されざる(今までのところ)先駆者なのです。さらに、カントリ・ミュージックをカントリから、「Mockin’ Bird Hill(モッキンバード・ヒル)」や「I Went To Your Wedding(アイ・ウェント・トゥ・ユア・ウェディング)」というミリオンセラーのレコードで、ポップスチャートという外に連れ出したのもPatti Page(パティ・ペイジ)なのでした。そして、もちろん、伝説的「Tennessee Waltz(テネシー・ワルツ)」で音楽ジャンルをクロスーバーした最初のアーティストになったのでした。そして、彼女は、男性と女性を通じて、3大テレビネットワークに自分の名前のショー番組を持っていた、たった1人の歌手です。

多くのシンデレラ物語と同じく、パティの生まれは貧しいものでした。彼女の父親はミッドランド・バレー鉄道(Midland Valley Railroad)の保線作業員で、その収入は必要最小限のものを満たす以上のものではありませんでした。パティは11人の子供の中の下から2番目で、しばしば裸足で、母親や姉たちが、オクラホマ(Oklahoma)州、クレアモント(Claremore)、彼女はクララ・アン・ファウラー(Clara Ann Fowler)として192711月にそこで生まれました、で綿花を摘んで働く畑で遊んでいました。小さい頃から、その思い出の中で、音楽は彼女の生活の一部でした。ファウラー姉妹は教会で歌い、後では、地方ラジオ局でも歌いました。5歳でパティは自ら認める「小さな芸人さん」でした。しかし、その後少女時代までには、何百万人に向かってばかりでなく、王室や5代のアメリカ大統領の前で演奏する公的な経歴にもかかわらず、その人生を通じてずっと見られる内気な性格が育ちました。

クララ・アン・ファウラー(Clara Ann Fowler)は、10代の頃は画家になりたいと思っていましたが、卒業後はタルサ(Tulsa)のKTULラジオ局の美術部に仕事を得ていました。しかし、タルサ(Tulsa)ラジオ局の重役の1人が彼女が高校の行事で歌うのを聞いたとき、その当時ペイジミルク会社(Page Milk Company)がスポンサーしていた「パティ・ペイジにあいまショー(Meet Patti Page Show)」でパティ・ペイジ(Patti Page)だった少女がオクラホマ(Oklahoma)を出て仕事を探しに去り、彼はクララ・アン・ファウラー(Clara Ann Fowler)をその地方ラジオ局のパティ・ペイジ(Patti Page)にしてはどうかと言いました。

美術界の損失はすぐに音楽界の利得になりました。パティのシンデレラ物語にまもなく現れた「助けの妖精(fairy godmother)」は実際にはツアーバンド・マネージャのジャック・ラエル(Jack Rael)でした。彼はタルサ(Tulsa)のホテルでチャンネルを回しながら、ペイジ(Page)の声を聞き、その音楽性に打たれたのでした。ラジオ局に電話して、彼は気の進まないクララ・アン(Clara Ann)との面会をセットし、まもなく、彼女を週125ドルの仕事を止めて、ジミー・ジョイ(Jimmy Joy)がバンドリーダ/クラリネット奏者をしていた彼のバンドでメイン・ボーカリストとして週75ドルの仕事に入るように説得しました。

その後まもなく、パティ(彼女はパティ・ペイジ(Patti Page)の名前を受け継ぎ,Tulsaを出るときには正式に彼女のものにしていました)とラエル(Rael)はバンドを去り、ラエルがパティのマネージャとなって(この協力関係は約50年続きました)自分たちだけで仕事を始めました。ラエルは、すぐにパティをシカゴの人気の絶大なドン・マクニール(Don McNeil)の「ブレックファスト・クラブ(“Breakfast Club)」に入れました。彼女の声を現在国中で聞くことができるようになったのは、ラエルが4トラックのレコーディングのデモ盤を、当時名前の売れたアーティストはビック・ダモン(Vic Damone)とフランキー・レイン(Frankie Laine)しかいなかった、出来たばかりのマーキュリー・レコード(Mercury Records)、と開発したからです。マーキュリーの「ギャンブル」が結果として、そのレーベルをレコード産業のメインプレーヤにしたということが出来ます。1950年代に、レインとダモンもコロンビア・レコード(Columbia Records)に去り、マーキュリーはパティ・ペイジの作った会社で、パティはポップス音楽を支配する女王となりました。

彼女の最初の成功はレコード産業を変えました。そして、必要が発明の母であることを実際に示したのでした。必要だったのは「Confess(コンフェス)」という歌のバックシンガーです。パティの声にエコーを付けるためのものでした。しかしながら、問題は、パティとラエルはバックシンガーを雇う余裕がなかったのです。問題は、スタジオ技術者が革命的なオーバダビング技術を使い、パティが自分でコーラスもエコーも出来るようにしたことで解決されました。現代史の歴史家は、間違って、ギタリストのLes Paul(レポール)をこの技術の発明者としていますが、現在は、その始まりはパティと「Confess(コンフェス)」だと広く認められています。

1947年の大晦日にレコーディングされた「Confess(コンフェス)」は1948年のチャート12位になり、レコード・アーティストとしてのパティを確立させました。彼女の成功は、「I Don’t Care If the Sun Don’t Shine(太陽が出なくても構わない)」、そして、彼女の最初のミリオンセラーの「With My Eyes Wide Open I’m Dreaming(目を開けて夢を見る)」と続き、その広告コピーは「パティ・ペイジ カルテット:パティ・ペイジ、パティ・ペイジ、パティ・ペイジ...、とパティ・ペイジ」でした。

1950年代が始まると、それはよく言われる「テレビ黄金時代」ばかりではなく、パティの次のミリオンセラー「All My Love(オール・マイラブ)」の「The Rage(激発)」の黄金時代でした。しかし、それも「Tennessee Waltz(テネシー・ワルツ)」現象と比べると何でもありません。それはパティのレコードが26週に渡り、トップ10にいて、そのうち13週、第1位だったばかりでなく、女性アーティストのレコード史上最大の売り上げ枚数を記録したのです。後で、この曲は、テネシー州の正式な州歌の1つとなりました。皮肉なことに、「Tennessee Waltz(テネシー・ワルツ)」はマーキュリーの最初のリリース版のB面の曲でした。マーキュリーはその反対側の、クリスマスの新曲「Boogie Woogie Santa Claus(ブグウギ・サンタクロース)」に賭けていました。それはリリース後何週間かで姿を消しました。

「テネシー・ワルツ」の成功でパティは大スターになりました。彼女は、このメガヒットの後、チャート1位の2つのミリオンセラー、「Mockingbird Hill(モッキンバード・ヒル)」、「Would I Love You, Love You, Love You(あなたを愛してる)」を続けました。1952年までには、パティ・ペイジはその時代の最高売り上げの、そして、もっとも人気のある女性歌手の道を進んでいました。ビルボード(Billboard)とキャッシュボックス(Cashbox)という雑誌で、繰り返し、アメリカの人気女性歌手の第1位となり、1957年には、パティは、最初の全国的視聴者投票で、「アメリカバンドの人気女性歌手(American Bandstand’s favorite female vocalist)」で第1位の栄冠に輝きました。

パティの声の南部的な絹の響き、それが彼女の頬骨の張ったテレビ向きの美しさで、彼女はテレビの黄金時代と一体化した1部となりました。彼女の出演は多く、「Milton Berle(ミルトン・バール)」、「Perry Como(ペリー・コモ)」、「Dinah Shore(ダイナ・ショア)」、「Ed Sullivan(エド・サリバン)」、「Garry Moore(ガリー・ムーア)」、「Jackie Gleason(ジャッキー・グレイソン)」、「Bob Hope(ボブ・ホープ)」のショーにゲストとしてしばしば登場しました。彼女はまた、「Bell Telephone Hour(ベル・テレフォン・アワー)」、「Colgate Comedy Hour(コルゲート・コメディ・アワー)」、「Steve Allen Show(スティーブ・アレン・ショー)」の一流ショー番組にもよく出演しました。ABCのミュージカル「Special(スペシャル)」では、彼女が、Frank Sinatra(フランク・シナトラ)やDean Martin(ディーン・マーチン)と出演していました。そのトリオの一番よく知られた歌は「I’ve Got Tears In My Ears Crying Over You(あなたを思い泣くだけ)」です。

パティの人気は高く、NBCテレビの「Scott Music Hall Presents Patti Page(スコット・ミュージックホールのパティ・ペイジ)」への出演を決めています。それは夏期の臨時シリーズで、その後、週2回の共同提供の「Oldsmobile Presents…Patti Page(オールヅモバイルのパティ・ペイジ)」になりました。こ地味な企画の成功、そしてパティの、「(How Much Is) That Doggie in the Window(ドギー・インザ・ウィンドウ)」、「Cross Over the Bridge(クロスオーバー・ザ・ブリッジ)」、「I Went To Your Wedding(あなたの結婚式に行ったわ)」、「Changing Partners(チェインジング・パートナー)」、「Allegheny Moon(アリゲニー・ムーン)」、などのミリオンセラーレコードによるヒットリストでの圧倒的な支配力が、パティをCBSテレビ、その大予算での毎週の豪華ショー「The Big Record(ザ・ビッグレコード)」に導きました。それが終わると、ABCテレビはパティに「The Patti Page Show(パティ・ペイジ・ショー)」のスタジオを提供しました。こうして、彼女は、自分の名前のショーを3大テレビネットワークに持った、たった1人の演奏家になったのです。

おそらく、主要なテレビ出演を果たした彼女の人気は何も語られてきませんでした。まず、伝説的なゲームショ−「What’s My Line(私のお友達)」でのミステリー・ゲスト(エリザベス・テイラー、マリリン・モンロー、フランク・シナトラ、などに大体は限られていた)としての出演、そして、特別に限られた人たちだけの「Person to Person(パースン・トゥ・パースン)」への出演です。そこでは、自分自身の家で、寛いだ上流人士(王室と大統領)が出演していました。伝説のニュースキャスター、エドワード・マーロウ(Edward R. Murrow)が彼女をパーク・アベニュー(Park Avenue)のアパートででインタビューしたとき、パティはピアノでコードを叩き、自身の新しいレコード、「My First Formal Gown(私の初めてフォーマルガウン)」の何小節かを歌いました。彼女の出演はニールセン(Neilson)の調査で大きな数字を出しましたが、そのレコードは売れませんでした。しかし、「Old Cape Cod(なつかしいコッド岬)」が何百万枚も売れてすぐにパティのヒットリストでの優位は回復しました。その時期に、彼女は彼女の最初のドラマ出演、CBSの「Playhouse 90(プレイハウス90)」に出て、さらに別の面をそのキャリアに付け加えました。彼女はまた、彼女の若い聴衆がベストセラーにした、自伝「Once Upon a Dream(ワンスアポン・ア・ドリーム)」を書いて著作者のキャリアも付け加えました。

1956にパティはハリウッドの振付師チャーリー・オクラン(Charlie O’Curran)と結婚しました。2人はビバリーヒルズ(Beverly Hills)に家を建て、そこで2人の養子、キャサリン(Kathleen)とダニー(Danny)を育てました。彼らは1970年代の初めに離婚するまでハリウッドに住み続けていました。その後、パティはショービジネスの環境の中にいることに落ち着かなくて、家族と、サンディエゴ(San Diego)の近くの田園地帯、ランチョ・サンタフェ(Rancho Sante Fe)に引っ越しました。家族がその収入に頼るシングル・ワーキング・マザーとして、パティは、お家にいるお母さんではいられませんでした。そのような立場の多くの女性が知る不安の中で、彼女は稼げるナイトクラブとコンサート出演を、あちこちと、外国、特にアジアでも、続けました。彼女は日本で非常に多くのファンを獲得しました。彼女のホームグラウンドをマーキュリー(Mercury)からコロンビア(Columbia)・レコードに移してからも、彼女はさらにもう1つのトップ10の曲、「Hush, Hush Sweet Charlotte(おやすみシャーロット)」をヒットさせました。彼女のその年のアカデミー賞への、オスカー賞候補となったその歌を歌っての出席は映画界への侵攻の最初のもではありませんでした。彼女は、女優として、すでに、「Elmer Gantry(エルマー・ガントリ)」、「Boys Night Out(ボーイズ・ナイト・アウト)」、それに「Dondi(ドンディ)」に出演していました。

しかし、パティのその名声と生活を作り出したのはナイトクラブでした。彼女は米国中の主要な演奏地でスターとして演奏しました。ニューヨーク(New York)では、彼女は、コパカバーナ(Copacabana)、ウォルドルフ・アストリア(Waldorf Astoria)の最高級のエンパイア・ルーム(Empire Room)、プラザ・ホテル(Plaza Hotel)の優美なペルシアン・ルーム(Persian Room)で演奏しました。ロサンゼルス(Los Angeles)では、ココナット・グローブ(Cocoanut Grove)の入り口にしばしば彼女の名前が飾られ、ラスベガス(Las Vegas)のデザ−ト・イン(Desert Inn)、シカゴ(Chicago)のドレイク(Drake)でもそうでした。1990年代に、彼女が、キャバレの時代を開拓し、新しく入って行ったのは、(ペギー・リー(Peggy Lee)などのホームである)ボールルーム(Ballroom)、(若いころからの友人、ローズマリ・クルーニー(Rosemary Clooney)のホームから離れたもう1つのホームである)レインボウ・アンド・スターズ(Rainbow and Stars)、そして、レガシー(Regency)の優雅なミッチェル・フェインシュタインズ(Michael Feinstein’s)、いずれもニューヨーク、でした。これらの、小さく、親密な感じの場は、パティの性格−暖かく、惹き付けるものがあり、クラブというものがそうであるような親しみやすさ、に完全に合っていました。

最近では、パティはPBSの音楽番組に出演し、またそのホスト役も勤めています。彼女のデビュー50周年記念の年には、PBSは、彼女の人生と業績を回顧する90分の番組を作り、パティを称えました。その記念番組では、1997531日にカーネギーホール(Carnegie Hall)で行われたものを再現したものでした。そこでの彼女は、群を抜いた業績の中で初めて、彼女の過去のヒット曲と現在の歌とを歌いました。その夜の聴衆の中には、1990年に結婚したジェリ・フィリチオット(Jerry Filiciotto)、子供たち、孫たち、もいました。その中の10歳のサラ(Sarah)、8歳のペイジ(Page)は、カリフォルニア(California)とニューハンプシャー(New Hampshire)の家で、パティとジェリと一緒に住んでいます。そのCD、Patti Page Live At Carnegie Hall − the 50th Anniversary Concert(パティ・ペイジのカーネギーホール・ライブ)−50周年コンサート」で、パティは初めてのグラミー賞(Grammy Award)を受賞しました。

彼女のスターであることを表わす、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム(Hollywood Walk of Fame)に入った初めての1人である他に、ナッシュビル(Nashville)のカントリ・ミュージック・ワーク・オブ・フェイム(Country Music Walk of Fame)にも入っています。彼女は、カントリ・ミュージック・アカデミー(Academy of Country Music)からの権威あるパイオニア賞(Pioneer Award)を受け、オクラホマ名誉の殿堂(Oklahoma Hall of Fame)の1人でもあります。パティは、マール・ハガード(Merle Haggard)とウッディ・ガスリー(Woody Guthrie)とともに、オクラホマ音楽の殿堂(Oklahoma Music Hall of Fame)に加えられた最初の女性であり、2002年には、オクラホマ州ジャズの殿堂(Oklahoma Jazz Hall of Fame)から伝説の人賞(Living Legend Award)を受けました。

 

 

 

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