アネット ハンショー(Annette Hanshaw)    annettehan

Voice of an Angel  天使の声

 

アネット・ハンショー(October 18, 1901 −March 13, 1985 )

アネット(Annette)はニューヨークの裕福な家で育ち、小さいころからピアノとウクレレを習いました。

ジョン・ウッドラフ(John Woodruff)から:アネットの家は裕福というよりは中級の家庭で、父親のフランク・ハンショー(Frank Hanshawは、事務職にいて、その後、アネットが13歳のころにはセールスマンでした。さらにその後、小さなゲストハウスとホテル(特に、ハンショー夫人の取り仕切る食堂が有名でした)を次々と経営して、それなりに成功しました。アネットが25歳のとき父親が亡くなりましたが、そのとき彼はビジネスマン・クラブのマネジャーであり、資産は、伝えられるところでは、それほどのものではありませんでした。

パティ・ペイジの時代

パティ・ペイジ(Patti Page

パツィ・クライン(Patsy Cline)

キーリー・スミス(Keely Smith)

サラ・ボーン(Sarah Vaughan)

ダイナ・ワシントン(Dinah Wshington)

パティ・ペイジ(Patti Page)−2

ローズマリー・クルーニ(Rosemary Clooney)

ダイナ・ショア(Dinah Shore)

ベット・ミドラー(Bette Midler)

ビバリ・シルズ(Beverly Sills)

ソフィ・タッカー(Sophie Tucker)

タミー・ワイネット(Tammy Wynette)

エバ・キャシディ(Eva Cassidy)

 

 

「伝えられるように、アネットは自分で習い覚えました。父親が少しコードを教えると、彼女はそこから自分のものにしました」(「アネット:エンタテイナー(The Entertainers)」から)。彼女は歌の才能があったようで、母親が語るところでは、16カ月のときに、アネットは当時の流行歌を少なくとも20曲、コーラス部分を歌えました。アネットは母親に彼女を芸術家にしようという確信を与えたのでした。アネットが後日思い出として話すところによれば、3歳のときに、母親は彼女に、部屋の椅子の上で、多くの人の前で最初のリサイタルをさせたのでした。「月の男(The man in the moon)」を歌いご褒美に大きなアメを貰いました。15歳の前までには、彼女は音楽の奨学金で2箇所から提供の申し出がありましたが、それは、絵画の勉強の方を選び、断ったのでした。彼女は音楽的経歴を積み重ねるつもりはありませんでしたが、ピアノとウクレレを自分の伴奏をできるくらいには弾けるようになりました。彼女の父親はニューヨーク(New York)から少し離れた北に、いくつかのロードハウス(クラブ)を持っていて、彼女に勧めて客に向けて歌を歌わせていました。その頃、彼女の父親は彼女を育てるレコードショップ「メロディーショップ(The Melody Shop)」も始めていました。彼女は、その当時の歌を聴き、歌を父親のパーティのお客を相手に歌っていました(「エンタテイナー(The Entertainers)」から)。ペイズレコード(Pathe’s records)の音楽ディレクタに、いい年の24歳の若さで見出されたのもそのパーティでした。役員だったハーマン・ローズ(Herman Rose)氏は彼女の歌を聞き、彼女にその才能を信じさせたのでした。

ジョン・ウッドラフ(John Woodruff)から:ハーマン・ローズ(Herman Rose)は、「ペイズ(Pathe)のA&Rマン」、「ペイズ・レコードの音楽ディレクタ」、「レコード・プロデューサー」、そして後年は、「[ベルベット・トーン(Velvet Tone)]のレコード・ラボラトリの責任者]、「[ベルベット・トーン]のレコーディング・マネジャー」と言われていました。レコード業界での彼の他の(つまり、アネット以外での)役回りは、芸術的な面よりも技術的な面に向けられていました。私も、彼が、彼女のレコーディングの最後にある「以上(thats all)」をずっと続けるように勧めること以外に、どのくらいアネットのレコーディングの音楽コンテンツ(選曲、アレンジ、伴奏者の選択、など)に関わっていたのかを示す信頼できる記事を見たことはありません。

ローズ氏は他とは違った人で、おそらくそれが彼女のその後の全経歴の理由でした。彼は彼女の歌の才能を見て、アネットにペイズ(Pathé)のオーディションを用意しました。彼は、その後、彼女のマネジャーになり、夫になりました。彼は彼女が24歳のときに出会い、3年後、アネットが28歳のとき、1929612日に結婚しました。彼女のために用意されたのは、1920年代後期のジャズの人名録、フーズ・フー(who’s who)、を見るようなタレント達で、その献身的行為は、愛としか言い表わせないものでした。彼のその用意についての「確たる証拠」を言うジョン(John Woodruff)のコメントにも拘わらず、アネットの最初のアルバムでレッド・ニコルス(Red Nichols)やミフ・モール(Miff Mole)とレコーディングしたのは、私には、単なる偶然とは思えません!彼は彼女を発見し、マネジャーとなり、彼女と結婚しました!彼は彼女のための仕事はすごいです!ラニー・ロス(Lanny Ross)はウォーリー(Wally)について後でこう言っています、「彼はいつもどのレコーディングにも、彼女のそばにいた」(「エンタテイナー(The Entertainers)」から)。彼女は死ぬほどこわかったでしょう。彼女のペイズでの最初のテスト版制作の時には、彼女は「上手く行かなくて、震えていた」と言っています。レッド・ニコルス(Red Nichols)やミフ・モール(Miff Mole)と最初のレコードを作らなければならない彼女の気持ちを想像してみてください!しかし、最初のレコーディングの数枚でも、何かが明らかでした。彼女は、まねをし、笑い、自分らしく歌い、バンドに溶け込むことができました。本当に、彼女は自分の声を1つの楽器のように扱うことができました。トミー・ドーシー(Tommy Dorsey)は、彼女は「演奏家にとっての歌手だ」と言っていました。多くの場合に45回のテイクをすることになるのは、おそらく、彼女の内気さ、性格、楽曲をただ正しく演奏したい、ということだったのでした。にもかかわらず、演奏家は彼女を愛していました。当時、多くの良いジャズ演奏家がいましたが、良いジャズ歌手はほんとに少なかったのです。演奏家に自分を愛させることは、おそらく、彼女の大きな財産でした。 

ペイズ・レコード(Pathe records)が1928年に再編(カメオ・レコード(Cameo Records)との合併−サットンとコーク(Sutton and Kauck)より)されたとき、ローズ氏は彼女にコロンビア(Columbia)とその多くの子会社を用意したのでした。これは、その時期に人気を上げられた彼女にとって、コロンビアでは多くのレコード店と契約し、それぞれ店のために彼女がそれぞれに別の名前で歌うという、奇妙な期間でした。彼女は、パツィ・ヤング(Patsy Young)、ドット・デア(Dot Dare)、ゲイ・エリス(Gay Ellis )と呼ばれ、それはそれぞれ別の会社での名前でした。このコロンビアでのレコーディングの時期に、アネットは実際芸術家として花が満開となり、何人もの当時の最高の演奏家と歌うことになりました。レッド・ニコルス(Red Nichols)、ミフ・モール(Miff Mole)、アドリアン・ロリーニ(Adrian Rollini)、ジョー・ベヌッティ(Joe Venuti)、エディ・ラング(Eddie Lang)、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)、ジャック・ティーガーデン(Jack Teagarden)、それに、ドーシー・ブラザーズ(Dorsey Brothers)がいました。

ジョン・ウッドラフ(John Woodruff)から:ビング・クロスビー(Bing Crosby)とアネット・ハンショー(Annette Hanshaw)が[レコーディング]で共演したことがないのは驚くことではないでしょう。というのは、レコーディング経歴全部の中で、アネットは他のボーカリスト、ボーカルグループと一緒だったものは2つ(「そうじゃないと言って(Say it isn't So)」と「幸せな日をもう一度(Happy Days are Here Again)」)しかなく、そのどちらでも実際に一緒に歌っている(ヂュエットとか重唱とか)のではないからです。同様に、彼女の何百回ものラジオ演奏で、ラニー・ロス(Lanny Ross)との2回、スクラッピー・ランバート(Scrappy Lambert)との1回、ショー・ボート・フォー(the Show Boat Four)との7回、以外はすべてソロでした。このことは、彼女が一人での歌唱を好んだか、好まれたかした、ということが明らかです。(2001128日の私信)

彼女のレコーディングに人気が出てくるにつれて、彼女は1920年代の後期のラジオでも花開き始めました。彼女の最初の大きなショーはCBSのヴァン・ハウゼン・ラジオ・プログラム(Van Heusen Radio Program)です。それから、彼女は、101週間(ウッドラフ)の「マクスウェル・ハウス・ショーボート(Maxwell House Showboat)」ラジオショー、そして、カサ・ロマ・オーケストラ(Casa Loma Orchestra)との39週間の「キャメル・キャラバン(Camel Caravan)」の仕事をしました。マクスウェル・ハウス・ショーボートでは、彼女は唯一のビデオを撮っています。それはわずか10分の映像ですが、「私たち、さよならは言えない(We just couldn't say goodbye)」を歌っています。彼女が望むなら、おそらく、もっと有名になれたし、たぶんビング・クロスビー(Bing Crosby)より有名になっていました。多くのミュージシャンが彼女にとってそうでした。しかし、彼女はショー・ビジネスにあき、ほんの少しのラジオショーを除き、1930年代後期には引退し、ハーマン・ローズ氏(Mr. Herman Rose)との結婚生活に落ち着きました。ローズ氏の死後、彼女はニューヨーク(New York City)の聖アグネス教会(St. Agnes Church)でボランティアをし、沢山の友人を持ちました。(ロイ・エヴァンス(Roy Evans)―1993

 

 

 

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