パティ ペイジ(Patti Page)-1 ©1999JCMarion

 シンギングレイジ(Singing Rage)

 

パティ・ペイジ(Patti Page)はクララ・アン・ファウラー(Clara Ann Fowler)として1927年にオクラホマ( Oklahom)州のマスコギ(Muskogee)で生まれました。音楽への興味がラジオのローカル局で始まった彼女の成功につながったのです。当時のタルサ(Tulsa)局(KTUL)でのスポンサの1社がペイジ乳業(Page Dairy)でした。彼女の名前はそこから取ったのです。ジミー・ジョイ・バンド(Jimmy Joy Band)の巡業マネジャーのジャック・ラエル(Jack Rael)が彼女の歌を聞き、そのバンドのボーカリストの仕事を彼女に与えたのでした。

パティ・ペイジの時代

パツィ・クライン(Patsy Cline)

キーリー・スミス(Keely Smith)

サラ・ボーン(Sarah Vaughan)

ダイナ・ワシントン(Dinah Wshington)

パティ・ペイジ(Patti Page)−2

ローズマリー・クルーニ(Rosemary Clooney)

ダイナ・ショア(Dinah Shore)

ベット・ミドラー(Bette Midler)

ビバリ・シルズ(Beverly Sills)

ソフィ・タッカー(Sophie Tucker)

タミー・ワイネット(Tammy Wynette)

アネット・ハンショー(Annette Hanshaw)

エバ・キャシディ(Eva Cassidy)

 

 

彼はその後彼女のマネジャーになり、1947年にシカゴ(Chicago)のナイトクラブ、ブレックファスト・クラブ(Breakfast Club)のステージに立たせました。彼女はシカゴ/ミルウォーキー(Milwalkee)エリアでナイトクラブのソロ歌手となり、その当時できたばかりのシカゴを本拠としたマーキュリ(Mercury)レコードとレコーディング契約を結びました。1948年の5月の終わりから6月の初めに、パティはベニー・グッドマン(Benny Goodman)6重奏団に参加し、フィラデルフィア(Philadelphia)エリアのクラブシーンでボーカリストとして歌っていました。当時の出演の多くは、フィラデルフィアのクラブ、「ザ・クリック(the Click)」からCBSラジオ・ネットワークのローカル局のKYWなどを通して放送されました。 放送された「The Man I Love」、「Little White Lies」、そして「Confess」は軍ラジオ・サービス(Armed Forces Radio Services)のエアチェックで録音されました。このときの歌った曲の1つが彼女の最初のレコード・チャート入りの曲になりました。

1948年の7月、パティ・ペイジの歌う「Confess」はヒット・チャート入りし、いきなり上位20曲の中位のヒットとなりました。翌年早々に次に出した曲、「So In Love」はヒットリストには全然届きませんでした。けれども、次の発表曲で、パティ・ペイジをポップミュージック時代を代表する、最大のレコード売り上げアーチストにする人気の大波が始まりました。その曲は、「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」で、レ・ポール(Les Paul)とマリー・フォード(Mary Ford)がやり出していた独特のマルチ・トラッキング処理をしたものでした。この方法のレコーディングで、パティ・ペイジは4部の重唱を歌っています。実際、初期のマーキュリ録音版では、ラベルにボーカルとしてパティ・ペイジの名前が4回出ています。このレコードのヒットは1950年に入るまで、3カ月以上も続きました。

1950年にはさらに2曲のもっと大きなヒットが作られました。1つは「All My Love」で、フランスで「Bolero」という曲名で作られたものです。念願の第1位になることはできませんでしたが、5週間に渡り第2位を保持し、5カ月以上もレコード売り上げのトップリストに入っていました。ミッチェル・パリッシュ(Mitchell Parrish)が英語の歌詞を書いたこの曲は、パティの3曲目のミリオンセラーになりました。次のレコーディング曲を探していて、レッド・スチュアート(Redd Stewart)とピー・ウィー・キング(PeeWee King)作曲になる、彼らのグループ、ゴールデン・ウェスト・カウボーイ(Golden West Cowboy)のための歌を歌うことは彼女のカントリーミュージックのルーツへの回帰でした。カウボーイ・コパ(Cowboy Copas)のカントリーのヒット曲、「テネシーワルツ(The Tennessee Waltz)」です。この歌は1位になり、6カ月以上もヒットパレードに残った巨大ヒットでした。ワルツ時代の、オーケストラが音を出さないマルチ・トラックのボーカルといえば永久にパティ・ペイジのものです。このレコードは通算で1500万枚も売り上げたと推定されています。このレコーディングは、その爆発的な人気により、100万枚を売り上げた最後のシート録音版になりました。もうパティ・ペイジは大スターになっており、1951年という年はレコーディング・スタジオで忙しい年だったようです。その年の最初のチャート入りの曲はそれまでとは少し違ったアップテンポでした。「Would I Love You」で、よく売れ(ミリオンセラー)、4カ月以上ベストセラーのリストにいて、トップテンに入っていました。その次に出したのは、レ・ポールとマリー・フォードののヒット曲、「Mockin' Bird Hill」のパティ・ペイジ版でした。曲そのものもよかったのですが、彼女の力はその曲を3位にし、計22週間も売り上げ上位リストにいて、100万枚を売り上げました。次にマーキュリーから出したのは、両面が「Ever True Ever More」と「Down The Trail Of Aching Hearts」のもので、かろうじてチャート入りしたマイナーヒットになりました。その次のレコードは「These Things I Offer You」でマイナーヒットでした。しかし、裏面が「Mister and Mississipp」で、それはかなり売れ(またしてもミリオンセラー)、トップテンに入り、3カ月以上ベストセラー・リストに入っていました。別のカントリ風の曲が次のヒットになりました。すでにフォイ・ウィリング(Foy Willing)とエルトン・ブリット(Elton Britt)がレコーディングしていた「Detour」です。このパティ・ペイジのカバーは最高で12位となり、チャートに14週連続で入っていて、ついには、パティ・ペイジの7番目のミリオンセラーになりました。 この年の最後は「And So To Sleep Again」で、トップテンに入り、3カ月半ベストセラー・リストにいました。

1952年は11位に入り、ヒットパレードに11週間いた曲で始まりました。「Come What May」です。その次は中ヒットだった「Whispering Winds」です。この年の3番目のチャート入りの曲はトミー・ドーシー(Tommy Dorsey)の「Once In A While」でした。それはもともとは「Dancing With You」という器楽曲で、それなりに売れました。次にマーキュリーから出したものは両面ともヒットになりました。1つはジョー・スタフォード(Jo Stafford)の曲をカバーした「You Belong To Me」で、トップテンに入り、14週、チャートに入っていました。その裏面は大ヒットで、第1位でした。「I Went To Your Wedding」です。1年前の 「テネシーワルツ」と似たカントリー風のワルツ曲でした。ジェシー・メー・ロビンソン(Jessie Mae Robinson)の書いたこの曲はパティの100万枚以上売り上げた8番目のレコードになりました。次に出したのは、「Why Don't You Believe Me?」で、ジョニ・ジェイムス(Joni James)のデビュー曲としてよく知られていますが、やはりパティの力は、このレコードをトップテンには届きませんでしたが、チャートでいい位置に健闘するまでに押し上げました。1953年は、50年代初期のポップ・ミュージック不足の例として取り上げられる、いわゆるノベルティ・バラッド曲の大ヒットで始まりました。けれども、当時非常に多くの大衆はその歌が本当に好きだったので、あれだけの大ヒットにしたのに違いありません。「Doggie In The Window」です。ワルツ時代の、子犬の鳴き声や吠える声を入れて作ったセンチメンタル・バラッドでした。このレコードは第1位で、何百万枚も売り上げ、チャートに5カ月以上、1953年の前半の殆んどをいました!。次の曲はチャートに入らなかった「Butterflies」でした。しかし、その次の曲はまた大ヒットになりました。「Changing Partner」で、これもカントリ風のバラッドでした。その結果またしてもミリオンセラー(10番目の)で、4位まで上がり、チャートに5カ月もいました。

 

1954年もヒットが続きました。息の長い作曲家、ベニー・ベンジャミン(Benny Benjamin)とジョージ・ヴァイス(George Weiss)の書いた「Cross Over The Bridge」はパティの11番目のミリオンセラーで、ヒットチャートの第3位にまで上がり、5カ月にわたりベストセラーを続けました。その次のヒットでチャートに登場したのはミュージカル「The Pajama Game」の中の曲で、「Steam Heat」でした。上位20曲に入り、2カ月そこにいました。米国のポピュラー音楽のたどる方向を指し示すように、パティ・ペイジはこの後、R&Bのボーカルのスター、ルース・ブラウン(Ruth Brown)が歌ったチャック・ウィリス(Chuck Willis)の曲、「Oh What A Dream」をカバーしました。それは3カ月ベストセラーを続け、上位20曲に入りました。同じ年にその後、普通のヒットが作られました。「I Cried」、「The Mama Doll Song」、それと、TVシリーズ、スタジオ・ワン(Studio One)の中のジョーン・ウィーバーの曲のカバーでトップテンに入った「Let Me Go Lover」です。

パティ・ペイジは1955年には、チャートに入るレコーディングは1つだけでした。「Croce Di Oro (Cross Of Gold)」です。この年以降、ロックンロールがポピュラー音楽界を席巻して行きますが、パティ・ペイジは好調にレコーディングを続けました。3つのミリオンセラーが出ています。1956年の「Allegheny Moon」と「Old Cape Cod」(再度ボーカルでマルチトラックにしています)、1958年の「Left Right Out Of Your Heart」です。その他の大ヒットには、1956年の「Mama From The Train」、1958年の「Belonging To Someone」、そして彼女の最後のチャート入りレコード、1965年の同名の映画の中の「Hush Hush Sweet Charlotte」(これはコロンビア(Columbia)で出したトップテンのレコードで、彼女が長く共同作業したマーキュリー以外での作品で唯一のもの)があります。50年代の後期にはパティ・ペイジTVショー(Patti Page TV Show)があり、映画「Elmer Gantry」への出演もありました。2つのアルバム作品が短期間ですがチャートに入っています。ゴードン・ジェンキンス(Gordon Jenkins)のオーケストラ用の組曲「Manhattan Tower」のボーカル版、それと、1965年のコロンビアでの「Hush Hush Sweet Charlott」です

1945−1955年の期間に、パティ・ペイジは29のチャート入りレコードを出しました。トップテンに入ったのは10あり、1位が3つありました。ミリオンセラーが10あります。このことから言えるのはパティ・ペイジがこの時期のもっとも多産な女性歌手だということです。そして、彼女の歌は1955年に終わったのではありませんでした。上記のように、彼女は50年代後期に、3つのミリオンセラーを含む多くのヒットを出しました。この時期に、彼女は1人で、マーキュリー・レコード社をポピュラー音楽の最前線で支えたのでした。パティ・ペイジは疑いなく、アメリカのポップ音楽の黄金時代にあって、その技の職人的な巧みさにより第一人者だったのです。

 

 

 

 

 

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